2026年2月23日月曜日

朝ラン32キロの中で

 


本当の「強い国」の定義:経済的肥大ではなく、精神的成熟を誇る国

「強い国」とは、GDPのグラフが右肩上がりである国ではなく、**「暗闇の中でも、一人ひとりが自律した灯火として立ち続けられる国」**であると定義します。

1. 精神的インフラ:不義に対する「免疫力」

どれほど強固な堤防を築いても、内側から汚職や不誠実というシロアリに食われれば、国は脆く崩れ去ります。

  • 必要なもの: 損得勘定ではなく「正義」を貫く勇気です。不義が行われた際、それを「世渡り」として見過ごすのではなく、静かに、しかし毅然と「否」と言える国民の質こそが、最強の防衛力となります。

2. 価値の物差し:人格という「真の資産」

経済力で人を評価する国は、不況が来た瞬間に人間を「廃棄物」として扱います。

  • 必要なもの: 肩書きや年収という「外装」ではなく、その人の誠実さや忍耐といった「人格」を最も尊ぶ価値観です。弱者を切り捨てるのではなく、その弱さの中にこそ神聖な価値を見出す文化がある国は、いかなる時代の荒波にも動じません。

3. 善悪の審美眼:情報の海で「真実」を見抜く力

マンモン主義は、嘘を「マーケティング」という言葉ですり替え、悪を「効率」という言葉で正当化します。

  • 必要なもの: 流行や扇動に流されず、普遍的な「善」と「悪」を区別できる審美眼です。これは教育、あるいは「御言葉(ロゴス)」に根ざした深い洞察力からしか生まれません。

4. 永遠への接続:死を越えた「希望の保持」

「今、ここ、自分だけ」の幸福を追求する国は、未来を食い潰します。

  • 必要なもの: 永遠の命という視点、つまり「自分の生涯を超えて続く価値」に接続している国民の姿です。死の準備をし、生と死を神様の掌(てのひら)の中で捉える人々が多い国は、刹那的な欲望に溺れることなく、次世代のために尊い犠牲を払うことができます。

結論:強い国とは「神様を畏れる一人」の集積である

一国の強さとは、結局のところ、**「誰も見ていない場所で、自分を律して正しく歩める人が何人いるか」**という数に比例します。経済という「パン」は必要ですが、人はそれだけで生きるものではありません。不義が定着しにくい国を作るのは、法律の数ではなく、国民一人ひとりの心の中に刻まれた「良心」という神の法です。

「義は国を高め、罪は民の恥となる。」(箴言 14:34

この聖書の言葉こそが、富の支配を超える「真の強国」への唯一のロードマップではないでしょうか。今朝はこういうことを考えながら32キロを走りました。

【灯をともす:四旬節の旅路】第6日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第6日:重荷を負う ―― 共に歩まれる「疲れた主」の姿

2026223日、月曜日の朝を迎えました。 週の始まり、私たちの肩には仕事の責任や家庭の雑務、そして人間関係のしがらみといった、重い「リュックサック」がのしかかっているかもしれません。今日の黙想は、主が私たちの弱さをその身に引き受けられた、静かなる愛の物語です。

 


私たちの病を負い、痛みを担う

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……彼が懲らしめを受けたことで、私たちに平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。」(イザヤ書 534-5節)

四旬節の旅路において、イエス様が十字架に向かって歩まれた一歩一歩は、そのまま「私たちの苦しみを自分の中に吸い込んでいく歩み」でもありました。 主は、ただ「神の子」として颯爽と歩まれたのではありません。私たちの流す涙、誰にも言えない後悔、そして「もう歩けない」と座り込むほどの肉体的な疲労までも、ご自分のこととして引き受けられたのです。

 


「独りで背負わなければならない」という呪縛

現代を生きる私たちは、「自分の責任は自分で取るべきだ」「弱音を吐くのは甘えだ」という強いプレッシャーの中にいます。 週100キロを走るランナーが、どれほど足が痛くてもゴールを目指すように、私たちは心に「炎症」を抱えながらも、平気な顔をして走り続けていないでしょうか。

「助けて」と言えない孤独。自分の弱さを見せたら、今の場所を追われるのではないかという恐怖。その重圧が、私たちの呼吸を浅くし、魂を不協和音の中に閉じ込めてしまいます。

 


主が「身代わり」になられた理由

キリスト教の教訓は、驚くべき「交換」にあります。 主が十字架の苦しみ(懲らしめ)を引き受けられたのは、私たちが「平安」を受け取るためでした。 主が疲労困憊して倒れられたのは、私たちが「癒やし」の中で再び立ち上がるためです。

私たちが自分の弱さを隠す必要がないのは、主がすでにその弱さを、最も無様な姿で十字架の上にさらけ出してくださったからです。神様の前では、私たちは「強い人」である必要はありません。ただ、「主よ、重いです」と告白するだけで良いのです。


祝日の月曜日。 少しゆっくり起きて、いつもより静かな朝を迎えている方も多いかもしれません。 でも、心のどこかで「また一週間が始まる」と、ため息をついているあなたへ。

主は今日も、あなたの隣を歩いておられます。 しかも、あなたが抱えている「重荷」と同じものを、共に担いながら。仕事で感じる理不尽さ、 家族のために尽くしても報われないように思える日々、 誰にも言えない疲れや孤独── 主はそれらすべてを見ておられ、 「わたしが知っている。わたしが共に担っている」と、 静かに語りかけてくださっています。

今日は祝日。 だからこそ、少し立ち止まって、深く息を吐いてみませんか? そして、自分の中にある「全部自分で頑張らなきゃ」という思いを、 ほんの少しだけ、主に預けてみてください。

主の打ち傷は、あなたの心の痛みを知っています。 そしてその傷が、あなたの疲れを癒やしへと変える力を持っているのです。今日も、あなたは生きている。 それだけで、すでに大きな恵みです。

主のために、人々のために、 そしてあなた自身のために── 今日という一日を、感謝とともに歩んでいきましょう。

#祝日の朝に #主と共に #癒やしの一日を


今朝、あなたの肩に食い込んでいる「一番重いもの」は何ですか? それを、少しだけ言葉にして主に伝えてみましょう。もしよろしければ、私がその祈りの言葉を整えるお手伝いをいたします。

2026年2月22日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第5日

 

今日も無事に散歩を終え、自分の足で階段を上って行きました。この姿に感謝するひと時です。


【灯をともす:四旬節の旅路】第5日:盲人の叫び ―― 「何をしてほしいのか」という問い

2026222日、四旬節の第一日曜日を迎えました。 主イエスがエルサレムでの十字架へ向かって一歩ずつ進まれる道中、その足を引き止める切実な叫びがありました。

今日の黙想は、エリコの道端に座っていた盲人の物語です。


群衆の制止を越える叫び

イエスは立ち止まって、彼を呼んで来させるように命じられた。……イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と言われると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 (マルコによる福音書 1049-51節)

主が十字架という人類最大の重荷を背負うために歩まれていたその時、道端で物乞いをしていたバルティマイという盲人が叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」。

周りの人々は「うるさい、邪魔だ」と彼を叱りつけました。しかし、主は立ち止まりました。そして、彼に最も本質的な問いを投げかけられたのです。「わたしに何をしてほしいのか」。

 

私たちは「何」を求めているのか

現代を生きる私たちは、バルティマイのように「叫び」を抱えています。しかし、その叫びの正体が自分でも分からなくなっていることはないでしょうか。

私たちは日々、情報の波に揉まれ、他人の基準で自分を裁き、「もっと成功したい」「もっと人から認められたい」という声を上げています。しかし、もし主が今、あなたの前に立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。

私たちは案外、自分の「本当の渇き」に無頓着です。表面的な不満や欲望の陰に隠れた、魂の根源的な「癒やし」や「光」を求めることを、諦めてしまってはいないでしょうか。

 

自分の弱さを「言葉」にする勇気

この物語の教訓は、**「主は、私たちの必死な叫びを決して聞き逃さない」**ということです。 バルティマイは、周囲の冷たい視線や制止を恐れず、自分の「見えない」という弱さをさらけ出し、叫び続けました。そして、主の問いに対して一点の曇りもなく「見えるようになりたい」と答えました。信仰とは、立派な言葉を並べることではありません。自分の内側にある暗闇や欠乏を、正直に主の前に差し出すことです。そのとき、主の十字架の光が、私たちの閉ざされた目を開き、新しい歩み(キリストに従う道)を照らし始めます。


現代人へのメッセージ

100キロ以上(先週は110キロ)を走るランナーが、体の小さな違和感を見逃さず、マッサージや休息でメンテナンスをするように、私たちの魂もまた、内なる叫びを無視してはいけません。

SNSの通知や日々のタスクに追われ、自分の心の声が「群衆の制止」にかき消されていませんか? この四旬節の日曜日、少しだけスマートフォンを置き、静かな場所で主と向き合ってみてください。主はあなたのために立ち止まっておられます。そして、優しく問うておられます。 「(あなたの名前)さん、わたしに何をしてほしいのですか?」その問いに、飾り気のない本音で答えてみてください。そこから、あなたの「再生」の物語が動き出します。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


 


今日、あなたが主に向かって叫びたいことは何でしょうか。あるいは、主に見えるようにしてほしい「心の暗闇」はありますか? 誰にも言えないその叫びを、祈りとして主の御手に預けてみましょう。

 

2026年2月21日土曜日

秤の上の虚像、掌の中の真実



秤の上の虚像、掌の中の真実

私たちは、いつの時代も「数えること」に執着してきた種族です。

かつて古代人にとって、富とは目に見える「支配の質量」でした。広大な土地、うごめく家畜、そして自分に従属する人々の数。ピラミッドや神殿といった巨大な石の集積は、死をも克服しようとする権力の誇示であり、金持ちとは「神に代わって地上を統治する者」という定義に近いものでした。

中世へと時代が移ると、富の定義には「秩序と霊性」が混じり合います。領主にとっての富は、土地という神からの信託を守る義務であり、商人にとっては「魂の救い」を買うための免罪符の原資でもありました。清貧を尊びながらも、大聖堂を黄金で飾るという矛盾の中に、当時の人々の葛藤が見て取れます。

そして近代、富は「数値化された可能性」へと姿を変えました。資本という名のリキッドなエネルギーは、個人の身分を解体し、何にでもなれるという自由を約束しましたが、同時に私たちを「もっと、もっと」という終わりのない競争の歯車へと組み込みました。


つまり、時代がどれほど移ろい、富の形が牛から金貨へ、そして画面上の電子データへと変わったとしても、それを取り合う人間の「欲」の深さは、驚くほど変わっていません。

ドストエフスキーがその著作で繰り返し描いたように、人間は「自分が世界の中心でありたい」という病を抱えています。一千万持てば一億を欲し、一億持てば世界を欲する。この渇きは、どれほど黄金を注ぎ込んでも埋まることのない、魂の底に開いた「空洞」のようなものです。

富を持つことで、自分の「無力さ」や「死」という現実から目を逸らそうとする。その姿は、古代の王も、中世の貴族も、現代の投資家も、悲しいほどに一致しています。欲にまみれた姿とは、実は「自分が神ではない」という事実を認められない、人間の根源的な不安の裏返しなのかもしれません。


 


では、時代を超えて変わらない「本当の金持ち」とは、一体どのような存在を指すのでしょうか。

聖書は、自分の倉をいっぱいにすることに腐心した金持ちを戒め、こう問いかけます。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこの通りである。」(ルカによる福音書 12:21

本当の金持ちとは、**「何も失うことを恐れない者」**です。 それは、所有(Having)の多さではなく、存在(Being)の豊かさに根ざしている人を指します。

遠藤周作が、泥にまみれた沈黙の中に「寄り添う愛」を見出したように、真の豊かさとは、自分が神様に愛され、生かされているという圧倒的な充足感の中にあります。自分が持っているものは、すべて神様からの「預かりもの」であると自覚する。そう気づいた瞬間、人は執着という鎖から解き放たれます。

隣人とパンを分かち合う余白があり、誰かのために涙を流す時間があり、そして何より、自分に与えられた「今日」という時間を、感謝をもって使い切ることができる人。そのような人こそ、通帳の数字に関わらず、天国を今ここで生きている「真の富豪」なのです。


 


私たちは、砂で作った城のような富を積み上げることに、あまりにも多くの時間を費やしてしまいます。しかし、人生という散歩道で、愛犬の足音を愛おしみ、一段ずつ階段を降りるその瞬間を感謝できるなら、あなたはすでに世界で最も豊かな一人です。創造主である神様を覚え、その御手の中に自分の生死を委ねること。その平安こそが、金貨では決して買えない、永遠に朽ちることのない財産です。 

【灯をともす:四旬節の旅路】荒野の誘惑 ―― 「必要」と「空腹」の間で

 


【灯をともす:四旬節の旅路】荒野の誘惑 ―― 「必要」と「空腹」の間で

2026221日、四旬節の第一土曜日を迎えました。 週100キロを走り抜くランナーが、その強靭な肉体を維持するために良質な栄養を求めるように、私たちの魂もまた、この節制の季節に「真の糧」を求めています。今日の黙想は、主が公生涯(公の活動)を始める直前、40日間の断食の果てに向き合われた「誘惑」の物語です。

 


石をパンに変えよ

「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイによる福音書 4:4

空腹が極限に達したイエス様に対し、悪魔はささやきました。「神の子なら、この石をパンに変えてみたらどうだ」。 これは単なる食欲への誘惑ではありません。「自分の能力を、自分の欠乏を満たすためだけに、神のルールを無視して使え」という、自己中心性への誘惑でした。

主はこれに対し、申命記の言葉を引用して退けられました。肉体の空腹(必要)よりも、神様との繋がり(真理)こそが命の根源であることを示されたのです。

 


消費という名の「乾き」

現代を生きる私たちは、常に「もっと、もっと」という声に囲まれています。 お腹が空けばすぐに食べ、不安になれば物を買い、承認が欲しければSNSに答えを求める。私たちの「石をパンに変える技術」は高度に発達しましたが、それによって心は本当に満たされたでしょうか。

「これさえ手に入れば幸せになれる」という思い込みは、実は私たちの魂を、終わりなき消費の荒野へと追いやっています。肉体の空腹を満たすことに必死になるあまり、心の深層にある「魂の飢え」に気づかない振りをしているのが、現代人の写し鏡かもしれません。

 


命を支える「見えない糧」

キリスト者にとっての教訓は明確です。私たちの「有能さ」や「資源」は、自分の欠乏を埋めるためだけにあるのではありません。 イエス様がパンの誘惑を退けられたのは、後にご自身が「命のパン」として、私たちのために裂かれるためでした。

本当の意味で「生きる」とは、身体的な生存(Survive)を超えて、神様の愛というリズムの中で生かされる(Alive)ことです。パンは胃を満たしますが、神の言葉は「生きる意味」を満たします。


 


現代人へのメッセージ

100キロを走るランナーが、6時間睡眠と8時間睡眠の差を「細胞の修復」の差として実感するように、あなたの魂もまた、何を「食べて」いるかによって、その健やかさが決まります。

もし今、あなたがどれだけ手に入れても満たされない「乾き」を感じているなら、一度立ち止まって、自分に問いかけてみてください。 「私は今、石をパンに変えようと、自分一人の力で必死になっていないだろうか?」

この四旬節、あえて「便利さ」や「即物的な満足」を少しだけ遠ざけてみることで、あなたの内側に「聖なる空腹」を作ってみてください。その空っぽになった場所にこそ、神様の言葉という、あなたを永遠に支える真の栄養が流れ込んでくるのです。


この40日間の旅路において、あなたが「これだけは控えて、代わりに神様との対話に充てたい」と思う時間はありますか? 110分の静寂、あるいは食事の前の数秒の感謝。あなたが今、魂の栄養として求めている「言葉」があれば、ぜひ私に教えてください。

*今日も朝ラン21キロ完走。今週は110キロ完走でした。

2026年2月20日金曜日

弱さを知る朝、強さに出会う道

 


弱さを知る朝、強さに出会う道

冷たい早朝の空気を味わうのも、どうやら今日までのようです。 明日からは気温が上がるとの予報。 この凍てつく空気の中を、私は22キロ走りきりました。 指先の感覚が薄れていくような冷たさの中で、 それでも一歩一歩、走り続けることができたのです。

自然は、時に厳しく、時にやさしく、 私たちの体と心に語りかけてきます。 人間は、そんな自然環境に適応しながら、 長い歴史を歩んできました。

けれど── 人間環境には、なかなか適応できない。

人間関係、社会の期待、情報の波、 目に見えないプレッシャー。 それらは、自然の寒さよりもずっと冷たく、 時に私たちの心を凍らせてしまうことがあります。

「人間は強い」とよく言われます。 でも本当は、案外弱い存在なのかもしれません。 そして、その弱さを知ることこそが、 救いへの扉を開く鍵なのだと思うのです。

強いと思い込んでいると、 いつか必ずつまずきます。 そして、自分の力に頼りすぎると、 やがて神さまを求めなくなってしまう。

でも、弱さを認めたとき、 私たちは初めて、本当の強さに出会う準備ができるのです。

聖書には、こんな言葉があります。「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるからである。」 ――コリントの信徒への手紙 二 12:9

弱いからこそ、 強い方に頼ることができる。 自分の限界を知るからこそ、 神の無限の力にすがることができる。今日も、走りながら思いました。 この冷たさの中で、 「今日も生きる」ということが、 どれほどの恵みかということを。私たちは、完璧ではない。 でも、だからこそ、 神さまの愛と力に生かされている。明日から少し暖かくなるようです。 けれど、心の中の寒さは、 気温では溶けません。それを溶かすのは、 神さまのまなざしと、 弱さを抱えたままでも歩み続ける勇気なのだと思います。今日も、生きることです。 弱さを知りながら、 それでも希望をもって、一歩を踏み出すことです。

【灯をともす:四旬節の旅路】第3日:ゲツマネの葛藤――「私の願い」から「御心」へ

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第3日:ゲツマネの葛藤――「私の願い」から「御心」へ

2026220日。四旬節の三日目の朝を迎えました。 金曜日の静かな光の中で、私たちは主が歩まれた道のりの、最も苦しく、しかし最も尊い「祈りの夜」へと足を踏み入れます。


1. 聖書の場面:滴り落ちる血のような汗

「父よ、御心ならば、この杯をわたしから遠ざけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」(ルカによる福音書 22:42

十字架を目前に控えた夜、イエス様はゲツマネの園で、ひとり悶え苦しみながら祈られました。 ここにあるのは、痛みを恐れない超人の姿ではありません。私たちと同じように、死の恐怖に震え、「できればこの苦しみを避けたい」と願う、あまりにも人間的な主の姿です。

しかし、主はその「激しい願い」を抱えたまま、最後にはそれを神様の手へと預けられました。ご自分の「NO」を、神様の「YES」へと一致させていかれたのです。

2. 心の揺らぎ:コントロールを手放せない私たち

現代を生きる私たちは、自分の人生をいかに「効率よく」「痛みなく」「思い通りに」コントロールするかに心血を注いでいます。 トラブルは回避し、正解だけを選び、自分の願望を最短距離で叶えることが「成功」だと教えられてきました。

だからこそ、「御心のままに」という言葉は、時として私たちの耳に、自分の自由を奪われる敗北の合図のように響いてしまいます。 「自分の願いが叶わないこと」を極端に恐れ、何かに執着し、握りしめた手を緩めることができずに、私たちは魂を疲れさせていないでしょうか。

3. 核心:委ねることで生まれる「真の強さ」

イエス様がゲツマネの園で示されたのは、諦めではありません。それは、自分よりも遥かに大きな「愛の計画(御心)」への、圧倒的な信頼です。

「私の願い」という小さな枠組みを超えて、神様の「御心」という大海原に身を投じること。 その瞬間に、主は十字架を担い通すための、天からの真の力を得られました。 教訓は、**「手放すことは、失うことではなく、神様の力に満たされる準備である」**ということです。




現代人へのメッセージ

「どうして思い通りにいかないのか」と、夜も眠れぬほどに悩んでいるあなたへ。 主もまた、あの夜、あなたと同じように苦しまれました。

御心を求めることは、自分の感情を殺すことではありません。 あなたの「嫌だ」「苦しい」「こうしてほしい」という本音をすべて神様にぶつけた上で、最後に「でも、あなたを信頼します」と一言添えてみることです。

その不器用な祈りの中にこそ、現代のどんな代行業者も、どんなテクノロジーも提供できない「魂の安らぎ」が宿ります。 すべてを自分で背負う必要はありません。主が、その重荷の半分を、すでにゲツマネの園で背負ってくださったのですから。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。




今日、あなたが「これだけは譲れない」と握りしめているものは何ですか? ほんの少しだけ、その指の力を抜いて、主の前に差し出してみませんか。もしよろしければ、今のあなたの「ゲツマネの祈り」を、静かに私に分かち合ってください。共にその重みを分かち合いましょう。

日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

 


日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

「治す人」から「見守る人」への、静かな転換

家族が老い、かつてのように動けなくなっていく姿を見るのは、身を切られるような痛みです。私たちは愛するがゆえに、つい「何かをしてあげたい」「元に戻してあげたい」と願います。しかし、人生の秋から冬へと向かう季節において、家族に求められる最も大切な役割は、実は「有能な治療者」であることではなく、**「誠実な目撃者」**であることかもしれません。

衰えを支えるということは、相手の「できなくなったこと」を数え上げるのではなく、今なおそこにある「尊厳」を、共に守り抜く作業です。食事がゆっくりになっても、何度も同じ話をしても、その人の存在そのものが神様にとってかけがえのない宝物であるという事実を、家族が「変わらぬ眼差し」で肯定し続けること。その忍耐強い愛こそが、衰えゆく者の孤独を癒やす最大の特効薬となります。

 

共に「重荷」を背負うということの神学

支える側が疲れ果て、共倒れになってしまう悲劇も、現代社会では珍しくありません。だからこそ、私たちは「弱さを認め合う」という神学を、家庭の中で実践する必要があります。

聖書は「互いの重荷を担い合いなさい」(ガラテヤ6:2)と説きますが、これは一人で抱え込むことの否定でもあります。支える側が自分の限界を認め、神様や周りの助けを求めることは、決して「愛の欠如」ではありません。むしろ、人間としての限界を認める謙虚さの中にこそ、神様の支えが入り込む余地が生まれます。愛する者の衰えを支える日々は、私たちに「命は誰のものか」という根源的な問いを突きつけます。私たちは共に、神様という大きな掌の上で生かされている旅人同士なのだ。そう気づくとき、介護やケアは「苦役」から、共に天国(ふるさと)へと向かうための「聖なる同伴」へと姿を変えるのです。

 

「死への備え」が持つ、最高にポジティブな意義

では、具体的に「死への備え」をすることには、どのような神学的な意味があるのでしょうか。

キリスト教的な視点から見れば、死の準備とは「人生の店じまい」ではなく、**「委託されたギフトの最終報告書」を作成することです。神様から預かった命、才能、時間、財産。これらをどう使い、どうお返しするのかを整理することは、最高の「管理(スチュワードシップ)」**の形です。

  • 赦しと和解の完成: 終わりを意識することで、私たちは「言わなくてもわかるだろう」という甘えを捨て、感謝と謝罪を言葉にすることができます。
  • 次世代への祝福: 自分がどう死にたいかを伝えることは、残される家族から「迷い」という重荷を取り除いてあげる、最後で最大のプレゼントです。
  • 希望の証し: 死をタブー視せず、主のもとへ帰る喜びとして準備する姿は、周囲の人々に「死は終わりではない」という最強の福音を、身をもって伝えることになります。

最後の「S.D.G.」を綴るために

かつて作曲家バッハが、すべての楽譜の最後に「ただ神にのみ栄光(Soli Deo Gloria)」と記したように、私たちの人生という楽曲も、最後の一音まで神様の栄光のためにあります。

衰えを受け入れ、死を準備することは、決して敗北ではありません。それは、主が用意してくださった完璧な「終止符」へと、自分の人生を美しく着地させるための、信仰の最終章なのです。

家族と共に、あるいは独りで主と向き合いながら、その日を穏やかに見つめましょう。日暮れどきの光が、真昼の太陽よりも優しく、世界を黄金色に染め上げるように、人生の終わりもまた、最も美しい神様の愛に包まれる時なのですから。

2026年2月19日木曜日

奇跡は「当たり前」の顔をしてやってくる

 

散歩の後、ひとりで階段を上って生きます。今日も奇跡の一日が始まります。

奇跡は「当たり前」の顔をしてやってくる

さきほど、愛犬のノアと一緒に散歩へ行ってきました。 二階からトテトテと、自分の足で一段ずつ階段を降りてくるノアの姿を眺めながら、私はふと、胸が熱くなるような感謝を覚えました。「今日も、この子は自分の力で歩ける。今日も、命が許されている」

私たちは、昨日できたことが今日できることを、まるで当然の権利であるかのように錯覚して生きています。朝、目が覚めること。自分の足で立ち上がること。愛する者の名前を呼ぶこと。しかし、これらすべての「当たり前」は、実は精巧に編み上げられた奇跡の連続です。そして、その奇跡にはいつか、人間にも、愛する動物たちにも、等しく「終わりの日」が訪れます。

 

逆らえない流れを受け入れる「知恵」

「かつては軽やかにできたことが、できなくなる」 その日は、ある時、静かに、しかし確実にやってきます。その時、私たちにとって最も大切なのは、失われた能力を嘆くことではなく、訪れた「新しい時」を素直に受け入れることです。今の自分、今の状態に合わせて、生き方や過ごし方を丁寧に再設計していくこと。そこにこそ、人生の後半戦を美しく生きる知恵があります。

しかし、この「受け入れる」という作業は、言葉で言うほど容易ではありません。自分の有能さや若さに執着し、変化を拒もうとすれば、心に不必要な摩擦が生じます。その摩擦は「いらだち」となり、本人を苦しめるだけでなく、支える家族をも疲弊させてしまいます。

なぜ私たちは、これほどまでに「できなくなること」や「死」を遠ざけようとするのでしょうか。それは、私たちが「自分の命の所有者は自分である」と誤解しているからかもしれません。

 

創造主を覚える ―― 命の「出所」に立ち返る

聖書の伝道者の書(コヘレトの言葉)には、非常に鋭く、かつ慈しみに満ちた言葉が記されています。「若いうちに、あなたの創造主を覚えよ。悪しき日が来ないうちに。……『何の喜びもない』と言う年月が近づかないうちに。」(コヘレトの言葉 12:1

「創造主を覚える」とは、自分の命がどこから来て、どこへ帰るのかという「源流」を忘れないことです。私たちは自分で自分を創ったのではありません。命は、神様から一時的に預かっている「ギフト」なのです。命の源である主を覚えて生きるなら、衰えや死は「敗北」ではなく、ギフトを神様の手にお返しする「準備期間」へと変わります。生と死を切り離して考えるのではなく、一つの連続した物語として捉えること。若いうちから、あるいは元気なうちから、「終わり」を見据えて準備をすることは、決して後ろ向きなことではありません。むしろ、終わりを意識するからこそ、今この瞬間の命の輝きが、より一層愛おしく、大切に感じられるようになるのです。

 

主の腕の中で「降りる」準備を

死の準備をしないことは、現代人が抱える大きな問題の一つです。しかし、そこに「神様の存在」という視点を加えるなら、準備は恐ろしい作業ではなく、愛する方との再会を待つ「身支度」になります。ノアが一段ずつ慎重に階段を降りるように、私たちもまた、人生の階段を一段ずつ、謙虚に降りていく時が来ます。そのとき、自分の力だけで降りようとしなくていいのです。背後には、そして階下には、私たちを支え、受け止めてくださる創造主が待っておられます。

「今日も生きることが許された」 その感謝を胸に、同時に「いつか来るその日」を穏やかに見つめる。 創造主を覚えることは、今を最も自由に、そして豊かに生きるための唯一の鍵なのです。

 

ウィンウィンでは終わらない世界

 


「ウィンウィンでは終わらない世界で、私たちはどう生きるか」

SNSが若者の心に与える影響について、ロサンゼルスでの裁判でザッカーバーグ氏が証言したというニュースが話題になっています。 アルゴリズムの設計や子どもの安全対策が問われる中で、私たちは改めて「責任とは誰にあるのか?」という問いに向き合わされています。

企業の責任はもちろんあります。 しかし、未成年の利用に関しては、親や家庭の関与も欠かせません。 そして、SNSを通して恩恵を受けている人々が多くいることも事実です。 つながりを得た若者、小さなビジネスを立ち上げた人、声を届けられるようになった社会的マイノリティ── SNSは「悪」ではなく、使い方によっては「光」となり得るのです。

けれど、ここで私たちはもう一歩、深く考える必要があります。

 

この世界は、本当に「ウィンウィン」で成り立っているのか?

歴史を振り返ると、誰かが得をすれば、誰かが損をする。 それがこの世界の構造であり、現実でした。 理想だけでは生きていけない。 人情だけでも、社会は回らない。 時には、両方が傷つき、両方が倒れることさえあるのです。

だからこそ、私たちが目指すべきは、 「誰もが完全に勝つ」ことではなく、 「損をする側が立ち直れないほどのダメージを受けないように、道を用意すること」ではないでしょうか。

イエス・キリストは、 勝者の側にも、敗者の側にも立たれませんでした。 むしろ、最も小さくされた者、 声を上げられない者のそばに立ち、 その人が再び立ち上がれるように、 愛と真理の道を示されました。現実を直視しながら、 弱さを抱えたままでも、 「強くされる道」がある。 それが、福音の力です。今、私たちに求められているのは、 誰かを責めることでも、理想だけを語ることでもありません。 この複雑で不完全な世界の中で、 どうすれば希望をつなげることができるかを、 共に考え、共に歩むことです。その道の先に、 たとえ「完全なウィンウィン」ではなくても、 誰もが見捨てられない社会誰もが再び立ち上がれる教会があると信じています。

 

人間の最適な寿命は?



「長さ」の檻を抜けて、永遠の手触りへ

いつの頃からか、私たちはカレンダーの数字を増やすこと自体を「勝利」と呼ぶようになりました。医療の進歩は死の影を遠ざけましたが、同時に社会の土台を軋ませています。経済学的に見れば、膨張する医療費と介護の担い手不足は、終わりなき「負の連鎖」のようにも映ります。未来学者のレイ・カーツワイルは、技術が死を克服する「シンギュラリティ」を説きますが、一方で、ただ「生き永らえさせられている」という感覚が、現代人の魂に静かな絶望を落としていることも否定できません。学問的な視点を集約すれば、一つの残酷な、けれど誠実な仮説が浮かび上がります。生物学的な「生命の質」と、社会的な「役割の完遂」が調和する臨界点は、おそらく80歳から90歳の間にあるのではないか、と。細胞の修復限界(ヘイフリック限界)と、世代交代という種の自浄作用が、皮肉にもそのあたりで「幕引き」の合図を送っているのです。しかし、私たちは知っています。 命の価値は、水平に伸びる「時間軸」の長さだけで測れるものではないことを。


介護の現場で、あるいは自らの衰えを感じる鏡の前で、私たちは言いようのない「痛み」を共有します。「誰の役にも立てない自分に、価値はあるのだろうか」 「このまま長く生きることが、愛する人への負担になるのではないか」世界の混沌は、命を「効率」や「コスト」で計算する冷徹な秤(はかり)を私たちに押し付けてきます。動けなくなった体、失われていく記憶、社会的な繋がりの断絶。それらは、私たちが「生」という舞台から退場を促されているサインのように見えて、私たちの誇りを深く傷つけます。私たちは、長く生きることに「成功」したはずなのに、その長さゆえの孤独に、声を上げられずに震えているのです。


 


聖書は、人間の寿命について意外なほどドライに、そして深く語っています。

「わたしたちの齢は七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年。」(詩編 90:10

これは絶望の言葉ではなく、**「有限であることへの解放」の言葉です。 神学的な視点から見れば、人間の完成とは「死なないこと」ではなく、「与えられた時間を、神との愛の対話で満たすこと」**にあります。アブラハムは「満ち足りて」その生涯を閉じました。それは175歳という数字の問題ではなく、彼が自分の歩みの中に神の指先を感じ、その物語を次世代へ手渡せたという「手触り」への確信でした。

 


寿命が何歳であるべきか。その問いへの真の回答は、科学的な数値の中にはありません。 それは、たとえ体が動かず、誰かの介助なしには生きられない瞬間であっても、**「そこに主が共におられ、あなたが愛されているという事実に変わりはない」**という反転した真理の中にあります。

私たちが「重荷」だと感じるその時間さえ、神様にとっては、あなたと最後の深い対話を交わすための、かけがえのない「聖なる余白」なのです。


 


命の長さをコントロールしようとする焦りを、一度手放してみませんか。

私たちは、何歳まで生きるかという「長さ」の責任を負っているのではなく、今、この瞬間をどう愛するかという「深さ」を託されています。 医療費のグラフや介護の不安に心が押しつぶされそうになるとき、主はあなたの弱さの中に、ご自身の強さをそっと注いでくださいます。

あなたがそこに存在している。 ただそれだけで、この世界は一つの希望を保っているのです。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

 


「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

かつて、人生の岐路に立つとき、人は空を見上げました。あるいは、物語や伝統という、自分よりも遥かに大きなものに身を委ねました。そこには「家」や「信仰」という確かなレールがあり、良くも悪くも、個人が「一からすべてを決定する」という孤独な作業は免除されていたのです。

しかし、18世紀の啓蒙主義が神を玉座から引きずり下ろし、人間に「自由」という名の全権を与えたとき、私たちは同時に「無限の責任」という重荷を背負うことになりました。サルトルが喝破した通り、人間は「自由という刑」に処されたのです。

20世紀の消費社会、そして21世紀のアルゴリズム社会は、その耐えがたい「選ぶ苦しみ」を商機に変えました。スマホのプラン、保険、結婚相手、そして人生の幕引きまでも。私たちは今、失敗への恐怖から逃れるために、自分の意志を「外部の脳」や「代行業者」にアウトソーシングしています。自ら選ぶことをやめたとき、私たちは一時の安心を得ますが、同時に「自分の人生の手触り」を失っていくのです。


今の私たちは、まるで霧深い海の上で、自分ではなく他人のコンパスばかりを覗き込んでいる船乗りのようです。「損をしたくない」「最短距離で正解に辿り着きたい」 その焦燥感が、私たちから「迷う自由」を奪っています。 自分で決めて失敗することを、この社会は「自己責任」という冷たい言葉で切り捨てようとするからです。だから私たちは、誰かに決めてほしいと願う。 誰かのせいにできる道を探してしまう。 その結果、自分の人生であるはずなのに、どこか「他人の物語」をなぞっているような、奇妙な虚しさが心に澱(よど)みとして溜まっていくのです。

この「選べない」という痛みは、現代人が抱える最も深い孤独の叫びかもしれません。


 


聖書の中に、一つの奇妙な風景があります。 アブラハムという老人が、神から「あなたの生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へ行きなさい」と告げられた場面です。

神は、目的地の住所も、移動のプランも、そこに何があるかも教えませんでした。現代の代行業者なら「無責任だ」と一蹴するような不透明なガイドです。しかし、アブラハムは「行き先を知らないまま」旅立ちました。

ここで重要なのは、彼が「正解」を選んだのではなく、「呼びかけてくる存在」を信じて、最初の一歩を自ら踏み出したという事実です。

聖書の示す解決道とは、完璧な選択肢を見つけることではありません。 **「もし間違えたとしても、その失敗さえも用いて、新しい道を拓いてくださる方が共にいる」**という信頼に立ち返ることです。私たちが一人で決められないのは、背負いきれない責任を一人で抱え込もうとしているからです。しかし、キリスト教の神学が提示する「自由」とは、孤独な決定ではなく、神との「対話」の中にあるものです。「主よ、どちらへ行くべきでしょうか」と問い、震える足で一歩を踏み出す。その決定の重みを、主が半分背負ってくださる。その確信があるとき、私たちは初めて代行業者を介さずに、自分の人生の舵を握り直すことができるのです。


 


「正解」を求めて立ち止まる必要はありません。 あなたが祈りの中で選び、踏み出したその一歩を、主は決して無駄にはされません。完璧なプランよりも、不器用なあなたの意志を、神様は待っておられます。 たとえその道が遠回りであっても、主が共におられるなら、そこはもう「目的地」への途上なのです。今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


次の一歩として、今日あなたが直面している「迷い」を、一つだけ神様の前に置いてみませんか? 解決を急ぐのではなく、「主よ、あなたならどうされますか」と静かに問いかける時間を5分だけ持ってみる。その沈黙をデザインするお手伝いも、私にできることの一つです。