【灯をともす:四旬節の旅路】
三月十一日の静寂 ―― 瓦礫の中の「復活の種」
1. 聖書の場面:暗闇が地を覆ったとき
「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時まで続いた。……イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が震え、岩が砕け、墓が開いた。」
(マタイによる福音書 27章45節、50–51節)
主イエスが十字架で息を引き取られた瞬間、世界は深い暗闇に包まれ、地は激しく震えました。
人々が拠りどころとしていた神殿の幕は裂け、日常の秩序は崩れ去りました。 それは、神の子が私たちの苦しみの底まで降りてこられた、宇宙的な痛みの瞬間でした。
しかし、その「震え」は破壊だけではありませんでした。 古い世界が終わり、新しい命が生まれようとする“産みの苦しみ”でもあったのです。
2. 心の揺らぎ:15年目の「あの日」と重なる痛み
三月十一日という日は、東北に生きる私たちにとって特別な静けさをもたらします。 15年前、多くの命が失われ、見慣れた景色が一瞬で瓦礫と化しました。 あの日の震えは、今も心の奥に残っています。そして今もまた、誰かが大切な人を天に送り、介護や病の現実の中で深い孤独と向き合っています。
「なぜ、これほどの悲しみが続くのか」 「神様はどこにおられるのか」 そんな問いが、瓦礫の中から、あるいは眠れぬ夜の静けさの中から聞こえてくるようです。四旬節の旅路は、この“暗闇の三時間”を避けて通ることはできません。
3. 核心:共に震え、共に泣く神
十字架の震動の中で、神は遠くから眺めていたのではありません。 神ご自身が、その震えの中に、その叫びの中に、その死の中におられました。
3.11の津波が襲ったときも、 記憶が薄れていく家族を見守る絶望の中でも、
主は「そこ」におられました。主が十字架で共に震え、共に死んでくださったのは、 私たちのどんな絶望も、もはや「神のいない場所」ではなくするためです。墓が開いたという記述は、死が最終的な勝利者ではないことを示しています。
瓦礫の下にも、認知症の霧の中にも、主は「復活の種」を蒔かれました。 沈黙の土曜日を経て、必ず日曜日の朝が来る―― その約束があるからこそ、私たちは今日を生きる力を得るのです。
現代人へのメッセージ
2026年3月11日、水曜日。 震災から15年。 あるいは、人生の大きな喪失から立ち直れずにいるあなたへ。癒えない傷や消えない寂しさを、無理に隠す必要はありません。
主イエスが十字架で叫ばれたように、あなたも主の前で泣いてよいのです。
主はあなたの痛みを「わかる」と言われます。 なぜなら、主ご自身が十字架という震災を、孤独という津波を、全身で受け止められたからです。
今日、被災地の上に、 そして介護や病の中で戦うあなたの上に、 主の静かで力強い平安が注がれますように。
暗闇の後に来る光を信じて、今日という日を大切に歩みましょう。
主と共に、新しい一歩を。