2026年2月14日土曜日

「何もしない」という名の、聖なる仕事

 


「何もしない」という名の、聖なる仕事

掌を開く静寂

使い古したペンを置き、一週間分の重みを背負った肩の力を、ふっと抜いてみる。 土曜日の朝、私たちの部屋に満ちているのは、成果を求められる「平日」の喧騒ではなく、ただそこに在ることを許された柔らかな沈黙です。私たちは、何かを成し遂げている時だけが「生きている時間」だと思い込んでしまいがちです。けれど、深く吐き出す呼吸のあとに訪れる、あのわずかな「空白」。その空白こそが、実は私たちの命を最も深く養っている時間なのかもしれません。


 


止まることへの「罪悪感」という痛み

けれど、現代を生きる私たちは「休むこと」にさえ、どこか申し訳なさを感じてしまいます。

世界のどこかでは絶えず争いが続き、誰かは病床で苦しみ、明日の生計に怯える人々がいる。そんな混沌とした世界のなかで、自分一人が歩みを止めて休息することに、言いようのない不安や罪悪感を覚えることがあります。

「もっと頑張らなければ」「遅れてしまう」。 その焦燥感は、私たちの魂をすり減らし、せっかくの安息日を「次なる戦いのための充電期間」という、効率の奴隷に変えてしまいます。私たちは、立ち止まることが怖くて、魂が悲鳴を上げていることにさえ気づかぬ振りを続けてはいないでしょうか。


 


安息は「完成」のための最後のピース

聖書が語る安息日は、単に「疲れたから休む」という受動的な休憩ではありません。 神様が天地創造の七日目に休まれたのは、疲弊したからではなく、休むことによって世界を「完成」させるためでした。

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのほとりに伴われる。主はわたしの魂を生き返らせてくださる。」(詩篇 2323節より)

私たちが自らの意志で立ち止まり、主にすべてを委ねる時、私たちの人生という物語は、人間の努力を超えた次元で「完成」へと向かいます。 「大丈夫、すべては私の手の中にある」という主の声に耳を澄ませること。 それは、自分一人の力で世界を支えようとする傲慢さから解放され、再び「主の子」としての健やかさを取り戻すプロセスです。

癒やしとは、傷が消えることだけではありません。 苦しみの渦中にあっても、主が共に座ってくださっているという「安心」を思い出すこと。その静かな確信のなかで、私たちの魂は、涸れた井戸が潤うように、ゆっくりと生き返っていくのです。


 


祈りの余韻を携えて

今日は、完璧な人でいることをお休みしましょう。 弱いままで、疲れを抱えたままで、ただ主の懐に身を寄せてください。あなたが今日、静かに目を閉じ、深い呼吸を一つ繰り返すこと。 その「小さな安息」が、明日、誰かのために微笑むための糧となります。 主の慈しみという静かな水のほとりで、心と体を十分に整え、新しい朝の光を待ちましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月13日金曜日

夜のシチューと、朝の祈りのわだち

 


夜のシチューと、朝の祈りのわだち

「美味しい、感動したよ」という、小さな肯定

「昨日のシチュー、どうだった?」とランニングから帰ってきて聞きました。(味見をしなかったので・・・いつものことですが・・・)朝の慌ただしい空気の中、支度をしている背中に投げかけたその問いに、思いがけないほどの熱量で答えが返ってくる。めちゃ美味しかった!感動です!!そんな瞬間に、世界は不意に色鮮やかさを取り戻します。

何時間も火にかけ、じっくりと味をなじませた一皿が、誰かの心と体を温めたという事実。それは、昨夜の自分が費やした時間と手間が、目に見えない「愛の形」となって相手に届いた証し)でもあります。私たちは、こうした些細な言葉のやり取りを糧にして、また新しい一日という荒野へ足を踏み出すのです。


 


繰り返される「日常」という名の巡礼

早朝四時、まだ街が眠りの中に沈んでいる頃、結局、また二十二キロの道のりへと走り出しました。 長町を抜け、昨日、手術を終えた兄が眠る病院の側を通り、西公園方面へ。

肉体は確かに疲弊しています。連日のロングランの重みが脚に残り、一歩一歩が自分自身を試すような問いかけになります。 けれど、なぜこれほどまでに自分を追い込むのか。それは、走ることそのものが「祈り」の代わりだからです。 病院の窓、実習先へ向かう娘の背中、パート先へと急ぐ妻の足取り。 私たちは皆、それぞれの持ち場で、自分にしか担えない重荷を背負って立っています。その孤独や葛藤をすべては分かち合えなくても、走ることで描くこの「円」の中に、大切な人々をそっと包み込みたいと願うのです。


 


隠れた所で見ておられる方の「熟成」

私たちが日常で行うルーティン――掃除、料理、仕事、そして祈り――は、一見すると同じことの繰り返しで、何の変化もないように思えるかもしれません。

しかし、シチューが一晩寝かせることで深みを増すように、私たちの「隠れた努力」や「人知れぬ祈り」もまた、神様の御手の中で静かに熟成されています。

「あなたの父は、隠れた所で見ておられるが、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書 66節より)

神様が私たちに求めておられるのは、派手な成功や劇的な変化ではありません。 誰も見ていない早朝に道を整えるように走ること、家族のために心を込めて鍋を火にかけること、そして今日という一日を誠実に生きようとする、その「継続」そのものです。 私たちが「足りない」と感じ、無力感に襲われるその場所で、主は共に汗を流し、共に鍋を囲んでおられます。私たちの些細な「頑張り」は、主の目には、この世界を救うための最も貴い「供え物」として映っているのです。


 


それぞれの場所へ、派遣される

妻は仕事へ、娘は学び舎へ。 そして私は、いつものように階段を掃き、内面を整えるルーティンへと戻ります。 私たちは再び、それぞれの「現場」へと送り出されていきます。

もし今日、あなたが自分のしていることに意味を見出せなくなったとしても、どうか思い出してください。あなたの淹れた一杯の茶が、あなたが交わした一言の挨拶が、そしてあなたが心の中で唱えた短い祈りが、誰かの世界を「夜明け」へと導く光になっていることを。

私たちは、主に守られ、導かれています。 その確信を胸に、今日という一段を、感謝と共に上りましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

今日は休養日

 


傷跡は、新しい朝を指し示す地図になる

心の奥に刻まれた、名もなき「痛み」の欠片

「あなたは、自分の内側にある『癒えない傷』をどう扱っていますか。」

金曜日の朝、一週間の疲れが澱のように底に溜まる頃、私たちはふと自分の内側にある古傷に触れてしまうことがあります。それは、誰かに言われた鋭い一言かもしれないし、かつて自分が犯してしまった取り返しのつけない過ちの記憶、あるいは、ただ懸命に生きている中で自然に破れてしまった心の膜かもしれません。私たちはその痛みを「なかったこと」にしようと、明るい光の下へと急ぎます。しかし、沈黙が訪れるたびに、その傷跡は拍動するように、静かに、けれど確かに存在を主張し始めるのです。


 


沈黙という名の「金曜日」

昨日の大きな緊張――手術室の扉の向こう側で戦っていた誰かのこと、実習の現場で自らの無力さに立ち尽くした誰かのこと――を背負い、私たちは今日という日を迎えています。

世界は相変わらず混沌の中にあり、私たちの祈りはしばしば、虚空に向かって投げ出された叫びのように感じられます。「なぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか」という問いに対し、天はしばしば沈黙で答えます。その沈黙は、冷たく、時に私たちの信仰を試すかのように長く続きます。私たちは、自分が「救う側」であろうとして疲れ果ててしまいます。誰かの痛みを肩代わりしようと走り続け、結局は自分自身もまた、癒やしを必要とする一人の「傷ついた者」である事実に突き当たるのです。


 


十字架という名の「共苦(コンパッション)」

しかし、聖書が指し示す金曜日の真実は、私たちの「絶望」を根底から書き換えます。

十字架の上で、主イエスは「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この言葉は、神が私たちの「究極の孤独」と「究極の痛み」を、理論ではなく、自らの肉体をもって完全に引き受けられたという証拠です。

「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた。」(イザヤ書 535節)

主は、私たちの傷を消し去るのではなく、その傷の中に入ってきてくださいます。十字架は、神が人間の苦しみの「圏外」にいるのではなく、その「中心」におられることを示す、血の通った約束です。絶望が希望へと反転するのは、私たちが強くなったからではありません。自分の傷跡が、実は復活の主が触れてくださる「聖なる場所」であると気づく瞬間に、重荷は恩寵へと変わるのです。主の傷跡と私たちの傷跡が重なり合うとき、そこから新しい命の拍動が始まります。


 


傷を抱えたまま、一歩を

金曜日の長い影が伸びる中で、どうか自分を責めないでください。 あなたが抱えているその痛みも、拭いきれない疲れも、主はすべて「自分のこと」として知っておられます。

傷跡は、あなたが戦い、耐え、そして生きてきた証です。 それは決して「終わり」の印ではなく、復活の朝を迎えるための「地図」なのです。 主が共に担ってくださるその十字架を杖にして、今日という一日を静かに歩み抜きましょう。手術を終えた兄弟の病床に、実習を終える娘の背中に、

そしてあなたの心に、主の和解と平安が満ち溢れますように。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

苦しみも痛みも人生の友である

 


口の中の戦場と、祈りの静けさ

昨日、一本の連絡が届きました。 「無事に手術が終わりました」と。 三日間、祈りながら走り続けた日々の終わりに届いた知らせは、 まるで乾いた地に降る雨のように、心を潤してくれました。今日からは、回復のために祈る。 手術の成功は、始まりにすぎない。 癒やしの道のりを、主が共に歩んでくださるように。 そして、兄弟とそのご家族の心に、 主が与える「真の平安」が訪れるように。

 


三日間のロングラン。 体は正直です。 「もう休んで」と、あちこちがささやいてくる。 口の中では、口内炎が暴れ回っている。 まるで小さな戦争のように、痛みが広がっている。 でも、私は知っているのです。 これもまた、時がくれば癒えることを。 だから、特別なことはしない。 薬も、病院も必要ない。 花粉症と同じように、やがて過ぎ去るものとして、 静かに受け止める。

苦しみも、痛みも、 自分の一部であると受け入れたとき、 それはもはや敵ではなくなる。 それよりも大切なのは、 心と思いを、どこに注ぐかということである。

執り成しの祈り。 み言葉を届ける手紙。 誰かの痛みに寄り添うこと。 希望を分かち合うこと。 それこそが、今日の使命である。

昨日は、娘のためにビーフシチューを作りました。 味見はしません。 口の中が戦場だったからではないのです。 いつものことです。 誰かのために作る料理は、 自分の味覚ではなく、 その人の笑顔を思い浮かべながら作るものと思うからです。(よくわからない?でしょう!)

今日も、生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月12日木曜日

一人の兄弟のために走る


 

祈りの足音が、朝を照らす

まだ眠りの残る家の中で、靴ひもを結ぶ音が小さく響きました。 時計の針は、すでに6時を回っていました。 いつもより遅いスタートでしたが、今日はどうしても走らなければならない日でした。 この三日間、走り続けていました。 本日、手術を受ける兄弟のために。 祈りを込めて、足を前に出し続けました。

23キロの道のり。 この走りが、祈りとなって天に届くことを信じていたので走り続けました。

 最後は、手術が行われる病院を一周して帰ってきなした。 その建物の中にいる兄弟と、付き添うご家族のことを思いながら。ちなみに娘の実習先の病院も同じところです。

人は、痛みの中でこそ、祈る。 不安の中でこそ、信仰が問われる。 「主よ、どうかこの手術が守られますように」 「どうか、主の平安がこの家族を包みますように」 そう願いながら、走りました。 でも、ふと気づく。 「ゆだねる」ということは、ただ願うこととは違うことを。 それは、すべてを主の御手に委ねるという、信仰の決断であります。結果は関係ありません。どんな結果であれ受け入れられる信仰です。それが神様の御心だと受け止めることが重要であるのです。

こういう信仰がなければ、ゆだねることはできません。 自分の力ではどうにもならない現実を前にして、 それでも「主が共におられる」と信じること。 その瞬間、心にふっと風が吹く。 不安が消えるわけではない。 けれど、確かな平安がそこにある。 それは、主が与えてくださる「真の自由」であるのです。

今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月11日水曜日

使命によって生きる者

 


祈りの鼓動が、世界のひび割れを繋ぐとき

息を呑む世界、震える地図

世界のニュースに目を向ければ、そこには絶えず「痛み」の輪郭が描かれています。 国境を越えられない人々の列、癒えぬ傷跡を抱えた街、そして沈黙の中で自由を求める叫び。

カレンダーをめくれば、今日はある国にとっては「建国」を祝う日かもしれません。しかし、真の「平和」や「安らぎ」という土台がどこにあるのか、私たちはその答えを求めて、今日もまた混迷する世界地図の上をさまよっています。 「私一人に、何ができるのか」 そんな巨大な問いを前にすると、私たちの信仰はあまりに小さく、無力に見えてしまうものです。




二日間の軌跡、六十二キロの呻き

昨日の三十七キロに続き、今朝は二十五キロを走り抜きました。 二日間で六十二キロ。肉体は正直です。節々はきしみ、肺は燃えるような熱を帯び、一歩を踏み出すたびに「もう十分ではないか」という誘惑が、耳元で執拗に囁きかけます。(でもこれまでこういう誘惑に負けたことはありません。サンティアゴでも経験したことですが、いつも打ち勝ち乗り越えてやって参りました。)

この身体的な苦痛は、ある意味で、今のこの世界の「呻き」と共鳴しているのかもしれません。 明日の手術を控えた一人の兄弟。その不安、その痛み、その孤独。 私たちはそれらを肩代わりすることはできません。けれど、祈りながら走り続けるとき、私たちの足音は、病床にいる誰か、あるいは世界の片隅で泣いている誰かへの、目に見えない「伴走」へと変わっていきます。


 


命のエンジン ―― 「受命」という名の論理

私たちが自分の体力や精神力だけで生きようとすれば、六十二キロの地点でガス欠を起こし、立ち止まってしまうでしょう。 しかし、キリスト者が走り続けられるのは、自らのガソリンではなく、**「使命(ミッション)」**という名のエネルギーで動いているからです。

「しかし、わたしは、自分の走るべき道を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしするという任務を全うすることさえできれば、この命すら決して惜しいとは思いません。」(使徒言行録 2024節より)

ここでいう「任務」や「使命」とは、自分を苦しめる重荷ではありません。 それは、神様から「あなたにこの一歩を託した」と、全幅の信頼を寄せられているという**「名誉」**です。

私たちが走り、祈り、仕えること。 それは、バラバラに壊れかけた世界を、キリストの愛という糸で縫い合わせていく作業です。 あなたの疲れた足取りは、神様の目には、この世界を癒やすための最も尊い「巡礼」として映っています。 私たちが限界を超えて一歩を踏み出すとき、そこには自分の力ではなく、背中を押し、共に息をついてくださる聖霊の風が吹いているのです。


 


派遣の光の中へ

あなたの手元にある仕事、向き合っている家族、そして今抱えている心身の疲れ。 それらはすべて、あなたが「神様に遣わされた場所」で生きている証です。

明日の手術を待つ兄弟のために。 世界のどこかで夜明けを待つ人々のために。 そして、今ここにある自分の命のために。私たちは、一人で走っているのではありません。 主が拓かれた「道」を、主と共に、確かな使命を携えて歩んでいきましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月10日火曜日

祈りながら走る朝

 


祈りながら走る朝、平安を信じて

午前4時。 まだ夜の名残が空に残る時間に、私はゆっくりと靴ひもを結びました。 外は静かで、空気は張りつめていて、 ただ自分の呼吸と足音だけが、世界に響いていました。

今日は、教会の兄弟が手術のために入院する日。 その知らせを受けたとき、心のどこかがざわつきました。 「大丈夫だろうか」「不安はないだろうか」 そんな思いが胸をよぎり、 私は祈るようにして走り出しました。走ることは、私にとって祈りのかたちの一つです。 言葉にならない思いを、 一歩一歩に込めて、 ただ主の御前に差し出していく時間。



今朝は、37キロを走りました。 そのすべての距離に、 兄弟のための祈りを重ねながら。

祈りながら走っていると、 ふと、ある御言葉が心に浮かびました。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配していてくださるからです。」(ペトロ5:7

私たちは、誰かのために祈るとき、 その人の痛みや不安を、 自分の中にも引き受けるような感覚になります。でも、神は言われます。 「その重さを、わたしにゆだねなさい」と。

私たちができることは限られています。 けれど、主は限りなく、 その御手の中にすべてを包み込んでくださる方です。だから私は、走りながら祈りました。 「どうか、主が与えてくださる平安のうちに、 この兄弟が手術を受けられますように」と。



そして不思議なことに、 走り終えるころには、 私の中の不安も、静かにほどけていました。

祈りは、時に言葉を超えて、 私たちの行動や沈黙、 そして走る足音の中にも宿ります。

今日も、誰かのために祈りながら、 主の平安を信じて歩んでいきましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

痛みの底に咲く、沈黙の祈り

 


痛みの底に咲く、沈黙の祈り

理由もなく、胸がざわつく朝がある

「あなたは今、心のどこに『光の届かない場所』を抱えていますか」

火曜日の朝。週の始まりの勢いが少し落ち着き、ふと立ち止まった瞬間に、心の奥底から言葉にならない不安がせり上がってくることがあります。 それは、誰かに話せるような具体的な悩みというよりは、砂時計の砂が静かに落ちるのを眺めている時のような、実体のない「寂しさ」や「揺らぎ」かもしれません。

自分の弱さを隠し、強がって歩こうとすればするほど、その影は色濃く足元に伸びていきます。


 


言葉を失う「待ち時間」の中で

今日、私たちは一つの大きな「不在」と「静寂」の前に立っています。 手術室の重い扉の向こう側で、一人で病と向き合っている人。実習という厳しい現場で、自分の無力さと格闘している人。そして、いつも走っている八木山の橋を渡るたびに思い出される、失われた命。私たちは、彼らのために「何かをしたい」と願います。けれど、実際には祈ることしかできず、その祈りさえも、時に空虚な響きに聞こえてしまうことがあります。 「主よ、なぜ」という問いは、神学的な議論の中ではなく、こうした孤独な沈黙の淵から生まれるものです。 私たちは、自分自身の弱さという影を直視することが怖くて、つい明るい場所へと逃げ出したくなってしまうのです。


 


暗闇を「聖所」に変える方

しかし、聖書が語る「弱さの神学」は、その暗闇こそが、主との最も深い出会いの場であると告げています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二 129節より)

パウロが抱えていた「刺」が何であったかは分かりません。しかし彼は、その痛みを取り除いてほしいと三度願った末に、驚くべき真理に到達しました。 それは、痛みが消えることではなく、**「痛みの中に主がおられる」**という事実です。

私たちが「もう一歩も進めない」と膝をつくその場所は、実は神様があなたを抱き上げる場所です。 あなたが自分の弱さを認め、格好の悪い自分をそのまま主の前にさらけ出すとき、その「心の影」は、主の光が最も鮮やかに反射する聖なる鏡へと変容します。 神様は、あなたが完璧になるのを待っておられるのではありません。 あなたの震える手のひらの上に、ご自身の全能をそっと重ね合わせたいと願っておられるのです。


 


沈黙を共に生きる

今日、あなたの心がざわついているのなら、無理にそれを鎮めようとしなくていい。 その揺らぎを抱えたまま、主の御前に座ってみてください。

手術を待つ兄の傍らにも、実習で汗を流す娘のすぐ後ろにも、そして今この文章を読んでいるあなたの肩にも、主の傷跡のある御手が置かれています。 「大丈夫」という言葉よりも深い、「わたしはここにいる」という確信。 その静かな同在を錨として、今日という荒野を、一歩ずつ、丁寧に歩み始めましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月9日月曜日

不足という名の、神が残した余白

 


私たちは日々、「時間が足りない」「お金が足りない」「忍耐が足りない」── そんな足りないという言葉に囲まれて生きています。 まるで人生そのものが、常に何かを欠いたまま進んでいくように感じることさえあります。けれども、信仰の世界では、この「不足」こそが宝物なのだと語られます。 ある人はこう言いました。 「神を信頼するためには、いくらかの困難が必要だ。」

私たちは、自分の力が満ちているとき、神を忘れやすい。 しかし、心身の限界を感じ、自分の「器」が空っぽになったとき、 初めて私たちは、天を見上げるようになります。

不足とは、神が私たちの信仰と従順を育てるために、 あえて残された余白なのかもしれません。世界は今、混乱のただ中にあります。 争い、分断、孤独、そして心の疲れ。 私たちの内側にも、同じような揺らぎが生まれます。

「どうして自分だけがこんなに弱いのだろう」 「なぜ、こんなにも足りないのだろう」 そう思う瞬間が、誰にでもあります。

しかし、聖書の人物たちもまた、足りなさを抱えたまま歩んだ人々でした。 モーセは語る力が足りず、 エリヤは心が折れ、 パウロは「とげ」を抱えたまま生きました。

弱さは、信仰の失敗ではありません。 弱さは、神が働くための入口なのです。

パウロはこう語ります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。」

十分ではない私たちに、 十分な恵みを与えるのは、神ご自身です。

私たちの不足は、 神の力が流れ込むための空洞です。 器が空であるからこそ、 神はそこに新しい命を注ぐことができる。不足は欠陥ではなく、 神が働くための余白なのです。

そしてその余白は、 私たちが今日を生きるための希望へと変わっていきます。

あなたの中にある「足りなさ」は、 神があなたを見放した証拠ではありません。 むしろ、神があなたを形づくろうとしているしるしです。どうか今日、 その余白を恐れず、 主が満たしてくださることを静かに信じて歩んでください。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

砂漠の朝をゆく、最初の一歩

 


砂漠の朝をゆく、最初の一歩 ―― 「月曜日」という名の恵み

心の重さを計る天秤

「月曜日」という言葉が、あなたの胸にどんな響きを連れてくるでしょうか。

日曜日の礼拝を終え、聖なる余韻に浸る間もなく、私たちは再び「日常」という名の砂漠へと派遣されます。昨日まで見上げていた天の光は遠のき、目の前には、溜まった仕事、未解決の人間関係、そして自分自身の内側にある「倦怠感」という重い荷物が積み上がっています。

新しい一週間を前にして、ふと「また同じことの繰り返しではないか」と、足がすくむ朝があるかもしれません。


 

脱ぎ捨てられない「昨日」の影

私たちは、新しい週を今朝の雪のように「真っ白な地図」として始めたいと願います。 けれど実際には、先週から引きずっている失敗の苦さや、拭いきれない後悔、あるいは大切な人の病への不安といった「昨日の影」を背負ったまま、月曜日のスタートラインに立っています。

世界では争いが止まず、ニュースは私たちの心を削り、自分一人が何をしたところで何も変わらないのではないかという無力感に襲われます。 そんな時、私たちは「強く、前向きに」という言葉にさえ、疲れを感じてしまうのです。


 

立ち上がるための「赦し」というロジック

聖書が語る「再出発」は、私たちの気合や根性から始まるものではありません。 それは、主の「赦し」という深い静寂から始まります。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新しくなる。」(哀歌 32223節より)

神様が備えられた月曜日の朝とは、単なるカレンダーの区切りではありません。 それは、昨日の失敗も、先週の汚れも、すべてを主の慈しみという海に沈め、「もう一度、新しく始めてよい」という法的な赦しが宣言される時です。

エリシャがエリヤの背中を追い、ヨルダン川を叩いて道を開いたように、私たちもまた、自分一人の力ではなく「主の霊」を携えて週の初めに立ちます。 大切なのは、一気に一週間分を走り切ろうとすることではありません。 今、この瞬間、主の御手の中で「最初の一歩」を、自分自身を赦しながら踏み出すことです。


 

巡礼者の歩みを

今日、あなたが手にするペン、あなたが向き合う誰かの瞳、あなたが踏みしめるアスファルト。 それらはすべて、主があなたのために新しく用意された「再出発の現場」です。

重荷を下ろす必要はありません。主が共に担ってくださるからです。 完璧な自分を演じる必要もありません。主があなたの弱さを知っておられるからです。 ただ、朝ごとに新しくなる慈しみを一息吸い込んで、今日という一段を上り始めましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

2026年2月8日日曜日

奇跡②

 


今年から婦人会の例会で取り扱う奇跡シリーズを掲載しています。

聖書箇所:列王記下 51節〜19

1. 導入:思考は「魂の指揮官」

皆さま、こんにちは。2026年という新しい幕が開けましたが、私たちの心には今、どのような「風」が吹いているでしょうか。人生には、晴れの日もあれば、嵐の日もあります。しかし、私たちの人生を最終的に決定づけるのは、実は「何が起きたか」ではなく、それを「どう捉えるか」という、私たちの思考の向きです。心理学的な側面から見ても、思考はその人の人格を導く「指揮官」のような役割を果たします。肯定的な思考は成熟した人格を育て、否定的な思考は可能性を閉ざしてしまいます。今日は、重い皮膚病(らい病)に苦しんだアラムの将軍ナアマンの物語から、絶望を奇跡に変える「三つの視点の転換」について学んでいきましょう。




2. 「名もなき少女」の神学:最小の者が最大の門を開く

この壮大な奇跡の物語の始まりは、一人の名前さえ記されていない、捕虜の少女の言葉でした。

【ここが驚き!】: 聖書学的に見ると、この少女はヘブライ語で「ナアラー・ケタンナー(小さな少女)」と表現されています。彼女は戦争の犠牲者であり、異国で奴隷となった、当時の社会で最も「力のない存在」でした。しかし、彼女の口から出たのは、恨みや呪いの言葉ではなく、「主人を癒やしたい」という驚くべき肯定的な願いでした。

【逆転のパラドックス】: アラムの強大な将軍ナアマンを動かし、王たちを動かし、歴史を動かしたのは、軍事力でも金でもなく、一人の少女の「信仰に裏打ちされたポジティブな一言」でした。神様は、世の「強いもの」を恥じ入らせるために、あえて「弱いもの」を奇跡の最初の鍵(キーマン)として選ばれるのです。皆さんの小さな祈り、小さなお節介、小さな励ましが、実は巨大な奇跡の導火線になっているかもしれません。




3. イスラエル王の陥穐:恐れが作る「心の迷宮」

少女の言葉を受けて、ナアマンはイスラエルの王のもとへ向かいます。ところが、アラム王からの手紙を読んだイスラエル王の反応は悲惨なものでした。「私は神なのか? 殺したり生かしたりできるとでもいうのか!」と、自分の服を裂いて絶望したのです。

  • 【ここが驚き!】: 王という最高の地位にありながら、彼の思考は「過去の恐怖」に支配されていました。彼は問題を「外交上の罠」として拡大解釈し、まだ起きていない未来の戦争を恐れて自滅しかけていたのです。
  • 神学的な教訓: 信仰のない思考は、問題を実際よりも巨大に見せ、自分を無力化させます。イスラエルの王は「王冠」を持っていましたが、少女が持っていた「神の視点」を持っていませんでした。問題に直面したとき、服を裂く(絶望する)のではなく、まず「神様ならどうされるか」を尋ねる。これこそが、私たちが学ぶべき思考のレッスンです。



4. ヨルダン川の「7回」:期待というプライドを捨てる

エリシャのもとにたどり着いたナアマンを待っていたのは、さらなる「期待外れ」でした。エリシャは顔も見せず、使いの者を通して「ヨルダン川で7回洗え」と伝えただけだったからです。

  • 【ここが驚き!】: ナアマンは怒りました。「ダマスコの川(アマナやパルパル)の方がずっと綺麗じゃないか!」と。実はこれ、地理学的には正しいのです。ダマスコの川は澄み切っていますが、ヨルダン川は泥が混じり、濁っていることが多いのです。 しかし、神様が求めておられたのは「綺麗な川」ではなく、ナアマンの「素直な従順」でした。
  • 数秘学的な意味(7の意味): なぜ「7回」だったのでしょうか。聖書において「7」は完全数(シェバ)を意味します。1回、2回と洗っても変化はありません。3回、4……もし6回で止めていたら、奇跡は起きなかったでしょう。7回という数字は、「自分の納得」を完全に捨て、神様の言葉を「100%受け入れる」までやり抜く、徹底した服従の象徴なのです。



5. 「タバル(浸かる)」の奇跡:罪という病の癒やし

ナアマンがようやく自分の考えを捨てて、ヨルダン川に身を沈めたとき、彼の皮膚は「幼子の肌のように」新しくなりました。

  • 驚きのヘブライ語: ここで「浸かる」と訳されている言葉は、前回学んだヨシュア記と同じ「タバル」です。これは単に洗う(ラハツ)のではなく、完全に潜り、自分を消し去ることを意味します。
  • 魂のリカバリー: 私たちの心にも、誰にも言えない「罪の皮膚病」のような汚れがあるかもしれません。自分なりの解決策(ダマスコの綺麗な川)では治りません。ただ、泥だらけのヨルダン川のような「十字架の恵み」の前に自分を投げ出し、神様の言葉に100%同意するとき、私たちの魂は幼子のように新しく創造されます。



6. 結び:神様の視点に「チャンネル」を合わせる

皆さま。 私たちの人生という戦場において、肯定的な思考を持つということは、単なるポジティブシンキング(前向きな考え方)ではありません。それは、**「自分の視点から、神様の視点へと、チャンネルを合わせ直すこと」**です。

  • 捕虜の少女のように、不条理の中でも神の可能性を語りましょう。
  • イスラエル王のように、問題を拡大解釈して自滅するのをやめましょう。
  • ナアマンのように、自分の「こうあるべきだ」という期待を捨てて、主の言葉に従いましょう。

「どうせ無理だ」という否定的なリマインダーを捨て、今日、私たちは高らかに宣言しましょう。「神様には不可能なことは一切ない」と。

皆さんの2026年が、この「信仰の肯定」によって、想像もつかないような素晴らしい奇跡で彩られることを、主の御名によって祝福いたします。