デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

https://heyzine.com/flip-book/40adf6eb52.html https://heyzine.com/flip-book/e25ac741f2.html https://heyzine.com/flip-book/ce3de770c6.html

2026年7月13日月曜日

眠いけど

 


限界の淵で握るフライパン

午前中は近くのヤマダ電機まで除湿器を修理に運び、今日予定されていたいくつもの用事をこなしてきました。そして先ほど、二人用の夕食である「トンテキ」を台所で焼き終えたところです。 分厚い豚肉がフライパンの上で立てる力強い音と、立ち込める香ばしい匂い。しかし、その生命力にあふれた匂いの中で、私は今、抗いがたいほどの強烈な眠気に包まれています。

 


午前2時前から絶え間なく働き続け、さらに34キロを走り抜いてきたのですから、肉体が休息を渇望するのは当然のことでしょう。まぶたは鉛のように重く、思考の輪郭が少しずつぼやけていきます。今すぐソファに倒れ込み、深い眠りの底へと沈んでしまいたい。 しかし、私には寝る訳にはいかない理由があります。この後、残された少しの仕事を片付け、16時からは牧師会へと出かけていかなければならないからです。

 


「生きる」ということの泥臭さと神聖さ

極限の眠気と戦いながら、それでも夕食を準備し、次の予定へと身を整えようとしているとき、私の胸の奥に一つの思いが静かに満ちてきました。

「ああ、生きるとは、こういうことなのだ」と。

私たちは時に、生きることを何か特別な、輝かしいイベントの連続のように錯覚してしまいます。あるいは、常に心身が満たされ、余裕を持って微笑んでいる状態こそが「正しい生き方」なのだと思い込んでしまうことがあります。 しかし、実際の「生きる」という営みは、もっと泥臭く、重たく、体温と汗を伴うものです。

  • 壊れた家電を抱えて、修理のカウンターに並ぶこと
  • まぶたの重さと戦いながら、大切な人のために肉を焼くこと
  • すり減った体に鞭を打ち、自らの責任を果たすためにドアを開けること

そのどれもが、決してSNSで称賛されるような華やかな出来事ではありません。しかし、その一つひとつに、命の手触りがあります。

 


荒れ野で食べる命の糧

聖書の中に、偉大な預言者エリヤが疲れ果て、荒れ野の木の下で倒れ込んで「もう死んだほうがましだ」と眠り込んでしまう場面があります。神様は、限界を迎えた彼を「気合が足りない」と責めることはなさいませんでした。ただ、彼の枕元に焼きたてのパンと水を置き、「起きて食べなさい。道のりはまだ長いのだから」と優しく声をかけられたのです。

私たちがギリギリの気力で焼き上げる今日のトンテキもまた、この重たくて愛おしい現実の道をさらに歩み続けるために、神様が備えてくださった「命の糧」なのだと思います。

眠いです。本当に、どうしようもないほどに眠い。 しかし、この心地よい疲労と泥のような眠気こそが、私が今日、与えられた命を燃やし尽くして生きているという何よりの証拠です。重いまぶたをこすり、残りの仕事に向かいます。そして、夕暮れの街へと足を運びます。格好良くなくてもいい。這いつくばるようであっても構わない。ただ、自分の持ち場で命を燃やし続ける。 今日も、共に前進です。

0 件のコメント:

コメントを投稿