2026年2月18日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第1日:荒野への一歩、静寂への招待

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第1日:荒野への一歩、静寂への招待

2026218日。今日、私たちの心に「灰」で十字が記され、四旬節(レント)という40日間の巡礼が始まります。騒がしい情報の渦、終わりのないタスクの列。 私たちは、立ち止まることを忘れた旅人のようです。 そんな私たちの背中を、主は優しく、けれど力強く「荒野」へと押し出されます。


1. 聖書の場面:荒野での試み

「それから、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食された後、空腹を覚えられた。」(マツタイによる福音書 4:1-2

公の活動を始める直前、イエス様が真っ先に向かわれたのは、華やかな舞台ではなく「何もない荒野」でした。そこは、日中の酷暑と夜の極寒が支配し、空腹と孤独が身に染みる場所です。

主はそこで、生きるための最低限の糧さえ手放し、ただ父なる神との対話に専念されました。しかし、最も弱り果てたその瞬間に、誘惑の主が忍び寄ります。

 


2. 心の揺らぎ:空腹という名の「渇き」

現代を生きる私たちは、物理的な空腹よりも「心の空腹」に苦しんでいます。

  • 「もっと認められたい」という承認への渇き
  • 「何かを所有していないと不安だ」という物質への依存
  • 「自分を証明しなければならない」という焦燥

イエス様への最初の誘惑は、「石をパンに変えろ」という、最も合理的で魅力的な解決策でした。それは「自分の力で、自分の欠乏を埋めてしまえ」という誘惑です。私たちもまた、自分の力だけで人生のハンドルを握り、空虚さを何かで埋めようとして、かえって疲弊してはいないでしょうか。

3. 核心:パンのみに生きるにあらず

イエス様は、最も弱い状態で、最も強い言葉を返されました。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

四旬節の教訓は、単なる「我慢」ではありません。 それは、**「自分を支えているのは、目に見える『パン』ではなく、目に見えない『神の愛』である」**というリアリティを取り戻すことです。私たちが「パン(自分の力や成果)」に頼りすぎるとき、心は硬い石のようになります。しかし、その手を一度放し、「私は神様の言葉によって生かされている」と認める時、荒野は神との出会いの聖所に変わります。




今日のあなたへ

今日、少しだけ「スマホ」を置く時間、あるいは「テレビ」を消す静寂の時間を作ってみませんか。 その空白に流れ込んでくる不安や寂しさを、無理に埋めないでください。 その「何もない場所」にこそ、イエス様が共に立ってくださっています。

あなたの乾きを知り、あなたと共に空腹を覚え、それでも「あなたは私の愛する子だ」と語りかけてくださる主を見つめる。それが、私たちの四旬節の第一歩です。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


今日一日、あなたが「これがないと生きていけない」と思い込んでいるものを一つだけ思い浮かべてみてください。それを一旦横に置いて、神様の恵みに心を向けるための、具体的な「静まりの時間」の持ち方を一緒に考えてみましょうか。

 


今日は、レントの思いを胸に、静かに24キロを走りました。

一歩一歩、祈るように。 自分の弱さと向き合いながら、 主の十字架の愛を思い起こしつつ、 風の中を走りました。体は疲れても、心は不思議と軽く、 この道のりもまた、信仰の旅路の一部なのだと感じています。

2026年2月17日火曜日

この朝日が、明日も昇るから

 


この朝日が、明日も昇るから

東の空が、ほんのりと赤く染まり始める。 静けさの中に、確かな気配が満ちていく。 そして、ゆっくりと、けれど確かに、 今日の太陽が昇ってきました。

その光を見つめながら、ふと思うのです。 この太陽は、明日もきっと昇る。

私たちの人生には、 先が見えない夜のような時もあります。 不安や疲れ、孤独に包まれて、 「もう起き上がれない」と感じる朝もあるでしょう。けれど、どんな夜にも終わりがあり、 どんな闇にも、朝はやってきます。そして、今日昇ったこの太陽が、 明日もまた昇ると知っているからこそ、 私たちは希望をもって、 もう一度、起き上がることを選べるのです。

 


朝日は、何も語りません。 でもその光は、こう告げているように思えます。

「あなたは今日も、生きていていい」 「昨日がどんな日でも、今日を始めていい」

それは、神さまが私たちに与えてくださった、 新しい一日の恵みです。

 


生きよ!

しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。(エゼキエル書166節)

 


だから私は、 この朝の光を浴びながら、 明日もまた希望をもって生きることを誓います。

太陽が昇るように、 私もまた、立ち上がるのです。

今日も階段トレーニング

 


休むことに、罪悪感を覚えるあなたへ

「今日は、少し休んだほうがいいかもしれない」 そう思った瞬間、心のどこかで小さなざわめきが起こる。 怠けているのではないか。 もっと頑張るべきではないか。 そんな声が、内側から聞こえてくる。けれど、体は正直だ。 階段を上る足取りが、いつもより重い。 散歩の途中で、ふと立ち止まりたくなる。 それは、心が「立ち止まること」を求めているサインかもしれない。



私たちは、走り続けることに慣れすぎてしまった。 止まることに、どこかで罪悪感を覚える。 休むことは、弱さの証だとさえ思ってしまう。でも、聖書はこう語る。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる。」

神は、私たちの「弱さ」を恥とは呼ばれない。 むしろ、その弱さの中にこそ、 神の力が宿ると語ってくださる。だから、疲れたときは、休んでいい。 立ち止まり、深呼吸し、 自分の内側にある声に耳を澄ませていい。

休むことは、信仰の後退ではない。 それは、神の御手に身をゆだねるという、 もうひとつの「歩み方」なのだ。

今日、あなたがもし「少し休みたい」と感じているなら、 それは神があなたに語りかけておられるのかもしれない。 「今は、わたしのもとで静まりなさい」と。

今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月16日月曜日

月曜日、出発です。

 


もう一度、歩き出すために

朝、目が覚めたとき、 「また一週間が始まる」と思うことがあります。 それは希望のようでもあり、 少し重たく感じることもあるかもしれません。昨日の疲れがまだ残っている。 やり残したことが心に引っかかっている。 あるいは、これから始まる一週間に うまく立ち向かえるか、不安を抱えている。そんな月曜日の朝に、 ふと心に浮かぶのは「再出発」という言葉です。

 


人生は、まっすぐには進みません。 ときに立ち止まり、 ときに後戻りし、 ときに迷い、 ときに転びます。でも、聖書の物語を見ていると、 神はいつも「もう一度、歩き出す人」に寄り添っておられることに気づきます。アダムとエバが楽園を出たときも、 モーセが荒野をさまよったときも、 ペトロが主を否んだその夜も、 神は見捨てず、 新しい一歩を用意しておられました。

 


「再出発」は、失敗のあとにだけ訪れるものではありません。 それは、神と共に歩む者に与えられる、日々の恵みです。昨日の自分に納得がいかなくても、 今日、もう一度歩き出せる。 それは、神が私たちに「今日」という時間を与えてくださったからです。そしてその一歩は、 大きなジャンプである必要はありません。 ほんの小さな一歩でいい。 ため息のあとに、静かに祈ること。 誰かのために、そっと手を合わせること。 それだけでも、私たちはもう「再出発」しているのです。

 


神は、私たちの歩幅に合わせてくださる方です。 急かすことなく、責めることなく、 ただ「共に歩もう」と語りかけてくださる。だから、今日もまた、 昨日とは違う一歩を踏み出せるのです。



今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月15日日曜日

朝ラン23キロ完走

 


祈りの23キロ、賛美の朝に

今朝も走りました。 23キロの道のり。 それは単なる運動ではなく、祈りの23キロでした。

先週の火曜日から、六日間連続のランニング。 疲れがないと言えば嘘になります。 けれど、不思議なことに、 体の重さよりも先に、心が高鳴ってくるのです。走りながら、私は主を思い、 教会の群れの顔を一人ひとり思い浮かべ、 その歩みが守られるようにと祈ります。 気づけば、賛美が口をついて出ている。 風の中に、主の息吹を感じながら、 ただ、ひたすらに走る。

この一週間も、きっとそうなるでしょう。 走り続け、祈り続ける日々。 それは、何かを達成するためではありません。 信仰の生活とは、目標を達成するための手段ではなく、 霊が生きるための、日々の必然なのです。

生きるために祈る。 生きるために走る。 それは、報酬を求める行為ではありません。 むしろ、こうして生かされていることへの感謝の応答。 今日も走れたこと、祈れたこと、 それ自体がすでに、恵みなのです。

そして、いつか人生の終わりが訪れるとき、 私は静かに、感謝をもって旅立ちたい。 主が用意してくださった、 真の平和の場所へと向かって。

命がある限り、 私は走り続けます。 祈り続けます。 愛し続けます。

今日も、与えられた命に感謝して。 時間に、家族に、人々に感謝して。 信仰によって生きることを選びながら。

「アーメン」という名の、見えない伴走者

 


「アーメン」という名の、見えない伴走者

礼拝堂の扉が閉まり、静寂が呼吸を始める時

オルガンの最後の和音が、高い天井の隅々に吸い込まれていく瞬間。 私たちは、一週間のなかで最も純粋な「沈黙」の中に身を置いています。つい先ほどまで、ここには祈りの声が満ち、賛美の歌が重なり、聖書の言葉が私たちの乾いた魂に染み込んでいました。しかし、礼拝が終わるということは、その「聖なる場所」を去るということです。私たちは再び、それぞれの重荷を肩にかけ直し、教会の重い木扉を押し開けて、仙台の街の、あの日曜日午後の日常へと歩み出します。


 



日常という名の「下り坂」のなかで

私たちは、礼拝堂の中では「神の子」として気高く立つことができます。 けれど、一歩外に出れば、そこには相変わらずの不条理と、解決しない課題が待っています。

明日の月曜日から始まる仕事の段取り、学校での学びや生活、入院している大切な人のこと、あるいは自分のなかで繰り返される「これでいいのか」という自問自答。 礼拝で受けた感動が、街の喧騒に触れた瞬間に、どこか頼りなく、脆いものに感じられてしまう。

「あんなに素晴らしいメッセージを聞いたのに、なぜまたすぐ不安になるのだろう」 そんな自己嫌悪に似た揺らぎを抱えたまま、私たちはバスに乗り、あるいは二十キロを超える長いランニングの道のりへと戻っていきます。聖なる山から、泥臭い「生活の平地」へと下っていく。その過程で、私たちはしばしば、神様を礼拝堂に置き忘れてきたような錯覚に陥ってしまうのです。


 


祝福は、あなたの背中に押される「号砲」

しかし、福音書が語る主の姿は、常に「派遣」のなかにあります。 復活された主は、山の上に留まろうとした弟子たちを、あえて混沌とした街へと送り出されました。礼拝の最後に授けられる祝祷は、「お疲れ様でした」という解散の合図ではありません。それは、**「ここから、あなたの本当の礼拝が始まる」**という、主からの力強い契約の言葉です。

「主は、彼らをベタニアの近辺まで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルキアによる福音書 245051節より)

主は、私たちが成功している時だけではなく、むしろ「無力さ」を抱えて日常に戻っていく、その背中に手を置いて祝福されます。 あなたが明日、実習先で立ち尽くす娘さんを想い、病床の友のために祈り、鈴木君の洗礼のために言葉を整える。その「一つひとつの営み」こそが、教会を出たあとの、生きた礼拝の続きなのです。

私たちが「アーメン」と応えたとき、その言葉は主との「伴走契約」になります。 あなたは一人で月曜日へ向かうのではありません。昇天された主は、目に見えない伴走者として、あなたの日常のあらゆる「死角」に立ち、あなたの一歩を支えておられるのです。


 


新しい一週間へのステップ

礼拝の余韻を、そっと胸のポケットにしまって。 今夜は、明日のためにゆっくりと身体を休めてください。あなたが明日、どんなに小さな仕事に向かう時も、どんなに苦しい坂道を走る時も、主の「祝福の手」はあなたの背中から離れることはありません。 私たちは、遣わされたその場所で、もう一度新しく生まれることができるのです。

今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

2026年2月14日土曜日

死を越えて歩む

 


死を越えて歩む──エノクとエリヤが語りかけるもの

「死」は、誰にとっても避けられない現実です。 それは、まるでこの世界に課された絶対的なルールのように思えます。 けれど、聖書にはそのルールに風穴を開けるような、二人の人物が登場します。 エノクとエリヤ。 彼らは「死を経験せずに天に上げられた」と記されています。

この不思議な出来事は、単なる神話的な物語ではありません。 むしろ、私たちが「死」という現実とどう向き合い、 どのように生きるべきかを静かに問いかけてくる、 希望に満ちたメッセージなのです。

 


エノク──三百六十五年の「並走」の果てに

エノクについて聖書が語るのは、ほんの数行。 けれど、その短い記述には、深い余韻があります。

彼は三百六十五年もの間、神と共に歩み、 ある日、そのまま神に「取られて」姿を消しました。 派手な奇跡も、壮絶な最期もありません。 ただ、日々の歩みの中で、神と共に生き続けた人。 その「歩み」が、やがて死を越えて、 天の住まいへと自然につながっていったのです。

信仰とは、特別な瞬間のためだけにあるのではなく、 日常の中で、静かに、誠実に、神と共に歩むこと。 それが、永遠へと続く道になる── エノクの姿は、そう語っているように思えます。

 


エリヤ──嵐と火のなかの「任務完了」

一方、エリヤの昇天は、まさに劇的です。 火の戦車と馬、旋風に乗って天へと上げられるその姿は、 まるで勝利の凱旋のようです。彼は激しい預言者としての使命を果たし、 ヨルダン川を越え、「約束の地の外」へと向かいました。 その歩みは、まさに境界線を越えるものでした。 死という境界を、神の力によって超えていったのです。エリヤの昇天は、 「死がすべてを終わらせるわけではない」 という神のメッセージのように響きます。 死が来る前に、命の源である神が彼を包み、引き上げた。 それは、死をも飲み込む命の力が、 この世界に確かに存在することの証しです。

 


私たちにとっての「エノクとエリヤ」

もちろん、私たちは彼らのように、 肉体の死を飛び越えるわけではありません。 けれど、新約聖書の光の中でこの出来事を見つめるとき、 それは、キリストにある私たちの「変貌」の予告のようにも思えてきます。

「死は終わりではない」 「やがて、私たちは変えられる」 そんな約束が、聖書には繰り返し語られています。

エノクが「神に取られた」という表現には、 まるで大切な宝物を手元に引き寄せるような、 神の優しさと愛がにじんでいます。 私たちが死を迎えるときも、 その御手が私たちを包み、 永遠の住まいへと導いてくださる── その確信が、私たちの歩みに静かな力を与えてくれるのです。

 


巡礼の道、その「続き」の先に

この秋、スペインの巡礼路を歩く人もいるでしょう。 サラマンカからサンティアゴまでの500キロ。 その道のりの果て、大聖堂の広場で空を見上げるとき、 エノクが三百六十五年かけて辿り着いた「あの場所」と、 空が少しだけつながっているように感じられるかもしれません。

走ること、歩くこと。 それは、ただの運動ではなく、 この地上で天の空気を吸い込み続ける練習なのかもしれません。 いつか主の御手に「取られる」その日まで、 私たちは今日も、信仰の翼を広げて歩み続けるのです。



明日は主の日。

主なる神様を礼拝することは、まさにこういう歩みを確認するときであるのです。

祈りの距離、感謝の歩幅

 


祈りの距離、感謝の歩幅

今日も、走りました。 今週は火曜日から五日間、走り続けました。 合計128キロ。 数字だけ見れば、少し驚かれるかもしれません。 でも、これは単なる運動の記録ではありません。 私にとって、この距離は「祈りの距離」でもあるのです。走ることは、私の祈りのかたち。 言葉にできない思いを、 一歩一歩に込めて、 ただ静かに、主の前に差し出していく時間です。

けれど、祈りの本質は、 どれだけ長く祈ったか、どれだけ走ったか、 その「量」ではありません。 大切なのは、どんなときも主を覚えて生きること。 心から主を愛し、 その御言葉を昼も夜も思い巡らしながら、 日々の歩みを重ねていくことです。

走ることも、祈ることも、 何かを「成し遂げる」ためではありません。 それは、魂が生きるために必要な営み。 まるで、呼吸のように、 自然と繰り返されるものです。

だから、何かのご褒美を期待しているわけではありません。 むしろ、こうして走れること、祈れること、 その日常のひとつひとつが、すでに恵みなのです。

そして、いつか人生の終わりが訪れるとき、 私は静かに、感謝をもって旅立ちたい。 主が用意してくださった、 真の平和の場所へと向かって。

それが、キリスト者の幸せだと思うのです。 祝福された者の、静かで力強い生き方。

今日も、与えられた命に感謝します。 許された時間に、教会に、家族に、人々に、感謝します。 そして、信仰によって生きることを選びます。走ることは、私の祈り。 祈ることは、私の生き方。 そのすべてが、主への感謝の応答であります。

「何もしない」という名の、聖なる仕事

 


「何もしない」という名の、聖なる仕事

掌を開く静寂

使い古したペンを置き、一週間分の重みを背負った肩の力を、ふっと抜いてみる。 土曜日の朝、私たちの部屋に満ちているのは、成果を求められる「平日」の喧騒ではなく、ただそこに在ることを許された柔らかな沈黙です。私たちは、何かを成し遂げている時だけが「生きている時間」だと思い込んでしまいがちです。けれど、深く吐き出す呼吸のあとに訪れる、あのわずかな「空白」。その空白こそが、実は私たちの命を最も深く養っている時間なのかもしれません。


 


止まることへの「罪悪感」という痛み

けれど、現代を生きる私たちは「休むこと」にさえ、どこか申し訳なさを感じてしまいます。

世界のどこかでは絶えず争いが続き、誰かは病床で苦しみ、明日の生計に怯える人々がいる。そんな混沌とした世界のなかで、自分一人が歩みを止めて休息することに、言いようのない不安や罪悪感を覚えることがあります。

「もっと頑張らなければ」「遅れてしまう」。 その焦燥感は、私たちの魂をすり減らし、せっかくの安息日を「次なる戦いのための充電期間」という、効率の奴隷に変えてしまいます。私たちは、立ち止まることが怖くて、魂が悲鳴を上げていることにさえ気づかぬ振りを続けてはいないでしょうか。


 


安息は「完成」のための最後のピース

聖書が語る安息日は、単に「疲れたから休む」という受動的な休憩ではありません。 神様が天地創造の七日目に休まれたのは、疲弊したからではなく、休むことによって世界を「完成」させるためでした。

「主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのほとりに伴われる。主はわたしの魂を生き返らせてくださる。」(詩篇 2323節より)

私たちが自らの意志で立ち止まり、主にすべてを委ねる時、私たちの人生という物語は、人間の努力を超えた次元で「完成」へと向かいます。 「大丈夫、すべては私の手の中にある」という主の声に耳を澄ませること。 それは、自分一人の力で世界を支えようとする傲慢さから解放され、再び「主の子」としての健やかさを取り戻すプロセスです。

癒やしとは、傷が消えることだけではありません。 苦しみの渦中にあっても、主が共に座ってくださっているという「安心」を思い出すこと。その静かな確信のなかで、私たちの魂は、涸れた井戸が潤うように、ゆっくりと生き返っていくのです。


 


祈りの余韻を携えて

今日は、完璧な人でいることをお休みしましょう。 弱いままで、疲れを抱えたままで、ただ主の懐に身を寄せてください。あなたが今日、静かに目を閉じ、深い呼吸を一つ繰り返すこと。 その「小さな安息」が、明日、誰かのために微笑むための糧となります。 主の慈しみという静かな水のほとりで、心と体を十分に整え、新しい朝の光を待ちましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月13日金曜日

夜のシチューと、朝の祈りのわだち

 


夜のシチューと、朝の祈りのわだち

「美味しい、感動したよ」という、小さな肯定

「昨日のシチュー、どうだった?」とランニングから帰ってきて聞きました。(味見をしなかったので・・・いつものことですが・・・)朝の慌ただしい空気の中、支度をしている背中に投げかけたその問いに、思いがけないほどの熱量で答えが返ってくる。めちゃ美味しかった!感動です!!そんな瞬間に、世界は不意に色鮮やかさを取り戻します。

何時間も火にかけ、じっくりと味をなじませた一皿が、誰かの心と体を温めたという事実。それは、昨夜の自分が費やした時間と手間が、目に見えない「愛の形」となって相手に届いた証し)でもあります。私たちは、こうした些細な言葉のやり取りを糧にして、また新しい一日という荒野へ足を踏み出すのです。


 


繰り返される「日常」という名の巡礼

早朝四時、まだ街が眠りの中に沈んでいる頃、結局、また二十二キロの道のりへと走り出しました。 長町を抜け、昨日、手術を終えた兄が眠る病院の側を通り、西公園方面へ。

肉体は確かに疲弊しています。連日のロングランの重みが脚に残り、一歩一歩が自分自身を試すような問いかけになります。 けれど、なぜこれほどまでに自分を追い込むのか。それは、走ることそのものが「祈り」の代わりだからです。 病院の窓、実習先へ向かう娘の背中、パート先へと急ぐ妻の足取り。 私たちは皆、それぞれの持ち場で、自分にしか担えない重荷を背負って立っています。その孤独や葛藤をすべては分かち合えなくても、走ることで描くこの「円」の中に、大切な人々をそっと包み込みたいと願うのです。


 


隠れた所で見ておられる方の「熟成」

私たちが日常で行うルーティン――掃除、料理、仕事、そして祈り――は、一見すると同じことの繰り返しで、何の変化もないように思えるかもしれません。

しかし、シチューが一晩寝かせることで深みを増すように、私たちの「隠れた努力」や「人知れぬ祈り」もまた、神様の御手の中で静かに熟成されています。

「あなたの父は、隠れた所で見ておられるが、あなたに報いてくださる。」(マタイによる福音書 66節より)

神様が私たちに求めておられるのは、派手な成功や劇的な変化ではありません。 誰も見ていない早朝に道を整えるように走ること、家族のために心を込めて鍋を火にかけること、そして今日という一日を誠実に生きようとする、その「継続」そのものです。 私たちが「足りない」と感じ、無力感に襲われるその場所で、主は共に汗を流し、共に鍋を囲んでおられます。私たちの些細な「頑張り」は、主の目には、この世界を救うための最も貴い「供え物」として映っているのです。


 


それぞれの場所へ、派遣される

妻は仕事へ、娘は学び舎へ。 そして私は、いつものように階段を掃き、内面を整えるルーティンへと戻ります。 私たちは再び、それぞれの「現場」へと送り出されていきます。

もし今日、あなたが自分のしていることに意味を見出せなくなったとしても、どうか思い出してください。あなたの淹れた一杯の茶が、あなたが交わした一言の挨拶が、そしてあなたが心の中で唱えた短い祈りが、誰かの世界を「夜明け」へと導く光になっていることを。

私たちは、主に守られ、導かれています。 その確信を胸に、今日という一段を、感謝と共に上りましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

今日は休養日

 


傷跡は、新しい朝を指し示す地図になる

心の奥に刻まれた、名もなき「痛み」の欠片

「あなたは、自分の内側にある『癒えない傷』をどう扱っていますか。」

金曜日の朝、一週間の疲れが澱のように底に溜まる頃、私たちはふと自分の内側にある古傷に触れてしまうことがあります。それは、誰かに言われた鋭い一言かもしれないし、かつて自分が犯してしまった取り返しのつけない過ちの記憶、あるいは、ただ懸命に生きている中で自然に破れてしまった心の膜かもしれません。私たちはその痛みを「なかったこと」にしようと、明るい光の下へと急ぎます。しかし、沈黙が訪れるたびに、その傷跡は拍動するように、静かに、けれど確かに存在を主張し始めるのです。


 


沈黙という名の「金曜日」

昨日の大きな緊張――手術室の扉の向こう側で戦っていた誰かのこと、実習の現場で自らの無力さに立ち尽くした誰かのこと――を背負い、私たちは今日という日を迎えています。

世界は相変わらず混沌の中にあり、私たちの祈りはしばしば、虚空に向かって投げ出された叫びのように感じられます。「なぜ、これほどまでに苦しまなければならないのか」という問いに対し、天はしばしば沈黙で答えます。その沈黙は、冷たく、時に私たちの信仰を試すかのように長く続きます。私たちは、自分が「救う側」であろうとして疲れ果ててしまいます。誰かの痛みを肩代わりしようと走り続け、結局は自分自身もまた、癒やしを必要とする一人の「傷ついた者」である事実に突き当たるのです。


 


十字架という名の「共苦(コンパッション)」

しかし、聖書が指し示す金曜日の真実は、私たちの「絶望」を根底から書き換えます。

十字架の上で、主イエスは「わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。この言葉は、神が私たちの「究極の孤独」と「究極の痛み」を、理論ではなく、自らの肉体をもって完全に引き受けられたという証拠です。

「彼の受けた傷によって、わたしたちは癒やされた。」(イザヤ書 535節)

主は、私たちの傷を消し去るのではなく、その傷の中に入ってきてくださいます。十字架は、神が人間の苦しみの「圏外」にいるのではなく、その「中心」におられることを示す、血の通った約束です。絶望が希望へと反転するのは、私たちが強くなったからではありません。自分の傷跡が、実は復活の主が触れてくださる「聖なる場所」であると気づく瞬間に、重荷は恩寵へと変わるのです。主の傷跡と私たちの傷跡が重なり合うとき、そこから新しい命の拍動が始まります。


 


傷を抱えたまま、一歩を

金曜日の長い影が伸びる中で、どうか自分を責めないでください。 あなたが抱えているその痛みも、拭いきれない疲れも、主はすべて「自分のこと」として知っておられます。

傷跡は、あなたが戦い、耐え、そして生きてきた証です。 それは決して「終わり」の印ではなく、復活の朝を迎えるための「地図」なのです。 主が共に担ってくださるその十字架を杖にして、今日という一日を静かに歩み抜きましょう。手術を終えた兄弟の病床に、実習を終える娘の背中に、

そしてあなたの心に、主の和解と平安が満ち溢れますように。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

苦しみも痛みも人生の友である

 


口の中の戦場と、祈りの静けさ

昨日、一本の連絡が届きました。 「無事に手術が終わりました」と。 三日間、祈りながら走り続けた日々の終わりに届いた知らせは、 まるで乾いた地に降る雨のように、心を潤してくれました。今日からは、回復のために祈る。 手術の成功は、始まりにすぎない。 癒やしの道のりを、主が共に歩んでくださるように。 そして、兄弟とそのご家族の心に、 主が与える「真の平安」が訪れるように。

 


三日間のロングラン。 体は正直です。 「もう休んで」と、あちこちがささやいてくる。 口の中では、口内炎が暴れ回っている。 まるで小さな戦争のように、痛みが広がっている。 でも、私は知っているのです。 これもまた、時がくれば癒えることを。 だから、特別なことはしない。 薬も、病院も必要ない。 花粉症と同じように、やがて過ぎ去るものとして、 静かに受け止める。

苦しみも、痛みも、 自分の一部であると受け入れたとき、 それはもはや敵ではなくなる。 それよりも大切なのは、 心と思いを、どこに注ぐかということである。

執り成しの祈り。 み言葉を届ける手紙。 誰かの痛みに寄り添うこと。 希望を分かち合うこと。 それこそが、今日の使命である。

昨日は、娘のためにビーフシチューを作りました。 味見はしません。 口の中が戦場だったからではないのです。 いつものことです。 誰かのために作る料理は、 自分の味覚ではなく、 その人の笑顔を思い浮かべながら作るものと思うからです。(よくわからない?でしょう!)

今日も、生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月12日木曜日

一人の兄弟のために走る


 

祈りの足音が、朝を照らす

まだ眠りの残る家の中で、靴ひもを結ぶ音が小さく響きました。 時計の針は、すでに6時を回っていました。 いつもより遅いスタートでしたが、今日はどうしても走らなければならない日でした。 この三日間、走り続けていました。 本日、手術を受ける兄弟のために。 祈りを込めて、足を前に出し続けました。

23キロの道のり。 この走りが、祈りとなって天に届くことを信じていたので走り続けました。

 最後は、手術が行われる病院を一周して帰ってきなした。 その建物の中にいる兄弟と、付き添うご家族のことを思いながら。ちなみに娘の実習先の病院も同じところです。

人は、痛みの中でこそ、祈る。 不安の中でこそ、信仰が問われる。 「主よ、どうかこの手術が守られますように」 「どうか、主の平安がこの家族を包みますように」 そう願いながら、走りました。 でも、ふと気づく。 「ゆだねる」ということは、ただ願うこととは違うことを。 それは、すべてを主の御手に委ねるという、信仰の決断であります。結果は関係ありません。どんな結果であれ受け入れられる信仰です。それが神様の御心だと受け止めることが重要であるのです。

こういう信仰がなければ、ゆだねることはできません。 自分の力ではどうにもならない現実を前にして、 それでも「主が共におられる」と信じること。 その瞬間、心にふっと風が吹く。 不安が消えるわけではない。 けれど、確かな平安がそこにある。 それは、主が与えてくださる「真の自由」であるのです。

今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。