デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月31日月曜日

8月31日

 


速度を落として見えてくる景色——9月の風と「生活道路」の祈り

8月の最終日。窓を開けると、吹き抜ける風にほんのわずかな秋の温度が混じり始めているのを感じます。

明日から新しい月、9月が幕を開けます。カレンダーをめくるという静かな動作とは裏腹に、私たちの日常を取り巻く現実は、明日から少し慌ただしく形を変えようとしています。食卓でおなじみの「ちくわ」など、水産練り製品の価格が一斉に値上げされます。商品によっては2%から最大30%ほど価格が上がるとのこと。私が家族のために作る日々の手料理でも、ちくわは彩りや旨味を添えてくれる身近な存在です。こうした家計への小さな、しかし確実な摩擦は、私たちが生きるこの社会の厳しさを静かに物語っています。

しかし、明日から変わる最も大きなルールは、私たちの「歩む速度」そのものに関するものです。

 


「生活道路」の制限速度が60キロから30キロへ

明日、91日から、道路交通法の改正により「生活道路」における自動車の法定速度が、これまでの時速60キロから原則「時速30キロ」へと引き下げられます。 ニュースを見て、「生活道路って具体的にどんな道だろう?」と疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれません。ここで少し、丁寧にお話ししておきます。

  • 生活道路とは何か センターライン(中央線)や中央分離帯が引かれていない、道幅の狭い一般道路のことです。
  • 私たちの身近な舞台 住宅街の路地、商店街、子どもたちの通学路など、まさに私たちが日々歩き、自転車をこぎ、愛犬の散歩をする「日々の生活の舞台」となっている道です。実は、全国の一般道路の約7割がこの生活道路に該当します。
  • なぜ30キロなのか これまで、標識がない細い道でも法律上の最高速度は時速60キロでした。しかし、自動車が歩行者と衝突した際、車のスピードが「時速30キロ」を超えると、命を落とす確率(致死率)が急激に跳ね上がるという明確なデータがあります。つまり時速30キロとは、急な飛び出しがあっても安全に止まれる、「命を守るための境界線」なのです。


 

効率という名の60キロから、愛するための30キロへ

この法改正は、単なる交通ルールの変更にとどまらない、深い霊的な問いを私たちに投げかけているように思えてなりません。

ちくわの値上がりに象徴されるように、世の中は常に私たちに「もっと効率よく」「もっと急いで」生きることを要求してきます。物価が上がれば、その分急いで働き、余裕を削って帳尻を合わせようとしてしまうのが人間の性です。人生の幅の狭い「生活道路」を、時速60キロという猛スピードで駆け抜けようとする時、私たちの視界は極端に狭くなります。猛スピードで走っている時、私たちは道端に咲く小さな花に気づくことはできません。立ち止まって途方に暮れている隣人の涙を見ることもできません。ただ「自分の目的地」に早く着くことだけで頭がいっぱいになり、一番大切な誰かを傷つけてしまう危険と隣り合わせになります。

 


聖書を開くと、主イエス・キリストの歩みは、決して時速60キロの猛スピードではありませんでした。 主が歩かれたのは、立派な大通りではなく、病む者、悲しむ者、そして幼い子どもたちがひしめき合う、ガリラヤの土埃まみれの「生活道路」でした。主は常に、人々の痛みの前で立ち止まれる速度で歩かれました。声をかけられれば足を止め、その瞳をのぞき込み、優しく触れられたのです。


 

心の中に「ゆとり」というブレーキを

サブ3という高い目標を目指してマラソンの練習をしている私自身、走るペース(速度)には常に気を配っています。しかし、人生という長く尊い巡礼の旅においては、あえて「速度を落とす意志」を持つことが、いかに重要であるかを教えられます。

明日から、車を運転して細い道に入る時は、意識してアクセルから足を離し、時速30キロまで速度を落とさなければなりません。その時、私たちの心の中の速度も一緒に落としてみませんか。「急がなければ」という焦りを手放し、目の前にいる家族の表情を確かめること。食卓に並ぶ値上がりしたちくわを前にしても、それを分かち合える命があることに深く感謝すること。速度を半分に落とすことで生まれる「心のゆとり」こそが、私たちが誰かを愛し、優しくなれる余白となるのです。

新しい9月の道。それは、愛する者たちを守るために、私たちが意識してゆっくりと歩むための道です。

今日も、共に前進です。

一日始まりのおはよう!はノアに

 


雨の匂いと静寂の足音、生き抜くという名の祈り

深夜2時過ぎ、小雨の降る中で愛犬ノアとの一日が始まりました。

階段の上から、今日も一人で無事に下りてこられるだろうかと、祈るような気持ちで息を潜めて待ちます。一段、また一段。無事に下りてくるその姿を見るだけで、胸の奥に静かな感謝が広がります。 一日の始まりに、私が最も早く言葉を交わすのはノアです。彼は無言ですが、その豊かな表情で確かに「おはよう」と語りかけてくれます。

 


ゆっくりと刻まれる、命のリズム

資源ごみの回収日である今日は、缶と瓶の入った箱を片手に持ちながら2人で歩き出しました。 今日のノアの歩みは、いつもより少しゆっくりでした。小雨が降る静寂の早朝、近くの小学校を一回りする道のりには、ただノアの優しい足音だけが響いています。 帰宅後、彼はゆっくりと階段を上り、途中の踊り場でふと立ち止まりました。私が事務室につながるドアの向こうへ姿を消すのを、じっと見届けてから、二階の自分の小屋へと入っていくのです。そのけなげな後ろ姿に、言葉以上の深い繋がりを感じます。

仕事に向かう前、ふと急にラーメンが食べたくなり、以前買っておいたカップ麺一つとバナナを口にしました。普段はできるだけインスタントを避けていますが、たまにはこうした人間らしい欲求に身を任せるのも、また日常のささやかな味わいです。

 


92年という歳月が放つ光

今日は、教会員の中で最高齢となる方の92歳のお誕生日です。最高齢者のみ特別な日には手紙を直接届けることにしていますが、小雨が続いていたため、走って行くのはやめて車を走らせました。

午前320分に出発。泉区の将監までの道のりは、決して短い距離ではありません。過去に何度もこの道を自分の足で歩いて訪問した記憶を重ね合わせながら、ハンドルを握りました。無事に手紙を投函し、帰宅できたことにまた一つ感謝が重なります。

「自分も92歳まで生きられるかな?」 決して長く生きることを強く望んでいるわけではありませんが、この兄弟の姿を思い浮かべると、そんな問いが自然と頭をよぎります。 病気を抱えながらも、ご自宅からバスで泉中央駅へ向かい、電車に揺られて長町駅で降り、そこから自らの足で歩いて教会へとやって来られるのです。その姿を見るたび、私の胸は熱く打たれます。

 


命ある限りの礼拝

  • 歩みが遅くなっても、確実に前へ進むこと。
  • 体が痛んでも、見上げるべき光を忘れないこと。

彼のその歩みそのものが、「命がある限り、主なる神様を礼拝し、信仰によって生きる」という力強い説教として私たちの心に響いてきます。それは、今朝のノアの静かで確かな足音ともどこか重なる、命の尊い輝きです。

今日は、リフレッシュの日と決めました。明日からの新たな歩みのために、心と体を静かに整え、備える一日にします。 命の長さを決めることはできませんが、与えられた今日という一日を、どのように生きるかは私たちが選ぶことができます。

今日も精一杯に生きる。

今日も、共に前進です。

家族との会話が1日15分未満?

 


同じ屋根の下の孤独を溶かす、一杯のコーヒーと小さな対話

仙台も8月の終わりを迎え、夕暮れの風に少しずつ秋の気配が混じるようになりました。

キッチンに立ち、家族のために鶏むね肉の料理やナムルビビンバを仕込む時間は、私にとって心を整える大切な儀式です。足元では13歳になる愛犬が、リンゴのおすそ分けを待って静かに尻尾を揺らしています。こうした何気ない日常の風景の中にこそ、私たちの命を支える温度が宿っていると感じます。

「一緒にいる」という錯覚の裏側で

先日、ある調査結果を目にして、思わず手が止まりました。「同居する家族がいるのに、家の中で一人で過ごし、会話が115分未満の中高年」は、一人暮らしの人よりも心身の健康リスク、特にうつ状態に陥るリスクが高いというのです。

「同じ屋根の下にいるのだから、繋がっているはずだ」。私たちは時として、その物理的な近さに甘え、最も身近な人の心の輪郭を見失ってしまうことがあります。家族のために懸命に働き、それぞれの場所で戦っているからこそ、すれ違い、いつの間にか「家庭内孤立」という透明な壁が築かれてしまう。これは、決して他人事ではありません。

幸福の土台は「関係の質」にある

ハーバード大学が80年以上にわたり追跡した研究も、ひとつの普遍的な真理を明らかにしています。私たちの幸福と健康を決定づけるのは、富でも名声でもなく、「身近な人との関係の質」である、と。 関係の質とは、特別なイベントで築かれるものではありません。日々の生活という、地道で、時に単調な営みの中にこそ結実するものです。

今日から紡ぎ直す、確かな道

この透明な壁を溶かし、家庭を本当の意味での「安全基地」にするために、今日から私たちにできる確かな道があります。

  • 食卓という魔法の空間を大切にする: ほんの15分でも、テレビやスマートフォンを置き、手作りの料理を前に顔を合わせる。そこには自然と「美味しいね」という共感が生まれます。
  • 香りと音で「余白」をデザインする: 食後、すぐに自室へ戻るのではなく、リビングに落ち着いたジャズを流し、温かいコーヒーを淹れる。その香りに誘われて、家族が自然と集まる空間の余白を作ること。
  • 「ありがとう」を声に乗せる: 実習でくたくたになって帰ってくる家族や、日々の仕事で汗を流す家族へ。「言わなくてもわかるだろう」という思い込みを捨て、一日の終わりに「お疲れ様」「いつもありがとう」と、声に出して届けること。

ほんの少しの意志と思いやりが、孤立という冷たさを溶かしていきます。 さあ、今夜はどんな音楽をかけ、誰に「ありがとう」を伝えましょうか。

今日も、共に前進です。

2026年8月30日日曜日

一日が終わる

 


暮れゆく夏と、整えられた流し台に宿る希望

雨の日である今日もこうして、静かに一日が幕を下ろそうとしています。

午後は少し外へ出て、買い物を済ませました。今日もアルバイト先で一生懸命に汗を流している娘の顔を思い浮かべ、パンセに立ち寄ってパンを買ってからの帰宅。夕食には、おかずを二品手作りしました。

料理を終えた後の片付けには、私なりの小さな流儀があります。洗い物の水気を丁寧に拭き取って定位置の棚へとしまい、流し台の周りを水滴ひとつ残さず綺麗に磨き上げる。ただそれだけのことですが、この自分流のキッチンの仕事が、一日の終わりの心をすっと整えてくれます。

 


季節の区切りと、次への助走

世間では北海道マラソンが終わりました。私自身の「フルマラソン」は昨日すでに走り終えていますが、大きな区切りを越えた今、9月の足音がすぐそこまで近づいているのを感じます。

  • いずれ、この夏も終わりを告げます。
  • 新しい季節が、静かに、しかし確実にやってきます。

気持ちを切り替え、9月からはまた新たなプランでのランニングが始まります。終わったことにすがりつくのではなく、拭き上げられた真っ新な流し台のように心をリセットして、次の季節へと踏み出すのです。

 


生きること、希望を紡ぐこと

娘のためにパンを買い、台所に立ち、水滴を拭き取り、また明日走るために靴紐を結ぶ。その繰り返されるすべての営みは、ひとつの真理に行き着きます。

それは「生きること」です。

聖書が教えているように、私たちの人生には季節があり、夜の後には必ず新しい朝の光が用意されています。命がある限り、私たちはどんな場合、どんな暗闇の中にあっても、決して奪われることのない希望を持つことができるのです。

磨き上げられた流し台は、明日という新しい日、新しい恵みを受け取るための静かな準備であり、祈りでもあります。過ぎ去る夏に感謝を告げ、また新しい道を力強く走り出しましょう。

今日も、共に前進です。

確かな土台を信じて今日も前進

 


雨音の朝、休息という名の強い意志

今日は一日、雨模様です。礼拝の準備を終え、少しゆっくりとした主の日の朝を迎えています。昨日はフルマラソンを走りました。いつもの私であれば、今日も当然のように30キロの道のりを走り出していたはずです。しかし今朝は、強制的に体を休ませる決断を下しました。 立ち止まること、休むこと。それには時として、走り続けること以上に「強い意志」が求められるものです。

 


さらなる高みへ、変わらない日常とともに

明後日から迎える9月、ランニングのプランを刷新し、レベルをもう一段階引き上げることにしました。目指すは「サブ3」です。 かつてはサブ4で十分に満足できると考えていました。しかし、さらに上を目指す情熱を手放してしまえば、走る喜びに少しずつ靄がかかってしまうことに気づいたのです。ここから約半年、これまで経験したことのない週1回のインターバル走を取り入れ、少し強度の高い練習に挑みます。

  • 生活の軸はブレさせない: ランニングに力を入れるからといって、これまでの仕事や日常の歩みがおろそかになることは決してありません。
  • 積み重ねたものを守る: いつも通りにやるべきことを淡々とこなしながら、その延長線上で走りに熱を注ぎます。

 


それぞれの場所で、命を燃やす

家族もまた、それぞれの場所で懸命に生きています。 娘は昨日約10時間のアルバイトをこなし、今日も12時からバイトです。そのひたむきな背中に、深い感謝を覚えます。今週から彼女は、整形外科での新たな実習を迎えます。妻の右腕の痛みの改善に役立つかもしれないと「よく見ておいてね」と声をかけましたが、「受け持つ患者さんは別の部位だから、あまり役に立たないかも」と微笑ましいやり取りを交わしました。 私たちは皆、与えられたそれぞれの場所で、今日という日を懸命に生きています。

 


揺るがない土台の上に立つ

しかし、ふと世界に目を向ければ、今日この日にも思わぬ出来事によって大切な命が失われ、深い悲しみと涙に暮れる人々がいます。 この不条理で、いつ何が起こるか分からない世界を生きる私たちには、決して揺らぐことのない「確かなもの」が必要です。どんな嵐の時にも、足元を支え続けてくれる強い土台がなければ、私たちは簡単に絶望へと流されてしまいます。イエス・キリストこそが、私たちの人生の確かな土台です。 その揺るぎない岩の上に立っているからこそ、私たちは得体の知れない不安に恐れることなく、今日与えられた命の温もりに感謝し、力強く歩むことができるのです。

確かな土台を信じて。 今日も精一杯に生きる。精一杯に語る。精一杯に愛し合うのです。

今日も、共に前進です。

2026年8月29日土曜日

8月ランを終えて

 


8月の3回(2日、16日、29日)のフルマラソン、そして月間500キロのランニングを無事に終えることができました。 厳しい暑さ、重たい湿気、突然の雨――決して楽ではない日々でしたが、 祈りのランニングを続けられたことを心から感謝しています。

正直に言えば、休みたくなる朝も何度もありました。 しかし、病と向き合い、治療に励み、介護の重荷を背負いながら歩んでいる 教会の兄弟姉妹の姿を思うと、立ち止まるわけにはいきませんでした。牧師の務めは、み言葉を取り次ぎ、執り成しの祈りをささげることです。 牧師はすべての家庭の事情を完全に理解しているわけではありません。 しかし、主なる神様は誰よりも深く、 一人ひとりの痛みも、願いも、涙も、すべてをご存じです。

 


牧師はその神様の御手を借りながら、 支え、励まし、寄り添うことが許されています。

イエス・キリストもまた、 ご自身の生涯の多くの時間を弟子たちのため、人々のための祈りに費やされました。 朝早くから祈り、時には夜通し祈られました。 その祈りを父なる神が必ず聞いてくださることを知っていたからこそ、 主は祈り続けることができたのです。

私も知っています。 牧師の心からの祈りを、主が必ず聞いてくださることを。 だからこそ走り続けるのです。 祈り続けるのです。これからも、祈りながら走り、走りながら祈る牧師でありたいと願っています。 すべては主なる神様の栄光のために。 ハレルヤ!

42.55km完走/8月500km完走

 


夜明けの祈りと限界を超える恵み:500キロの道のりと夕暮れの食卓

午前3時過ぎ、まだ深い夜の底を静かに走り出しました。前日に38キロを走った疲労が体に重く残っていましたが、この日で8月の月間500キロを完走し、さらに明日の北海道マラソンの分を前倒しして「フルマラソン」の距離を走り抜く決意をしていました。

 


見えない頂上を信じること

心で決めても、実際の体がついてくるかがカギとなる朝。私は「まずは35キロまで走ってみよう」とだけ考えました。これまでの経験が、そこまで辿り着けば残りは必ず走り切れると教えてくれていたからです。

  • 入院中の姉妹が過ごす病院の前を、祈りを込めて通り過ぎる
  • 息の切れる長い坂道を、ひたすらに上り続ける
  • 尚絅学院中高、西公園、東北学院土樋キャンパスを駆け抜ける
  • 広瀬橋へ向かう途中、愛宕大橋からハクチョウたちが平和な朝を迎える姿を見つめる

幸いにも湿気が少なく、涼しい早朝の空気が背中を優しく押してくれました。結果は42.55キロの無事完走。これで8月は500キロを少し超える距離を走り抜くことができました。足跡の一つひとつに想いを込めた、500キロの「祈りのランニング」でした。最初からゴールが見えなくても、目の前の目標(35キロ)まで信じて歩を進めれば、主は必ずその先の道を開いてくださいます。

 


日常という名のもう一つの祈り

走り終えた私を待っているのは、家族との愛おしい日常です。 今日、娘は近くで午前から夜まで11時間のアルバイトに出かけています。昨日の学校帰りにも、いつものように3つの決まったメールが届きました。「何時に長町に着く」「夕飯は何?」「甘いものが食べたい」。 1720分に駅へ迎えに行き、スタバで甘いものを買って帰宅。夕食には韓国風ナムル・ビビンバップを作りました。自己評価に厳しい私自身も納得の出来で、二人からも「とても美味しい」と喜んでもらえました。

 


「休む」という信仰の決断

我が家には、私に関する一つの確固たるルールがあります。18時を過ぎたら、すべての電子機器をオフにし、一切の頼み事を受け付けず、自然に体を「お休みモード」に委ねることです。 人間の力には限界があります。夜になれば自らの弱さを認め、活動を止めて静まること。それは「この世界を動かしているのは自分ではなく、神様である」と信じて委ねる、深い信仰の姿勢でもあります。(ただし月に数回、娘が今日のように遅くまで仙台でアルバイトをする日だけは特別に18時に眠り、22時に起きて迎えに行きます。これもまた、譲れない愛の形です。)

「主は、その愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩編 127:2

8月も、厳しい暑さの中でひたすら祈りながらよく走り、仕事もこなし、家事にも心を尽くしました。走ることも、食事を作ることも、限界を知って静かに眠ることも、そのすべては主のため、家族のため、教会のためです。サンティアゴ祈りの旅まで後70日!!!



今日も、共に前進です。

2026年8月28日金曜日

支配の悲鳴と真の権威

 


私たちが「力」を振りかざす本当の理由

毎朝の深い静寂の中、愛犬ノアとの散歩を終えてからランニングに出ると、街はまだ穏やかな眠りの中にあります。しかし、走り終えて日常に戻りニュースを目にすれば、連日のように「パワハラ」の文字が飛び込んできます。時代が変わり、ようやく光が当てられるようになりましたが、これは決して現代特有の新しい病ではありません。人間が古くから抱え続けてきた、根深い魂の葛藤の歴史そのものです。

 

なぜ、人は他者を威圧し、支配しようとするのでしょうか。

進化生物学の視点から見れば、群れの中で他者より優位に立つことは、かつて生存競争を勝ち抜き、資源を確保するための「防衛本能」でした。しかし、命の危険がない現代において、その本能は非常に歪んだ形で表出します。

心理学的に深く掘り下げるなら、パワハラの根底にあるのは「強さ」ではなく、むしろ強烈な「恐れ」と「弱さ」です。自分の地位が脅かされるのではないか。自分の無能さが露呈するのではないか。その隠された不安と自己肯定感の低さが、他者を攻撃し、服従させることで無理やりに自らの価値を確認しようとする悲しい自己主張へと変わるのです。

真に自信に満ち、心が満たされている人は、決して他者を踏みつけにはしません。威圧的な怒鳴り声や冷酷な態度は、その人の内面から発せられる「自信の欠如の悲鳴」なのです。さらに社会学的な構造を見れば、現代は「成果」や「効率」が最優先される時代です。そのようなシステムの中では、人間がいつの間にか「尊い目的そのもの」ではなく、業績を上げるための「手段」や「部品」として扱われてしまいます。他者をコントロール可能な所有物だと錯覚した時、権力の暴走は正当化されてしまいます。

 

しかし、最も深い霊的な次元において、これは私たちが「他者の中にある神の似姿」を見失っている状態だと言えます。自分が小さな「神」となり、自分の思い通りに動く小さな王国を支配しようとする高慢さです。真の権威とは、武力や圧力で他者をひざまずかせることではありません。自らがひざまずいて他者の足を洗うような、身を低くして仕える愛の中にこそ、人が心から従いたくなる本当の力が宿るのです。

他者を支配しようとする古い自分、そして内なる恐れを手放すこと。自分の弱さを素直に認め、創造主の前に静かに身を委ねる時、私たちは他者を力でねじ伏せるのではなく、愛と敬意をもって共に歩むことができるようになります。

今日も、共に前進です。

値札を超える命の価値

 


創造主の御手の中で完成する100パーセントの私

家族の食卓を整えるため、日々のスーパーで食材を吟味し、台所に立ちます。毎日のように買い物をしていると、それぞれの店の特徴や、商品の価格変動が手に取るように見えてきます。同じ商品でも、日によって、あるいは店によって値段は異なります。

パックに貼られた金額のシール。それは一見、その商品の「価値」を決定づけているように見えます。しかし、本当の価値は素材そのものや値札ではなく、「誰の手によって調理されるか」で決まるのではないでしょうか。どんなに高価な見栄えの良い食材であっても、調理する者の腕が伴わなければ、本来の豊かな風味は失われ、その価値を落としてしまいます。

 


原石を磨き続けるということ

社会に目を向けると、「上級国民」と呼ばれるような地位にある政治家たちがいます。しかし、どれほど高い肩書きという「高価な値札」を持っていたとしても、その価値を最大限に発揮するためには、絶えず自分を磨き続ける地道な努力が不可欠です。

  • 採掘されたばかりの原石は、それを用いる熟練の職人がいて初めて美しい芸術作品となります。
  • 磨くことを怠れば、ただの石ころに過ぎません。

人は、自らのたゆまぬ努力によって、その人生の80パーセントを素晴らしい芸術作品のように、あるいは高い境地へと引き上げることができるでしょう。

 


委ねることで満たされる「残りの20パーセント」

しかし、どれだけ血のにじむような努力を重ねても、人間の力だけではどうしても到達できない領域があります。それは、生まれ持った性質や、長い年月をかけて深く刻み込まれた内面の世界です。残りの20パーセントは、自分の力で変えようともがくほどに、深い葛藤を生み出します。この満たされない20パーセントを真の完成へと導く唯一の道があります。それは、創造主である神様の御手に、自分のすべてを委ねることです。

「主よ、あなたは我らの父。我々は粘土、あなたは陶工。我々は皆、あなたの御手の業。」(イザヤ書 648節)

自分の限界を認め、偉大な陶工である主の御手の中で「もう一度生まれ変わる」こと。自分の努力で築き上げた80パーセントに、神様の完全な恵みが注ぎ込まれる時、私たちの人生は初めて100パーセント完成されたものとなります。不完全さや生まれつきの弱ささえも、主の調理の手にかかれば、唯一無二の豊かな味わいへと変わるのです。聖書は、その真実を私たちに力強く証明しています。

今日も、共に前進です。

満月の光と恵みの雨

 


人生の坂道を上り続けるための祈り

午前115分。深い静寂の中で目を覚まし、祈りを捧げ、部屋の掃除を整え、ノアとの散歩へ出ました。ふと空を見上げると、夜の闇を圧倒するほどに明るい、美しい満月が浮かんでいました。



その光に導かれるように、午前2時半ごろからランニングをスタートしました。 涼しい夜気の中、入院されている姉妹が過ごす病院の前を通りかかります。その病室に主の確かな癒しと平安が注がれるようにと、走りながら静かに祈りを深めました。すると、空から久々の雨が降り始めました。この時期の「シャワーラン」は、火照った体を優しく冷まし、まるで天から降り注ぐ慰めのように心地よく肌を打ってくれます。

 


きつい上り坂と、満ち足りる恵み

今日のコースには、一番きついと感じる急な坂道が待ち受けていました。しかし、今日は決して足を止めることなく、ただひたすらに上り続けました。 息が切れ、足が鉛のように重くなるその苦しさは、私たちが時折直面する「人生の坂道」そのものです。

  • 立ち止まりたくなる己の弱さ
  • 見えない頂上への果てしない不安
  • それでも前を向いて踏み出す、静かな決意

途中の自動販売機で冷たい水を飲み喉を潤した時、ふと「今日もフルマラソンを走ろうか」という思いが頭をよぎりました。しかし、今月はすでに2回のフルマラソンを走り終えています。私は今日、この38キロという距離で「十分に満ち足りている」と、自分自身を静かに受け入れることにしました。

 


歩みを止めない、生きるということ

聖書は、自分の現在地を受け入れ、主を仰ぎ見る者にこう語りかけます。 「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ書 40:31

自分の力や野心だけで坂を上り切ろうとすれば、人は必ずどこかで限界を迎えます。しかし、祈りながら走り、時に降る恵みの雨を受け取り、「今日与えられた分で十分である」と足るを知る時。神様は、明日も再び走り出すための「新たな力」を私たちの内側にそっと注いでくださるのです。

 


今月の目標である500キロまで、残すところあと41キロとなりました。明日も、明後日も、私は靴紐を結び、自分の道を走り続けます。 なぜなら、走り続けることは、祈り続けること。そして、希望を抱いて「生きること」そのものだからです。娘の学校も始まり、昨日から送り迎えの日々を送っています。もちろん美味しい料理も・・・・命がある限り与えられた使命のために精一杯に生きる。ただそれだけです。

今日も、共に前進です。

2026年8月25日火曜日

過去を脱ぎ捨てる32キロの道

 


静寂の朝に受け取る「新しい今日」

午前3時半。まだ世の中が深い眠りの底にある時間、私は静かに走り出しました。 早朝のランニングには、日中の騒々しさがなく、自分の内側と向き合い、深く思索にふけることができるという大きな利点があります。滝のように絶え間なく流れる汗を拭い、25キロ地点で自動販売機の冷たい水を喉に流し込みました。そこからさらに7キロの道程を踏みしめ、今朝は合計32キロのランニングとなりました。今朝は「日の出」まで走ってきました。

 


手放すことで開かれる「今」

その静寂に包まれた32キロの道のりで、私の心に深く迫ってきた思いがあります。それは、「過去」というものの取り扱い方についてです。

私たちは時として、過ぎ去った人生の過去に強く縛られ、昔の自分を手放せずに引きずりながら生きてしまうことがあります。 心に刻まれた深い傷や、取り返しのつかない失敗。あるいは反対に、かつて手にした輝かしい成功や栄光。

  • 過去は、すでに私たちの手が届かない領域です。
  • どんなに願っても、変えることも取り戻すこともできません。

私たちが自らの意志で介入し、変えることができるのは「今」と「未来」だけなのです。傷も、失敗も、そして過去の栄光さえも、すべて思い切って手放すこと。両手を握りしめるのをやめた時、私たちは初めて、神様から与えられた「新しい今日の人生」をしっかりと生きることができるようになります。

 


後ろのものを忘れ、前へ

聖書に、過去の重荷を脱ぎ捨てて「今」を生きるための、力強い真理の言葉があります。

「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。」(フィリピの信徒への手紙 3:13-14

神様は、私たちが過去の記憶という古い服を着たまま生きることを望んではおられません。今日という日は、まっさらな新しい命の舞台です。昨日までの自分を潔く十字架の前に置き、今日という光の中を、身軽になって走り出すよう招いておられるのです。

 


荒波の中を、自分のペースで歩む

走り終えた後は、明日の「婦人修養会」に向けた最終確認を行い、心身の休息の時を持ちたいと思います。とはいえ、日常の中で為すべきことが無くなるわけではありません。階段の掃除をし、会堂の除湿機タンクの水を捨てる作業、外の植木鉢のお花の水やりなど、午前中は妻をエマオまで車で送り届け、その帰りにロピアで買い物を済ませれば、今日の主な仕事は終了となります。

 


今日は、命の危険すら感じるほどの極暑日となります。昨日、車の中で娘に「明日は大人しく家で過ごした方がいいよ」と伝えると、本人も「今日は一歩も外には出ない」と頷いていました。さすがに愛犬のノアも、今日は涼しい家の中だけで静かに過ごします。

 


世界がどんなに激しい荒波を立てようとも、外の環境がどれほど厳しく不確かな状況にあろうとも。 私たちは今日、過去に心を奪われることなく、自分に与えられた目の前の道をただ淡々と歩み続けるのです。「生きること」。そのシンプルな営みの中にこそ、神様の深い恵みが宿っています。今日も、共に前進です。