【灯をともす:四旬節の旅路】第1日:荒野への一歩、静寂への招待
2026年2月18日。今日、私たちの心に「灰」で十字が記され、四旬節(レント)という40日間の巡礼が始まります。騒がしい情報の渦、終わりのないタスクの列。 私たちは、立ち止まることを忘れた旅人のようです。 そんな私たちの背中を、主は優しく、けれど力強く「荒野」へと押し出されます。
1. 聖書の場面:荒野での試み
「それから、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食された後、空腹を覚えられた。」(マツタイによる福音書 4:1-2)
公の活動を始める直前、イエス様が真っ先に向かわれたのは、華やかな舞台ではなく「何もない荒野」でした。そこは、日中の酷暑と夜の極寒が支配し、空腹と孤独が身に染みる場所です。
主はそこで、生きるための最低限の糧さえ手放し、ただ父なる神との対話に専念されました。しかし、最も弱り果てたその瞬間に、誘惑の主が忍び寄ります。
2. 心の揺らぎ:空腹という名の「渇き」
現代を生きる私たちは、物理的な空腹よりも「心の空腹」に苦しんでいます。
- 「もっと認められたい」という承認への渇き
- 「何かを所有していないと不安だ」という物質への依存
- 「自分を証明しなければならない」という焦燥
イエス様への最初の誘惑は、「石をパンに変えろ」という、最も合理的で魅力的な解決策でした。それは「自分の力で、自分の欠乏を埋めてしまえ」という誘惑です。私たちもまた、自分の力だけで人生のハンドルを握り、空虚さを何かで埋めようとして、かえって疲弊してはいないでしょうか。
3. 核心:パンのみに生きるにあらず
イエス様は、最も弱い状態で、最も強い言葉を返されました。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」
四旬節の教訓は、単なる「我慢」ではありません。 それは、**「自分を支えているのは、目に見える『パン』ではなく、目に見えない『神の愛』である」**というリアリティを取り戻すことです。私たちが「パン(自分の力や成果)」に頼りすぎるとき、心は硬い石のようになります。しかし、その手を一度放し、「私は神様の言葉によって生かされている」と認める時、荒野は神との出会いの聖所に変わります。
今日のあなたへ
今日、少しだけ「スマホ」を置く時間、あるいは「テレビ」を消す静寂の時間を作ってみませんか。 その空白に流れ込んでくる不安や寂しさを、無理に埋めないでください。
その「何もない場所」にこそ、イエス様が共に立ってくださっています。
あなたの乾きを知り、あなたと共に空腹を覚え、それでも「あなたは私の愛する子だ」と語りかけてくださる主を見つめる。それが、私たちの四旬節の第一歩です。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。
今日一日、あなたが「これがないと生きていけない」と思い込んでいるものを一つだけ思い浮かべてみてください。それを一旦横に置いて、神様の恵みに心を向けるための、具体的な「静まりの時間」の持ち方を一緒に考えてみましょうか。
*今日は、レントの思いを胸に、静かに24キロを走りました。
一歩一歩、祈るように。 自分の弱さと向き合いながら、 主の十字架の愛を思い起こしつつ、 風の中を走りました。体は疲れても、心は不思議と軽く、
この道のりもまた、信仰の旅路の一部なのだと感じています。



