痛みを走って癒す朝——遥かなるボストンへ
63キロの翌朝に
昨日、63キロのウルトラマラソンを走りました。
その代償は、ずっしりとした疲労と、脚全体に広がる筋肉痛として、確かに体に刻まれていました。それでも今朝4時50分。まだ夜明け前の冷気が漂う中、私は再びランニングシューズの紐をきつく結び、道へと飛び出していました。深い疲労を、あえて走ることで癒していく。それが、昔から変わらない私流の整え方です。
今朝の記録
- 距離:21.21キロ(ハーフマラソンの距離)
- タイム:1時間46分35秒
- ペース:キロ5分01秒
- 心拍数:148bpm
- 消費カロリー:1,257キロカロリー
汗だくで帰宅した私を迎えたのは、妻の呆れ返った顔でした。
遠い頂を見上げる、私の歩き方
妻が呆れるのも無理はありません。昨日の今日でハーフの距離を走ったことに加えて、私が今、心に描いている目標が「ボストンマラソン」だからです。
ボストンマラソンは、年齢ごとに定められた厳しい資格タイムを、公認の大会で突破しなければ出場できない、世界最高峰の大会です。そして私が今目指しているのは、フルマラソンを3時間以内で走る「サブ3」。
市民マラソン大会を一度も走ったことのない男が目指すには、あまりにも遠い場所です。
自分でも「なぜ、いきなりボストンなのか」と笑ってしまいます。けれども振り返ってみると、私の初めての登山は、いきなり日本一の富士山でした。
常識的な階段を一段ずつ昇るのではなく、遥か遠くの途方もない頂をじっと見つめ、不器用なまま大きな一歩を踏み出してしまう。それが、私という人間の変わらない歩き方なのだと思います。私たちは時に、自分の身の丈に合わないような大きな夢や、とても届かないと思える高い壁を前にして、理由のない情熱に突き動かされることがあります。
それは、ただの無謀ではないのかもしれません。神様が、私たちの内側に眠っている「まだ見ぬ可能性」を引き出すために与えてくださった、聖なる衝動なのかもしれません。
走り抜くための「休息」
聖書には、人生という道のりを走る者に向けた、力強いエールが記されています。
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。(ヘブライ人への手紙 12章1節)
一人ひとりに定められた、高く、長いコース。それを走り抜くためには、時に自分の限界を押し広げる挑戦が必要です。そして同時に、静けさの中で体をいたわる時間も欠かせません。今日と明日は、酷使した体にしっかりと休息を与えようと思います。走ることと同じくらい、深く休むこともまた、次の一歩のための大切な「前進」だからです。
命がある限り
命がある限り、走り続ける。祈り続け、語り続け、そして愛し続ける。
妻の呆れ顔の奥にある優しさに感謝しながら、今日も私は、私にしか走れない人生のコースを、喜びとともに前進していきます。