午前1時の階段と、約束されていない明日:この「今」を精一杯に愛し抜く
午前1時。深い静寂に包まれた家の中に、トントンという微かな足音が響きました。 愛犬ノアが、自分の脚でしっかりと階段を下りてきたのです。
その姿は、昨日見た姿と全く同じでした。昨日と同じように元気な姿を、今日も同じこの目で見ることができる。それは当たり前の日常の風景のようでいて、実は震えるほどの「奇跡」なのだと、その歩みを見つめながら深く実感しました。ただただ、ありがたいことです。
「同じ明日」という錯覚
私たちは無意識のうちに、「昨日と同じ今日」があったのだから、「今日と同じ明日」も当然のようにやって来るものだと信じて生きています。
しかし、命あるものの歩みにおいて、それは決して確約されたものではありません。 明日もまた、今日と同じ姿で、元気に自分の脚でこの階段を降りてきてくれるとは限らないのです。突然足がすくむ日もあれば、立ち上がれない日も来るかもしれない。それは私にも、誰にも分からない、人間にはどうすることもできない領域のことです。
「いつまでも続くわけではない」という絶対的な事実。それは時に私たちを不安にさせますが、同時に、目の前にある命の尊さを鮮烈に照らし出してもくれます。
明日をゆだね、「今」を引き受ける
明日どうなるか分からないからこそ、私たちは心をどこに向けるべきなのでしょうか。 聖書は、私たちに極めて明確な生き方の指針を示しています。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書 6:34)
どうなるか分からない明日のことは、明日に、そして神の御手に完全にゆだねてしまうこと。そして、今目の前にある「今日の姿」を、全身全霊で受け止め、深い感謝とともに生きることです。
精一杯に、ただ精一杯に
決して、与えられたこの「今」という尊い時間を無駄にしてはいけません。 いつか振り返ったときに「もっとこうしていれば」と後悔することがないように、この瞬間をおろそかにせず、ただひたすらに、精一杯に生きるのです。
精一杯に、今を生きる。
精一杯に、目の前の命を愛し抜く。
精一杯に、家族や隣人を支え、助け合いながら生きる。
約束されていない明日を恐れて立ち止まるのではなく、確かな体温と手触りを持つこの「今日」という日を、ありったけの愛と感謝で満たしていくこと。それが、命を与えられた私たちの務めです。
今日も、共に前進です。

