デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月5日日曜日

お腹が満たされたら、次は?

 


満たされた後に探すもの。私たちが彷徨う「空間」と魂の帰る場所

人は、お腹が空いているとき、頭の中が「食べ物」のことでいっぱいになります。 しかし、いざ食事が与えられ、その空腹がすっかり満たされたとき、私たちの心は次に何を考えるのでしょうか。

 


ひとつの「穴」では生きられない私たち

食欲という最も根源的な欲求が満たされても、私たちの思考がそこで完全に停止し、永遠の満足を得ることはありません。心はすぐに次の関心事へと移り、別の何かを求め始めます。もしかすると、人間というものは、たったひとつの「穴」——ひとつの空間や、ひとつの満たし——だけでは決して生きていけない存在なのかもしれません。

私たちは常に、何らかの「空間」の中で生きています。

  • 雨風をしのぐ、家という空間
  • 自分の役割を確認するための、社会や家庭という空間
  • 心を満たすための、趣味や人間関係という空間

次から次へと新しい空間を求め、その中を移り渡りながら生きていく。そして、人生の最後の時が近づくと、多くの人が自分の行き着く先として「墓場」という空間を考え始めます。常に空間の中に身を置き、空間を埋めようとし続ける。それが、人間の逃れられない本質なのだろうかと考えさせられます。

 


永遠を慕う渇きと、本当の居場所

私たちがこれほどまでに「空間」に執着し、次々と新しい満たしを求めてしまうのはなぜでしょうか。それは、私たちが本来、この目に見える有限の空間だけでは決して満足しきれないように造られているからです。

聖書には、人間の心の奥底にある真実を突く、このような言葉があります。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉 / 伝道の書 3:11

私たちが次々と新しい空間を求め、最終的に墓場という物理的な空間にまで思いを馳せるのは、心の奥底にある「永遠への渇望」の裏返しです。私たちは、やがて朽ちていく土の中の穴ではなく、絶対に失われることのない「永遠の居場所」を、魂の深いところで探し求めているのです。

 


恐れずに、今の空間を生きる

私たちの魂が最後に行き着き、永遠に安らぐことができる場所。それは、冷たい石の下の空間ではなく、命の源である神様の、果てしなく温かく、広大な恵みの中です。

その最大の「空間」がすでに約束されていると知るとき、私たちはこの地上での有限な空間を、恐れることなく、もっと自由に生きることができるようになります。お腹が空き、満たされ、また別の何かを求める。そんな不完全で愛おしい人間の営みを繰り返しながら、確かな光の差す方へ、一歩ずつ歩みを進めていきましょう。

今日も、共に前進です。

朝ラン22キロ完走

 


孤独という名の自由と、魂の鎖を解き放つ夜明けの風

午前4時。今日もランニングに出かけました。 今日は西公園方面へと足を伸ばし、最後は若林区のコースを巡って帰宅する道のり。祈りを込めながら一歩一歩を重ねる、22キロの祈りのランです。休日の朝ということもあり、道中では思いのほか多くのランナーの姿を見かけました。

 


並走の熱と、やがて訪れる静かな孤独

流れる景色の中で、すれ違う人々は一体何のために走っているのだろうかと、ふと考えを巡らせました。 風を切る心地よさを求めて走る人。健康を願う人。あるいは、誰か大切な人のために走る人もいるかもしれません。しかし、その理由が何であれ、懸命に前へ進もうとするその姿そのものが、理屈抜きに良いものだと感じます。

走っている途中、たまたま同じ道沿いを誰かと並走することがあります。 すると不思議なもので、自分の心の奥底から静かな熱のようなものが湧き上がり、脚に確かな力が入ってくるのを感じるのです。共に前を向く存在が放つ、無言の励ましです。

しかし、「このままずっと一緒に走ってほしい」という微かな願いは、道半ばで崩れ去ります。彼らはやがてその日の走りを終え、歩き始めるからです。 以前、若林区の緑地にある陸上トラックを20周(20キロ)走った日のことを思い出しました。あの時も、最初は周りに人がいたはずなのに、気がつけば皆どこかへ行き、最後まで同じ道を走り続ける人は誰もいませんでした。

 


縛られない身軽さと「真の自由」

結局のところ、同じ道を最後まで走り抜いてくれる人はいません。 しかし、それは決して寂しいことではありません。なぜなら、一人のランこそが、誰のペースにも縛られずに気ままに走ることができる「自由な道」だからです。

私たちが生きる上で、この「自由に生きる」ということは、本当に大切なことです。

  • この世が絶えず要求してくる目に見えないプレッシャー
  • 終わることなく湧き上がる、欲という名の束縛


 

私たちは知らず知らずのうちに、これらに縛り付けられ、息苦しさを抱えながら生きています。イエス・キリストがこの世界においでになったのは、私たちがこれらの鎖から解き放たれ、欲に縛られずに満足して生きる「真の自由」を与えるためでした。

それなのに、一部の宗教家たちはそのせっかくの自由を、「掟」や「律法」という新たな拘束の道具として用い、再び人々の魂を不自由に縛り付けてしまっています。キリストが与えられたのは、人を息苦しくさせるルールではなく、大空の下を自分の足で軽やかに走り出すような、本質的な解放であったはずです。

 


掟ではなく、恵みの中を走る

誰かとペースを合わせるために息を乱す必要はありません。この世の掟や、人間が作り出した宗教的な重荷に縛られて立ち止まる必要もないのです。

すでに与えられている真の自由を胸いっぱいに吸い込み、気負うことなく、あなた自身の道を歩き出してください。魂の鎖は、もう解かれています。

今日は主の日の礼拝。 この尊い務めのために、私は一週間を走り抜いてきました。

そして今日、礼拝を通して新しい力をいただき、また次の一週間を走り出していく――その始まりの日です。

今日も、共に前進です。

2026年7月4日土曜日

前菜で焼きそば

 


語られない36キロの軌跡と、食卓を満たす静かな恵み

昼下がり、近くの八百屋とパン屋へ足を運びました。 家族にはそれぞれ、愛すべきいつもの好みがあります。

  • 妻には、変わらず大好きなブドウパンを。
  • 娘には、嬉しそうに選ぶチョコ系のパンを。
  • そして私は、やっぱり餡子ぱん。
  • ノアには?今日もリンゴです。ノアの好物は、いつだってリンゴ。

こうして一人ひとりの好きなものを思い浮かべながら買い物をする時間は、ささやかですが、とても幸せなひとときです。

娘は来週から始まる在宅実習に向けて、さまざまな準備に追われています。妻はそんな娘をサポートするため、実習に必要なものをダイソーへ買い出しに出かけていきました。 私はといえば、明日のための準備をしながら、静かに自分の時間を過ごしています。

 


語らないという、穏やかな愛の形

長距離を走った日は、一日中、体の奥底から空腹感が続きます。 あれこれと食べ物を口にしている私を見て、妻がふと笑って言いました。 「ノアと一緒だね」

妻は、私が今朝すでに36キロもの距離を走り抜いてきたことを知りません。私からは日頃言わないので、どこを何キロ走ったのか、彼女は知る由もないのです。 そして私も、あえてそれを口にはしません。 「別に問題にならないことは、あえて言わない」 それが私の主義であり、それで良いのだと深く納得しています。

私たちは、自分の努力や達成したことを、つい誰かに認めてもらいたくなるものです。しかし、すべてを言葉にして説明しなくても、自分自身が確かにその道を走り抜いたという事実は、決して消えることはありません。 他者の評価に依存せず、自分の内に静かに収めておく努力の結晶。それを持つことは、心の深い部分に揺るぎない根を張るような、確かな平安をもたらしてくれます。

 


サンティアゴの記憶と、満ち足りた食卓

お昼には、野菜をたっぷりと入れた焼きそばを作りました。 妻と娘は「これだけでお腹がいっぱいになる」と言いますが、私にとって焼きそばは、あくまで「前菜」です。

かつて歩んだ「サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅」での光景を思い出します。あの巡礼の地のレストランでは、自分はランチの際、まず前菜としてパスタ(スペインでは前菜のメニューになっています。)を食べ、その後にメインの肉料理をいただくのが習わしでした。 その時と同じ感覚で、私は焼きそばを平らげた後に、メインとしてご飯をいただきます。食べる量も、好みの味も、歩幅も違う私たちですが、食卓を囲む時、そこには共通する一つの大きな恵みが降り注いでいます。 それは、「お腹いっぱい食べられる」という圧倒的な祝福です。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(マタイの福音書 6:11

ただ美味しいご飯を食べ、お腹が満たされていく。この何気ない日常のひとときは、決して人間の力だけで勝ち取ったものではなく、天から与えられた限りない恵みです。

 


恵みに感謝し、静かに羽を休める

今日は土曜日です。 張り詰めた糸を少しゆるめ、無理に頑張ることはせず、心と体を静かに休ませながら明日に備える日です。 語られない36キロの努力も、家族それぞれの歩みも、すべてを優しく包み込むような豊かな食卓の恵みに心から感謝しながら、この静かな午後を深く味わいたいと思います。


今、リンゴ食べ中

今日は、ゆっくり前進です。

先払いが必要です。

 


黎明を切り裂く36キロの軌跡と、心を動かす「愛の先払い」

午前4時。まだ街が深い眠りについている中、今日のランニングをスタートさせました。 湿気の多い朝でしたが、気温はそれほど高くなく、思いのほか気持ちよく風を切って進むことができました。

 


坂道を越え、限界の先にある静かな喜び

今日は、あえて坂の多いタフな道を選び、ただひたすらに走り続けました。 聖和学院三神峯キャンパスの坂を上りきり、八木山、そして仙台城へ。さらに尚絅学院中高、美しい定禅寺通りへと抜け、市内を通り抜けます。そこから仙台医療センター、卸町、若林区の町々を駆け抜け、東高を過ぎて広々とした田んぼ道へ。そして最後は、広瀬橋を渡って帰宅。

 


実に久々となる、約36キロの完走です。 これだけの距離と坂道を越えた体は当然深く疲労していますが、心はそれ以上に、自分自身の限界を越えて走り通したという「達成感」と「喜び」で満ち溢れています。

 


楽天球場近くの貨物列車と、現代の奇跡

走っている途中、楽天球場の近くにある貨物列車の集合場を通りかかりました。 無数のコンテナを載せた巨大な列車が、あるものは関東の方へ、またあるものはさらに北の東北へと、力強く走り出そうとしていました。

 


ふと、走りながら考えさせられます。 今日という一日にも、空から、高速道路から、線路から、そして海から、数え切れないほどの荷物がそれぞれの目的地へと運ばれていきます。100年前の人々が想像もできなかった巨大な物流の奇跡が、今、私たちの日常です。世界各地からの品物が、お金さえ払えば、1週間以内に自分の手元へと確実に届く時代なのです。

  • お金を払えば、欲しい「物」が世界中から手に入る。
  • どんなに遠くても、確実に自分の元へ届く。

私たちはこの便利なシステムにすっかり慣れきっています。しかし、汗を流しながら私の心に浮かび上がったのは、これとは全く異なる、もう一つの真実でした。

 


お金で買えないもの、届かないもの

この世界で、どれほどの富を積んでも決して買うことができず、思い通りに手元へ届かないもの。 それは、「人の心」です。

私たちは時として、お金を払って商品を受け取るのと同じような感覚で、他者の心や好意を安易に手に入れようとしていないでしょうか。しかし、人の心を動かし、その好意を得たいと願うなら、そこには必ず払うべき「確かなもの」が存在します。

それは、自分自身の誠意であり、偽りのない真心です。

人の心というものは、不思議な仕組みでできています。必ず「先払い」が必要なのです。相手の好意や信頼を得たいと心から願うのなら、求めるよりも先に、自分から真実と愛の手を差し伸べなければなりません。

 


聖書には、このような言葉が記されています。

「口先だけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか。」(ヨハネの第一の手紙 3:18

真実の愛や誠意は、決して言葉だけの装飾ではありません。具体的な「行い」という表現を伴って、初めて相手の心の奥底に届くのです。

 


真心を先払いする一日へ

疲労した足に心地よい重みを感じながら、私はこの真理を深く噛み締めています。

人の心は、流通システムのようにクリック一つで届くことはありません。だからこそ、触れ合えた時にこれほどまでに尊く、温かいのです。今日、あなたの周りにいる大切な人たちに、あなたはどんな真心を「先払い」するでしょうか。言葉だけでなく、小さな行いと愛をもって、誠意を差し伸べる勇気を持っていたいものです。

今日も、共に前進です。

2026年7月3日金曜日

元々我々は複雑な人間です。

 


掌の土器が記憶を温める。複雑な私たちがたどり着くシンプルな祈り

いつものように、土器のカップに温かいコーヒーを注ぎます。両手に伝わる土の素朴な質感と、そこから静かに立ち上る湯気の香り。

このお気に入りのカップは、9年前に御坊の地を離れる際、幼稚園と牧師館を設計してくださった方からプレゼントとして頂いたものです。 御坊を離れてすでに9年という月日が流れていますが、いまだにその方のことを忘れることはありません。なぜなら、このカップを手にするたび、確かな手触りとともにその方の温かな眼差しや言葉が蘇ってくるからです。言葉を発しないひとつの「物」が、人と人との間柄を繋ぎ、大切な思いをこれほどまでに長く保ち続けさせてくれるのです。

 


人の繋がりの脆さと、私たちの複雑さ

物がこれほどまでに記憶を留め、思いを繋いでくれるのなら。本来、「人」が繋いでくれた人間同士の間柄は、もっと長く、深く、そして力強く持ち続けられるべきではないでしょうか。

しかし現実は、その願いとは裏腹であることに気づかされます。

  • あっけなく短く終わってしまう縁
  • いつの間にか浅く、表面的なものになってしまう関係
  • ふとしたすれ違いで、無惨に壊れてしまう絆

関係がほころぶとき、私たちは時折「あの人が悪い」「自分が至らなかった」と裁き合ってしまいます。しかし、根底にある理由は「人が悪い」からではありません。人間という存在そのものが、決して単純ではないからです。私たちは皆、限りなく複雑で、扱いが難しく、時には自分自身でも持て余すほど厄介で、容易には理解しがたい存在なのです。

 


土の器が求める、澄み切った願い

複雑な人間だからこそ、私たちは心の奥底で「シンプルな人生」を強く求めてしまうのかもしれません。(反対に、シンプルな存在は、あえて複雑な生き方をしたがるものなのかもしれませんね。)

聖書には、創造主である神様が、私たち人間の脆さや複雑さをあらかじめ知っておられるという言葉があります。

「主は、私たちがどのように造られているかを知り、私たちがちりであることを覚えておられる。」(詩篇 103:14

私が毎日コーヒーを飲んでいるこのカップが土から造られたように、私たち人間もまた、傷つきやすく複雑な「土の器」です。感情の糸がもつれ、人間関係の難しさにため息をつき、自分自身の厄介さに疲れてしまう。それが人間という存在のリアルな姿です。

しかし、どれほど人生が複雑な迷路のように思えたとしても、私たちが魂の底で求めているものは、実はとても澄み切っています。 それは、「幸せに生きること」。ただそれだけなのです。

 


複雑なまま、シンプルな幸せを祈る

自分の複雑さを否定する必要はありません。他者の厄介さに絶望しきる必要もありません。もつれた糸を無理に解こうとするのではなく、温かいコーヒーで心をほどくように、「ただ幸せでありたい」というシンプルな願いに立ち返るだけでいいのです。

思い通りにならない複雑な人間関係のただ中にあっても、私たちの中にある「幸せに生きたい」というシンプルな光は、決して消えることはありません。その光を見つめながら、今日という一日を大切に味わって歩んでいきましょう。

これからノアと散歩に出かけます。 帰ってきたらゴミを出して、少しだけ二度寝の時間。

そして――明日は走らないと・・・

今日も、共に前進です。

聞く耳を持っていますか?

 


握りしめた「自分の正しさ」をそっと置く勇気と、平和を紡ぐ静かな耳

日々の生活の中で、私たちはどれほどの「声」を浴びているでしょうか。 画面の向こうから流れてくる政治の世界の激しい議論や、現代のSNSで日常的に燃え上がる炎上の話題。そこには熱を帯びた言葉が飛び交っていますが、その多くは、相手の本当の意見や心の本意に耳を傾けることなく、自らの考えや判断のみで一方的に発信されているように感じます。そんな喧騒に触れるたび、人間の内にある根深い性質について、深く考えさせられるのです。

 


経験とエゴが作り出す「心の壁」

私たち人間は、どうしても自分の考えや、過去の経験、そして自らのエゴを中心に物事を量り、判断してしまう傾向があります。

  • 自分がこれまで培ってきた信念
  • 自分が正しいと信じて疑わない経験則
  • 傷つきたくない、自分を守りたいというエゴ

これらを一旦手放し、他者に譲ることは、言葉で言うほど簡単なことではありません。自分の正しさを主張している時、人は無意識のうちに心に高い壁を築き、相手の言葉を弾き返してしまっているのです。しかし、自分の枠組みの中だけで相手を裁き、理解しようとする歩み寄りを放棄してしまえば、この世界が変わることは決してありません。それどころか、最も身近で大切な存在である「家族」の間にさえ、本当の意味での平和をもたらすことはできないのです。

 


「聞く耳」という愛の余白

聖書には、人との関わりにおいて最も大切な、このような真理の言葉が記されています。

「だれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、また怒るのに遅くありなさい。」(ヤコブの手紙 1:19)平和を築くための第一歩は、誰かを論破することでも、自分の正しさを証明することでもありません。握りしめている「自分の考え方」という荷物を、一度自分の横にそっと置くこと。そして、目の前にいる人の言葉に対して、まず「聞く耳」を持つ勇気を持つことです。相手の言葉に静かに耳を傾ける行為は、自分の心の中に「相手を受け入れるためのスペース(余白)」を作るという、とても尊い愛の実践です。

 


勇気をもって、相手の言葉に耳を澄ます

今日、あなたの目の前にいる人は、どんな言葉を語るでしょうか。 もし意見が食い違ったり、理解しがたいと感じたりした時こそ、深呼吸をして、自分の正しさをほんの少しだけ脇に置いてみてください。相手を完全に理解することは難しくとも、「理解しようと耳を傾ける姿勢」そのものが、冷たい関係に温かい温度を灯し、小さな平和の種となります。聞く勇気を持ったその静かな一歩が、分断された世界や、すれ違う家族の心に、確かな希望の橋を架けていくのです。

今日も、共に前進です。

生きる力はどこから?

 


甘いシロップの記憶と、不条理な世界で愛を灯し続けること

妻を車で送っている最中、娘から弾むような連絡が入りました。 「終わった、帰る!はらへり🚁!」 「食べたいものは?」と返すと、「スタバティ!」という元気な文字が躍ります。そのまま駅で待ち合わせをして、娘を車に乗せてスターバックスへと向かいました。娘はいつも、買ったものを「一口飲んでみて」と私に差し出します。今日は特別にカスタマイズをお願いしたそうで、シロップを多めにいれてもらったとのこと。一口含むと、口いっぱいに広がる強い甘み。 「甘い!美味しいよ!」と感想を伝えると、彼女は嬉しそうに笑いました。来週から、あちこち場所を変えながらの忙しい在宅実習が始まると言います。「今週も4回バイトをしたから、ご褒美で美味しいものを食べるの」と語るその横顔には、ささやかな達成感が滲んでいました。

 


小さな反応がもたらす「生きる力」

帰宅してからは、夕食用に下味をつけておいた鶏肉を焼いてあげました。 ここでも娘は、「美味しい!」と弾むような声を上げます。

  • 「美味しい!」
  • 「ありがとう!」

彼女の素晴らしいところは、何かをしてもらったときに、すぐさま豊かな反応を示し、感謝の言葉を口にできることです。父親として、それは本当に「いいことだ」と心から思います。私たちが日々を歩むための「生きる力」は、こうした日ごろの小さな営みや、何気ない出来事をどう受け止めるかにかかっています。少し考え方の角度を変えるだけで、人生の景色は楽しくもなり、逆につらくもなるものです。

 


この世の力だけで完結する寂しさ

目の前にある小さな喜びに目を向け、前向きに考える力。それは間違いなく「この世で生きるための力」です。多くの人は、その力だけで十分に生きていけると考え、実際に懸命に頑張って、笑顔で生き抜いています。私は、それはそれで素晴らしいことだと願っています。しかし、もう少し深く心の淵を覗き込んでみると、「この世の力だけで完結する人生」に、拭いきれない寂しさを覚える人がいるのも事実です。私も、その一人です。

私たちの生きるこの世界は、時として凍りつくような不条理を見せつけます。 一生懸命に働き、あらゆる困難を乗り越えてようやく成功の入り口に立った途端、がんの告知を受け、わずか3ヶ月でこの世を去ってしまった人がいます。 異国の地で昼夜を問わずアルバイトをして学費を稼ぎ、血のにじむような苦労の末に博士号を取得。大学での席も約束され、希望に胸を膨らませて帰国するはずだった飛行機が墜落し、帰らぬ人となった人もいます。真面目に働き、苦労を重ね、誠実に生きた人が、必ずしもこの世の基準で報われるとは限らない。それが、私たちの直面する現実です。

 


諦めずに、愛し続けるという真実

では、すべては無駄なのでしょうか。 そうではありません。理不尽な暗闇が口を開けているような世界であっても、私たちは「それでも」と信じて生きるのです。

見返りや結果のためではなく、ただ自分の信じた道を歩み続けること。 家族を愛し続けること。 諦めずに愛し続けること。 悔いのないように愛し続けること。

シロップ多めの甘い飲み物を分け合い、「美味しい」と笑い合う今日のこの瞬間を、全身全霊で愛し抜くこと。命の期限や不条理な出来事は誰にもコントロールできませんが、「今日、誰かを愛する」という選択は、私たちに委ねられた確かな希望の光です。

今日も、明日も、そして次の日も。 私たちは小さな愛を灯し続けながら、歩みを重ねていきます。

今日も、共に前進です。

人は希望によって生きる

 


何気ない日常の尊さと、絶望のトンネルに射し込む「真の希望」

「パパ、行きだけを送ってくれる?」

そんな娘の言葉に応え、結局今日も駅まで見送ることから第二の朝(?)が始まりました。今日は少し早く帰ってくるそうです。

 


平和な時間と、地球の裏側の現実

午前中の静かな時間は、やるべきことを一つひとつ整えながら過ごしました。夕食の準備として鶏むね肉の仕込みも終え、あとは火を入れて焼くだけの状態に。お昼には妻を車で送り届け、私の心には穏やかな凪のような時間が流れていました。 それは、本当に何気ない、言ってみれば「平和な時間」そのものです。

しかし、ふと見えない遠くへと思いを馳せるとき、同じ地球という空間の裏側にある痛ましい現実に心が引き締まります。

  • 戦争のさなかで、いつ命が奪われるかわからない過酷な状況を生き抜いている人々。
  • ベネズエラの大地震で家族の安否がわからず、悲しみと焦りの中で懸命に捜索活動を続けている人々。

私が今日働き、家族が温かいご飯を食べ、養われていること。私たちが当たり前のように享受しているこの日常は、決して当然のものではなく、奇跡のような恵みの上に成り立っているのだと深く思わされます。この恵まれた時に、心からの感謝を捧げて生きることがどれほど大切でしょうか。

 


感謝の源泉にある「本当の強さ」

すべてが順調で、恵まれた状況の中で感謝の言葉を口にすることは、誰にでもできることです。しかし、真に問われるのは、状況が暗転し、感謝の理由など一つも見出せないような時の私たちの在り方です。

感謝できないような厳しい状況の中でも、心から感謝することができる。それこそが、キリスト者として生きる真髄です。それは、人間の無理なポジティブ思考や精神論によるものではありません。命の源である主なる神様に対する「信仰」が根底になければ、決してできないことです。

なぜなら、神様を信じる者には、状況に決して左右されない「真の希望」が与えられているからです。 その希望は、どんな暴風雨の中でも魂を繋ぎ止める、見えないけれど強靭な錨のようなものです。揺るがない希望があるからこそ、人はどんな場合でも、どんな時にも感謝して生き抜くことができる。これこそが、人間の持つ「本当の強さ」なのだと確信しています。

 


暗闇の中で光を待つあなたへ

今、この文章を読んでくださっている方の中にも、深い落胆の中にいる方、挫折してなかなか立ち上がれないでいる方がいるかもしれません。まるで真っ黒なトンネルの中に閉じ込められ、手探りで必死に光を求めているような、そんな痛みを抱えている人もいるでしょう。あなたのその暗闇のただ中に、命の源からの「真の希望」の光が静かに、しかし力強く射し込むことを心から祈り願っています。どうか、絶望と思えるその場所から、あなたが再び希望の温もりを知り、力強く立ち上がることができますように。

今日も、共に前進です。

部屋の模様替え3時間

 


雨音の静寂と、心に青空を広げる朝の整頓

午前3時半。まだ深い暗闇に包まれた世界に響くのは、降りしきる雨の音でした。 雨など気にすることなく歩き出そうとするノアと共に外へ出たものの、やはり小雨とは呼べない雨足に、途中で引き返すことになりました。 家に戻る頃には、帽子も服もすっかり濡れて重くなっていました。

「このままシャワーランに出かけたら、きっと気持ちが良いだろう」。 そんな誘惑がふと頭をよぎりましたが、今日はその衝動を静かに手放し、大人しく休む選択をしました。

 


空間のホコリを払い、心を磨く

走ることを休んだ分、私が向かったのは自分自身の住まう空間です。 半年に1度ほど行っている、部屋の模様替えに取り掛かりました。 家具を動かし、普段は手の届かない場所に溜まっていたホコリをきれいに払い落とし、部屋全体を整えていく。その作業に、じっくりと約3時間を費やしました。

不思議なもので、目に見える空間の乱れが整い、空気が澄んでいくにつれて、雨に濡れた不快感や重たかった気分までもが、すっきりと晴れ渡っていくのを感じました。

その後も、私の朝の務めは続きます。

  • 会堂の除湿器の水タンクを空にする
  • 階段を掃き清める
  • ノアに朝ごはんを用意する
  • 洗濯をする

今、ようやくそれらを終えて、静かな一休みの時間を迎えています。 まるで専業主婦のような働きに思えるかもしれませんが、これらは普段から仕事をしながら重ねている、私にとっての大切なルーティンワークなのです。

 

変えられない空模様と、変えられる心模様

窓の外は雨曇り。じめじめとしていて、決して心地よい天気とは言えません。 私たちは生きている中で、時として自分ではどうすることもできない「外側の環境」に対して、思い悩み、心をすり減らしてしまいがちです。しかし、降る雨を止めることは誰にもできません。聖書には、このような言葉があります。

「何を見守るよりも、自分の心を見守れ。いのちの泉はここから湧き出るからである。」(箴言 4:23

私たちが注力すべきは、変えることができないものに心を使うことではなく、変えることができる「自分の心」を晴れ晴れとさせることです。 部屋のホコリを払い、空間を整える3時間の作業は、まさに自分自身の内側を整え、心の空を晴らすための静かで神聖なプロセスでした。

 

これは妻からの娘へのメッセージ


甘い香りと共に、今日を生きる

今日、娘は学校が2限からということで、駅までの送迎はありません。 このあと少し仕事に向かい、洗い上がった洗濯物を干して、朝食にはフレンチトーストを作る予定です。

早朝のバイトを終えて帰って来る妻のために・・・

自分はあまり好きではないので、食べませんが・・・

二人はフレンチトーストが好きですね。

外の天気がどれほどじめじめとしていても、部屋の中にはまもなく、甘く温かい香りが漂うことでしょう。 外の環境は変えられなくとも、私たちの内なる空は、自分の手でいくらでも晴らすことができます。変えられない現実に嘆くのではなく、整えられた心で、今日というかけがえのない一日を力強く生きていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年7月2日木曜日

もう少し寛容な心を、自分のために

 


ざわめく車内と沈黙の波紋――私たちが「他者」を意識して生きる理由

夕方、雨が続く中、駅まで娘を迎えに車を走らせました。密室である車内は、外の喧騒から切り離された穏やかな空間です。そこで、今日一日を終えたばかりの娘と、少し深い話をしました。

 


車の中で聞いた、ある車内の風景

話題は、娘が帰りの電車の中で直面した出来事でした。

隣の席に無造作に荷物を置き、スマートフォンの音を鳴らしたままゲームに興じていた二人の若者。そして、その前に立ち、彼らの振る舞いを嫌悪と非難の入り混じった視線で見つめていた人々。直接的な口論があったわけではありません。しかし、その車両には間違いなく「不愉快」という重たい空気が渦巻いていたことでしょう。娘の話を聞きながら、私は人間という存在の不思議さと、その厄介さについて深く思いを巡らせました。

 


「ありのまま」を受け入れることの難しさ

人を不愉快にさせる行為、言葉、そして印象。私たちはなぜ、他者の振る舞いにこれほどまでに心をかき乱されるのでしょうか。

  • 他者を「それぞれの個性」として受け入れられず、すぐに批判してしまう心理。
  • 直接自分に関わることでもないのに、相手の服装や見た目だけで不愉快に感じ、非難してしまう危うさ。

もし私たちが、目の前で起きるすべてをありのままに受け入れ、「そういうものだ」と通り過ぎることができたなら、人間関係のトラブルは大いに減るはずです。若者たちの振る舞いも、ただ「無視」してしまえば、心に波風を立てずに済むのかもしれません。

 


無視できないのは、私たちが「繋がって」生きているから

しかし、私たちは完全に無関心になることはできません。

なぜなら、人間は、周囲の状況を常に意識し、環境の変化を敏感に感じ取りながら生きています。 それは、自分を守り、危険を避けるために備わった、本能的な生き物の姿なのかもしれません。私たちは孤立したカプセルの中で生きているのではなく、同じ空間の「温度」や「空気」を共有して呼吸しています。だからこそ、和を乱す音や配慮の欠如に対して、本能的に摩擦を感じてしまうのです。

この「他者を意識してしまう」という性質は、時に私たちを苦しめ、苛立たせます。しかし見方を変えれば、それこそが私たちが「他者を思いやる」ことができる根源でもあるのです。不快感の裏側には、「もっと互いを尊重し合えるはずだ」という、人間への密かな期待が隠されているのではないでしょうか。

 


摩擦の先にある「寛容」という光

聖書に、このような言葉が記されています。

「互いに忍び合い、だれかに不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。」(コロサイの信徒への手紙 313節)

ここで求められているのは、不快な現実から目を背ける「無視」ではありません。他者の不完全さ、そして自分自身の未熟さを痛いほど認識した上で、それでもなお、その摩擦を引き受けようとする「寛容」という積極的な意志です。

すべてを自分の理想通りにコントロールすることはできません。しかし、波立った自分の心をどう鎮め、どのようなまなざしをこの不完全な世界に向けるかは、私たちが選ぶことができます。

 

車を降りると、夜の帳が下りた街に、家々の明かりが優しく灯り始めていました。一人ひとりが異なる事情を抱えながら、それでもこの同じ時代、同じ空間を共に生きています。その事実に静かな祈りを込めながら、また新しい一日への階段を上っていきたいと願います。娘は今から近くバイト先へ。

今日も、共に前進です。