デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年10月13日火曜日

今朝はハーフマラソン完走

 


痛みを走って癒す朝——遥かなるボストンへ

63キロの翌朝に

昨日、63キロのウルトラマラソンを走りました。

その代償は、ずっしりとした疲労と、脚全体に広がる筋肉痛として、確かに体に刻まれていました。それでも今朝4時50分。まだ夜明け前の冷気が漂う中、私は再びランニングシューズの紐をきつく結び、道へと飛び出していました。深い疲労を、あえて走ることで癒していく。それが、昔から変わらない私流の整え方です。

 


今朝の記録

  • 距離:21.21キロ(ハーフマラソンの距離)
  • タイム:1時間46分35秒
  • ペース:キロ5分01秒
  • 心拍数:148bpm
  • 消費カロリー:1,257キロカロリー

汗だくで帰宅した私を迎えたのは、妻の呆れ返った顔でした。

 


遠い頂を見上げる、私の歩き方

妻が呆れるのも無理はありません。昨日の今日でハーフの距離を走ったことに加えて、私が今、心に描いている目標が「ボストンマラソン」だからです。

ボストンマラソンは、年齢ごとに定められた厳しい資格タイムを、公認の大会で突破しなければ出場できない、世界最高峰の大会です。そして私が今目指しているのは、フルマラソンを3時間以内で走る「サブ3」。

市民マラソン大会を一度も走ったことのない男が目指すには、あまりにも遠い場所です。

自分でも「なぜ、いきなりボストンなのか」と笑ってしまいます。けれども振り返ってみると、私の初めての登山は、いきなり日本一の富士山でした。

常識的な階段を一段ずつ昇るのではなく、遥か遠くの途方もない頂をじっと見つめ、不器用なまま大きな一歩を踏み出してしまう。それが、私という人間の変わらない歩き方なのだと思います。私たちは時に、自分の身の丈に合わないような大きな夢や、とても届かないと思える高い壁を前にして、理由のない情熱に突き動かされることがあります。

それは、ただの無謀ではないのかもしれません。神様が、私たちの内側に眠っている「まだ見ぬ可能性」を引き出すために与えてくださった、聖なる衝動なのかもしれません。

 


走り抜くための「休息」

聖書には、人生という道のりを走る者に向けた、力強いエールが記されています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 12章1節)

一人ひとりに定められた、高く、長いコース。それを走り抜くためには、時に自分の限界を押し広げる挑戦が必要です。そして同時に、静けさの中で体をいたわる時間も欠かせません。今日と明日は、酷使した体にしっかりと休息を与えようと思います。走ることと同じくらい、深く休むこともまた、次の一歩のための大切な「前進」だからです。

 


命がある限り

命がある限り、走り続ける。祈り続け、語り続け、そして愛し続ける。

妻の呆れ顔の奥にある優しさに感謝しながら、今日も私は、私にしか走れない人生のコースを、喜びとともに前進していきます。

2026年10月12日月曜日

無事に帰宅

 


手放す勇気と、63キロの軌跡——肩の痛みの中に刻まれた恵み

午前2時24分。まだ夜明けには遠い、深い闇と静寂の中、私は原町教会を目指してウルトラマラソンのスタートを切りました。

少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、一定のリズムでアスファルトを踏みしめる。心拍数は平均139bpm、ペースはキロ6分34秒。自分の内側にある命の鼓動と対話するような、静かで熱い時間でした。

しかし、現実は思い描いた計画通りには進みませんでした。

背中に背負ったバックパックの重みは、距離を重ねるごとに想像以上の負担となって体にのしかかってきました。次第に肩の皮膚が擦れ、ヒリヒリとした痛みが走ります。その痛みを文字通り「背負いながら」走り続けましたが、目的地の原町を目前にして、私は鹿島駅で立ち止まりました。走行距離、約63キロ。合計タイムは6時間53分35秒、消費カロリーは4,027kcalに達していました。

なぜ、あと少しの距離を残して走ることをやめたのか。 それは、このまま走り続ければ、今回の最大の目的である「全体研修会」の時間に間に合わなくなってしまうからです。

ランナーとしての自我や誇りは、「最後まで自分の足で走り切りたい」と叫んでいたかもしれません。痛みに耐えてでも、当初の71キロという目標を完遂したいという誘惑がありました。しかし、私は鹿島駅で足を止め、電車に乗るという選択をしました。

私たちは人生において、時に「自分が立てた完璧な計画」に固執してしまうことがあります。目標を達成すること自体が目的化し、本来一番大切だったはずの「礼拝」や「神様との出会い」、「人との交わり」を後回しにしてしまう。そんな本末転倒な歩みをしてしまうことが、どれほど多いでしょうか。

聖書には、次のような言葉があります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言 16:9)

71キロを自分の足だけで走り切ること。それは私が思い巡らした「自分の道」でした。しかし、神様が今日、私に備えられた「確かな歩み」とは、63キロ地点で自分の限界とタイムリミットを受け入れ、潔く自我を手放して電車に揺られ、時間通りに礼拝の席に着くことだったのです。

帰りの電車の中、座席に深く腰を下ろすと、肩の擦り傷がじんわりと熱を持ち、心地よい疲労感が全身を包み込みました。完璧な完走という勲章は得られなかったかもしれません。しかし、自分の弱さを認め、他なる力(電車)に身を委ねて目的地へ着いたこの経験は、私にとって何よりも尊い「祈りの道のり」となりました。

計画通りにいかないこと。途中で諦めざるを得ないこと。痛みとともに歩まなければならないこと。 それらは決して失敗ではなく、私たちが本来向かうべき場所へ、一番正しいタイミングでたどり着くための「軌道修正の恵み」なのです。

肩の痛みが癒える頃、この63キロの軌跡は、私の心にさらに深い確信を与えてくれるはずです。今日という不完全で、しかしこの上なく満たされた一日に、心からの感謝を捧げます。

71キロウルトラマン前の準備

 


闇をひらき、光へ向かう71キロ——祈りと共に走る明け方の道

夜と朝の境界線すらまだ見えない、23時59分。 真夜中の静寂の中で目を覚まし、私の一日は始まりました。部屋を整えるための掃除、静かな祈りの時間、ノアと一緒に歩く夜気の中の散歩。資源ごみを出し、部屋に戻って聖書のページをめくる。このいつもと変わらない、しかし決して疎かにできない一つひとつの営みが、これから始まる非日常の挑戦へ向けて、私の心を静かにチューニングしてくれます。

現在、午前1時過ぎ。本日の午前2時半から始まる、約71キロの道のりに向けた最終点検を行っています。

 


未知の領域へ踏み出す不安と期待

今日の目的地は、南相馬市にある原町教会です。午前10時から地区全体研修会のための会合があり、せっかくの機会なので、自分の足で走って向かうことに決めました。

過去に徒歩で2度、この道を歩き通したことはあります。しかし、「走って行く」のは今回が初めてです。暗闇の中、71キロという途方もない距離を前にすると、心の中に小さな問いが波紋のように広がります。 「無事にたどり着けるだろうか?」 「一体、何時間かかるのだろうか?」先が見えない道のりに対する不安は、私たちが人生の転換期や、新しい挑戦を前にしたときに感じる震えによく似ています。結果ばかりを急ぎ、まだ見ぬゴールを思って息苦しくなってしまうことは、誰の日常にもあることではないでしょうか。

 


恵みの「区切り」と、歩み続けるための知恵

しかし、今回の道程において、私はフルマラソンのようなスピードを求めるつもりはありません。最初の休憩地点は、長町から約23キロ先にある亘理のローソン。そこから先は、15キロごとに立ち止まり、一呼吸を入れる計画を立てています。

一気に走り切ろうとするのではなく、区切りをつけながら進むこと。 焦らずに、自分の体の声に耳を傾け、調子に合わせて祈りながら走り続けること。

これは単なるランニングの戦略ではなく、私たちが日々の困難や長い試練を乗り越えていくための、一つの生き方のようにも思えます。

 

祈りという呼吸、委ねるという前進

聖書には、このような言葉があります。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40:31)

長い人生の道のりの中では、力強く駆け抜ける時もあれば、立ち止まって深く息を吸い込む時も必要です。亘理のローソンでの最初の一息も、その後の15キロごとの休息も、決して「立ち止まることへの敗北」ではなく、次の一歩を踏み出すための「恵みの時間」なのです。冷たい夜の空気を切り裂き、やがて東の空が白んでいくのを見つめながら、私は一歩一歩、アスファルトを踏みしめていきます。速さや結果ではなく、その道中にある祈りと、体を通して感じる神様の守りに意識を向けること。今日、原町教会までの71キロは、私にとって一つの長い祈りの道となります。あなたも今、先の見えない長い道のりの途中にいるかもしれません。 どうか焦らないでください。途中で休んでもいいのです。あなたの呼吸に合わせて、今日という一日をゆっくりと進んでいきましょう。

さあ、出発の時間が近づいてきました。 静かな祈りとともに、夜明けの道へ踏み出してきます。

2026年10月10日土曜日

笑顔は、自分で灯すもの


 

夜明け前のスタート

今日は5時前に走り出しました。

長町周辺を10キロ。そこから広瀬橋と山田インターのあいだを往復して、合計32キロ。ペースはキロ4分48秒で、今日も記録更新です。

サブ3.5の目安は、キロおよそ4分58秒。その線を下回る走りが、もう特別な一日ではなく、当たり前になってきました。サブ3.5が定着した、と言ってよいと思います。

まだ街が目を覚ます前、自分の足音と呼吸だけを数える時間。その静けさの中で、一歩一歩が確かに積み上がっていくのを感じます。

 


記録は、ある日突然やってこない

この成果は、計画練習を始めてから表れたものです。

ふと考えます。記録が伸びた「今日」は、今日一日だけで生まれたのでしょうか。

そうではないと思います。

  • 予定どおりに走った日
  • 気が乗らなくても、靴ひもを結んだ朝
  • 決めた距離を、決めたペースで刻んだ時間

そうした見えない一段一段が階段のように重なって、ある朝ふと、ひとつ上の踊り場に立っている。成長とは、そういうものなのかもしれません。

このまま練習を積み重ねていけば、来年までにはサブ3にたどり着けるでしょう。サブ3のペースはキロ4分15秒前後。今日の4分48秒から見れば、まだ先は長い道です。けれども、道がどこへ続いているかはもう見えています。

聖書にこんな言葉があります。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙 3章13〜14節)

目標があるから、今日の一歩に意味が生まれる。信仰の歩みも、ランニングも、そこは同じだと感じます。

 


運動場の声、走る人たち

今日は3連休の初日でした。運動場では、少年少女野球団の試合が行われていました。

この時期は、走る人の姿も多く見かけます。まさに、ランナーにとって最高の季節です。

野球のグラウンドに立つ子どもたちも、道を走る大人たちも、それぞれの場所で、それぞれの目標に向かっています。誰かと競い合うためだけではなく、昨日の自分より少し前へ進むために。自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
(ヘブライ人への手紙 12章1節)

「定められている競走」は、一人一人違います。速さも、距離も、ゴールも違う。だからこそ、隣の人と比べる必要はないのだと思います。

 


サラダチキンという、もう一つのゴール

帰宅して、サラダチキンを作りました。二人が美味しく食べてくれることでしょう。

32キロを走り終えた体で台所に立つ。記録を追う走りの先にあるのは、自分一人の満足ではなく、大切な人の食卓なのだと気づかされます。走ることは、自分を鍛えることです。料理をすることは、誰かを養うことです。今日はその二つが、一本の道でつながりました。

 


笑顔は、環境が決めるものではない

今日も笑顔で、前進です。

環境や状況ではなく、笑顔は自分で作っていくものだと思います。

天気が良い日も悪い日も、調子が良い日も重い日もあります。状況が整うのを待っていたら、笑顔はいつまでもやって来ないかもしれません。

けれども、笑顔は自分で作ることができる。そして信仰者として付け加えるなら、その笑顔を灯す火種は、いつも外から与えられています。

主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ記 8章10節)

自分の力だけで笑おうとすると、いつか息切れします。けれども、受けている恵みを数えるとき、笑顔は無理に作るものではなく、内側から灯るものに変わっていきます。

 

山田インター近くの走って約20キロ地点にあるこの自販機でいつも水分補給をしています。

今日を読んでくださったあなたへ

記録が伸びない時期もあるでしょう。思うように走れない朝もあるでしょう。

それでも、今日の一歩は、確かに明日へつながっています。

主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書 40章31節)

さあ、今日も笑顔で。一歩ずつ、前進です。

 

2026年10月7日水曜日

笑顔で生きる?

 


澄み渡る秋空と過酷な世界——涙の谷で「笑顔」を灯すために

今朝は、大年寺の階段でのトレーニングと散歩から一日が始まりました。

見上げる高く澄んだ秋空、頬を撫でる涼やかな秋風、そして全身を包み込む柔らかな朝日。いつの間にか、自然はすっかり秋色へとその装いを変えていました。街を歩けば、店先には秋の食材が多く並んでおり、食欲を増す豊かな季節の訪れを視覚からも味覚からも感じさせてくれます。

深く深呼吸をしたくなるような、本当に素晴らしい朝の風景でした。

 


季節の色を持たない風景

しかし、その澄み切った秋の空を見上げながら、私の心の中にはある静かな痛みが広がっていました。この美しい季節の変化を、少しも感じることができない人々がいるという事実です。深い苦しみや悩み、痛みの中に閉じ込められ、空の青さにも、秋の風にも気づくことのできない人々の姿が心に迫ってきたのです。

  • 愛する家族を亡くし、心の時間が止まってしまった人々。
  • 戦場で戦う家族の無事を祈り、毎晩震えながら過ごしている人々。
  • 治療方法が見つからず、希望の光を失いかけている患者のご家族。
  • 通帳のお金が底をつき、「明日、どうやって生きていけばいいのだろうか」と途方に暮れている人々。

これが、私たちが生きているこの世界の、もう一つの偽りざる「現実」です。 どれほど過酷で、どれほど絶望的な状況に置かれていたとしても、「命がある限り生きなければならない」という重い事実が、容赦なく肩にのしかかってきます。

これほどまでに悲しみに満ちた危険で過酷な世界の中で、私たちはどうすれば、心からの「笑顔」で生きることができるのでしょうか。

 


痛みを抱えたままの笑顔

その問いに対する答えを探すとき、私たちは「笑顔」というものの本当の意味を考え直さなければならないのかもしれません。

私たちが目指すべき笑顔とは、苦しみから目を背け、「すべては上手くいっている」と自分に言い聞かせるような表面的な明るさではありません。過酷な現実をなかったことにするようなプラス思考でもありません。

本当の笑顔とは、涙を流す痛みを知っている者が、それでも絶望に呑み込まれないと決意したときに灯る「小さな祈りの光」なのではないでしょうか。

聖書の中に、このような言葉があります。

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします。」(詩編 84:6)

人生という道は、時にこの「涙の谷」を通らなければなりません。乾ききった過酷な谷底です。しかし、そこを歩きながら流した涙は、やがて誰かの渇きを潤す「泉」へと変わっていくと聖書は約束しています。

 


一段ずつ、階段を上るように

どうすれば笑顔になれるのか。 それはきっと、自分の力だけで笑おうとするのをやめた時です。悲しみの中にある時は、無理に笑う必要はありません。ただ、共に泣いてくれる人がいること、そして、この世界の痛みをすべて背負って十字架にかかられたキリストが、その涙の谷のどん底であなたと共に座り込んでくださっていることを思い出すだけでよいのです。「自分は一人ではない」 「この痛みを知ってくれている方がいる」

その静かな安心感に出会えた時、人の顔には、自然と柔らかな光が差します。それこそが、過酷な世界で生き抜くための、最も強くて美しい「笑顔」なのだと思います。

大年寺の長く急な階段を、息を切らしながら一段一段上るように。 人生の過酷な現実の前で足がすくみそうになっても、今日という一日、ただ目の前の一段だけを見つめて足を乗せてみてください。その小さな一歩を、天の神様は決して見捨てることなく支えてくださいます。美しい秋空の下、涙の谷を歩むすべての人々の足元に、今日、小さな泉が湧き上がりますように。間もなく水曜祈祷会です。

2026年10月6日火曜日

立入禁止



「立入禁止」のあふれる世界で、明日のための食卓をととのえる

街を歩いているとき。あるいは、山や川沿いの道を走っているとき。 風景のなかに、ふと黄色や赤の小さな看板が目に留まることがあります。

「立入禁止」

そこにはたいてい、立ち入ってはいけない理由として「危険だから」という警告が添えられています。崖が崩れるかもしれない、川の流れが急であるかもしれない。命を脅かす危険が潜んでいるから、ここから先へは入ってはいけない、という境界線です。

 

危険に満ちた世界への問い

走りながら、あるいは歩きながら、その看板を通り過ぎるたびに、私の内に一つの静かな問いが波紋のように広がっていくのを感じます。

あちらにも「立入禁止」。こちらにも「危険」。 そうやって見渡してみると、この世界は至る所に危険が口を開けて待ち構えているように思えてきます。物理的な危険だけではありません。病、事故、突然の喪失、理不尽な悪意。一歩踏み外せば足元が崩れ落ちてしまうような危うさの上に、私たちの生活は薄氷のように乗っているに過ぎないのではないか。

  • 危険なところがありすぎる。
  • 本当は、この世界は安心して住めるような場所ではないのではないか。

ふと、そんな途方もない不安と虚無感に襲われる瞬間があります。 それなのに、人々はこの危険な世界で、今日も息をして、笑い、泣き、生きています。

なぜ、私たちはこの危うい世界で、それでも生き続けることができるのでしょうか。

 

日常という名の「希望の砦」

その問いを胸の奥に抱えながら、私は家に帰り、いつものように台所に立ちます。 家族のために夕食を作ります。包丁で野菜を刻み、鍋を火にかけ、部屋の掃除をし、そして「明日のゴミ出し」の準備をします。

危険に満ちた広大な世界と、夕食の匂いが漂う小さな台所。 そのあまりにも対照的な二つの風景が重なり合ったとき、私の中で一つの深い気づきが静かに降り積もりました。

私たちがこの危険な世界で生き続けることができる理由。 それは、世界が安全になったからでも、私たちが危険をすべて回避できるほど強くなったからでもありません。

「愛する者のために、今日なすべき小さな営みがあるから」です。

家族の帰りを待って夕食を作ること。床の埃を掃き清めること。明日の朝のために、資源ごみをまとめること。それらの日常の平凡な行為は、実はとても力強い「希望の宣言」です。 明日のゴミ出しを準備するということは、「明日もまた、家族と共に生きていく」という未来への確かな信頼(信仰)の証なのです。

外の世界にどれほど多くの「立入禁止」の看板が立っていようとも、愛する者のために整えられたこの小さな家の中には、温かな命の居場所が確保されています。私たちは、恐怖によって世界から逃げ出すのではなく、愛によって日常という名の「希望の砦」を築き上げているのです。

 

平安は、危険のない場所ではなく

聖書の中に、イエス・キリストが弟子たちに残した重みのある言葉があります。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33)

キリストは、「この世からすべての危険や苦難を無くしてあげる」とは言われませんでした。世には苦難がある。危険な場所も、悲しみもある。その厳しい現実を真っ直ぐに見据えた上で、「それでも、勇気を出しなさい」と招いておられます。

本当の平安とは、「立入禁止」の看板が一つもない安全無菌な世界に住むことではありません。 どれほど世界が危うくとも、神の揺るぎない愛に守られながら、今日という日に与えられた「誰かのための小さな働き」を誠実に積み重ねていくこと。その確かな足取りの中にこそ、平安は宿るのです。

今日、何かの不安に足がすくみそうになっている方がいるかもしれません。 世界が少し恐ろしく見えて、前に進めなくなっている人がいるかもしれません。

どうか、遠くの大きな危険を見つめ続けるのをやめて、手元にある小さな愛の営みに目を向けてみてください。 誰かのために温かいお茶を淹れること。部屋の窓を開けて風を入れること。明日の準備をすること。 そのあなたの小さくて誠実な手の動きが、危険な世界に灯る確かな光となり、あなた自身の心を温めてくれるはずです。

明日もまた、私たちは明日のためのゴミ出しの準備をして、新しい一日を歩み始めます。 

箴言27章

 


箴言27章は、**「未来への謙遜」「真の友情と誠実さ」「自制と勤勉」**を主要なテーマとして、日々の生活における心の持ち方と人との関わり方を教えています。

まず、この章は「明日のことを誇るな」と忠告し、未来の不確実性を認識し、謙遜な心を持つことの重要性を説きます。自分の口ではなく、他人に自分をほめさせる方が良いと、自己顕示欲を抑えることを促します。

次に、**「真の友情」**の価値が強調されます。「開かれた叱責は隠れた愛に勝る」と述べ、友人の誠実な批判や傷は、信頼できる証拠であると教えます。友情は、鉄が鉄を研ぐように、お互いを高め合うものであり、困難な時にこそ真価が問われると語られます。隣人や古くからの友人を大切にし、困った時に遠方の親族よりも近くの隣人が頼りになる場合があるとも指摘しています。

**「嫉妬と怒り」**の危険性についても警告がなされます。怒りは残忍であり、激しいものであるが、嫉妬はそれよりもさらに残酷で耐え難いものであると述べ、これらの感情がいかに人間関係を破壊するかを示唆しています。

また、**「自制心と心の状態」**も重要なテーマです。満腹の人は蜂蜜も嫌うが、空腹の人は苦いものでも甘く感じるという比喩を用いて、心の状態が物事の感じ方に大きな影響を与えることを示します。自分の家を離れてさまよう者は、巣を離れた鳥のようであると、安定した居場所の価値を説いています。

さらに、**「怠惰への警告と勤勉さ」**も語られます。怠け者は、雨の日に絶えず滴り落ちる雨漏りのように煩わしい存在であり、また、自分の羊の群れの状態を勤勉に知り、心を配る者は繁栄すると述べ、地道な努力と責任感の重要性を強調しています。


現代人が学ぶべき3つの教訓

変化が速く、人間関係が複雑な現代において、この章は私たちに心のあり方と人との健全なつながり方を教えてくれます。

  1. 「不確実な未来への健全な向き合い方」
    現代はVUCA(変動性、不確実性、複雑性、曖昧性)の時代と呼ばれ、未来の予測が困難です。箴言が「明日のことを誇るな」と教えるように、私たちは過度な楽観主義や悲観主義に陥らず、不確実性を受け入れる謙虚さを持つべきです。目標は立てつつも、計画は柔軟に修正し、目の前の一日一日を大切に生きることが、心の安定と着実な進歩につながります。
  2. 「耳の痛い意見にこそ価値を見出す」
    SNS
    のフィルターバブルやエコーチェンバー現象により、自分と異なる意見や批判的な声が届きにくくなりがちです。しかし箴言は、「開かれた叱責は隠れた愛に勝る」と、真の友情とは耳の痛い忠告をも与え合う関係であると示唆します。私たちは、自分を成長させてくれる正直なフィードバックを積極的に求め、それを受け入れる勇気を持つべきです。それが、個人的な成長だけでなく、健全な組織や社会を築く基盤となります。
  3. 「日々の勤勉さが築く安定した未来」
    「自分の羊の群れの状態を勤勉に知れ」という言葉は、現代において私たちの仕事、健康、人間関係、資産など、人生のあらゆる側面における「メンテナンス」の重要性を示しています。目先の成果だけでなく、日々の地道な努力、継続的な学習、自己管理、そして大切な人との関係性を丁寧に育むことが、予期せぬ困難に直面した際の揺るぎない安定と、長期的な繁栄をもたらします。

朝ラン32キロ完走

 


永遠ではない「今日」を愛し尽くす――明け方の小さな喜劇と、32キロの道のり

午前3時半、まだ夜の底にある冷たい空気の中、愛犬ノアとの散歩に出かけました。 ふと見ると、教会の前に一台のタクシーが停まっており、運転手さんが携帯電話でどこかへ連絡をしていました。散歩を終えて戻ってくると、今度はパトカーが到着しており、警察官が後部座席で横になっている客に声をかけています。

私たちはいったん帰宅し、私はランニングの支度と準備運動を済ませて、再び外へ出ました。 すると今度は、客のお母さんのような女性が到着しており、タクシーの後ろで眠りこけている人を叩いて起こしていました。おそらく、深く酔い潰れてしまった若い女の子だったのでしょう。運転手さんはむやみに体に触れるわけにもいかず警察へ連絡し、警察官の声かけにも反応がないため、住所を調べてご家族を呼んだのだと思います。お母さんが駆けつけたことで、無事に事態は解決へ向かっていました。

ご家族にとっては人には言えない恥ずかしい出来事かもしれませんが、傷害事件や事故ではなく、第三者から見ればどこかホッとするような、明け方の小さな喜劇でした。 32キロの朝のランニングから帰宅し、娘にこの顛末を話すと二人で大笑い。「自分には絶対にありえないことだ」と、娘はきっぱりと言い切っていました。

 


忙しすぎる日常という名の「恩寵」

今日も娘は実習へと出かけ、妻も仙台での仕事へ向かいます。 私は二人のために、美味しい料理を準備します。これだけを聞くと、私が専業主夫のように思われる方もいるかもしれません。

しかし、私はおそらく日本の牧師の中でも、一番忙しく立ち回っている一人です。 ノアの散歩、ゴミ出し(今日は資源ごみの日でした)、3時間に及ぶ朝のランニング。並行して、大人用と子ども用の二つの礼拝説教の準備、週報のコラム執筆、教会員への手紙の作成、そして月報「EL CAMINO」の発行と印刷。さらに、夕食の準備や日々の掃除、日用品の買い出し……。

息をつく暇もないほどの予定が、毎日びっしりと詰まっています。 しかし、この慌ただしくも豊かな日常のサイクルを回しながら、私の心の奥底には常に、ある静かな「自覚」が横たわっています。

 


いつか手放す日が来るからこそ

それは、「これらのことが出来なくなる日が、必ず訪れる」という厳粛な事実です。

32キロの距離を駆け抜ける強靭な脚力も、複数の原稿を同時に書き上げる思考力も、家族のために台所に立ち続ける体力も、永遠に続くものではありません。人間は土の器であり、やがて老いと共に、一つ、また一つと、出来ていたことを手放していく季節がやって来ます。だからこそ、私は「出来る今」を心から愛おしく思います。 永遠に続かないからこそ、今日という一日に与えられたすべての役割――資源ごみをまとめることも、み言葉を紡ぐことも、額に汗して走ることも――そのすべてを大切に、精一杯に生きたいと願うのです。

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。」(コヘレトの言葉 3:11)

聖書のこの言葉が教えるように、人生のどの季節にも、神様が定めた美しさがあります。若さゆえの失敗も、働き盛りの忙しさも、やがて訪れる静かな老いも、すべては過ぎ去っていくからこそ尊いのです。

 


新しい街の風を想像しながら

今、私は仙台という街を愛し、この場所で祈り、生活し、走り続けています。 しかし、この仙台を離れ、新しい街で走る自分を想像することがあります。実は、その日はそう遠くないのかもしれません。

次に住む都市で、新しいコースを見つけ、見知らぬ景色の中を走る。その時、私の胸の中にはきっと、今のこの仙台での忙しくも愛おしい日々が、温かい思い出として息づいていることでしょう。その未来を思うと、不思議と寂しさよりも、新しい希望と楽しみが湧き上がってきます。

 

人生は、天の故郷を目指す巡礼の旅(カミーノ)です。 私たちは、一つの場所に永遠に留まることはできません。しかし、今与えられているこの街で、この体で、この家族と共に過ごす「今日」という日を、力の限り走り抜くことはできます。

今朝も32キロを完走しました。 筋肉の心地よい疲労と、家族が帰ってくるのを待つ静かな家の中で、私はまた、明日という新しい道を踏み出す準備をしています。

2026年10月2日金曜日

同じ空間にいる恵み

 


同じ月を見上げられない夜に——屋根の下の安堵と、空を越える祈り

愛犬ノアとの静かな夜の散歩を終え、ゴミ出しを済ませて家に戻る。 静まり返った部屋で、カップ麺とバナナ、そしてコーヒーを用意しました。少しちぐはぐで不思議な組み合わせに見えるかもしれませんが、これが私なりの今日の一日の締めくくりであり、日常の句読点のようなものです。今日もこうして、一つの一日が終わり、また新しい一日を迎えようとしています。 明日もまた走るために、二度寝の体制を整えて、日付が変わる前にはベッドに入る準備をします。

 


夜の底のような静寂のなか、家族はすでに深い眠りについています。 私は一人起きて、自室で仕事に向き合っています。一人きりの部屋、一人で過ごす時間。それなのに、ふと心に灯るような温かい安心感があります。それは、壁を隔てたすぐそこに、同じ屋根の下に、家族が息づいているという確かな事実があるからです。

ただ「同じ建物にいる」ということ。 言葉を交わさなくても、姿が見えなくても、それだけで人はこれほどまでに満たされ、守られていると感じるものなのです。

 


失われた「共有」の痛み

しかし、その安心感を噛み締めたとき、私の心は同時に、ある深い寂しさの淵に立っている人々へと向かっていきました。同じ家。同じ建物。同じ地域。同じ国。 そして、同じ地球。そこから、愛する人がいなくなってしまった家族のことです。 私たちが無意識に寄りかかっている「同じ空間にいる」という安堵を、もう二度と得ることができない人たちがいます。

  • 同じ時間を刻めないこと。
  • 同じ季節の風を感じられないこと。
  • 同じ太陽の光、同じ月の満ち欠け、同じ星空を共有できなくなってしまったこと。

死という隔たりは、私たちが当たり前のように共有していた物理的な世界を、容赦なく真っ二つに引き裂きます。昨日まで一緒に見上げていた空を、もう共有できない。その絶対的な事実の前に立つとき、人の心に開く「寂しさ」の穴は、どれほど深く、どれほど冷たいものでしょうか。



 

空を越え、魂を繋ぐもの

今夜、私の心の中には、ひとりの姉妹の姿があります。 愛する息子さんを天へと送り、深い悲しみと、底知れぬ寂しさのただ中にいる彼女の背中を思い浮かべています。

彼女は今、息子さんと同じ太陽を見ることはできません。同じ季節を歩むこともできません。その喪失の痛みは、どのような言葉をもってしても埋め合わせることはできないでしょう。しかし、物理的な世界を共有できなくなったとき、私たちに残されているのは「祈り」です。

"私たちが生きるのも、主のために生き、死ぬのも、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。"(ローマ人への手紙 14:8)

同じ地球にいなくても、私たちは同じ神の御手の中にいます。 同じ月を見上げることはできなくても、天にいる愛する者と、地上に残された私たちは、永遠の愛という同じ霊的な空の下に包まれています。祈りとは、その目に見えない真理をたぐり寄せ、引き裂かれた世界をもう一度つなぎ合わせる、細くとも決して切れない糸なのだと思います。

 


日付が変わろうとする静かな夜。 同じ屋根の下で眠る家族の息遣いに感謝しながら、私はそっと目を閉じます。 深い悲しみの中にある姉妹の心に、この夜、天からの慰めの毛布がふわりとかけられますように。共有できない季節の寂しさを越えて、いつか必ず来る再会の朝への希望が、彼女の足元をかすかに、けれど確かに照らしてくれますように。

そう祈りながら、私もまた、新しい明日を走るために眠りにつきます。

2026年9月29日火曜日

複雑な人間、単純な存在

 


【「あ〜疲れた!」の声と食卓の温度】複雑な時代を生きる私たちの、愛しき単純さ

玄関のドアが開き、「あ〜疲れた!」という娘の大きな声が響き渡ります。

一日の重荷をどっさりと降ろしたその叫びのあとに、彼女が期待しているものは何でしょうか。それは言うまでもなく、温かい夕食であり、甘いデザートです。 子どもであれ大人であれ、あるいは年を重ねたお年寄りであれ、人間の根源的な願いというものは、案外このようなものなのかもしれません。

 

600キロの労いと、買ってきた夕食

今夜の我が家の食卓は、いつもと少し違います。 私自身の「月間600キロの朝ラン達成」というささやかな記念日。今日はあえて台所に立って何かを作るのではなく、できあがった美味しいものを買ってくることにしました。

  • サクサクのキャベツメンチカツ
  • スパイスの香るビーフカレー
  • 食欲をそそる韓国風唐揚げ

そしてデザートには、美味しい二種類のチョコレート。 さらに妻も、娘からの「ミッション」をしっかりと受けて、お菓子を買って帰ってきました。テーブルの上に並んだ、買ってきたばかりのおかずと甘いものたち。それらを見つめながら、私は人間の持つ不思議な性質について思いを巡らせていました。

 

複雑なのは人間か、それとも時代か

人間は、時に「複雑で分かりづらい存在だ」と言われます。 心の奥底で何を考えているのか分からない、と悩むこともあります。しかし、お腹が空けば不機嫌になり、美味しいものを食べればふっと笑顔になり、疲れて帰れば甘いものを求める。その姿は、驚くほど単純で、愛おしいほど分かりやすいものです。

私たちが「分かりにくい」と恐れるべき本当の正体は、人間ではなく、この私たちが生きている「時代」のほうです。

  • 終わりの見えない戦争の影
  • 突然日常を奪う事故や事件
  • 足元を揺るがす自然災害

世界はどこへ向かっているのか、誰にも分かりません。 昔の歴史書にあるような、目に見える激しい動乱の形ではないかもしれません。しかし、私たちの気づかない深い地底のところで、時代は静かに、しかし確実に形を変え続けています。その捉えどころのない激しい変化こそが、私たちの心を不安にさせるのです。

 

単純な日常という、最強の錨

先の見えないこの複雑な世界にあって、私たちはどう生きるべきでしょうか。

世界情勢を自分の力で変えることは難しくとも、疲れて帰ってきた家族の「あ〜疲れた!」という叫びを受け止め、好物を並べた食卓を用意することはできます。 過酷な月間600キロの道のりを走り抜いた自分の身体を、あえて「買ってきたお惣菜とチョコレート」で優しく労うことはできます。

 

聖書に、「今日、我らの日用の糧を与えたまえ」という祈りがあります。 明日がどうなるか分からない世界の中で、私たちに必要なのは、遠い未来の保証ではなく、「今日を生き抜くための、温かい食事と安心できる場所」なのだと、この祈りは教えてくれます。複雑で巨大な不安に立ち向かうための武器は、案外、食卓を囲むという「単純な愛」の中にあるのです。9月も、残すところあと1日となりました。 時代がどれほど移り変わろうとも、走り、祈り、愛する人のために食事を並べる。その尊く単純な営みを、これからも誠実に続けていきたいと思います。