デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年9月15日火曜日

コスタ・セレーナ

 

初日、乗船の前に記念写真

『再び出会った船、再び思い出した時間』

名古屋港・金城ふ頭に、今朝、巨大なクルーズ船「コスタ・セレーナ」が入港しました。 重さ約114000トン、全長約290メートル。 その雄大な姿は、まるで海の上に浮かぶ街のようです。 この船は、アジア競技大会に出場する選手たち約4000人の宿泊施設として使われるとのこと。 ニュースを見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなりました。

なぜなら—— この船に、私は家族と共に乗ったことがあるからです。

200812月。 3年間のドイツ留学を終えて日本に帰ることが決まったとき、家族で10日間のクルーズ旅行をしました。 イタリアからバルセロナへ、スペインの島々へ、ポルトガルの島へ、そしてカサブランカへ。 海と空の境界がゆっくり溶けていくような旅でした。

 

イレネはいつも絵を描いていました。

「コスタ・セレーナ」という名前を聞いた瞬間、 船内の香り、デッキに吹く風、家族の笑顔、 夜の海を眺めながら語り合った時間—— すべてが一気に蘇ってきました。

あの旅は、ただの観光ではありませんでした。 家族が一緒に過ごせることの尊さを、 人生の節目に立つときの心の支えを、 静かに教えてくれた時間でした。

そして今日、同じ船が日本の港に姿を現した。 まるで「おかえり」と言ってくれているような、 そんな不思議な感覚に包まれました。

良く夕食の時には途中で寝ていました。
 

家族の思い出は、人生の航路を照らす灯台

人生には、嵐のような日もあります。 向かい風で前に進めない日もあります。 しかし、家族と過ごした温かい記憶は、 どんな時にも私たちを照らす灯台のようなものです。

 

カサブランカ

聖書はこう語ります。

「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もある。」 (マタイ6:21

宝とは、豪華なものや高価なものではありません。 心を満たしてくれる時間、 共に笑い、共に歩いた日々、 その一つひとつが、私たちのなのです。

そしてその宝は、 人生の航路がどれほど揺れても、 決して失われることはありません。

 

従業員がイレネのためにタオルで作ったおサルさんです。

再び出会った船が教えてくれたこと

名古屋港に停泊する「コスタ・セレーナ」を見ながら、 私は静かに思いました。

人生は旅であり、 家族はその旅を共に歩む仲間であり、 思い出はその旅を照らす光なのだと。今日、ニュースを通して再び出会った船は、 過去の思い出を優しく呼び起こし、 今の自分を励ましてくれる存在となりました。

あの時の旅が、 今も私の心の中で静かに航海を続けています。

敬老(?)

 

実が沢山詰まると腰が低くなる(謙虚)のが自然な姿ですが・・・・我々人間は・・・

敬老の精神が失われた背景(なぜ悲しい時代になったのか)

  • 「尊敬されるべき高齢者像」の喪失: かつて、年長者は「生きる知恵」を授けてくれる存在でした。しかし、技術や社会の変化が激しい現代では過去の経験が通用しにくくなっています。それに加え、年齢を盾にして過度な要求をしたり、周囲への配慮を欠いたりする一部の高齢者の姿が社会問題化し、「無条件に敬うべき存在」という自然な図式を壊してしまいました。
  • 「生産性」で人間の価値を測る社会風潮: 現代社会は、経済的な生産性や効率性を極端に重視します。そのため、労働市場から退き、医療や介護を必要とする高齢者を「社会を支える側」ではなく「コストを消費する側」と冷徹に見てしまう風潮が強まっています。
  • 世代間の断絶と経済的重圧: 核家族化により、若者が日常的に「優しく温かいお年寄り」と触れ合う機会が激減しました。同時に、少子高齢化によって若年層が抱える社会保障の負担感が極限に達しており、心理的な余裕が奪われています。

本当の意味での「敬老」を取り戻すための道

真の敬老社会を取り戻すためには、社会制度だけでなく、双方の心と姿勢の変革が必要です。

  • 【高齢者側】「にじみ出る品性」と柔和さの追求: 尊敬は強要して得られるものではありません。年齢を重ねるほどに頑固になるのではなく、自分の弱さを認め、

若者の声に耳を傾け、些細なことにも「ありがとう」と言える柔和さを持つこと。社会に不満をぶつけるのではなく、次世代のために祈り、温かく見守る「美しく老いる姿勢」こそが、自然な敬意を呼び起こします。

  • 【若者・社会側】「存在そのもの」への尊厳の回復: 「役に立つから」ではなく、「これまでの時代を生き抜き、命をつないできた存在そのもの」に価値を見出す視点を取り戻す必要があります。人間の価値は生産性ではなく、その人が刻んできた歴史そのものにあります。
  • 「弱さ」を共有し合うコミュニティの再構築: 強い者だけが生き残る社会ではなく、誰もが必ず老い、弱くなっていくという事実を前提とし、互いの弱さを補い合える小さな共同体(地域や教会など)の存在がこれまで以上に重要になります。

ランニング休息日

 


『帰る場所をつくるということ』

五日間続いたランニングを終え、昨夜はようやくゆっくり休むことができました。 目が覚めると、まず考えるのはノアの散歩のことです。特に雨の日は、弱まる時間帯を見計らって外へ出るので、窓の外の様子を確かめるのが習慣になっています。深い眠りができない理由のひとつは、きっとこの「ノアのリズム」に合わせて生きているからでしょう。でも、それを悪いと思ったことはありません。これもまた、人生の伴走者と共に生きるということなのです。

 

今朝は娘を駅まで送りました。整形外科での実習は明日で終わるとのこと。受け持っていた70代の女性の患者さんも、同じく明日退院されるそうです。娘は「良かった」と言いましたが、同時にこうも言いました—— 「でも、帰る家が天国みたいな場所とは限らないんだよね。」病院より家のほうがつらい。 家より病院のほうが安心できる。 そんな声を聞くこともあるそうです。

 

家は本来、 安らぎの場所であり、 平和の場所であり、 心身を充電できる場所であり、 喜びの場所であるはずです。しかし現実には、反対の場所になってしまう家庭も少なくありません。 けれど、よく考えるとその責任は「家」という建物そのものにあるのではなく、そこに住む一人ひとりの心にあります。犠牲を払うこと。 理解しようとすること。 愛を示すこと。 配慮すること。 忍耐すること。これらを担わず、互いに「相手のせい」にしてしまうと、家は簡単に壊れてしまいます。 家族が幸せになるのも、不幸になるのも、壊れるのも、実はとても単純なことから始まるのです。

自分のことばかり考えず、相手の立場に立ってみること。 少しでも寄り添って考えてみること。 自分の言い分だけでなく、相手の言い分にも耳を傾けること。

その姿勢こそが、家族の幸せを守る鍵なのだと思います。

今日、妻は仙台で仕事。 私は帰りにロピアで買い物をして、最近家族に好評だったロールキャベツを今晩の夕食に作ることにしました。 小さなことですが、こうした積み重ねが「帰る場所」を少しずつ温かくしていくのだと感じています。

 

今日の聖書の言葉

「互いに重荷を担い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになる。」 (ガラテヤの信徒への手紙 62節)

家族とは、互いの重荷を少しずつ担い合う共同体です。 完全な人はいません。 完全な家族もいません。 しかし、重荷を分かち合うとき、そこに神様の愛が流れ始めます。

今日も、与えられた場所で、与えられた人々と共に、 小さな愛を積み重ねながら生きていきたいと思います。

2026年9月14日月曜日

朝ラン25キロ完走

 


壊れる世界で、なお生き続ける力

今朝は、まだ夜の名残が残る4時過ぎに走り始めました。 途中、雨がぱらりと降りましたが、むしろ涼しさを運んでくれる恵みのように感じました。 静かな街を走っていると、あちこちで工事が続いていることに気づきます。補強工事、新築工事、そして地震に備えたパイプの入れ替え——街は絶えず修復され、作り替えられています。

 

「物は必ず壊れる。」 走りながら、その当たり前の事実が胸に落ちてきました。

人も壊れます。 関係も壊れます。 心も、体も、時に壊れます。

この壊れる世界の中で、人はどうしても「壊れないもの」を探してしまいます。 しかし本当に大切なのは、壊れないことではなく、壊れたときにどう修復するか、そのコツを身につけることなのだと、今朝は深く思わされました。

壊れない人生などありません。 壊れない関係もありません。 永遠に続くものがあるとすれば、それはただ一つ——神様の愛だけです。

 


だからこそ、その愛に身を委ねながら、壊れたところを少しずつ直し、また歩き始める。 その繰り返しこそが、私たちの人生なのだと思います。

今朝のランニングは25キロ。 雨に濡れた道を踏みしめながら、今日も神様の愛に支えられて生きることを静かに心に刻んだ時間でした。

 

2026年9月12日土曜日

心と体のバランスを

 

焼き芋一口サイズを手にもっています。ノアは唾を流しながらじっと見ている。

呼吸と足音の重なる場所 ―― 走り始めて2年、「心と体」を整える日々

今日、ふと自らの歩みを振り返ったとき、一つの区切りに気づかされました。本格的にランニングを始めてから、2年の月日が流れます。

日々の道を駆け抜ける中で、体を通して学んだ確かな事実があります。それは、長く、そして速く走り続けるためには、「心肺機能」という内なるエンジンと、「足の支え」という物理的な土台、その両方が問題なく機能していなければならないということです。 息が続かなければ足は止まり、足が痛めば息を上げることもできません。これらを健やかに保つためには、日頃からそれぞれの役割に合った地道な練習とケアを積み重ねるほかないのです。この「呼吸と足音のバランス」は、私たちが日常を元気に、そして豊かに生き抜くための秘訣そのものだと深く感じます。

  • キリスト者としての「両輪」

信仰を持つ者にとって、日々の「み言葉の黙想と祈り」は、魂に酸素を送り込む霊的な心肺機能です。しかし同時に、神様から与えられた器である「体の健康」を保つ足回りも欠かせません。このどちらかが欠けてしまうと、途端にバランスを崩し、人生の道を前へ進めなくなってしまいます。

  • すべての人に共通する「心と体のケア」

これは信仰の有無にかかわらず、普遍的な真理です。私たちは時として、目に見える身体の健康(食事や運動)ばかりに気を取られ、目に見えない心の健康を後回しにしてしまうことがあります。あるいは、心ばかりをすり減らして、体を休めることを忘れてしまいます。

 

心と体は、決して切り離すことのできない人生の両輪です。 だからこそ、私たちはもっと自分の「内側」と「外側」の両方に、意識的なケアの手を差し伸べる必要があります。疲れた日には、体の筋肉をほぐすのと同じように、静かな時間を持って心の緊張もほぐしてあげること。見えない心を慈しみ、見える体を労わる。 その日々の小さな練習の積み重ねが、私たちの人生という長距離走を、より力強く、穏やかなものにしてくれるはずです。

 

これ、くれるのか、くれないのか?はっきりしてよ!との表情です。


その意味でも日曜日の礼拝のひととき――その約1時間は、やはり特別な意味を持つ時間だと思います。忙しない日常からそっと離れ、神様のまなざしの中でこれまでの歩みを振り返り、これからの人生を思い、祈り、御前に身を置く。その静かな営みこそ、次の一週間を力強く歩み出すための大きな支えとなることでしょう。

我が家の今晩のメニューはニラレバ炒めです。

朝ラン25キロ完走

 


秋の風が運ぶ恵みと、「感謝」という名の美しい習慣


夜明けの光と、足元の秋

今朝も暗いうちから走り始めました。三日連続の朝のランニングでしたが、身体はまだ確かに前へと進む力を保っています。 少しずつ空が明るみ始めると、私と同じように息を弾ませて走る多くの人々の姿が目に飛び込んできました。まさに、ランニングの秋。この澄んだ冷たい空気の中にいると、四季の輪郭がはっきりと刻まれる国に暮らすことのありがたさを、肌の表面から深く感じます。

もしもこの世界が、一年中焦げるような夏であったり、凍えるような冬だけであったりしたらどうでしょうか。春の柔らかな芽吹きや、秋の豊かな実りの恵みを想像することすらできないかもしれません。だからこそ、ただこの季節の移ろいを感じられるだけで、深い感謝が湧き上がってくるのです。

 


幸せは、待つのではなく「創り出す」もの

私たちは時折、「最近、いいことなど何一つない」と立ち止まり、ため息をつくことがあります。しかし、幸せとは向こうからやって来るのをじっと待つものではありません。まず、いまここにある自然の恵みに感謝し、自らの手と心で「良いこと」を造り上げていくものなのです。昔から言われるように、幸せは決して手の届かない遠くにあるのではなく、いつも私たちのすぐ身近に息づいています。ただ、私たちが視線を落としたり、別のものに気を取られたりして、それに気づかずに生きているだけなのです。

世の中の出来事に目を向け、不平や不満を探そうとすれば、文句の種はいくらでも見つかるでしょう。しかし、心のレンズを少しだけ回し、視点を変えて今の世界を見渡せば、実は「感謝するしかない」ほどの恵みに囲まれていることに気づかされます。

 


短い人生と、選ぶべき習慣

人生は案外、短いものです。文句を言って貴重な時間をすり減らす暇など、私たちにはありません。 不平不満のレンズで世界を見続ければ、やがてその口癖が人生そのものとなり、最期の瞬間まで不平をこぼしたまま世を去ることになってしまいます。

いかに楽しく、幸せに、感謝して生きるか。 その鍵は、何か特別な幸運を手に入れることではなく、「良い習慣を身に付けること」に尽きます。どんな状況であれ、文句ばかり言う人よりも、いつも感謝を見出そうとする人と共に生きたいと、誰もが願うはずです。

「いつも喜びなさい、絶えず祈りなさい、どんなときにも感謝しなさい。」

この聖書の言葉は、ただの精神論ではなく、私たちが本当に豊かに生きるための「習慣への招き」です。



今朝の25キロの完走をもって、今週はトータル160キロを走り抜きました。この一歩一歩の積み重ねと同じように、来週もひたむきに走り続け、祈り続け、そして愛し続けたいと思います。 明日の礼拝後には、長老の皆さんに大切なことを伝える予定です。事前の予告は一切していませんが、どのような報告であれ、感謝と祈りを土台にして、新しい一歩を踏み出します。

今日も、共に前進です。

2026年9月10日木曜日

今日の日課も無事に終了

 


期待を手放す朝の余白 ―― 汗と尻尾が教えてくれた「平和を創り出す」生き方

 

早朝の散歩を終えての2時でした。

午前6時前、二階の階段での小さな出会い

今朝、ランニングを終えて家に着いたのは、時計の針が6時を少し回る前のことでした。 走り抜いた身体は汗びっしょりで、重たい衣服を早く脱ぎ捨てて、冷たいシャワーを浴びたいという思いが全身を駆け巡っていました。

しかし、二階の階段を上がると、そこには真っ先に私を出迎えるノアの姿がありました。 ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、彼の表情は雄弁にこう語っていました。 「誰も出てこないよ!朝ごはんの時間なのに、あの、おばさんはまったくだ!」

その愛らしくも切実な訴えに、私は思わず微笑んでしまいました。 汗だくの身体のまま、まずはノアの前にしゃがみ込み、食前の祈りを捧げてから朝ごはんを与えました。私の中では「自分がそうする」ともうすでに決めていたことなので、そこに心の葛藤や苛立ちは微塵もありません。ただ、温かな朝の日常がそこにあるだけでした。

 


「期待」という名の重荷を下ろす

この朝のささいな出来事は、私たちが生きていく上で陥りやすい「心の罠」について、大切なことを教えてくれます。私たちは、家族の中で、あるいは社会の中で、時に深く疲れて帰宅することがあります。そんな時、無意識のうちに「これくらいはやっておいてほしい」「家にいるのだから、気を利かせてくれるだろう」と、他者に対して密かな期待を抱いてしまうものです。 しかし、現実は往々にして予想通りにはいきません。

  • 期待が裏切られたと感じた時、人は不機嫌になります。
  • いやな気分を抱えながら家事をすることで、ため息や足音に怒りが滲みます。
  • それが引き金となり、家族の間に不和やトラブルの火種が生まれます。

中には、その不満が膨らみ続け、相手の家系にまでさかのぼって悪く考えてしまうほど、心を縛られてしまうケースすらあります。期待とは、時に私たちの心を蝕む毒にもなり得るのです。

 


平和は与えられるものではなく、創り出すもの

だからこそ、私はこう心に決めています。 「はじめから、まったく期待しない」と。

やっていなかったら、自分がやる。 やっていてくれたのなら、心からありがたく思う。 ただそれだけです。物事を複雑にこじらせる必要はどこにもありません。

聖書には「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉があります。 家族の平和、そして自分自身の心の平和を保つことは何よりも大切です。しかしその「平和」は、相手が自分の思い通りに動いてくれることで与えられるものではありません。自ら期待を手放し、自ら愛をもって行動することによって、「自分で創り出すもの」なのです。

 


奇跡の今日を、精一杯に生きる

今日も無事に、一日が終わろうとしています。 こうして命が与えられ、家族がいて、一日を終えられること自体が、途方もない奇跡であり、ただただ感謝しかありません。

明日もまた、私は頑張って走ります。 命がある限り、その命を燃やして精一杯に生きていく。どうせ生きるのならば、不満を抱えて生きるのではなく、自らの手で平和と喜びを創り出し、楽しく生きる努力をしたいのです。 誰かの行動に自分の幸不幸を任せるのではなく、自分の足で立ち、自分の手で愛を選ぶ。それが「真に生きる」ということなのだと、確信しています。

今日も、共に前進です。

朝ラン33キロ完走

 


縛られない魂の軽やかさ ―― 17度の風と、坂道の向こうにある「真の自由」

 


静寂を切り裂く33キロの道のり

ノアとの散歩を終えた午前255分。まだ深い夜の底にいるような時間帯に、靴紐を結び、走り出しました。気温は17度。肌を撫でる風はひんやりと心地よく、ランナーの身体にとってこれ以上ない「最高の温度」です。

聖和学院三神峯キャンパスの厳しい坂道に息を弾ませ、さらに八木山動物公園へと続く長い上り坂を力強く踏みしめました。そこから久々に仙台城跡へと向かい、青葉山公園、花壇、東北学院、愛宕大橋と夜明け前の静かな街を駆け抜け、最後は広瀬橋を渡って帰着。33キロの完走です。

 


目標と、手放すことの美しさ

少しずつ足の回転も上がり、これからの1年間、本気で「サブ3(フルマラソン3時間切り)」を目指して走り抜こうという静かな闘志が湧き上がっています。 しかし、深く息を吐きながら、ふと心の中でひとつの真理を確認するのです。

「これは、私の人生のすべてではない」

サブ3の達成は素晴らしい目標ですが、人生という壮大なタペストリーの中では、ほんのひとコマの小さな出来事に過ぎません。仮にその目標が達成できなかったとしても、私の人生の価値が揺らぐわけではなく、何の問題もないのです。

 


「一番大切なもの」が教えてくれる自由

私にとって走ることは、祈りと心身を研ぎ澄ます大切な時間です。しかしそれは決して、以下のものより優先されることはありません。

  • 主を畏れ、心から礼拝を捧げること
  • 愛する家族との温かい時間
  • 教会の群れのために祈り、仕えること

この「魂の優先順位」が明確に定まっている時、人は驚くほど自由になれます。「どうしてもこうでなければならない」「達成しなければ価値がない」という見えないこだわりに縛られず、ただ、主が与えてくださった今日の命に感謝して、笑顔で生きることができるのです。一番大切なものが、一番大切な場所(神様の御手の中)にあると知っているからこそ、私たちは趣味や目標という日常の営みを、重荷ではなく「喜び」として楽しむことができます。

 


今日という日を、丁寧に紡ぐ

執着を手放した心は、秋の風のように驚くほど軽やかです。

今日はこの澄み切った自由な心で、楽しく仕事に向かいます。家族の喜ぶ顔を思い浮かべながらキッチンに立ち美味しい料理を作り、そして、愛するノアのために静かに祈りながら、与えられた今日という一日を丁寧に、味わい深く過ごすことでしょう。

あなたの肩に乗っている「こだわり」という重荷をそっと下ろし、主の恵みの中で、大きく深呼吸をしてみませんか。



今日も、共に前進です。

 

2026年9月8日火曜日

朝ラン25キロ完走

 


頭を垂れる稲穂と、愛の重さという名の「実り」

午前4時過ぎ、まだ薄暗い道を走り出しました。肌に触れる風にも、吸い込む空気にも確かな秋の気配が溶け込んでいる、気持ちの良い25キロの朝ランでした。

 


田畑の広がる道を抜けていくと、豊かな実をつけた稲が、その重みで少しずつ倒れ、頭を垂れ始めていました。いよいよ収穫の時が訪れます。 その黄金色の風景を見つめながら、私の内側に一つの静かな問いが生まれました。 「今年の秋、私自身には収穫するような『心の実り』があるだろうか?」

  • 兄弟姉妹のために、十分に祈っただろうか。
  • 病床にある姉妹や、孤独の中にいる兄弟姉妹に手紙を書き送ったが、本当に足りていただろうか。
  • 家族のために奉仕をしてきたが、もっと愛せたのではないか。

歩みを振り返れば振り返るほど、善いことを十分になし得ていない自分の「足りなさ」ばかりが浮き彫りになっていきます。

 


昨夜は23時半に娘のアルバイト先まで車を走らせて迎えに行き、共に帰宅しました。そこから3時間ほどの短い睡眠を挟んで、今朝のランニングへ。そして走り終えたいま、娘を駅まで送り届け、このあと10時からは妻を仙台まで送る予定が控えています。 「家族だから」という大切な務めです。しかし、正直な本音をこぼせば、さすがに疲労を感じ、「少し休みたい」とため息をつきたくなる瞬間もあります。

 


しかし、この痛みと疲労の只中に立つとき、私の心は不思議と世界へ向かって開かれます。現実の社会には、同じように疲れ果て、それでも愛する誰かのために休むことなく身を粉にして働いている人々が無数にいるのです。自分の体が疲れているからこそ、彼らの痛むような思いが、痛いほどによく分かります。

 


「十分ではない」「もっとできたはずだ」という葛藤は、決して実りが少ないから生まれるのではありません。それは、稲穂が豊かな実をつければつけるほど深く頭を垂れるように、誰かを真剣に愛し、重荷を背負おうとするからこそ生まれる「謙遜という実り」なのです。

 


休みたいと願う体を引きずりながらも、命がある限り、私たちは精一杯に今日を生き抜きます。心置きなく、ゆっくりと羽を休める安息の日は、主が待つ天国のために大切に取っておけばよいのですから。重い稲穂のように、祈りと愛の重みで頭を垂れながら。

今日も、共に前進です。

2026年9月6日日曜日

朝ラン45キロ完走

 


嵐の前の静寂と、名もなき「一人大会」を走り抜く祈り

午前2時に起床し、静けさの中で早朝のルーティンを終え、午前3時にランニングをスタートしました。すっかり涼しくなった夜気を肺の奥まで吸い込みながら、昨日と同じコースをたどりつつ、今日はさらに距離を延ばして走り出しました。季節の移ろいを感じる心地よい風が背中を押し、澄んだ空気の中で非常に気持ちよく足を進めることができました。

 


すれ違うランナーと、孤独な道の交差点

走り出して約20キロ地点、愛宕大橋に差し掛かった時のことです。何かの大会に出場している3人のランナーたちが駆け抜けていく姿を目にしました。それぞれの胸には、誇りを示すようにナンバープレートがつけられています。さらに、帰路についた午前7時頃にも、懸命に前を見据えて走る一人のランナーとすれ違いました。

常にたった一人で「一人大会」を走り続けている私にとって、そうした公式の大会は縁のない世界です。しかし、彼らのひたむきな姿を見たとき、私の内側には不思議なくらい澄み切った喜びが湧き上がり、心から彼らの背中を応援している自分がいました。

 


それぞれのゼッケンと、与えられた使命

私たちは皆、人生というそれぞれに異なるコースを走るランナーです。

  • 目に見えるゼッケンをつけて、誰かと共に走る華やかな道
  • 誰の目にも留まらない、孤独で静かな「一人大会」を黙々と進む道

どちらの道が優れているということはありません。本質的なのは、自分に与えられたコースの孤独を引き受けながらも、すれ違う他者の健闘を心から祝福できる、その魂の柔らかさにあるのではないでしょうか。

今日は、主の日の礼拝(振起日礼拝)を心に深く刻み、祈りを込めながら最終的に45キロを走り抜きました。限界に挑むようなこの距離もまた、私に与えられた使命と向き合うための静かな礼拝の一部です。

 


明日の嵐を委ね、今日を生き切る

天気予報によれば、明日はこれまで経験したことのないような激しい雨が降ると告げられています。未曾有の嵐が近づくとき、人はどうしても明日のことばかりを思い煩い、心をすり減らしてしまいます。

しかし、聖書が教えるように、私たちが本当に引き受けるべき重荷は「今日」という一日分だけです。明日の激しい雨は、すべてを治められる主の御手にすっかりと委ねてしまえばよいのです。未だ見ぬ明日の嵐を恐れるのではなく、今日私に託された使命をしっかりと果たし、誠実に歩みを重ねていくこと。それこそが、どんな天候の中でも変わらない私たちの確かな道しるべです。

今日も、共に前進です。

2026年9月5日土曜日

秋の気配と32キロの道標、そして「選ぶ」という静かなる力

 


肌に触れる秋の風と、見慣れた景色

今朝は3時半ごろにランニングをスタートしました。暗闇の中を駆け抜ける風には、すでに秋のような涼やかな気配が溶け込んでいます。今日の32キロの道のりは、とても気持ちの良い朝ランとなりました。

 


最近のコースは、長町周辺を5キロ走り、大野田から泉崎辺りを経由して向山へ向かう約18キロの道のりです。そこからさらに花壇、青葉山公園、仙台二高周辺へと足を延ばして25キロ。そして再び引き返し、教会へと帰り着く頃にはちょうど32キロになります。 同じコースを繰り返すことは、変化に乏しく面白みが薄れる側面もあります。しかしその反面、どこに坂があり、どこで風が抜けるかを知り尽くした「慣れた道」は、心に確かな安心感を与え、深い思索の空間を作ってくれます。

 


環境をどう受け止めるかという鍵

季節の変わり目を迎え、コース上には以前よりも多くのランナーの姿が目につくようになりました。いずれ厳しい真冬になれば、寒さの中で再び孤独な一人きりのランニングに戻るでしょう。しかし、私はそれもまた良い時間だと考えています。

  • 賑やかな季節も、孤独な真冬の道も、それぞれの良さとして受け入れる。
  • 仮にそれが最悪の状況に思えても、見方を変えれば最高の状況へと転換できる。

それぞれの環境や状況を、自分に合わせてプラスに変えていく。そのための「鍵」は、決して外の世界にあるのではなく、いつだって自分自身の内側に握られているのです。

 


言葉を選び、今日を生きる

私たちは絶えず、選択の只中を生きています。どの道を走るべきか、何を買うべきか、そして「どういう言葉を発するべきか」。 その一つの選択によって、その日一日の自分の人生が決まってしまうことさえあります。だからこそ、その時の感情の波に身を任せるのではなく、立ち止まり、よく考えて選ばなければなりません。

 


聖書は、私たちの口から出る言葉が持つ大きな力を教えています。特に、相手に伝える言葉は、決して一時的な感情に流されず、しっかりと選び抜いて手渡す誠実さが求められます。絶えずよく考えて生きること。それこそが、状況に振り回されず、心に平和を保つための確かな歩み方です。走り慣れた道に安心を見出し、今日紡ぎ出す言葉に祈りを込めて。

今日も、共に前進です。