2026年4月28日火曜日

大学礼拝(五橋キャンパス)



説教題:「余白」という名の自立 ―― 100点満点を目指さない勇気

聖書:レビ記 19910節/讃美歌11番-1、2節、頌栄541

新しい年度が始まり、少しずつ新しい環境に慣れてきた頃でしょうか。それとも、まだ「何かしなければ」と心が急いているでしょうか。今の時代、私達は「効率」という神様に支配されているようです。どれだけ短時間で成果を出すか、どれだけ無駄を省いて自分をアップデートできるか。スマホを開けば、常に誰かと自分を比べ、100点満点の人生を「刈り尽くそう」と必死になっています。しかし、そうやって効率を突き詰め自分の人生を100%埋め尽くそうとすればするほど、不思議な事に、私達の心はかえって孤独になり余裕を失っていきます。今日読んだ聖書の言葉は、約3000年以上も前の、農業に関するルールです。神様は言われました。「収穫するとき、畑の隅っこまで全部刈り取ってはいけない。落ちた穂も拾い集めてはいけない。それは、助けが必要な人の為に残しておきなさい」と。現代の経済学や効率から考えれば、これは「もったいない」事かもしれません。全部刈り取って倉庫に入れ、困っている人が来たらそこから分けてあげる方が、衛生的で効率的です。 しかし、神様はあえて「畑に残せ」と命じられました。



そこには二つの意味があります。一つは、助けが必要な人の「プライド」を守る為です。誰かに頭を下げて恵んでもらうのではなく、自らの手で穂を拾うという「労働」を通して、その人が自分の足で立つのを助けるためです。そしてもう一つは、持っている側の「傲慢」を防ぐためです。自分の力ですべてを手に入れたと思うのではなく「この実りは自分だけのものではない」という「余白」を持つ事で、私達は初めて、他者と共に生きる準備ができるのです。大学生活において、あるいはこれからの人生において、本当の意味で「自立」して生きるとはどういう事でしょうか。それは、自分一人で完璧に何でもこなせるようになる事ではありません。本当の自立とは「自分は完璧ではない」ことを認め、同時に「他人の助けを借りる自分」を許せるようになることです。

自分の人生の畑を、自分の成功だけで100%埋め尽くさないでください。 隅っこを残しておいてください。 その「余白」があるからこそ、そこから新しい出会いが生まれ、誰かと支え合う力が湧いてくるのです。私は週4回長距離を走っていますが、全力疾走だけで42キロを走り抜くことはできません。どこかで力を抜き、呼吸を整える「余白」があるからこそ、遠くまで行くことができます。皆さんの人生も同じです。 20代の今は、何かを成し遂げなければと焦るかもしれません。しかし、神様はあなたが100点満点の収穫」をあげることよりもあなたが「神様の前に、一人の自由な存在として、呼吸していること」を喜ばれます。


「隅っこまで刈り取らなくていい。足りない部分があってもいい。そこには神様が備えてくださった恵みが、必ず落ちているから。」とのことです。この4月、無理に自分を完璧にしようとしないで下さい。その隙間から、本当の希望と、一生続く仲間との絆が始まります。 神様は、そんなあなたの「ありのままの歩み」を、今日も見守っておられます。 

先日の大学礼拝説教(土樋キャンパス)

 


題名:「足もとのランプ、明日への光」 /讃美歌5011節/頌栄541

聖書:詩編 119 105節/あなたの言葉は私の足の灯/私の道の光。

4月も終わりに近づき、新しい生活の緊張が少しずつほどけてくる頃だと思います。でもその一方で、ふとした瞬間に胸の奥から「この先、自分はどうなるんだろう」そんな小さな不安が顔を出す時期でもあります。大学生活はある意味、自由で、可能性に満ちていると思います。けれどその分、未来が見えなくて不安になることもあります。友達関係、将来の進路、自分の価値、夢と現実のギャップ。夜、一人で考え込んでしまうこともあるかもしれません。少し想像してみてください。夜中に目が覚めて、喉が渇いたとします。 部屋は真っ暗です。 そのとき、皆さんはどうしますか?

手探りでスマホを探し、ライトをつける方がいるかもしれません。 あの小さな光が足もとを照らすだけで、 私たちは安心して一歩を踏み出すことができます。人生も同じです。

 


私たちはつい、10年後、20年後の「大きなゴール」を照らしてほしいと願います。

「就職はどうなるんだろう」「自分は何者になれるんだろう」「この選択で大丈夫なんだろうか」でも、人生という道には、スタジアムを照らすような強力なライトはありません。 未来全体を一気に照らしてくれる光は、ほとんどないのです。今日の聖書の言葉はそんな私達に語りかけます。「あなたの言葉は私の足の灯/私の道の光。」この詩が書かれたのは街灯も電気もない時代。人々が手にしていたのは、オイルを入れた小さなランプでした。そのランプが照らせるのは、ほんの一歩先――足もとの小さな範囲だけです。けれど、そこに大切な真理があります。神様は、「人生の全行程が見渡せるサーチライト」 を与えるのではありません。そうではなく、今日、踏み出すべき一歩を照らす小さなランプを そっと手渡してくださるのです。

大学生の皆さんが抱える不安の多くは、 「先が見えないこと」から生まれます。

でも、先が見えないのは、 皆さんが弱いからでも、間違っているからでもありません。

人生は、一歩踏み出すたびに、その先の景色が見えてくるようにできているからです。

神様は「10年後のあなた」ではなく、今日のあなたに必要な光を与えてくださいます。

現代の私達はGoogle Mapsに慣れています。目的地を入力すれば、最短ルートも到着時間も全部わかる。でも、心の問題や「生きる意味」については、 どんなアプリも答えをくれません。聖書の御言葉が照らすのは、最短ルートではなく、あなたの心そのものです。

たとえば、:友達と比べて落ち込んでいる時、御言葉は「あなたはあなたのままで尊い」という光を置きます。失敗して立ち止まっている時、御言葉は「そこが終点ではない。

もう一度立ち上がっていい」という光を置きます。

神様は、成功した未来のあなたではなく、迷いながら生きている今のあなたを愛しておられます。だから、今日踏み出すその一歩がどんなに小さくても、それは神様の光に照らされた、価値ある一歩なのです。皆さんの前には、まだ見たことのない素晴らしい景色が広がっています。 一度に、全部見ようとしなくて大丈夫です。

神様が照らしてくださる「今日という一歩」を、大切に踏み出していきましょう。

変わりゆく風を読み、変わらない愛を刻む

 


変わりゆく風を読み、変わらない愛を刻む ―― 33キロの朝に思うこと

朝焼けが連れてくる、新しい季節の予感

午前四時を過ぎると、杜の都・仙台の空はしらじらと明けてきます。今朝は四時半にシューズの紐を締め、走り出しました。まだひんやりとした空気が頬をなでる、静かなスタートです。長町から五橋を抜け、眠りから覚めきらない仙台駅前を通過。榴岡公園の木々の間を走り、卸町の市場から荒井の田んぼ道へ。目の前に広がるのは、都会のビル群から瑞々しい田園風景へと移ろう、鮮やかなグラデーションです。

三十三キロ、三時間弱。身体がリズムに乗り、地面を蹴る感触が心地よい完走でした。今はまだ、水を用意しなくても走りきれる爽やかな気候ですが、足元には確実に「次の季節」が近づいているのを感じます。


 


「今まで通り」が通用しなくなる時

五月に入れば、状況は一変します。気温が上昇し、昨日までと同じペースで走れば、身体は悲鳴を上げるでしょう。これからは「水」を携帯し、上昇する熱に注意を払い、時には山際での熊の気配にも神経を尖らせなければなりません。

私たちは人生においても、つい「今までこうだったから」という慣習に頼って走り続けてしまいます。けれど、季節が変われば、走り方も変えなければなりません。自分の体力、環境の変化、目に見えないリスク。それらを無視して猛進することは、勇気ではなく「無謀」です。「注意して走る」ということは、弱さの証ではありません。それは、与えられた命という器を大切に扱い、目的地まで確実に届けるための「知恵」であり、「誠実さ」なのです。


 


自分を整えることは、誰かを愛すること

聖書は、私たちの体を「聖霊の宮」として大切にすることを教えています。そして、主はこう語られます。

「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」(マタイによる福音書 6:33

私たちが今日も、主のために、家族のために、そして出会う人々のために精一杯生きようと願うとき、まず私たちがすべきことは「自分を健やかに保つこと」です。 自分が乾ききっていては、誰かに水を分かち合うことはできません。自分が疲弊しきっていては、笑顔を届けることもできません。これからやってくる厳しい暑さに備えて水を備えるように、私たちの心にも「愛」と「忍耐」という蓄えが必要です。特別な何かを成し遂げなくてもいい。ただ、少しの笑顔を。目の前の人への、小さな親切を。その「一滴の愛」を絶やさないために、私たちは日々、自分の歩みを点検し、整えていく必要があるのです。


 


笑顔という「心の潤い」を携えて

走り終えた今の私の心には、三十三キロを走り抜いた達成感と共に、今日という一日をどう彩るかという静かな決意があります。

あなたの周りの「季節」も、今、変わりつつあるかもしれません。少し体が重いと感じるなら、休んでもいい。喉が渇く前に、心に潤いを与えてあげてください。

今日という舞台。主のために、大切な誰かのために。少しの笑顔と、柔らかな愛を持って。その一歩が、誰かの心を温める光になりますように。

今日も、前進です。

2026年4月27日月曜日

『今』という一歩を踏みしめて

 


『今』という一歩を踏みしめて ―― ノアの階段が教えてくれたこと

夜明け前の安堵と、一日の「本当の」終了

四時間の眠りから、目覚めました。頭の片隅には、まだ昨夜の仕事の続きが残っていましたが、何よりも先に、ノアの散歩を済ませる。(私が、目が覚めて1階で動き出すことを彼はいつも感じ、散歩の準備をしているので・・・)それが最初に目覚めたときのルーティンです。夜明け前の空気は冷たく、静寂に満ちています。ノアの呼吸と、私の足音だけが響く散歩道。こうして無事に散歩を終え、玄関の鍵を開ける瞬間、私は深い安堵感を覚えます。この世界が、今日も何事もなく無事に一日を終えようとしていること、そのことに、ただ、感謝しかありません。




老犬の後ろ姿に、命の鼓動を見る

帰宅すると、ノアはいつも通り、一人で階段を上っていきます。そして二度寝。私は少し仕事をしてから二度寝し、3時に起床してランニング。

「写真からAIで動画を作ってみました。ノアのゆっくりとした、でも確かな足取りが再現されていて、私自身の心も温まりました」

飲み込んだ言葉のゆくえ

 


飲み込んだ言葉のゆくえ ―― すべてを打ち明けられる「最高の友」

満堂の礼拝堂、それぞれの視線の先で

今日は東北学院の土樋キャンパスでの礼拝でした。伝統ある会堂に足を踏み入れると、そこは溢れんばかりの人々で埋め尽くされていました。壇上から見渡すと、そこには実に多様な「時間」が流れています。真っ直ぐにこちらを見つめ、一言も漏らすまいと耳を傾けている人。手元の何かに意識を奪われ、心ここにあらずといった様子で座っている人。  そして、「聞いている振り」という、大人なら誰もが身につけてしまう器用な仮面を被っている人……。その光景を見ながら、私はふと思いました。この会堂を埋めている何百人という人々の中で、今日、自分の心にある「本当の言葉」を誰かに話せた人は、果たしてどれくらいいるのだろうか、と。


 


「本当の自分」は、どこにいるのか

人生という長い道を行く中で、私たちは「言いたいこと」をすべて口にしながら生きることはできません。大切な人を傷つけないために、あえて本音を飲み込んで我慢する。場を丸く収めるために、心にもないお世辞を言う。時には自分を守るために嘘をつき、時には震える声で真実を語る。

私たちは皆、そんな矛盾の塊のような日々を過ごしています。冷たい言葉を吐いてしまった自分も、優しくありたいと願う自分も、どちらも嘘偽りのない「自分」です。しかし、そんな断片的な姿をつなぎ合わせても、なかなか「本当の自分」という全貌は見えてきません。ふと、寂しさに襲われる夜。あなたは誰に、その心の底にあるドロドロとした本音を打ち明けていますか?家族でしょうか。親友でしょうか。あるいは、長年寄り添ったパートナーでしょうか。どれほど親しい仲であっても、「これを言ったら嫌われるかもしれない」「心配をかけてしまう」という配慮が働き、結局は「一番言いたいこと」だけを、また心の一番深い場所に沈めてしまう……。そんな孤独を、私たちは抱えてはいないでしょうか。




文句なしに聞いてくださる「最高の友」

しかし、そんな私たちには、一人の「最高の友人」がいます。  それは、主イエス・キリストというお方です。聖書の中で、イエス様は私たちを「僕」ではなく「友」と呼びました。 「友」とは、対等であり、隠し事をせず、互いの弱さを知った上で、それでも共にいることを選ぶ関係です。

このお方の前では、私たちは「聞いている振り」をする必要はありません。「聖い人」である必要も、「強い人」である必要もないのです。汚い不平不満も、誰にも言えない恨み言も、情けない自分の姿も、主はすべて「文句なしに」受け止めてくださいます。あなたが言葉にならない溜息を吐くとき、主はその溜息の理由を、あなた以上に知っておられます。主は、あなたの話を聞いて「あきれる」ことも「裁く」こともしません。ただ、あなたの魂が静まるまで、じっと寄り添い、背中をさすってくださる。そんな「本当に良い友人」が、私たちの傍らには常にいてくださるのです。


 


独りじゃない、その確信から

今日、土樋キャンパスの会堂にいた何百人という人々。その一人ひとりが、主の前ではたった一人の「かけがえのない友」です。誰にも言えない言葉で、胸が苦しくなっていませんか?「本当の自分」を見失って、迷子になっていませんか?もしそうなら、今夜は一人の静かな場所で、その「最高の友」にすべてを話してみてください。格好をつける必要はありません。そのお方は、あなたのどんな言葉も決して拒むことはありません。すべてを打ち明け、心の荷物を主の前に下ろしたとき、あなたの魂には再び、新鮮な空気が流れ込み始めます。「自分を分かってくれるお方がいる」――その確信こそが、明日という坂道を上るための、最大のエネルギーになります。

さあ、肩の力を抜いて。  最高の友と共に、また一歩。

人格は“一夜の奇跡”ではなく、“日々の積み重ね”から生まれる

 


🌱 人格は一夜の奇跡ではなく、日々の積み重ねから生まれる

迷いの多い現代を生きる私たちにとって、何が本当の確かな羅針盤になるのか?

知識として「知っている」ことと、それが「人格」として血肉になることの間には、大きな隔たりがあります。 人は一夜にして聖人にはなれません。 日々の小さな選択、出来事の受け止め方──その一歩一歩が、長い年月をかけて心の奥に地層のように積み重なり、人格という形をつくっていくのです。

そしてそれは、わたしが続けている ランニング とまったく同じです。 一日でフルマラソンの脚はできません。 毎日の積み重ねが、やがて大きな力になる。



🏃‍♂️ 魂の基礎体力をつくる3つの習慣

以下の聖句は、まるで魂のトレーニングメニューのようなものです。

「いつも喜びなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」 (テサロニケ一 5:16–18

1. 「喜び」を選ぶ習慣

喜びとは、良いことが起きたから笑う反応ではなく、 どんな状況でも主が共におられる事実に目を向ける 意志の力 です。

2. 「祈り」を呼吸にする習慣

絶えず祈るとは、困った時だけ神に叫ぶことではありません。 平穏な時も、ランニングや散歩の途中も、台所でも、 主と語り合いながら歩くこと。 孤独な場所が、祈りによって愛の国へと変わっていきます。

3. 「感謝」を感度にする習慣

走れる体があること。 家族と食卓を囲めること。 今日も目覚められたこと。 当たり前のようで、実は奇跡のような恵みに気づく感度。 この 「感謝の筋力」 が、不満という霧を晴らしてくれます。



🌿 学習ではなく、生き方の集積

現代は効率や成果ばかりを求めますが、 本当の平安や希望は、教科書を読んで身につくものではありません。

  • 配慮のない言葉を受けたとき、あえて一呼吸おいて祝福を祈る。
  • 思い通りにいかない時、「これも主の導き」と受け止める。
  • 足りないものではなく、与えられているものを数える。

この泥臭く、しかし誠実な 日々の反復 が、 私たちを少しずつ造り変え、 「神の国の住人」としての人格を形づくっていくのです。

一夜にして変われないからこそ、 今日という一日の積み重ねが、こんなにも尊く、価値あるものになる。 そのことを、あらためて深く思わされます。

裁く座を降りて、「愛の国」へ踏み出す

 


裁く座を降りて、「愛の国」へ踏み出す ―― 法治国家の限界とその先

私たちは、何に「支配」されているのか

現代社会は「法治国家」と呼ばれます。法の下に人は平等であり、正義は法律によって守られる――。それが私たちの信じている理想の姿です。しかし、今のニュースを見渡し、あるいは最近流行の映画やドラマを眺めてみてください。そこで描かれているのは、本当に「平等な法」でしょうか?

そこにあるのは、法を巧みに操って自分の利益を守る者、法を無視して私的な「復讐」に燃える者、そして、誰かを法廷の座に引きずり出すことに執着する人々の姿ではないでしょうか。法という立派な器がありながら、その中身は「ねたみ」や「憎しみ」というドロドロとした感情で溢れている。これが、私たちが生きる「罪ある世界」の切実なリアリティです。


 


「自分が神になる」という罠

なぜ、法があるのに争いは絶えないのでしょうか。それは、人間が「法の前に立つ一人」であることを忘れ、いつの間にか「法の上に君臨する君主」になろうとするからです。

「あいつは許せない、裁かれるべきだ」 「自分には、相手を罰する権利がある」

そう思った瞬間、私たちは自分の心を「法廷」に変え、自分が裁判官の席に座ってしまいます。しかし、不完全な人間が人間を裁こうとすれば、そこには必ず歪みが生まれます。復讐劇がなぜこれほど人気を得るのか。それは、私たちが「自分の手で決着をつけたい」という傲慢な本能を抱えているからに他なりません。動物にはない、人間だけが持つ「知恵」と「自由」を、私たちは誰かを攻撃するための武器として使い古してはいないでしょうか。


 


「被造物」という本来の身分へ

この閉塞感から抜け出す道は、意外なところにあります。それは、**「自分は造られた存在(被造物)である」**という、本来の謙虚な身分を思い出すことです。

私たちは、自分の命を自分で作ったわけではありません。この美しい春の色も、吸い込んでいる空気も、すべては創造主である神様から与えられたギフトです。 「自分が支配者だ」という勘違いを捨て、大きな愛で私たちを造られた神様の御心に目を向けるとき、景色は一変します。

法が「罰する」ためのものだとしたら、神様の愛は「生かす」ためのものです。不完全な人間が作った法に、自分の人生のすべてを委ねる必要はありません。私たちは、もっと大きな「神の国」のルール、すなわち「愛が支配する国」の住人として生きる道を選べるのです。


 


あなたは、誰の物差しで歩みますか?

今日も、誰かの言動に腹を立てたり、理不尽な扱いに復讐心を燃やしたりする瞬間があったかもしれません。しかし、その「裁きの座」に座り続けることは、あなた自身を一番疲れさせてはいませんか? もし今日、その座を降りて、「私は神様に愛され、生かされている被造物の一人に過ぎない」と認めることができたら。 そして、「法」よりも高い場所にある「神様の愛」を羅針盤にして一歩を踏み出せるとしたら。そこには、どんな復讐劇も、どんな厳格な法律も与えることのできない、圧倒的な「自由」と「平安」が待っています。


 


境界線を越えて、光の中へ

神様の国を目指すとは、この地上の法を軽視することではありません。むしろ、法という冷たい枠組みの中に、愛という体温を吹き込んでいく生き方です。誰かを裁くエネルギーを、誰かを愛し、受け入れるエネルギーに変えていく。たとえ裏切られても、主がそうであったように「赦し」というグローバルな力で応えていく。 その道は、時には自分のプライドを捨てる「犠牲」を伴うかもしれません。しかし、その先にこそ、私たちが本当に求めていた「希望の光」が差し込んでくるのです。

さあ、自分を縛っていた「復讐」や「ねたみ」の鎖を主の前に下ろし、今日から新しい国の住人として歩き始めましょう。

今日も、前進です。

2026年4月26日日曜日

🎬 揺れるイスと、揺るがない恵み

 


🎬 揺れるイスと、揺るがない恵み

先日、家族そろって映画館に行きました。 観たのは、娘のリクエストによるコナン映画。しかも4DX。 イスが揺れ、水しぶきが飛び、風が吹きつける── 映画というより、もはやアトラクションのような体験でした。家族全員で映画館に行くのは、気づけば56年ぶり。 スクリーンの明かりに照らされる横顔を見ながら、 「こういう時間も、恵みだな」と静かに思いました。

 


今日の説教の冒頭では映画の内容には触れず、 4DX揺れるイスの仕組みだけを紹介しました。

「居眠りの季節がやってきたので、教会のイスにも4DX機能が欲しいですね」 と軽く笑いを誘いながら。講壇のスイッチを押すと、イスがガタガタ揺れ、 ついでに水まで噴射される── そんな教会、ちょっと面白いかもしれません。

でも同時に、こうも思うのです。

詩編には、 「主は愛する者に眠りを与える」 とあります。

礼拝中に眠ってしまう姿を見ても、 「この人は神さまに愛されているんだな」 と受け止められるようになりました。

揺れるイスよりも、 揺るがない愛のほうが、ずっと大切です。

 


今朝は22キロの朝ラン。 まだ空気は冷たいけれど、走るうちに汗が流れ、 身体が目覚めていくのを感じます。



510日の仙台国際ハーフマラソンが近いせいか、 最近はランナーの姿が増えてきました。 私は大会には出ませんが、 自分のペースで、静かに走り続けます。

走ることは、祈ること。 一歩一歩が、心を整えてくれる。

揺れる季節でも、 予定がいっぱいの月でも、 主にゆだねるとき、 私たちは自分の力以上の力で前へ進むことができます。今日も無事に礼拝が終わり、 こうして静かな時間が与えられていることに感謝します。来週の日曜日は、礼拝後に和歌山へ。 5月は予定でいっぱいですが、 そのすべてが恵みの時です。

2026年4月25日土曜日

「独りで上る階段」と「共に担う重荷」

 


「独りで上る階段」と「共に担う重荷」―― 限界の先に差す光

老犬の背中を見つめながら

今、ノアとの散歩から帰ってきました。夜の冷気が心地よく、静かに一日の終わりを告げています。玄関先で、老犬となったノアが、一歩一歩確かめるようにして自力で階段を上っていく。その小さくなった背中を見つめながら、私は深い感謝を覚えていました。

「手がかからなくて良かった」ということではありません。私たちはつい、自力で自分のことができる状態こそが「健康」であり「感謝すべきこと」だと考えがちです。もちろん、それは一つの真実でしょう。けれど、階段を上るノアの姿を見ながら、私の心には別の、もっと深い問いが浮かんできました。


 


「自立」という美談の裏側にあるもの

私たちは「誰にも迷惑をかけずに生きる」ことを美徳としていないでしょうか。しかし、人生の本質的な感謝とは、実は「どんな時にも、どんな場合にも助け合って生きること」の中にあるのではないでしょうか。

年老いた親を世話し、体の不自由な家族を支え、言葉の通じないペットに寄り添う。それは、決して綺麗事ではありません。時には、出口のない暗闇の中にいるような絶望を感じ、死にたくなるほどの疲れに襲われることもあります。現実に、介護の重圧に耐えかねて、共に命を絶ってしまう悲劇がこの社会には溢れています。

それが、私たちの「人間としての限界」なのです。愛したいのに愛せない。支えたいのに、もう腕が上がらない。そんな自分自身の限界に突き当たった時、私たちはどこに希望を見出せば良いのでしょうか。


 


暗闇に差し込む、まばゆいほどの光

この「人間の限界」を突破する力は、私たちの外側からやってきます。それこそが、主イエス・キリストの十字架の死と、復活の出来事です。

十字架は、私たちの絶望や無力さ、すべての暗闇を引き受けた場所でした。そして復活は、その暗闇がもはや終わりではないことを証明した光です。「もう一歩も歩けない」と座り込む私たちの暗い世界に、主の復活の光は、まばゆいほど強力に差し込みます。

この光に照らされるとき、私たちの視点が変わります。自分の力で頑張ることをやめ、命の源である主にすべてを委ねる。そこから、再び立ち上がるための「生きる力」と、明日を信じる「希望」が湧き上がってくるのです。これこそが、信仰によって与えられる真の祝福に他なりません。


 


守られて生きる、その秘訣を

一日の無事を感謝してベッドに入る時、私は思います。ノアが階段を上れたことも、私が今日を走り抜けたことも、すべては大きな御手の中に守られていた結果なのだと。

今、重い荷物を一人で背負い、夜の長さに震えているあなたへ。その限界は、神様の力が現れる「始まりの場所」です。 明日は、この厳しい時代にあって、いかにして私たちは守られ、平安のうちに生き抜くことができるのか。その「秘訣」を皆さんと共に探っていきたいと思います。今夜は、ただその重荷を主の前に下ろして、安らかにお休みください。

おやすみなさい。

「境界線」を溶かす愛

 


「境界線」を溶かす愛 ―― ダイアナの悲劇と、キリストのグローバルな死

走る道はローカルでも、空はつながっている

今朝も仙台の街を走りながら、ふと考えました。私の足が踏みしめているのは長町の確かな地面であり、吸い込んでいるのは杜の都の空気です。しかし、私の手元にあるスマホは世界中のニュースを瞬時に運び、私の着ているウェアは海を越えた異国でデザインされたものです。私たちは今、「グローバル」という大きなうねりの中に生きています。政治も経済も文化も、もはや国境という壁は透き通ったガラスのように薄くなりました。けれど、私たちの「心」はどうでしょうか。あるいは、私たちが集う「教会」という場所はどうでしょうか。世界がこれほどまでに繋がっている中で、私たちは自分たちの居心地の良い「ローカル(地域)」という殻に閉じこもってはいないでしょうか。


 


ある「グローバルな死」のジョーク

先日、インターネットで「グローバリゼーション(世界化)の定義」についての、皮肉めいたジョークを見つけました。それによれば、グローバルの象徴とは「ダイアナ皇太子妃の死」だというのです。

彼女はイギリス人でありながら、フランスのパリで亡くなった。 乗っていたのはドイツ製のベンツで、運転手はベルギー人。 追いかけていたのはイタリア人のパパラッチで、彼らのバイクは日本製。 彼女を救おうとした医師はアメリカ人で、使った麻酔剤は南米産。 そして、世界中から届けられた手向けの花は、オランダ産だった。

このエピソードを、韓国製のモニターで見つめ、カナダ人が書いた記事を、台湾製のマウスでクリックして読む。これこそが現代の姿だという笑えない話です。

しかし、この物語を笑って済ませられない理由が、私たち日本の教会、特に地方の教会にはあります。世界がこれほど混じり合っているのに、私たちの教会は「いつものメンバー」だけで完結し、外部の、あるいは世界の教会の痛みに無関心な「超ローカル」な存在になってはいないでしょうか。


 


究極のグローバル・イベント ―― 十字架

もし、この歴史上で最も「グローバルな死」を挙げるとすれば、それはダイアナ妃の悲劇ではありません。それは、二千年前のゴルゴタの丘で起きた、主イエス・キリストの十字架の死です。

イエスの流した血は、ユダヤという一地方のためだけのものではありませんでした。それは人種、国籍、性別、そして時代さえも超えて、全世界を包み込む神の愛の表明でした。神の愛以上に、この世界を一つにする「グローバルな力」など存在しません。

現代のビジネスの世界では、「世界化に適応できなければ生き残れない」と必死に変化を求めています。ならば、主イエスの死を土台とする教会が、いつまでも「自分たちのための閉じた場所」であって良いはずがありません。  教会を自分たちの「固定資産」や「思い出の場所」にしてしまうこと。それこそが、教会の歩みを止める最大のブレーキなのです。


 


あなたの「心の国境」を拓くために

では、私たちは、誰にでも開かれた心を持っているでしょうか。「開かれた心」を持つということは、単に愛想良くすることではありません。それは、時には自分の慣れ親しんだ快適さを手放し、異質なものを受け入れるという**「犠牲」**を伴うものです。自分たちの教会のルール、自分たちの好みの音楽、自分たちの心地よい距離感。それらを「誰かのために」差し出し、変えていく痛み。その犠牲の先にしか、本当の意味で世界と繋がる道はありません。教会は、今ここにいる人々の所有物ではありません。それは、まだ見ぬ誰か、遠く離れた場所で苦しむ誰かと繋がるための「ステーション(発着場)」であるべきなのです。


 


境界線を越えていく勇気を

自分のローカルな殻から抜け出すのは、怖さを伴います。しかし、主イエスがそうであったように、私たちが自らの境界線を一歩踏み出し、世界を「一つの活動領域」として捉え直す時、そこには今まで見たこともないような豊かな恵みの景色が広がっています。

今日、あなたの隣にいる人、あるいは画面の向こう側にいる知らない誰か。その人を「異邦人」としてではなく、同じ主の愛に包まれた「家族」として受け入れる準備はできているでしょうか。完璧である必要はありません。まずは、自分の「心の窓」を少しだけ開けて、外の風を入れてみる。その小さなしぐさが、世界を変える一歩になります。

今日も、無事に守られて感謝。

 

「限界」という名の、新しい扉

 


「限界」という名の、新しい扉 ―― 二人で歩む豊かさの始まり

足音が止まる、その場所で見えてくるもの

透き通るような五月の風が、仙台の街を吹き抜けていきます。今朝も走り出し、いつものように自分の呼吸と鼓動だけに耳を澄ませていました。長い距離を独りで黙々と進む時、ふと、ある一点で「自分の力だけでは、これ以上は一歩も進めない」と感じる瞬間が訪れます。それは、肉体の限界というよりも、魂の壁のようなものです。私たちは日頃、「自分の力で立ち、自分の力で成し遂げなければならない」という強い強迫観念の中で生きています。けれど、その「一人の限界」に突き当たった時、景色は一変するのです。


 


完璧主義という名の、孤独な牢獄

今の社会は、自立していること、何でも一人でこなせることを「強さ」と呼び、助けを求めることを「弱さ」と見なす傾向があります。美味しいものを食べても、どこか味が薄く感じてしまう。美しい花を見ても、心が曇ったまま動かない。そんな時、私たちは「もっと自分がしっかりしなければ」と、さらに自分を追い込んでしまいがちです。

しかし、自分という器の底が見えたその時こそ、実は、真の意味での「他者」や「神様」との出会いが始まる場所なのです。

一人の限界を知ることは、二人の豊かさを知る始まりである。

この言葉は、私たちに静かな、けれど革命的な勇気を与えてくれます。一人で頑張るのをやめたとき、そこには空いた「スペース」が生まれます。その隙間にこそ、隣人の手の温もりや、主の優しい吐息が流れ込んでくるのです。


 


倒れた時に差し伸べられる、もう一つの手

聖書の「コヘレトの言葉」は、こう語りかけます。

「一人は二人よりも良い。……もし倒れても、一人がその仲間を助け起こす。」(コヘレト 4910節)

「二人」とは、単に数のことではありません。それは、自分の不完全さを認め、他者の存在を必要とする「謙遜」という名の豊かさです。一人の力は一倍ですが、二人が手を取り合った時、その力は単純な足し算を超えていきます。一人が倒れそうな時、もう一人が支える。その「支え、支えられる」という命の循環の中にこそ、私たちが生きる意味が宿っているのではないでしょうか。

あなたが今、もし深い闇の中で「もう限界だ」と立ち止まっているのなら、どうかその限界を「敗北」と呼ばないでください。それは、あなたの人生に「二人目(主、あるいは隣人)」を招き入れるための、輝かしい招待状なのです。


 


呼吸を合わせ、共に歩み出す

今朝のランニングの終盤、私の背中をそっと押したのは、自分自身の意志ではなく、すれ違う人々の会釈であり、木々を揺らす風であり、何より、共にある主の臨在でした。

皆様。一人で抱え込まなくても大丈夫です。 あなたの限界のすぐ先に、あなたを助け起こそうと待っている「もう一つの手」が必ずあります。 「完璧な一人」を目指すのをやめて、「不完全な二人」として歩み始めませんか。その時、あなたの世界はもっと色鮮やかに、もっと芳醇な香りに満ちたものへと変わっていくはずです。さあ、肩の力を抜いて、深呼吸を一つ。主が整えてくださったこの新しい一日を、共に見つめていきましょう。

今日も、生きることです。