デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年9月25日金曜日

夜ラン20キロ完走

 


【満月が照らす川沿いの道】行き先の見えない世界で、確かな場所へ向かう歩み

夜8時を過ぎてから、ランニングのスタートを切りました。 夜に走るのは、おそらくこれで二度目のことかもしれません。誰もいない夜の川沿いを、ただ一人、静かな足音と自分の呼吸だけを聞きながら20キロを走り抜きました。

これで、今日の走行距離は合わせて50キロ。目標としている月間600キロまで、残り90キロのところまで来ました。

 


満月の明かりと、平凡な夜の静寂

今朝走ったのと同じ道を走っているはずなのに、夜の街はまったく違う顔をしていました。めったに見ることのない夜の風景の中で、私の足元を確かに照らしてくれたのは、夜空に浮かぶ満月でした。 街灯の少ない川沿いの道も、その銀色の光のおかげで暗さに沈むことなく、最後まで安心して走り続けることができました。

帰宅すると、娘はアルバイトに出かけており、家の中はひっそりとしていました。 今日は本当にゆっくりと休むことができそうです。しかし、その前に果たすべき大切な日課があります。愛犬ノアちゃんとの夜の散歩、そしてゴミ出しです。

  • 50キロという限界に挑むような非日常の走り。
  • 犬と歩き、ゴミを出すという、どこまでも地に足のついた日常。

この二つが私の内側で静かに交差するとき、平凡な一日が、かけがえのない「特別な意味」を帯びて輝き始めます。私たちは、ただ機械的に毎日を繰り返しているわけではありません。何気ない日常の営みの一つひとつに感謝の祈りを込め、意味を与えながら歩んでいるのです。

 


行き先の見えない世界の中で

今日、満月に照らされた川沿いの暗い道を走りながら、一つの思いが胸を満たしていました。今、この世界全体がどこへ向かっているのか、誰にも分かりません。 争いや分断が渦巻き、先行きが見えない不安な時代の中で、世界はまるで濃い霧の中を迷走しているかのようです。しかし、それでよいのです。 世界がどこへ向かうのかは分からなくても、「自分と家族がどこへ向かっているのか」は、私にははっきりと分かっています。

 


足元を照らす光、確かな目的地

キリスト者として生きるとは、世界のすべての謎を解き明かすことではありません。 それは、暗闇の中であっても、神様の言葉という「足元を照らす光」を頼りに、天にある確かな故郷(目的地)へ向かって、今日という一日を誠実に歩み続けることです。行き先が明確であるという確信こそが、どのような時代にあっても奪われることのない、深い平安の源泉です。明日は、雨模様の予報です。 それはきっと、今日50キロを走り抜いた身体に与えられた、天からの「休みなさい」という優しいサインでしょう。

世界がどれほど揺れ動こうとも、あなたの歩むべき道と、向かうべき場所は確かに守られています。 どうか今夜は、満月の光のように静かな神様の恵みに身を委ね、ゆっくりと心と体を休めてください。明日もまた、あなただけの確かな道のりが続いていくのですから。

国連、喧嘩の場?

 


【争い合う世界と、32キロの思索】人間の限界を知り、天の平和を乞い願う

呼吸を整え、一定のリズムでアスファルトを踏みしめる。 今日、私は深く思いを巡らせながら、32キロの道のりを走り抜きました。長い距離を走るとき、身体は苦痛と向き合いますが、その一方で精神は研ぎ澄まされ、普段は通り過ぎてしまうような根源的な問いが心の水面に浮かび上がってきます。今日、私の頭を占めていたのは、今私たちが生きているこの「争いばかりの世界」の現実でした。

 


崩れゆく「平和の塔」と人間の現実

走りながら、ふと考えました。 国連の創立の目的は、二度と悲惨な戦争を繰り返さないため、世界に平和をもたらすためであったはずです。それなのに、なぜ今の国連は、非難の応酬と喧嘩の場へと成り下がってしまったのでしょうか。

残念ながら、これが今の時代を如実に代弁しています。 世界には常に争いと、憎しみと、妬みが蔓延しています。誰もが自らの正義を振りかざし、決して他者に譲ろうとはしません。自国の利益だけを最優先し、少しでも自らを脅かすものがあれば容赦なく相手を攻撃する。武力による戦争だけでなく、経済の覇権を争う貿易戦争までもが世界を覆い尽くしています。「グローバル」という、かつて希望をもって語られた言葉は、もはや空虚で無意味な響きしか持たなくなりました。

 


この時代を生き抜くための知恵

私たちは、この息苦しく、分断された時代をどう生き抜けばよいのでしょうか。 膨大な情報を前にして、特定の国を非難したり、新しい政治システムに期待したりすることも一つの反応かもしれません。しかし、32キロの道のりを一歩一歩進む中で、私の中に確信として迫ってきた「知恵」は、もっと深く、根本的なものでした。

それは、「人間の力だけでは、決して真の平和を築くことはできない」と、徹底的に思い知ることです。私たちは賢い生き物であり、高い理想を掲げて国連のような素晴らしい機関を創り出す知性を持っています。しかし同時に、自らの利益のためならいとも簡単にその理想を裏切り、他者を傷つけてしまう「罪」や「本能(獣性)」を内包しています。 どんなに立派なシステムを作っても、それを動かす人間の心が妬みや自己中心性で満たされていれば、そこはすぐに争いの場へと変わってしまうのです。

 


限界の先にある、真の平和

この時代を生き抜くための最も確かな知恵。 それは、人間の知性や力に対する傲慢さを捨て去ることです。

  • 自分たちの力では世界を救えないと認める「謙虚さ」を持つこと。
  • そして、人間の外側から与えられる「神の平和」を切に求めること。

本当の平和(シャローム)とは、人間同士の妥協や利害の一致で作られる脆い協定ではありません。それは、私たちの内なる罪を赦し、憎しみを愛へと造り変えることのできる、神様だけが与えることのできる恵みです。32キロの長距離を走り終えたとき、人間の肉体がいかに限界のある弱いものであるかを実感します。しかし、自分の弱さと限界を知るからこそ、私たちは天を見上げ、助けを求めることができるのです。

世界がどれほど騒がしく、争いに満ちていても、あなたの心まで憎しみに染まる必要はありません。 今日、自らの力の限界を静かに認め、天から降る真の平和を祈り求める者でありたいと思います。その謙虚な祈りこそが、この荒れた時代に灯をともす、確かな希望の一歩となるのですから。

 

2026年9月24日木曜日

秋の風に吹かれて

 


『実りの秋風と、今日という一歩』

澄んだ冷気が、そっと頬をなでる朝

夏を駆け抜けた木々が 静かに色づく準備を始めている。

季節は巡り、確かな実りの時が来た。

行き止まりの坂道で流した汗も 

感情の波に揺れ動いた心も 

その一つひとつは決して無駄ではなく あなたの内なる、確かな力へと変わっている。


渇きを癒やす道端の泉のように 

人生の至る所に、恵みはすでに置かれている。

だから、焦って急ぐ必要はない 。

立ち止まり、深く考え、静かな御声に耳を澄ませよう。

黄昏の光は、命への優しいご褒美

愛する者と分かち合う食卓 

温かな労わりと、ささやかな喜びの果実

その何気ない瞬間にこそ、永遠の愛が宿っている。


さあ、今日という新しい一日を生きよう

遠くを見過ぎず、ただ与えられたあなたの歩幅で

見えない空の向こうからの眼差しに見守られながら

涼やかな秋の風と共に、確かな一歩を踏み出そう。

すべては、恩寵のひかりの中にあるのだから。


今日という日が、豊かな実りと静かな平安に満ちた、最後まで素晴らしい一日となりますように。

2026年9月23日水曜日

連休も終わりです。

 


二時間のビーフシチューと、祈りの火

連休の終わりが近づいています。とはいえ、私は普段からカレンダーの休日にあまり左右されない生活をしています。正確に言えば休日はないかも・・・

それでも連休には、どこか心と体をゆるめてくれる不思議な力があります。少しだけ歩調を落とし、呼吸を整えられる恵みの時間です。

今日はビーフシチューを作りました。

私が作る料理の中では、いちばん時間がかかる料理です。約二時間。

長い時間をかけて鍋を見守り、火加減を調整しながら仕上げていきます。しかし実際に食べるのは、ほとんど二人だけです。

しかも私は、ビーフシチューが特別大好きというわけではありません。嫌いではないけれど、どうしても食べたいというほどでもない。

それでも作るのです。

 


時間は、愛のかたちになる

考えてみれば不思議です。

好きだから作る。 食べたいから作る。

そういう理由だけなら、もっと簡単な料理を選ぶこともできます。

それでも二時間をかけるのは、その料理を待つ人がいるからです。

誰かのために野菜を切り、 誰かのために鍋をかき混ぜ、 誰かのために時間を差し出す。

その積み重ねによって、一皿の料理は単なる食事以上のものになります。

時間は有限です。

だからこそ、自分の時間を差し出す行為には意味があります。

愛とは必ずしも大きな言葉ではなく、「二時間かけてビーフシチューを作る」というような、静かな選択の中に宿るのかもしれません。

 


休むこともまた、大切な務め

明日は休むことにしました。

先週の土曜日にフルマラソンを走り、その後も走り続け、今日もフルマラソンを走りました。走ることは好きです。

けれど、前へ進むことだけが知恵ではありません。

体の声を聞き、足を止める勇気も必要です。

私たちは時々、「走り続けること」に価値を置きすぎてしまいます。

しかし人生には、立ち止まることでしか見えない景色があります。

階段を一段ずつ上るように歩むためには、ときに踊り場で呼吸を整えなければなりません。休息は怠慢ではなく、次の一歩を健やかにするための備えなのです。

 


世界の悲しみの中で

ふと目を向ければ、今日も世界では事件や事故が起こっています。

平和に過ごせた日など本当にあったのだろうかと思うほど、人の悲しみは絶えることがありません。

誰かの過ちによって失われてしまう命があります。

残された人々の痛みを思うと、胸が締めつけられます。

私たちは遠くで起きた出来事を変えることはできないかもしれません。

けれど、悲しみを無関心に通り過ぎるか、心を向けて祈るかは選ぶことができます。

小さな祈りは、すぐに世界を変えないかもしれません。

それでも祈りは、人の心を冷たくする流れに抗う、小さな火種です。

 


火を絶やさないために

聖書には、

「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」

とあります。

誰かの痛みに心を寄せること。

誰かのために時間を使うこと。

そして、自分自身も休みながら歩み続けること。

それらは別々のことではなく、同じ一本の道につながっているように思います。

二時間かけて煮込んだビーフシチューの火。

疲れた体を休ませる静かな時間。

悲しみの中にある人々のための祈り。

どれも目立つものではありません。しかし、そのような小さな火が消えない限り、世界にはまだ希望があります。

連休の終わりの夕暮れに、そんなことを思いました。

今日という一日が、誰かの心を少しでも温めるものでありますように。私たちの小さな愛と祈りが、明日へ続く道をそっと照らしますように。そして明日からの娘の実習が恵み豊かな時となりますように。

朝ラン42.20km完走

 


【行き止まりの坂道が培うもの】焦りを手放し、短き秋の歩幅を味わう

まだ夜のとばりが深く降りている午前4時前、静寂の街へ向けてランニングをスタートさせました。走り始めの気温は15度。肌に触れる空気はすっかり涼しくなりましたが、あえて真夏の格好で走り出した私の身体からは、やがて噴き出すように汗が溢れました。 今日挑んだのは、太白区の中で最もきついであろう「緑が丘の坂道」です。



この坂を駆け上がるのは二度目でしたが、実は途中で道を間違えてしまいました。何度試しても行き止まりにぶつかり、そのたびに周辺の坂道を上り下りして引き返すことになったのです。しかし、結果としてそれが、思いがけず素晴らしいトレーニングの負荷となりました。

 


33キロ地点の問いと、本質への気づき

「このまま走り続けるか?」

青葉山公園の33キロ地点に差し掛かった時、私は自分自身にそう問いかけました。そして、心の奥底にある静かな力に背中を押されるように足を前に出し続け、最終的に42.20キロを走り抜きました。これで9月に入ってから3度目のフルマラソン完走となります。



この長距離を走る中で、一つの確かな真理に思い至りました。 マラソンにおいて最も重要なのは、最初から「スピード」を求めることではなく、「距離」を踏むことです。一定のスタミナを維持しながら長く走り続ける土台を築くこと。スピードの調整に入るのは、その確かな土台ができてからのことなのです。

 


「行き止まり」と「達成可能な目標」の恩寵

このままの訓練を続けていけば、1年の間に「サブ3」という目標に到達できるかもしれない。そんな希望の光が見えました。 しかし、私は決して無理をして急ごうとは思いません。11月には、スペイン・サンティアゴへと向かう祈りの旅(巡礼)も控えています。

今はただ、焦らず、少しずつ前に進めることを選びます。

  • 行き止まりは、無駄ではない 道を間違え、行き止まりの坂道を何度も引き返した今日の経験は、人生そのものです。私たちは時として、無駄な回り道をしたように感じて落胆します。しかしその「行き止まりの反復」こそが、私たちの魂のスタミナを密かに、しかし確実に鍛え上げてくれているのです。
  • 希望の灯としての「適切な目標」 目標を持つことは、平凡な日常に確かな刺激と前を向く力を与えてくれます。しかし大切なのは、最初から高すぎる山を見上げて絶望するのではなく、「達成可能な目標」を一つひとつ立ててクリアしていくことです。小さな成功体験の積み重ねこそが、確かな自信となり、真の成功への道となります。

 


短き秋を、美味しく味わい尽くす

秋という季節は、驚くほど短く、あっという間に過ぎ去ってしまいます。 気づけば冷たい木枯らしが吹き、厳しい冬が訪れるでしょう。だからこそ、神様が与えてくださったこの恵みの秋を無駄にせず、有意義に用いて前に進むことが大切です。

焦って全速力で駆け抜ける必要はありません。 涼しい風の匂いや、実りの季節の美味しい恵みを、心と体でしっかりと味わいながら過ごすことです。



行き止まりの道も、流した汗も、すべてはあなたの魂の持久力に変わっています。 今日も、あなたにしか歩めない確かな歩幅で、この美しい秋の一日を精一杯に生き抜いていきましょう。

2026年9月22日火曜日

秋の風景

 


【秋風と、黄昏の思索】賑わう街の奥で味わう、静かな命の収穫

晴れ渡る空の下、連休を迎えた仙台の街は、いつも以上の賑わいを見せていました。行き交う人々の活気、弾むような声。活気づく街を歩いていると、世界が「生きている」という力強い鼓動を肌で感じます。

買い物を無事に終えて帰宅し、まずは一人でゆっくりとブランチを済ませました。 そして、そこからは愛犬ノアとの静かなひと時です。

 


活気ある街と、静かなるリビング

外の世界の賑わいとは対照的に、わが家には、とても穏やかでゆったりとした時間が流れていました。娘は新しい実習のための勉強。妻は、高齢になったノアの身体を優しくマッサージし、そのあと伸びていた毛を丁寧にカットして整えていきます。すべてが終わると、ノアはお待ちかねの「林檎」をもらいます。 気温はまだ高く暑さを感じますが、窓から吹き込む風には、確かな涼しさが混じっていました。

  • 太陽の光にあふれる活発な外の世界
  • 老いを受け入れ、労わり合う静かな家の中

この二つの風景は、まるで人生の「夏」と「秋」を同時に見ているかのようです。

 


「何かをする」季節から、「想う」季節へ

明日は「秋分の日」です。昼と夜の長さが等しくなり、ここから少しずつ、夜の静寂が長くなっていきます。季節の変わり目には、どこかへ出かけたり、何か新しいことを始めたくなったりするものです。しかし、今年のこの風を前にして、私はただ忙しく動くのではなく、静かに「人生の黄昏」について考える時間を過ごしたいと思っています。黄昏とは、決して寂しいだけの時間ではありません。 厳しい夏の暑さを越え、懸命に走り抜いてきた者が、ようやく涼しい風の中で一息つける恩寵の時です。マッサージを受け、毛を整えられ、甘い林檎を美味しそうにシャリシャリと噛む老犬ノアの姿を見ていると、老いていく命にも、神様からの優しいご褒美が必ず用意されているのだと気づかされます。

 


実りの秋、命の収穫を味わう

読書の秋、収穫の秋。 街のお店には、豊かな秋の食材がずらりと並んでいました。熱いご飯にのせた「たらこ飯」もいいかもしれない。そんなふうに、今日の食卓を思い描く喜びがあります。

  • 若き日のように、がむしゃらに何かを獲得するのではなく。
  • 与えられたものを、ただ感謝して美味しく味わうこと。

これこそが、人生の黄昏に許された「命の収穫」です。 美味しいものが食べられる季節。それは、私たちの身体と魂を静かに養ってくれる、神様からの確かな恵みです。



今日も、精一杯に生きることです。 頬をなでる秋風の涼しさに感謝し、与えられた今日という日を、豊かに、そして美味しく味わいながら。

朝ラン30キロ完走

 


【見えざる泉に潤されて】30キロの渇きと、今日を生き抜く食卓

雨上がりのしっとりとした空気を切り裂くように、朝5時、ランニングをスタートさせました。 降り続いていた雨はやみ、雲の隙間からは柔らかな晴れ間が顔を覗かせています。日中は気温が30度まで上がるとの予報通り、走るほどにじっとりとした熱気が身体を包み込みました。本日の走行距離は30キロ。 久々に帰宅して体重計に乗ると、なんと走る前より3キロも減量していました。流した汗の重さが、そのまま3キロ。それは、今日という日に私が注ぎ出した「命の水分」の重さでもありました。

 


どこにでもある「命の泉」

途中の道すがら、私は一台の自動販売機に立ち寄り、渇ききった喉を潤しました。

街のあちこちで見かけるこの会社の自販機。設置台数でギネスブックに登録されているそうで、確かにどこを走っていても目に入ります。しかも、飲み物の価格はおそらく一番安い。 普段は何気なく通り過ぎているだけの四角い箱ですが、汗をかき、限界まで水分を失いながら走る私にとって、それは道端に用意された「命の泉」そのものでした。

「どこにでもある」ということ。 それがいかにありがたく、人を救うことか。安価で、至る所に置かれているおかげで、私は今日も倒れることなく30キロを走り抜くことができたのです。

 


枯渇と満たしのサイクル

今月は少し厳しいランニングが続いています。ですが、あと200キロ走れば、目標である「月間600キロ」に到達します。身体がその距離に完全に慣れるまでは、しばらくこの月600キロという負荷を自分に課し続けると決めています。

人は、自らをすり減らし、汗を流し、空っぽになるまで力を出し尽くす生き物です。 しかし、空っぽになったなら、また満たせばいい。道端の自販機が私の渇きを癒やしてくれたように、私たちの歩む道のりには、見えなくても必ず「潤いの泉」が用意されているからです。神様の恵みもまた、その自販機のように「私たちの人生の至る所に、すでに置かれている」のだと気づかされます。

 


愛する者を潤すために

今日は連休の休日です。 しかし、私の娘はこの連休中も、自分のアルバイトに一生懸命励んでいます。彼女もまた、自分の持ち場で懸命に汗を流し、エネルギーを注ぎ出しているのです。だから私は、これから「ロピア」へ買い物に出かけます。 頑張って帰ってくる娘のために、とびきり美味しい料理を作るためです。

  • 自分が注ぎ出したものは、天からの水で潤される。
  • そして今度は、自分が誰かのための「潤いの泉」となって、温かい食事を差し出す。

これこそが、私たちの日常に流れる美しく尊い循環です。 特別なことは何もありません。ただ汗を流し、水を飲み、家族のために肉や野菜を買い、火を使って料理をする。

 


「今日も生きることです。」

特別な奇跡を求めるのではなく、与えられた今日という一日を、誠実に、精一杯に生き抜くこと。 あなたの今日が、たとえどれほど汗を流すような一日であったとしても、その道の途中には必ず、あなたを潤す泉が用意されています。

どうか、安心してその歩みを進めてください。 今日もまた、温かい食卓があなたを待っています。

2026年9月21日月曜日

ご来光(??)

 


ご来光を待つ人々

早朝の富士山頂へ向かう長い列を想像してみます。

そこには学生もいるでしょう。 会社経営者もいるでしょう。 AIを開発する技術者も、 世界中を飛び回るビジネスマンも、 研究者も、 医師も、 教師もいるかもしれません。

彼らは高度な知識を持ち、 スマートフォンで世界中の情報にアクセスし、 人工知能を駆使しながら働いています。

しかしその人々が、 夜明け前の暗い登山道を歩き、 東の空が明るくなるのをじっと待っているのです。

なぜでしょう。

太陽は毎日昇ります。

天文学的には説明できます。 地球の自転による現象です。

それでも人は、 ただの自然現象として片付けられない何かを 朝日に感じています。


人間は「意味」を求める存在

21世紀は情報の時代です。

検索すれば答えが出ます。 AIに尋ねれば瞬時に説明してくれます。

けれども人間が本当に求めているのは 「答え」だけではありません。

「意味」です。

なぜ生きるのか。 なぜ今日を始めるのか。 なぜ苦労して山を登るのか。

それらはデータでは解決できません。

だから人は、 ご来光を見つめながら、 言葉にならない何かを受け取ろうとするのです。


太陽は支配しない

聖書の最初のページには、 太陽は神ではなく、 神によって造られた被造物として描かれています。

これは驚くべき視点です。

古代世界では太陽は崇拝の対象でした。

しかし聖書は、 太陽を礼拝せよとは言いません。

むしろ、 太陽の向こうにある創造主を見上げなさいと語ります。

だから私たちは朝日そのものではなく、 朝日が指し示す恵みを見ることができます。

毎朝変わらず光が与えられること。 新しい一日が始まること。 失敗した昨日の続きではなく、 もう一度生きる機会が与えられること。

そこに神の憐れみを見るのです。


AI時代にも消えない渇き

AIは便利です。

仕事を助け、 知識を整理し、 効率を高めてくれます。

しかしAIは朝日を見て涙を流しません。

感動しません。

祈りません。

人間だけが、 光に希望を重ね、 朝焼けに人生を重ねます。

それは人間が単なる情報処理装置ではなく、 霊的な存在だからではないでしょうか。

どれほど科学が進歩しても、 どれほど技術が発達しても、 人の心の奥には 「光を求める渇き」が残っています。

だから人々は富士山へ向かいます。

知識のためではなく、 感動のために。

効率のためではなく、 希望のために。


今日のご来光

富士山に登らなくても、 私たちにも毎朝ご来光があります。

カーテンの隙間から差し込む光。

犬との散歩道で見上げる空。

静かな祈りの時間。

湯気の立つ朝のコーヒー。

その光の中で、 神は今日も新しい一日を与えてくださっています。

21世紀を生きる私たちは、 最先端技術を使いながらも、 実は昔と同じように光を求めています。

それは弱さではありません。

むしろ人間らしさです。

富士山の登山道にできた長い列は、 単なる観光客の列ではないのかもしれません。

それは、「希望の光を見たい」という、 時代を超えて変わらない人間の魂の列なのです。

「民は暗闇の中を歩んでいたが、大いなる光を見た。」 (イザヤ9:2)

 

ご来光(?)

 


今朝、富士山のご来光を目指す登山者の混雑についての記事を読みながら、ふと約20年前のことを思い出しました。

当時、静岡草深教会の会員の方に誘っていただき、仲間たちと富士山に登ったのです。

夜11時頃、ヘッドライトの灯りを頼りに山道を歩き始めました。周囲は漆黒の闇です。しかし、不思議なことに、山頂を目指す人々の列には高揚感がありました。「もうすぐ朝日が見られる」という期待が、一歩一歩を支えていたのです。

そして夜が明けました。

東の空が少しずつ赤く染まり、やがて太陽が姿を現した瞬間、山頂には歓声ともため息ともつかない声が広がりました。私もその光景に心を奪われました。(実は自分は高山病で苦しかったのですが・・・しかし下山の時には走って下りました。)

思い返せば、日本で最初に登った本格的な山は富士山だったように思います。少々無謀な山登りの始まりでしたが、その体験がきっかけとなって山が好きになりました。

その後、さまざまな山を歩くようになり、今では山道を走ることもあります。登山からトレイルランニングへと形は変わりましたが、山に向かう気持ちの根っこはあまり変わっていないように感じます。

なぜ人は山に登るのでしょうか。

頂上に立つためでしょうか。 景色を見るためでしょうか。 健康のためでしょうか。

もちろん、それらも理由の一つでしょう。

しかし富士山のご来光を目指す大勢の人々を見ていると、人は単に景色を求めているのではなく、「光」を求めているのではないかと思うのです。

21世紀を生きる私たちは、多くの知識を手にしました。スマートフォン一つで世界中の情報に触れ、AIによって仕事の仕方も大きく変わっています。

それでもなお、人々は夜の山道を登り、東の空から昇る太陽を待ち続けます。

人間の心の奥には、科学や技術だけでは満たされない何かがあるのでしょう。

私たちは知識だけで生きているのではありません。希望によって生きています。

だから今日も、富士山の山頂に向かう人々の列は絶えないのかもしれません。

毎朝昇る太陽は、「今日も新しい一日が与えられている」という静かなメッセージを私たちに届けてくれます。

富士山で見たあのご来光から20年余り。山道を走る今も、その光の中に希望を見出そうとしている自分がいることに気づかされます。