デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月1日水曜日

今日もまたマーボー豆腐

 


三十年変わらないレシピと、命を味わう余白──効率化の時代に「食べる」を問う

夕食の食卓に、湯気を立てるマーボー豆腐が並びました。 これで三日連続のマーボー豆腐です。ふと自分の身体に意識を向けると、まだどこかに拭いきれない「歯の違和感」が居座っています。明日で処方箋の薬も無くなってしまいますが、焦っても仕方がありません。とりあえず、今週いっぱいまでは自分の身体の様子を静かに待つことにしました。

思うようにいかない身体の揺らぎを抱えながら、スプーンで掬うマーボー豆腐。 実はこの一皿には、私が三十年間守り続けている作り方があります。

 


寮生活の記憶と、食べるという生存本能

このレシピの始まりは、昔、大学の寮生活時代にまで遡ります。 当時の私は若く、あり余るエネルギーを抱えていました。自分で作ったフライパンいっぱいのマーボー豆腐を、あっという間に平らげてしまった日のことを、今でも鮮明に覚えています。

三十年という歳月が流れ、食べる量も身体の強さもすっかり変わりました。 それでも、フライパンの底でふつふつと香り立つ市販ソースの匂いは、あの日の記憶をそっと呼び起こします。今の私が作るマーボー豆腐は、卵を2つ落とし、溶けるチーズを2枚加え、粉唐辛子で少しだけ刺激を添えた、やわらかく食べやすい一皿です。 噛むことが難しい状態が続く中で、こうした工夫をしながら栄養を摂ることの大切さを、身体の「違和感」や薬の存在が静かに教えてくれます。生き物はすべて、食べなければ命を繋ぐことができません。 その冷徹な自然の掟の中で、今日も私はフライパンを温め、ゆっくりと自分のペースで食事を整えています。

 


「生存」から「文化」へ、そして「効率」へ

しかし、人間という生き物はどこか特別です。 他の動物たちが「ただ生き延びるため」だけに餌を口にするのに対し、人間だけは、いつしか食べる行為に意味を見出し、一つの「文化」として、時には美しい「芸術」として昇華させてきました。

器を選び、旬の命を愛たい、火の通り具合に祈りを込める。 それは一体、いつ頃から始まったのでしょうか。おそらく人間が、食事の時間を単なる「栄養補給」ではなく、神様が与えてくださった自然の恵みに感謝し、大切な人と心を通わせる「喜びの儀式」だと気づいた時からでしょう。

 


ところが、現代の風景を見渡すと、不思議な逆転現象が起きています。

かつて人々が多くの時間を費やし、愛しんできた「食べる(作る)」という行為は、今やできるだけ時間をかけずに済ませるべきタスクになりつつあります。 「時短」「簡単」「三分でできる」。そうした料理がもてはやされ、求められる時代になりました。忙しすぎる現代社会において、それは生きていくための必然の知恵かもしれません。しかし、効率化の波の中で、私たちが手放してしまった「時間」の中には、本当はとても大切なものが隠されていたのではないでしょうか。

 


命のペースを取り戻すための食卓

聖書の中で、イエス・キリストは人々と共に多くの食事の席に着きました。 効率を重んじるなら、食べ物など一瞬で胃袋を満たせば済むはずですが、彼はあえて時間をかけ、パンを裂き、杯を分け合い、人々と食卓を囲むプロセスを大切にされました。

時間をかけて料理を作り、それをゆっくりと味わうこと。 それは、「私は機械ではなく、神に生かされている血の通った人間である」ということを思い出すための、静かな抵抗であり、祈りでもあります。

 


三日連続のマーボー豆腐。 三十年前と同じ手順で豆腐を切り、火を入れ、とろみをつける。その変わらない手作業の時間が、身体に違和感を抱える今の私に、「焦らなくていい」「命のペースで進めばいい」と、優しく語りかけてくれる気がします。

世の中のスピードがどれほど速くなっても、自分の命を養うための時間は、決して無駄な時間ではありません。 薬が切れる不安や、思い通りにならない身体の痛み。そうした自分の弱さを受け入れながら、今日与えられた温かい一皿を、丁寧に身体へと取り込んでいく。明日もまた、変わらないレシピで命を繋ぎましょう。

今日も、共に前進です。

「EL CAMINO 7月号」

 









感謝することに感謝

 


湿度を帯びた風と秘密の決意──「自分の限界」を受け入れるという愛の形

二人をそれぞれ駅へ、そしてパート先へと見送る昼。 無事に自宅へと帰り着き、静かになった部屋で仕事に向かいます。

月報『EL CAMINO』の7月号を仕上げ、印刷と配布の作業を進める時間。週報やコラムの執筆、次週の説教の準備と、目の前にはなすべきことが連なっています。絶えず仕事をしながら歩んでいける人生そのものに感謝し、さらに「そのことに感謝できている今の自分」に対して、深い感謝が込み上げてくるのを感じます。

そして今日は何よりも、一人の兄弟が無事に退院されたという報せが、心に温かい光を灯してくれました。

 


娘のための、ひそかな決断

梅雨特有の、重く湿った空気が肌にまとわりつく一日です。 今日も娘は、学校の後、仙台でのアルバイトに出かけます。しかし今日は、これまでと少し違う「ある決意」を胸に秘めて夜を迎えることにしました。

それは、「迎えに行く約束をしない」ということです。

夜遅く、目が覚めていれば連絡をしよう。しかし、無理をして起きていることはやめよう。(先日は一睡もできずその疲れが今も・・・)一人、ひそかにそう決めました。そして、これからもこの形をとることにしたのです。

一見すると、突き放したように思えるかもしれません。しかしこれは、深く考え抜いた末の結論でした。 なぜなら、「自分自身の健康が、娘のためにも家族のためにも、最も大きな影響を与える」という明らかな事実に気づいたからです。

 


限界を認めることは、愛すること

私たちはしばしば、「自己犠牲」こそが家族への愛だと勘違いしてしまいます。 自分の睡眠を削り、体力をすり減らしてでも、相手のために尽くすこと。それこそが愛なのだと、無理を重ねてしまうことがあります。

しかし、自分という器がひび割れ、倒れてしまえば、結果的に最も深い悲しみと負担を背負うのは、他ならぬ大切な家族です。

  • 自分の限界を正しく知ること。
  • 休息をとり、自分の器を健やかに保つこと。

これらは決して身勝手なことではなく、家族を長く、深く愛し抜くための最も誠実な責任の取り方なのです。聖書が安息日を定め、人間に「休むこと」を命じたのも、私たちが自らの有限性(限界)を受け入れるためでした。

 


自分の力で出来ないことは、そのまま受け入れる

窓の外は晴れていますが、梅雨の湿気は日増しに濃くなり、明日はまた雨の模様です。

しかし、明日が雨だからといって、私の生活の根幹が揺らぐことはまったくありません。空模様を私の力で変えることはできないからです。

自分の力で出来ないことは、そのまま静かに受け入れる。 天候であれ、自分の体力の限界であれ、それを「コントロールしよう」と抗うのをやめたとき、心に本当の静寂が訪れます。私たちは全能ではありません。 だからこそ、変えられないものは天に委ね、自分に与えられた「今日」という範囲の中で、ただ誠実に生きるのみです。

自分の弱さを認め、無理を手放したその手で、明日もまた大切な人たちを支えていく。 その静かな決意を胸に、今日という日を閉じたいと思います。

今日も、共に前進です。

*今日も夕食は一人でマーボー豆腐を作って食べます。これで三日連続のマーボー豆腐です。 理由は、いま物を噛むことが難しい状態が続いているため、食べやすくて栄養を摂りやすい料理を選んでいるからです。そのおかげで、しばらく眠っていたミキサー機が、

最近は毎日のように大活躍しています。

今日から夏場のランニングスタート

 


奪われる水分と、それでも渇かない希望──「共に生きる」という余白

71日。新しい月の始まりは、やはり走らなければと靴紐を結びました。 しかし、走り出したのはいつもより2時間も遅い、5時過ぎのこと。この「2時間の差」が、夏の入り口ではどれほど過酷な意味を持つか、身をもって知ることになりました。

足を前に進めるほどに、容赦なく照りつける熱い太陽の光が、体からどんどん水分を奪っていきます。 息が上がり、最後の道のりがひどく険しく感じられました。「いよいよ、水を持参して走らなければならない時期が来た」と、夏の圧倒的な力を肌で受け止めました。

 


季節への適応と、新しい計画

この自然の厳しさを前に、今日から9月までの約3か月間、夏場のランニング計画を新しく設定し直すことにしました。

  • 頻度: 無理をせず、一日おきに走る
  • 距離: 1回の距離を20キロ程度にとどめる
  • 目標: 月に15日間、合計300キロを走る

環境の変化には抗わず、自分の体を守りながら長く走り続けるための、一つの適応です。

 


変わる世界と、変わらない人間の渇き

熱を帯びた外の世界から家に戻ると、そこには穏やかな時間が流れていました。 今日は水曜日。娘は午後から学校へ向かうため、午前中の家の中には少しだけ「心の余裕」とも呼べる、静かな余白があります。

 


冷たい水を飲み、一息つきながら、ふと考えました。 世の中はめまぐるしく、頻繁に変化を続けています。しかし、その変化の中で、決して変わらないものがあります。

人間の欲、憎しみ、憎悪、ねたみ、そしてそれらが引き起こす犯罪、事件、戦争……。 人間が生きている限り、この悲しい営みは絶えることがないのでしょう。それはまるで、今日私から水分を奪った強烈な太陽のように、私たちの心から潤いを奪い、世界を乾かしていく現実です。

 


余白を分かち合い、「一緒に生きる」

そんなどこまでも乾いた世界の中で、希望を見出して生きることは、時にひどく難しい作業に思えます。 それでも、私たち人間は、希望なしには生きられない存在です。かすかでも希望がある限り、何度でも立ち上がり、歩み続けることができます。

問題は、「その希望を何に置くか」ということですが、まずは一つの事実を受け入れるしかありません。 それは、「とにかく生きる」ということです。 生きることを決めたのなら、自分に与えられた今日という命を、精一杯に生き抜くこと。

そしてもし、水曜日の午前中のような「少しの心の余裕」が自分の中にあるのなら。 その小さな余白を使って、誰かと「一緒に生きること」を選ぶのです。

 


聖書は、私たちが孤独の中で渇きに耐えるのではなく、互いの重荷を負い合い、愛をもって共に歩むようにと語りかけます。悲しみの絶えない世界に確かな潤いをもたらすのは、その「一緒に生きる」という静かな決意なのだと思います。

夏の太陽はこれからも容赦なく私たちを照らしますが、心に余白と希望の水を携えて、また今日という一日を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

7月1日

 


カレンダーの境界線と、食卓の波紋──「今日」という24時間を生き抜くための哲学

2026年も半分が過ぎ、新たな半年がスタートしました。71日。 一年を半分に折り返すこの日は、私たちの生活を取り巻くさまざまなシステムや、日常の風景が新しく切り替わる大きな節目でもあります。

 

食卓に押し寄せる変化の波

今日から、私たちの生活に最も直結する部分で、一つの大きな変化が起きています。それは「食卓」への影響です。71日から2,500品目を超える食品が一斉に値上げの対象となりました。山崎製パン、フジパン、敷島製パン、第一パンといった馴染み深いメーカーの食パンをはじめ、即席麺、ハムやソーセージ、ポテトチップスなど、日々の暮らしに欠かせない品々が中心です。スーパーの棚に並ぶ価格札が変わるのを見て、ため息をつきたくなる方も多いことでしょう。

 

さらに目を向ければ、社会のルールも切り替わっています。 日本ではパスポート申請の手数料が引き下げられる一方で、外国人のビザ申請料が大きく値上がりします。一見すると厳しい措置に見えるかもしれませんが、G7などの主要国を見渡せば、これまで日本の手数料が安く設定されていたことが分かります。今回の措置は日本だけが特段高くなったわけではなく、世界の基準に歩調を合わせた結果です。

海を越えれば、オーストラリアでは今日から新会計年度が始まり、税制や賃金のルールが一新されます。アメリカの多くの州でも、今日から何百もの新しい法律が発効します。

物価の変動も、法的な改定も、こうした時代の変化は逆らわずに受け入れることが大切です。世界中が今日という日を境に、少しずつ社会の形をアップデートしているのです。

 

アスファルトの温度と、計画の余白

社会のルールや物の値段が変わる今日、個人的な生活においても「夏場のランニング」がスタートする日を迎えました。

仙台の街を吹き抜ける風も、すっかり湿度と熱を帯びてきました。普段は20キロから、長い時には55キロほどの距離を踏んでいますが、この過酷な季節は回数やコース、距離の設定に変化を持たせる必要があります。しかし、頭の中でどれほど緻密に夏の計画を立てても、正直なところ「実際に走ってみないと分からない」というのが本音です。ランニングというものは、思った通りに実行できるケースは殆どありません。その日の風の温度、足の重さ、そして何より「その日の気分」に左右されるからです。計画通りに進まないこと。それを受け入れ、その日の自分の体と対話しながら走ることの中にこそ、長く走り続けるための真理が隠されているように思います。

カレンダーの魔法と、今日という真理

今日から7月。 多くの人々は、カレンダーの数字が変わることに特別な意味合いを与え、「今日から生活を変えよう」「新しい自分になろう」と決意を新たにします。

しかし、月が変わったからといって、自分の生活が突然魔法のように変わるわけではありません。カレンダーの境界線は、人間が便宜上引いた線に過ぎないからです。

物価が上がり、生活の負担が増えるニュースを目にすると、どうしても私たちは「これからの生活はどうなるのだろう」と先のことを思い煩ってしまいます。しかし、私たちが本当に目を向けるべきは、見えない未来への不安ではありません。

 


「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」 (マタイによる福音書 634節)

与えられた「今日の人生」だけに集中して生きること。 社会のルールがどう変わろうと、物の値段がどうなろうと、夏の暑さがどれほど厳しかろうと、私たちに確実に手渡されているのは「今日という24時間」だけです。

明日の計画や痛みがどうなるかは、明日にならなければ分かりません。 だからこそ、今日一日、今この瞬間の自分に誠実に向き合い、悔いのない生き方で24時間を生き抜くこと。その静かな積み重ねだけが、確かな人生の道を作っていくのだと信じています。

今日も、共に前進です。

2026年6月30日火曜日

温度差

 


寂しさの温度が変わる場所──食卓に差し込む光と、家族という恩寵

今日も無事に一日が終わり、家族がみな無事に家へと帰ってきました。 玄関の扉が開く音、ただいまという声。そんな当たり前の日常の響きに、深い感謝を覚える夜です。

キッチンに立ち、二人のために豚の角煮を作りました。 コトコトと鍋が音を立てる傍らで、僕自身はしばらく噛むことを控えているため、自分用に柔らかい食事を別に用意しています。自分の食べるものを自分で作り、自分の身の回りのことを自分でこなす。 「何でも自分で出来る」ということは、ある面ではとても便利で、気楽なことです。誰に気兼ねすることなく、自分のペースで完結できるからです。

しかし、ふと鍋から立ち上る湯気を見つめながら、一つの思いが胸をよぎりました。

 


「寂しさの温度」はどこから来るのか

一人暮らしのなかで「仕方なく」すべての家事をこなすことと、家族の気配を感じながら同じ家事をこなすこと。 表面的な作業はまったく同じでも、そこには決定的な違いがあります。それは、寂しさの温度です。

以前、教会員で一人暮らしをされている男性が、ふと僕にこうこぼされたことがありました。 「やはり、一人は寂しいものですね」

気楽で自由な生活を好む人ももちろんいます。煩わしさから解放されたいと願う瞬間は、誰にでもあるでしょう。しかし、人間の心の奥底には、どうしても拭いきれない根源的な寂しさが横たわっています。静まり返った部屋で、自分だけのために食事を作り、ただそれを飲み込むだけの時間は、時に凍えるような冷たい温度を持っています。

 


最初の家族が与えられた理由

聖書を開くと、神様が最初の人間・アダムを創られたとき、こう言われたと記されています。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」

神様は、アダムにエバというパートナーを与えられました。 つまり、この世界における「最初の家族」は、人間の都合や契約で始まったのではなく、神様ご自身が人間の寂しさを思いやり、与えてくださった恩寵(贈り物)なのです。

だからこそ、聖書には家族に関する掟や、家族の愛憎、そして回復の物語が幾度も幾度も登場します。

  • 家族の定義とは何か
    • ただ一つの屋根の下で、空間を共有している人々のことではありません。
    • 互いに愛し合い、助け合い、弱さを支え合いながら生きる共同体のことです。

自分が食べられない「角煮」を誰かのために煮込むとき、そこには確実に、自分以外の誰かを思いやる「心の温度」が存在しています。その温もりが、私たちの人生から冷たい寂しさを溶かしていくのです。

 


祈りの結実と、明日への道

家族という共同体の温かさは、血の繋がりに限定されません。

今日、これまでずっと祈り続けてきた教会員の方が、無事に退院されることになりました。その知らせを聞いたとき、心から嬉しく、深い感謝が込み上げてきました。互いを思い、祈り合う教会もまた、神様が与えてくださったもう一つの「家族」の形です。

 


明日からは、少しコースを変えて、海の方面を目指して走ることにしました。 明日は休養日にあてようかとも考えていますが、自分の体のことは明日になってみないとわかりません。とりあえず、海へ向かうつもりで準備だけはしておきます。

先のことはわからなくても、今日という日を感謝で結び、また新しい朝の光を待ち望む。 支え合う人がいるからこそ、私たちはまた、前を向いて歩き出すことができます。

今日も、共に前進です。

次世代の防犯論

 


【歴史と生物学で解く】なぜ現代は「詐欺」がこれほど溢れているのか?動物たちの手口と、私たちが進むべき「騙されない社会」への道

「またオレオレ詐欺の被害か……」 「SNSで知り合った人に何千万円も騙し取られるなんて……」ニュースを見るたびに、胸が締め付けられるような怒りや悲しみを覚えることはありませんか? 特に、お年寄りや弱い立場の人たちを組織的に狙い撃ちし、人生を狂わせる詐欺集団の手口を見ていると、「人類の歴史上、今が一番モラルが崩壊した恐ろしい時代なのではないか」と思ってしまいますよね。

私たちは本当に、歴史上もっとも邪悪な時代に生きているのでしょうか? そして、この絶望的な状況から「詐欺のない社会」を作る道はあるのでしょうか?

今回は、「歴史(犯罪史)」「生物学(動物行動学)」という2つの視点からこの謎を紐解き、私たちが目指すべき「なるほど!」と言える解決策を考えてみましょう。

1. 歴史が教えてくれること:悪意が深まったのではなく、〇〇が進化した

実は歴史を振り返ると、社会の仕組みや経済のルールがガラリと変わる「転換期」には、いつの時代も弱者を組織的に騙し取る犯罪集団が爆発的に増加していました。

19世紀の産業革命期のヨーロッパでは、都会に出てきたばかりの純朴な労働者を狙った投資詐欺が横行しました。日本でも昭和の時代、退職金を狙った大規模な「現物まがい商法(豊田商事事件など)」が社会問題になりました。

では、現代の何がそんなに「特別」なのでしょうか? それは、人間の悪意の強さではなく、テクノロジーによる「圧倒的な効率と匿名性」です。

かつての詐欺師は、ターゲットと直接会う必要があったため、捕まるリスクも高く、1日に騙せる人数にも限界がありました。しかし現代は、ネットやスマホ、暗号資産を悪用し、「海外の安全なリゾート地から、日本の高齢者の資産を、何千人も同時に効率よく狙い撃ちできるシステム」が完成してしまっています。

つまり現代は、悪人が増えたというより、犯罪の効率がテクノロジーによって極限まで高まってしまった時代なのです。

2. 生物学が教えてくれること:実は動物も「詐欺」をする?

「人を騙す」という行為は人間特有の醜さだと思われがちですが、実は生物界全体を見渡すと、「他者を騙して利益を得る(詐欺行為)」は、生存競争を生き抜くための極めて普遍的な戦略だったりします。

動物行動学の世界では、これを「戦術的欺瞞」と呼びます。

  • 天敵が来てもいないのに「偽の警戒鳴き声」を出し、驚いた仲間が放り出したエサを横取りする鳥(オウチュウ)
  • 他のクモの網を絶妙に揺らし、「獲物がかかった!」と勘違いして出てきた網の主を食べてしまうクモ(ハエトリグモ)

彼らの手口は、現代の「フィッシング詐欺」や「サポート詐欺(偽の警告画面)」とまったく同じ構造です。ただし、人間と動物には決定的な違いがあります。動物のウソは「自分が生き残るため」「子孫を残すため」という本能に基づいています。しかし人間の特殊詐欺は、「他者の人生を破滅させてでも、過剰な富や贅沢を貪るため」に、システム化されたマネーゲームとして行われます。ここに、私たちが強い嫌悪感を抱く理由があります。

3. 「詐欺のない社会」を作るための、なるほど!と言える解決策

では、どうすればこの暗闇から抜け出し、「詐欺のない社会」を作ることができるのでしょうか?「個人の防犯意識を高めよう」「怪しい電話には出ないようにしよう」という精神論だけでは、進化し続けるテクノロジーには勝てません。

私たちが目指すべきは、人間の「信じやすい・不安になりやすい」という脳のバグ(弱点)を、システムで物理的にカバーする社会です。そのための3つのアプローチを提案します。

「騙される窓口」をテクノロジーで自動シャットアウトする

動物の詐欺師と同じく、人間の詐欺師も「最初の接触」がなければ何もできません。 すでに一部で始まっていますが、「全通話の自動録音とAIによるリアルタイム詐欺検知」「国際電話や見知らぬ番号からの着信の自動フィルタリング」を、個人の努力ではなく【すべての通信回線の標準機能】として義務化することです。システムが最初に悪意を弾く壁になれば、被害は劇的に減ります。

「お金の移動」に強制的な「深呼吸の時間(クーリングオフ)」を作る

詐欺師は必ず「今すぐ振り込まないと大変なことになる!」と被害者をパニックに陥れます。 これを防ぐために、例えば一定年齢以上の口座からの高額送金や、初めての振込先への送金には、「24時間は絶対に決済が完了せず、その間に身近な登録家族へ自動で通知が行くシステム」を金融インフラとして組み込みます。システム側が強制的に「パニックを冷ます時間」を作るのです。

リアルな「エトス(つながりの習慣)」を取り戻す

前回の記事で、アリストテレスの「習慣(エトス)が性格(エートス)を作る」というお話をしました。 詐欺師が狙う最大の隙は、弱者の「孤独」と「孤立」です。「誰にも相談できない」という環境こそが、詐欺が成立する一番の土壌になります。

地域や家族のなかで、日頃から「ちょっとしたことでも話し合える小さな習慣(エトス)」をインフラのように張り巡らせておくこと。テクノロジーの壁(システム)と、人と人との温かいつながり(習慣)の2つが組み合わさったとき、詐欺集団は完全にその獲物を失うことになります。

おわりに

現代の特殊詐欺の横行は、私たちが悪魔の時代に生きている証拠ではなく、「新しいテクノロジーに対して、社会の守りがまだ追いついていない過渡期」にいることを意味しています。生き物が生き残るためにウソを発明したのなら、私たちはそれを乗り越えるために「知恵」と「つながり」を進化させる必要があります。

悲観するのをやめて、まずは大切な家族への「最近どう?」という一本の電話から、詐欺のない社会への第一歩を踏み出してみませんか?

今日も最後まで共に前進です。

性格は変えられない?でも習慣は変えられる?

「もっと前向きな性格だったらなぁ」 「いつも三日坊主で終わる自分を変えたい……

新しい季節の始まりや、何かに失敗したとき、自分の「性格」を恨めしく思ったことはありませんか?本屋さんに並ぶ自己啓発本を読んだり、SNSでキラキラしている人を見て「明日から生まれ変わろう!」と決意するものの、気づけば元の自分に逆戻り。やっぱり生まれ持った性格を変えるなんて無理なんだ、と諦めたくなる気持ち、本当によく分かります。でも、どうか自分を責めないでください。性格を丸ごと変えるのが難しいのは、あなたの意志が弱いからではなく、アプローチの順番が違っていただけかもしれません。

実は、2400年前の哲学者アリストテレスは、私たちが無理なく「自分をアップデートする秘密」を知っていました。今回は、心がすっと軽くなる「性格と習慣の不思議な関係」についてお話しします。

 

【性格は変えられない?】

アリストテレスが語る「習慣が人格をつくる」という2400年前の真理

「自分の性格、変えたいな……」 そう思ったことは、誰にでもあるはずです。

頑固なところ、後回しにしてしまう癖、すぐ不安になる心。 「生まれつきだから仕方ない」と諦めてしまう人もいるかもしれません。

でも、2400年前の哲学者アリストテレスは、こう断言しました。

「性格は、生まれつきではない。日々の習慣によって形づくられる。」

この言葉は、現代の心理学や脳科学とも響き合う、驚くほど普遍的な真理です。 今日は、古代ギリシャ語に隠された性格と習慣の秘密を紐解きながら、 あなたが「新しい自分」を始めるためのロードマップを紹介します。

ギリシャ語に隠された「2つのエトス」

古代ギリシャ語では、 性格と習慣は、ほとんど同じ言葉でした。

  • エトス(θος)=習慣
  • エートス(θος)=性格・人柄

違いは、最初の「エ」の長さだけ。 アリストテレスは『ニコマコス倫理学』でこう語ります。

「性格(エートス)は、習慣(エトス)が少し変化して生まれた言葉である。」

つまり、 習慣の積み重ねが、その人の性格になる。 これがエトスの本来の意味なのです。

英語の Ethics(倫理) の語源もここから来ています。 倫理とは、堅苦しい規則ではなく、 「どんな習慣を育て、どんな人柄を形づくるか」 を考える温かい学問だったのです。

性格は「楽器の練習」と同じ

アリストテレスは、性格を変えることを楽器の演奏に例えました。

生まれつきできること(見る・聞く)とは違い、 ハープの演奏は練習を重ねて初めて身につきます。

性格も同じです。

  • 正しい行動を繰り返す正しい人になる
  • 恐れに向き合う練習をする勇敢な人になる

「私は生まれつきネガティブだから」 そう思っている人は、 ただ ネガティブに捉える習慣 を繰り返してきただけかもしれません。

ならば、今日から習慣を変えれば、 性格は後からいくらでも書き換えられるのです。

性格を変えるための「3ステップ・ロードマップ」

1. 変えたい性格を行動に分解する

例:「ポジティブになりたい」「良かったことを3つ書く」

2. 小さな習慣(エトス)を淡々と繰り返す

最初はぎこちなくてOK。ハープ初心者と同じです。

3. やがてそれが性格(エートス)に染み込む

繰り返すうちに脳が書き換わり、行動が自然になります。 周囲からは「前向きな人だね」と見えるようになります。

おわりに:あなたは、いつからでも生まれ変われる

性格という大きな壁に挑む必要はありません。 変えられるのは、今日の小さな習慣だけ。

その習慣こそが、あなたの品性(エートス)を磨き、 人生を静かに、しかし確実に変えていきます。

2400年前の哲学者が太鼓判を押したこの方法。 あなたも、小さな習慣から「新しい自分」を始めてみませんか。 

期待度を下げる勇気

 


49%の感謝と赦しの階段 ── 不完全さを受け入れる愛の形

朝の風景と、十三年の温もり

今朝も、娘を駅まで送る車中でのこと。娘がふと、「今日もノアが見送ってくれたよ」と口にしました。ノアはよく、下の玄関まで一緒に降りてきて見送りをしてくれます。

彼が我が家に迎え入れられ、共に暮らして十三年。その長い歳月がもたらす静かな温もりが、朝の空気にじんわりと溶け込んでいくのを感じました。

ロボットではない、命と向き合う覚悟

これほどまでに家族としての絆が深まり、強められてきたのは、決してノアが「いつも言うことを聞く、完璧によい子」だったからではありません。

時には言うことを聞かず、物をかじって台無しにしたこともありました。めったにないことですが、大雨でなかなか外へ連れて行けなかった日には、階段のところでおしっこをしてしまったこともあります。(それは確実に、連れ出せなかった私の責任なのですが……)

こうした「海千山千」の出来事を共に乗り越えてきたからこそ、今の確かな絆が結ばれているのです。飼い主はつい、「言うことを聞いてほしい」と願ってしまいます。しかし、それは感情を持たないロボットに対する要求であり、命ある生き物へ向けるべき願いではありません。

良いことも、悪いことも、時に自分の気に入らないことも。そのすべてを引き受ける覚悟を持つことこそが、命を預かり、共に生きるという決断なのです。

期待を手放し、「赦し」を前提とする生き方

これは、ペットとの関係にとどまる話ではありません。人間である自分の家族でさえ、いつも言うことを聞き、思い通りに動いてくれるわけではないのです。それなのに、言葉を持たない動物にそれを期待するのは、少しおかしな話です。

私たちが豊かな人生を生きるための道は、次のような姿勢の中に隠されています。

  • 失敗を前提にして、相手を受け入れること

  • 間違いを前提にして、愛し続けること

  • 裏切るかもしれないことさえ念頭に置き、ためらわずに赦すこと

完璧を求めず、物事に縛られず、むやみに腹を立てない。それは、相手を思い通りにコントロールしようとする手をそっと放すという、愛の選択です。

50%の期待と、49%の感謝

「せめて期待の50%でも応じてほしいのに、それすらできない相手をどうすればいいのか?」 日々の生活の中で、そう問いたくなる瞬間があるかもしれません。

その答えは、「49%も応えてくれてありがたい」と考えることです。

相手のレベルが上がるのを腕組みして待つのではなく、自分自身の期待値を下げること。実はこれこそが、家族が円満に過ごすための第一歩なのです。 聖書が教える「愛」もまた、私たちが完璧だから注がれるものではありません。数え切れないほどの失敗や弱さを抱えたありのままの私たちを、神は「それでも良い」と赦し、愛してくださっています。その無条件の恩寵を知る者は、隣人の不完全さをも、寛容な心で静かに包み込むことができるのです。

本当の幸せのための、小さな手放し

相手への過度な期待を手放し、ありのままを受け入れることは、決して簡単なことではありません。自分の内なるエゴを捨てるという、小さな「犠牲」を伴います。 しかし、家族の本当の幸せ、そして何より自分自身の魂の穏やかな幸せのためならば、その犠牲は十分に払う価値があるものです。

階段に残された失敗の跡も、かじられた物も、すべては赦し合い、共に生きてきた確かな軌跡。 今日も、私たちは不完全なまま、互いの弱さを受け入れ合って歩いていきます。

今日も、共に前進です。

6月朝ラン合計410キロ完走

 https://www.relive.com/view/vQvxk4jPL9q

痛みを抱える夜明けの街で、見えない希望を信じて走る

六月最後の朝、重い身体を押して

六月最後の一日。午前四時、私はランニングのスタートを切りました。

昨夜は二十三時頃に娘を迎えに行き、寝たのはその後。わずか四時間の睡眠で、身体ははっきりと悲鳴を上げていました。「今日は休もうか」。そんな思いが頭をよぎりましたが、七月の月報「EL CAMINO」の『夜明けのランナー』欄に、「今日の二十五キロで六月は四百十キロでした」とすでに原稿を書き終えていたことを思い出したのです。

自ら記した言葉に背中を押されるように、私はランニングの支度をして薄暗い街へと走り出しました。

街の風景と、それぞれの「痛み」

今日のルートは、仙台市内を駆け抜ける二十五キロの道のりです。少しずつ元気を取り戻せていることに感謝し、仙台医療センターの前では静かに祈りを捧げながら通り過ぎました。そこから卸町、荒井駅、東高校前を抜け、広瀬橋を渡って帰路につきました。

走りながら、ふと街の空気に気づきました。ワールドカップのブラジル戦の結果は見ずに出たのですが、あちこちで群れになって歩く若者たちの肩を落とした姿から、敗戦の事実が痛いほど伝わってきたのです。彼らの心の中にある落胆。しかし、日本は着実に強くなっています。大切なのは、今の悔しさを糧にし、四年後の次なる舞台へ向けて期待と共に選手を育てていくことです。

そして私自身もまた、一つの痛みを抱えて走っていました。疲れのせいもあるのか、なかなか歯の痛みが消えないのです。数年に一度しか行かない歯医者に、今回はまとまって通うことになりそうです。明日まで様子を見て、もう一度行くことにしましたが、「どうか行かずに済むように」と素朴な祈りを心の中で繰り返していました。今日と明日は、身体のためにも本当の休息を取ろうと決めています。

人知を超えた守りと、信仰に生きる意味

スポーツの敗北による心の痛み、身体が発する悲鳴、そして病院で病と闘う人々の苦しみ。私たちが生きる世界には、さまざまな形の「痛み」が存在します。

時には、原因が分からないまま入院し、理由も判明しないまま回復していくという、人間の理解が及ばないケースに直面することもあります。しかし、そこには一つの確かな真理が隠されています。 それは、主が愛するご自分の民の小さな祈りに耳を傾け、必ず助け、守ってくださるということです。

  • 人間の弱さ: 限界のある身体、思い通りにならない現実

  • 神の真実: 理解を超えた癒やしと、確かな導き

私たちの人生は、自分の力だけでコントロールできるものではありません。だからこそ、私たちキリスト者は「信仰」に生きるのです。目に見える結果や、すぐに消えない痛みの中にあっても、見えない主の御手がいつも私たちを支え、回復へと導いてくださることを信じ抜くこと。それこそが、暗闇の中で希望の灯りをともし続ける力となります。

今日という日を、精一杯に

疲労困憊の身体で駆け抜けた二十五キロ。悲鳴を上げる身体も、消えない歯の痛みも、若者たちの悔しそうな背中も、すべてが「今を生きている」という確かな証です。

痛みを抱えながらも、与えられた命の温もりに深く感謝し、今日という一日を精一杯に生きていく。本当の休息の中で主の癒やしを待ち望みながら、私たちはまた新たな一歩を踏み出します。

昨夜22時半ごろ散歩から帰って来たごろの様子です。

今日も、共に前進です。

2026年6月29日月曜日

世界が燃えています

 


燃え盛る世界と、小さな食卓の灯り

茹だるような暑さと、それぞれの日常

今日も、本当に暑い一日でした。

パートの仕事を終えた妻が、先ほど帰宅しました。道のりの半分以上を歩いて帰ってくるその背中には、確かな労苦の跡が滲んでいます。歩くことは鍛錬にもなりますが、この厳しすぎる暑さの中では、かえって体にダメージを与えかねません。大雨の時や猛暑日には私が迎えに行くつもりでいますが、天候に合わせて無理なく帰ってきてほしいと願うばかりです。我が家のノアは、すでに夕食を済ませました。彼は食べる時が一番元気です。そして夜には、仙台でアルバイトをしている娘を迎えに行く約束をしています。

一方で私自身は、薬で歯の痛みを抑えながらの生活です。固いものを避け、柔らかいものをゆっくりと噛みしめる食事。不便ではありますが、「これもまた、ひとつの経験だ」と静かに受け止めています。

 

この場所は以前ノアの写真撮影の場でしたが、


半分以上が削られていました。愛宕神社です。

燃える世界と、報われない現実

ふと目を向けると、今の世界はさまざまな意味で「燃えて」います。

  • 体を燃やす熱気: ヨーロッパでは連日の猛暑により、多くの方が命を落とす事態となっています。
  • 心を燃やす情熱: ワールドカップの試合では、世界中の人々が国を背負い、心を燃やして声援を送っています。
  • 領土を燃やす戦火: そして悲しいことに、戦場では爆弾が相手の土地を、日常を容赦なく燃やし尽くしています。

心、体、そして武器。実に複雑で、息苦しくなるような世の中です。

私たちは皆、穏やかな人生と静かな生活を願っています。しかし、現実ははるか遠くにあります。今日も、数え切れないほどの人が、職場や学校、塾といったそれぞれの「戦場」で懸命に生きています。そして、その頑張りに見合った報いが得られず、人知れず苦しんでいる人がどれほどいることでしょうか。

 

避難所としての「家族」と小さな思いやり

外の世界がどれほど激しく燃え盛っていても、いや、燃え盛っているからこそ、私たちが帰る場所には「涼やかなオアシス」が必要です。

一日の激しい戦いを終えて帰ってきた家族を、どのように迎えるか。 快い笑顔、美味しい料理、そして温かい言葉。それらの一つひとつが、傷ついた心と体をどれほど深く励ますことでしょうか。

聖書に、このような言葉があります。

「互いに重荷を負い合いなさい。そうすれば、キリストの律法を全うすることになります。」(ガラテヤ人への手紙 62節)

自分の痛みや苦労ばかりに目を向けるのではなく、ほんの少しだけ、目の前の家族を思いやる。その「小さなこと」こそが、互いの一日の疲れを癒やし、明日を生きるための命の水となるのです。

 

明日へ向かうための灯り

痛みの中で食べる柔らかい食事も、妻の歩く帰り道も、ノアの元気な食べる姿も、夜の仙台へ車を走らせる時間も。 すべては、私たちが共に重荷を負い合い、愛という灯りをともし続けるための大切なプロセスです。

世界がどれほど複雑でも、私たちの手の中にある小さな灯りを絶やさない限り、私たちはまた歩き出すことができます。先ほど、久々にキャロットパウンドケーキを焼きました。

今日も、共に前進です。