デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月28日金曜日

支配の悲鳴と真の権威

 


私たちが「力」を振りかざす本当の理由

毎朝の深い静寂の中、愛犬ノアとの散歩を終えてからランニングに出ると、街はまだ穏やかな眠りの中にあります。しかし、走り終えて日常に戻りニュースを目にすれば、連日のように「パワハラ」の文字が飛び込んできます。時代が変わり、ようやく光が当てられるようになりましたが、これは決して現代特有の新しい病ではありません。人間が古くから抱え続けてきた、根深い魂の葛藤の歴史そのものです。

 

なぜ、人は他者を威圧し、支配しようとするのでしょうか。

進化生物学の視点から見れば、群れの中で他者より優位に立つことは、かつて生存競争を勝ち抜き、資源を確保するための「防衛本能」でした。しかし、命の危険がない現代において、その本能は非常に歪んだ形で表出します。

心理学的に深く掘り下げるなら、パワハラの根底にあるのは「強さ」ではなく、むしろ強烈な「恐れ」と「弱さ」です。自分の地位が脅かされるのではないか。自分の無能さが露呈するのではないか。その隠された不安と自己肯定感の低さが、他者を攻撃し、服従させることで無理やりに自らの価値を確認しようとする悲しい自己主張へと変わるのです。

真に自信に満ち、心が満たされている人は、決して他者を踏みつけにはしません。威圧的な怒鳴り声や冷酷な態度は、その人の内面から発せられる「自信の欠如の悲鳴」なのです。さらに社会学的な構造を見れば、現代は「成果」や「効率」が最優先される時代です。そのようなシステムの中では、人間がいつの間にか「尊い目的そのもの」ではなく、業績を上げるための「手段」や「部品」として扱われてしまいます。他者をコントロール可能な所有物だと錯覚した時、権力の暴走は正当化されてしまいます。

 

しかし、最も深い霊的な次元において、これは私たちが「他者の中にある神の似姿」を見失っている状態だと言えます。自分が小さな「神」となり、自分の思い通りに動く小さな王国を支配しようとする高慢さです。真の権威とは、武力や圧力で他者をひざまずかせることではありません。自らがひざまずいて他者の足を洗うような、身を低くして仕える愛の中にこそ、人が心から従いたくなる本当の力が宿るのです。

他者を支配しようとする古い自分、そして内なる恐れを手放すこと。自分の弱さを素直に認め、創造主の前に静かに身を委ねる時、私たちは他者を力でねじ伏せるのではなく、愛と敬意をもって共に歩むことができるようになります。

今日も、共に前進です。

値札を超える命の価値

 


創造主の御手の中で完成する100パーセントの私

家族の食卓を整えるため、日々のスーパーで食材を吟味し、台所に立ちます。毎日のように買い物をしていると、それぞれの店の特徴や、商品の価格変動が手に取るように見えてきます。同じ商品でも、日によって、あるいは店によって値段は異なります。

パックに貼られた金額のシール。それは一見、その商品の「価値」を決定づけているように見えます。しかし、本当の価値は素材そのものや値札ではなく、「誰の手によって調理されるか」で決まるのではないでしょうか。どんなに高価な見栄えの良い食材であっても、調理する者の腕が伴わなければ、本来の豊かな風味は失われ、その価値を落としてしまいます。

 


原石を磨き続けるということ

社会に目を向けると、「上級国民」と呼ばれるような地位にある政治家たちがいます。しかし、どれほど高い肩書きという「高価な値札」を持っていたとしても、その価値を最大限に発揮するためには、絶えず自分を磨き続ける地道な努力が不可欠です。

  • 採掘されたばかりの原石は、それを用いる熟練の職人がいて初めて美しい芸術作品となります。
  • 磨くことを怠れば、ただの石ころに過ぎません。

人は、自らのたゆまぬ努力によって、その人生の80パーセントを素晴らしい芸術作品のように、あるいは高い境地へと引き上げることができるでしょう。

 


委ねることで満たされる「残りの20パーセント」

しかし、どれだけ血のにじむような努力を重ねても、人間の力だけではどうしても到達できない領域があります。それは、生まれ持った性質や、長い年月をかけて深く刻み込まれた内面の世界です。残りの20パーセントは、自分の力で変えようともがくほどに、深い葛藤を生み出します。この満たされない20パーセントを真の完成へと導く唯一の道があります。それは、創造主である神様の御手に、自分のすべてを委ねることです。

「主よ、あなたは我らの父。我々は粘土、あなたは陶工。我々は皆、あなたの御手の業。」(イザヤ書 648節)

自分の限界を認め、偉大な陶工である主の御手の中で「もう一度生まれ変わる」こと。自分の努力で築き上げた80パーセントに、神様の完全な恵みが注ぎ込まれる時、私たちの人生は初めて100パーセント完成されたものとなります。不完全さや生まれつきの弱ささえも、主の調理の手にかかれば、唯一無二の豊かな味わいへと変わるのです。聖書は、その真実を私たちに力強く証明しています。

今日も、共に前進です。

満月の光と恵みの雨

 


人生の坂道を上り続けるための祈り

午前115分。深い静寂の中で目を覚まし、祈りを捧げ、部屋の掃除を整え、ノアとの散歩へ出ました。ふと空を見上げると、夜の闇を圧倒するほどに明るい、美しい満月が浮かんでいました。



その光に導かれるように、午前2時半ごろからランニングをスタートしました。 涼しい夜気の中、入院されている姉妹が過ごす病院の前を通りかかります。その病室に主の確かな癒しと平安が注がれるようにと、走りながら静かに祈りを深めました。すると、空から久々の雨が降り始めました。この時期の「シャワーラン」は、火照った体を優しく冷まし、まるで天から降り注ぐ慰めのように心地よく肌を打ってくれます。

 


きつい上り坂と、満ち足りる恵み

今日のコースには、一番きついと感じる急な坂道が待ち受けていました。しかし、今日は決して足を止めることなく、ただひたすらに上り続けました。 息が切れ、足が鉛のように重くなるその苦しさは、私たちが時折直面する「人生の坂道」そのものです。

  • 立ち止まりたくなる己の弱さ
  • 見えない頂上への果てしない不安
  • それでも前を向いて踏み出す、静かな決意

途中の自動販売機で冷たい水を飲み喉を潤した時、ふと「今日もフルマラソンを走ろうか」という思いが頭をよぎりました。しかし、今月はすでに2回のフルマラソンを走り終えています。私は今日、この38キロという距離で「十分に満ち足りている」と、自分自身を静かに受け入れることにしました。

 


歩みを止めない、生きるということ

聖書は、自分の現在地を受け入れ、主を仰ぎ見る者にこう語りかけます。 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40:31

自分の力や野心だけで坂を上り切ろうとすれば、人は必ずどこかで限界を迎えます。しかし、祈りながら走り、時に降る恵みの雨を受け取り、「今日与えられた分で十分である」と足るを知る時。神様は、明日も再び走り出すための「新たな力」を私たちの内側にそっと注いでくださるのです。

 


今月の目標である500キロまで、残すところあと41キロとなりました。明日も、明後日も、私は靴紐を結び、自分の道を走り続けます。 なぜなら、走り続けることは、祈り続けること。そして、希望を抱いて「生きること」そのものだからです。娘の学校も始まり、昨日から送り迎えの日々を送っています。もちろん美味しい料理も・・・・命がある限り与えられた使命のために精一杯に生きる。ただそれだけです。

今日も、共に前進です。

2026年8月25日火曜日

過去を脱ぎ捨てる32キロの道

 


静寂の朝に受け取る「新しい今日」

午前3時半。まだ世の中が深い眠りの底にある時間、私は静かに走り出しました。 早朝のランニングには、日中の騒々しさがなく、自分の内側と向き合い、深く思索にふけることができるという大きな利点があります。滝のように絶え間なく流れる汗を拭い、25キロ地点で自動販売機の冷たい水を喉に流し込みました。そこからさらに7キロの道程を踏みしめ、今朝は合計32キロのランニングとなりました。今朝は「日の出」まで走ってきました。

 


手放すことで開かれる「今」

その静寂に包まれた32キロの道のりで、私の心に深く迫ってきた思いがあります。それは、「過去」というものの取り扱い方についてです。

私たちは時として、過ぎ去った人生の過去に強く縛られ、昔の自分を手放せずに引きずりながら生きてしまうことがあります。 心に刻まれた深い傷や、取り返しのつかない失敗。あるいは反対に、かつて手にした輝かしい成功や栄光。

  • 過去は、すでに私たちの手が届かない領域です。
  • どんなに願っても、変えることも取り戻すこともできません。

私たちが自らの意志で介入し、変えることができるのは「今」と「未来」だけなのです。傷も、失敗も、そして過去の栄光さえも、すべて思い切って手放すこと。両手を握りしめるのをやめた時、私たちは初めて、神様から与えられた「新しい今日の人生」をしっかりと生きることができるようになります。

 


後ろのものを忘れ、前へ

聖書に、過去の重荷を脱ぎ捨てて「今」を生きるための、力強い真理の言葉があります。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙 3:13-14

神様は、私たちが過去の記憶という古い服を着たまま生きることを望んではおられません。今日という日は、まっさらな新しい命の舞台です。昨日までの自分を潔く十字架の前に置き、今日という光の中を、身軽になって走り出すよう招いておられるのです。

 


荒波の中を、自分のペースで歩む

走り終えた後は、明日の「婦人修養会」に向けた最終確認を行い、心身の休息の時を持ちたいと思います。とはいえ、日常の中で為すべきことが無くなるわけではありません。階段の掃除をし、会堂の除湿機タンクの水を捨てる作業、外の植木鉢のお花の水やりなど、午前中は妻をエマオまで車で送り届け、その帰りにロピアで買い物を済ませれば、今日の主な仕事は終了となります。

 


今日は、命の危険すら感じるほどの極暑日となります。昨日、車の中で娘に「明日は大人しく家で過ごした方がいいよ」と伝えると、本人も「今日は一歩も外には出ない」と頷いていました。さすがに愛犬のノアも、今日は涼しい家の中だけで静かに過ごします。

 


世界がどんなに激しい荒波を立てようとも、外の環境がどれほど厳しく不確かな状況にあろうとも。 私たちは今日、過去に心を奪われることなく、自分に与えられた目の前の道をただ淡々と歩み続けるのです。「生きること」。そのシンプルな営みの中にこそ、神様の深い恵みが宿っています。今日も、共に前進です。

2026年8月24日月曜日

照りつける太陽と残り140キロの道

 


ただ「し続ける」という美しい使命

今朝の空気は、決して涼しいとは呼べないものの、息苦しさを感じるほどではない、夏の朝の気配をまとっていました。

まだ日差しが影を潜めている時間帯。その静けさの中を駆け抜け、今日は30キロの道のりを無事に完走することができました。しかし、ひとたび太陽が顔を出せば、空気は一変し、じりじりと肌を焦がすような厳しい暑さが容赦なく照りつけます。

真夏はやはり早朝のランニングが適していると身をもって感じますが、ふと街に目をやると、太陽が真上にある真昼の炎天下を走るランナーの姿を見かけることもあります。人はそれぞれ、自分の選んだ時間と向き合いながら、自分だけの道を走っているのでしょう。

 


「残り140キロ」という壁の前で

私が今月も自分に課している「8月も500キロを走る」という目標。 正直なところ、この厳しい暑さと疲労の中で、それは決して容易な道のりではありません。今日の30キロを終え、目標の500キロまであと残り140キロとなりました。

あと140キロ。見上げるような高い壁のようにも思えます。足の重さや息苦しさを前に、「もう十分ではないか」と立ち止まりたくなる瞬間が全くないと言えば嘘になります。それでも、私は最後まであきらめずに走り続けたいと願っています。なぜなら、走ることの中には、私の人生のすべてが凝縮されているように感じるからです。

  • 走り続けること
  • 祈り続けること
  • 愛し続けること
  • 語り続けること

そして、命が許される限り、生き続けること。

 


途切れない行為こそが「信仰」である

私たちはしばしば、劇的な結果や、一瞬の華やかな成功に目を奪われがちです。しかし、人間の本当の美しさと強さは、「し続ける」という地道で静かな連続の中にしか宿りません。聖書には、人生という道のりを走る私たちへ向けた、このような力強い励ましの言葉があります。

「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。」(ヘブライ人への手紙 12:1

 


忍耐強く走り抜くこと。それは、特別な才能や魔法のような奇跡を必要とするものではありません。 今日の一歩を踏み出すこと。途切れそうになっても、再び祈りの手を合わせること。不器用でも、大切な人に愛を注ぎ続けること。その「し続ける」という静かな決意そのものが、神様の目に映る最も尊い信仰の姿なのです。

 


日常の中にある、愛の延長線上

先ほど、ノアとの散歩を無事に終えることができました。彼と一緒に歩くこの穏やかな時間もまた、私に与えられた恵みであり、心からの感謝が溢れます。

そして今から、車のエンジンをかけ、仙台へ(ここも仙台市ですが・・・仙台中心街を言う場合、我が家では、他の家でもそうかもしれませんが、仙台と表現します。)と向かいます。アルバイトを終え、賄いの時間を過ごしている娘を迎えに行くためです。 30キロのランニングも、犬の散歩も、夜の街へ車を走らせて娘を迎えに行くことも。すべては「生き続けること」「愛し続けること」という、ひとつの真っ直ぐな道の上で繋がっています。

もし今日、あなたが目の前にある課題の大きさにため息をつき、立ち止まりそうになっているなら。どうか、結果を急がず、ただ「今日できること」を誠実に「し続けて」みてください。あなたのその静かな継続は、確実に誰かの心を温め、あなた自身の魂を豊かな場所へと運んでくれます。

今日も、共に前進です。

連なる山を急がずに

 


近道を捨てて味わう「海千山千」の恵み

早朝の空気を胸いっぱいに吸い込み、長く続く道を走り出します。規則正しく地面を叩く足音と、次第に荒くなる呼吸。ふと顔を上げると、目の前には越えるべき坂道や起伏が、まだはるか遠くまで続いています。その道のりを見つめながら、私は私たちの「生きる営み」について深く思いを巡らせていました。

 

人生という名の迷路と、連なる山々

人生は、まるで先の見えない迷路のようです。次から次へと予期せぬ課題が押し寄せ、

それは行く手を阻む「山々」となって私たちの前にそびえ立ちます。

なんとか歯を食いしばり、一つの山を越えて安堵したのも束の間。息をつく暇もなく、

視界の先にはまた次の山が立ちはだかっています。どれほど強く願っても、人生が抱えるすべての課題を、一気に解決することなど到底できません。

しかし、立ち止まって心の奥底に問いかけてみると、不思議なことに気づきます。 もし、すべての課題が魔法のように一瞬で消え去り、何の苦労も痛みもなく、一気に頂上へと運ばれてしまうような人生があったとしたら。私はおそらく、そのような味気ない人生を「生きたい」とは思わないでしょう。

 

近道を探す心と、生きる手応え

それにもかかわらず、私たちはしばしば、目の前にある人生の山々を一気に上ろうと焦ってしまいます。少しでも早い道を、少しでも楽な道を探し求め、ショートカットをしようと足掻きます。しかし、この世に命を与えられ、生まれ落ちたということは、酸いも甘いも噛み分け、「海千山千」の波乱を乗り越えて生き抜かなければならないということです。なぜなら、その泥臭くも切実な過程のすべてが、「生きる」ということそのものだからです。人生の山は、決して急がず、ひとつひとつゆっくりと上ることが何よりも大事なのです。

 

歩むほどに増していく力

聖書は、私たちが困難な道を一飛びに越えられるとは約束していません。しかし、険しい道を一歩ずつ踏みしめる者には、確かな力が与えられると語っています。

「いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出だし、心に広い道を見ている人は。彼らは嘆きの谷を通るときも、そこを泉とします。……彼らは歩むほどに力を増し、シオンで神にまみえます。」(詩編 84:6-8

険しい山道や、涙を流すような嘆きの谷を避けて通ることはできません。しかし、近道を探すのをやめ、目の前のひとつの山に静かに向き合い、ゆっくりと足を前に出すとき。私たちが流す汗や、悩んだ時間、その一歩一歩のすべてが、私たち自身の魂を豊かに耕す「泉」へと変わっていくのです。

  • 一気に解決できないからこそ、今日を生きる意味がある。
  • 楽な道ではないからこそ、手にする喜びに重みがある。

焦る必要はありません。目の前にそびえるその山は、あなたを打ち負かすためではなく、あなたの命をより深く、美しく輝かせるために用意された道のりなのですから。深く息を吐き、また一歩、ゆっくりと足を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年8月21日金曜日

朝ラン22キロ完走

 


闇を裂くヘッドライトと魂の汗:22.35キロの道程で願う「内なる浄化」

昨晩は、夜空に響き渡る花火の音を遠くに聞きながら、夜9時ごろにようやく静かな眠りにつくことができました。

そして再び目を覚ましたのは、午前146分。私にとっての確かな起床時間です。すっかり静寂を取り戻した夜更けの中で、ランニング前のルーティンワークを静かに終え、午前3時ごろ、まだ深い暗闇の底へと走り出しました。

 


祈りの足音と、新しい景色

今朝は、空気が重くまとわりつくような、非常に湿気の多い朝でした。暗い足元と前方の道を確かにするため、ヘッドライトをつけてのスタートです。

道中、現在過酷なリハビリに懸命に励んでおられる教会員の方が入院している、病院の前を走り抜けました。暗闇の中にひっそりと立つその建物を横目に、その痛みが和らぎ、一日も早く回復されますようにと深く祈りながら足を進めました。祈りながら走る時、その足音は孤独なものではなく、見えない絆を確かめる確かな響きへと変わります。

今日は少しルートを変え、初めて富沢のコーラスホテル前を走ってみました。そこから名取川のゆったりとした流れ沿いを駆け抜け、最後は広瀬橋を渡って帰路につくという道のりです。今日も歩みを止めることなく、22.35キロのハーフマラソンを完走することができました。

 


流れる汗と、洗い流せないもの

まとわりつく湿気と格闘しながら走り抜いた体は、おそらく今朝だけで3キロほどの大量の汗を流したことでしょう。ウェアから滴り落ちる重たい汗を拭いながら、私の胸の奥に、ふと一つの痛切な思いが湧き上がってきました。

走るたびに、これほど大量の汗を流すことができるのなら。 「その汗と一緒に、自分の心の中にある欲や妬み、憎しみといった悪い不純物もすべて、外へと流れ出てしまえばいいのに」と。

 


私たちは、懸命に体を動かせば、物理的な水分や老廃物を汗として体の外に押し出すことができます。しかし、私たちの心の内側に静かに降り積もる「不純物」は、どれほど長い距離を走り、どれほど激しい汗を流そうとも、自分の努力や意志の力だけで完全に洗い流すことはできないのです。

 


光に照らされる「心の貧しさ」

自分の内側に巣食う「欲、妬み、憎しみ」に気づき、それを自分の力ではどうすることもできないと嘆く心。しかし、実はその「嘆き」こそが、神様の前に差し出すべき最も誠実な祈りなのだと、聖書は教えてくれます。

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編 51:12

自分の努力では決して心を漂白できないという、その貧しさを受け入れること。 今朝、私が身につけていたヘッドライトの鋭い光が、暗闇の中の湿気を白く浮かび上がらせたように。神様の真実の光が私たちの心の奥底まで差し込み、その恵みによってのみ、私たちは内側から全く新しく清められるのです。

 


流した汗は、人間の弱さと限界を教えてくれます。 しかし同時に、自分の不純物を素直に認めて光の前に立つ時、私たちを丸ごと受け止め、清めてくださる大いなる愛がそこにあることも教えてくれるのです。

  • 自分の心に影を見る時こそ、光を求める祈りが生まれます。
  • 不格好に汗を流すその姿を、神様は愛おしく見つめておられます。

もし今日、自分の内側にある不純物にため息をつきたくなったとしても、どうかそのままの姿で、光を仰ぎ見てください。

今日も、共に前進です。

2026年8月20日木曜日

今日はハーフマラソン完走

 


夜空に消える花火と、心に留まる光:流れる「時」を愛し抜く21.60キロの軌跡

今朝は5時を過ぎた頃、まだひんやりとした空気が漂う中でランニングをスタートしました。仙台の早朝はまだ涼しいです。まずは静かな長町周辺の通りを10キロほど走り込み、続いて水面が穏やかに光る広瀬川沿いのコースへと足を伸ばして11キロ。 今晩、夜空を彩る花火大会の会場となる場所を走り抜けました。数時間後には熱狂と喧騒に包まれるであろうその場所も、早朝はただ静まり返っています。無事に帰宅し、今日の走行距離は21.60キロ。心地よい疲労感と共に、ふと心に一つの感慨が浮かびました。

この辺りで行われる花火大会は、もしかするとこれが最後になるかもしれない、ということです。

 


消えゆく季節と、流れる時の大河

夜空に咲いては一瞬で消える夏の花火が終わると、季節は確実に秋の収穫の時へと移り変わっていきます。どんなに美しい花火も、いつかは必ず夜の闇に溶けて消えてしまうように、私たちの人生を流れる「時」もまた、決して立ち止まることはありません。

振り返れば、その尽きることのない時の流れの中には、本当に様々な瞬間があったはずです。 胸が引き裂かれるほど辛かった時、涙が止まらなかった悲しい時。息が詰まるほど苦しかった時。そして、心が躍るほど楽しかった時や、満面の笑みを浮かべた嬉しい時。

しかし、そのどれほど強烈な感情を伴う出来事であっても、すべては等しく「時」の大河に流され、やがては目の前から姿を消していきます。私たちは、この絶え間ない喪失と変化の連続の中で生きています。

 


記憶という「永遠の器」

すべてが消えゆく運命にあるのだとしたら、私たちの生きる意味はどこにあるのでしょうか。 それは、過ぎ去った出来事が、私たちの「心の中」、そして「記憶の中」にのみ確かな温もりとして生き続けるという事実に隠されています。

聖書に、時の流れと人間の心について語った深い洞察の言葉があります。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉 3:11

時は広瀬川の水のように絶えず流れ去りますが、神様は私たちの内側に、その流れる時を留めておける「記憶」という永遠の器を与えてくださいました。

すべてがやがて過去になっていくのなら。 辛いことや悲しいことにとらわれ続けるのではなく、良い思い出、楽しかった思い出、嬉しかった思い出を、その器に一つでも多く残していくことが何よりも大切ではないでしょうか。

 


人生を飾る「今」を生きる

人生というキャンバスを美しく飾るのは、他でもない「今の時」です。 いつか消えてしまうからと虚無になるのではなく、いつか消えてしまうからこそ、今、目の前にある時間を慈しみ、誰かと笑い合い、この瞬間を精一杯に生きるのです。

その真剣な日々の積み重ねだけが、やがて色褪せない豊かな記憶となって、私たちの魂を永遠に温め続けてくれます。

過ぎ去る夏を惜しむように打ち上がる花火の音を遠くに感じながら、私たちはまた、新しい秋の実りへと向かって歩みを進めます。 あなたの人生を飾る「今」という時間を、どうか大切に味わい尽くしてください。たとえ今日が平凡な一日に思えたとしても、その一瞬一瞬が、かけがえのない記憶の光となるのですから。

今日も、共に前進です。

2026年8月19日水曜日

朝ラン22キロ完走

 


打ち上がる喧騒と、揺るがない足音:自分のペースという名の巡礼路

今朝は5時ごろ、大年寺山公園の階段を走って上り、愛宕神社の前へと差し掛かったところで、ふと無性に走り出したい衝動に駆られました。

今日はもともと散歩の服装で、ランニングには適していない格好とシューズでした。それでも、心の赴くままに足を進めることにしました。久しぶりに西公園から尚絅学院中高の近くまで足を伸ばし、そこで折り返して、広瀬橋を渡って帰ってくるという道のりです。

見上げる空は、清々しい快晴。 穏やかに流れる広瀬川のほとりでは、明日開催される長町の花火大会に向けた準備が、着々と進められていました。

 


祭りの熱気と、年に一度の「耳栓」

明日、夜空には大輪の花火が打ち上がり、街は非日常の熱狂に包まれることでしょう。しかし、明日は私にとって、年に一度だけ「耳栓をして寝る日」でもあります。

世間がどれほど華やかなイベントで盛り上がっていようと、それが私の静かなルーティンを妨げることはできません。



私たちの生きる社会には、花火のように目を引く出来事や、耳を奪うような大声が絶えずあふれています。それに心を躍らせることも時には良いでしょう。しかし、世間の熱気や周囲のペースに無防備に巻き込まれ、自分自身を見失ってしまっては元も子もありません。 本当に大切なのは、どんな喧騒のそばにあっても、日頃の自分のペースを静かに守り抜くこと。周囲の大きな音に影響されることなく、自分に与えられた道を淡々と歩み続けることなのです。

 


準備という名の、静かな歩み

自分のペースを守ることは、遠くを見据えた準備にも繋がります。

今度予定しているサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅。その準備も、熱を持たず、しかし着々と進められています。すでに航空券は手に入れ、スペインでの巡礼スタート地点へ向かうための高速バスの予約も完了しました。残るいくつかの宿の予約などは、焦らずに来月に行う予定です。一歩一歩、自分の足幅を確認しながら進めるこの準備そのものが、すでに巡礼の道の一部となっているのを感じます。



聖書には、自らの歩みを確かにするための、このような知恵の言葉があります。

「あなたの目は前をまっすぐに見つめ、まぶたはあなたの前をまっすぐに向けよ。あなたの足の道に心を配れ。そうすれば、あなたのすべての道は確かなものとなる。」(箴言 4:25-26

他人の走る速さや、横で打ち上がる花火の明るさに目を奪われる必要はありません。自分の足元に心を配り、神様から与えられた今日という「自分の道」を真っ直ぐに見つめる時、私たちの歩みは誰にも奪われない確かなものとなります。

 


巡りゆく命のエネルギー

今日も我が家の家族は、それぞれの場所で、自分に与えられた使命を懸命に果たしながら歩んでいます。私はその歩みを、車の送迎や、台所での料理、そして部屋の掃除などを通して応援しています。誰かのために働くことは、一見すると自分の時間やエネルギーを与え尽くしているように思えるかもしれません。 しかし、私が整えた日常の土台の上で、家族が健やかに、元気に生き生きと過ごしてくれること。それは巡り巡って、私自身の心を満たし、私を生かす大きな力となります。結局のところ、愛する者を応援することは、自分のためでもあるのです。

  • 周囲の音に惑わされず、耳栓をしてでも自分の静寂を守ること。
  • 歩きにくい靴であっても、心が動いた時には走り出してみること。
  • 愛する者のために、今日できるささやかな応援をすること。

広瀬川の穏やかな流れのように、今日も自分のペースを見失わず、確かな足取りでこの日常を歩いていきましょう。朝ラン22キロ完走。

今日も、共に前進です。

2026年8月18日火曜日

箴言24章

 


箴言24章は、「悪への誘惑と知恵の防衛」「正義と公正の維持」「怠惰への警告」という三つの大きなテーマを通して、困難な状況に直面したときの心の持ち方と行動の原則を示しています。 まず、この章は「悪しき者をうらやんではならない」と強く警告します。彼らの心は暴力を企み、その唇は害を語るからです。「知恵」こそが人生の土台であり、家を建て、堅くし、豊かに満たす力であると語られます。知恵ある計画と助言が、人生の戦いにおける勝利をもたらすと教えています。

続いて、「正義と公正」の重要性が深く語られます。処刑されようとしている人を救い出すこと、不正な判断を避けること、隣人を愛すること。たとえ敵が倒れたとしても、それを喜んではならないと教えます。神はすべてを見ておられ、もし私たちの心に報復の思いがあるなら、それを取り除かれると警告します。これは、公正さと慈悲の精神を育むための教えです。

さらに、「忍耐と立ち直る力」も重要なテーマです。正しい人は七度倒れても立ち上がるが、悪しき者は災難にあって倒れると語り、困難に直面しても諦めずに立ち向かう強さを称えています。

そして、「怠惰」への明確な戒めがあります。怠け者の畑が荒れ果てている様子を描き、努力を怠れば必ず貧しさが訪れると警告します。勤勉さと責任感の大切さが示されています。最終的に、私たちの行いをすべて神が見ておられ、それぞれが報いを受けるという厳粛な事実が語られます。表面的な言動だけでなく、心の奥底にある動機までもが問われることを示しています。

現代人が学ぶべき3つの教訓 複雑で競争の激しい現代において、この章は私たちに内面的な強さと倫理的な行動を促します。

  1. SNSの比較地獄」に陥らない心の防衛策

SNSでは他者の成功や華やかな生活が絶えず流れてきます。中には、不適切な手段で得た富や一時的な人気を誇る人もいるでしょう。箴言が「悪しき者をうらやんではならない」と警告するように、私たちは比較に心を奪われず、自分の価値観と目標に集中すべきです。表面的な成功ではなく、内面的な知恵と誠実さを育むことが、心の平安と持続的な幸福をもたらします。

  1. 「声を上げる勇気と公正な判断力」を持つ

社会の不公平や不正を見ても、「自分には関係ない」と目をそらしてしまうことがあります。しかし、箴言は「殺されようとしている者を救い出せ」と、弱者や被害者のために立ち上がる勇気を促します。また、SNSなどで意見が対立する場面でも、感情的にならず、公平な視点から判断し、冷静に発言する姿勢が、分断された社会に必要な橋渡しとなるでしょう。

  1. 「挫折しても立ち上がり続けるレジリエンス」を養う

現代社会は変化が激しく、一度の失敗で全てを諦めてしまいがちです。しかし、「正しい人は七度倒れても立ち上がる」という言葉は、失敗は終わりではなく、成長の機会であることを教えています。困難に直面した時こそ、諦めずに学び、再挑戦する「レジリエンス(精神的回復力)」を養うことが重要です。また、怠惰を戒め、地道な努力を続けることで、着実に目標へと近づくことができます。

生きることです

 


予定通りにいかない休日の恵み:コマ時間に深呼吸し、窓のほこりを払う

明日からのランニング再開に備え、今日という一日は「完全な休息」にあてようと心に決めていました。たった1日だけの、貴重なランニングの休み。しかし、私たちの日常というものは、なかなか思い描いた通りには進んでくれないものです。

結局、妻を仙台まで車で送り、その帰路でスーパーに寄り、夕食の買い出しをして帰ってきました。 昨日は妻がとても美味しい料理を作ってくれたので、今日からは再び(昨日も一品作りましたが・・)私が台所に立って料理をすることにしています。「今日はあなたが作って」と誰かが決めたわけではありませんが、この自然な心の交代が、我が家の温かいリズムになっています。一方、娘は友人たちの車で外へ遊びに・・・

 


「何もしないこと」への罪悪感と、休む知恵

今日、家族はそれぞれの場所で、それぞれの「使命」を果たして生きています。

私たちはつい、汗を流して働くことや、目に見える成果を上げることだけが「使命」だと考えがちです。しかし、休むこと、遊ぶこともまた、決して疎かにしてはならない重要な使命です。それは、次に向かうべき使命を果たすための大切な準備期間であり、休息そのものが、神様から与えられた人間の営みの一部だからです。

とはいえ、いざ「何にもしない時間」が与えられると、ふと罪悪感に苛まれてしまうのが人間の悲しい性(さが)です。まとまった時間、ずっと横になって休むことが現実的に難しい日もあります。 だからこそ、私たちには知恵が必要です。

  • コマ時間の休息: 車の運転の合間、お湯が沸くのを待つ数分間。その短い時間に深く息を吸い込み、心を静める知恵。
  • 完璧な休日を手放すこと: 「休めなかった」と嘆くのではなく、動いている時間の中にある小さな喜びを見つけ出すこと。

 

昨日の夕飯の時、後ろを振り向くのはあかんよ!と言ったら、よく言うことを聞きます。

ノアは唾を垂らしながら待っていました。

昨日の一品料理:ピーマンとちくわ炒め。

日常という名の、静かな礼拝

教会員への手紙を書き、ポストへ投函し、妻を送り、買い物をし、掃除をし、台所で料理の支度をする。 思い描いていた「一日中何もしない休息」とは程遠いかもしれません。しかし、この一連のせわしない時間を通し、私の心は不思議と穏やかな喜びに包まれています。これこそが、他でもない「恵みの時間」なのだと気づかされます。

聖書には、私たちの日常のすべてを包み込む、このような言葉があります。

「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」(コロサイの信徒への手紙 3:23

手紙の切手を貼る指先にも、車のハンドルを握る手にも、野菜を刻む包丁の音にも。その一つひとつの背後に、主への祈りと愛が込められているならば、どんな些細な日常の動きも、神様への美しい礼拝となります。

 


生きるということ

さて、この後は教会の外側の窓に向かい、たまったほこりを取る掃除を行います。 窓の汚れを一枚一枚丁寧に拭き取れば、心のほこりも奇麗に取れた気がするのです。働くこと。休むこと。誰かのために食事を作ること。そして、窓を磨くこと。 そのすべてをひっくるめて、「生きる」ということです。

もし今日、あなたが思い通りの休息を取れず、慌ただしさの中にいるのだとしても、どうかコマ時間を見つけて、一度深く深呼吸をしてみてください。あなたのその日常の営みは、確実に誰かを温め、世界に光を通すための大切な「使命」となっています。

今日も、共に前進です。