デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年11月2日月曜日

迷った朝の一歩が、42.195キロになった日

 


午前3時5分

今朝は、少し迷いました。

ノアの散歩から帰ってきて、午前3時5分、ランニングをスタートしました。

10月31日も朝ランをして、昼からはお祝い会。
昨日は礼拝と会議。
そして迎えた今日は、休むつもりでした。

けれども、来週からはサンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅に出かけます。旅の間は走れなくなります。
そのことを念頭に、少なくとも11月は300キロを走ろうと決めていました。

だから、今朝も走りました。

気づけば、フルマラソン

走っているうちに、距離が伸びていきました。
結局、42.20キロ。フルマラソンになりました。

休むつもりだった朝が、フルマラソンの朝になる。
自分でも、少し笑ってしまいます。

迷いながら踏み出した一歩でした。
けれども、その一歩がなければ、42キロの道のりはありませんでした。
長い道も、いつも小さな一歩から始まるのです。

走ってよかった、と思うこと

いつものことですが、走ったあとは、「走ってよかった」と思うようになります。

走り出す前は、体の重さや、迷いの方が大きく感じられます。
けれども、走り終えたとき、心に残るのは、迷いではなく感謝です。

人生にも、そういうことが多いのではないでしょうか。

  • 気が進まなかった訪問が、思いがけない出会いになったこと。
  • 重い腰を上げて始めた仕事が、誰かの助けになったこと。
  • 迷いながら参加した集まりで、心が温かくなったこと。

踏み出す前の迷いは、踏み出した後の感謝に、静かに変わっていきます。


前のものに、全身を向けて

パウロは、自分の信仰の歩みを、走ることにたとえてこう語りました。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」
(フィリピの信徒への手紙3章13〜14節)

「後ろのもの」とは、疲れや迷い、昨日までの忙しさかもしれません。
「前のもの」とは、今日、目の前に置かれた一歩です。

迷いを抱えたままでもいいのです。
前に向かって、一歩を踏み出すこと。
その一歩を、主は確かに導いてくださいます。


休養日のはずが

本当は、今日は休養日として休むつもりです。
……送り迎えがあるので。

休むつもりの日にも、やるべきことがあります。
予定どおりにいかないことも、たくさんあります。
けれども、それもまた、今日という日に与えられた務めです。

「今日こそ主の御業の日。今日を喜び祝い、喜び躍ろう。」
(詩編118編24節)

予定どおりの日も、予定どおりにいかない日も、主が与えてくださった「今日」です。
その今日を、喜びと感謝をもって受け取りたいと思います。

すべてに感謝して生きることが、一番です。

あなたへ

  • 今、踏み出すのを迷っていることはありますか。小さな一歩だけでも、踏み出してみませんか。
  • 予定どおりにいかなかった今日の中に、感謝できることを一つ探してみませんか。

迷った朝の一歩が、思いがけない長い道へとつながることがあります。
その道の先には、きっと「行ってよかった」という感謝が待っています。

今日も笑顔で、前進です。

2026年11月1日日曜日

すべては時にかなって美しい


 

礼拝から始まった11月

今日から11月がスタートしました。
礼拝から始まった11月です。

けれども、今朝のランニングは休みました。
どこか疲れが溜まっていて、少しだるいなと感じたからです。走りたい気持ちを抑え、我慢して、朝ランを休んで一日を始めました。

休むことにも、小さな勇気がいります。
けれども、立ち止まった朝だからこそ、見えてくるものがありました。

 


生きることは、本当に大変です

生きることは、本当に大変です。
年を重ねた教会の方々を見ていると、特にそう思います。

  • それぞれが、悩みを抱えています。
  • 病を抱えています。
  • さらに、介護という厳しい重荷を背負っている方もいます。

その中で、それでも生きるための日々の営みがあります。
朝起きて、食事をつくり、薬を飲み、家族の世話をし、そして礼拝に来る。
その一つひとつが、どれほどの力を振りしぼった一歩であるかを思います。

 


二度目の退院

昨日は、退院した教会員を覚えての、快気のお祝い会がありました。
高齢のこの姉妹にとって、今回は二度目の入退院でした。

数年前、約半年間の入院先の病院で、姉妹は絶望し、人生の意味を失いかけていました。
その矢先に、毎週欠かさず、手紙と週報と、広瀬川のあのハクチョウの写真とメッセージを届けました。神様はその祈りの行動を聞いてくださり、姉妹は無事に退院することができました。

 

しかし今年に入って、今度は脳梗塞で入院し、治療とリハビリを続けてきました。
私は毎日のように、早朝のマラソンで病院を回りながら、祈りの時を持ちました。

サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅の前に退院して、いつものように壮行会をしてもらいたい。そう願っていました。

本来なら、退院は10月31日の予定でした。
ところが、状態が予想以上によくなり、二週間も前に退院することができたのです。
そして昨日、お祝い会を持つことができました。

すべては、神様に感謝です。

 


神様の特別な計画

高齢で数か月も入院すると、次は施設に入って人生を終えるのが一般的です。
けれども神様は特別な計画を持って、姉妹を再び教会と家族のところへ帰らせてくださいました。神様がなさることは、私には分かりません。
けれども、一つだけは知っています。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」
(コヘレトの言葉3章11節)

神様のなさることは、すべて時にかなって美しい。
私は、それを信じて生きることにしています。

たとえ今は理解できないことがあっても、いつかそれが神様の御心であったと分かる日が来るでしょう。だから、すべてに感謝して生きることが大事なのです。

「どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(テサロニケの信徒への手紙一5章18節)

今日も、その姉妹が会堂の席につき、共に礼拝を守ることができました。
同じ会堂で、同じ御言葉を聞き、同じ賛美を歌う。
その当たり前の光景が、どれほど大きな恵みであるかを、今日ほど深く感じたことはありません。

 


旅立ちを前に

いよいよ来週、祈りの旅に出かけます。今日、ノアは、愛する兄姉から美味しいリンゴをいっぱいいただきました。いつもノアのことを心かけて下さっている方々です。
留守の間、ノアも元気に過ごせますように。

 


それでも、生きること

大変な時代です。
それでも、生きることです。
頑張って生きることです。
精一杯に生きることです。
できれば、笑顔で生きることです。

そのためには、

  • 努力が必要です。
  • 理解が必要です。
  • 譲り合いが必要です。
  • 時には、忍耐も必要です。

それが、私たち人間の生きる姿なのだと思います。
そして、その一歩一歩の上に、神様の「時にかなった美しさ」が、静かに重ねられていくのです。

 


あなたへ

  • 今、理解できずにいる出来事はありますか。それも、いつか「時にかなって美しい」と言える日が来ることを、信じてみませんか。
  • 今日、あなたが感謝できることは何でしょうか。小さなことを、一つ数えてみてください。

今日も笑顔で、前進です。

2026年10月29日木曜日

朝ラン36キロ完走

 


青空に、一本の線

今朝も、4時半ごろに走り出しました。
久しぶりに、最後の10キロは名取の海の方へ。

若林小学校の近くを通りかかったとき、空の遠くに、一列に並んだ鳥の群れが見えました。福島の方へ向かって飛んでいきます。

思わず立ち止まりました。
あれは、ハクチョウかもしれない。
スマホのレンズを最大にして、その一本の線を写真に納めました。もう飛来したのだろうか、と思いながら。

 


広瀬橋の二羽

そのまま走って広瀬橋まで来ると、二羽のハクチョウを見つけました。
やはり、あれはハクチョウだったのです。

けれども、二羽だけというのは少ない。
もしかすると、目的地まではたどり着けず、羽を休めるために、ここで休憩しているのかもしれません。先ほどの群れの仲間なのかもしれません。
ハクチョウは、おおむね家族単位で移動するのが一般的だと聞いたことがあります。

遠い空を一列に進む群れと、川面で羽を休める二羽。
どちらも、同じ旅の途中にいるのだと思うと、胸の奥が静かに温かくなりました。

ハクチョウは、この広瀬川の冬の物語の主人公です。そして、多くの家庭で、「今年も来たね」という会話のきっかけになることでしょう。

 


604という数字

今朝は約36キロを完走しました。これで、10月の合計距離は604キロになりました。

でも、この数字は好きではありません。
だから明日も21キロを走って、625キロにします。

自分で決めた数字に向かって、もう一歩を重ねる。
誰に言われたわけでもない、その小さなこだわりが、明日の朝も私を外へと連れ出してくれます。

 


大きな世界と、小さな世界

相変わらず、世界では戦争や争い、事故や事件、悲しい出来事が続いています。
ニュースを開くたびに、空が少し暗くなるような気がします。

けれども、そういう中で、この小さな世界、私たちの家庭は、主によって守られています。

  • 娘は、実習に励んでいます。
  • 妻は、仕事に励んでいます。
  • ノアは、生きることに励んでいます。
  • そして私は、自分の務めに励んでいます。

それぞれが、それぞれの場所で、今日を懸命に生きている。
一列に並んで空を渡るハクチョウの家族のように、私たちもまた、同じ方向を向いて旅をしているのかもしれません。

「主御自身が建ててくださるのでなければ/家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ/町を守る人が目覚めているのもむなしい。」
(詩編127編1節)

家庭を守ってくださるのは、主イエス・キリストです。
私たちの努力は、その守りの中で、初めて実を結びます。

 


一番忙しい十日間

サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅まで、あと10日。
今がいちばん忙しい期間です。

留守の間の週報づくり、コラム、月報。現地での宿の予約、移動のための交通機関の予約。帰ってくるのは土曜日の夜なので、次の日の主日礼拝の準備もあります。

さらに12月12日の教会クリスマス音楽コンサートの準備まで・・・

でもいつものことなので、気にはしていません。
これで良い、と思っています。

 


ラザニアと鯖缶の食卓

今日の夕食には、ラザニアと、鯖缶とピーマンと玉ねぎの炒め物、そして人参ラペを作りました。変わらない日常の風景です。
けれども、この「変わらない」ことこそが、どれほど大きな恵みであるかを、私たちは忘れがちです。

 


平和は、つくられるもの

平和は、何もしないで守られるものではありません。
一人ひとりの努力が必要です。自分に与えられた務めを、心を込めて果たすことです。

主イエスは、こう言われました。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」
(マタイによる福音書5章9節)

「平和を実現する人」とは、遠い国の大きな交渉の席にいる人だけではありません。
今朝、台所に立つ人。仕事に向かう人。実習で患者さんのそばに立つ人。年老いた犬と、ゆっくり朝の道を歩く人。

自分の小さな世界で、今日の務めを誠実に果たすこと。
それが、主が守ってくださる平和を、私たちの手で形にしていく道なのだと思います。

 


あなたの小さな世界へ

あなたの家庭にも、職場にも、学校にも、主が守ってくださる小さな世界があります。

  • 今日、あなたが励んでいることは何でしょうか。
  • あなたの隣で、それぞれの務めに励んでいる人は誰でしょうか。

大きな世界のニュースに心が沈む日こそ、目の前の小さな務めを、主にささげるように果たしてみませんか。
その一つひとつが、平和をつくる一歩になります。

もう少し仕事をしてから、二度寝に入ります。
その前に、ノアとの散歩です。

今日も笑顔で、前進です。

2026年10月24日土曜日

走って何が変わる?

 


自分が決めた道を走るということ

休むはずだった朝に

休むはずだった朝ランを、今日も行いました。先月に引き続き今月も600キロを達成するためです。この距離は、誰かに強いられたものではありません。自分で決めたことです。
ちょっと厳しいなと感じながらも、なんとか頑張れば達成できる。そう思ったから決めた目標です。人から与えられた目標は、ときに重荷になります。
けれども、自分で決めた目標には、不思議な力があります。足が重い朝でも、「誰のためでもなく、自分で選んだ道だ」と思えば、もう一歩前に出られるのです。

 


土曜日の道で

今日は土曜日で、多くのランナーの姿がありました。今はランニング大会のシーズンでもあるので、それぞれの大会に向けた練習なのかもしれません。すれ違う一人ひとりに、それぞれの目的があるのでしょう。記録を目指す人、健康のために走る人、気持ちを整えるために走る人。けれども、目的がどうであれ、その奥にあるものはきっと同じです。


豊かな人生を生きるため。少しでも幸せを感じるため。

不幸になるために走る人は、一人もいません。

喜びが、まわりへ広がるなら

走って喜び、その喜びを家族や周りの人と分かち合えたら、どれほど良いでしょうか。

社会が明るくなり、笑顔が増え、心に豊かさが生まれる。その豊かさから譲り合いが生まれ、共に元気に生きていける社会。聖書には、こう書かれています。

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」(ローマの信徒への手紙12章15節)

喜びは、一人で抱えているより、分かち合ったときにいっそう深くなります。
走り終えた朝の清々しさを、家族に「おはよう」の声で手渡す。それだけでも、家の空気は少し変わります。

 


それでも、現実は

でも、これは夢なのかもしれません。現実には、ランニングをする人が増えても、社会の犯罪や事故、事件が減るわけではありません。それは別の問題なのかもしれません。

自分一人が走ったところで、世界が変わるわけではない。
そう思うと、自分の小さな喜びが、とても無力なものに感じられることがあります。

けれども、一つだけ確かなことがあります。

この世界や社会を動かし、変えることはできなくても、少なくとも自分を含む家族や、自

分が属する共同体の雰囲気は変えることができる。

まず、そこから始めればよいのです。

 


小さなパン種のように

主イエスは、神の国をこんなたとえで語られました。

「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(マタイによる福音書13章33節)

パン種は、ほんのわずかな量です。粉の中に混ぜてしまえば、外からは見えなくなります。けれども、静かに、確かに、粉全体を内側から変えていきます。神の国は、大きな声で世界をひっくり返すことから始まるのではありません。見えないほど小さなものが、身近なところで静かに働き、やがて全体をふくらませていくのです。私たちの笑顔、譲り合い、ひと言の励まし。それはパン種のように小さなものです。けれども、それが家庭に、職場に、教会に、地域に混ぜ込まれるとき、まわりの空気は確かに変わっていきます。

社会全体を変えられないことを嘆く前に、今日、自分のいる場所を少しだけ明るくすること。それが、私たちにゆだねられた働きなのだと思います。

 


走ったあとは、休む

この四日間、毎日30キロ以上を走り続けました。
明日は、本当に休養日にします。雨の予報でもあるので……。

自分で決めた目標に向かって走ることは、すばらしいことです。
けれども、休むこともまた、自分で決めるべき大切な一歩です。

主イエスは、働き続ける弟子たちにこう言われました。

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい。」
(マルコによる福音書6章31節)

休むことは、怠けることではありません。次に走り出すための、そして喜びを分かち合う力をもう一度満たすための、神様からの招きです。雨の日は、体を休め、心を静める日にしましょう。

 


あなたのいる場所から

最後に、読んでくださっているあなたに。

  • あなたが自分で決めた「目標」は何でしょうか。
  • その目標の先に、どんな喜びがあるでしょうか。
  • その喜びを、今日、誰と分かち合えるでしょうか。

世界を変えることはできなくても、あなたの「おはよう」が、あなたの笑顔が、あなたのまわりの空気を変えていきます。小さなパン種として、今日も、あなたのいる場所から。

今日も笑顔で、前進です。

2026年10月23日金曜日

夕食の献立

 


冷たい風と食卓の温度——世界を温める「愛」という太陽

この三日間、毎日30キロを超える朝のランニングを続けてきました。さすがに今日の体には、ずっしりとした深い疲労が刻み込まれています。

外に出ると空気はすでに冷え切っていますが、ふと雲間から太陽が顔を出すと、その光は驚くほど優しく、確かな温もりをもって私の体を包み込んでくれました。「気温が低くても、太陽の光さえあればこんなにも温かい」。その当たり前のような自然の摂理に、今日は深く心が動かされました。

夕暮れのキッチンと、当たり前ではない幸せ

これから少し残りの仕事を片付け、夕食の準備に取り掛かろうと思います。今日の献立は、コトコトと煮込むロールキャベツと、鯖缶とピーマンの炒め物の二品です。

野菜を刻み、キッチンに立ちながら、ふと社会で戦う人々の姿が頭をよぎりました。 学校や仕事で疲れ果てて帰宅したとき、そこに温かくて美味しい料理が待っていること。それは決して当たり前のことではなく、この上ない恵みであり、幸せなのだと。なぜなら、一日中一生懸命に働いて帰宅し、重い体を引きずりながら、そこからさらに一人で夕食の準備や家事をこなしている方々が、この世界にはたくさんいるからです。

厳しい世界を照らす「太陽」の正体

この世界は時として、身を切るような冷たい風が吹く厳しい場所です。理不尽な出来事や、孤独に心が凍えそうになる夜もあります。しかし、たとえ外の気温がどれほど低く、厳しい嵐が吹き荒れていようとも、雲間から射す太陽の光が私たちを温めてくれるように、私たちは「愛する人」と共にいるならば、何度でも心の温度を取り戻し、大丈夫だと前を向くことができます。

新共同訳聖書には、食卓と愛について語ったこのような美しい言葉があります。

「野菜の皿を食べて愛し合うのは/肥えた牛を食べて憎み合うのにまさる。」(箴言 15:17)

テーブルの上に並ぶのが、どれほど手軽な一皿であったとしても。あるいは、疲れ果てて買ってきたお惣菜であったとしても。そこに互いを思いやる愛があり、一緒に食卓を囲む温かな眼差しがあるならば、そこは世界で一番豊かな場所になります。愛こそが、私たちの凍えるような日常を照らし、理不尽な冷たさを溶かしてくれる「太陽」なのです。

今日、あなたが帰る場所に、あるいはあなた自身の心の中に、小さな愛の光が灯りますように。 今日も一日を懸命に生き抜いたあなたの歩みが慰められ、今晩の食卓に、柔らかな太陽のような温もりが満ち溢れることを心から祈っています。

朝ラン33キロ完走


 

冷たい朝風と夏の装い――「自分流」で走り抜く今日というレース

昨夜の予期せぬ騒ぎを経て、深夜2時ごろにようやく二度寝につきました。それでも体内時計は正確に時を刻み、4時半にはすっきりと目が覚めました。

そのまま起き上がり、いつものように静かな祈りの時を持ち、準備のトレーニングを終えて、午前5時。まだ薄暗い街へと走り出しました。 秋が深まり、外はすっかり冷え込む朝を迎えていますが、私はあえて「夏の格好」のまま風の中へ飛び出しました。肌を刺すような冷気が、かえって心身をシャキッと目覚めさせてくれます。



それぞれの目標へ向かう足音

今朝は久々に、西公園の周辺を巡るコースを選びました。 今度の日曜日に「全日本大学女子駅伝」が開催されることもあり、道すがら、本番に向けてひたむきに走る女子選手たちの姿がいくつも目に入りました。吐く息を白くしながら、それぞれの目標を見据えて駆け抜けていく彼女たちの足音が、冷たい朝の空気に心地よく響きます。

見上げれば、雲ひとつない快晴。外気は冷たくても、私の心はどこまでも晴れ晴れとしていました。

私たちは日々、他人の態度や予期せぬ環境の変化、突然降りかかる状況に心を揺さぶられます。昨夜のように、自分の意図しない出来事が夜の静寂を破ることもあります。 しかし、そのたびに環境に振り回され、自分を見失ってしまうのはあまりにももったいないことです。



惑わされず、自分流の笑顔で生きる

人生という一度きりの道のり。どうせ生きるならば、精一杯に生きる。そして、笑顔で生きる。 他人の評価や周囲の温度に合わせるのではなく、「自分が決めた今日という一日」を、自分流のスタイルで堂々と生き切ること。冷え込む朝に夏の格好で駆け出したように、自分の内側にある確かな熱を信じて進めばいいのです。

聖書にこのような言葉があります。

「あなたの目は前方をまっすぐに見つめ、あなたの視線は自分の前をまっすぐに向けよ。あなたの足の道に心を配れ。そうすれば、あなたの道はすべて確かなものとなる。」(箴言 4:25-26)

神様が私たち一人ひとりに用意されたコースは違います。誰かのペースに巻き込まれたり、周囲の冷たさに萎縮したりする必要はありません。自分の足元を見つめ、自分に与えられた「今日」というオリジナルな軌道を、自分なりの歩幅で、笑顔で走り抜くこと。それが、命を与えてくださった方への最高の応答だと信じています。



今朝も無事に、33キロを完走しました。 あなたも今日、あなたにしか走れない「自分流」の一日を、晴れやかな笑顔で前進していけますように。

弁償します!

 


真夜中の来訪者と壊れたコーン――不条理な世界に開かれた「命の扉」

肌寒い夜気が街を包み込む、深夜23時50分。 静寂を破るように、教会のインターホンが鳴りました。この時間帯の訪問は、経験上あまり良い知らせではありません。少し身構えながら扉を開けると、そこには不安そうな顔をした三人の若者が立っていました。

壊れたコーンと、青年のまっすぐな声

事情を聞くと、駐車場にあったコーンを車で轢いて壊してしまったとのこと。現場に行ってみると、確かにワゴン車の下敷きになったコーンは完全に砕け散っていました。車の後ろには、まだ初々しい初心者マーク(🔰)が貼られています。

運転していた青年は、まっすぐな目で「弁償します!」と声を張りました。 私は彼らに、砕けた破片を倉庫まで運んでもらい、こう伝えました。

「大丈夫だよ。コーンで良かったよ。人とか他の車だったら、大変だったでしょう?」

「本当に、すみませんでした!」と深く頭を下げる彼ら。聞けば、東北工業大学で建築を学ぶ1年生とのことでした。「最後は気をつけて帰ってね」と背中を見送り、真夜中の一連の出来事は静かに幕を閉じました。

「弁償できるもの」と「弁償できないもの」

その後、愛犬ノアと夜の散歩に出かけました。帰宅して段ボール箱をまとめ、温かい卵スープと食パンでお腹を満たし、冷え込む夜の静寂の中で仕事に向かいます。 暗闇の中で、先ほどの青年の「弁償します」という言葉が胸の奥で静かに反響していました。

人生には、新しい物を買ってお金で弁償できる出来事があります。しかし一方で、この世界には「絶対に弁償できない事柄」も存在します。その最たるものが「人の命」です。 現代社会は、命の重さすらもお金で解決できるかのように錯覚してしまうシステムを持っていますが、それは実に不条理で、恐ろしいことです。どれほどの対価を積んでも、失われた命や時間は二度と元には戻りません。

不条理を貫き、開かれた扉

この不条理な世界に決して飲み込まれることなく、ご自身の「正義」を貫き通された方がいます。それが、イエス・キリストです。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 14:6)

キリストの貫いた正義とは、罪を犯した人間に厳しく弁償を求めることではありませんでした。自らが代価となり、人類に「救いの道」を開くこと。自分の過ちを前に立ち尽くす私たちに、「もう大丈夫だ」と語りかけ、真の命が得られる扉を開いてくださることでした。深い夜を経て、再び眠り(二度寝)につく時間がやってきました。 本日の朝のランニングは、無理をせずに休息にすることに決めました。時には立ち止まり、体を休め、静かに恵みを味わうこともまた、神様から与えられた命を大切にする一つの歩みです。

夜中に逃げずに謝りに来た、あの誠実な青年たちの未来が守られますように。 そして、今日という不条理な世界を生きる私たちが、キリストの開かれた「命の扉」の奥にある、確かな希望の光を見つめ続けることができますように。

2026年10月22日木曜日

ノアのシャンプー

 


できないことの向こうに、ほめる言葉を

暑かった昨日

昨日は、久しぶりにノアのシャンプーをしました。妻は仕事だったので、一人で行いました。昨日は暑かったので、前からシャンプーの日にしていました。ノアは、シャンプーがあまり好きではありません。それなのに、海や池で泳ぐのは上手です。水そのものが嫌いなわけではないのです。犬には、生まれつき泳ぐ本能があるのかもしれません。

自分から飛び込む水は楽しいのに、誰かに洗われる水は落ち着かない。
同じ「水」なのに、不思議なものです。それでも、無事に洗い終えました。
これで、大きな仕事がひとつ片づきました。感謝です。

猫にはできて、犬にはできないこと

シャンプーをしながら、ふと思いました。
猫は、自分で顔を洗い、身なりを整えることができます。けれども、犬にはそれができません。もし「できないこと」ばかりを数えるなら、犬は手のかかる存在に見えるかもしれません。でも、それは違うのだと思います。ノアは泳ぐのが上手です。猫は身づくろいが上手です。それぞれに、上手なことがあります。大切なのは、できないことに目を留めるのではなく、できることをほめてあげることです。これは、犬の話にとどまりません。

私たちが数えているもの

私たちは、自分や身近な人の「できないこと」を、つい数えてしまいます。

  • あの人のように、うまく話せない。
  • 若い頃のように、体が動かない。
  • 家族なのに、どうしてこれができないのだろう。

できないことは目につきやすく、できることは「当たり前」として通り過ぎてしまう。
そうして、ほめる言葉より、ため息のほうが多くなっていきます。

けれども、聖書はこう語ります。

「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」
(ローマの信徒への手紙12章6節)

「目が手に向かって『お前は要らない』とは言えず、また、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません。」(コリントの信徒への手紙一12章21節)

違うということは、欠けているということではありません。
神は、一人ひとりにそれぞれの「上手」を与えておられます。
それを見つけ、言葉にしてほめることは、その人を造られた神への感謝でもあるのです。

自分では洗えないということ

もう一つ、心に残ったことがあります。

ノアは自分では体を洗えません。だから、誰かが洗ってあげるのです。
本人はあまり好きではなくても。この姿に、ある聖書の場面が重なりました。
最後の晩餐の夜、主イエスが弟子たちの足を洗おうとされたとき、ペトロはそれを拒みました。「わたしの足など、決して洗わないでください」(ヨハネによる福音書13章8節)

すると、主イエスはこう答えられました。「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」(同)

私たちもまた、自分の心を自分できれいにすることはできません。
後悔も、怒りも、誰かを傷つけた言葉も、自分の力で洗い流すことはできないのです。

だからこそ、主イエスが洗ってくださいます。
私たちが少し抵抗しても、居心地が悪くても、あきらめずに、ていねいに。

できないことは、恥ではありません。
それは、愛されるための場所なのかもしれません。

風が運んでくる季節

昨日の暑さとは違い、今日は強い風が吹き、肌寒く感じる一日です。

こうして、新しい季節は訪れるのです。

「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレトの言葉3章1節)季節は、私たちが準備できたかどうかに関係なく、ある日、風と共にやって来ます。人生の季節も同じです。できていたことが、できなくなる時もあるでしょう。
けれども、そのたびに、まだできることを見つけ、ほめ合い、できないことは誰かに委ねながら歩んでいけばよいのです。

今日、あなたにできること

この新しい季節の始まりに、一つだけ試してみませんか。

  • 身近な誰かの「できること」を、一つ言葉にしてほめてみる。
  • 自分の「できること」にも、一つ「ありがとう」と言ってみる。

ため息を一つ、感謝の言葉に変えるだけで、今日の風は少しやわらかく感じられるかもしれません。できないことの向こうに、ほめる言葉を。そして、自分では洗えない私たちを洗ってくださる方に、感謝を。今日も、新しい季節の中を、一歩ずつ。

朝ラン31キロ完走

 


不変の夜明けと、変わりゆく私——「歩き」から「走り」へ踏み出す勇気

午前4時前。まだ街が深い眠りの中にある時間帯に、私は昨日と同じコースへと走り出しました。頬を撫でる風には確かな冷たさが混じっていましたが、不思議と寒さは感じず、むしろその冷気が心地よく体を前へと押し出してくれました。一定のリズムでアスファルトを蹴りながら31キロの道のりを駆け抜ける中、私の視線の先では、黒いベールを脱ぐようにゆっくりと夜が明けていきました。

 


変わらない自然の安心感と、人間の矛盾

想定外の恐ろしい自然災害が続くこの世界にあっても、毎朝必ず太陽が昇り、光が闇を駆逐していくという「日ごとの自然の法則」は決して変わりません。その堂々たる不変の姿を走りながら見つめていると、心の底から深い安心感が湧き上がってきます。

しかし、ここで人間という存在の奇妙な矛盾に気づかされます。 私たちは、自然界の「変わらないこと」に安堵する一方で、自分自身の「変わらない日常」にはひどく不満を抱く生き物なのです。

 

(約20キロ走って水分補給。おつりがいらない100円と550ml のスポーツドリンクをいっきに飲んでさらに走り続けます。)

毎日同じことの繰り返し。ありきたりの生活。そこに時としてみじめさを感じ、「何か新しい変化が起きないか」とため息をつく。 それなのに、いざ自らの手で日常を変えようとすると、途端に私たちは「変化」を恐れ始めます。

「今のままでいい」「特に良いこともないけれど、悪いこともない『今』が一番安全だ」 そうやって自分を納得させ、たとえそれが「つまらない人生だ」と人に言われるようなものであっても、ぬるま湯のような現状に留まり続けてしまう。それが、人間の持つ根深い心理の罠です。

 


意志をもって踏み出した先の「豊かさ」

生活を変えたいと願うなら、自分の意志で変えればいい。理屈は驚くほどシンプルです。 私自身、これまでの「歩き続ける」日々から、自らの意志で「ランニング」へとライフスタイルを大きく変えた時のことを思い返します。

長年の歩く習慣から走る習慣へ。自分の意志でギアを一段階上げた結果、私の生活は劇的に変化しました。 そこにあったのは、想像をはるかに超える豊かな恵みでした。全身の血が巡り、息が弾み、ただ生きていることそのものが生き生きと輝き出す。マイナスな面は一つもなく、もたらされたのは100パーセントの「プラス」だけでした。

自ら一歩を踏み出し、変化を受け入れた者だけが味わえるこの生命力。聖書には、主イエス・キリストのこのような言葉があります。

「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」(ヨハネによる福音書 10:10)

私たちが恐れを捨てて新しい自分へと一歩を踏み出すとき、神様はそこに「豊かな命」を用意して待っていてくださいます。ランニングによって私の中に始まった新しい人生と希望は、日々走るごとにさらに大きく、深くなっています。私はこの満ち溢れるような恵みを、決して独り占めするのではなく、皆さんと分かち合い、共に歩んでいきたいと心から願っています。

 


今日も前進あるのみ

気がつけば、10月も残すところあと10日となりました。 先月に続き、今月も掲げた「朝ラン600キロ」という目標の達成に向けて、私の足は止まりません。

変わらない朝の光に感謝しつつ、自らは日々新しく変わり続けることを恐れない。 今日もまた、希望を胸に走り続けます。