デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月2日木曜日

もう少し寛容な心を、自分のために

 


ざわめく車内と沈黙の波紋――私たちが「他者」を意識して生きる理由

夕方、雨が続く中、駅まで娘を迎えに車を走らせました。密室である車内は、外の喧騒から切り離された穏やかな空間です。そこで、今日一日を終えたばかりの娘と、少し深い話をしました。

 


車の中で聞いた、ある車内の風景

話題は、娘が帰りの電車の中で直面した出来事でした。

隣の席に無造作に荷物を置き、スマートフォンの音を鳴らしたままゲームに興じていた二人の若者。そして、その前に立ち、彼らの振る舞いを嫌悪と非難の入り混じった視線で見つめていた人々。直接的な口論があったわけではありません。しかし、その車両には間違いなく「不愉快」という重たい空気が渦巻いていたことでしょう。娘の話を聞きながら、私は人間という存在の不思議さと、その厄介さについて深く思いを巡らせました。

 


「ありのまま」を受け入れることの難しさ

人を不愉快にさせる行為、言葉、そして印象。私たちはなぜ、他者の振る舞いにこれほどまでに心をかき乱されるのでしょうか。

  • 他者を「それぞれの個性」として受け入れられず、すぐに批判してしまう心理。
  • 直接自分に関わることでもないのに、相手の服装や見た目だけで不愉快に感じ、非難してしまう危うさ。

もし私たちが、目の前で起きるすべてをありのままに受け入れ、「そういうものだ」と通り過ぎることができたなら、人間関係のトラブルは大いに減るはずです。若者たちの振る舞いも、ただ「無視」してしまえば、心に波風を立てずに済むのかもしれません。

 


無視できないのは、私たちが「繋がって」生きているから

しかし、私たちは完全に無関心になることはできません。

なぜなら、人間は、周囲の状況を常に意識し、環境の変化を敏感に感じ取りながら生きています。 それは、自分を守り、危険を避けるために備わった、本能的な生き物の姿なのかもしれません。私たちは孤立したカプセルの中で生きているのではなく、同じ空間の「温度」や「空気」を共有して呼吸しています。だからこそ、和を乱す音や配慮の欠如に対して、本能的に摩擦を感じてしまうのです。

この「他者を意識してしまう」という性質は、時に私たちを苦しめ、苛立たせます。しかし見方を変えれば、それこそが私たちが「他者を思いやる」ことができる根源でもあるのです。不快感の裏側には、「もっと互いを尊重し合えるはずだ」という、人間への密かな期待が隠されているのではないでしょうか。

 


摩擦の先にある「寛容」という光

聖書に、このような言葉が記されています。

「互いに忍び合い、だれかに不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。」(コロサイの信徒への手紙 313節)

ここで求められているのは、不快な現実から目を背ける「無視」ではありません。他者の不完全さ、そして自分自身の未熟さを痛いほど認識した上で、それでもなお、その摩擦を引き受けようとする「寛容」という積極的な意志です。

すべてを自分の理想通りにコントロールすることはできません。しかし、波立った自分の心をどう鎮め、どのようなまなざしをこの不完全な世界に向けるかは、私たちが選ぶことができます。

 

車を降りると、夜の帳が下りた街に、家々の明かりが優しく灯り始めていました。一人ひとりが異なる事情を抱えながら、それでもこの同じ時代、同じ空間を共に生きています。その事実に静かな祈りを込めながら、また新しい一日への階段を上っていきたいと願います。娘は今から近くバイト先へ。

今日も、共に前進です。

チヂミを作りながら歴史を考える

 


太陽の下、古き道を歩む――私たちが過去の偉大な魂に惹かれる理由

7月の湿気を帯びた空気を肌に感じながら――と言いたいところですが、今日は雨のため走り出すことはありませんでした。 その代わり、窓越しに降り続く雨音を聞きながら、いつもならアスファルトを蹴って響くはずの自分の足音を、心の中でそっと思い描いていました。走る日は、規則的なリズムが私を前へと運び、人間の営みもまた同じ場所を静かに巡り続けているのではないかと感じることがあります。 今日は身体を動かさない分、ゆっくりと流れる時間の中で、歴史という大きなうねりに思いを馳せました。 雨に濡れた街の静けさが、その思索をさらに深いところへ導いてくれたように思います。

 


現代の学問と、失われた「黄金時代」への問い

今の社会や学問を見渡すと、最先端のAIやテクノロジー分野を除けば、その多くが過去の偉大な思想家、哲人、神学者、芸術家の作品を学ぶことに費やされています。ここで一つの大きな疑問が湧き上がります。

  • なぜ、かつてのように歴史を揺るがすような新たな発見や思想、芸術が、現代においてはそれほど注目を浴びないのでしょうか。
  • もちろん現代にも素晴らしい作品は生まれていますが、文化が百花繚乱のごとく咲き誇った昔の時代に比べると、ほんのわずかな割合にすぎないのではないか。

時代はただ、クルクルと同じ円を描いて回っているだけだからでしょうか。この問いは、現代を生きる私たちの現在地を浮き彫りにする、非常に重要な視点です。

 


「いかに(How)」の時代と、「なぜ(Why)」の深み

深く思いを巡らせると、一つの答えの輪郭が見えてきます。それは、私たちが「情報」や「技術」には満たされている一方で、「魂の根源的な問い」に強く飢えているからではないか、ということです。

過去の偉人たちは、今よりもずっと不便で、静寂に包まれた時間の中で、人間の存在意義や神との関係、生と死について、文字通り命を削って深く掘り下げました。

一方、現代はあまりにもノイズが多く、変化のスピードが速すぎます。私たちは「いかに効率よく生きるか(How)」の技術は手に入れましたが、立ち止まって「なぜ生きるか(Why)」という深い井戸を掘る時間を失ってしまったのかもしれません。

だからこそ私たちは、過去の偉大な魂が遺した「深く澄んだ井戸の水」を求め、古典や歴史に立ち返るのです。それは決して退行や行き詰まりではありません。目まぐるしい現代社会の中で見失いそうになる「自分の根源」へと繋がる命綱を、しっかりと握り直すための大切な作業なのです。

 


普遍的な真理への昇華

聖書に、このような言葉が記されています。

「四つ辻に立って見渡し、昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを見いだせ。」(エレミヤ書 616節)

時代がどれほど移り変わり、テクノロジーが進歩しても、人間の悲しみや喜び、孤独や愛の形、そして魂が求めるものは驚くほど変わりません。

時代がクルクルと巡っているように見えるのは、人間が抱える本質的な課題が常に同じだからです。しかし、それは絶望ではありません。「すでに先人たちが、私たちが歩むべき『良い道』を切り拓き、道標を立ててくれている」という力強い希望のメッセージなのです。

 


前進への派遣

私たちは、無理に「誰も見たことのない全く新しいもの」をゼロから生み出す必要はないのかもしれません。大切なのは、過去の偉大な魂たちと対話しながら、その古き良き知恵を現代のこの場所に、そして自分自身の日常にどう翻訳し、どう生きるかということです。先人たちの思想や芸術という光を胸に宿すことで、私たちの平凡な日常もまた、豊かな芸術へと変わっていきます。古い道に立ち返り、そこから得た確かな温度を足元に感じながら、また新しい一日への階段を一段ずつ上っていく。

今日も、共に前進です。

*こういう雨の日は、チヂミを作って食べるのが一番です。今日はキムチチヂミを作りました。

雨の日の物語

 


窓を打つ雨音と、それぞれの居場所──離れた場所で同じ「今日」を生きる

今日は、静かな雨の日です。 空から降り注ぐ無数のしずくが、街の輪郭をぼやかし、日常の喧騒を優しく洗い流してくれています。

私にとって、今日は足を止めて「休む日」です。 部屋の片隅では、ノアが心地よさそうに、穏やかな寝息を立てて眠っています。雨の日の特権とも言える、この静寂と停滞の時間を、私たちはただ静かに味わっています。

 


ひとつの屋根から、別々の空の下へ

しかし、家の中が静寂に包まれている一方で、家族全員が休息のなかにいるわけではありません。

  • 娘は、夕方アルバイトの日。 雨の降る外の世界へと足を踏み出し、社会の中で自分の時間と労力を使い、役割を果たしています。
  • 妻は、整形外科のリハビリテーションに通う日。 自身の身体と向き合い、痛みを越えて本来の機能を取り戻すための、地道な回復の道を歩んでいます。

休む者。働く者。癒やしに向かう者。そして、ただ無心に眠るノア。 私たちは同じ家族でありながら、今日という一日において、まったく違う風景を見て、まったく違う温度の空気を吸っています。

 


「それぞれの場」で命を灯すということ

ふと、雨粒が窓を伝い落ちるのを見つめながら考えました。 家族とは、常に同じ場所で同じ行動をしているから家族なのではないのだと。それぞれが別々の場所で、自分に与えられた「今日」という課題に誠実に向き合っている。その見えない繋がりこそが、家族という共同体の本当の強さなのです。聖書のなかで、人間の共同体はしばしば「ひとつの体」に例えられます。「もし全身が目であったら、どこで聞くのか。もし全身が耳であったら、どこで嗅ぐのか。そこで神は、御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。」 (コリント人への第一の手紙 1217-18節)

動く手があり、休む内臓があり、回復を待つ細胞があるように。 私たちが今、それぞれ違う場所にいて、違う時間を過ごしているのは、決してバラバラになっているからではありません。神様が今日、私たち一人ひとりに最もふさわしい「生きる場」を備えてくださったからです。

 


離れていても、同じ恵みの雨に打たれて

自分の力で社会に立つ娘のたくましさも、身体の回復に努める妻の忍耐も、そして今、静かに休むことを許された私の余白も、すべてはひとつの命の営みとして繋がっています。

窓の外に降る雨は、大地を等しく潤します。 娘の働く場所にも、妻の通う病院の屋根にも、そして私が休むこの家にも、同じ恵みの雨が降り注いでいます。

自分が今いる「それぞれの場」を愛し、そこで精一杯に今日を生きること。 離れた場所にいる家族を心の中で思いやり、無事な帰りを静かに待つこと。それもまた、立派な愛の形であり、前への確かな歩みです。

雨の日は、それぞれの場所で頑張る命の根っこに、静かに水を注いでくれます。 それぞれが今日という日を全うし、またこの温かい家に帰ってくる時を待ち望みながら。

今日も、共に前進です。

過去・現在・未来

 


夜が道を譲る朝に──「今」という奇跡を繋ぐための哲学

72日、木曜日。 新しい一日がやってきました。ノアとの散歩を終えてから、ふと「時間」というものの不思議な法則に思いを馳せます。

新しい一日は、ただ唐突に空から降ってくるわけではありません。前日である「昨日」が静かに退き、席を譲ってくれたからこそ、今日という新しい時間がそこに入り込むことができるのです。

 


過去と未来の狭間にある「現在」の運命

過去と未来の狭間に、私たちが立っている確かな「現在」が存在しています。 しかし、その現在もまた、永遠にその場所に留まることは許されません。やがて時が来れば過去へと場を譲り、静かに退かなければならない。それが、人間には決して抗うことのできない宇宙の厳粛な秩序です。

ここで、私たちに突きつけられる一つの大きな問いがあります。 それは、「過去・現在・未来という3つの時間を、どううまく繋ぎ合わせて生きるか」ということです。

 


置き去りにされる「今日」という真実

静かに人間の営みを見つめてみると、そこにはひどく悲しい矛盾が隠されていることに気づきます。多くの人は、すでに手放したはずの「過去」をいつまでも悔やみ、まだ影も形もない「未来」の夢や不安にばかり心を奪われています。 過去に縛られ、未来だけを見つめて生きる。その結果、どうなるでしょうか。

私たちが唯一、息をし、温度を感じ、行動を起こすことができる「現在」という最も重要な時間が、きれいに無視されてしまうのです。 現在を生きる者が、現在を抜きにして生きようとする。人間とは、なんと愚かで、不器用な生き物なのでしょうか。

 


愚かさを手放し、現在の大地に立つ

この「現在を無視する」という人間の愚かさは、私たちの命から輝きを奪う最大の落とし穴です。聖書において、神様は「わたしは『ある』という者である(I AM WHO I AM)」(出エジプト記3:14)と名乗られました。神様からの恵みも、人を愛する喜びも、すべては「今、ここ」という現在においてしか受け取ることはできません。 過去の幻影に囚われ、未来の蜃気楼に怯えている間、今日という豊かな命の時間は、指の間からこぼれ落ちてしまいます。過去を切り捨てるのではありません。未来を諦めるのでもありません。 過去の痛みを「教訓」としてそっと抱きとめ、未来への希望を「道しるべ」として見上げながら、その両足をしっかりと「現在」という大地に踏みしめること。 それこそが、バラバラになりがちな時間を正しく繋ぎ合わせる、唯一の生き方なのです。

昨日が退いてくれたからこそ与えられた、真新しい今日。 見えない時間に心を奪われる愚かさを静かに手放し、目の前にある「現在」の空気を胸いっぱいに吸い込みましょう。与えられた今日という一日だけに集中し、ただ誠実に生き抜くのです。

今日も、共に前進です。

今から少し二度寝の時間です。

2026年7月1日水曜日

今日もまたマーボー豆腐

 


三十年変わらないレシピと、命を味わう余白──効率化の時代に「食べる」を問う

夕食の食卓に、湯気を立てるマーボー豆腐が並びました。 これで三日連続のマーボー豆腐です。ふと自分の身体に意識を向けると、まだどこかに拭いきれない「歯の違和感」が居座っています。明日で処方箋の薬も無くなってしまいますが、焦っても仕方がありません。とりあえず、今週いっぱいまでは自分の身体の様子を静かに待つことにしました。

思うようにいかない身体の揺らぎを抱えながら、スプーンで掬うマーボー豆腐。 実はこの一皿には、私が三十年間守り続けている作り方があります。

 


寮生活の記憶と、食べるという生存本能

このレシピの始まりは、昔、大学の寮生活時代にまで遡ります。 当時の私は若く、あり余るエネルギーを抱えていました。自分で作ったフライパンいっぱいのマーボー豆腐を、あっという間に平らげてしまった日のことを、今でも鮮明に覚えています。

三十年という歳月が流れ、食べる量も身体の強さもすっかり変わりました。 それでも、フライパンの底でふつふつと香り立つ市販ソースの匂いは、あの日の記憶をそっと呼び起こします。今の私が作るマーボー豆腐は、卵を2つ落とし、溶けるチーズを2枚加え、粉唐辛子で少しだけ刺激を添えた、やわらかく食べやすい一皿です。 噛むことが難しい状態が続く中で、こうした工夫をしながら栄養を摂ることの大切さを、身体の「違和感」や薬の存在が静かに教えてくれます。生き物はすべて、食べなければ命を繋ぐことができません。 その冷徹な自然の掟の中で、今日も私はフライパンを温め、ゆっくりと自分のペースで食事を整えています。

 


「生存」から「文化」へ、そして「効率」へ

しかし、人間という生き物はどこか特別です。 他の動物たちが「ただ生き延びるため」だけに餌を口にするのに対し、人間だけは、いつしか食べる行為に意味を見出し、一つの「文化」として、時には美しい「芸術」として昇華させてきました。

器を選び、旬の命を愛たい、火の通り具合に祈りを込める。 それは一体、いつ頃から始まったのでしょうか。おそらく人間が、食事の時間を単なる「栄養補給」ではなく、神様が与えてくださった自然の恵みに感謝し、大切な人と心を通わせる「喜びの儀式」だと気づいた時からでしょう。

 


ところが、現代の風景を見渡すと、不思議な逆転現象が起きています。

かつて人々が多くの時間を費やし、愛しんできた「食べる(作る)」という行為は、今やできるだけ時間をかけずに済ませるべきタスクになりつつあります。 「時短」「簡単」「三分でできる」。そうした料理がもてはやされ、求められる時代になりました。忙しすぎる現代社会において、それは生きていくための必然の知恵かもしれません。しかし、効率化の波の中で、私たちが手放してしまった「時間」の中には、本当はとても大切なものが隠されていたのではないでしょうか。

 


命のペースを取り戻すための食卓

聖書の中で、イエス・キリストは人々と共に多くの食事の席に着きました。 効率を重んじるなら、食べ物など一瞬で胃袋を満たせば済むはずですが、彼はあえて時間をかけ、パンを裂き、杯を分け合い、人々と食卓を囲むプロセスを大切にされました。

時間をかけて料理を作り、それをゆっくりと味わうこと。 それは、「私は機械ではなく、神に生かされている血の通った人間である」ということを思い出すための、静かな抵抗であり、祈りでもあります。

 


三日連続のマーボー豆腐。 三十年前と同じ手順で豆腐を切り、火を入れ、とろみをつける。その変わらない手作業の時間が、身体に違和感を抱える今の私に、「焦らなくていい」「命のペースで進めばいい」と、優しく語りかけてくれる気がします。

世の中のスピードがどれほど速くなっても、自分の命を養うための時間は、決して無駄な時間ではありません。 薬が切れる不安や、思い通りにならない身体の痛み。そうした自分の弱さを受け入れながら、今日与えられた温かい一皿を、丁寧に身体へと取り込んでいく。明日もまた、変わらないレシピで命を繋ぎましょう。

今日も、共に前進です。

「EL CAMINO 7月号」

 









感謝することに感謝

 


湿度を帯びた風と秘密の決意──「自分の限界」を受け入れるという愛の形

二人をそれぞれ駅へ、そしてパート先へと見送る昼。 無事に自宅へと帰り着き、静かになった部屋で仕事に向かいます。

月報『EL CAMINO』の7月号を仕上げ、印刷と配布の作業を進める時間。週報やコラムの執筆、次週の説教の準備と、目の前にはなすべきことが連なっています。絶えず仕事をしながら歩んでいける人生そのものに感謝し、さらに「そのことに感謝できている今の自分」に対して、深い感謝が込み上げてくるのを感じます。

そして今日は何よりも、一人の兄弟が無事に退院されたという報せが、心に温かい光を灯してくれました。

 


娘のための、ひそかな決断

梅雨特有の、重く湿った空気が肌にまとわりつく一日です。 今日も娘は、学校の後、仙台でのアルバイトに出かけます。しかし今日は、これまでと少し違う「ある決意」を胸に秘めて夜を迎えることにしました。

それは、「迎えに行く約束をしない」ということです。

夜遅く、目が覚めていれば連絡をしよう。しかし、無理をして起きていることはやめよう。(先日は一睡もできずその疲れが今も・・・)一人、ひそかにそう決めました。そして、これからもこの形をとることにしたのです。

一見すると、突き放したように思えるかもしれません。しかしこれは、深く考え抜いた末の結論でした。 なぜなら、「自分自身の健康が、娘のためにも家族のためにも、最も大きな影響を与える」という明らかな事実に気づいたからです。

 


限界を認めることは、愛すること

私たちはしばしば、「自己犠牲」こそが家族への愛だと勘違いしてしまいます。 自分の睡眠を削り、体力をすり減らしてでも、相手のために尽くすこと。それこそが愛なのだと、無理を重ねてしまうことがあります。

しかし、自分という器がひび割れ、倒れてしまえば、結果的に最も深い悲しみと負担を背負うのは、他ならぬ大切な家族です。

  • 自分の限界を正しく知ること。
  • 休息をとり、自分の器を健やかに保つこと。

これらは決して身勝手なことではなく、家族を長く、深く愛し抜くための最も誠実な責任の取り方なのです。聖書が安息日を定め、人間に「休むこと」を命じたのも、私たちが自らの有限性(限界)を受け入れるためでした。

 


自分の力で出来ないことは、そのまま受け入れる

窓の外は晴れていますが、梅雨の湿気は日増しに濃くなり、明日はまた雨の模様です。

しかし、明日が雨だからといって、私の生活の根幹が揺らぐことはまったくありません。空模様を私の力で変えることはできないからです。

自分の力で出来ないことは、そのまま静かに受け入れる。 天候であれ、自分の体力の限界であれ、それを「コントロールしよう」と抗うのをやめたとき、心に本当の静寂が訪れます。私たちは全能ではありません。 だからこそ、変えられないものは天に委ね、自分に与えられた「今日」という範囲の中で、ただ誠実に生きるのみです。

自分の弱さを認め、無理を手放したその手で、明日もまた大切な人たちを支えていく。 その静かな決意を胸に、今日という日を閉じたいと思います。

今日も、共に前進です。

*今日も夕食は一人でマーボー豆腐を作って食べます。これで三日連続のマーボー豆腐です。 理由は、いま物を噛むことが難しい状態が続いているため、食べやすくて栄養を摂りやすい料理を選んでいるからです。そのおかげで、しばらく眠っていたミキサー機が、

最近は毎日のように大活躍しています。

今日から夏場のランニングスタート

 


奪われる水分と、それでも渇かない希望──「共に生きる」という余白

71日。新しい月の始まりは、やはり走らなければと靴紐を結びました。 しかし、走り出したのはいつもより2時間も遅い、5時過ぎのこと。この「2時間の差」が、夏の入り口ではどれほど過酷な意味を持つか、身をもって知ることになりました。

足を前に進めるほどに、容赦なく照りつける熱い太陽の光が、体からどんどん水分を奪っていきます。 息が上がり、最後の道のりがひどく険しく感じられました。「いよいよ、水を持参して走らなければならない時期が来た」と、夏の圧倒的な力を肌で受け止めました。

 


季節への適応と、新しい計画

この自然の厳しさを前に、今日から9月までの約3か月間、夏場のランニング計画を新しく設定し直すことにしました。

  • 頻度: 無理をせず、一日おきに走る
  • 距離: 1回の距離を20キロ程度にとどめる
  • 目標: 月に15日間、合計300キロを走る

環境の変化には抗わず、自分の体を守りながら長く走り続けるための、一つの適応です。

 


変わる世界と、変わらない人間の渇き

熱を帯びた外の世界から家に戻ると、そこには穏やかな時間が流れていました。 今日は水曜日。娘は午後から学校へ向かうため、午前中の家の中には少しだけ「心の余裕」とも呼べる、静かな余白があります。

 


冷たい水を飲み、一息つきながら、ふと考えました。 世の中はめまぐるしく、頻繁に変化を続けています。しかし、その変化の中で、決して変わらないものがあります。

人間の欲、憎しみ、憎悪、ねたみ、そしてそれらが引き起こす犯罪、事件、戦争……。 人間が生きている限り、この悲しい営みは絶えることがないのでしょう。それはまるで、今日私から水分を奪った強烈な太陽のように、私たちの心から潤いを奪い、世界を乾かしていく現実です。

 


余白を分かち合い、「一緒に生きる」

そんなどこまでも乾いた世界の中で、希望を見出して生きることは、時にひどく難しい作業に思えます。 それでも、私たち人間は、希望なしには生きられない存在です。かすかでも希望がある限り、何度でも立ち上がり、歩み続けることができます。

問題は、「その希望を何に置くか」ということですが、まずは一つの事実を受け入れるしかありません。 それは、「とにかく生きる」ということです。 生きることを決めたのなら、自分に与えられた今日という命を、精一杯に生き抜くこと。

そしてもし、水曜日の午前中のような「少しの心の余裕」が自分の中にあるのなら。 その小さな余白を使って、誰かと「一緒に生きること」を選ぶのです。

 


聖書は、私たちが孤独の中で渇きに耐えるのではなく、互いの重荷を負い合い、愛をもって共に歩むようにと語りかけます。悲しみの絶えない世界に確かな潤いをもたらすのは、その「一緒に生きる」という静かな決意なのだと思います。

夏の太陽はこれからも容赦なく私たちを照らしますが、心に余白と希望の水を携えて、また今日という一日を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

7月1日

 


カレンダーの境界線と、食卓の波紋──「今日」という24時間を生き抜くための哲学

2026年も半分が過ぎ、新たな半年がスタートしました。71日。 一年を半分に折り返すこの日は、私たちの生活を取り巻くさまざまなシステムや、日常の風景が新しく切り替わる大きな節目でもあります。

 

食卓に押し寄せる変化の波

今日から、私たちの生活に最も直結する部分で、一つの大きな変化が起きています。それは「食卓」への影響です。71日から2,500品目を超える食品が一斉に値上げの対象となりました。山崎製パン、フジパン、敷島製パン、第一パンといった馴染み深いメーカーの食パンをはじめ、即席麺、ハムやソーセージ、ポテトチップスなど、日々の暮らしに欠かせない品々が中心です。スーパーの棚に並ぶ価格札が変わるのを見て、ため息をつきたくなる方も多いことでしょう。

 

さらに目を向ければ、社会のルールも切り替わっています。 日本ではパスポート申請の手数料が引き下げられる一方で、外国人のビザ申請料が大きく値上がりします。一見すると厳しい措置に見えるかもしれませんが、G7などの主要国を見渡せば、これまで日本の手数料が安く設定されていたことが分かります。今回の措置は日本だけが特段高くなったわけではなく、世界の基準に歩調を合わせた結果です。

海を越えれば、オーストラリアでは今日から新会計年度が始まり、税制や賃金のルールが一新されます。アメリカの多くの州でも、今日から何百もの新しい法律が発効します。

物価の変動も、法的な改定も、こうした時代の変化は逆らわずに受け入れることが大切です。世界中が今日という日を境に、少しずつ社会の形をアップデートしているのです。

 

アスファルトの温度と、計画の余白

社会のルールや物の値段が変わる今日、個人的な生活においても「夏場のランニング」がスタートする日を迎えました。

仙台の街を吹き抜ける風も、すっかり湿度と熱を帯びてきました。普段は20キロから、長い時には55キロほどの距離を踏んでいますが、この過酷な季節は回数やコース、距離の設定に変化を持たせる必要があります。しかし、頭の中でどれほど緻密に夏の計画を立てても、正直なところ「実際に走ってみないと分からない」というのが本音です。ランニングというものは、思った通りに実行できるケースは殆どありません。その日の風の温度、足の重さ、そして何より「その日の気分」に左右されるからです。計画通りに進まないこと。それを受け入れ、その日の自分の体と対話しながら走ることの中にこそ、長く走り続けるための真理が隠されているように思います。

カレンダーの魔法と、今日という真理

今日から7月。 多くの人々は、カレンダーの数字が変わることに特別な意味合いを与え、「今日から生活を変えよう」「新しい自分になろう」と決意を新たにします。

しかし、月が変わったからといって、自分の生活が突然魔法のように変わるわけではありません。カレンダーの境界線は、人間が便宜上引いた線に過ぎないからです。

物価が上がり、生活の負担が増えるニュースを目にすると、どうしても私たちは「これからの生活はどうなるのだろう」と先のことを思い煩ってしまいます。しかし、私たちが本当に目を向けるべきは、見えない未来への不安ではありません。

 


「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (マタイによる福音書 634節)

与えられた「今日の人生」だけに集中して生きること。 社会のルールがどう変わろうと、物の値段がどうなろうと、夏の暑さがどれほど厳しかろうと、私たちに確実に手渡されているのは「今日という24時間」だけです。

明日の計画や痛みがどうなるかは、明日にならなければ分かりません。 だからこそ、今日一日、今この瞬間の自分に誠実に向き合い、悔いのない生き方で24時間を生き抜くこと。その静かな積み重ねだけが、確かな人生の道を作っていくのだと信じています。

今日も、共に前進です。

2026年6月30日火曜日

温度差

 


寂しさの温度が変わる場所──食卓に差し込む光と、家族という恩寵

今日も無事に一日が終わり、家族がみな無事に家へと帰ってきました。 玄関の扉が開く音、ただいまという声。そんな当たり前の日常の響きに、深い感謝を覚える夜です。

キッチンに立ち、二人のために豚の角煮を作りました。 コトコトと鍋が音を立てる傍らで、僕自身はしばらく噛むことを控えているため、自分用に柔らかい食事を別に用意しています。自分の食べるものを自分で作り、自分の身の回りのことを自分でこなす。 「何でも自分で出来る」ということは、ある面ではとても便利で、気楽なことです。誰に気兼ねすることなく、自分のペースで完結できるからです。

しかし、ふと鍋から立ち上る湯気を見つめながら、一つの思いが胸をよぎりました。

 


「寂しさの温度」はどこから来るのか

一人暮らしのなかで「仕方なく」すべての家事をこなすことと、家族の気配を感じながら同じ家事をこなすこと。 表面的な作業はまったく同じでも、そこには決定的な違いがあります。それは、寂しさの温度です。

以前、教会員で一人暮らしをされている男性が、ふと僕にこうこぼされたことがありました。 「やはり、一人は寂しいものですね」

気楽で自由な生活を好む人ももちろんいます。煩わしさから解放されたいと願う瞬間は、誰にでもあるでしょう。しかし、人間の心の奥底には、どうしても拭いきれない根源的な寂しさが横たわっています。静まり返った部屋で、自分だけのために食事を作り、ただそれを飲み込むだけの時間は、時に凍えるような冷たい温度を持っています。

 


最初の家族が与えられた理由

聖書を開くと、神様が最初の人間・アダムを創られたとき、こう言われたと記されています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」

神様は、アダムにエバというパートナーを与えられました。 つまり、この世界における「最初の家族」は、人間の都合や契約で始まったのではなく、神様ご自身が人間の寂しさを思いやり、与えてくださった恩寵(贈り物)なのです。

だからこそ、聖書には家族に関する掟や、家族の愛憎、そして回復の物語が幾度も幾度も登場します。

  • 家族の定義とは何か
    • ただ一つの屋根の下で、空間を共有している人々のことではありません。
    • 互いに愛し合い、助け合い、弱さを支え合いながら生きる共同体のことです。

自分が食べられない「角煮」を誰かのために煮込むとき、そこには確実に、自分以外の誰かを思いやる「心の温度」が存在しています。その温もりが、私たちの人生から冷たい寂しさを溶かしていくのです。

 


祈りの結実と、明日への道

家族という共同体の温かさは、血の繋がりに限定されません。

今日、これまでずっと祈り続けてきた教会員の方が、無事に退院されることになりました。その知らせを聞いたとき、心から嬉しく、深い感謝が込み上げてきました。互いを思い、祈り合う教会もまた、神様が与えてくださったもう一つの「家族」の形です。

 


明日からは、少しコースを変えて、海の方面を目指して走ることにしました。 明日は休養日にあてようかとも考えていますが、自分の体のことは明日になってみないとわかりません。とりあえず、海へ向かうつもりで準備だけはしておきます。

先のことはわからなくても、今日という日を感謝で結び、また新しい朝の光を待ち望む。 支え合う人がいるからこそ、私たちはまた、前を向いて歩き出すことができます。

今日も、共に前進です。