『炎天の窓辺と、守りきれない命への祈り――すべての物事には「終わり」がある』
逃げ場のない熱気と、静かなる守り
容赦のない太陽が照りつけ、息を吸い込むことすらためらわれるような酷暑の空。今日は熱中症警戒アラートが発表されています。 この危険な暑さを前に、我が家のノアも今日から室内で過ごすことになりました。今朝、日差しが本格的に厳しくなる前にブラッシングをしてやり、涼しい部屋の中へ。午前中、彼は安心しきった様子で気持ちよさそうに深い眠りについていました。その穏やかな寝息を聞きながら、私はふと、人間だけでなく、すべての生き物にとって「守られるべき安全な場所」がいかに必要であるかを噛み締めていました。
窓の外のランナーと、かつての私
部屋の窓から外の焼け付くようなアスファルトを眺めていると、さらに暑さの増す時間帯に、じっとりと汗を流しながら走っている人の姿が目に入りました。
長距離を走ることの苦しさと喜びを知る者としても、この危険な暑さの中を走ることは「とても真似できない」と畏敬(?)の念すら覚えます。と同時に、私自身の過去の記憶が静かに蘇ってきました。かつての私は、このような一番暑い時間帯に、あえて外へ出かけていくような人間でした。
「どこかで熱中症で倒れている人はいないか」 そう思い、見回りをして歩いた時期があったのです。若さと、何とかして人を救いたいという正義感(?)。(ただの趣味かも)しかし年月を重ねた今の私は、涼しい部屋の窓辺からその景色を眺め、「こういう日は家の中で静かに過ごすことだ」と自らを戒めるようになっています。それは単なる老いではなく、自分自身の「限界」を静かに受け入れるという、もう一つの成熟の形なのかもしれません。
守りきれない命を前にして
しかし、家の中で静かに過ごすことができるのは、それが許された環境にある人だけです。 連休が明け、明日からはまた、容赦のない暑さの中を職場へ、清掃やメンテナンスのバイト先へ、あるいは医療や福祉の実習先へと、重い足取りで向かう人々が大勢います。社会の営みは、天候に関わらず止まることはありません。
世間は冷たく「自分の身は自分で守る」と言います。 けれど、果たして世の中のすべての人が、自分の力で自分を守れるのでしょうか。自ら助けを呼ぶ力すらなく、危険な環境から逃れられない小さな命や、孤立して助けてくれる人もいない環境に置かれている人々がいます。かつてのように見回りに飛び出していくこともできない今の私は、窓辺から祈るしかありません。「どうすればよいのでしょうか」という深い無力感が、胸の奥に重く沈み込みます。
始まりがあれば、終わりがある
私たちの抱える無力感や、永遠に続くかと思われるような苦しみに対して、神様がこの世界に定めた一つの「普遍的なルール」があります。
2026年のワールドカップも、スペインの優勝という形で幕を閉じました。あのような世界中を熱狂させた華やかな祭典であっても、必ず終わりが来ます。「始まりがあれば、終わりがある。」
これは、決して抗うことのできないこの世のルールです。伝道の書が「天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と語るように、すべてのものには期限が設けられています。
華やかな祭典の終わりを惜しみ、涙を流す人がいる一方で、この危険な酷暑や、今まさに置かれている過酷な環境の「終わり」を、切実に、ただひたすらに願って耐え忍んでいる人々がいます。
- 終わるからこそ、美しいものがある。
- 終わるからこそ、耐え抜ける苦しみがある。
私たちが自分の力ですべての人を守りきれないとき、私たちはこの「終わりを定めてくださった神様」の御手に、守りきれない命を委ねます。永遠に続く悲しみも、永遠に続く痛みもありません。神様は必ず、最もふさわしい時に、その苦難に「終わり」という名の救いをもたらしてくださいます。
私たちが今日できることは、目の前にいる大切な命のブラッシングをしてやり、安全な場所を守ること。そして、明日、過酷な現実(職場や実習先)へと出ていく人々のために、涼しい窓辺から静かに、しかし熱烈な祈りを捧げることではないでしょうか。
自らの限界を知り、それでもなお、神様が必ずこの苦しい時間に「終わり」をもたらしてくださるという真理に希望を託して。
今日も、共に前進です。
