デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年10月23日金曜日

朝ラン33キロ完走


 

冷たい朝風と夏の装い――「自分流」で走り抜く今日というレース

昨夜の予期せぬ騒ぎを経て、深夜2時ごろにようやく二度寝につきました。それでも体内時計は正確に時を刻み、4時半にはすっきりと目が覚めました。

そのまま起き上がり、いつものように静かな祈りの時を持ち、準備のトレーニングを終えて、午前5時。まだ薄暗い街へと走り出しました。 秋が深まり、外はすっかり冷え込む朝を迎えていますが、私はあえて「夏の格好」のまま風の中へ飛び出しました。肌を刺すような冷気が、かえって心身をシャキッと目覚めさせてくれます。



それぞれの目標へ向かう足音

今朝は久々に、西公園の周辺を巡るコースを選びました。 今度の日曜日に「全日本大学女子駅伝」が開催されることもあり、道すがら、本番に向けてひたむきに走る女子選手たちの姿がいくつも目に入りました。吐く息を白くしながら、それぞれの目標を見据えて駆け抜けていく彼女たちの足音が、冷たい朝の空気に心地よく響きます。

見上げれば、雲ひとつない快晴。外気は冷たくても、私の心はどこまでも晴れ晴れとしていました。

私たちは日々、他人の態度や予期せぬ環境の変化、突然降りかかる状況に心を揺さぶられます。昨夜のように、自分の意図しない出来事が夜の静寂を破ることもあります。 しかし、そのたびに環境に振り回され、自分を見失ってしまうのはあまりにももったいないことです。



惑わされず、自分流の笑顔で生きる

人生という一度きりの道のり。どうせ生きるならば、精一杯に生きる。そして、笑顔で生きる。 他人の評価や周囲の温度に合わせるのではなく、「自分が決めた今日という一日」を、自分流のスタイルで堂々と生き切ること。冷え込む朝に夏の格好で駆け出したように、自分の内側にある確かな熱を信じて進めばいいのです。

聖書にこのような言葉があります。

「あなたの目は前方をまっすぐに見つめ、あなたの視線は自分の前をまっすぐに向けよ。あなたの足の道に心を配れ。そうすれば、あなたの道はすべて確かなものとなる。」(箴言 4:25-26)

神様が私たち一人ひとりに用意されたコースは違います。誰かのペースに巻き込まれたり、周囲の冷たさに萎縮したりする必要はありません。自分の足元を見つめ、自分に与えられた「今日」というオリジナルな軌道を、自分なりの歩幅で、笑顔で走り抜くこと。それが、命を与えてくださった方への最高の応答だと信じています。



今朝も無事に、33キロを完走しました。 あなたも今日、あなたにしか走れない「自分流」の一日を、晴れやかな笑顔で前進していけますように。

弁償します!

 


真夜中の来訪者と壊れたコーン――不条理な世界に開かれた「命の扉」

肌寒い夜気が街を包み込む、深夜23時50分。 静寂を破るように、教会のインターホンが鳴りました。この時間帯の訪問は、経験上あまり良い知らせではありません。少し身構えながら扉を開けると、そこには不安そうな顔をした三人の若者が立っていました。

壊れたコーンと、青年のまっすぐな声

事情を聞くと、駐車場にあったコーンを車で轢いて壊してしまったとのこと。現場に行ってみると、確かにワゴン車の下敷きになったコーンは完全に砕け散っていました。車の後ろには、まだ初々しい初心者マーク(🔰)が貼られています。

運転していた青年は、まっすぐな目で「弁償します!」と声を張りました。 私は彼らに、砕けた破片を倉庫まで運んでもらい、こう伝えました。

「大丈夫だよ。コーンで良かったよ。人とか他の車だったら、大変だったでしょう?」

「本当に、すみませんでした!」と深く頭を下げる彼ら。聞けば、東北工業大学で建築を学ぶ1年生とのことでした。「最後は気をつけて帰ってね」と背中を見送り、真夜中の一連の出来事は静かに幕を閉じました。

「弁償できるもの」と「弁償できないもの」

その後、愛犬ノアと夜の散歩に出かけました。帰宅して段ボール箱をまとめ、温かい卵スープと食パンでお腹を満たし、冷え込む夜の静寂の中で仕事に向かいます。 暗闇の中で、先ほどの青年の「弁償します」という言葉が胸の奥で静かに反響していました。

人生には、新しい物を買ってお金で弁償できる出来事があります。しかし一方で、この世界には「絶対に弁償できない事柄」も存在します。その最たるものが「人の命」です。 現代社会は、命の重さすらもお金で解決できるかのように錯覚してしまうシステムを持っていますが、それは実に不条理で、恐ろしいことです。どれほどの対価を積んでも、失われた命や時間は二度と元には戻りません。

不条理を貫き、開かれた扉

この不条理な世界に決して飲み込まれることなく、ご自身の「正義」を貫き通された方がいます。それが、イエス・キリストです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 14:6)

キリストの貫いた正義とは、罪を犯した人間に厳しく弁償を求めることではありませんでした。自らが代価となり、人類に「救いの道」を開くこと。自分の過ちを前に立ち尽くす私たちに、「もう大丈夫だ」と語りかけ、真の命が得られる扉を開いてくださることでした。深い夜を経て、再び眠り(二度寝)につく時間がやってきました。 本日の朝のランニングは、無理をせずに休息にすることに決めました。時には立ち止まり、体を休め、静かに恵みを味わうこともまた、神様から与えられた命を大切にする一つの歩みです。

夜中に逃げずに謝りに来た、あの誠実な青年たちの未来が守られますように。 そして、今日という不条理な世界を生きる私たちが、キリストの開かれた「命の扉」の奥にある、確かな希望の光を見つめ続けることができますように。

2026年10月22日木曜日

ノアのシャンプー

 


できないことの向こうに、ほめる言葉を

暑かった昨日

昨日は、久しぶりにノアのシャンプーをしました。妻は仕事だったので、一人で行いました。昨日は暑かったので、前からシャンプーの日にしていました。ノアは、シャンプーがあまり好きではありません。それなのに、海や池で泳ぐのは上手です。水そのものが嫌いなわけではないのです。犬には、生まれつき泳ぐ本能があるのかもしれません。

自分から飛び込む水は楽しいのに、誰かに洗われる水は落ち着かない。
同じ「水」なのに、不思議なものです。それでも、無事に洗い終えました。
これで、大きな仕事がひとつ片づきました。感謝です。

猫にはできて、犬にはできないこと

シャンプーをしながら、ふと思いました。
猫は、自分で顔を洗い、身なりを整えることができます。けれども、犬にはそれができません。もし「できないこと」ばかりを数えるなら、犬は手のかかる存在に見えるかもしれません。でも、それは違うのだと思います。ノアは泳ぐのが上手です。猫は身づくろいが上手です。それぞれに、上手なことがあります。大切なのは、できないことに目を留めるのではなく、できることをほめてあげることです。これは、犬の話にとどまりません。

私たちが数えているもの

私たちは、自分や身近な人の「できないこと」を、つい数えてしまいます。

  • あの人のように、うまく話せない。
  • 若い頃のように、体が動かない。
  • 家族なのに、どうしてこれができないのだろう。

できないことは目につきやすく、できることは「当たり前」として通り過ぎてしまう。
そうして、ほめる言葉より、ため息のほうが多くなっていきます。

けれども、聖書はこう語ります。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」
(ローマの信徒への手紙12章6節)

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(コリントの信徒への手紙一12章21節)

違うということは、欠けているということではありません。
神は、一人ひとりにそれぞれの「上手」を与えておられます。
それを見つけ、言葉にしてほめることは、その人を造られた神への感謝でもあるのです。

自分では洗えないということ

もう一つ、心に残ったことがあります。

ノアは自分では体を洗えません。だから、誰かが洗ってあげるのです。
本人はあまり好きではなくても。この姿に、ある聖書の場面が重なりました。
最後の晩餐の夜、主イエスが弟子たちの足を洗おうとされたとき、ペトロはそれを拒みました。「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハネによる福音書13章8節)

すると、主イエスはこう答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(同)

私たちもまた、自分の心を自分できれいにすることはできません。
後悔も、怒りも、誰かを傷つけた言葉も、自分の力で洗い流すことはできないのです。

だからこそ、主イエスが洗ってくださいます。
私たちが少し抵抗しても、居心地が悪くても、あきらめずに、ていねいに。

できないことは、恥ではありません。
それは、愛されるための場所なのかもしれません。

風が運んでくる季節

昨日の暑さとは違い、今日は強い風が吹き、肌寒く感じる一日です。

こうして、新しい季節は訪れるのです。

「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)季節は、私たちが準備できたかどうかに関係なく、ある日、風と共にやって来ます。人生の季節も同じです。できていたことが、できなくなる時もあるでしょう。
けれども、そのたびに、まだできることを見つけ、ほめ合い、できないことは誰かに委ねながら歩んでいけばよいのです。

今日、あなたにできること

この新しい季節の始まりに、一つだけ試してみませんか。

  • 身近な誰かの「できること」を、一つ言葉にしてほめてみる。
  • 自分の「できること」にも、一つ「ありがとう」と言ってみる。

ため息を一つ、感謝の言葉に変えるだけで、今日の風は少しやわらかく感じられるかもしれません。できないことの向こうに、ほめる言葉を。そして、自分では洗えない私たちを洗ってくださる方に、感謝を。今日も、新しい季節の中を、一歩ずつ。

朝ラン31キロ完走

 


不変の夜明けと、変わりゆく私——「歩き」から「走り」へ踏み出す勇気

午前4時前。まだ街が深い眠りの中にある時間帯に、私は昨日と同じコースへと走り出しました。頬を撫でる風には確かな冷たさが混じっていましたが、不思議と寒さは感じず、むしろその冷気が心地よく体を前へと押し出してくれました。一定のリズムでアスファルトを蹴りながら31キロの道のりを駆け抜ける中、私の視線の先では、黒いベールを脱ぐようにゆっくりと夜が明けていきました。

 


変わらない自然の安心感と、人間の矛盾

想定外の恐ろしい自然災害が続くこの世界にあっても、毎朝必ず太陽が昇り、光が闇を駆逐していくという「日ごとの自然の法則」は決して変わりません。その堂々たる不変の姿を走りながら見つめていると、心の底から深い安心感が湧き上がってきます。

しかし、ここで人間という存在の奇妙な矛盾に気づかされます。 私たちは、自然界の「変わらないこと」に安堵する一方で、自分自身の「変わらない日常」にはひどく不満を抱く生き物なのです。

 

(約20キロ走って水分補給。おつりがいらない100円と550ml のスポーツドリンクをいっきに飲んでさらに走り続けます。)

毎日同じことの繰り返し。ありきたりの生活。そこに時としてみじめさを感じ、「何か新しい変化が起きないか」とため息をつく。 それなのに、いざ自らの手で日常を変えようとすると、途端に私たちは「変化」を恐れ始めます。

「今のままでいい」「特に良いこともないけれど、悪いこともない『今』が一番安全だ」 そうやって自分を納得させ、たとえそれが「つまらない人生だ」と人に言われるようなものであっても、ぬるま湯のような現状に留まり続けてしまう。それが、人間の持つ根深い心理の罠です。

 


意志をもって踏み出した先の「豊かさ」

生活を変えたいと願うなら、自分の意志で変えればいい。理屈は驚くほどシンプルです。 私自身、これまでの「歩き続ける」日々から、自らの意志で「ランニング」へとライフスタイルを大きく変えた時のことを思い返します。

長年の歩く習慣から走る習慣へ。自分の意志でギアを一段階上げた結果、私の生活は劇的に変化しました。 そこにあったのは、想像をはるかに超える豊かな恵みでした。全身の血が巡り、息が弾み、ただ生きていることそのものが生き生きと輝き出す。マイナスな面は一つもなく、もたらされたのは100パーセントの「プラス」だけでした。

自ら一歩を踏み出し、変化を受け入れた者だけが味わえるこの生命力。聖書には、主イエス・キリストのこのような言葉があります。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネによる福音書 10:10)

私たちが恐れを捨てて新しい自分へと一歩を踏み出すとき、神様はそこに「豊かな命」を用意して待っていてくださいます。ランニングによって私の中に始まった新しい人生と希望は、日々走るごとにさらに大きく、深くなっています。私はこの満ち溢れるような恵みを、決して独り占めするのではなく、皆さんと分かち合い、共に歩んでいきたいと心から願っています。

 


今日も前進あるのみ

気がつけば、10月も残すところあと10日となりました。 先月に続き、今月も掲げた「朝ラン600キロ」という目標の達成に向けて、私の足は止まりません。

変わらない朝の光に感謝しつつ、自らは日々新しく変わり続けることを恐れない。 今日もまた、希望を胸に走り続けます。

 

2026年10月17日土曜日

歩く、走る、上るー私の人生の三つの章

 


ある御言葉との出会い

これからの人生を、10年ごとの章に分けて思い描いてみました。そのとき、ずっと親しんできたはずの一つの御言葉が、まったく新しい光を放ち始めました。

主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、
歩いても疲れない。
(イザヤ書40章31節)

「上る」「走る」「歩く」。
この三つの言葉の中に、私のこれまでと、これからの歩みがそのまま入っていたのです。しかも後ろから読むと、「歩く」「走る」「上る」。私が歩んでいく順番そのものでした。

 


第一章:歩く(2014年〜2027年)

2014年、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅が始まりました。

振り返れば、長い距離を歩くことは、30年間ずっと私のそばにありました。仙台に来て9年。ここから福島方面への道を8回以上歩きました。長町から石巻まで、往復100キロを22時間弱で歩いたこともあります。スペインの巡礼路では、巡礼者たちから「クレイジーだ」と言われるほど歩きました。

この祈りの旅は、2027年6月、61歳で迎える11度目の旅で締めくくります。

これまでは、歩くことだけに集中してきました。だから最後の旅は、高速バスや列車、飛行機に乗って、10年以上かけて数千キロを歩いた道と街を巡ります。足元ばかりを見つめてきた道を、今度はゆっくりと顔を上げて眺めるつもりです。

 


第二章:走る(61歳〜70歳)

本格的にマラソンを始めて、まだ2年足らずです。それでも、30年間歩いてきた土台が、今の走りを支えてくれています。

これまで、全力で走ったことは一度もありません。礼拝の前の早朝にフルマラソンの距離を走り、そのまま礼拝を担当する。それが私の日常でした。

この12月23日に、61歳になります。そこから10年間、国内外のマラソン大会に挑む新しい章が始まります。

  • 2027年11月3日:ぐんまマラソン。初めての公式記録
  • 2027年11月23日:大田原マラソン。サブ3への挑戦
  • 2028年〜:シカゴ、ベルリン、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、東京、シドニー、セビリア
  • 2036年:70歳。ローマで、この章を締めくくる予定です

抽選に当たるかどうかは分かりません。それでも、道は描いておきたいのです。

最後の地をローマにしたのには、理由があります。伝承では、使徒パウロはローマからこう書き送ったとされています。

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
(テモテへの手紙二 4章7節)

70歳のゴールで、この言葉をかみしめたいと願っています。

 


第三章:上る(71歳〜80歳)

もし神様が、その先の10年を許してくださるなら。

71歳から80歳までは、無理のない範囲で、世界の山々に挑戦したいと思っています。

思い返せば、私の初めての登山は、いきなり富士山でした。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
(詩編121編1〜2節)

山を上るときも、助けは自分の脚からではなく、主から来る。そのことを、一歩ごとに確かめる章になるでしょう。

 


一人の道から、二人の道へ

振り返ってみると、サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅で「歩く」ことも、マラソンで「走る」ことも、私一人の歩みでした。

けれども、最後の章である「上る」は、妻と一緒の道になると思います。私の初めての登山だった富士山も、妻と二人で登ったのですから。

一人で歩き、一人で走ってきた道は、やがて二人で上る道へとつながっていきます。あの富士山から始まった二人の登山が、人生の最後の章でもう一度始まる。そう思うと、10年先のその日が、今から楽しみでなりません。

 


三つの章を貫くもの

そして、80歳までは、今の牧師としての務めを続けます。

歩くことも、走ることも、上ることも、講壇から離れるためのものではありません。道の上で受け取った恵みを、また講壇で語るための歩みです。

イザヤの言葉は、「歩く力」「走る力」「上る力」の源がどこにあるのかを語っています。それは、私の脚の強さではなく、「主に望みをおく」ことです。

だから、この計画どおりに進まない日が来ても、恐れる必要はありません。歩けなくなっても、走れなくなっても、主に望みをおく者に与えられる「新たな力」は、決して尽きることがないからです。


今日の一歩から

壮大な計画に見えるかもしれません。けれども、どの章も、今日の一歩から始まります。

今朝もまた、靴ひもを結びます。
歩く者として。走る者として。いつか上る者として。

主に望みをおいて、今日も前進です。

2026年10月16日金曜日

朝ラン26キロ完走

 


巡礼の杖を置き、走り出す朝——ペンテコステの新しい風に向かって

まだ薄暗い午前5時。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込みながら、今日も道へと飛び出しました。今朝の道のりは26キロ。そのうち5キロは、息が上がり、ふくらはぎが悲鳴を上げるような過酷な坂道ランでした。 今週の私の足跡を振り返れば、月曜日に63キロのウルトラマラソンを走り、火曜日はハーフマラソン。水曜日に完全休養を挟み、昨日は大年寺の階段で1時間のトレーニングを積みました。そして今日の26キロ。体に蓄積された疲労は確かな重みとなってのしかかっていますが、不思議と心は澄み渡り、視線はまっすぐに前を向いています。なぜ、これほどまでに自らを追い込み、険しい坂道を駆け上がっているのか。 それは私の内に、ひとつの大きな「決断」と「新たな夜明け」が訪れているからです。

 


ひとつの幕引きと、終わらない祈りの道

来月、私はスペインへ渡り、10度目となる「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への祈りの道を歩きます。 そして、この10回目の節目をもって、長年私の魂を形作ってきたスペイン巡礼の旅に、ひとつの終止符を打つと決めました。

これまで数千キロもの道のりを歩き、自分自身と向き合い、神様と対話し続けた巡礼の道。それを手放すことには、言葉に尽くせない感慨があります。しかし、それは決して歩みを止めるということではありません。「歩く巡礼」から「走る巡礼」へと、祈りの形が変容するだけなのです。

来年からの10年間。私は毎年、国内外のマラソン大会に出場し続けるという新しい目標を立てました。巡礼の杖を置き、今度はランニングシューズの紐を固く結び直して、未知なる42.195キロの道を走り続ける。それが、神様が私に新しく備えてくださった次のステージなのだと確信しています。

 


ペンテコステの風を受け、過去から未来へ

当面の目標は、来年の「ペンテコステ(5月16日)」までに、フルマラソンを3時間以内で走り切る「サブ3」を達成することです。

ペンテコステ(聖霊降臨日)は、新しい息吹が与えられ、新しい教会が誕生した日。限界を超えるような「サブ3」という目標に向けて、私自身の内側にも新しい聖霊の風が吹き込み、力強く背中を押してくれることを祈りながら、日々トレーニングを重ねています。

聖書に、このような言葉があります。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ人への手紙 3:13-14)

過去の美しい巡礼の思い出や、これまでの達成感に安住することなく、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばす。昨日までの疲労や痛みを引き受けながらも、ペンテコステという新しい次元に向かって、ひたすらに目標を目指して走る。

人生という道は、時に果てしない坂道のように感じられるかもしれません。しかし、私たちが歩みを止めない限り、そこには必ず新しい景色と、新しい恵みが用意されています。

呼吸を整え、額の汗を拭い、また一歩を踏み出す。 命がある限り、走り続け、祈り続ける。今日も前進です。

夜の散歩

 


落ち葉の降る夜道と、老いた足音——不条理な世界で命を灯すということ

秋が深まり、肌に触れる夜気がふいに冷たさを増した23時20分。 静まり返った夜の街を、愛犬のノアと一緒に歩いていました。私の横にピタリと寄り添い、時折こちらの顔を見上げながら前へと進むノア。その足取りには、確かに老犬特有の弱さが滲んでいました。それでも一緒に歩みを進め、無事に家へと帰り着く。今日も二人で散歩ができたというささやかな事実に、胸の奥で静かな感謝が広がります。

「今年の冬は、特にこの子を暖かくしてあげなければ」 隣を歩く小さな命の体温を感じながら、そんなことを思いました。

 


美しさと寂しさが交差する季節

秋から冬へと向かうこの季節は、どこか寂しさを連れてきます。 一枚、また一枚と、色褪せた木の葉が冷たいアスファルトに落ちていく。紅葉の風景は目を奪われるほどに美しいものですが、散りゆく姿にはやはり、逃れようのない寂寥感が漂います。

この肌寒さは、愛する家族を失った人々の心に吹く隙間風を、より一層冷たく感じさせることでしょう。あるいは、迫り来る冬を暖かく過ごす余裕のない家族にとって、この季節の移ろいは過酷な現実そのものです。

幸せを心から願っているのに、予期せぬ不幸が訪れる。 血の滲むような努力を重ねて頑張ったのに、決して報われることがない。

私たちは時として、この世界が孕む圧倒的な「不条理」を前に、立ち尽くすしかありません。理不尽な冷たい風が吹きつける中で、それでも人は、必死に生きようと身を寄せ合っています。

 


歩み続けること、それが神から託された使命

日付が変わり、16日の金曜日を迎えました。 静かな夜の底で、老いた犬の寝息を聞きながら一つの思いに至ります。どんなに厳しい状況に置かれたとしても、「生きる」こと。 報われない日々が続いたとしても、それでも「頑張り続ける」こと。 不幸に見舞われ、心が折れそうになっても、再び幸せを願って「前へ進む」こと。

聖書には、このような言葉があります。

「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りなさい。」(ローマ人への手紙 12:12)

凍えるような冬を前にしても望みを捨てず、不条理という患難のただ中で前を向く。これこそが、命を与えてくださった主なる神様が人間に託された使命であり、深い願いなのだと確信します。

 


老いた足で一生懸命に私についてくるノアの歩みもまた、与えられた今日という命を全うしようとする尊い祈りの姿でした。冬の足音が聞こえる不条理な世界の中で、私たちは互いの存在を暖め合うために生かされています。たとえ何度つまずいても、祈りと共に、今日も確かな一歩を踏み出していきましょう。

無事に退院が出来た姉妹を、そして目の手術を無事に終えられた姉妹のために祈りながらの夜の散歩でした。感謝です。

2026年10月13日火曜日

今朝はハーフマラソン完走

 


痛みを走って癒す朝——遥かなるボストンへ

63キロの翌朝に

昨日、63キロのウルトラマラソンを走りました。

その代償は、ずっしりとした疲労と、脚全体に広がる筋肉痛として、確かに体に刻まれていました。それでも今朝4時50分。まだ夜明け前の冷気が漂う中、私は再びランニングシューズの紐をきつく結び、道へと飛び出していました。深い疲労を、あえて走ることで癒していく。それが、昔から変わらない私流の整え方です。

 


今朝の記録

  • 距離:21.21キロ(ハーフマラソンの距離)
  • タイム:1時間46分35秒
  • ペース:キロ5分01秒
  • 心拍数:148bpm
  • 消費カロリー:1,257キロカロリー

汗だくで帰宅した私を迎えたのは、妻の呆れ返った顔でした。

 


遠い頂を見上げる、私の歩き方

妻が呆れるのも無理はありません。昨日の今日でハーフの距離を走ったことに加えて、私が今、心に描いている目標が「ボストンマラソン」だからです。

ボストンマラソンは、年齢ごとに定められた厳しい資格タイムを、公認の大会で突破しなければ出場できない、世界最高峰の大会です。そして私が今目指しているのは、フルマラソンを3時間以内で走る「サブ3」。

市民マラソン大会を一度も走ったことのない男が目指すには、あまりにも遠い場所です。

自分でも「なぜ、いきなりボストンなのか」と笑ってしまいます。けれども振り返ってみると、私の初めての登山は、いきなり日本一の富士山でした。

常識的な階段を一段ずつ昇るのではなく、遥か遠くの途方もない頂をじっと見つめ、不器用なまま大きな一歩を踏み出してしまう。それが、私という人間の変わらない歩き方なのだと思います。私たちは時に、自分の身の丈に合わないような大きな夢や、とても届かないと思える高い壁を前にして、理由のない情熱に突き動かされることがあります。

それは、ただの無謀ではないのかもしれません。神様が、私たちの内側に眠っている「まだ見ぬ可能性」を引き出すために与えてくださった、聖なる衝動なのかもしれません。

 


走り抜くための「休息」

聖書には、人生という道のりを走る者に向けた、力強いエールが記されています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 12章1節)

一人ひとりに定められた、高く、長いコース。それを走り抜くためには、時に自分の限界を押し広げる挑戦が必要です。そして同時に、静けさの中で体をいたわる時間も欠かせません。今日と明日は、酷使した体にしっかりと休息を与えようと思います。走ることと同じくらい、深く休むこともまた、次の一歩のための大切な「前進」だからです。

 


命がある限り

命がある限り、走り続ける。祈り続け、語り続け、そして愛し続ける。

妻の呆れ顔の奥にある優しさに感謝しながら、今日も私は、私にしか走れない人生のコースを、喜びとともに前進していきます。

2026年10月12日月曜日

無事に帰宅

 


手放す勇気と、63キロの軌跡——肩の痛みの中に刻まれた恵み

午前2時24分。まだ夜明けには遠い、深い闇と静寂の中、私は原町教会を目指してウルトラマラソンのスタートを切りました。

少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、一定のリズムでアスファルトを踏みしめる。心拍数は平均139bpm、ペースはキロ6分34秒。自分の内側にある命の鼓動と対話するような、静かで熱い時間でした。

しかし、現実は思い描いた計画通りには進みませんでした。

背中に背負ったバックパックの重みは、距離を重ねるごとに想像以上の負担となって体にのしかかってきました。次第に肩の皮膚が擦れ、ヒリヒリとした痛みが走ります。その痛みを文字通り「背負いながら」走り続けましたが、目的地の原町を目前にして、私は鹿島駅で立ち止まりました。走行距離、約63キロ。合計タイムは6時間53分35秒、消費カロリーは4,027kcalに達していました。

なぜ、あと少しの距離を残して走ることをやめたのか。 それは、このまま走り続ければ、今回の最大の目的である「全体研修会」の時間に間に合わなくなってしまうからです。

ランナーとしての自我や誇りは、「最後まで自分の足で走り切りたい」と叫んでいたかもしれません。痛みに耐えてでも、当初の71キロという目標を完遂したいという誘惑がありました。しかし、私は鹿島駅で足を止め、電車に乗るという選択をしました。

私たちは人生において、時に「自分が立てた完璧な計画」に固執してしまうことがあります。目標を達成すること自体が目的化し、本来一番大切だったはずの「礼拝」や「神様との出会い」、「人との交わり」を後回しにしてしまう。そんな本末転倒な歩みをしてしまうことが、どれほど多いでしょうか。

聖書には、次のような言葉があります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言 16:9)

71キロを自分の足だけで走り切ること。それは私が思い巡らした「自分の道」でした。しかし、神様が今日、私に備えられた「確かな歩み」とは、63キロ地点で自分の限界とタイムリミットを受け入れ、潔く自我を手放して電車に揺られ、時間通りに礼拝の席に着くことだったのです。

帰りの電車の中、座席に深く腰を下ろすと、肩の擦り傷がじんわりと熱を持ち、心地よい疲労感が全身を包み込みました。完璧な完走という勲章は得られなかったかもしれません。しかし、自分の弱さを認め、他なる力(電車)に身を委ねて目的地へ着いたこの経験は、私にとって何よりも尊い「祈りの道のり」となりました。

計画通りにいかないこと。途中で諦めざるを得ないこと。痛みとともに歩まなければならないこと。 それらは決して失敗ではなく、私たちが本来向かうべき場所へ、一番正しいタイミングでたどり着くための「軌道修正の恵み」なのです。

肩の痛みが癒える頃、この63キロの軌跡は、私の心にさらに深い確信を与えてくれるはずです。今日という不完全で、しかしこの上なく満たされた一日に、心からの感謝を捧げます。

71キロウルトラマン前の準備

 


闇をひらき、光へ向かう71キロ——祈りと共に走る明け方の道

夜と朝の境界線すらまだ見えない、23時59分。 真夜中の静寂の中で目を覚まし、私の一日は始まりました。部屋を整えるための掃除、静かな祈りの時間、ノアと一緒に歩く夜気の中の散歩。資源ごみを出し、部屋に戻って聖書のページをめくる。このいつもと変わらない、しかし決して疎かにできない一つひとつの営みが、これから始まる非日常の挑戦へ向けて、私の心を静かにチューニングしてくれます。

現在、午前1時過ぎ。本日の午前2時半から始まる、約71キロの道のりに向けた最終点検を行っています。

 


未知の領域へ踏み出す不安と期待

今日の目的地は、南相馬市にある原町教会です。午前10時から地区全体研修会のための会合があり、せっかくの機会なので、自分の足で走って向かうことに決めました。

過去に徒歩で2度、この道を歩き通したことはあります。しかし、「走って行く」のは今回が初めてです。暗闇の中、71キロという途方もない距離を前にすると、心の中に小さな問いが波紋のように広がります。 「無事にたどり着けるだろうか?」 「一体、何時間かかるのだろうか?」先が見えない道のりに対する不安は、私たちが人生の転換期や、新しい挑戦を前にしたときに感じる震えによく似ています。結果ばかりを急ぎ、まだ見ぬゴールを思って息苦しくなってしまうことは、誰の日常にもあることではないでしょうか。

 


恵みの「区切り」と、歩み続けるための知恵

しかし、今回の道程において、私はフルマラソンのようなスピードを求めるつもりはありません。最初の休憩地点は、長町から約23キロ先にある亘理のローソン。そこから先は、15キロごとに立ち止まり、一呼吸を入れる計画を立てています。

一気に走り切ろうとするのではなく、区切りをつけながら進むこと。 焦らずに、自分の体の声に耳を傾け、調子に合わせて祈りながら走り続けること。

これは単なるランニングの戦略ではなく、私たちが日々の困難や長い試練を乗り越えていくための、一つの生き方のようにも思えます。

 

祈りという呼吸、委ねるという前進

聖書には、このような言葉があります。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40:31)

長い人生の道のりの中では、力強く駆け抜ける時もあれば、立ち止まって深く息を吸い込む時も必要です。亘理のローソンでの最初の一息も、その後の15キロごとの休息も、決して「立ち止まることへの敗北」ではなく、次の一歩を踏み出すための「恵みの時間」なのです。冷たい夜の空気を切り裂き、やがて東の空が白んでいくのを見つめながら、私は一歩一歩、アスファルトを踏みしめていきます。速さや結果ではなく、その道中にある祈りと、体を通して感じる神様の守りに意識を向けること。今日、原町教会までの71キロは、私にとって一つの長い祈りの道となります。あなたも今、先の見えない長い道のりの途中にいるかもしれません。 どうか焦らないでください。途中で休んでもいいのです。あなたの呼吸に合わせて、今日という一日をゆっくりと進んでいきましょう。

さあ、出発の時間が近づいてきました。 静かな祈りとともに、夜明けの道へ踏み出してきます。