デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月10日月曜日

朝ラン30キロ完走

 


滝のような汗と夜明けの祈り:痛みを抱え、30キロを走り抜く命の誓い

昨夜は23時過ぎに目が覚めました。深い夜の静寂の中で仕事に向かい、二通の手紙を書き終え、それぞれの教会員の家まで行って投函。そして午前3時ごろ、まだ暗闇に包まれた外の世界へとランニングのスタートを切りました。

扉を開けると、重くまとわりつくような湿気が立ち込めていました。走り出して間もなく、滝のように流れる汗が顔を覆います。その汗を何度も何度も拭いながら、私はひたすらに前へ、前へと歩みを進めました。

 


痛みと共に捧げる、暗闇の中の祈り

コースの途中で、今、教会員の姉妹が入院している病院の前を通りかかりました。 眠りについた街の中で、静かにそびえ立つその建物を仰ぎ見ながら、病床にある彼女の上に神様の豊かな癒やしと平安があるようにと、走りながら深く祈りをささげました。

その時、私の右のかかとには、昨日の朝から続く確かな痛みが居座っていました。 まとわりつく湿気、滝のように流れる汗、そして一歩踏み出すごとに響くかかとの痛み。それは、私たちが生きているこの現実が、決して無菌室のような心地よいだけの場所ではないことを生々しく教えてくれます。

病院のベッドで、痛みや孤独と闘いながら朝を待っている人がいる。そして外の世界でも、私たちはそれぞれに目に見えない重荷や、身体の痛み、心の湿気を抱えながら、息を切らして生きています。 生きるということは、この痛みから無傷で逃げ切ることではなく、痛みを引き受け、祈りを携えながら、それでも一歩前に足を踏み出すことなのだと、痛むかかとが静かに語りかけてくるようでした。

 


夜明けの光と、走り抜く信仰

汗と痛みに耐えながら走り続けていると、やがて重く暗かった空の向こうから、少しずつ夜が明け始めました。 光が差し込み、世界が新しい朝の輪郭を取り戻していくその静厳な景色を見つめながら、私の胸の奥に一つの熱い思いが込み上げてきました。「今日も、頑張って生きよう」。それは、与えられた命への、深く誠実な誓いでした。

聖書には、人生という道のりを走り抜くことについて、このような言葉が記されています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(テモテへの手紙二 4:7

 


私たちは時として、なぜこれほどの汗を流し、痛みをこらえてまで人生の道を走り続けなければならないのかと問うことがあります。しかし、その道の途中で捧げる誰かのための祈りや、苦しみの果てに迎える夜明けの光の中にこそ、神様が用意された確かな真理が隠されているのです。

  • 痛みがあるからこそ、誰かを思いやる祈りは深くなる。
  • 息苦しい夜を越えるからこそ、夜明けの光は美しく輝く。

かかとの痛みを覚えながらも、最後まで足を止めることなく、無事に30キロを完走しました。仕事と手紙、そして長いランニングを終えて一休みしている今、私の心は疲労と共に、確かな清々しさに満ちています。

 


今日、あなたが抱えている痛みやしんどさは、決してあなたを打ち倒すためのものではありません。それは、あなたが今、命の道を確かに走り続けているという「生きている証」です。 流れる汗を拭いながら、痛む足を引きずりながらでも構いません。明ける空を見上げ、今日という日を精一杯に生き抜いていきましょう。


先日から新しいシューズに履き替えて走っています。 足にしっかり馴染み、履き心地もとても良く感じています。半年間頑張ってもらいます。

今日も、共に前進です。

人生の黄昏

 


最終幕の重みと、その先にある光:「死でお終い」ではない希望への歩み

たまに散歩へ出る道すがら、日常のささやかな風景に目を留めることがあります。 自転車の後ろ籠に重そうなゴミ袋をくくりつけて進む方や、買い物籠のような手押し車にゴミを載せ、ゆっくりと集積場に向かって歩くお年寄りの後ろ姿です。

若い頃には片手で軽々と提げていたはずのゴミ袋が、年を重ねるごとにずっしりとした

重い塊へと変わっていく。ゴミ出しという当たり前の日常さえも、途方もない労力を要する大仕事になっていく現実に、人生という時間の重みを感じずにはいられません。 しかしある意味では、自分の足で歩き、ゴミ出しができるというのは、まだ「まし」なことなのかもしれません。世の中には、それすら叶わない体になり、病床で深い苦しみの中を生きている方々もいらっしゃるからです。

 


望んだ「ハッピーエンド」と、厳しい現実

若い時に汗水流して必死に働き、家庭を築き、子どもたちを育て上げる。やがて子どもたちは成長して独り立ちし、それぞれの人生の場所へと巣立っていきます。あとに残されるのは、夫婦ふたり、あるいは一人きりの静かな暮らしです。

誰もが、人生の黄昏の時くらいは、穏やかで心休まるものであってほしいと願うはずです。せめて自分が主役を演じてきた人生というドラマの最終幕だけは、温かなハッピーエンディングで締めくくられたい、と。 しかし、現実は私たちが期待するほど甘くはありません。老いの孤独の中で思いがけない病が見つかり、先の見えない不安と痛みに絶望しながら生きている方々がいます。 どんなに苦しくても、命の火が灯っている限り、私たちは「生きなければならない」のです。時にそれは、残酷なほどの重圧となり、息をするだけで精一杯というつらい日々を強いることになります。

 


「死でお終い」という虚無の誘惑

その激しい痛みや絶望の淵に立たされた時、人の心にはある一つの考えがよぎることがあります。

  • 「死んだら、すべてお終いだ」
  • 「死んでしまえば、この苦しみも、悩みも、痛みもすべて終わるのだ」

終わりのない苦痛から逃れるため、死を「完全なる消滅」であり「苦しみからの解放」だと考えたくなる。それは、限界まで追い詰められた人間の、悲しくも切実な心の叫びです。

でも……本当にそうでしょうか。 もし死が単なる「無」への帰結であり、すべてのお終いであるならば、私たちが流した涙も、愛した記憶も、耐え抜いた苦しみも、すべては虚無の中に消え去る無意味なものになってしまいます。

 


朽ちていく外なる人、新しくされる内なる人

聖書は、この絶望的な問いに対して、全く異なる次元の真理を私たちに提示しています。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は朽ちていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二 4:16

私たちの肉体(外なる人)は、時と共に確実に衰え、病に倒れ、やがて朽ちていきます。人生の最終幕は、決して痛みのない華やかなものではないかもしれません。 しかし、死は「お終い」ではありません。それは、古いテントを脱ぎ捨てて、永遠の光に包まれた本当の住処へと移り住むための「通過点」に過ぎないのです。

人生の黄昏は、闇夜に向かって沈みゆく終わりの時間ではなく、永遠の朝陽を迎えるための準備の時間です。神様は、私たちの痛みも、悩みも、流した涙のひとしずくさえも無駄にはされません。私たちがこの地上でどれほど不条理な苦しみを味わおうとも、そのスクリーンの向こう側には、神様ご自身が涙をぬぐい去ってくださる、まことの「ハッピーエンディング」が確実に用意されているのです。

手押し車をきしませながら歩く、その一歩。 病床で痛みに耐えながら見上げる、窓の外の空。 そのすべてを、見えない温かな御手がしっかりと支えています。私たちの魂は、今日という日も静かに、新しくされ続けています。

今日も、共に前進です。

2026年8月9日日曜日

戦争はやめましょう!

 


すり減った靴底と水辺のハクチョウ:私たちの内なる「見えない戦争」を止めるために

昨日のランニングの疲労が、右側のかかとに鈍い痛みとして残っていました。 そのため今朝は無理をして走ることをやめ、大年寺山公園への散歩へと切り替えました。痛みの原因の一つは、間違いなく靴底のすり減りです。

一般的に、ランニングシューズの寿命は走行距離500キロから700キロだと言われています。しかし、月に500キロを走る私にとって、その一般論を真面目に守れば、わずか45日ごとに新しい靴を買い替えなければならない計算になります。決して安価ではないシューズをその頻度で消費することは現実的ではないため、私はそのセオリーを横に置き、二足の靴を交互に使いながら、1年間という時間をかけて履き潰すことにしています。

痛みと妥協を抱えながら、涼しい風に背中を押されて公園の階段を駆け上がり、そして静かに歩きました。 川辺へ目を向けると、ハクチョウや河の鳥たちが、水面で羽を休めながら元気な姿で新しい朝を迎えていました。空の青さと鳥たちの静かな息づかいが溶け合う、本当に美しく、平和な風景でした。

 


112分に消え去った日常

今、私の目の前に広がっているような、涼やかな風と鳥の声に包まれた平和な朝。 194589日の長崎も、もしかすると同じような、ごくありふれた平和な朝の始まりだったのかもしれません。

しかし、午前112分。 一発の原子爆弾が投下され、そのささやかな平和は一瞬にして消え去り、大地は想像を絶する地獄のような光景へと変貌してしまいました。

黒澤明監督の映画『八月の狂詩曲』の中で、原爆の傷を抱えるおばあちゃんは「アメリカ人が悪いのではない、戦争が悪いんだ」と語りました。その言葉を厳密に突き詰めれば、「戦争を起こした人間そのものに罪がある」という重い事実に行き当たります。 あれほどの悲劇を経験し、戦争の恐ろしさを知っているはずなのに、なぜこの世界から戦争は絶えないのでしょうか。

 


形を変えて宿る「心の戦場」

その答えは、戦争が単に国と国との間で起こるものだけではないからです。 目に見える爆弾の雨が止んでも、戦争は決して終わってはいません。それは形を巧妙に変え、今度は私たち人間の「心の中」に深く宿り続けているのです。

  • 自分より恵まれている者への、黒い妬み。
  • 自分とは異なる意見を持つ者への、激しい憎しみ。
  • 匿名という安全な場所から放たれる、容赦のない誹謗中傷。

これらはすべて、現代における「見えない戦争」です。私たちは今、銃弾やミサイルの代わりに、冷たい言葉と悪意という武器を使って、隣人の心を深く傷つけ、見えないところでその魂を殺し続けています。平和を願いながら、自らの手で身近な平和を破壊しているのです。

 


知恵ある人の舌は人を癒す

聖書は、私たちが日々用いている「言葉」という武器の恐ろしさと、その本来の役割についてこう語っています。

「軽率に語って、剣で刺すように人を傷つける者がある。しかし、知恵ある人の舌は人を癒す。」(箴言 12:18

私たちの内にある妬みや憎しみは、放っておけば必ず誰かを刺し貫く剣へと変わります。 私たちがなすべきことは、遠い国の戦争を憂うことと同時に、まず自分自身の心の中にある「戦争の火種」を静かに見つめ、それを消し止めることです。

すり減った靴底で、痛みを感じながら歩く人生の道。 私たちは不完全で、時に人を傷つけてしまう弱い存在ですが、それでも「人を癒す知恵」を選び取ることはできます。今日、あなたが出会う人に対して放つその一言を、剣ではなく、平和を創り出すための温かな包帯へと変えていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年8月8日土曜日

八月の狂詩曲

 


嵐に向かう小さな傘と、赦しの記憶:『八月の狂詩曲』が問う真の和解

明日、89日は長崎に原爆が投下された祈りの日です。 その前日である今日、私は黒澤明監督の映画『八月の狂詩曲(ラプソディー)』を観ました。画面から伝わってくるうだるような夏の熱気、蝉の鳴き声、そして静かな山村の風景は、私たちの日常と地続きでありながら、その地中に途方もなく深い悲しみの記憶を隠し持っています。

今日はこの映画が描く「記憶と和解」、そしてそこに流れるキリスト教的な「赦し」のメッセージについて、深く思索してみたいと思います。

 


越えられない壁と、歩み寄る足音

映画は、長崎の山村で暮らす被爆者の老婆・鉦(かね)おばあちゃんと、夏休みを共に過ごす4人の孫たちを中心に静かに進んでいきます。原爆で夫を亡くした鉦おばあちゃんの心には、決して癒えることのない深い傷があります。 物語が動くのは、ハワイで成功した日系アメリカ人の甥、クラーク(リチャード・ギア)が長崎を訪れる時です。

「アメリカ人がやって来る」。 原爆を落とした国の人間に、おばあちゃんはどう接するのか。周囲の大人たちが気を揉む中、クラークは原爆で亡くなった祖父(おばあちゃんの夫)が命を落とした校庭の鉄棒を訪れ、深く頭を下げ、涙を流して謝罪します。 そのクラークに対して、鉦おばあちゃんは静かにこう語りかけます。 「わたしはアメリカを憎んではおらん。憎いのは戦争じゃ」と。そして二人は、言葉の壁を越えて静かに手を取り合います。

 


キリストの十字架が打ち砕く「敵意という隔ての壁」

この場面には、キリスト教の核心とも言える「和解」と「赦し」の真髄が描かれています。人間は、一度深く傷つけられると、相手を「敵」として認識し、心の間に分厚い壁を築いてしまいます。加害者と被害者という立場は、通常であれば決して交わることのない平行線です。しかし、おばあちゃんはクラーク個人の内にある誠実な痛みを受け入れ、憎しみの連鎖を自らの手で断ち切りました。

聖書に、このような力強い言葉があります。 「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し……」(エフェソの信徒への手紙 2:14

真の平和とは、ただ戦争がない状態のことではありません。傷つけ合った者同士が、自分の弱さと罪を認め合い、歩み寄り、心の間にあった「敵意という壁」を取り壊すこと。それこそが、キリストが十字架の上で成し遂げられた「和解」の姿です。 クラークとおばあちゃんが手を取り合ったあの静かな瞬間、そこには確かに神の痛みに裏打ちされた、まことの平和が宿っていました。

 


狂詩曲(ラプソディー)の果てに、ただ前へ

映画のクライマックスは、激しい夏の嵐の場面です。 雷鳴と稲妻の中、原爆の閃光をフラッシュバックさせた鉦おばあちゃんは、裏返った小さな傘を盾のように突き出し、激しい雨風の中を一人で歩き出します。その後を、子どもたちと孫たちが必死に追いかけます。

世間の目から見れば、それは過去のトラウマに囚われた「狂気」の姿に見えるかもしれません。しかし、あの裏返った傘を握りしめ、圧倒的な暴力(嵐)に向かってよろけながらも歩みを止めない小さな背中は、人間の底知れぬ哀しみと、それでも生きていこうとする凄絶な命の力強さを象徴していました。

 


私たちは皆、それぞれの心に癒えない傷や記憶を抱え、人生という嵐の中を歩んでいます。 憎しみに身を任せる方が、はるかに簡単かもしれません。しかし私たちは、あのおばあちゃんのように、あるいは十字架を背負ったキリストのように、痛みを抱えながらも「和解」という困難な道を選び取るようにと召されています。

長崎の空へ、そして今も争いが続くこの世界へ。 私たち一人ひとりが、敵意の壁を取り壊す「平和の器」として歩んでいくことができますように。

今日も、共に前進です。

今週も朝ラン100キロ完走

 


恵みの雷雨と記憶が宿る20キロ:重い足を引きずりながら、それでも走り続ける

昨夜の23時。娘をアルバイト先まで迎えに行き、家へと帰りついた時のことです。 すでに静かに休んでいた愛犬のノアは、娘の帰宅によって無理やりに起こされてしまいました。時刻は23時半。せめて散歩へ連れ出そうと、1階から「ノアを出してちょうだい!」と娘に声をかけましたが、ノアは言うことを聞きません。ノアは「こんなに暑いのに!」と、外へ出るのを渋っていたのでしょう。

仕方なく私が2階へ上がると、ノアはすぐに出てきてくれました。二人で夜の静寂の中を歩き、無事に帰宅。涼しい部屋の中にノアを落ち着かせ、私はゴミ出しへ向かう。こうして一日の大切な仕事を終え、二度寝の眠りにつきました。

 


身体の重さと、恵みの「サイン」

再び目が覚めたのは、午前3時を過ぎた頃でした。 蓄積された疲労が全身にのしかかり、身体が鉛のように重く感じられます。「今日のランニングは休もうか」。そんな思いが頭をよぎった矢先でした。突然、外で雷が鳴り響き、雨が激しく降り出したのです。 普通であれば、雨と雷は「休むための口実」になるかもしれません。しかし私には、それが天から落とされた「走りなさいというサイン」に思えてなりませんでした。

身支度を整え、スタートを切ったのは440分。外はすっかり明るくなっていました。 今週の目標である「100キロ完走」を達成するため、今日は20キロを走ると決めていました。しかし、足取りはいつもと違い、どうしようもなく重く、しんどさがつきまといます。それでも私は、一歩、また一歩と足を前へ運び続けました。

 


祈りの軌跡としての道

走りながら、ある病院の前を通りました。今、入院して闘病されている教会の姉妹のために、深い祈りを捧げながらその横を走り抜けました。

この病院は、私にとって数え切れないほどの記憶が刻まれた場所です。 以前、他の教会員が入院した際にも、この建物の周りを歩き回りながら祈り続けたことがありました。また、面会が許されていた時期には、毎週のように通い、後に天へと召されていった兄弟と多くの言葉を交わし、人生と信仰を語り合った場所でもあります。 通り過ぎる風景の中に、かつての祈り、涙、そして天へ帰った兄弟姉妹の笑顔が重なります。

  • 足の重さは、私たちが背負う現実の重さ。
  • 雷と雨の音は、魂を奮い立たせる恵みの合図。

聖書に、このような言葉があります。 「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙 12:1

天に召された兄弟姉妹たちという見えない「証人の群れ」が、今も教会と残された家族のために祈っている。その確かなぬくもりが、重い足を再び前へと押し出してくれました。

 


試練に打ち勝つ、たった一つの秘訣

無事に20キロを完走し、今週の目標であった100キロの道を走り終えました。 身体は重く、決して楽ではない朝のランニングでしたが、走り終えた今、心にあるのは「走って良かった」という深い感謝と確信だけです。あそこで休まなかったことに、一切の後悔はありません。人生には、足が前に出なくなるような重い日があり、予期せぬ嵐が吹き荒れる日があります。 しかし、厳しい試練に打ち勝つ秘訣は、実にシンプルです。

「走り続けること。挑戦し続けること」

立ち止まりたくなる時こそ、雨の音を前進のサインとして受け取り、見えない証人たちの声に励まされながら、今日という道をひたむきに走り抜いていきましょう。



今日も、共に前進です。

2026年8月7日金曜日

今日の天気は?

 


移りゆく空模様と、忘れられた「肝心なこと」:魂のピントを合わせる朝

テレビをつければ、あるいはスマートフォンを開けば、真っ先に目に飛び込んでくるのは天気予報です。 「今日の最高気温」「酷暑日への警戒」「接近する台風の進路」……

私たちの毎日は、まるで空の機嫌をうかがうようにして始まります。

今日着る服を決め、傘を持つかどうかを迷い、一日の予定を組み立てる。おそらく現代を生きる人々にとって、一番の共通の関心事は「天気」だと言っても過言ではないでしょう。この空の下で、天気に関心がない人など、果たして一人でもいるでしょうか。

しかし、毎日のように繰り返される気象情報を見つめながら、ふと、心の奥底で静かな問いが波紋のように広がるのを感じるのです。

「私たち人間が、本当に持つべき関心は、そこにあるのだろうか?」

 


空模様に奪われる心と、置き去りにされた本質

もちろん、自然災害に備え、体調を管理するために天気に関心を寄せることは、生きていく上で必要な知恵です。 しかし、問題は「関心のバランス」です。私たちは往々にして、今日一日の天候という「それほど重要でないこと(移り変わり、やがて過ぎ去るもの)」にばかり過剰な関心を寄せ、人生において最も「肝心なこと(決して変わらない、永遠なるもの)」を無意識のうちに脇へと追いやっているのではないでしょうか。

  • 今日の気温には敏感なのに、隣人の心の冷えには気づかない。
  • 台風の進路は熱心に追うのに、自分の人生がどこへ向かっているのかは深く考えない。
  • 雨をしのぐ傘の準備はするのに、魂を守る信仰の準備はおろそかにしてしまう。

私たちは、目に見える日常の事象に心を奪われ、本当に向き合うべき自分自身の魂のあり方や、愛する人との真実な交わり、そして神との関係といった「最も重要なこと」から、そっと目を背けて生きているのかもしれません。

 


上にあるものに心を留める

聖書は、地上の事柄ばかりにピントを合わせてしまう私たちの弱さを見抜き、このように語りかけています。

「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。」(コロサイの信徒への手紙 3:2

地上のもの、つまり天気や世間の評判、損得や目の前の忙しさ。それらは常に変わり続け、私たちの心を揺さぶります。しかし「上にあるもの」、すなわち神の愛や真理、変わることのない希望に心を留める時、私たちの内側には、外の天候がどうであろうと決して揺るがない「静かな軸」が打ち立てられます。一番肝心なこと。それは、どのような空模様の日であっても、誠実に愛し、祈り、感謝して生きることです。


 

永遠に触れて、今日を歩く

猛暑の日も、嵐の日も、やがては過ぎ去っていきます。 今日という一日をスタートさせるにあたり、どうか少しだけ立ち止まり、心のピントを「目に見える空」から「目に見えない魂の本質」へと合わせてみてください。

脇に置いてしまっていた「肝心なこと」を、もう一度、胸の真ん中へと引き寄せる。 その静かで誠実な選択が、あなたの足取りを力強く、そして確かなものにしてくれるはずです。

今日も、共に前進です。

平和を願う?でも・・・

 


矛盾の階段と八月の祈り:争う私たちが「平和の器」となるために

まとわりつくような湿気が身体を重く包む早朝、大年寺山公園へと散歩に出かけました。 今日はどんな一日になるのだろうか。そんな静かな問いを胸に抱きながら、一歩、また一歩と石段を踏みしめます。教会の群れのこと、そして今、病床にある姉妹の回復を深く祈りながら、自分の体重と重力に向き合って階段を走り、そして上り続けました。

 


祭りばやしと、平和への問い

8月。この国において、この月は深く「平和」を考える季節であるはずです。 しかし、私の周辺から聞こえてくるのは、もっぱら七夕祭りの賑わいや、鮮やかに夜空を彩る花火大会の話題ばかりです。もちろん、それらの祭りがもたらす喜びや笑顔も、今の時代を生きていくためには大切なものです。ただ、その華やかな喧騒の中で、「平和」という重いテーマが少しずつ日常の隅へと押しやられていくような、かすかな違和感を覚えるのも事実です。

  • 平和な世界、平和な国であってほしい。
  • 平和な職場、平和な学校であってほしい。
  • 平和な家庭、そして平和な教会であってほしい。

私たちは皆、心の底では争いのない、穏やかで平和な環境を強く願っています。 しかし、最も恐ろしく、そして悲しい現実は、その「平和を願う誰もが」によって構成されているこの世界が、常に争い、戦い、妬み、憎しみに満ちているということです。平和を愛すると口にしながら、私たちは自分と異なる意見を許せず、自分の権利を守るために容易に他者を傷つけます。平和を渇望しながら、自らの手でその平和を壊し続ける。 この深く矛盾した世界で生きる、実におかしく、そして悲しい存在。それが、我々人間という群れの真実の姿なのです。

 


私たちの内にある「争いの根」

私たちはよく、「世界が平和でありますように」と外側に向けて祈ります。 しかし、争いの本当の火種は、国と国の国境線にあるのではなく、私たち一人ひとりの心の中に存在しています。聖書に、このような鋭い問いかけがあります。

「あなたがたの間の戦いや争いは、どこから起こるのですか。あなたがたの体の中で戦う欲望から起こるではありませんか。」(ヤコブの手紙 4:1

自分の思い通りにしたいという欲望。自分が一番正しいと認められたいという傲慢さ。 私たちが他者とぶつかり、家庭や共同体の中で小さな戦争を起こしてしまうのは、自分の中にあるこの「争いの根」を直視しようとしないからです。平和を願うのであれば、私たちはまず、自分自身の中にある醜い矛盾と向き合わなければなりません。

 


矛盾を抱えたまま、平和の器となる

では、矛盾だらけの私たちには、平和を作り出すことはできないのでしょうか。 そんなことはありません。私たちは自分の力では完璧な平和を実現できませんが、神の深い憐れみによって、平和を「運ぶ者」になることはできます。

自分がどれほど矛盾を抱え、容易に人を傷つけてしまう弱い存在であるかを知ること。 その痛みを伴う自己認識こそが、他者への寛容さを生み出します。「私もまた、許されて生きている存在なのだ」と深く知った時、私たちは初めて、握りしめた拳をゆっくりと開き、他者に手を差し伸べることができるのです。

 


湿気の多いこの8月の朝。 遠くの平和を叫ぶ前に、まずは今日出会う一人に対して、柔らかな言葉を使ってみようと思います。自分の正しさを主張する前に、相手の痛みに耳を傾ける「ゆとり」を持とうと思います。

矛盾だらけの私たちであっても、今日という日を、小さな平和を紡ぐための一歩にすることは必ずできます。

今日も、共に前進です。

癒しの武器?

 


閉ざされた扉を越える「癒しの武器」:絶望を退ける50キロの祈り

午前2時過ぎ。世界がまだ深く重い眠りの中にある静寂の時間に目を覚まし、愛犬ノアとの散歩へ出かけました。 夜の闇は静まり返り、響くのは自分たちの規則正しい足音だけです。その歩みを終えた後、静かな部屋で机に向かって一通の手紙をしたため、夜明け前のポストへと投函してきました。

面会制限という壁の前で

先日、教会員のお一人が入院されたという知らせを受けました。 今は、誰もが自由に病室へ足を運べる時代ではありません。最もそばで寄り添いたいと願う家族でさえ面会が制限され、ましてや家族以外の者が顔を合わせることは極めて困難です。病院の冷たい壁と厳格なルールが、病床にある方と外の世界との間に、見えない厚い隔たりを生み出しています。顔を見て、直接声をかけることができない。手を握って励ますことができない。 しかし、物理的な接触が断たれたからといって、私たちに「何もできない」わけでは決してありません。私たちには、どんな分厚い壁をもすり抜ける、とっておきの素晴らしい武器があります。それは「祈り」です。 この武器は、誰かを攻撃し、やっつけるためのものではありません。孤独と痛みの中にいる人の魂を温め、命を支えるための「癒しの武器」なのです。

50キロの距離を埋める足音

私は、県内でおおむね50キロの距離内であれば、どこへでも赴き、あるいは自分の足で歩き、その方が入院している病院のすぐ目の前まで行くことにしています。 たとえ病室の中には入れなくても、外の冷たい空気の中で、少しでも闘病されている兄弟姉妹の近くに立ちたい。その建物をじっと見上げながら祈りを捧げたい。そうした行動を取り続けることこそが、私にできる牧会という歩みの一つの形だと信じているからです。

同時に、言葉を紡ぎ、手紙を書くことも欠かせない大切な使命です。 今日投函した手紙にも、外の景色や日常のたくさんの写真を同封しました。おそらく、ご家族の手を介してご本人に届けられることになるでしょう。それを見た方が少しでも元気を取り戻し、心に希望の光を灯していただけるようにと、深い祈りを込めて封を閉じました。

最大の敵と、最強の味方

病の中にある人にとって、一番の敵はなんでしょうか。それは病魔そのもの以上に、心を蝕む「絶望」です。 そして反対に、一番の味方となってくれるのは「希望」です。

聖書は、暗闇の中で希望を見失いそうになる私たちに、力強くこう語りかけます。

「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。」(ローマの信徒への手紙 12:12

  • 目に見えないからといって、つながりが消えるわけではない。
  • 触れられないからといって、愛が届かないわけではない。

私たちがたゆまず祈り続けるとき、その祈りの温度は目に見えない温かな毛布となって、孤独なベッドの上にいる友を確かに包み込みます。絶望という冷たい暗闇を退け、希望という最強の味方を送り届けることができるのです。

無事に退院されるその日が来るまで、私の毎日の祈りは決して終わりません。 どんなに離れていても、壁に阻まれていても、魂は祈りを通して共にあります。

今日も、共に前進です。

嘘をつかない人はいない?

 


偽りという名の鎧と、隠された恐れ:創世記から続く「人間であること」の痛み

まだ街が目覚める前の、深く透明な静寂。 ひんやりとした朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、静かに呼吸を整えながら歩みを進めていると、日中の喧騒の中では聞こえない「魂の問い」が浮かび上がってくることがあります。

今朝、私の心に静かに降りてきたのは、人間の心の最も暗く、そして最も脆い部分への問いでした。

「嘘をつくのは、人だけなのだろうか?」

自然界を見渡せば、周囲の景色に溶け込む保護色を持つ生き物たちはいます。しかしそれは、命をつなぐための本能です。事実を意図的に歪め、心にもない言葉を紡ぎ出し、真実を隠そうとする「嘘」は、私たち人間にのみ与えられた悲しくも重い業のようなものです。

人はなぜ、嘘をつくのか

では、人はなぜ嘘をつくのでしょうか。その心理的な原因は、どこにあるのでしょうか。

私たちはしばしば、誰かを騙して利益を得るため、あるいは悪意を持って嘘をつくのだと考えがちです。しかし、人間の心の奥底へとステップ・バイ・ステップで降りていくと、そこにあるのは決して「悪意」だけではありません。

嘘の根底に横たわっているのは、ほとんどの場合「恐れ」です。

  • 本当の自分を知られたら、嫌われてしまうのではないかという恐れ。
  • 自分の失敗や弱さを認めたら、居場所を失うのではないかという恐れ。
  • 誰かの期待に応えられない自分を、直視することへの恐れ。

人は、ありのままの自分が受け入れられないかもしれないという恐怖から身を守るために、「嘘」という名の分厚い鎧を着込みます。嘘とは、傷つきたくないと震えている心が、咄嗟に盾として掲げた悲しい防衛本能なのです。

 

創世記の嘘と、隠された心の傷

この「恐れからの嘘」は、決して現代特有のものではありません。聖書の最初の書物である創世記を開くと、人類の歴史がすでに「嘘」と共に始まっていることがわかります。

最初の人であるアダムとエバは、神の戒めを破った直後、自らの裸(ありのままの姿)を恥じて身を隠し、その責任を他者へと転嫁しました。 そして、その息子であるカインもまた、弟アベルを手にかけた後、神から「弟はどこにいるか」と問われた際、「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と嘘をつきました。

彼らが嘘をついたのは、神の光の前に立つことに耐えられなかったからです。自分の罪、弱さ、醜さが白日の下にさらされることを恐れ、必死に言葉で自分を覆い隠そうとしました。 カインの嘘の裏には、「愛されなかった」という深い孤独と、罪の意識からくる恐るべき恐怖が張り付いていたのです。私たちは今も、アダムやカインと同じように、自分の心の弱さを隠すために嘘をつき続けています。

 

鎧を脱がせる、光の温度

しかし、神様は私たちが嘘をつくことなど、とうの昔にご存知です。 嘘をつかなければ生きていけないほどに私たちが弱く、恐れに満ちた存在であることを、誰よりも深く理解し、憐れんでくださっています。

聖書の光は、私たちの嘘を暴いて罰するための冷たい光ではありません。 「あなたが嘘という鎧を着込まなくても、ありのままのあなたで十分に愛されている」と教えてくれる、温かい光です。

自分の心に「嘘」という棘が生まれそうになった時。それは、自分が今、何かに怯え、恐れているサインです。その恐れを誰かにぶつけるのではなく、また新しい嘘で塗り固めるのでもなく、静かに神の光の前に差し出してみること。 「私は今、恐れています。だから、自分を大きく見せようとしています」と、ただ誠実に認めること。そこから、私たちの本当の自由が始まります。

嘘という重い鎧を少しずつ脱ぎ捨て、真実という身軽な姿で。 与えられた今日という道を、誠実に歩いていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年8月6日木曜日

朝ラン30キロ完走

 


雲の向こうの確かな光:見えない世界が私たちを包む朝

日付が変わってすぐの、011分。二度寝の誘惑に身を委ねることなく起床し、静けさの中でいつものルーティンワークを終えました。そして、まだ夜の暗闇が深く支配する3時前、今日の一歩を踏み出すべくランニングをスタートさせました。

今日のコースは、山田インター方面へと向かい、そこから広瀬川沿いを経て帰宅する道のりです。 肌を撫でる風は涼やかに心地よく、身体の熱を優しく奪いながら、静かな喜びとともに走ることができました。30キロ完走です。しかし、空は厚い雲に覆われており、私がいつも楽しみにしている「あるもの」を見ることはできませんでした。

 


隠された朝日と、揺るがない事実

それは、夜明けを告げる朝日です。 暗闇が少しずつ薄れ、地平線の彼方から力強い光が昇ってくるのを目の当たりにすることは、一日をスタートさせる人間の心をどれほど明るく、そして前向きにさせてくれることでしょう。光を視覚で捉えることは、私たちに直接的な希望を与えてくれます。しかし今朝は、その太陽がすっぽりと雲に遮られていました。空を見上げながら、私は走りながら深く思索しました。 太陽が見えなかったからといって、今日、太陽が昇らなかったわけではありません。私の目がその輝きを捉えられなかっただけで、太陽は昨日と変わらず、確かな軌道を描いて上り、この世界全体を明るく照らし出しているのです。

 


見えない世界が持つ「広さ・深さ・高さ」

私たちは往々にして、「目に見える世界」がすべてであると錯覚して生きています。 目に見える成果、目に見える健康、目に見える人間関係。それらが曇り空のようにどんよりと沈んでいる時、私たちは「光はどこにもない」と絶望しそうになります。見えないものを信じ続けることは、時に大きな忍耐を必要とするからです。

しかし、真実は違います。 聖書に、このような言葉が記されています。

「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」(コリントの信徒への手紙二 4:18

  • 目に見える世界は、ほんの一部に過ぎない。
  • 目に見えない世界の方が、はるかに広く、深く、高く、私たちを取り囲んでいる。

私たちの目には見えなくても、雲の上には常に太陽が燃えているように。私たちが苦しみや悲しみの雲に覆われ、人生が真っ暗に見える時であっても、神の深い恩寵と慈しみは、決して私たちを見捨てることなく、常に高く、広く、私たちを包み込んでいるのです。

 


見えない光を信じて歩む

朝日が見えなかった曇り空の朝。それは「光がない朝」ではなく、「見えない光を信じることを学ぶ朝」でした。

 


今日、あなたの目の前に広がる現実が、もし厚い雲に覆われているように見えたとしても、どうか落胆しないでください。あなたの頭上には、必ず希望の太陽が昇っています。見えない世界の確かな温もりが、今日という日を生きるあなたを、見えないところで力強く支えています。自分の視覚や感情だけを頼りにするのではなく、私たちを包み込む大いなる見えない世界へ信頼を置きながら、確かな一歩を踏み出していきましょう。今日も、共に前進です。