デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年6月15日月曜日

試合は2対2でしたね!

 


それぞれの朝、それぞれの自由 ── 共に生きるための「小さな配慮」という光

大年寺山公園の朝、それぞれの過ごし方

今朝は久しぶりに、大年寺山公園へ散歩に出かけました。 ひんやりとした早朝の空気を深呼吸しながら歩を進めると、いつもの場所に見慣れた風景が広がっていました。



いつも6時頃に集まっては、ラジオ体操をして持ち寄った軽食を共にしているお年寄りの方々。普段は67人ほどいらっしゃるのですが、今朝は4人でした。私がちょうどその前を通りかかったとき、ラジオから体操の音楽が流れていました。

しかし、その光景は少しユニークなものでした。

  • 体操をしていたのは、青葉区から愛宕大橋を渡って来られる小柄のおばあちゃんただ一人。(おそらく85歳にはなっただろうと思われますが・・・)
  • お二人は体操には参加せず、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
  • いつも車で仔犬を連れてくるおじいちゃんは、傍らで犬と無邪気に遊んでいる。

誰かが「体操の時間だから」と強要することはありません。それぞれが、それぞれのスタイルで自由に早朝の時間を味わっていました。その穏やかな風景を見て、私は心の中で「それでいいのだ」と深く頷いていました。規則に縛られず、個人の在り方が尊重される、心地よい自由の形がそこにはありました。

 


自由の裏側にある問いと、他者への想像力

しかし、歩みを進めながら、私の思索は「自由」という言葉のもう一つの側面に及んでいきました。公園の彼らのように、互いの境界線を優しく守り合う自由は美しいものです。けれど、私たちが生きるこの社会では、時に個人の「自由な行動」が、他者の「自由と平和」を奪ってしまうことがあります。

わがままな考え方や自己中心的な振る舞いが秩序を乱し、周囲の人の心に不愉快な影を落とす。私たちは皆、少しずつ違いを持った存在です。だからこそ、共に生きるためには「マナー」という名の他者への思いやりが不可欠です。

  • 少しだけ譲り合うこと。
  • 少しだけ相手の立場を理解しようと努めること。

それは、自分の命を投げ出すような大げさな犠牲ではありません。ほんの少しの、手のひらサイズの配慮です。しかし、その「少しの配慮」が欠けているがゆえに、不必要に傷つき、不愉快な思いを抱えなければならないことが多い時代でもあります。「共に生きられる世界」という理想の頂は、私たちが思うよりも、まだまだ遠い場所にあるのかもしれません。

 


不完全な世界を、それでも歩む

聖書の中に、このような言葉があります。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙51314節)

 


真の自由とは、他者を顧みない放縦ではなく、愛を持って互いに仕え合い、小さな配慮を贈り合う中にこそ宿るものです。

 


今朝の試合は「20で勝つ」という私の予想は外れてしまいましたが、結果は引き分け。それでも良かったのだと、今は思えます。選手たちはピッチの中で、決して諦めず、泥臭く頑張って戦い抜きました。

 


私たちの日常も、鮮やかな「完全勝利」ばかりではありません。配慮が欠けた世界に落胆し、理想とは程遠い現実に直面することもあります。まるで、引き分けの試合のように、スッキリとしない葛藤を抱える日々です。それでも、私たちは生きていきます。 公園のお年寄りたちがそれぞれのペースで朝陽を浴びていたように、違いを認め合い、ほんの少しの譲り合いを心に忍ばせて。不完全なこの世界で、それでも互いの平和を守るために奮闘する姿は、やはり尊いものなのです。

今日も、共に前進です。

支え合う力

 


衰えゆく器に宿る恵み ── 弱さが結ぶ、柔らかな絆

午前3時半、静寂の中の歩み

午前3時半。まだ夜の帳が深く降りた街に、冷涼な空気が満ちていました。 今日は資源ごみの回収日。両手に重みを提げながら、愛犬ノアと共に家を出ました。普段ならよく聞こえる隣の新聞配達屋さんの気配もなく、今日はお休みなのでしょう。私たちの足音だけが、静かなアスファルトに響いていました。

何気ない日常の反復。しかし、その静寂は不意に破られることになります。

 


リード越しに伝わる生命の脈動

散歩も終わりに近づき、そろそろ家に戻ろうとしていたその時でした。 突然、ノアがぐっと強い力で私を引っ張り、そのまま走り出したのです。 リードを握る手が持っていかれそうになるほどの、あの力強い躍動。 ノアの視線の先には、近くの闇の中でじっと身を潜めている猫の気配がありました。

高齢のはずのノアですが、今日は驚くほど元気に動きました。 彼の「嗅覚」は、昔と少しも変わっていなかったのです。 微かな匂いを鋭く捉え、周囲を油断なく見渡すその姿。

老いてゆく部分がある一方で、 一つの機能が衰えを知らずに働き続け、 全身を根底から支えている—— その生命のしなやかな強さに、私は深い感銘を覚えました。

 


私たちの「弱さ」に隠された真理

そのノアの姿を前にしたとき、ふと、翻って私たち人間の在り方に思いが至りました。

  • 人間は、なんと弱い存在なのだろうか
  • ノアのような、際立って他の衰えを補うほどの機能を持たない
  • すべての機能が、いわば仲良く揃って衰えていく

私たちは、自力だけで最期までまともな生活を送ることはできません。必ずどこかで誰かの手を借り、委ねなければ生きてはいけない存在として造られています。

しかし、この「弱さ」は決して欠陥ではないのだと、私は思うのです。

聖書にこのような言葉があります。

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。もし彼らが倒れるならば、そのひとりがその友を起きあがらせる。」(伝道の書 4:9-10

人は、一人では生きられません。すべてが均等に衰えてゆく脆い器だからこそ、私たちは互いに手を差し伸べ合い、欠けを補い合うことができます。人間の弱さは、他者との間に「愛」と「支え合い」という絆を生み出すための、神様からの意図的なデザインなのかもしれません。

 


日常という名の祭壇で

今日はランニングはお休みです。 その代わり、朝食のための料理をゆっくりと作ることにしました。食材を刻む音、火を入れる温もり。料理を作ることもまた、誰かを──そして自分自身をも──生かし、支えるための小さな、しかし確かな行為です。

私たちは自力では立てない、弱い存在です。 だからこそ、今日も誰かの力を借り、誰かの力となりながら、この世界を歩いていくのです。

 


おお、まもなくキックオフですね! 日本 vs オランダ、2–0で勝つイメージ、しっかり描いておきます。その勝利が、日本中の人たちに元気な一日をもたらしますように。

 

今日も、共に前進です。

2026年6月14日日曜日

食卓の温もり

 


遠ざかる旅路と、食卓の温もり——愛という名の「境界線」を受け入れる夜

蓄積した疲労と、ささやかな食卓

3日連続で自分自身を追い込んだ朝ランの代償として、今日の体には、芯からずっしりとした深い疲労感が沈殿しています。これほど疲れた日は、無理をして完璧を求める必要はありません。今日の夕食は、近くの「まるしん」のお惣菜に頼ることにしました。私は刺身、妻は焼き魚、そして娘はチキンナゲットとメンチカツ。それぞれが好むものを並べた食卓に、せめてもの手作りの温もりとして、レタススープだけをことことと煮て添えました。明日は、休息日です。心も体も、今はただ静かに「休むこと」を強く求めています。

 


秋保への道と、手放した非日常

ふと、ネットで現在「仙台とく旅」というキャンペーンが行われており、宿泊が30%オフになるというニュースを目にしました。以前、この制度を利用して、家族3人で秋保の温泉まで足を伸ばし、くつろいだ日のことを思い出します。しかし、私たち家族が揃って泊まりで出かけられるのは、せいぜいその「秋保」という距離が限界です。なぜなら、私たちの帰りを家で待っているノアがいるからです。あの秋保の夜、私は早朝4時ごろにそっとホテルを抜け出し、車を走らせて一度家に戻りました。ノアの散歩を済ませ、朝ごはんを食べさせてから、再び秋保のホテルへととんぼ返りをしたのです。その一連の経験を経て、「これからはもう、泊まりで出かけるのはやめよう」と。決めています。

 


制限のなかに宿る、本当の安息

旅を手放すこと。遠くへ行く自由を捨てること。それは一見すると、人生の楽しみを失い、何かに縛られているように感じるかもしれません。しかし、愛する命のために自らの行動範囲を狭め、その「境界線」を穏やかに受け入れることは、決してネガティブな諦めではありません。それは、「喜んで仕える」という、人間の最も尊い愛の形です。

聖書に、このような主イエスの招きの言葉があります。

 「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書 11:28

私たちが魂の底から求めている「真の安息」は、遠く離れた非日常のリゾート地や、特別な体験のなかにだけあるのではありません。自らが選び取った愛の絆の中で、共に生きる命の重みを引き受けながら、その日の労苦を終えていつもの食卓を囲む。その平凡で、時に泥臭い日常のなかにこそ、神が用意された本当の安らぎが隠されているのです。

 


満たされた疲労を抱きしめて

今日という一日、本当にさまざまなことを考えながら過ごしました。 正直なところ、深く疲れています。しかし、この心地よい疲労感は、決して無為に過ごした結果ではありません。家族を思い、ノアを愛し、自らの足で懸命に走り抜いた証としての、尊い疲労です。

  • 遠くへの旅を手放し、目の前にある命を最優先に守り抜くこと
  • 完璧さを求めず、お惣菜の力を借りて笑顔で食卓を囲むこと
  • 自分の「疲れ」を素直に認め、明日の休息を静かに受け入れること

遠くへ行けなくとも、私たちの人生の旅は、この家の中で豊かに続いています。今夜は、この満たされた疲労と共に、目を閉じようと思います。

今日も、共に前進です。

朝ラン21キロ完走

 


命の光と手放した完璧主義——自分への「ゆとり」が、変わらぬ愛へ続く道

鈍い重さと、生きるための光

午前4時半。ノアとの穏やかな夜明けの散歩を終え、休むことなくランニングへと走り出しました。今日も、体には鉛のような鈍い重さがまとわりついています。

それでも、足を前へと運び続ける。見上げれば、眩しいほどの太陽の光が、目覚めゆく世界を隅々まで照らし出していました。それはただの自然現象ではなく、私たちが今日を力強く「生きるため」に、天から注がれる命の光そのものでした。

 


肌を撫でる風にはまだ涼しさが残り、強い暑さを感じる時期ではありません。しかし、この心地よさがやがて、ランナーの体力を容赦なく奪い去る「厳しい熱」へと一気に姿を変える。その抗えない季節の気配が、すぐ目の前まで迫っているのを肌で感じ取った朝でした。

 


「欲張り」を禁じる賢明な選択

これからの過酷な夏場に向けて、ランニングとの向き合い方を変えなければなりません。 必要なのは、気合で乗り切ることではなく、時間、距離、そして走る回数をあえて「短縮する」ことです。天候という抗えない大きな力の前では、自分の限界を素直に認め、賢く判断し、それを実行に移すこと。それこそが、結果として長く走り続けるための最大の秘訣なのです。

 


「もっと遠くへ、もっと速く」という、己の欲張りを禁じること。 これは単なるランニングの戦略にとどまらず、私たちの人生そのものに深く通じる真理です。

 

自分を赦すことが、他者を愛すること

これまで私は、絶えず自分自身に対して厳しく接してきました。限界まで追い込み、休むことを良しとしないストイックな歩みこそが、正しい道だと信じてきたからです。

しかし今朝、眩しい光の中を走りながら一つの決断をしました。 懸命に頑張って歩み続けている自分自身を認め、時には「ご褒美」を与え、心からほめてあげようと。常に張り詰めた糸のように生きるのではなく、自分の中に少しの「ゆとり」を持つことにしたのです。なぜなら、自分を追い詰める厳しさは、気づかないうちに周囲への厳しさへと変わってしまうことがあるからです。

  • 自分自身の弱さや限界を許し、優しく労わること
  • 完璧主義を手放し、心に「余白」を持つこと

 


実はこの「自分へのゆとり」こそが、家族を長く、そしていつまでも変わることなく深く愛し、温かく寄り添い続けるための、最も大切な秘訣なのです。

 


聖書は、神が私たちに「安息」を与えられたと語ります。それは、私たちが無条件に愛され、休むことを許された存在だからです。自らに厳しすぎるその手を少しだけ緩め、今日という日にご褒美を与えながら歩いてみませんか。

 


今日は主の日の礼拝。 新しい一週間の始まりに心を整え、礼拝の中で新たな力を受け取ることは、私たちにとって何より大切な備えです。

ひとたびこの世に一歩踏み出せば、そこは戦場のような厳しい世界。 先の見えない時代を、私たちは確かに生きています。 だからこそ、その現実に立ち向かい、賢く歩むための知恵と力を、真の神様からいただくこと—— これこそ、弱い人間が大切にすべき心構えであり、姿勢だと私は思うのです。

牧師としてではなく、一人の人間として、私はその真実を60年間の歩みの中で学んできました。 神に頼り、神に導かれ、神に支えられて生きることの確かさを。

今日も、共に前進です。

2026年6月13日土曜日

疲れを感じる、生きている証拠

 


「自分だけの正しさ」という凶器を手放す時——混沌の時代を照らす真の自由

画面越しの冷たい現実と、消えない問い

スマートフォンを開けば、今日もまた痛ましいニュースが目に飛び込んできます。いとも簡単に人の命が奪われ、理不尽な暴力が日常のすぐ隣に潜んでいる現実。ため息とともに画面を閉じながら、「私たちの社会は、いったいどこへ向かっていくのだろうか」と底知れぬ不安と寒気を覚える日々です。命の重さがこれほどまでに軽く扱われる時代。私たちはどうして、ここまで来てしまったのでしょうか。

 


聖書が映し出す、人間のむき出しの狂気

旧約聖書の中に、目を覆いたくなるほど凄惨な記録があります。士師記(1921章)に記されたある事件です。一人の女性が理性を失った群衆にもてあそばれて命を落とし、その凄惨な死をきっかけに部族同士の報復戦争が起こります。数え切れないほどの同胞が殺し合い、一つの部族が消滅の危機に陥ると、今度はその数を埋め合わせるために、無実の女性たちを力ずくで拉致し、強制的に妻とするという非人道的な連鎖が続きました。

人間の尊厳が雑草のように踏みにじられ、獣以下の振る舞いが続くこの物語は、あまりにも猟奇的で、読む者の言葉を奪います。しかし、本当に私たちの背筋を凍らせるのは、これが単なる「大昔の残酷な作り話」ではないと気づくからです。一瞬の怒りや欲求で命を奪い、自分の正当性ばかりを主張し合うこの狂気は、形を変え、まさに今、私たちが生きるこの社会の至る所で繰り返されている悲劇そのものです。

 


「自分の目に正しいこと」の果てにあるもの

これほどまでに人間性が破壊され、社会が道徳的な混沌に陥った根本的な原因について、聖書は最後に短い一文でその本質を突いています。

「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた。」(士師記 21:25

「自分の目に正しいとすることを行う」。現代の言葉に置き換えれば、それは束縛のない「自由」や、個人の「権利」の主張そのものに見えるかもしれません。しかし、絶対的な愛や神の基準を失い、それぞれが自分勝手な「正しさ」だけを振りかざすとき、その自由は容易に他者を切り裂く凶器へと変わります。自分の思い通りにならないものを排除し、法や秩序さえも自己流の解釈で無視する。私たちが真の自由だと思い込んでいるものの正体は、実は「罪の奴隷」となっている姿に他ならないのです。

 

真理が与える「本当の自由」

では、この悪循環の中で、私たちが生きる道はどこにあるのでしょうか。主イエス・キリストは、静かにこう語りかけます。

「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」(ヨハネ 8:32

本当の自由とは、欲望のままに好き勝手に生きることではありません。キリストが示された真理——すなわち「愛」を知ることです。 利己心から解放され、他者のために自分を差し出すことができるようになること。弱い人々のために、あえて自分の権利や利益を譲ることができること。それこそが、人間を真に人間らしくする「本当の自由」なのです。

 


暗闇のなかに光を灯す歩み

連日の暗いニュースに心を痛め、この不条理な世界に絶望しそうになるかもしれません。しかし、だからこそ私たちは、悲観して立ち止まっているわけにはいきません。

  • 「自分だけの正しさ」を振りかざすことをやめる
  • 互いを赦し、譲り合い、身近な隣人を大切にする
  • キリストが示された愛と命の道を、自らの生き方で体現する

この壊れかけた社会を再生させる糸口は、決して遠くにあるのではありません。私たち一人ひとりが、自分の足元に真理の光を灯し、そのぬくもりを分け合って生きることの中にあります。深い闇に包まれた時代だからこそ、真の光はより力強く輝きます。今週の最後の日です。その光から目を逸らさず、祈りと信仰をもって歩んでいきましょう。

それにしても、今日は本当に「疲れたなあ」と実感する一日でした。 それでも私は、気づけば八百屋で買い物をし、レタススープを作り、さらにはキャロットパウンドケーキまで焼いていました。

——病気ですね。 常に動き続けてしまう病

でも、この患者はこれでいいのだと思うのです。 動いていると、心が少し軽くなる。 小さな家事や料理が、今日という一日をそっと支えてくれる。

そんな自分の性分を、もう受け入れてしまおう。 そう思える夕方でした。

今日も、共に前進です。

連載コラム第3回「報酬は対価か、感謝か」

 


「報酬は対価か、感謝か」——神の恵みに生きる共同体の奉仕

「ひとりひとり、いやいやながらではなく、心から喜んで与えるべきです。神は、喜んで与える人を愛してくださいます」(コリント9:7

教会における奉仕と「報酬」の関係は、私たちが思っている以上に繊細で、そして深い意味を持っています。 教会での奉仕は、世の中の労働とは根本的に異なります。 それは、見返りを求める経済活動ではなく、神への献げであり、キリストの体である共同体への愛の表現だからです。だからこそ、奉仕に対する「報酬」や「謝礼」も、単なる「労働の対価」として扱うべきではありません。 それはむしろ、奉仕者の労苦と献身に対する感謝敬意を、共同体として形にする行為です。

レプタ銅貨のやもめが示した「心」の価値

マルコ12章には、貧しいやもめがレプタ銅貨二枚を献げる場面が描かれています。 金額はごくわずかでしたが、イエスは彼女の献げ物を誰よりも尊いものとして讃えられました。なぜでしょうか。それは、彼女が「余りもの」ではなく、自分の生活のすべてを神に委ねた心を捧げたからです。この物語は、神の御前で価値を決めるのは「量」ではなく「心」であることを教えています。 そしてこの原則は、金銭だけでなく、時間・才能・祈りといった奉仕にもそのまま当てはまります。

奉仕の本質は、

  • どれだけ時間を使ったか
  • どれほど目立つ働きをしたか ではありません。

どれほど誠実に、どれほど心を込めて神と隣人に仕えたか。 そこにこそ、神が見ておられる価値があります。

見えない奉仕が、教会の土台をつくる

教会のオルガニスト、受付での温かいおもてなし、礼拝堂の清掃、祈りの働き—— これら一つひとつの奉仕が、神の民が安心して集い、礼拝をささげるための土台を支えています。たとえばオルガニストは、

  • 礼拝の流れ
  • 典礼暦
  • 説教テーマ を踏まえて選曲し、週に何度も練習を重ねます。

その伴奏は、会衆の心を開き、祈りと賛美を深める霊的な導き手の働きです。 こうした「見えない努力」に対して、教会が感謝を表すことは、単なる義務ではなく、共同体の成熟の証です。

「報酬」は買い取りではなく、感謝のしるし

教会での「報酬」や「謝礼」は、奉仕者の時間や心を買い取るものではありません。 それは、

  • あなたの奉仕を大切に思っています
  • あなたの献身を神の前で尊びます
  • あなたの働きに感謝しています

という共同体の思いを、具体的な形にしたものです。

この感謝は、奉仕者にとって 「自分の働きが神と共同体に受け入れられている」 という深い喜びとなり、さらなる奉仕へと心を開かせます。

また、経済的支援が必要な奉仕者にとっては、生活を支え、献身を続けるための実質的な助けにもなります。 しかしその根底にあるのは、あくまで対価ではなく感謝です。

感謝をもって支え合うとき、教会は「キリストの体」として輝く

私たちが互いに感謝をもって支え合うとき、教会は単なる建物や組織ではなく、 神の愛に根ざした生きた共同体としての姿を現します。奉仕する者も、奉仕を受ける者も、 共に神の恵みに生かされている者として、 喜んで与え、喜んで受け取る歩みを続けていくこと。

その営みこそが、教会を成長させ、共同体全体を神の愛で満たしていくのです。

奉仕は、互いの存在を尊び、感謝し合う中で、いっそう輝きを増していきます。

ギャングたちも生きるために

 


夜明けの足音と街のギャングたち——「生きる」という泥臭くも尊い営み

静寂のなかの二つの足音

午前3時半。二階の階段からすぐに降りてきたノアと共に、今日も無事に夜明け前の散歩を終えることができました。まだ世界が深い眠りについているこの静かな時間帯。路上に響くのは、私とノアの二つの足音だけです。心地よい静寂に包まれて歩みを進める中で、ふと、その穏やかな空気を切り裂くような声が耳に入ってきました。

カラスの鳴き声です。

 


街のギャングがもたらす風景

今日は土曜日。そうです、一般ごみの収集日です。彼らはその曜日を正確に把握し、街のあちこちでごみを狙って待ち構えています。

ゴミ袋を漁り、中身を容赦なく路上に散乱させる彼らは、言わば「街のギャング」です。今日も必ず、彼らによってどこかの道にゴミが散らかされ、清掃に頭を悩ませる人々がいることでしょう。人間社会の秩序を乱す、厄介で騒がしい存在。それが彼らに対する私たちの偽らざる眼差しです。

 

「生きるため」の必死さと不器用さ

しかし、彼らのその荒々しい行為の根底にあるものを思うとき、私の心の中で一つの深い気づきが生まれます。「それも、生きるために……

彼らは決して、単なる悪意を持って街を汚しているわけではありません。ただ、今日という一日を生き延びるために、必死に命の糧を探し求めているだけなのです。美しく整えられた人間の静寂を破り、泥臭く、時に周囲に迷惑をかけながらも、なりふり構わず生きようとする姿。そこには、綺麗事だけでは済まされない「生存」というものの生々しい真実があります。

 


聖書には「空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」(マタイ 6:26)という言葉があります。この「空の鳥」には、愛らしい小鳥だけでなく、ゴミを漁る真っ黒なカラスたちも含まれているのではないでしょうか。

 


散らかった世界を愛する

私たち人間の営みもまた、本質的には同じなのかもしれません。 誰にも一切の迷惑をかけず、完璧に美しく生きられる人などいません。時には自分の弱さや不器用さゆえに、周囲の状況を散らかしてしまったり、誰かに負担をかけてしまったりしながら、それでも私たちは必死に今日を生き抜こうとしています。



今日、街のどこかで散乱したゴミを見かけたなら、ただ眉をひそめるだけでなく、そこに「なりふり構わず生きようとする命の足跡」を感じ取ってみたいと思います。

  • 完璧に生きられなくても、泥臭く命を燃やすこと
  • 互いの「生きるための不器用さ」を、少しだけ寛容に受け止めること
  • 与えられた今日という日を、懸命に生き抜くこと

静寂の足音と、騒がしいギャングたちの鳴き声が交差するこの不条理で愛おしい世界で、私たちもまた、自らの命を力強く歩ませていきましょう。

今日も、共に前進です。

坂道を走り続ける

 


誰もいない城跡と孤独な道——極限の28キロの先で受け取る「安息」

夜明けの風と、今年一番の苦闘

午前4時半。シューズの紐を結んで外へ出ると、空はすでに白み、すっかり明るさを取り戻していました。火照る肌を心地よく撫でる朝風が、まるでこれから始まる長い道のりを優しく応援してくれているかのようです。

 


しかし、この美しい夜明けの風景とは裏腹に、今日の朝ランは今年に入って最も過酷で、息の詰まるようなしんどい道のりとなりました。

 


聖和学院三神峯キャンパスの急な坂道を走り上り、さらに八木山へと続くその先の道も、ただひたすらに走り続けました。肺は悲鳴を上げ、足は重くきしむ。己の限界と向き合いながら辿り着いた仙台城には、不思議なことに誰一人としていませんでした。時間が早すぎたからなのか、それとも偶然か。誰もいない静寂の城跡をただ一人で走り抜け、東北大へと続く坂道をさらに走り上りました。

 


孤独な坂道で試されるもの

結果として、今日の朝ランは28キロ。しかし、今日ほど「しんどい」と骨の髄から感じたランニングは、これまでに数えるほどしかありません。極限の疲労と孤独の中で、ふと気づかされることがあります。 私たちの人生の歩みもまた、今日のランニングのようです。誰にも見られない孤独な場所——あの誰もいない城跡のような静寂の中で、歯を食いしばり、重い足を引きずりながら進まなければならない時があります。息が切れ、もう一歩も踏み出せないと思うような苦難の坂道。

 


周囲からはその苦闘は見えません。しかし、聖書に「忍耐をもって、自分たちの前に置かれている競走を走り抜こうではありませんか」とあるように、孤独な中で苦しくとも「止まらずに走り続けたこと」そのものが、後になって自分自身を支える深い感謝へと変わるのです。

 


走り抜いた者に与えられる「休息」という恵み

限界まで走り続けたからこそ、私は今日を一日「休息日」にすると決めました。明日の礼拝に、静かに、そして豊かに備えるためです。

 


真の安息(サバト)とは、ただ怠惰に過ごすことではなく、自らに与えられた命を精一杯に燃やし尽くした後に訪れる、神聖な恵みの時間です。空っぽになった体と魂にこそ、新しい光は満ちていきます。もし今、あなたが人生の急な坂道で息を切らしているのなら、どうかこれだけは忘れないでください。

  • 誰にも見られていないあなたの孤独な苦闘は、決して無駄ではないこと
  • 苦しみの中で、今日まで「足を止めなかった」自分自身を、静かに認めてあげること
  • そして、懸命に走り終えたなら、恐れずにしっかりと「休む」こと

厳しい道を止まらずに走り抜けた先には、必ず清らかな休息が用意されています。

皆さんの今日という日も、歩み、そして深く休める恵みの一日でありますように。



今日も、共に前進です。

2026年6月12日金曜日

2026サッカー・ワールドカップ

 


歓声と非難の交差点で——「条件付きの熱狂」を越える光

熱を帯びる世界と、不思議な団結

今、2026年のワールドカップが開幕し、世界中が大きな熱気に包まれています。

この時期になると、普段は分裂し、お互いに対立関係にある政治の世界やさまざまな組織でさえも、不思議なほどに一つにまとまります。自国のプライドを懸けた大舞台。誰もが画面の前に集い、心を一つにして勝利を願い、声を合わせて応援しています。

スポーツの祭典には、人々を惹きつけ、分断を一時的に忘れさせるほどの、(時には戦争まで休戦状態に入ります。)不思議な団結力と圧倒的なエネルギーがあります。ピッチの上で死力を尽くす選手たちの姿は私たちに希望を与え、その姿に励まされる国民が数え切れないほどいます。

 

勝利という「条件」の上に立つ脆さ

しかし、この熱狂の渦の中で、ふと立ち止まり、考えさせられることがあります。この美しい団結や称賛の嵐には、ある一つの残酷な「条件」が隠されているからです。

それは、「試合に勝った場合」に限られるということです。もし敗北してしまえば、昨日の大歓声は嘘のように消え去ります。そして今度は痛烈な批判や、選手たちの人格すらも否定するような攻撃が、波のように広がっていきます。つい先ほどまで英雄として讃えていた相手に、手のひらを返したように石を投げる。これもまた、悲しいほどに不思議な、私たち人間の偽らざる姿なのです。

 

熱狂の裏側にある「エルサレムの群衆」

なぜ私たちは、これほどまでに脆く、極端に揺れ動いてしまうのでしょうか。それは、人間の抱く期待や熱狂が、「自分の願い通りに動いてくれること」を前提とした、条件付きのものだからです。

聖書の歴史の中にも、これと同じ人間の姿がまざまざと記録されています。 かつてイエス・キリストがエルサレムに入城した際、群衆は「ホサナ(救いたまえ)!」と熱狂的な歓声を上げて彼を迎え入れました。彼らは、自分たちをローマ帝国の支配から解放してくれる「地上の勝利者」としての姿を勝手に期待したのです。しかし、キリストが彼らの

期待通りに動かず、無力な姿で捕らえられたとわかった途端、同じ群衆が今度は「十字架につけろ!」と叫び出しました。人間の熱狂は、状況によっていとも簡単に反転します。勝者だけを愛し、敗者を許容できない社会の根底には、この二千年前から変わらない人間の弱さと自己中心性が横たわっています。

 

揺るがない愛に根を下ろす

しかし、神の眼差しは、人間の熱狂とは全く異なります。 私たちが敗北したとき、期待に応えられなかったとき、そして誰からも拍手を送られない暗闇にいるときにこそ、決して手のひらを返すことなく、静かに寄り添い続けてくださるのが真理の愛です。

勝敗によって評価が反転する不確かな世界の中で、私たちが心に留めておきたいことがあります。

  • 結果だけで、人の価値を測ろうとする熱狂から少し距離を置くこと
  • 懸命に戦い、力尽きた敗者の痛みに、静かな敬意を払うこと
  • そして、自分自身の人生における「敗北」や「失敗」をも、決して責めすぎないこと

世の中の波がどれほど荒れ狂おうとも、私たちは勝敗を超えた「揺るぎない愛」に心の錨を下ろしていたいと願います。誰かを無条件に受け入れる眼差しを、今日という一日に少しでも実践していくために。

今日も、共に前進です。