デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月15日土曜日

箴言22章と試食会

 


箴言22章は、「評判の価値」「貧富の差への視点」「子育ての重要性」「勤勉さ」といった

多岐にわたるテーマを通じて、人生における普遍的な知恵と倫理を提示しています。

まず、この章は「多くの富よりも良い評判を選ぶべきだ」と述べ、「名誉と信頼」が物質的な豊かさよりもはるかに価値があることを明確にします。富は失われることがあるが、良い評判は長く残る資産であると教えます。

 次に、「貧しい者と富む者」について語られます。富む者も貧しい者も、共に主が造られたものであり、互いに尊重すべき存在であると説きます。貧しい者を虐げることや、利息を取ってさらに苦しめることは厳しく戒められ、神は貧しい者のために立ち上がると警告しています。 


「子育てと教育」も重要なテーマです。子どもを良い道に沿って訓練すれば、年老いてもそれを忘れることはないと教え、早期からの正しい躾と倫理的な教育の重要性を強調しています。親の責任の重さが示されています。 

また、「知恵と警戒心」の価値も語られます。賢い人は危険を察知して身を隠しますが、愚かな者は何も考えずに進んで災いを被ります。「謙遜と神への畏れ」**は、富、誉れ、そして命という報いをもたらすとされます。 「貸し借り」についても言及され、借りる者は貸す者の奴隷となるという現実的な教訓が与えられます。また、古い境界線を動かしてはならないという教えは、伝統や他者の権利を尊重することを示唆しています。 最終的に、自分の仕事に熟練した勤勉な人は、王の前に立つことができると、努力と専門性の価値を称えています。

 


現代人が学ぶべき3つの教訓 情報過多で競争の激しい現代において、この章は私たちに足元を見つめ直し、真に価値あるものに焦点を当てるよう促します。

  1. 「信頼と評判」を最大の資産と見なす

SNSが発達した現代では、一度失った信頼や悪評は、瞬く間に広がり、取り戻すのが非常に困難です。目先の利益や承認欲求のために、誠実さを欠いた行動や発言をすることは、長期的に見て大きな損失につながります。個人も企業も、常に誠実であり、約束を守り、周囲からの「良い評判」を築き上げることが、何よりも価値のある資産であることを心に留めるべきです。

 

  1. 「格差社会における共存の知恵」を実践する

富める者と貧しい者がいる現代社会において、私たちは互いにどのように関わるべきかという問いに直面します。箴言は、両者ともに神に創造された尊い存在であると教え、貧しい者を虐げることを厳しく戒めます。慈善活動、ボランティア、公正な労働環境の提供など、社会的な弱者への配慮と支援は、単なる施しではなく、社会全体の調和と持続可能な発展に不可欠な「共存の知恵」であることを理解し、実践しましょう。

 

  1. 「子育ては長期的な投資である」と認識する

多忙な現代において、子育てがおろそかになりがちですが、箴言は「子どもを訓練すれば、年老いてもそれを離れない」と、早期教育と躾の重要性を強調します。学力だけでなく、倫理観、自制心、他者への共感といった人間性の基盤を幼い頃から育むことは、子どもが健全な大人になり、社会に貢献できる人物へと成長するための最も重要な「長期的な投資」です。スマホ漬けにせず、対話を重視し、良いロールモデルを示すことに意識的に時間と労力を使いましょう。今日も前進です。

 


先ほど、ロピアで買い物をして、その帰りにサーティワンのアイスクリームを買ってきました。 昨日はジャパンミートで試食会があり、二人で揚げたてのカボチャをいただきました。言うまでもなく美味しくて、やっぱり揚げたては格別です。

そして今日は、ロピアでひとりで梨とブドウの試食を体験。これも人生で初めてのことでした。これまで試食というものをほとんどしたことがなかったのですが、やってみると案外面白いものですね。

今朝は妻がゴーヤチャンプル作れてくれました。美味しくいただき感謝。

21年前の8月15日

 


流れゆく時の川に、感謝の舟を浮かべて:21年前の駅の夜明かしと、大年寺山の階段

今朝は少し体が重く感じられ、前日からの疲れが抜けきっていなかったため、いつものランニングは控えて、大年寺山公園への散歩に出かけました。

しかし、不思議なことが起こりました。歩き慣れた公園の急な階段を前にした時、ふと足に力が入り、なんと初めてその階段を一番上まで走り切ることができたのです。いつもは半分ほどで息が上がり、歩いてしまっていた道のりでした。思いがけない自分の「記録更新」に、心からの感謝が湧き上がりました。 その後、愛宕神社の階段を降りたあたりで、今度は無性に「走りたい」という衝動に駆られました。散歩の服装のままでしたが、そのまま駆け出し、良い汗をたっぷりと流しながら帰宅しました。重かったはずの体が、まるで内側から湧き出る喜びに背中を押されるように軽く感じられた、不思議な朝でした。

 


21年前の夏、途方のない慌ただしさと奇跡

今日、815日。 明日までの三日間、我が家は娘の誕生を祝う特別な日々を過ごしています。彼女が生まれた時のことは、どれだけ歳月が流れても決して忘れることができません。 21年前の815日、私は静岡から彼女の待つ桐生の病院へと向かいました。そして翌16日に無事に(妻と看護師たちは大変でしたが・・・)生まれた小さな命を腕に抱き、その温もりも冷めやらぬうちに、仕事のために再び静岡へととんぼ返りをしたのです。 ところがその道中、三島あたりで突然の地震に見舞われました。電車は運行中止となり、身動きが取れなくなった私は、そのまま駅で夜を明かすことになりました。始発電車でなんとか静岡へ戻り、仕事を終え、その後また桐生へ向かうという、文字通り息つく暇もない慌ただしい数日間でした。

駅の冷たい床で夜を明かしたあの時の疲労感も、無事に娘が生まれた安堵感も、すべては神様の深い恵みの内に守られた出来事として、今も私の心に鮮明に焼き付いています。

 


時の川を停めることはできないけれど

あれから、もう21年という歳月が過ぎ去りました。 時の流れは、残酷なほどに早いものです。今、娘と一緒に同じ屋根の下で過ごせる時間は少なくなってきており、これから先の半年間、彼女と共にいられるこの日常の一瞬一瞬を、私は何よりも大切にしたいと考えています。私たちは、流れていく「時」を停めることは絶対にできません。 どれほど愛おしい瞬間も、どれほどつらかった夜も、等しく過去へと押し流されていきます。しかし、私たちにできることが一つだけあります。 それは、「その流れていく時間の川に、どれだけの喜びと感謝を乗せて流せるか」ということです。

聖書に、このような言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18

これは、感情を押し殺して無理に笑いなさいという教えではありません。 日々湧き上がる不安や焦り、一時的な感情の波に惑わされることなく、「今、何がもっとも大事か」を静かに見極め、意図的に感謝を選び取るという、極めて能動的で力強い生き方の指針なのです。

 


今この瞬間を、精一杯に生きる

大年寺山の階段を、息を切らして走り上った今朝の自分。 21年前、地震で止まった駅で夜を明かしながら、生まれたばかりの娘を思っていた自分。 どちらの瞬間にも、神様が与えてくださった「命の息吹」が確かに流れています。

残された一緒の時間を惜しむのではなく、今日という日を、最高の喜びと感謝で満たすこと。感情の波に飲まれず、ただ真っ直ぐに一番大切なものを見つめて、この瞬間を生き抜くこと。

汗だくになった散歩着を脱ぎながら、私は静かに心を定まりました。今日という日も、神様が下さったかけがえのない恵みの1ページです。

今日も、共に前進です。

 

2026年8月14日金曜日

無事に帰宅

 


大雨の夜に噛みしめる「無事」という奇跡:家族と駆け抜けた、長く豊かな一日

無事に帰宅。 妻が用意してくれた温かい夕食をいただき、ようやく肩の荷を下ろして深く息を吐き出す時、私の心を満たしていたのは、心地よい疲労感と静かな感謝でした。外を打ち付ける大雨の音を聞きながら、今日という「長く、長い一日」の道のりをゆっくりと振り返っています。

 


「行ってきます」の後に続く、脆くも尊い奇跡

今の時代、「無事」という言葉が持つ重みは計り知れません。 毎日のように報道される痛ましい事故や事件のニュースを目にするたび、朝の玄関で「行ってきます!」と元気に手を振って出かけた家族が、二度と帰らぬ人となってしまうという悲しい現実が、この世界のあちこちにあるのだと気付かされます。

だからこそ、朝に家を出て、夜に再び同じドアを開け、家族の顔を見て「ただいま」と言えること。それは決して「当たり前」のルーティンなどではなく、途方もない恵みであり、一日たりとも同じ保証のない「奇跡」そのものなのです。

 


家族三人、大雨の中で見つけた小さな発見

今日は、めったにない家族三人で外で過ごす一日でした。それは私にとって、まぎれもない恵みの時です。

サウナで汗を流し、ランチを共にし、スターバックスでコーヒーを味わう。そして、娘の運転免許更新のため、運転免許センターへ。 娘が2時間の講習を受けている間、外は激しい大雨でした。そのため、妻と私は近くの「ジャパンミート生鮮館」で買い物をしながら待つことにしました。初めて訪れたそのお店は、現金のみのロピアに対する強力な競合店になりそうな活気があり、何より「クレジットカードが使える」という嬉しい発見がありました。 大雨の雨宿りを兼ねて、スーパーマーケットで約90分もの長い時間を費やしたのも、私の人生で初めての経験です。そんなささやかな「初めて」の出来事も、家族と過ごす温かい時間の一部でした。

 


終わらない一日と、愛の疲労感

講習を終えた娘を迎えに行き、1630分ごろには三人でわたしたちのホームへと向かいました。 しかし、一日はまだ終わりません。車の中で、娘から「1750分から仙台で高校の同窓会があるから、そのお店まで送ってほしい」という新たな頼み事がありました。一度帰宅して外出の準備をする娘を待ち、再び車を出して同窓会の会場へ。そして、ようやくほんとうの休みの場所に帰り着いたのです。

本当に、長く、長い一日でした。 運転手を務め、あちこちを移動し、体力はすり減りました。しかし、この身体の奥底にある心地よい疲労感は、愛する家族のために時間と力を使えたという「豊かな証」でもあります。

聖書には、私たちの日常の歩みを包み込む、このような約束の言葉があります。

「主はあなたの出入りを守られる。今よりとこしえに至るまで。」(詩編 121:8

私たちが家を出て、そして無事に帰る。その何気ない「出入り」の背後には、常に神様の完全な守りがあります。大雨の道中も、慌ただしい移動の時間も、すべては見えない御手の中で守られていたのです。 スーパーでの90分も、車中での娘との会話も、すべてが神様から与えられた「今日だけの贈り物」でした。

家族と一緒に過ごし、無事に帰宅できた今日という一日に、心からの感謝を捧げます。 身体は疲れていますが、心には温かい灯りがともっています。明日もまた、与えられた日常という奇跡を、丁寧に、そして誠実に歩んでいきたいと思います。

今日も、共に前進です。

免許更新

 


義務を喜びに染め直す魔法:人生という長距離走を、軽やかに駆け抜けるために

時計の針が2320分を指した夜更け。

アルバイトを終えた娘を迎えに、夜の街へと車を走らせました。

助手席に座る娘との、家路に向かう車中での短い会話。それは私にとって、一日の終わりに与えられる「感謝と喜びの恵みの時」です。今日のまかないは焼きそばだったそうで、量が多かったからと半分を持ち帰ってきてくれました。さらに、誕生日のお祝いとして美味しいマンゴ酒をいただいたとのこと。 帰宅後、あたたかい家の中でさっそくその焼きそばを口に運びました。深夜の静寂の中で味わうその美味しさは、家族の無事とささやかな喜びに満ちた、特別な味がしました。

 


「退屈」を「喜び」へ反転させる工夫

明日は、娘の運転免許更新のために免許センターへ行く予定です。

免許の更新。それは多くの人にとって、できれば避けたい「面倒でつまらない時間」の代表格かもしれません。私たちの日常には、こうした義務や、心が躍らない出来事が定期的に巡ってきます。 しかし、ただ仕方なくこなすだけでは、時間は色褪せてしまいます。そこで今回は少し計画を変え、まずは三人で午前中に免許センター近くの「汗蒸幕(はんじゅんまく)の湯」へ足を運び、ゆっくりと汗を流して過ごして、久々に韓国料理を食べてから、午後の更新手続きへ向かうことにしました。

この提案に、二人は大喜びしてくれました。

 


出来事の意味を決めるのは、私たち自身

本来なら多くの人が嫌がる「免許更新」という時間を、心弾む「楽しい時間」へと見事に変身させること。 実はこれこそが、私たちが日々の生活の中で大切にすべき魔法なのだと、改めて気づかされます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18

聖書が語るこの言葉は、単に「無理をしてでも笑いなさい」と強要しているわけではありません。状況そのものが退屈でつまらないものであっても、私たちの心の在り方と少しの工夫次第で、その時間を「感謝と喜び」に変えることができるのだという、力強い真理を教えてくれています。 出来事の表面だけを見れば「ただの義務」であっても、そこに温泉の温もりや家族の笑顔を掛け合わせることで、全く違う景色が立ち現れるのです。

 


人生のマラソンを息切れせずに走る秘訣

嫌なこと、つまらないことを、自らの手で「楽しい事」へと変身させる魔法。

このしなやかな魔法を日頃から意識して使いこなすことこそが、決して平坦ではない「人生」という長いマラソンを、息切れすることなく、笑顔で楽しく走り抜けるための最大の秘訣なのかもしれません。 深夜に味わった焼きそばの余韻と、明日の汗蒸幕で流すであろう心地よい汗を楽しみにしながら。

今日も、共に前進です。わたしは二度寝です。

2026年8月13日木曜日

箴言21章

 


見えない大きな手の中を流れる水のように

目覚めの静寂の中、まだ世界の喧騒が始まる前の澄んだ時間。 深呼吸をして冷たい空気を肺の奥まで吸い込むと、今日という新しい一日が静かに動き出したという確かな身体感覚が満ちることを感じる時があります。朝の光の中で聖書を開き、箴言21章の言葉に目を落とすとき、日々の忙しさの中で凝り固まっていた心に、一本の透き通るような水路が開かれるのを感じます。

現代を生きる私たちは、無意識のうちに「自分の人生は、自分でコントロールしなければならない」という強い重圧を抱えています。しかし、数千年の時を超えて語りかける箴言の言葉は、私たちのそのこわばった両手を、優しく、そして力強くほどいてくれるのです。

「自分の手の中」にあるという錯覚を手放す

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのように、主の望むところへ向けられる」

私たちは、「努力すれば必ず報われる」「すべては自分次第だ」と信じて疑わない時代を生きています。もちろん、懸命に汗を流し、知恵を絞って計画を立てることは尊い営みです。しかし、人生には私たちの努力や計算をはるかに超えた、見えない大きなうねりがあります。絶対的な権力を持つ「王の心」でさえも、神様の大きな手のひらの上を流れる水に過ぎない。この真理に触れるとき、私たちは不思議な安堵感に包まれます。 最善を尽くして計画を立てながらも、最終的な結果は「自分を超えた大いなる御手」に委ねる。このしなやかな謙虚さを持つとき、私たちは「思い通りにならないこと」への執着や不必要なストレスから解放され、より自由に、水のように柔軟に生きることができるようになります。

 


誠実さという、決して枯れない泉

コントロールを手放した私たちが、では、この地上で何に力を注ぐべきなのか。箴言は明確に「正しい行いと公正」を指し示します。

現代社会はスピードを求めます。手っ取り早く結果を出すための近道や、時には倫理の境界線を曖昧にした「賢いやり方」がもてはやされることもあります。しかし、聖書は「不正な富は死の罠である」と鋭く警告します。 短期的な利益や目先の見栄に目を奪われることなく、「これは神の前に正しいか」「隣人に対して公正か」を問い続けること。いけにえという形式的な宗教行為よりも、日々の暮らしの中で誠実さを貫くことこそが、神様に最も喜ばれ、私たちの人生に長期的な平安をもたらす揺るぎない土台となります。

魂を守る「言葉の温度」

そしてもう一つ、私たちの日常に最も身近で、最も危険な武器となるのが「言葉」です。

「自分の口と舌を守る者は、苦難から自分の魂を守る」

SNSを開けば、無数の言葉が濁流のように溢れ返る現代。私たちは、いつでも、誰に対してでも、自分の感情を瞬時に発信できる便利さと引き換えに、言葉の重みを忘れかけています。 無責任な発言や、感情に任せた冷酷な言葉は、誰かの心を深く傷つけるだけでなく、発した自分自身の魂をも確実にむしばんでいきます。

言葉を口にする前、あるいは送信ボタンを押す前に、ほんの一呼吸だけ間を置くこと。 「この言葉の温度は、冷たすぎないか?」 「誰かを打ち負かすためではなく、生かすための言葉になっているか?」 その小さな自問自答の習慣が、争いを防ぎ、私たちの周囲に温かな平和の輪を広げていきます。

 


委ねて、歩む

すべてを自分の思い通りに動かそうとするから、私たちは疲れ果ててしまうのです。 私たちの人生は、大いなる神様の手の中にあります。その圧倒的な安心感に包まれながら、私たちは今日、自分にできる「誠実な行い」と「温かな言葉」だけを丁寧に紡いでいきましょう。結果を思い煩う必要はありません。大いなる流れに身を任せ、軽くなった足取りで、新しい一日を踏み出してください。

今日も、共に前進です。

おはようございます!

 


濃霧に響く二つの「おはよう」:交わらない時代の中で、心の空を晴れやかに保つ

午前5時過ぎ、重くまとわりつくような湿気と、雨、そして濃い霧に包まれた朝。 いつもの散歩コースへ足を踏み入れると、そこにはすでにそれぞれの道を歩き、走り、自分の目的地へと向かっていく人々の姿がありました。視界を遮る白い霧の中で、互いの影が近づいては、また静かに遠ざかっていきます。

 


坂道と階段で交わされた、対照的な挨拶

大年寺山公園を目指して急な坂を上っていると、前方から年配の女性が歩いてきました。(この方も山公園の朝礼(?)のメンバーで、何度か見かけた方です。)彼女のそばからは、クマよけの代わりになっているであろう、大きなラジオの音が響いています。 すれ違う瞬間、ラジオのアナウンサーが元気な声で「おはようございます!」と叫びました。私は彼女の代わりに挨拶をしてくれたその声に反応し、心の中で静かに「おはようございます」と挨拶を返しました。直接言葉を交わさなくとも、不思議と温かいものが胸をよぎりました。その後、愛宕神社の階段を降りる時のことです。今度はすれ違った一人の女性が、私に向かってはっきりと「おはようございます!」と声をかけてくれました。私もすかさず「おはようございます!」と声に出してお返しをしました。

  • ラジオを通じた、心の中の静かな挨拶。
  • 階段ですれ違った、肉声の温かな挨拶。

霧の深い朝に響いたこの二つの「おはよう」は、私の心に小さな灯りをともしてくれました。

 


干渉しない時代の「自然な距離感」

ランニングや散歩の最中、見知らぬ人同士が挨拶を交わすことは、今の時代、ほとんどなくなりました。 皆、視線を合わせず、ただ黙々と自分の道を進んでいくだけです。しかし、その無言のすれ違いに対して、私たちはもはや何の違和感も、心の負担も抱かなくなっています。それは現代社会が生み出した、極めて「自然」な距離感なのです。

人間の他者には声をかけない人に限って、散歩中のペットには優しく声を掛けている風景もよく目にします。 それもまた、一つの愛の形であり、決して悪いことではありません。私たちは皆、それぞれの心地よい距離感の中で、自分だけの小さな世界を守りながら生きているのです。

 


心地よい言葉がもたらす「魂の晴れ間」

それでも、愛宕神社の階段で交わしたあの短い言葉が、重い湿気の中で私の心をふっと軽くしてくれたことは確かな事実でした。聖書には、このような言葉があります。

「心地よい言葉は蜂蜜のよう、魂に甘く、骨を健やかにする。」(箴言 16:24

無理をして全員に声をかける必要はありません。時代が変わり、人が交わらなくなったことを嘆く必要もありません。 しかし、誰かの口から発せられた誠実な一言は、蜂蜜のように魂を潤し、霧の立ち込める暗い道に一瞬の晴れ間を作ってくれる力を持っています。心の中での無言の挨拶であれ、声に出した挨拶であれ、他者の存在を承認するそのささやかな営みは、確実に私たちの内側を新しくしてくれます。

 


心の天候は自分で選べる

今日は娘がアルバイトに行く日であり、また夜には車で彼女を迎えに行きます。 外の世界は今日一日中、雨と霧に包まれ、息苦しいほどの湿気に満ちていることでしょう。しかし、外の天気がどうであれ、「心の中の天候」だけは、私たち自身で決めることができます。重い足取りですれ違う人々の無言の背中にも、それぞれの人生の重さがあります。 その重さを静かに尊重しつつ、私は今日、心の中の空だけは高く晴れやかにして、自分の歩むべき道を真っ直ぐに進んでいこうと思います。

今日も、共に前進です。

夜中のケーキ作り

 


真夜中のキャロットケーキと「普通」の正体:自分流で愛を生きる夜明け前

昨夜は23時過ぎに目が覚めました。 昨日から無性にケーキが食べたかったため、起きてすぐに一階の自室から二階へと上がりました。私が起き出して動き始めると、愛犬のノアはいつもその優れた感覚で察知し、目を覚まして待っています。

家族が静かに眠る二階。足音を忍ばせてドアを開け、音が漏れないようにリビングルームの扉をしっかりと閉めてから、真夜中のケーキ作りがスタートしました。 少し自分なりのアレンジを加えたキャロットパウンドケーキの生地を、予熱しておいたオーブンへ。焼き上がるまでの約1時間、ふと天気予報を見ると、この後1時間ほどだけ雨がやむという予報が出ていました。今日と明日も雨模様の続く中、この小さな晴れ間は恵みです。急いでノアを連れ出し、ささやかな夜の散歩を終えて無事に帰宅しました。小さな奇跡のような時間に、心から感謝しました。

 


「痕跡を残さない」という私なりの流儀

現在、オーブンからは甘く香ばしい匂いが漂い始めています。 私が夜中などに料理やケーキ作りをする際、絶対に守っている一つのルールがあります。それは「決して痕跡を残さないこと」です。

周囲を綺麗に片付け、妻が昨晩眠りについた時に記憶している台所の状態と、全く同じ状態に戻してすべてを終える。それが、私なりの「自分流」のやり方です。

世間ではよく、「そんなに気を遣わずに、普通にやればいいのに」と言う人がいます。しかし、ふと立ち止まって考えてしまうのです。 その「普通」とは、一体何なのでしょうか。

  • 誰かが決めた「平均値」のことでしょうか。
  • 多数派が採用している「常識」のことでしょうか。

定義は非常に曖昧です。よく考えてみれば、人の数だけそれぞれの「普通」が存在します。世間の曖昧な「普通」の枠組みに、無理に自分を押し込めて生きる必要などどこにもないのです。

 


自由と愛が同居する「自分流」の生き方

自分の「普通」に合わせて生きる。周りに迷惑をかけず、法的な問題もないのであれば、堂々と自分のスタイルを貫けばよいのです。 私の「自分流」は、決して自分勝手な振る舞いではありません。家族が気持ちよく朝を迎えられるように台所を磨き上げること、雨の合間を縫って愛犬と歩くこと。それは、私なりの静かな愛の表現でもあるのです。


聖書に、このような力強い言葉があります。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリントの信徒への手紙一 10:31

神様は、私たちを金型で抜いたような「普通」のロボットとしてではなく、それぞれに全く違う個性と流儀を持つ、かけがえのない存在として創造されました。 大切なのは、世間の「普通」に合わせることではありません。自分が選んだ「自分流」の生き方が、家族を愛し、隣人を愛し、そして神様の栄光を現すものへと真っ直ぐに向かっているかどうかです。誰かと比較する必要はありません。 私は今日も、このままの私で生きることにしました。無理に人に合わせるのではなく、自分に与えられた流儀で、主の栄光のため、愛する家族のため、そして教会の兄弟姉妹のために、今日という命を精一杯に生きていきます。

オーブンのタイマーが、もうすぐ焼き上がりを知らせてくれます。 あなたもどうか、あなただけの美しい「自分流」を大切に、今日というキャンバスを自由に彩ってください。

今日も、共に前進です。

2026年8月12日水曜日

ちゃんと生きていますか?

 


永遠を望む心と、手触りのある日常:私たちが本当に「待ち望むもの」

今の時代を生きる人々は、心の底で一体何を期待して生きているのでしょうか。 何を望み、日々の暮らしの中で何を楽しみにしているのでしょうか。

街を歩き、あふれる情報に目を向けると、この世界は常に新しい刺激や、一瞬の楽しさ、物質的な豊かさを追い求めているように見えます。しかし、それらを手に入れてもなお満たされない「魂の渇き」のようなものが、現代の空気の底には静かに沈殿しているのを感じずにはいられません。

 


遠くを見つめる祈りと、足元にある喜び

私自身の心に問いかけてみます。私が本当に望んでいること、それは極めて明確です。 「神の国が、この世界に実現すること」。そして、「一人でも多くの人が、真の命と真の救いを得ること」。 これが、私の人生を貫く最大の願いであり、究極の希望です。

しかし、この「神の国の実現」という壮大な祈りは、決して現実から遊離した遠い世界の話ではありません。それは、極めて手触りのある、汗と温もりを伴った「私の日常の楽しみ」の中にしっかりと根を下ろしています。

私が日々の生活の中で心から楽しみにしているもの。それは次のような、ごく当たり前の営みです。

  • 家族と共に過ごす、何気ない時間。
  • 愛犬であるゴールデンレトリバーのノアとの、温かなふれあいと散歩。
  • 教会員の方々の人生に寄り添い、共に祈る牧会の働き。
  • 息を切らし、足の痛みと向き合いながら走るランニング。
  • そして、やがて来るサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅。

一見すると、壮大な神の国と、犬の散歩や毎日のランニングは、全く次元の違う事柄のように思えるかもしれません。しかし、信仰の目を通して見つめる時、これらは決して切り離されたものではないことに気づくのです。

 

昨日、妻は大量の揚げ物を作りました。

日常のただ中に訪れる「神の国」

聖書に、主イエスが語られたこのような言葉があります。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書 17:20-21

神の国とは、死後にだけ行く遠い場所ではなく、私たちが誠実に生きる「今、ここ」の日常の中にこそ現れるものです。 家族と食卓を囲む温かな時間。ノアの柔らかい毛並みをなでる手のひらの感覚。傷ついた教会員と共に流す涙。自分の限界に挑むランニングの静寂。そして、遠きスペインの巡礼路(サンティアゴ)へと向かう一歩一歩の祈り。

その一つひとつの誠実な営みの中に、神様の愛と息吹が確かに宿っています。真の命とは、遠くの理想を追い求めることではなく、与えられた今日という日のささやかな喜びを、深く味わい尽くすことの中にこそあるのです。


 

あなたが今日、楽しみにしていることは何ですか

私たちは、大きな奇跡や劇的な変化を期待しがちです。しかし、今日あなたが誰かにかける優しい言葉や、家族と交わす笑顔、そして静かに捧げる祈りの中に、すでに神の国は芽生え始めています。

どうか今日、あなたの足元にある小さな楽しみに、心を込めて向き合ってみてください。 その手触りのある日常の喜びこそが、あなたを本当の希望へと導く、最も確かな道しるべとなるはずです。

今日も、共に前進です。

夜中のランニング

 


暗闇を照らす一筋の光と、夜明けを渇望する魂:見知らぬ街を駆け抜けた23キロ

昨夜は22時ごろ、アルバイト先で働く娘を迎えに車を走らせました。 無事に帰宅した後、待っていたノアを連れて夜の散歩へ。そして、一日の終わりのゴミ出し。いつもであれば、ここで布団に潜り込んで「二度寝」の心地よさに身を委ねるところですが、昨夜はなぜか、夜中のランニングに出かけることにしました。

スタート地点に立ったのは、2252分。 太陽の光に満ちた朝の道とは違い、夜の闇は深く、足元さえおぼつかなくなります。私は手に持ったライトで暗闇の道を照らし出しながら、静寂の中へと足を踏み入れました。

 


コースのない道と、小さな手元の光

昨夜は、あらかじめコースを定めていませんでした。ただひたすらに、前へ前へと走り続けました。

暗闇の中、ライトの光だけを頼りに進んでいくうちに、ふと、自分がこれまで走ったことのない見知らぬ街の風景の中にいることに気がつきました。暗がりに浮かび上がったのは、大梶にある中嶋病院の建物。初めて訪れる街の空気を肌で感じながら、そこから大きく方向を変え、見慣れた仙台駅の方へ。そして最後は広瀬橋を渡り、無事に自宅へと帰り着きました。

  • 行き先が分からないまま、見知らぬ街を走る不安。
  • それでも、手元のライトが一歩先の道を確実に照らしてくれる安心感。

この「夜中のランニング」は、私たちが歩む人生そのものに似ているのかもしれません。

 


闇夜の静寂と、私たちが本当に求めるもの

私たちは時として、人生のコースを見失い、真っ暗闇の中を手探りで歩まなければならない時期を経験します。先の見えない不安の中で、たどり着いた場所が全く見知らぬ景色(状況)であることも少なくありません。

聖書は、そのような暗闇を歩む私たちに、一つの確かな道具を手渡してくれています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」(詩編 119:105

 


神様の言葉は、何十キロも先まで見通せるような強烈なサーチライトではないかもしれません。しかし、暗闇の中で迷う私たちが「次に踏み出すべき確かな一歩」だけは、決して見失わないように、手元を優しく、そして力強く照らし出してくれます。

ライトを握りしめ、23キロを完走した夜中のランニング。 寝静まった街の静けさの中を走るのも、案外悪くない時間でした。しかし、暗闇を走り終えた私の心の一番深いところにあったのは、「やはり自分には、夜明けのランニングが一番だな」という静かで確かな気づきでした。

闇夜には闇夜の安らぎがありますが、人間の魂は本能的に、世界が新しく生まれ変わる「夜明けの光」を渇望するように創られているのです。

 


光を信じて、今日を生きる

これから少しだけ仕事に向かい、それからいつもの二度寝の眠りにつきます。 目を覚ませば、そこには必ず、私が心から愛する「夜明け」が待っています。

あなたの今の人生が、もし暗闇の中を手探りで進むような道のりであったとしても、決して恐れることはありません。手元にある小さな光(御言葉と祈り)を信じて、今日踏み出すべき一歩を淡々と重ねていってください。見知らぬ街を巡り巡っても、道は必ず、あなたを夜明けへと導いてくれます。



今日も、共に前進です。

2026年8月11日火曜日

山の日

 


時代を渡る新しい橋と、変わらぬ人間の本性:急坂を上る杖が示す「今日」の歩み

今日は、いつもの大年寺山公園への散歩に出かけました。 公園からの下り道、向こうからゆっくりと歩いてくる例の小柄なおばあさんに出会いました。決して楽ではない急な坂道を、杖をしっかりと突きながら、ご自分の足で上っておられました。



今日は「山の日」という祝日であり、空には台風の予報も出ています。 気候やカレンダーの変化を理由に休むこともできるはずですが、このおばあさんにとって何より大切なのは、毎日のルーティンワークを守り抜くこと、そして山公園で待つ仲間たちと顔を合わせることなのでしょう。愛宕大橋を渡り、あの急な坂道を上って山公園まで往復するのは、決して簡単なことではありません。そのひたむきな後ろ姿に、私は心からの感銘を覚えました。

 


移りゆく景色と、静かな朝

おばあさんの姿を背にして、私は自分の歩みを続けました。 山の上の愛宕神社まで上ると、眼下には仙台の市街地が静かに広がっています。その後、神社から下って広瀬川の川沿いへと出ると、水面ではハクチョウたちが静かに穏やかな新しい朝を迎えていました。

川沿いの景色の中で、ひときわ目を引くのは新しい宮沢橋です。 約4年という長い歳月をかけて工事の様子を見守り続けてきましたが、いよいよこの9月に完工し、新しい橋がその全貌を現そうとしています。

古いものが壊され、新しいものが建てられる。組織の形が変わり、人は過ぎ去り、新しい世代がまた後を継いでいく。人間が生きるこの社会は、目まぐるしいスピードで常に変化し続けています。

 


人は入れ替わるのに、なぜ世界は変わらないのか

しかし、ここで一つの深い疑問が湧き上がります。 建物が新しくなり、世代が新しく入れ替わっているにもかかわらず、なぜこの社会の本質は変わらないのでしょうか。なぜ、いつの時代も繰り返し、犯罪や痛ましい事件、そして愚かな戦争が絶えることなく続くのでしょうか。

その理由は、極めて残酷で、かつ避けられない真実の中にあります。 それは、「人間の罪ある本性は、決して変わらないから」です。時代がどれほど進歩し、橋が新しく架け替えられたとしても、私たちの内側にある自己中心的な思いや、他者を傷つけてしまう性質は、生まれつき同じものを抱えたままなのです。

聖書は、この人間の変わらぬ本質を静かに見つめ、こう語っています。 「太陽の下、新しいものは何一つない。」(コヘレトの言葉 1:9

私たちは、そのような自己矛盾と罪の痛みを抱えた世界の中で、今日も生きています。

 


 

嘆きを捨てて、今日を笑顔で生き抜く

しかし、変わらない世界の悲惨さを前にして、私たちがただ嘆き、うつむいて生きることを神様は望んでおられません。 罪ある世界の中で、それでも私たちがなすべきことは、暗闇を呪うことではなく、自ら小さな光となって「明るく笑顔で生きること」です。

  • 感情に左右されず、自分を律して生きる。
  • 言葉を口から出す前に、それが誰かを生かすものか、もう一度深く考える。
  • 悔いのないように、与えられた「今日」という命を精一杯に生きる。

台風が近づく重い空気の中でも、杖をつきながら急な坂を上り続けるあのおばあさんのように。私たちもまた、自分の弱さや社会の不条理を言い訳にすることなく、今日という日を誠実に、一歩ずつ上っていきましょう。

感情の波に飲み込まれそうになる時こそ、一度立ち止まって深呼吸をし、美しい言葉を選び取る。その小さな実践の積み重ねだけが、私たちの人生を確かなものにしてくれます。


昨晩、妻が焼いてくれたパンをいただきました。 とても美味しくて、心まで満たされる味でした。 本当に美味しいパンでした。毎日ではなく、たまにがいいのです。

今日も、共に前進です。