慌てず、しかし着実に ―― 一番風呂の記憶と「今日」を生きる規律
曇り空の下の103キロ、そして一番風呂の特等席
今朝は午前四時半、まだ街が眠りの中に沈んでいる頃に路上へと踏み出しました。
曇り空から広がる静かな光の中、足を前に進めるたびに、今週の確かな疲労が身体の奥から語りかけてくるのを感じます。それでも、自分自身と対話しながら二十二キロを完走。これで今週の走行距離は百三キロに達しました。
走り終えた疲れた身体を抱え、車で向かったのはお風呂屋さんです。開店時間の午前八時、誰よりも先にあの広々とした湯船に身を浸す「一番風呂」の瞬間。まだ誰も触れていない、澄んだ湯面に身体を沈めるとき、じわりと疲れが溶け出していく感覚は何にも代えがたい贅沢です。たまにこうして自分を労わる時間を設けることは、私の大切な心の調律となっています。
忘れられない「やまびこ湯」での喜劇
「一番風呂」といえば、私の記憶に鮮烈に残っている忘れられない出来事があります。 以前、まだ「やまびこ湯」というお風呂屋さん(現在はゆーとぴあ湯に会社が変わりました)があった頃、そこは朝七時開店でした。その日も一番風呂を狙う人々が早くから列を作っており、私は前から五番目に並んでいました。
開店の合図と共に、列が動き出します。券売機でチケットを買う人々を横目に、割引回数券を持っていた私は受付にそれを渡すだけで、スムーズに脱衣所へと一番乗りすることができました。
しかし、私の前には、誰よりも早くから並んでいたであろう一人のご年配の男性がすでに中に入っていました。その方が最初にお風呂に入るかと思いきや、脱衣所から「開かないよ!」という大きな叫び声が響き渡ったのです。どうやらロッカーの鍵がうまく開かない様子でした。焦りと嘆きの中にいるその方を横目に、私は準備をスムーズに終え、結果として一番に風呂場へ入ることができました。しばらくしてその方も入ってこられましたが、きっと慌てるあまりに何か勘違いをされていたのでしょう。「一番乗りしたい」と強く願うあまり、目の前の小さな鍵に翻弄されてしまう。人間の愛らしさと、焦りがもたらす心の乱れを象徴するような、今でも思い出すたびに苦笑してしまう出来事です。
焦りを手放し、今ある「鍵」を見つめる
私たちは日常の中で、あの脱衣所のご年配の男性のように、何かを急ぐあまり、あるいは「一番にならなければ」と焦るあまり、目の前にあるはずの扉の鍵を見失ってしまうことがあります。聖書は、私たちが慌てふためくときに、立ち止まることの智慧を教えてくれます。「慌てて行う者は過ちを犯す。」(箴言 19章2節)
身体が疲れているとき、あるいは予定が詰まっているときほど、心は先を急ごうとします。しかし、焦れば焦るほど、本来スムーズに開くはずの人生のロッカーは、その鍵を固く閉ざしてしまうのです。回数券を差し出すように、今、自分にできる準備を淡々と行い、落ち着いて鍵を回すこと。その静かな規律こそが、私たちを確かな目的地へと導きます。
「休息は死んでから」という覚悟の愛
お風呂からの帰り道、私はいつものように買い物へ向かいました。まずはコーナン商事で愛犬ノアの餌を買い、それから隣の店で今日の夕食の食材と、実習を頑張っている娘のためのアイスクリームを選びました。
心のどこかでは「今日は本当に何もしない休息日にしたい」という願いもありました。しかし、家庭を支え、牧会者としてのミッションを抱える現実の中では、完全な休止など訪れないのが現実です。だからこそ、私はその現実をしっかりと受け止め、苦笑混じりに心の中でこう呟くのです。「本当の休息は、死んでからにしよう」と。
これは決して悲観的な諦めではありません。与えられた命を、大切な家族のため、主のために、今日も惜しみなく使い切ろうという力強い覚悟の裏返しです。ノアの餌を運び、娘のアイスを冷凍庫にしまうその瞬間にこそ、私の生きるエネルギーが満ちています。
慌てず、今日を生き抜くために
あなたの今日という一日も、やることが山積みで、心がせわしなく動いているかもしれません。ロッカーの鍵が開かないような、もどかしいトラブルに直面している方もいるでしょう。どうか、一度深く息を吐いて、慌てる心を静めてください。今日を生きるために必要な鍵は、すでにあなたの手の中にあります。私はこれから、買い込んできた食材を広げ、今日なすべき仕事へと向かいます。百三キロを走り抜いた足取りは確かです。あなたも、あなたの持ち場で、目の前の一歩を着実に踏み出してください。神様は、その誠実な歩みを必ず見ておられます。
今日も、共に前進です。






