「自分だけの正しさ」という凶器を手放す時——混沌の時代を照らす真の自由
画面越しの冷たい現実と、消えない問い
スマートフォンを開けば、今日もまた痛ましいニュースが目に飛び込んできます。いとも簡単に人の命が奪われ、理不尽な暴力が日常のすぐ隣に潜んでいる現実。ため息とともに画面を閉じながら、「私たちの社会は、いったいどこへ向かっていくのだろうか」と底知れぬ不安と寒気を覚える日々です。命の重さがこれほどまでに軽く扱われる時代。私たちはどうして、ここまで来てしまったのでしょうか。
聖書が映し出す、人間のむき出しの狂気
旧約聖書の中に、目を覆いたくなるほど凄惨な記録があります。士師記(19〜21章)に記されたある事件です。一人の女性が理性を失った群衆にもてあそばれて命を落とし、その凄惨な死をきっかけに部族同士の報復戦争が起こります。数え切れないほどの同胞が殺し合い、一つの部族が消滅の危機に陥ると、今度はその数を埋め合わせるために、無実の女性たちを力ずくで拉致し、強制的に妻とするという非人道的な連鎖が続きました。
人間の尊厳が雑草のように踏みにじられ、獣以下の振る舞いが続くこの物語は、あまりにも猟奇的で、読む者の言葉を奪います。しかし、本当に私たちの背筋を凍らせるのは、これが単なる「大昔の残酷な作り話」ではないと気づくからです。一瞬の怒りや欲求で命を奪い、自分の正当性ばかりを主張し合うこの狂気は、形を変え、まさに今、私たちが生きるこの社会の至る所で繰り返されている悲劇そのものです。
「自分の目に正しいこと」の果てにあるもの
これほどまでに人間性が破壊され、社会が道徳的な混沌に陥った根本的な原因について、聖書は最後に短い一文でその本質を突いています。
「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記
21:25)
「自分の目に正しいとすることを行う」。現代の言葉に置き換えれば、それは束縛のない「自由」や、個人の「権利」の主張そのものに見えるかもしれません。しかし、絶対的な愛や神の基準を失い、それぞれが自分勝手な「正しさ」だけを振りかざすとき、その自由は容易に他者を切り裂く凶器へと変わります。自分の思い通りにならないものを排除し、法や秩序さえも自己流の解釈で無視する。私たちが真の自由だと思い込んでいるものの正体は、実は「罪の奴隷」となっている姿に他ならないのです。
真理が与える「本当の自由」
では、この悪循環の中で、私たちが生きる道はどこにあるのでしょうか。主イエス・キリストは、静かにこう語りかけます。
「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:32)
本当の自由とは、欲望のままに好き勝手に生きることではありません。キリストが示された真理——すなわち「愛」を知ることです。
利己心から解放され、他者のために自分を差し出すことができるようになること。弱い人々のために、あえて自分の権利や利益を譲ることができること。それこそが、人間を真に人間らしくする「本当の自由」なのです。
暗闇のなかに光を灯す歩み
連日の暗いニュースに心を痛め、この不条理な世界に絶望しそうになるかもしれません。しかし、だからこそ私たちは、悲観して立ち止まっているわけにはいきません。
- 「自分だけの正しさ」を振りかざすことをやめる
- 互いを赦し、譲り合い、身近な隣人を大切にする
- キリストが示された愛と命の道を、自らの生き方で体現する
この壊れかけた社会を再生させる糸口は、決して遠くにあるのではありません。私たち一人ひとりが、自分の足元に真理の光を灯し、そのぬくもりを分け合って生きることの中にあります。深い闇に包まれた時代だからこそ、真の光はより力強く輝きます。今週の最後の日です。その光から目を逸らさず、祈りと信仰をもって歩んでいきましょう。
それにしても、今日は本当に「疲れたなあ」と実感する一日でした。 それでも私は、気づけば八百屋で買い物をし、レタススープを作り、さらにはキャロットパウンドケーキまで焼いていました。
——病気ですね。 “常に動き続けてしまう病”。
でも、この患者はこれでいいのだと思うのです。 動いていると、心が少し軽くなる。 小さな家事や料理が、今日という一日をそっと支えてくれる。
そんな自分の性分を、もう受け入れてしまおう。 そう思える夕方でした。
今日も、共に前進です。



