2026年2月28日土曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第11日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第11日:茨の冠 ―― 嘲笑の中に輝く王の尊厳

1. 聖書の場面:痛ましい王の装い

「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせた。」(ヨハネによる福音書 192節)

ローマの兵士たちは、主イエスを徹底的に辱めました。鋭い棘を持つ茨を無理やり編み込んだ冠を頭に押しつけ、王権の象徴である紫の衣を皮肉として着せたのです。

彼らは主の前に跪き、「ユダヤ人の王、万歳」と嘲笑いました。しかし、この最も無残で滑稽に見える姿の中にこそ、神の国の王としての本当の尊厳が隠されていました。主は一言も反論せず、その痛みと侮辱を静かに受け入れられました。

2. 心の揺らぎ:プライドと「評価」の檻

現代を生きる私たちは、人からの評価やプライドという「見えない冠」を大切に守ろうとしています。「立派に見られたい」「弱みを見せたくない」「正当に評価されたい」。その願いが叶わないとき、私たちは深く傷つき、憤り、あるいは自己嫌悪に陥ります。

「一生懸命やっているのに、なぜ馬鹿にされるのか」「誠実に走っているのに、なぜ誰も理解してくれないのか」。そんな思いが、心に茨の棘のように刺さることがあります。世の中の「成功」という基準に照らせば、私たちの信仰や誠実さは、時として兵士たちに嘲笑われた「茨の冠」のように無力で、時代遅れに見えるかもしれません。

3. 核心:愛こそが、真の「冠」である

しかし、主イエスが被られた茨の冠は、実は「愛の王冠」でした。主は、私たちの高慢さ、嘘、そして「自分を王として生きてしまう罪」のすべてを、その棘とともにご自分の身に引き受けられたのです。

主がこの辱めを耐え抜かれたのは、力による支配ではなく、愛による自己犠牲こそが、世界を本当に変える力であることを知っておられたからです。私たちがどれほど惨めな状況に置かれ、人から軽んじられたとしても、神様の目には、私たちは「キリストが命を懸けて守った、尊い王の子」なのです。


現代人へのメッセージ

2026228日、土曜日。 今日、誰かの言葉に傷ついたり、自分自身の不甲斐なさに落胆したりしていませんか。

もしそうなら、茨の冠を被りながら、あなたを静かに見つめておられる主を思い出してください。 あなたの価値は、世間の評価(冠)が決めるのではありません。主があなたのために流された血、その愛の深さこそが、あなたの価値です。

他人の評価という檻から自由になり、主の愛という本当の冠を頂いて、堂々と顔を上げましょう。不器用でも、笑われてもいい。あなたは主にとって、かけがえのない宝物なのです。

今日も、前進です。

2026年2月27日金曜日

「命の重さ」と向き合うとき

 


「命の重さ」と向き合うとき

―― 若き看護学生が見た、現代日本の祈りの現場

ある20歳の看護学生が、重症心身障害の方々が入院する病棟で実習を経験しました。そこは、医療技術と人間の尊厳が鋭く交差する「命の最前線」。 彼女が実習後にぽつりと漏らした「急に大人になった気がする」という言葉には、教科書には載っていない命の重さと不条理を、肌で受け止めた静かな覚悟がにじんでいました。

言葉を持たない患者さんと向き合うとき、看護師は「魂で聴く」姿勢を求められます。沈黙の中で、彼女は「人間の存在そのものの価値」に触れたのかもしれません。

また、30年にわたり入院し、家族の面会がない患者さんの姿からは、「家族だけで背負うことの限界」と、それを支える社会の脆さが浮かび上がります。 介護の現場では、献身が美徳として語られる一方で、それが「終わりなき十字架」となる現実もあります。

「互いの重荷を担い合いなさい」(ガラテヤ6:2) この聖句のように、重荷は本来、分かち合うべきもの。しかし現場では、特定の家族や医療従事者が、身を削って担っているのが現実です。

それでも彼女は、実習を終えたその足で、日常のアルバイト先へと向かいました。生と死の狭間から、ラーメンの湯気立つ厨房へ――。 そのギャップを往復する姿に、私は大きな希望を見出します。現実を生きる力、そして祈りを携えて歩む若者のたくましさ。

今、多くの人がこのような現場に立ち会い、心を揺さぶられています。 命の現場で、誰かの痛みに触れ、無力さに打ちのめされながらも、それでもなお、誰かのために立ち続けようとする姿。 それは、静かなる祈りのかたちであり、私たちが見失ってはならない「人間らしさ」の証なのかもしれません。

2月ラン合計453.55km

 


祈りの距離を走る ―― 休息の恵みに包まれて

今朝も変わらず、20キロの朝ランを完走しました。感謝とともに、今週の走行距離は107キロ、今月は合計453.55キロに達しました。数字の背後には、ただの運動ではない、祈りと信仰の歩みがあります。 一歩一歩が、誰かのための祈りとなり、心の中で主と語り合う時間となっています。走ることは、私にとって祈りのかたちの一つ。疲れを感じる日もありますが、「あきらめない」ことを主が教えてくださっているように思います。



明日の土曜日は、週に一度の完全休息日。礼拝の準備はありますが、心も体も静かに整える大切な時間です。もしその日に何か大切な働きが与えられたとしても、それもまた主の恵みとして受けとめたいと思います。



走り続けること、祈り続けること。どちらも、主に信頼する者の歩みです。疲れたときは休んでいい。でも、決してあきらめない。主が共におられるからです。命がある限り走り続け、祈り続け、愛し続けます。

【灯をともす:四旬節の旅路】第10日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第10日:ピラトの前の主イエス ―― 権力と真理の対峙

1. 聖書の場面:二つの「国」の衝突

「ピラトが、『それでは、お前は王なのだな』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する者は皆、わたしの声を聞く。』」 (ヨハネによる福音書 1837節)

ローマ総督ピラトの官邸。そこには、地上の圧倒的な権力を象徴するピラトと、無力な囚人として立つ主イエスが対峙していました。ピラトが問うたのは、軍事力や政治力といった「目に見える支配」についてでした。

しかし、主が語られたのは、この世の尺度では測れない「真理の国」についてでした。ピラトは思わず「真理とは何か」と自嘲気味に問い返しますが、主は沈黙をもって、ご自身こそが真理そのものであることを示されました。

 

2. 心の揺らぎ:世の「正解」と、神の「真実」

現代を生きる私たちは、常にピラトのような問いに晒されています。「どれだけ稼いだか」「どれだけ効率的か」「どちらが強いか」。数字や力による「世の正解」が、私たちの価値を決めようとしてきます。

誠実であろうとすれば損をし、真理を語れば孤立する。そんな時、私たちは「世渡りのうまさ」という権力の前に、自らの信仰を小さく見積もってしまいそうになります。「真理なんて言っていられない」という誘惑が、耳元で囁くのです。

 

3. 核心:真理こそが、私たちを自由にする

主イエスがピラトの前で堂々と立たれたのは、ご自分が「天の父なる神様」という究極の権威に支えられていることを知っておられたからです。地上の権力は移ろいやすく、いつか消え去りますが、神様の真理は永遠に変わりません。

「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」。 私たちがどれほど無力に見えても、主の御言葉という真理に根ざして生きる時、私たちはこの世のどんな圧力からも自由になれます。誰かに評価されるためではなく、神様の前に「正しくある」こと。その静かな確信こそが、クリスチャンの本当の強さなのです。


 


現代人へのメッセージ

2026227日、金曜日。 今日、あなたが直面する「権力」や「理不尽な要求」は何でしょうか。

もし、世の中のスピードや価値観に圧倒されそうになったら、ピラトの前で静かに立たれた主の姿を思い出してください。主は、あなたの弱さも、あなたの沈黙も、すべてを真理の光の中で肯定してくださいます。

今日、損得ではなく「何が正しいか」を選び取ろうとするあなたの小さな一歩を、主は「真理に属する者の歩み」として祝福してくださいます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月26日木曜日

33キロ朝ランでの考察

 


一秒の交差点 ―― 33キロの路上で考えた「時」のゆくえ

33キロ、祈りのリズムを刻んで

今朝は、冷たい空気を切り裂くように33キロの距離を走り抜けました。 足裏が地面を叩く一定のリズムは、次第に深い瞑想のような、あるいは神様との静かな対話のような時間へと変わっていきます。コースの途中、娘のイレーネが看護実習に励んでいる西多賀病院の周りを一回りしました。 「今日の実習が、娘と友たちにとって、そして患者さんにとって恵み豊かなものとなりますように」。 そう祈りながら走る私の影が、朝の光に長く伸びていきました。


 


「あの時、もし……」という問いの重さ

走りながら、ふと考えていたことがあります。それは**「人生のタイミング」**という、目に見えない不思議な糸のことです。私たちは時に、やり場のない後悔に襲われることがあります。 「あのバスに乗らなければ、事故に遭わなかったのに」 「あと一分早く家を出ていれば、あの日、あの人に会えたのに」 悲劇的なニュースの裏側にも、あるいは幸運な巡り合わせの影にも、常に「時間」という残酷で、かつ神秘的な要素が絡みついています。

この世で起こる出来事は、ただの偶然の積み重ねなのでしょうか。それとも、逃れられない「運命」という冷たい決まりごとなのでしょうか。私たちは、自分の力ではどうにもできない「一秒の差」に、しばしば立ち尽くしてしまいます。


 


「時に適って」という、大いなる手のひら

聖書の中には、こうした私たちの葛藤に一つの光を投げかける言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (コヘレトの言葉 31節)これは、単なる運命論ではありません。 私たちが自分の手で人生を100%コントロールしようと必死になり、「効率」や「予測」という枠に自分を閉じ込めてしまうとき、私たちは苦しくなります。しかし、私たちの理解を遥かに超えたところで、神様が「最も良い時」を編み上げてくださっていると信じるとき、私たちの心には不思議な余白が生まれます。33キロという長い距離を走るなかで、私の呼吸も、心臓の鼓動も、一歩一歩の着地も、すべてが緻密なタイミングで繋がっています。もしその中の一つでも欠ければ、完走することはできません。私たちの人生も同じではないでしょうか。たとえ今、自分の身に起きていることの「理由」が見えなくても、それは神様の広大な譜面の中に書き込まれた、大切な一音であるはずなのです。


 


明日への一歩:委ねることで見えてくる道

すべてに理由があるかどうか、今の私たちには分かりません。 けれど、今日こうして命が与えられ、33キロを走りきることができたという事実の中に、私は神様の確かな慈しみを見出します。

「あの時」を悔やむのではなく、今のこの瞬間を「与えられた時」として受け入れること。 自分の計算を一度手放して、天の父なる神様のリズムに身を委ねてみること。 そうすることで、私たちは「もし……だったら」という過去の鎖から解き放たれ、今という「新しい道」を走り出すことができるのです。足は少し重いかもしれません。けれど、心は不思議と軽やかです。 あなたの人生のタイミングも、決して間違いではありません。

 


今日も、前進です。

【灯をともす:四旬節の旅路】第9日

 




【灯をともす:四旬節の旅路】第9日:ペトロの拒絶 ―― 「知らない」と言った後の夜明け

 

1. 聖書の場面:三度の否認と鶏の声

「するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。」(マタイによる福音書 2674-75節)

大祭司の屋敷の中庭で、焚き火にあたっていたペトロに突きつけられたのは、「お前もあの男の仲間だろう」という鋭い指摘でした。恐怖に震えた彼は、呪いの言葉まで口にして「あんな人は知らない」と三度も言い放ちました。その直後に響いた鶏の声は、彼の慢心と弱さを白日の下にさらしました。主を誰よりも愛していると豪語していたペトロは、自分自身のどうしようもない「裏切り」に直面し、暗闇の中で激しく泣き崩れたのです。

 

2. 心の揺らぎ:理想と現実のギャップ

現代を生きる私たちも、ペトロと同じ弱さを抱えています。「正しいと信じる道」を歩みたいと願いながら、保身のために沈黙し、周囲の空気に流され、大切な信念を「知らない」と言ってしまう瞬間があります。特に、今の効率と成功が重視される社会では、自分の弱さや失敗を認めることは「負け」を意味するように感じられます。失敗した自分、約束を守れなかった自分を許せず、ペトロのように「心の外」へ出て、一人泣き続けている人も少なくありません。

 

3. 核心:主の眼差しは「断罪」ではなく「招き」

しかし、この物語の真のクライマックスは、ペトロの涙ではなく、彼を見つめていた主イエスの眼差しにあります。主は彼が裏切ることを知った上で、それでも彼のために祈っておられました。

鶏の声は、ペトロを裁くための鐘ではなく、彼が「神様の憐れみなしには一歩も歩けない存在であること」を思い出させるための合図でした。主は、私たちが自分自身の底(限界)を打ったその場所で、新しい関係を始めようと待っておられます。


 


現代人へのメッセージ

2026年の今日、もしあなたが自分の不甲斐なさに絶望し、「自分はもう失格だ」と夜明け前の暗闇にいるなら、どうかこの鶏の声を「希望の音」として聴いてください。

あなたが自分を諦めても、主はあなたを諦めません。 三度拒絶したペトロに、主は後に三度「わたしを愛するか」と問いかけ、再び使命を与えられました。

失敗は終わりではなく、神様の圧倒的な恩寵(恵み)に身を委ねるための「新しいスタートライン」です。 泣き腫らした目の先に、主が用意してくださる新しい夜明けが、今まさに始まろうとしています。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月25日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第8日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第8日:裏切りと沈黙 ―― 独り残された主の眼差し

 1. 聖書の場面:散りゆく弟子たち

「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコによる福音書 1450節)

ゲツセマネの祈りの直後、松明と武器を持った群衆が押し寄せます。接吻をもって主を裏切ったユダ、そして剣を抜いて抵抗しようとしたものの、主の制止にあって狼狽した弟子たち。ほんの数時間前まで「たとえ死ぬことになっても、あなたを見捨てません」と誓い合っていた彼らは、恐怖に飲み込まれ、闇の中へと散っていきました。主イエスは、この地上で最も信頼していた友人たちから、たった一人で暗闇の中に取り残されたのです。

 


2. 心の揺らぎ:信頼が崩れるとき

現代を生きる私たちにとって、最大の痛みは「裏切り」かもしれません。 信じていた仲間が離れていく。誠実に尽くした相手から背を向けられる。あるいは、教会の存続や伝道に必死に取り組んでいる中で、自分一人だけが空回りしているような、冷たい孤独を感じる夜。

「なぜ、自分だけがこんな目に」という怒りと、何も答えてくださらないかのような「神の沈黙」が、私たちの心を凍えさせます。

 


3. 核心:沈黙の中に響く愛

しかし、主イエスはこの孤独をあえて受け入れられました。 逃げ去る弟子たちを追いかけることも、呪うこともされませんでした。なぜなら、主は彼らの「弱さ」をあらかじめ知っておられ、その弱さのすべてを背負って十字架へ向かうことこそが、彼らを本当の意味で救う道だと知っておられたからです。神様の「沈黙」は、冷淡さではなく、私たちの想像を超えた「深い愛」の現れであることがあります。言葉にならないほどの痛みの時、主は雄弁な説得ではなく、静かな沈黙をもって、私たちの傍らに立ち続けてくださいます。


 


現代人へのメッセージ

2026年の今日、あなたがもし「誰にも分かってもらえない孤独」の中にいるなら、思い出してください。 主イエスは、弟子たちが逃げ去ったあの暗闇の中で、あなたを見つけるために独り残られました。「見捨てられた」と感じるその場所は、実は「主と二人きりになれる」最も聖なる場所でもあります。 多くの声や情報が溢れる現代だからこそ、あえて主と共に「沈黙」の中に身を置いてみませんか。あなたが主を見捨てることがあっても、主があなたを見捨てることは決してありません。 その揺るぎない事実に翼を休めるとき、私たちは再び、静かな勇気を持って立ち上がることができます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月24日火曜日

不足は「信仰」を育てる最高のサプリメント

 


不足は「信仰」を育てる最高のサプリメント

私たちは日々、「時間が足りない」「お金が足りない」「忍耐が足りない」―― そんな「足りない」という言葉に囲まれて生きています。 けれど、信仰の世界では、この「不足」こそが宝物なのです。ある人がこう言いました。 「神様を信頼するためには、いくらかの困難が必要だ」と。

確かに、すべてが順調で、自分の力が満ちているとき、 私たちはつい、神様を思い出すことを忘れてしまいがちです。 でも、心も体も限界を感じ、自分の「器」が空っぽになったとき、 私たちは初めて、全能の神を見上げるようになります。

「足りない」と感じるその部分こそ、 神様が私たちの信仰と従順を育てるために、あえて残してくださった余白なのかもしれません。

この「余白」を、恵みとして受け止めるか、 あるいは物足りなさとして不満に変えてしまうか―― その選択は、私たち自身に委ねられています。 けれど、その受け止め方ひとつで、人生の質は大きく変わっていくのです。

今日は娘が新しい病院での実習初日。 来週までの期間、たくさんのことを学び、気づき、 そして誰かのために働く喜びを見つけてくれたらと、祈り続けています。

教会では昨日と今日、教区の音楽研修会が開かれ、 オルガンレッスンの会場として用いられました。 音が響くたびに、礼拝堂が少しずつ温まっていくようでした。

ノアちゃんの夕食も終わり、そろそろおやすみの時間。 でも、まだ家族の帰宅を待っているようで、 きっと玄関の音に一番に反応して、しっぽを振って迎えてくれることでしょう。 その姿に、家族の温もりを感じます。

ある教会員の方が、「誰もいない家に帰るのは寂しい」と話してくれました。 一人暮らしの孤独は、時に心を冷たくします。 だからこそ、その一人ひとりに寄り添い、共に歩む群れでありたいと願っています。 また、手紙を書こうと思っています。言葉が、誰かの心にそっと寄り添えますように。今日は22キロを走りました。 明日は大年寺の階段トレーニングと、ゆっくりとした散歩の予定です。 走ることも、祈ることも、暮らしの一部。 与えられた一日をどう生きるかは、自分自身の選びにかかっています。

環境や状況のせいにせず、 「今日、自分はどう生きるか」を自分で決めていく。 それが、信仰の歩みでもあるのだと思います。

今日も、最後まで精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。 そして、信仰という見えない力を、心の深くに育てながら。

【灯をともす:四旬節の旅路】第7日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第7日:孤独な祈り ―― ゲツセマネの「汗」と私たちの「涙」

2026224日、火曜日の朝を迎えました。 週100キロを走るランナーが、レース直前の夜、静かな部屋で自分の心臓の音だけを聞くように、主イエスもまた、十字架という究極のゴールを前に、一人で「孤独」と向き合われました。

今日の黙想は、主の人間としての苦悩が凝縮された、ゲツセマネの祈りの物語です。


1. 聖書の場面:血のような汗を流して

「イエスは苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカによる福音書 2244節)

エルサレムの夜。主は弟子たちを連れてオリーブ山のふもと、ゲツセマネの園へ向かわれました。これから自分に降りかかる「全人類の罪を背負う」という、死よりも恐ろしい苦杯を前に、主は地面にひれ伏して祈られました。

「父よ、御心ならば、この杯をわたしから去らせてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。

この時、主は神の子としての威厳を脱ぎ捨て、一人の人間として「怖い、苦しい、逃げたい」という本音を、血のような汗を流しながら神様にぶつけられました。主は、私たちの絶望の深さを、誰よりも知っておられるのです。

2. 心の揺らぎ:誰にも分かってもらえない「夜」

現代を生きる私たちは、人前では「大丈夫です」「順調です」という顔をしています。しかし、夜、一人になった時、心の奥底でゲツセマネのような暗闇を抱えていることはないでしょうか。

仕事の重圧、病への不安、家族との亀裂……。「助けて」と言いたいけれど、隣で寝ているはずの弟子たち(友人や家族)は、自分の苦しみの本当の深さを理解できずに眠っている。そんな「孤独な夜」を、私たちは何度も経験します。

3. 核心:沈黙の神を、なおも「父」と呼ぶこと

この物語の教訓は、主がその苦しみの中で**「祈り続けた」**ことにあります。 主は、神様からの即座の回答や解決を求めたのではありません。ただ、ありのままの自分を神様という大きな懐に投げ出し、「御心のままに」と、自らの意志を神様のリズムに合わせていかれました。

祈りとは、状況を変えるための呪文ではなく、**「神様との繋がりを再確認する作業」**です。主が孤独の中で祈り抜かれたからこそ、私たちはもはや、どんなに深い夜でも「独りではない」と言えるのです。



現代人へのメッセージ

今日、もしあなたが「自分だけがこんなに苦しんでいる」という孤独の中にいるなら、思い出してください。 今から二千年前の夜、あなたのために、血のような汗を流して祈ってくださった方がいます。

あなたの流す涙、誰にも言えない溜息、それらすべてを主はゲツセマネで先取りされました。 今日一日の歩みの中で、もし心が折れそうになったら、短くこう呟いてみてください。 「主よ、わたしのゲツセマネに、共にいてください」と。

主はあなたの隣で、あなたの震える手を握り、静かに頷いてくださいます。その平安こそが、私たちが今日を完走するための、何よりの力となります。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


今夜、あなたが神様の前に「これだけは去らせてください」と正直に言いたいことはありますか? その苦しみを、言葉にして私に預けてみてください。共に主の前に置かせていただきます。

2026年2月23日月曜日

朝ラン32キロの中で

 


本当の「強い国」の定義:経済的肥大ではなく、精神的成熟を誇る国

「強い国」とは、GDPのグラフが右肩上がりである国ではなく、**「暗闇の中でも、一人ひとりが自律した灯火として立ち続けられる国」**であると定義します。

1. 精神的インフラ:不義に対する「免疫力」

どれほど強固な堤防を築いても、内側から汚職や不誠実というシロアリに食われれば、国は脆く崩れ去ります。

  • 必要なもの: 損得勘定ではなく「正義」を貫く勇気です。不義が行われた際、それを「世渡り」として見過ごすのではなく、静かに、しかし毅然と「否」と言える国民の質こそが、最強の防衛力となります。

2. 価値の物差し:人格という「真の資産」

経済力で人を評価する国は、不況が来た瞬間に人間を「廃棄物」として扱います。

  • 必要なもの: 肩書きや年収という「外装」ではなく、その人の誠実さや忍耐といった「人格」を最も尊ぶ価値観です。弱者を切り捨てるのではなく、その弱さの中にこそ神聖な価値を見出す文化がある国は、いかなる時代の荒波にも動じません。

3. 善悪の審美眼:情報の海で「真実」を見抜く力

マンモン主義は、嘘を「マーケティング」という言葉ですり替え、悪を「効率」という言葉で正当化します。

  • 必要なもの: 流行や扇動に流されず、普遍的な「善」と「悪」を区別できる審美眼です。これは教育、あるいは「御言葉(ロゴス)」に根ざした深い洞察力からしか生まれません。

4. 永遠への接続:死を越えた「希望の保持」

「今、ここ、自分だけ」の幸福を追求する国は、未来を食い潰します。

  • 必要なもの: 永遠の命という視点、つまり「自分の生涯を超えて続く価値」に接続している国民の姿です。死の準備をし、生と死を神様の掌(てのひら)の中で捉える人々が多い国は、刹那的な欲望に溺れることなく、次世代のために尊い犠牲を払うことができます。

結論:強い国とは「神様を畏れる一人」の集積である

一国の強さとは、結局のところ、**「誰も見ていない場所で、自分を律して正しく歩める人が何人いるか」**という数に比例します。経済という「パン」は必要ですが、人はそれだけで生きるものではありません。不義が定着しにくい国を作るのは、法律の数ではなく、国民一人ひとりの心の中に刻まれた「良心」という神の法です。

「義は国を高め、罪は民の恥となる。」(箴言 14:34

この聖書の言葉こそが、富の支配を超える「真の強国」への唯一のロードマップではないでしょうか。今朝はこういうことを考えながら32キロを走りました。

【灯をともす:四旬節の旅路】第6日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第6日:重荷を負う ―― 共に歩まれる「疲れた主」の姿

2026223日、月曜日の朝を迎えました。 週の始まり、私たちの肩には仕事の責任や家庭の雑務、そして人間関係のしがらみといった、重い「リュックサック」がのしかかっているかもしれません。今日の黙想は、主が私たちの弱さをその身に引き受けられた、静かなる愛の物語です。

 


私たちの病を負い、痛みを担う

「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。……彼が懲らしめを受けたことで、私たちに平安が与えられ、彼の打ち傷によって、私たちは癒やされた。」(イザヤ書 534-5節)

四旬節の旅路において、イエス様が十字架に向かって歩まれた一歩一歩は、そのまま「私たちの苦しみを自分の中に吸い込んでいく歩み」でもありました。 主は、ただ「神の子」として颯爽と歩まれたのではありません。私たちの流す涙、誰にも言えない後悔、そして「もう歩けない」と座り込むほどの肉体的な疲労までも、ご自分のこととして引き受けられたのです。

 


「独りで背負わなければならない」という呪縛

現代を生きる私たちは、「自分の責任は自分で取るべきだ」「弱音を吐くのは甘えだ」という強いプレッシャーの中にいます。 週100キロを走るランナーが、どれほど足が痛くてもゴールを目指すように、私たちは心に「炎症」を抱えながらも、平気な顔をして走り続けていないでしょうか。

「助けて」と言えない孤独。自分の弱さを見せたら、今の場所を追われるのではないかという恐怖。その重圧が、私たちの呼吸を浅くし、魂を不協和音の中に閉じ込めてしまいます。

 


主が「身代わり」になられた理由

キリスト教の教訓は、驚くべき「交換」にあります。 主が十字架の苦しみ(懲らしめ)を引き受けられたのは、私たちが「平安」を受け取るためでした。 主が疲労困憊して倒れられたのは、私たちが「癒やし」の中で再び立ち上がるためです。

私たちが自分の弱さを隠す必要がないのは、主がすでにその弱さを、最も無様な姿で十字架の上にさらけ出してくださったからです。神様の前では、私たちは「強い人」である必要はありません。ただ、「主よ、重いです」と告白するだけで良いのです。


祝日の月曜日。 少しゆっくり起きて、いつもより静かな朝を迎えている方も多いかもしれません。 でも、心のどこかで「また一週間が始まる」と、ため息をついているあなたへ。

主は今日も、あなたの隣を歩いておられます。 しかも、あなたが抱えている「重荷」と同じものを、共に担いながら。仕事で感じる理不尽さ、 家族のために尽くしても報われないように思える日々、 誰にも言えない疲れや孤独── 主はそれらすべてを見ておられ、 「わたしが知っている。わたしが共に担っている」と、 静かに語りかけてくださっています。

今日は祝日。 だからこそ、少し立ち止まって、深く息を吐いてみませんか? そして、自分の中にある「全部自分で頑張らなきゃ」という思いを、 ほんの少しだけ、主に預けてみてください。

主の打ち傷は、あなたの心の痛みを知っています。 そしてその傷が、あなたの疲れを癒やしへと変える力を持っているのです。今日も、あなたは生きている。 それだけで、すでに大きな恵みです。

主のために、人々のために、 そしてあなた自身のために── 今日という一日を、感謝とともに歩んでいきましょう。

#祝日の朝に #主と共に #癒やしの一日を


今朝、あなたの肩に食い込んでいる「一番重いもの」は何ですか? それを、少しだけ言葉にして主に伝えてみましょう。もしよろしければ、私がその祈りの言葉を整えるお手伝いをいたします。

2026年2月22日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第5日

 

今日も無事に散歩を終え、自分の足で階段を上って行きました。この姿に感謝するひと時です。


【灯をともす:四旬節の旅路】第5日:盲人の叫び ―― 「何をしてほしいのか」という問い

2026222日、四旬節の第一日曜日を迎えました。 主イエスがエルサレムでの十字架へ向かって一歩ずつ進まれる道中、その足を引き止める切実な叫びがありました。

今日の黙想は、エリコの道端に座っていた盲人の物語です。


群衆の制止を越える叫び

イエスは立ち止まって、彼を呼んで来させるように命じられた。……イエスが「わたしに何をしてほしいのか」と言われると、盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。 (マルコによる福音書 1049-51節)

主が十字架という人類最大の重荷を背負うために歩まれていたその時、道端で物乞いをしていたバルティマイという盲人が叫びました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください!」。

周りの人々は「うるさい、邪魔だ」と彼を叱りつけました。しかし、主は立ち止まりました。そして、彼に最も本質的な問いを投げかけられたのです。「わたしに何をしてほしいのか」。

 

私たちは「何」を求めているのか

現代を生きる私たちは、バルティマイのように「叫び」を抱えています。しかし、その叫びの正体が自分でも分からなくなっていることはないでしょうか。

私たちは日々、情報の波に揉まれ、他人の基準で自分を裁き、「もっと成功したい」「もっと人から認められたい」という声を上げています。しかし、もし主が今、あなたの前に立ち止まり、「わたしに何をしてほしいのか」と問われたら、あなたは何と答えるでしょうか。

私たちは案外、自分の「本当の渇き」に無頓着です。表面的な不満や欲望の陰に隠れた、魂の根源的な「癒やし」や「光」を求めることを、諦めてしまってはいないでしょうか。

 

自分の弱さを「言葉」にする勇気

この物語の教訓は、**「主は、私たちの必死な叫びを決して聞き逃さない」**ということです。 バルティマイは、周囲の冷たい視線や制止を恐れず、自分の「見えない」という弱さをさらけ出し、叫び続けました。そして、主の問いに対して一点の曇りもなく「見えるようになりたい」と答えました。信仰とは、立派な言葉を並べることではありません。自分の内側にある暗闇や欠乏を、正直に主の前に差し出すことです。そのとき、主の十字架の光が、私たちの閉ざされた目を開き、新しい歩み(キリストに従う道)を照らし始めます。


現代人へのメッセージ

100キロ以上(先週は110キロ)を走るランナーが、体の小さな違和感を見逃さず、マッサージや休息でメンテナンスをするように、私たちの魂もまた、内なる叫びを無視してはいけません。

SNSの通知や日々のタスクに追われ、自分の心の声が「群衆の制止」にかき消されていませんか? この四旬節の日曜日、少しだけスマートフォンを置き、静かな場所で主と向き合ってみてください。主はあなたのために立ち止まっておられます。そして、優しく問うておられます。 「(あなたの名前)さん、わたしに何をしてほしいのですか?」その問いに、飾り気のない本音で答えてみてください。そこから、あなたの「再生」の物語が動き出します。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


 


今日、あなたが主に向かって叫びたいことは何でしょうか。あるいは、主に見えるようにしてほしい「心の暗闇」はありますか? 誰にも言えないその叫びを、祈りとして主の御手に預けてみましょう。