デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年10月17日土曜日

歩く、走る、上るー私の人生の三つの章

 


ある御言葉との出会い

これからの人生を、10年ごとの章に分けて思い描いてみました。そのとき、ずっと親しんできたはずの一つの御言葉が、まったく新しい光を放ち始めました。

主に望みをおく人は新たな力を得、
鷲のように翼を張って上る。
走っても弱ることなく、
歩いても疲れない。
(イザヤ書40章31節)

「上る」「走る」「歩く」。
この三つの言葉の中に、私のこれまでと、これからの歩みがそのまま入っていたのです。しかも後ろから読むと、「歩く」「走る」「上る」。私が歩んでいく順番そのものでした。

 


第一章:歩く(2014年〜2027年)

2014年、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅が始まりました。

振り返れば、長い距離を歩くことは、30年間ずっと私のそばにありました。仙台に来て9年。ここから福島方面への道を8回以上歩きました。長町から石巻まで、往復100キロを22時間弱で歩いたこともあります。スペインの巡礼路では、巡礼者たちから「クレイジーだ」と言われるほど歩きました。

この祈りの旅は、2027年6月、61歳で迎える11度目の旅で締めくくります。

これまでは、歩くことだけに集中してきました。だから最後の旅は、高速バスや列車、飛行機に乗って、10年以上かけて数千キロを歩いた道と街を巡ります。足元ばかりを見つめてきた道を、今度はゆっくりと顔を上げて眺めるつもりです。

 


第二章:走る(61歳〜70歳)

本格的にマラソンを始めて、まだ2年足らずです。それでも、30年間歩いてきた土台が、今の走りを支えてくれています。

これまで、全力で走ったことは一度もありません。礼拝の前の早朝にフルマラソンの距離を走り、そのまま礼拝を担当する。それが私の日常でした。

この12月23日に、61歳になります。そこから10年間、国内外のマラソン大会に挑む新しい章が始まります。

  • 2027年11月3日:ぐんまマラソン。初めての公式記録
  • 2027年11月23日:大田原マラソン。サブ3への挑戦
  • 2028年〜:シカゴ、ベルリン、ニューヨーク、ボストン、ロンドン、東京、シドニー、セビリア
  • 2036年:70歳。ローマで、この章を締めくくる予定です

抽選に当たるかどうかは分かりません。それでも、道は描いておきたいのです。

最後の地をローマにしたのには、理由があります。伝承では、使徒パウロはローマからこう書き送ったとされています。

わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。
(テモテへの手紙二 4章7節)

70歳のゴールで、この言葉をかみしめたいと願っています。

 


第三章:上る(71歳〜80歳)

もし神様が、その先の10年を許してくださるなら。

71歳から80歳までは、無理のない範囲で、世界の山々に挑戦したいと思っています。

思い返せば、私の初めての登山は、いきなり富士山でした。

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る
天地を造られた主のもとから。
(詩編121編1〜2節)

山を上るときも、助けは自分の脚からではなく、主から来る。そのことを、一歩ごとに確かめる章になるでしょう。

 


一人の道から、二人の道へ

振り返ってみると、サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅で「歩く」ことも、マラソンで「走る」ことも、私一人の歩みでした。

けれども、最後の章である「上る」は、妻と一緒の道になると思います。私の初めての登山だった富士山も、妻と二人で登ったのですから。

一人で歩き、一人で走ってきた道は、やがて二人で上る道へとつながっていきます。あの富士山から始まった二人の登山が、人生の最後の章でもう一度始まる。そう思うと、10年先のその日が、今から楽しみでなりません。

 


三つの章を貫くもの

そして、80歳までは、今の牧師としての務めを続けます。

歩くことも、走ることも、上ることも、講壇から離れるためのものではありません。道の上で受け取った恵みを、また講壇で語るための歩みです。

イザヤの言葉は、「歩く力」「走る力」「上る力」の源がどこにあるのかを語っています。それは、私の脚の強さではなく、「主に望みをおく」ことです。

だから、この計画どおりに進まない日が来ても、恐れる必要はありません。歩けなくなっても、走れなくなっても、主に望みをおく者に与えられる「新たな力」は、決して尽きることがないからです。


今日の一歩から

壮大な計画に見えるかもしれません。けれども、どの章も、今日の一歩から始まります。

今朝もまた、靴ひもを結びます。
歩く者として。走る者として。いつか上る者として。

主に望みをおいて、今日も前進です。

2026年10月16日金曜日

朝ラン26キロ完走

 


巡礼の杖を置き、走り出す朝——ペンテコステの新しい風に向かって

まだ薄暗い午前5時。冷たい空気を肺いっぱいに吸い込みながら、今日も道へと飛び出しました。今朝の道のりは26キロ。そのうち5キロは、息が上がり、ふくらはぎが悲鳴を上げるような過酷な坂道ランでした。 今週の私の足跡を振り返れば、月曜日に63キロのウルトラマラソンを走り、火曜日はハーフマラソン。水曜日に完全休養を挟み、昨日は大年寺の階段で1時間のトレーニングを積みました。そして今日の26キロ。体に蓄積された疲労は確かな重みとなってのしかかっていますが、不思議と心は澄み渡り、視線はまっすぐに前を向いています。なぜ、これほどまでに自らを追い込み、険しい坂道を駆け上がっているのか。 それは私の内に、ひとつの大きな「決断」と「新たな夜明け」が訪れているからです。

 


ひとつの幕引きと、終わらない祈りの道

来月、私はスペインへ渡り、10度目となる「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への祈りの道を歩きます。 そして、この10回目の節目をもって、長年私の魂を形作ってきたスペイン巡礼の旅に、ひとつの終止符を打つと決めました。

これまで数千キロもの道のりを歩き、自分自身と向き合い、神様と対話し続けた巡礼の道。それを手放すことには、言葉に尽くせない感慨があります。しかし、それは決して歩みを止めるということではありません。「歩く巡礼」から「走る巡礼」へと、祈りの形が変容するだけなのです。

来年からの10年間。私は毎年、国内外のマラソン大会に出場し続けるという新しい目標を立てました。巡礼の杖を置き、今度はランニングシューズの紐を固く結び直して、未知なる42.195キロの道を走り続ける。それが、神様が私に新しく備えてくださった次のステージなのだと確信しています。

 


ペンテコステの風を受け、過去から未来へ

当面の目標は、来年の「ペンテコステ(5月16日)」までに、フルマラソンを3時間以内で走り切る「サブ3」を達成することです。

ペンテコステ(聖霊降臨日)は、新しい息吹が与えられ、新しい教会が誕生した日。限界を超えるような「サブ3」という目標に向けて、私自身の内側にも新しい聖霊の風が吹き込み、力強く背中を押してくれることを祈りながら、日々トレーニングを重ねています。

聖書に、このような言葉があります。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(ピリピ人への手紙 3:13-14)

過去の美しい巡礼の思い出や、これまでの達成感に安住することなく、後ろのものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばす。昨日までの疲労や痛みを引き受けながらも、ペンテコステという新しい次元に向かって、ひたすらに目標を目指して走る。

人生という道は、時に果てしない坂道のように感じられるかもしれません。しかし、私たちが歩みを止めない限り、そこには必ず新しい景色と、新しい恵みが用意されています。

呼吸を整え、額の汗を拭い、また一歩を踏み出す。 命がある限り、走り続け、祈り続ける。今日も前進です。

夜の散歩

 


落ち葉の降る夜道と、老いた足音——不条理な世界で命を灯すということ

秋が深まり、肌に触れる夜気がふいに冷たさを増した23時20分。 静まり返った夜の街を、愛犬のノアと一緒に歩いていました。私の横にピタリと寄り添い、時折こちらの顔を見上げながら前へと進むノア。その足取りには、確かに老犬特有の弱さが滲んでいました。それでも一緒に歩みを進め、無事に家へと帰り着く。今日も二人で散歩ができたというささやかな事実に、胸の奥で静かな感謝が広がります。

「今年の冬は、特にこの子を暖かくしてあげなければ」 隣を歩く小さな命の体温を感じながら、そんなことを思いました。

 


美しさと寂しさが交差する季節

秋から冬へと向かうこの季節は、どこか寂しさを連れてきます。 一枚、また一枚と、色褪せた木の葉が冷たいアスファルトに落ちていく。紅葉の風景は目を奪われるほどに美しいものですが、散りゆく姿にはやはり、逃れようのない寂寥感が漂います。

この肌寒さは、愛する家族を失った人々の心に吹く隙間風を、より一層冷たく感じさせることでしょう。あるいは、迫り来る冬を暖かく過ごす余裕のない家族にとって、この季節の移ろいは過酷な現実そのものです。

幸せを心から願っているのに、予期せぬ不幸が訪れる。 血の滲むような努力を重ねて頑張ったのに、決して報われることがない。

私たちは時として、この世界が孕む圧倒的な「不条理」を前に、立ち尽くすしかありません。理不尽な冷たい風が吹きつける中で、それでも人は、必死に生きようと身を寄せ合っています。

 


歩み続けること、それが神から託された使命

日付が変わり、16日の金曜日を迎えました。 静かな夜の底で、老いた犬の寝息を聞きながら一つの思いに至ります。どんなに厳しい状況に置かれたとしても、「生きる」こと。 報われない日々が続いたとしても、それでも「頑張り続ける」こと。 不幸に見舞われ、心が折れそうになっても、再び幸せを願って「前へ進む」こと。

聖書には、このような言葉があります。

「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りなさい。」(ローマ人への手紙 12:12)

凍えるような冬を前にしても望みを捨てず、不条理という患難のただ中で前を向く。これこそが、命を与えてくださった主なる神様が人間に託された使命であり、深い願いなのだと確信します。

 


老いた足で一生懸命に私についてくるノアの歩みもまた、与えられた今日という命を全うしようとする尊い祈りの姿でした。冬の足音が聞こえる不条理な世界の中で、私たちは互いの存在を暖め合うために生かされています。たとえ何度つまずいても、祈りと共に、今日も確かな一歩を踏み出していきましょう。

無事に退院が出来た姉妹を、そして目の手術を無事に終えられた姉妹のために祈りながらの夜の散歩でした。感謝です。

2026年10月13日火曜日

今朝はハーフマラソン完走

 


痛みを走って癒す朝——遥かなるボストンへ

63キロの翌朝に

昨日、63キロのウルトラマラソンを走りました。

その代償は、ずっしりとした疲労と、脚全体に広がる筋肉痛として、確かに体に刻まれていました。それでも今朝4時50分。まだ夜明け前の冷気が漂う中、私は再びランニングシューズの紐をきつく結び、道へと飛び出していました。深い疲労を、あえて走ることで癒していく。それが、昔から変わらない私流の整え方です。

 


今朝の記録

  • 距離:21.21キロ(ハーフマラソンの距離)
  • タイム:1時間46分35秒
  • ペース:キロ5分01秒
  • 心拍数:148bpm
  • 消費カロリー:1,257キロカロリー

汗だくで帰宅した私を迎えたのは、妻の呆れ返った顔でした。

 


遠い頂を見上げる、私の歩き方

妻が呆れるのも無理はありません。昨日の今日でハーフの距離を走ったことに加えて、私が今、心に描いている目標が「ボストンマラソン」だからです。

ボストンマラソンは、年齢ごとに定められた厳しい資格タイムを、公認の大会で突破しなければ出場できない、世界最高峰の大会です。そして私が今目指しているのは、フルマラソンを3時間以内で走る「サブ3」。

市民マラソン大会を一度も走ったことのない男が目指すには、あまりにも遠い場所です。

自分でも「なぜ、いきなりボストンなのか」と笑ってしまいます。けれども振り返ってみると、私の初めての登山は、いきなり日本一の富士山でした。

常識的な階段を一段ずつ昇るのではなく、遥か遠くの途方もない頂をじっと見つめ、不器用なまま大きな一歩を踏み出してしまう。それが、私という人間の変わらない歩き方なのだと思います。私たちは時に、自分の身の丈に合わないような大きな夢や、とても届かないと思える高い壁を前にして、理由のない情熱に突き動かされることがあります。

それは、ただの無謀ではないのかもしれません。神様が、私たちの内側に眠っている「まだ見ぬ可能性」を引き出すために与えてくださった、聖なる衝動なのかもしれません。

 


走り抜くための「休息」

聖書には、人生という道のりを走る者に向けた、力強いエールが記されています。

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 12章1節)

一人ひとりに定められた、高く、長いコース。それを走り抜くためには、時に自分の限界を押し広げる挑戦が必要です。そして同時に、静けさの中で体をいたわる時間も欠かせません。今日と明日は、酷使した体にしっかりと休息を与えようと思います。走ることと同じくらい、深く休むこともまた、次の一歩のための大切な「前進」だからです。

 


命がある限り

命がある限り、走り続ける。祈り続け、語り続け、そして愛し続ける。

妻の呆れ顔の奥にある優しさに感謝しながら、今日も私は、私にしか走れない人生のコースを、喜びとともに前進していきます。

2026年10月12日月曜日

無事に帰宅

 


手放す勇気と、63キロの軌跡——肩の痛みの中に刻まれた恵み

午前2時24分。まだ夜明けには遠い、深い闇と静寂の中、私は原町教会を目指してウルトラマラソンのスタートを切りました。

少し冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、一定のリズムでアスファルトを踏みしめる。心拍数は平均139bpm、ペースはキロ6分34秒。自分の内側にある命の鼓動と対話するような、静かで熱い時間でした。

しかし、現実は思い描いた計画通りには進みませんでした。

背中に背負ったバックパックの重みは、距離を重ねるごとに想像以上の負担となって体にのしかかってきました。次第に肩の皮膚が擦れ、ヒリヒリとした痛みが走ります。その痛みを文字通り「背負いながら」走り続けましたが、目的地の原町を目前にして、私は鹿島駅で立ち止まりました。走行距離、約63キロ。合計タイムは6時間53分35秒、消費カロリーは4,027kcalに達していました。

なぜ、あと少しの距離を残して走ることをやめたのか。 それは、このまま走り続ければ、今回の最大の目的である「全体研修会」の時間に間に合わなくなってしまうからです。

ランナーとしての自我や誇りは、「最後まで自分の足で走り切りたい」と叫んでいたかもしれません。痛みに耐えてでも、当初の71キロという目標を完遂したいという誘惑がありました。しかし、私は鹿島駅で足を止め、電車に乗るという選択をしました。

私たちは人生において、時に「自分が立てた完璧な計画」に固執してしまうことがあります。目標を達成すること自体が目的化し、本来一番大切だったはずの「礼拝」や「神様との出会い」、「人との交わり」を後回しにしてしまう。そんな本末転倒な歩みをしてしまうことが、どれほど多いでしょうか。

聖書には、次のような言葉があります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言 16:9)

71キロを自分の足だけで走り切ること。それは私が思い巡らした「自分の道」でした。しかし、神様が今日、私に備えられた「確かな歩み」とは、63キロ地点で自分の限界とタイムリミットを受け入れ、潔く自我を手放して電車に揺られ、時間通りに礼拝の席に着くことだったのです。

帰りの電車の中、座席に深く腰を下ろすと、肩の擦り傷がじんわりと熱を持ち、心地よい疲労感が全身を包み込みました。完璧な完走という勲章は得られなかったかもしれません。しかし、自分の弱さを認め、他なる力(電車)に身を委ねて目的地へ着いたこの経験は、私にとって何よりも尊い「祈りの道のり」となりました。

計画通りにいかないこと。途中で諦めざるを得ないこと。痛みとともに歩まなければならないこと。 それらは決して失敗ではなく、私たちが本来向かうべき場所へ、一番正しいタイミングでたどり着くための「軌道修正の恵み」なのです。

肩の痛みが癒える頃、この63キロの軌跡は、私の心にさらに深い確信を与えてくれるはずです。今日という不完全で、しかしこの上なく満たされた一日に、心からの感謝を捧げます。

71キロウルトラマン前の準備

 


闇をひらき、光へ向かう71キロ——祈りと共に走る明け方の道

夜と朝の境界線すらまだ見えない、23時59分。 真夜中の静寂の中で目を覚まし、私の一日は始まりました。部屋を整えるための掃除、静かな祈りの時間、ノアと一緒に歩く夜気の中の散歩。資源ごみを出し、部屋に戻って聖書のページをめくる。このいつもと変わらない、しかし決して疎かにできない一つひとつの営みが、これから始まる非日常の挑戦へ向けて、私の心を静かにチューニングしてくれます。

現在、午前1時過ぎ。本日の午前2時半から始まる、約71キロの道のりに向けた最終点検を行っています。

 


未知の領域へ踏み出す不安と期待

今日の目的地は、南相馬市にある原町教会です。午前10時から地区全体研修会のための会合があり、せっかくの機会なので、自分の足で走って向かうことに決めました。

過去に徒歩で2度、この道を歩き通したことはあります。しかし、「走って行く」のは今回が初めてです。暗闇の中、71キロという途方もない距離を前にすると、心の中に小さな問いが波紋のように広がります。 「無事にたどり着けるだろうか?」 「一体、何時間かかるのだろうか?」先が見えない道のりに対する不安は、私たちが人生の転換期や、新しい挑戦を前にしたときに感じる震えによく似ています。結果ばかりを急ぎ、まだ見ぬゴールを思って息苦しくなってしまうことは、誰の日常にもあることではないでしょうか。

 


恵みの「区切り」と、歩み続けるための知恵

しかし、今回の道程において、私はフルマラソンのようなスピードを求めるつもりはありません。最初の休憩地点は、長町から約23キロ先にある亘理のローソン。そこから先は、15キロごとに立ち止まり、一呼吸を入れる計画を立てています。

一気に走り切ろうとするのではなく、区切りをつけながら進むこと。 焦らずに、自分の体の声に耳を傾け、調子に合わせて祈りながら走り続けること。

これは単なるランニングの戦略ではなく、私たちが日々の困難や長い試練を乗り越えていくための、一つの生き方のようにも思えます。

 

祈りという呼吸、委ねるという前進

聖書には、このような言葉があります。

「しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40:31)

長い人生の道のりの中では、力強く駆け抜ける時もあれば、立ち止まって深く息を吸い込む時も必要です。亘理のローソンでの最初の一息も、その後の15キロごとの休息も、決して「立ち止まることへの敗北」ではなく、次の一歩を踏み出すための「恵みの時間」なのです。冷たい夜の空気を切り裂き、やがて東の空が白んでいくのを見つめながら、私は一歩一歩、アスファルトを踏みしめていきます。速さや結果ではなく、その道中にある祈りと、体を通して感じる神様の守りに意識を向けること。今日、原町教会までの71キロは、私にとって一つの長い祈りの道となります。あなたも今、先の見えない長い道のりの途中にいるかもしれません。 どうか焦らないでください。途中で休んでもいいのです。あなたの呼吸に合わせて、今日という一日をゆっくりと進んでいきましょう。

さあ、出発の時間が近づいてきました。 静かな祈りとともに、夜明けの道へ踏み出してきます。

2026年10月10日土曜日

笑顔は、自分で灯すもの


 

夜明け前のスタート

今日は5時前に走り出しました。

長町周辺を10キロ。そこから広瀬橋と山田インターのあいだを往復して、合計32キロ。ペースはキロ4分48秒で、今日も記録更新です。

サブ3.5の目安は、キロおよそ4分58秒。その線を下回る走りが、もう特別な一日ではなく、当たり前になってきました。サブ3.5が定着した、と言ってよいと思います。

まだ街が目を覚ます前、自分の足音と呼吸だけを数える時間。その静けさの中で、一歩一歩が確かに積み上がっていくのを感じます。

 


記録は、ある日突然やってこない

この成果は、計画練習を始めてから表れたものです。

ふと考えます。記録が伸びた「今日」は、今日一日だけで生まれたのでしょうか。

そうではないと思います。

  • 予定どおりに走った日
  • 気が乗らなくても、靴ひもを結んだ朝
  • 決めた距離を、決めたペースで刻んだ時間

そうした見えない一段一段が階段のように重なって、ある朝ふと、ひとつ上の踊り場に立っている。成長とは、そういうものなのかもしれません。

このまま練習を積み重ねていけば、来年までにはサブ3にたどり着けるでしょう。サブ3のペースはキロ4分15秒前後。今日の4分48秒から見れば、まだ先は長い道です。けれども、道がどこへ続いているかはもう見えています。

聖書にこんな言葉があります。

なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。(フィリピの信徒への手紙 3章13〜14節)

目標があるから、今日の一歩に意味が生まれる。信仰の歩みも、ランニングも、そこは同じだと感じます。

 


運動場の声、走る人たち

今日は3連休の初日でした。運動場では、少年少女野球団の試合が行われていました。

この時期は、走る人の姿も多く見かけます。まさに、ランナーにとって最高の季節です。

野球のグラウンドに立つ子どもたちも、道を走る大人たちも、それぞれの場所で、それぞれの目標に向かっています。誰かと競い合うためだけではなく、昨日の自分より少し前へ進むために。自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。
(ヘブライ人への手紙 12章1節)

「定められている競走」は、一人一人違います。速さも、距離も、ゴールも違う。だからこそ、隣の人と比べる必要はないのだと思います。

 


サラダチキンという、もう一つのゴール

帰宅して、サラダチキンを作りました。二人が美味しく食べてくれることでしょう。

32キロを走り終えた体で台所に立つ。記録を追う走りの先にあるのは、自分一人の満足ではなく、大切な人の食卓なのだと気づかされます。走ることは、自分を鍛えることです。料理をすることは、誰かを養うことです。今日はその二つが、一本の道でつながりました。

 


笑顔は、環境が決めるものではない

今日も笑顔で、前進です。

環境や状況ではなく、笑顔は自分で作っていくものだと思います。

天気が良い日も悪い日も、調子が良い日も重い日もあります。状況が整うのを待っていたら、笑顔はいつまでもやって来ないかもしれません。

けれども、笑顔は自分で作ることができる。そして信仰者として付け加えるなら、その笑顔を灯す火種は、いつも外から与えられています。

主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。(ネヘミヤ記 8章10節)

自分の力だけで笑おうとすると、いつか息切れします。けれども、受けている恵みを数えるとき、笑顔は無理に作るものではなく、内側から灯るものに変わっていきます。

 

山田インター近くの走って約20キロ地点にあるこの自販機でいつも水分補給をしています。

今日を読んでくださったあなたへ

記録が伸びない時期もあるでしょう。思うように走れない朝もあるでしょう。

それでも、今日の一歩は、確かに明日へつながっています。

主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。(イザヤ書 40章31節)

さあ、今日も笑顔で。一歩ずつ、前進です。

 

2026年10月7日水曜日

笑顔で生きる?

 


澄み渡る秋空と過酷な世界——涙の谷で「笑顔」を灯すために

今朝は、大年寺の階段でのトレーニングと散歩から一日が始まりました。

見上げる高く澄んだ秋空、頬を撫でる涼やかな秋風、そして全身を包み込む柔らかな朝日。いつの間にか、自然はすっかり秋色へとその装いを変えていました。街を歩けば、店先には秋の食材が多く並んでおり、食欲を増す豊かな季節の訪れを視覚からも味覚からも感じさせてくれます。

深く深呼吸をしたくなるような、本当に素晴らしい朝の風景でした。

 


季節の色を持たない風景

しかし、その澄み切った秋の空を見上げながら、私の心の中にはある静かな痛みが広がっていました。この美しい季節の変化を、少しも感じることができない人々がいるという事実です。深い苦しみや悩み、痛みの中に閉じ込められ、空の青さにも、秋の風にも気づくことのできない人々の姿が心に迫ってきたのです。

  • 愛する家族を亡くし、心の時間が止まってしまった人々。
  • 戦場で戦う家族の無事を祈り、毎晩震えながら過ごしている人々。
  • 治療方法が見つからず、希望の光を失いかけている患者のご家族。
  • 通帳のお金が底をつき、「明日、どうやって生きていけばいいのだろうか」と途方に暮れている人々。

これが、私たちが生きているこの世界の、もう一つの偽りざる「現実」です。 どれほど過酷で、どれほど絶望的な状況に置かれていたとしても、「命がある限り生きなければならない」という重い事実が、容赦なく肩にのしかかってきます。

これほどまでに悲しみに満ちた危険で過酷な世界の中で、私たちはどうすれば、心からの「笑顔」で生きることができるのでしょうか。

 


痛みを抱えたままの笑顔

その問いに対する答えを探すとき、私たちは「笑顔」というものの本当の意味を考え直さなければならないのかもしれません。

私たちが目指すべき笑顔とは、苦しみから目を背け、「すべては上手くいっている」と自分に言い聞かせるような表面的な明るさではありません。過酷な現実をなかったことにするようなプラス思考でもありません。

本当の笑顔とは、涙を流す痛みを知っている者が、それでも絶望に呑み込まれないと決意したときに灯る「小さな祈りの光」なのではないでしょうか。

聖書の中に、このような言葉があります。

「彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の湧く所とします。」(詩編 84:6)

人生という道は、時にこの「涙の谷」を通らなければなりません。乾ききった過酷な谷底です。しかし、そこを歩きながら流した涙は、やがて誰かの渇きを潤す「泉」へと変わっていくと聖書は約束しています。

 


一段ずつ、階段を上るように

どうすれば笑顔になれるのか。 それはきっと、自分の力だけで笑おうとするのをやめた時です。悲しみの中にある時は、無理に笑う必要はありません。ただ、共に泣いてくれる人がいること、そして、この世界の痛みをすべて背負って十字架にかかられたキリストが、その涙の谷のどん底であなたと共に座り込んでくださっていることを思い出すだけでよいのです。「自分は一人ではない」 「この痛みを知ってくれている方がいる」

その静かな安心感に出会えた時、人の顔には、自然と柔らかな光が差します。それこそが、過酷な世界で生き抜くための、最も強くて美しい「笑顔」なのだと思います。

大年寺の長く急な階段を、息を切らしながら一段一段上るように。 人生の過酷な現実の前で足がすくみそうになっても、今日という一日、ただ目の前の一段だけを見つめて足を乗せてみてください。その小さな一歩を、天の神様は決して見捨てることなく支えてくださいます。美しい秋空の下、涙の谷を歩むすべての人々の足元に、今日、小さな泉が湧き上がりますように。間もなく水曜祈祷会です。

2026年10月6日火曜日

立入禁止



「立入禁止」のあふれる世界で、明日のための食卓をととのえる

街を歩いているとき。あるいは、山や川沿いの道を走っているとき。 風景のなかに、ふと黄色や赤の小さな看板が目に留まることがあります。

「立入禁止」

そこにはたいてい、立ち入ってはいけない理由として「危険だから」という警告が添えられています。崖が崩れるかもしれない、川の流れが急であるかもしれない。命を脅かす危険が潜んでいるから、ここから先へは入ってはいけない、という境界線です。

 

危険に満ちた世界への問い

走りながら、あるいは歩きながら、その看板を通り過ぎるたびに、私の内に一つの静かな問いが波紋のように広がっていくのを感じます。

あちらにも「立入禁止」。こちらにも「危険」。 そうやって見渡してみると、この世界は至る所に危険が口を開けて待ち構えているように思えてきます。物理的な危険だけではありません。病、事故、突然の喪失、理不尽な悪意。一歩踏み外せば足元が崩れ落ちてしまうような危うさの上に、私たちの生活は薄氷のように乗っているに過ぎないのではないか。

  • 危険なところがありすぎる。
  • 本当は、この世界は安心して住めるような場所ではないのではないか。

ふと、そんな途方もない不安と虚無感に襲われる瞬間があります。 それなのに、人々はこの危険な世界で、今日も息をして、笑い、泣き、生きています。

なぜ、私たちはこの危うい世界で、それでも生き続けることができるのでしょうか。

 

日常という名の「希望の砦」

その問いを胸の奥に抱えながら、私は家に帰り、いつものように台所に立ちます。 家族のために夕食を作ります。包丁で野菜を刻み、鍋を火にかけ、部屋の掃除をし、そして「明日のゴミ出し」の準備をします。

危険に満ちた広大な世界と、夕食の匂いが漂う小さな台所。 そのあまりにも対照的な二つの風景が重なり合ったとき、私の中で一つの深い気づきが静かに降り積もりました。

私たちがこの危険な世界で生き続けることができる理由。 それは、世界が安全になったからでも、私たちが危険をすべて回避できるほど強くなったからでもありません。

「愛する者のために、今日なすべき小さな営みがあるから」です。

家族の帰りを待って夕食を作ること。床の埃を掃き清めること。明日の朝のために、資源ごみをまとめること。それらの日常の平凡な行為は、実はとても力強い「希望の宣言」です。 明日のゴミ出しを準備するということは、「明日もまた、家族と共に生きていく」という未来への確かな信頼(信仰)の証なのです。

外の世界にどれほど多くの「立入禁止」の看板が立っていようとも、愛する者のために整えられたこの小さな家の中には、温かな命の居場所が確保されています。私たちは、恐怖によって世界から逃げ出すのではなく、愛によって日常という名の「希望の砦」を築き上げているのです。

 

平安は、危険のない場所ではなく

聖書の中に、イエス・キリストが弟子たちに残した重みのある言葉があります。

「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネによる福音書 16:33)

キリストは、「この世からすべての危険や苦難を無くしてあげる」とは言われませんでした。世には苦難がある。危険な場所も、悲しみもある。その厳しい現実を真っ直ぐに見据えた上で、「それでも、勇気を出しなさい」と招いておられます。

本当の平安とは、「立入禁止」の看板が一つもない安全無菌な世界に住むことではありません。 どれほど世界が危うくとも、神の揺るぎない愛に守られながら、今日という日に与えられた「誰かのための小さな働き」を誠実に積み重ねていくこと。その確かな足取りの中にこそ、平安は宿るのです。

今日、何かの不安に足がすくみそうになっている方がいるかもしれません。 世界が少し恐ろしく見えて、前に進めなくなっている人がいるかもしれません。

どうか、遠くの大きな危険を見つめ続けるのをやめて、手元にある小さな愛の営みに目を向けてみてください。 誰かのために温かいお茶を淹れること。部屋の窓を開けて風を入れること。明日の準備をすること。 そのあなたの小さくて誠実な手の動きが、危険な世界に灯る確かな光となり、あなた自身の心を温めてくれるはずです。

明日もまた、私たちは明日のためのゴミ出しの準備をして、新しい一日を歩み始めます。