デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年6月18日木曜日

連載コラム応答編

 


連載コラム応答編:見えない声に耳を澄ませて——奉仕の喜びと葛藤、そして共に築く未来

これまでの連載コラムを通して、教会における「奉仕」と「報酬」のあり方について、聖書的な視点や文化的な背景、そして実務的な側面から共に考察を深めてきました。この連載に対し、本当に多くの読者の皆さまから反響をいただきました。「自分のこれまでの奉仕を見直す、良い立ち止まりのきっかけになった」「これまでタブーのように感じていた報酬について語ることに、勇気をもらった」「教会の中に、もっと感謝を伝え合う文化を育てていきたい」といった、前向きで温かいお声の数々に、筆者自身も深く励まされています。

その一方で、非常に率直で、切実な声も届いています。「奉仕は喜びであるはずなのに、長年続けているうちに、時折ひどく重荷に感じてしまうことがある」「自分から報酬の話題を出すことには、どうしても戸惑いや罪悪感を覚えてしまう」といったお悩みです。今回は応答編として、こうした「皆さまの生の声」にしっかりと向き合い、奉仕の現場にある光と影について共に考えてみたいと思います。

 

奉仕が「重荷」に変わるとき——葛藤への共感

まず第一にお伝えしたいのは、「奉仕を負担に感じる自分は、信仰が弱いのではないか」とご自身を責める必要は全くない、ということです。寄せられた声の中には、誰にも言えない疲労感や、自発的であったはずの奉仕がいつしか「義務」になってしまっていることへの苦しみが綴られていました。

教会の奉仕は、神様への感謝と愛から溢れ出る喜びの応答です。しかし、私たちが生身の人間である以上、肉体的な疲れや精神的なプレッシャーは必ず存在します。特に、特定の誰かに負担が偏ってしまったり、「やって当たり前」という空気が流れてしまったりするとき、本来の喜びは次第にすり減り、見えない葛藤へと変わってしまいます。皆さまから寄せられた戸惑いや疲れの声は、教会が単なる制度や無機質な組織ではなく、血の通った人間が集まる「生きた共同体」であることの何よりの証しなのです。

 

声に耳を傾け合う「キリストの体」

奉仕の現場には、目に見える喜びだけでなく、見えない葛藤や疲れが常に隣り合わせにあります。だからこそ、教会は奉仕者のその小さな「ため息」に敏感に耳を傾ける共同体でありたいと願います。「少し休みたい」「このままでは続けるのが苦しい」という弱音を、安心して吐き出せる安全な場所であること。それもまた、教会の大切な役割です。奉仕者が一人で重荷を抱え込むのではなく、互いに祈り、対話をもって支え合うとき、私たちは本当の意味で「キリストの体」として結び合わされていくのです。

 

「喜んで与える」ための聖書のメッセージ

聖書は、私たちに無理な自己犠牲を強いているわけではありません。パウロはコリントの教会への手紙で、「神は、喜んで与える人を愛してくださる」(コリント 9:7)と語っています。これは、「どんなに苦しくても無理をして与えなさい」という厳格な命令ではなく、「心からの自由な献げ物こそが、神様に喜ばれる」という温かいメッセージです。

また、マルコによる福音書12章に登場する「レプタ銅貨二枚を献げたやもめ」の姿を思い起こしてください。主イエスが彼女を称賛されたのは、献げた「量」や「立派さ」ではなく、彼女の「心の深さ」と「神への信頼」でした。奉仕も全く同じです。大切なのは、どれだけ多くの時間を割いたか、どれほど完璧にこなしたかではなく、それが「喜びのうちに捧げられているか」なのです。

 

持続可能な奉仕のために——休息と支援体制

すべての奉仕が「喜び」として捧げられ続けるために、教会は精神論だけでなく、具体的な環境づくりに取り組む必要があります。奉仕者が疲れ果てる前に心身を休める「休息の期間」を設けること。一人に負担が集中しない「交代制」を導入すること。そして、前回のコラムでも触れたように、必要に応じて「報酬」や「支援体制」を適切に整え、感謝を形にして表すことです。

教会が奉仕者に感謝を表し、具体的な支援の仕組みを整えることは、決して世俗的なことでも、信仰の弱さでもありません。それは、互いの労苦を尊び合い、共に神の国を建て上げる「共同体の成熟と一致」の美しい表れなのです。

この応答編が、今まさに奉仕の重荷を抱え、小さな葛藤の中にある方々の心に優しく寄り添い、教会の奉仕文化をより健やかで風通しの良いものへと育てる一助となれば幸いです。奉仕の喜びも、そして涙や疲れもすべて主の御前に差し出しながら、これからも祈りと感謝をもって、共にこの歩みを進めてまいりましょう。

大年寺山公園の散歩

 


画面を閉じて、石段を上る——「沈黙」という魂の深呼吸

喧騒から離れた、静かなる一日

昨日はふと思い立ち、「IT DETOX(デジタル断食)」を実施してみました。

スマートフォンやパソコンなど、すべての電子機器から距離を置き、ただ自然の中を歩き、その後は自分の部屋で静かな時を過ごす。世の中の絶え間ないニュースや、メディアが四六時中報じている無数の「声」から、あえて意識的に離れてみる一日です。

ランニングをお休みしたこの日、私は久々に大年寺山公園へと足を運びました。豊かな木々に囲まれた道を歩き、お寺や神社へと続く数多くの階段を、ゆっくりと上っていきました。画面の中の平坦な世界から抜け出し、自分の足で一段ずつ重力を感じながら石段を上るその時間は、見失いかけていた自分自身の呼吸を取り戻すような、とても清々しいものでした。

 


溢れる情報の波と、見失われる内なる声

現代の私たちは、常に何かの情報に接続されています。 世界中の出来事を瞬時に知ることができる便利さの一方で、私たちの心は絶えず他者の言葉や社会の不安に揺さぶられ、無意識のうちに深く疲労しています。大年寺山の静かな木漏れ日の中を歩きながら、私はひとつの確かな事実に気がつきました。それは、「外の世界の音が大きすぎると、自分の内側にある本当に大切な声が聞こえなくなってしまう」ということです。 何もしない空白の時間、ただ静かに歩く散歩の時間。そうした「余白」を日常の中に意図的に設けることが、今を生きる私たちにはどれほど必要なことでしょうか。

 


静かにささやく声を聞くために

旧約聖書の列王記の中に、預言者エリヤが神様と出会う美しい場面があります。 神様は、岩を砕くような激しい嵐の中にも、大地を揺るがす地震の中にも、燃え盛る火の中にもおられませんでした。すべての喧騒が過ぎ去った後、神様は「静かにささやく声(微かな細い声)」として、エリヤの心に触れられたのです。

私たちが真理と出会い、深い平安を受け取るのは、情報が溢れる騒がしい場所ではありません。自ら画面を閉じ、心の耳を澄ませたその「沈黙」の中にこそ、神様の静かな慰めの声は響き渡るのです。

 


新しいリズムを刻む

静かに散歩をし、階段を上る日を設けることができた昨日の喜びに、私は深く感謝しています。 この気づきを一時的なもので終わらせないために、私はこれからの日常に一つの新しいリズムを取り入れることにしました。

  • 毎週、月・水・金の三日間を「IT DETOX」の日にする

これは単に「インターネットを見ない」という制限ではありません。自分の魂を守り、静かな祈りと自己対話の時間を豊かに育むための、前向きで積極的な選択です。

もし今日、あなたが溢れる情報や誰かの声に少し疲れてしまっているなら、ほんの数十分でも画面を伏せ、窓の風を感じ、静かな時間を味わってみてください。情報から離れて作られたその小さな空白に、きっと温かな光が差し込んでくるはずです。



今日も、共に前進です。

連載コラム補足編



連載コラム補足編:見えない労苦に光をあてる——「奉仕と報酬」をめぐる誤解と希望

これまでの連載コラムでは、教会における「奉仕」の本当の意味、礼拝を支えるオルガニストの働き、そこに生じる報酬のあり方、そして私たちの根底にある文化的背景について共に考察してきました。連載を通して、多くの方から「自分の奉仕を見つめ直す機会になった」「今まで気づかなかった視点をもらえた」といった温かいお声をいただき、心より感謝申し上げます。さて、今回は補足編として、「奉仕と報酬」にまつわる誤解と、そこから開かれる希望について、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

 


「奉仕は無償であるべき」という固定観念の背景

日本の教会、あるいは広く日本の社会において、「奉仕(ボランティア)は無償であるべきだ」という考え方は非常に根強く存在しています。自分の時間や労力を対価なしに捧げる自己犠牲の精神は、キリスト教の「隣人愛」や、日本古来の「清貧」の美徳とも重なり、確かに尊く美しい信仰の姿勢です。しかし、その美しい理想が、時に見えない重荷となることがあります。「無償であること」が絶対のルールになると、専門的な技術や膨大な準備時間を要する働き(例えば、オルガン奏楽や特別な専門職など)を担う人々が、密かに疲弊していく限界を招くのです。

 


なぜ教会でお金の話は避けられるのか

それにもかかわらず、教会の中で「奉仕に対する報酬」の話題を出すことは、どこかタブー視されがちです。そこには、「お金の話をするのは俗っぽい」「報酬を求めるのは信仰が弱い証拠ではないか」という誤解や、謙遜を美徳とする文化的な遠慮が深く絡み合っています。奉仕者は「神様のためにしているのだから」と口をつぐみ、支える側も「信仰でやってくださっているのだから」と甘えてしまう。この無言のすれ違いが続くと、奉仕者は孤独を感じ、教会全体としての健全な成長が阻まれてしまうことがあります。

 

聖書が語る「労にふさわしい報い」

では、聖書はこの問題についてどのように語っているのでしょうか。実は聖書は、奉仕に対して報いが与えられることを決して否定していません。むしろ、明確に肯定しています。主イエスは、弟子たちを宣教の働きへと派遣する際、こう語られました。 「働く者が報酬を受けるのは当然である」(ルカによる福音書 10:7

これは、福音のために労苦する者に対して、共同体がその生活と働きを支えるべきだという、主イエスからの具体的な教えです。神様への純粋な献身と、共同体から正当な支え(報酬)を受けることは、決して矛盾するものではないのです。

 


対価ではなく「感謝と敬意の表現」として

ここで大切なのは、教会における報酬の捉え方を転換することです。一般社会の報酬が「労働の対価」や「労働力を買い取るもの」であるならば、教会における報酬は「見えない労苦に対する感謝と敬意の表現」です。礼拝で奏でられる美しい賛美の裏には、水面下での何時間もの個人的な練習と、技術を磨くための長年の歩みがあります。教会がその働きに対して報酬をお渡しすることは、奉仕者の心をお金で買うことではありません。「あなたの見えない労苦を知っています」「その重荷を、私たちも共に負わせてください」という、共同体としての愛と応答の形なのです。教会が奉仕者を適切に支えることは、共同体としての成熟の証でもあります。

 


対話と祈りから始まる、新しい奉仕の文化

大切なのは、最終的に報酬を「出すか、出さないか」という表面的なルールではなく、その背後にある「心のあり方」です。奉仕する者も、支える者も、互いに感謝と祈りをもって関わるとき、教会は「キリストの体」としての一致をさらに深めていきます。

そのためには、沈黙のヴェールを取り払い、透明性を持った対話が必要です。互いの遠慮や誤解を恐れず、「どのように支え合うのが最も良いのか」を、愛と祈りをもって話し合う土壌を育てていくこと。それこそが、健全で持続可能な奉仕の文化を築くための第一歩となります。この補足編が、皆さんの中にある小さな疑問や葛藤に温かい光を当て、教会内での健やかな対話の土台となれば幸いです。次回は、読者の皆様から寄せられた声に応えるかたちで、さらにこのテーマを深めていきたいと思います。 

Sさんを覚えての朝ラン

 


祈りを刻む24キロと、突然の立ち止まり——人生の「雨」を越える知恵

久しぶりの道と、夜明けの祈り

午前4時半。明るくはなっていますが、まだ深い静寂が支配する街へ、シューズの紐を固く結び、ランニングに出発しました。

 


今日選んだのは、ここ数ヶ月ほど足を踏み入れていなかった久しぶりのコースです。懐かしい景色を確かめるように一歩一歩を進めた今日の道のりは、ただのトレーニングではなく、一人の教会員の入院を覚えての「祈りのラン」でした。

人間の体は、時に思いもよらない突然の異変を告げることがあります。それは決して特別な誰かの出来事ではなく、今を生きる私たち全員に、いつ起こっても不思議ではない身近な現実です。だからこそ、その小さなサインに早く気づき、適切な措置を行うことが何よりも大切になります。どうか無事に原因が判明し、再び元気な姿を取り戻されますように。その切実な願いを天へと届けようと祈りながら、24キロの道のりを走り抜きました。

 


病の床で向き合う「魂の軌跡」

私たちが、自らの歩んできた人生の軌跡を最も深く、ごまかしのない目で振り返るきっかけとなるのは、いつもこうした「突然の病」や、立ち止まりを余儀なくされた時ではないでしょうか。健康で忙しい日々の中では、私たちはどうしても目の前のことに追われ、自分の内面を通り過ぎてしまいます。しかし、病の床という静寂の中で、魂は根源的な問いを投げかけてきます。

「これまでの自分の選択は、本当に正しかったのだろうか」 「心の中に、やり残した悔いはないか」 「自分の言葉や態度で、誰かを深く悲しませてはいなかっただろうか」

さまざまな角度から己の過去と現在を見つめ直すこの葛藤は、決して後ろ向きなものではありません。それは、取り繕うことのできないありのままの姿で主の御前に立ち、真剣に祈り、自分自身の本質と対話するための、極めて神聖で尊い時間なのです。

 


人生の「梅雨」を賢く歩む

天気予報では、これから本格的な梅雨の時期に入っていきます。 重く湿った空気が空を覆い、晴れやかな太陽が見えなくなるこの季節は、まるで私たちの人生に突然訪れる病や試練の時期のようです。しかし、雨が降らなければ大地が潤わず、木々が深く根を張れないように、人生の雨の時期もまた、私たちの魂の不純物を洗い流し、神様との関係をより深く根付かせるための恵みの雨となり得ます。聖書にも「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とあるように、立ち止まる時間には必ず深い意味が隠されています。

不確かな人生を歩む私たちが心に留めておきたいことがあります。

  • 突然の立ち止まりを恐れず、自分を見つめ直す「主の御前の時間」として受け入れること
  • 避けられない人生の雨季に対し、不平を言うのではなく、賢く乗り越える知恵を祈り求めること
  • 今、病や困難の中にある隣人のために、心を寄せて共に祈ること

 


これから迎える長い梅雨の季節。降り続く雨の音に静かに耳を傾けながら、この時期を賢く、そして豊かに乗り越える知恵を身に付けて歩んでいきたいと思います。

今日も、共に前進です。

2026年6月16日火曜日

連載コラム第4回「教会文化とこれからの歩み」

 


連載コラム 第4回:「教会文化とこれからの歩み」

  • 文化的視点
    • 日本の「無償奉仕」文化とその背景
    • ヨーロッパとの比較(職業としての教会音楽家)
  • 主な内容
    • 誤解を避けるための丁寧な説明と対話の必要性
    • 感謝と一致をもって、健全な奉仕のあり方を築く提案

 

教会文化とこれからの歩み:感謝と一致で織りなす健全な奉仕

日本の教会文化には、長年にわたり「無償奉仕」という価値観が深く根付いています。この背景には、戦後の相互扶助的な地域共同体の精神、古くから日本社会に存在する仏教的な「施し」の概念、そしてキリスト教における「献身」に対する独特の理解が複雑に絡み合っています。奉仕は、神への純粋な献げであり、それに対して物質的な報酬を求めるべきではない——この考え方は、信仰的に見て非常に尊いものであり、多くの教会員が真摯な心で奉仕に励んできた歴史があります。

 


しかし、目を世界に転じると、異なる教会文化が存在することに気づかされます。例えば、ヨーロッパの伝統的な教会では、教会音楽家やオルガニストといった専門職が明確に存在し、彼らはその高度な専門性と礼拝における重要な責任に見合った正当な報酬を受け取ることが一般的です。そこには、神に仕える才能豊かな働き手への深い敬意と、教会がその働きを経済的にも精神的にも全面的に支えるという、共同体としての成熟した姿が伺えます。彼らの奉仕は単なる趣味やボランティアではなく、信仰に基づいたプロフェッショナルな職務として位置づけられているのです。

 

このような対比を前にしたとき、日本の教会文化における「無償奉仕」の概念は、時に課題をはらむことがあります。特に、オルガニストのような専門的な訓練を必要とする奉仕や、教会の運営を支えるために多くの時間と労力を要する働きにおいて、「無償」であることの重みが、奉仕者自身の負担となり、結果として継続的な奉仕を困難にしてしまう可能性も否めません。奉仕者の生活が逼迫したり、専門性を高めるための投資ができない状況に陥ったりすることは、教会全体の奉仕の質を低下させかねません。

 

日本の教会においても、奉仕者の働きに対して感謝と敬意をもって応え、その労苦を具体的に支えることは、決して「世俗的」なことではありません。むしろ、それは、神が私たちに与えてくださった恵みを認識し、互いに支え合うキリストの体の健全な姿を現すものです。この点を巡る誤解や、心ない言葉によって奉仕者が傷つくことがないよう、教会全体として「報酬の意味」や「奉仕の本質」について、丁寧な説明と継続的な対話が必要です。奉仕者が報酬を受け取ることは、決して信仰の弱さを示すものではなく、むしろ教会がその奉仕をどれほど大切に思い、その働きをどれほど尊んでいるかの確かな証しであるという理解を深める必要があります。

 

これからの教会の歩みにおいて、私たちは「無償か有償か」という単純な二項対立で奉仕を捉えるのではなく、「感謝と一致をもって支え合う」というより包括的で健全な視点を育てていく必要があります。それは、奉仕者自身の献身的な心と、共同体がその献身を心から感謝し、具体的に支えるという、双方向の愛の循環を生み出すものです。

 

具体的な方法としては、例えば、奉仕にかかる実費の支給、専門的な働きへの謝礼の検討、あるいは奉仕者への定期的な慰労会の開催など、様々な形が考えられます。重要なのは、形よりも、奉仕者が「自分の働きが認められ、大切にされている」と感じられるような配慮と心遣いです。

 

奉仕する者も、その奉仕を支える者も、私たち全てが神の豊かな恵みに生かされていることを覚え、互いに支え合い、励まし合う中で、健全で喜びに満ちた奉仕のかたちを築き上げていくことが求められています。そうすることで、教会はより強固な共同体となり、神の愛を世に証しする力強い存在へと変えられていくでしょう。私たちが共に神の栄光を現すために、それぞれの賜物を喜びをもって捧げ、互いを尊ぶ文化を育んでいくことこそが、これからの教会の豊かな歩みを確かなものにするのです。

 


*今日も変わらず、買い物、料理、仕事、掃除、そして一休み……。 そんないつもの流れの中で、今日は春雨料理を作り、きゅうり漬けも仕込みました。

変わらない日々の営みを積み重ねながら過ごすこと。 その中で、喜びや平和、感謝、生き甲斐を見つけて歩むことが大切だと感じています。

つまり、日々の歩みの中で 「自分は何のために、誰のためにこれをしているのか」 その問いを心に覚えながら前へ進むこと。

それこそが、生きる価値を確かにしてくれる鍵なのだと思います。

今日も最後まで頑張って生きることです。

明日は、一日まるごと ITデトックスの日 にすることにしました。ちなみに金曜日も。

朝ラン33キロ完走

 


黎明の33キロと日常の目的——「何のために」という確かなる羅針盤

夜明けの涼風と、祈りの軌跡

午前3時半、心地よい静寂の中でノアとの散歩を終え、時計が4時を回るころ、私は一人ランニングへと走り出しました。

まだ街が深い眠りについている時間。夜明けの涼しい空気を全身に浴びながら、西公園方面へと足を進めます。そこから仙台の市内を通り抜け、榴岡公園へ。そして、仙台医療センターの前を通り過ぎる時、私の足取りは自然と祈りのリズムに変わります。「今日も、娘と学生たちが実りある学びの時を持てますように」。懸命に命と向き合う学び舎に向けて、静かな願いを放ちながら走り続けました。

サンピアの湯の横を抜け、いつもの広瀬橋を渡って家へ帰り着いたとき、今日の走行距離は33キロに達していました。

 


肉体の疲労と、魂の満腹感

33キロという距離を走り抜けば、当然のことながら肉体には重い疲労がのしかかります。これは決して避けられない代償です。しかし、荒い息を整えながら汗を拭う時、私の胸の奥にはいつも決まって「今日も走って良かった」という深い安堵と喜びが湧き上がってくるのです。体は限界まで空っぽになっているはずなのに、魂は満たされている。この逆説的な感覚を味わうたびに、ある一つの真理を悟ります。

「人はパンだけで生きるものではない」(マタイによる福音書 4:4

私たちの肉体は食べ物によって養われますが、それだけでは本当の満足感を得ることはできません。心が、魂が、目に見えない確かなもので満たされて初めて、人間は人間らしく「生きる」ことができる存在なのです。

 


日常のすべてを「光」に変える秘訣

今日も、息つく暇のない日常が続いていきます。 妻を仙台まで車で送り届け、その帰路にはドン・キホーテやロピアに立ち寄って買い物を済ませる予定です。季節はまもなく、重苦しい空気が漂う梅雨へと向かいます。愛する家族がこの湿り気を帯びた季節を元気に乗り越えられるよう、活力が湧くような料理のレシピを頭の片隅で練りながらハンドルを握ります。

 


食べることも、飲むことも大切です。遊ぶこと、のんびりと休むこと。そしてもちろん、働くことも、学ぶこともすべて、人生において欠かすことのできない大切な営みです。

しかし、それらの行為そのもの以上に重要なことがあります。それは、「何のためにそれをやっているのか」という根本的な目的を知り、自分の中心に据えて取り組むことです。

「食べるにしても、飲むにしても、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(コリントの信徒への手紙一 10:31

 


揺るがない信念が育む愛

スーパーで食材を選ぶという何気ない行為も、キッチンで料理をする時間も、家族を送迎する道のりも。それが「主なる神様の栄光のため」という羅針盤の先にある限り、ただの作業ではなく、尊い礼拝へと変わります。



この揺るがない信念こそが、疲れ果てた日であっても、教会の働きに喜びをもって仕え、愛する家族に変わらぬ愛を注ぎ続けるための最大の秘訣なのです。

  • 目の前の小さな作業の意味を、もう一度問い直すこと
  • 「誰かのため」の行動を、神への奉仕として昇華させること
  • パンだけでなく、魂を満たす時間を大切に守り抜くこと

今日あなたが手にする一杯の水も、誰かのために作る一食の食事も、すべては天へと繋がる尊い営みです。その小さな行いに誇りと喜びを抱いて、歩んでいきましょう。



今日も、共に前進です。

2026年6月15日月曜日

試合は2対2でしたね!

 


それぞれの朝、それぞれの自由 ── 共に生きるための「小さな配慮」という光

大年寺山公園の朝、それぞれの過ごし方

今朝は久しぶりに、大年寺山公園へ散歩に出かけました。 ひんやりとした早朝の空気を深呼吸しながら歩を進めると、いつもの場所に見慣れた風景が広がっていました。



いつも6時頃に集まっては、ラジオ体操をして持ち寄った軽食を共にしているお年寄りの方々。普段は67人ほどいらっしゃるのですが、今朝は4人でした。私がちょうどその前を通りかかったとき、ラジオから体操の音楽が流れていました。

しかし、その光景は少しユニークなものでした。

  • 体操をしていたのは、青葉区から愛宕大橋を渡って来られる小柄のおばあちゃんただ一人。(おそらく85歳にはなっただろうと思われますが・・・)
  • お二人は体操には参加せず、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
  • いつも車で仔犬を連れてくるおじいちゃんは、傍らで犬と無邪気に遊んでいる。

誰かが「体操の時間だから」と強要することはありません。それぞれが、それぞれのスタイルで自由に早朝の時間を味わっていました。その穏やかな風景を見て、私は心の中で「それでいいのだ」と深く頷いていました。規則に縛られず、個人の在り方が尊重される、心地よい自由の形がそこにはありました。

 


自由の裏側にある問いと、他者への想像力

しかし、歩みを進めながら、私の思索は「自由」という言葉のもう一つの側面に及んでいきました。公園の彼らのように、互いの境界線を優しく守り合う自由は美しいものです。けれど、私たちが生きるこの社会では、時に個人の「自由な行動」が、他者の「自由と平和」を奪ってしまうことがあります。

わがままな考え方や自己中心的な振る舞いが秩序を乱し、周囲の人の心に不愉快な影を落とす。私たちは皆、少しずつ違いを持った存在です。だからこそ、共に生きるためには「マナー」という名の他者への思いやりが不可欠です。

  • 少しだけ譲り合うこと。
  • 少しだけ相手の立場を理解しようと努めること。

それは、自分の命を投げ出すような大げさな犠牲ではありません。ほんの少しの、手のひらサイズの配慮です。しかし、その「少しの配慮」が欠けているがゆえに、不必要に傷つき、不愉快な思いを抱えなければならないことが多い時代でもあります。「共に生きられる世界」という理想の頂は、私たちが思うよりも、まだまだ遠い場所にあるのかもしれません。

 


不完全な世界を、それでも歩む

聖書の中に、このような言葉があります。

「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙51314節)

 


真の自由とは、他者を顧みない放縦ではなく、愛を持って互いに仕え合い、小さな配慮を贈り合う中にこそ宿るものです。

 


今朝の試合は「20で勝つ」という私の予想は外れてしまいましたが、結果は引き分け。それでも良かったのだと、今は思えます。選手たちはピッチの中で、決して諦めず、泥臭く頑張って戦い抜きました。

 


私たちの日常も、鮮やかな「完全勝利」ばかりではありません。配慮が欠けた世界に落胆し、理想とは程遠い現実に直面することもあります。まるで、引き分けの試合のように、スッキリとしない葛藤を抱える日々です。それでも、私たちは生きていきます。 公園のお年寄りたちがそれぞれのペースで朝陽を浴びていたように、違いを認め合い、ほんの少しの譲り合いを心に忍ばせて。不完全なこの世界で、それでも互いの平和を守るために奮闘する姿は、やはり尊いものなのです。

今日も、共に前進です。

支え合う力

 


衰えゆく器に宿る恵み ── 弱さが結ぶ、柔らかな絆

午前3時半、静寂の中の歩み

午前3時半。まだ夜の帳が深く降りた街に、冷涼な空気が満ちていました。 今日は資源ごみの回収日。両手に重みを提げながら、愛犬ノアと共に家を出ました。普段ならよく聞こえる隣の新聞配達屋さんの気配もなく、今日はお休みなのでしょう。私たちの足音だけが、静かなアスファルトに響いていました。

何気ない日常の反復。しかし、その静寂は不意に破られることになります。

 


リード越しに伝わる生命の脈動

散歩も終わりに近づき、そろそろ家に戻ろうとしていたその時でした。 突然、ノアがぐっと強い力で私を引っ張り、そのまま走り出したのです。 リードを握る手が持っていかれそうになるほどの、あの力強い躍動。 ノアの視線の先には、近くの闇の中でじっと身を潜めている猫の気配がありました。

高齢のはずのノアですが、今日は驚くほど元気に動きました。 彼の「嗅覚」は、昔と少しも変わっていなかったのです。 微かな匂いを鋭く捉え、周囲を油断なく見渡すその姿。

老いてゆく部分がある一方で、 一つの機能が衰えを知らずに働き続け、 全身を根底から支えている—— その生命のしなやかな強さに、私は深い感銘を覚えました。

 


私たちの「弱さ」に隠された真理

そのノアの姿を前にしたとき、ふと、翻って私たち人間の在り方に思いが至りました。

  • 人間は、なんと弱い存在なのだろうか
  • ノアのような、際立って他の衰えを補うほどの機能を持たない
  • すべての機能が、いわば仲良く揃って衰えていく

私たちは、自力だけで最期までまともな生活を送ることはできません。必ずどこかで誰かの手を借り、委ねなければ生きてはいけない存在として造られています。

しかし、この「弱さ」は決して欠陥ではないのだと、私は思うのです。

聖書にこのような言葉があります。

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。もし彼らが倒れるならば、そのひとりがその友を起きあがらせる。」(伝道の書 4:9-10

人は、一人では生きられません。すべてが均等に衰えてゆく脆い器だからこそ、私たちは互いに手を差し伸べ合い、欠けを補い合うことができます。人間の弱さは、他者との間に「愛」と「支え合い」という絆を生み出すための、神様からの意図的なデザインなのかもしれません。

 


日常という名の祭壇で

今日はランニングはお休みです。 その代わり、朝食のための料理をゆっくりと作ることにしました。食材を刻む音、火を入れる温もり。料理を作ることもまた、誰かを──そして自分自身をも──生かし、支えるための小さな、しかし確かな行為です。

私たちは自力では立てない、弱い存在です。 だからこそ、今日も誰かの力を借り、誰かの力となりながら、この世界を歩いていくのです。

 


おお、まもなくキックオフですね! 日本 vs オランダ、2–0で勝つイメージ、しっかり描いておきます。その勝利が、日本中の人たちに元気な一日をもたらしますように。

 

今日も、共に前進です。

2026年6月14日日曜日

食卓の温もり

 


遠ざかる旅路と、食卓の温もり——愛という名の「境界線」を受け入れる夜

蓄積した疲労と、ささやかな食卓

3日連続で自分自身を追い込んだ朝ランの代償として、今日の体には、芯からずっしりとした深い疲労感が沈殿しています。これほど疲れた日は、無理をして完璧を求める必要はありません。今日の夕食は、近くの「まるしん」のお惣菜に頼ることにしました。私は刺身、妻は焼き魚、そして娘はチキンナゲットとメンチカツ。それぞれが好むものを並べた食卓に、せめてもの手作りの温もりとして、レタススープだけをことことと煮て添えました。明日は、休息日です。心も体も、今はただ静かに「休むこと」を強く求めています。

 


秋保への道と、手放した非日常

ふと、ネットで現在「仙台とく旅」というキャンペーンが行われており、宿泊が30%オフになるというニュースを目にしました。以前、この制度を利用して、家族3人で秋保の温泉まで足を伸ばし、くつろいだ日のことを思い出します。しかし、私たち家族が揃って泊まりで出かけられるのは、せいぜいその「秋保」という距離が限界です。なぜなら、私たちの帰りを家で待っているノアがいるからです。あの秋保の夜、私は早朝4時ごろにそっとホテルを抜け出し、車を走らせて一度家に戻りました。ノアの散歩を済ませ、朝ごはんを食べさせてから、再び秋保のホテルへととんぼ返りをしたのです。その一連の経験を経て、「これからはもう、泊まりで出かけるのはやめよう」と。決めています。

 


制限のなかに宿る、本当の安息

旅を手放すこと。遠くへ行く自由を捨てること。それは一見すると、人生の楽しみを失い、何かに縛られているように感じるかもしれません。しかし、愛する命のために自らの行動範囲を狭め、その「境界線」を穏やかに受け入れることは、決してネガティブな諦めではありません。それは、「喜んで仕える」という、人間の最も尊い愛の形です。

聖書に、このような主イエスの招きの言葉があります。

 「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイによる福音書 11:28

私たちが魂の底から求めている「真の安息」は、遠く離れた非日常のリゾート地や、特別な体験のなかにだけあるのではありません。自らが選び取った愛の絆の中で、共に生きる命の重みを引き受けながら、その日の労苦を終えていつもの食卓を囲む。その平凡で、時に泥臭い日常のなかにこそ、神が用意された本当の安らぎが隠されているのです。

 


満たされた疲労を抱きしめて

今日という一日、本当にさまざまなことを考えながら過ごしました。 正直なところ、深く疲れています。しかし、この心地よい疲労感は、決して無為に過ごした結果ではありません。家族を思い、ノアを愛し、自らの足で懸命に走り抜いた証としての、尊い疲労です。

  • 遠くへの旅を手放し、目の前にある命を最優先に守り抜くこと
  • 完璧さを求めず、お惣菜の力を借りて笑顔で食卓を囲むこと
  • 自分の「疲れ」を素直に認め、明日の休息を静かに受け入れること

遠くへ行けなくとも、私たちの人生の旅は、この家の中で豊かに続いています。今夜は、この満たされた疲労と共に、目を閉じようと思います。

今日も、共に前進です。