2026年3月15日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第26日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第26日:友の裏切り ―― 砕かれた関係の先にあるもの

1. 聖書の場面:ユダの接吻と弟子の逃亡

「イエスがまだ話しておられると、十二弟子のひとりのユダがやって来た。……ユダはすぐにイエスに近寄り、『先生、お元気で』と言って接吻した。……そのとき、弟子たちはみなイエスを見捨てて逃げ去った。」 (マタイによる福音書 2647-56節)

ゲツセマネの園での祈りを終えたイエスの前に現れたのは、三年間寝食を共にした弟子の一人、ユダでした。彼は「親愛の情」を示すはずの接吻(くちづけ)を、あろうことか裏切りの合図として使いました。さらに、他の弟子たちも身の危険を感じ、一人、また一人と闇の中に消えていきました。主イエスはこの時、完全な孤独の中に置かれたのです。

 


2. キリスト者への教訓:私たちの内なる「弱さ」を認める

ユダを非難することは容易ですが、この物語は私たち自身の姿をも鏡のように映し出しています。私たちは、自分の利益や保身のために、主の教えに背を向けたり、大切な人との信頼を裏切ったりすることはないでしょうか。

しかし、この物語の驚くべき点は、主イエスが自分を売るユダに対してさえ「友よ」と呼びかけられたことです(マタイ26:50)。主は、裏切られることを知りながら、最後まで彼らを愛し、赦そうとされました。キリスト者にとっての教訓は、自らの不完全さを謙虚に認め、それすらも包み込む主の圧倒的な恵みに依り頼むことにあります。

 


3. 現代人へのメッセージ:孤独を恐れず、赦しから始める

SNSやデジタルな繋がりが溢れる現代においても、私たちは「誰からも理解されない」「信頼していた人に裏切られた」という深い孤独を感じることがあります。一度壊れた関係を修復するのは難しく、私たちは心を閉ざし、孤立という殻に閉じこもり勝ちです。

主イエスの孤独は、私たちの孤独を共有するためのものでした。あなたがもし今、人間関係の破綻や孤独に苦しんでいるなら、主もまたその痛みを通られたことを思い出してください。

「裏切り」の連鎖を止めるのは、報復ではなく「赦し」です。まず自分自身の弱さを赦し、そして他者を赦す一歩を踏み出すとき、そこには新しい関係の夜明けが訪れます。主が孤独の中で愛を貫かれたように、私たちもまた、冷え切った世界に温かな「赦し」の灯をともす者でありたいと願います。


黙想のひととき

  • あなたが今、赦せずにいる自分、あるいは他人はいますか?
  • 孤独な時に、主があなたの隣に座っておられることを感じてみましょう。

主の日の平安が、あなたと共にありますように。

 

2026年3月14日土曜日

揺れる世界で、一歩を刻む

 


揺れる世界で、一歩を刻む――百五キロの祈りと、確かな「道」

二十二キロ。今朝も、まだ暗い街の中を走り抜けました。 足の裏が地面を捉える感触、規則正しく繰り返される呼吸の音。これで今週の走行距離は、百五キロに達しました。一歩一歩を積み重ねていくこの感覚は、自分自身の命の鼓動を確認する作業のようでもあります。しかし、ひとたび走り終えてニュースに目を向ければ、そこには呼吸を忘れるような現実が広がっています。


「どこへ向かっているのか」という問い

遠く離れた地での激しさを増す戦争、止まらない原油価格の高騰、そして連鎖するように私たちの生活を圧迫する物価の波。世界は今、土台から大きく揺れ動いています。

「この世界はいったい、どこへ向かおうとしているのか?」

そう問いかけたくなるのは、私だけではないはずです。明日の保証がどこにもないような、霧の中を彷徨っているような感覚。その中で、ただ「生き続ける」ことさえ、時に重い荷物を背負って走るように感じられるかもしれません。

 


足元を照らす「道」の正体

暗闇の中を走るとき、私が頼りにするのは遠くの景色ではありません。ヘッドライトが照らす、わずか数メートル先の「道」です。

聖書の中に、こんな言葉があります。

「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネによる福音書 146節)

この言葉は、地図のない時代に旅人が見つけた北極星のようなものです。世界がどれほど複雑になり、先が見えなくなっても、私たちが踏みしめるべき「道」はすでに示されています。主イエス・キリストが歩まれた方向。それは、自分を愛するように隣人を愛し、どんな時も祈りを絶やさず、命を尊ぶという方向です。この「道」は、原油価格に左右されることも、争いによって途絶えることもありません。走り続けること、祈り続けること、そして愛し続けること。 これらは、状況が良くなったから行うことではなく、むしろ世界が揺れているからこそ、私たちが選ぶべき確かな足跡なのです。


 


光の方へ、ただ一歩

今日、あなたの心も、何らかの不安に揺れているかもしれません。 でも、大丈夫です。私たちは大きな世界を一人で背負う必要はありません。ただ、今日与えられた命を精一杯に生き、自分の目の前にある「誠実」という道を一歩踏み出すだけでいいのです。

あなたが誰かを思い、祈るその瞬間。 あなたが困難の中でも、誰かに優しさを分け与えるその瞬間。 そこには、世界を照らす「真理」と「命」が確かに宿っています。

どんな嵐の中でも、私たちが進むべき方向は決まっています。 さあ、新しいシューズの紐を締め直すように、心を整えて歩き出しましょう。

今日も、前進です。

 

【灯をともす:四旬節の旅路】第25日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第25日:孤独な祈り ―― 沈黙の中で「本音」を語る

1. 聖書の場面:ゲツセマネの園での葛藤

「少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままになさってください。』」 (マタイによる福音書 2639節)

十字架を目前に控えた夜、イエスはゲツセマネという名の園で、独り深く祈られました。そこにあるのは、血の汗を流すほどの苦しみと葛藤です。イエスは、これから受ける苦難を避けて通りたいという人間としての切実な「本音」を神に打ち明けられました。しかし、その叫びの果てに、自らの意志を神の大きな愛の計画へと委ねていかれたのです。

 


2. キリスト者への教訓:祈りは「飾らない言葉」から始まる

私たちはしばしば、神の前でさえ「立派な自分」であろうとして、弱さや恐れを隠してしまうことがあります。しかし、ゲツセマネの主イエスが示されたのは、最も泥臭く、最も正直な祈りの姿でした。

神との交わりにおいて、最初に必要なのは美辞麗句ではありません。「苦しい」「逃げたい」「どうして私なのですか」という、魂の奥底からの叫びです。その本音を神の前にさらけ出してこそ、私たちは本当の意味で「御心のままに」という深い平安の地点へと導かれるのです。四旬節の旅路の後半、私たちは自分の脆(もろ)さを隠すのではなく、そのまま主に差し出す勇気を学びたいと思います。

 


3. 現代人へのメッセージ:すべてを背負い込まない知恵

効率と成果が求められる現代社会において、私たちは「自分の力で全てをコントロールし、解決しなければならない」という目に見えない圧力の中で生きています。しかし、自分の限界を超えた問題に直面したとき、その責任感はしばしば絶望へと変わります。

「ゆだねる」ということは、決して無責任になることや諦めることではありません。それは、**「自分にできる最善を尽くした後は、結果を自分よりも大きな存在に任せる」**という、究極の信頼の行為です。

今日、あなたが握りしめている「どうしても自分で何とかしなければならない」という執着を、少しだけ緩めてみませんか。あなたが手を放したその場所から、あなたの想像を超えた新しい支えと、平安の道が開かれ始めます。


黙想のひととき

  • 今、あなたの心に重くのしかかっている「自分でコントロールしようとしていること」は何ですか?
  • その重荷を、今日一日だけ、静かに主の前に置いて休んでみませんか。

明日も、静かな光と共に。

2026年3月13日金曜日

朝ラン25キロの思索

 


🌅 「光の方へ歩く人」――寒い朝に見つけた、前進の理由

日常のフック:冷たい空気の中で

仙台の朝は、まだ冬の名残を手放していません。 肌を刺すような冷気の中、25キロを走り終えたとき、東の空からゆっくりと太陽が昇ってきました。 その光に心を寄せながら、「今日も前に進もう」と静かに誓う時間がありました。

通勤へ向かう人、ランドセルを揺らしながら歩く子どもたち、犬を連れて散歩する人。 それぞれが目的地へ向かって歩いていく姿を見ながら、ふと問いが胸に浮かびます。

私たちは、最終的にどこへ向かっているのだろう。

葛藤と気づき:行き先を見失いそうになる日々

世界では戦争が続き、国々の経済は揺れ、未来の見通しは決して明るいとは言えません。 卒業式を控えた小学生たち、園児たちが新しい世界へ飛び立つ姿を思うと、 「この子たちの未来はどうなるのだろう」と胸が締めつけられることもあります。

広瀬川にいたハクチョウたちも、残りは11羽だけになりました。 彼らも3月のうちに、帰るべき北の国へ飛び立っていくのでしょう。

走りながら、そんなことを次々と考えていました。 不安も、希望も、祈りも、冷たい空気の中で混ざり合っていきます。

普遍的な真理:私たちは「光の方へ」歩く存在

聖書には、こんな言葉があります。

「あなたのみ顔の光によって、私たちは歩みます。」(詩編より)

人生の目的地は、墓場ではありません。 私たちが向かう先は、 光のある方、命のある方、天の御国へと続く道です。

戦争があっても、経済が揺れても、 子どもたちが新しい世界へ飛び立つように、 ハクチョウたちが北へ帰るように、 私たちもまた「帰るべき場所」に向かって歩いています。

そして、その道の途中で感じる不安や迷いは、 決して弱さではなく、 光を求めている証拠なのだと思うのです。


前進への派遣:今日という一日を生きる

走りながら、最後にひとつの思いが残りました。

今日も、生きること。

それは大げさなことではなく、 呼吸をし、歩き、誰かに優しくし、 小さな祈りを天に向けること。その積み重ねが、確かに私たちを光の方へ導いていきます。

どうか今日も、あなたの歩みが温かな光に照らされますように。

今日も、前進です。

【灯をともす:四旬節の旅路】第24日:香油の注ぎ

 


【灯をともす:四旬節の旅路】

24日:香油の注ぎ ―― 「無駄」に見える愛の価値

1. 聖書の場面:一人の女による献身

「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられたとき、一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油を入れた石膏の壺を持って来て、それを壊し、香油をイエスの頭に注ぎかけた。……イエスは言われた。『するままにさせておきなさい。なぜ、この人を困らせるのか。わたしの体に香油を注いで、あらかじめ葬りの準備をしてくれたのだ。』」 (マルコによる福音書 143節、6節、8節)

十字架の死が目前に迫る中、一人の女性が、一生をかけて蓄えたであろう高価な香油を、主イエスに惜しみなく注ぎました。 弟子たちは「もったいない」「無駄だ」「その金で貧しい人を助けられたはずだ」と彼女を責めました。しかし主イエスだけは、彼女の行為を「私のために、できる限りのことをした」と受け止め、その愛を深く称賛されたのです。

2. 心の揺らぎ:私たちが捧げる「壺」

私たちの歩みの中にも、他者から見れば「無駄」に映る献身があります。 たとえば、体力の限界に挑むような努力や、何度も被災地に足を運ぶボランティア活動。 「そこまでして何になるのか」「やっても世界は変わらない」と言う人がいるかもしれません。

しかし、あの石膏の壺が割られたとき、部屋中が香りで満たされたように、誰かが心と身体を砕いて捧げた祈りや労苦は、神の御前で尊い香油となって立ち昇ります。

効率や成果がすべてを決める現代社会では、計算を超えた献身はしばしば「無駄」と片付けられます。 けれど、神の国ではその価値はまったく異なるのです。

3. 核心:愛は効率では測れない

主イエスは、女性の行為を「葬りの準備」と呼ばれました。 それは、十字架の苦しみを前にした主が、人間から受け取った唯一の「温かな慰め」だったのです。

私たちが祈り続けること、誰かの痛みに寄り添うこと、地道な奉仕を積み重ねること。 それらはすべて、今もどこかで十字架を背負う主イエスの足元に、香油を注ぎ続ける行為です。神は、私たちが注いだ「無駄に見える愛」の一滴一滴を、決して見逃されません。

現代人へのメッセージ

2026313日(金)

「自分にできることなんて、何の意味もないのではないか」 そんな無力感に押しつぶされそうになっているあなたへ。

あなたの誠実な祈り、誰にも知られない親切、そして「愛ゆえに流した汗」を、主は決して「無駄」とは言われません。 むしろ、「わたしの葬りの準備をしてくれた」と、あなたの手をそっと握りしめてくださいます。

効率を求める世界は、あなたの愛を値踏みするかもしれません。 しかし主は、あなたが壊したその壺――つまり、あなたの心そのものを、天の最も高い場所に置いてくださいます。

今日、あなたが注ぐ一滴の香油(優しさ・祈り・労苦)が、誰かの絶望を癒やす香りに変わることを信じて歩みましょう。

主と共に、新しい一歩を。



2026年3月12日木曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第23日目



【灯をともす:四旬節の旅路】

23日:墓の封印 ―― 沈黙の中で「待つ」勇気

1. 聖書の場面:石が置かれた土曜日

「翌日、すなわち準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々はピラトのところに集まって……『三日目に復活すると言っていた。墓を見張らせてほしい』と言った。ピラトは『番兵を連れて行くがよい。……墓の番をさせるがよい』と言った。彼らは行って、石に封印をし、番兵をおいて墓を見張らせた。」(マタイ27:62-66

主イエスが息を引き取られ、墓に葬られた後、その入口には巨大な石が置かれ、さらに権力によって「封印」が施されました。 誰も近づけず、誰も中から出てこられないように。

弟子たちにとって、その時間は希望が完全に閉ざされたような、冷たく重い沈黙の時でした。 神様でさえ沈黙しているように感じられる――そんな「待つ」時間は、死よりも辛かったかもしれません。

 

2. 心の揺らぎ:15年経っても「動かない石」の前で

震災から15年。 あるいは、大切な人を見送ってから数日しか経っていない方もいるでしょう。私たちは時に、自分の力ではどうしても動かすことのできない「喪失」という大きな石の前で立ち尽くします。 どれほど時間が経っても、心の奥に残る痛みが消えないことがあります。介護の終わりが見えない不安、癒えない心の傷、誰にも言えない孤独。 それらはまるで、墓を見張る番兵のように、私たちの前に立ちはだかり、夜の静けさをさらに深くします。

 

3. 核心:封印の裏側で、神は動いている

しかし、聖書が語る驚くべき真理があります。

「人間が封印を完璧だと思っている時こそ、神は最大の逆転劇を準備しておられる。」

番兵が見張り、石が封印されていた沈黙の土曜日。 その裏側では、死の力を内側から打ち破る、宇宙で最もダイナミックな命の爆発が準備されていました。神の沈黙は拒絶ではありません。 それは、私たちが想像もできない「再生」のための、聖なる溜めの時間なのです。

 

4. 現代を生きる私たちへのメッセージ

2026312日、木曜日。

「もう15年経ったのだから」 「もう終わったことだから」

そんな世間の声と、自分の中にある消えない寂しさとの間で、心が引き裂かれそうになっているあなたへ。

もし今、あなたが墓の石を見つめて立ち止まっているとしても、それは「停滞」ではありません。 主イエスもまた、三日間、墓の中におられました。

主は、あなたの「待つ苦しみ」を知っておられます。 そして、あなたが必死に石を動かそうとしなくても、神の時が来れば、その重い封印は内側から光によって弾け飛びます。

寂しさや悲しみを抱えたまま、今日という日を静かに「待つ」。 その忍耐こそが、復活の朝を迎えるための最高の準備です。

主と共に、新しい一歩を。 

2026年3月11日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第22日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】

三月十一日の静寂 ―― 瓦礫の中の「復活の種」

1. 聖書の場面:暗闇が地を覆ったとき

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時まで続いた。……イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が震え、岩が砕け、墓が開いた。」 (マタイによる福音書 2745節、50–51節)

主イエスが十字架で息を引き取られた瞬間、世界は深い暗闇に包まれ、地は激しく震えました。 人々が拠りどころとしていた神殿の幕は裂け、日常の秩序は崩れ去りました。 それは、神の子が私たちの苦しみの底まで降りてこられた、宇宙的な痛みの瞬間でした。

しかし、その「震え」は破壊だけではありませんでした。 古い世界が終わり、新しい命が生まれようとする産みの苦しみでもあったのです。

2. 心の揺らぎ:15年目の「あの日」と重なる痛み

三月十一日という日は、東北に生きる私たちにとって特別な静けさをもたらします。 15年前、多くの命が失われ、見慣れた景色が一瞬で瓦礫と化しました。 あの日の震えは、今も心の奥に残っています。そして今もまた、誰かが大切な人を天に送り、介護や病の現実の中で深い孤独と向き合っています。 「なぜ、これほどの悲しみが続くのか」 「神様はどこにおられるのか」 そんな問いが、瓦礫の中から、あるいは眠れぬ夜の静けさの中から聞こえてくるようです。四旬節の旅路は、この暗闇の三時間を避けて通ることはできません。

3. 核心:共に震え、共に泣く神

十字架の震動の中で、神は遠くから眺めていたのではありません。 神ご自身が、その震えの中に、その叫びの中に、その死の中におられました。

3.11の津波が襲ったときも、 記憶が薄れていく家族を見守る絶望の中でも、 主は「そこ」におられました。主が十字架で共に震え、共に死んでくださったのは、 私たちのどんな絶望も、もはや「神のいない場所」ではなくするためです。墓が開いたという記述は、死が最終的な勝利者ではないことを示しています。 瓦礫の下にも、認知症の霧の中にも、主は「復活の種」を蒔かれました。 沈黙の土曜日を経て、必ず日曜日の朝が来る―― その約束があるからこそ、私たちは今日を生きる力を得るのです。

現代人へのメッセージ

2026311日、水曜日。 震災から15年。 あるいは、人生の大きな喪失から立ち直れずにいるあなたへ。癒えない傷や消えない寂しさを、無理に隠す必要はありません。 主イエスが十字架で叫ばれたように、あなたも主の前で泣いてよいのです。

主はあなたの痛みを「わかる」と言われます。 なぜなら、主ご自身が十字架という震災を、孤独という津波を、全身で受け止められたからです。

今日、被災地の上に、 そして介護や病の中で戦うあなたの上に、 主の静かで力強い平安が注がれますように。

暗闇の後に来る光を信じて、今日という日を大切に歩みましょう。

主と共に、新しい一歩を。

十五年目の鼓動


十五年目の鼓動 ―― 和歌山から石巻、そして三十二キロの祈り

三月十一日の朝。 仙台の冷たい空気の中、私は一歩を踏み出しました。 今日、私が走ったのは三十二キロ。震災から十五年という歳月を、自らの鼓動と足音で刻み直すための距離です。走りながら、私の心は十四年前の景色へと飛んでいました。


和歌山から石巻へ ―― 往復を重ねた「命の道」

震災の翌年からの一年間、私は和歌山県の御坊(ごぼう)から、月に一度、一週間ずつ石巻のボランティア活動に通っていました。 紀伊半島の端から、東北の被災地へ。 気がつけば、その回数は十三回を数えていました。

当時の石巻の光景、泥の匂い、そしてそこで出会った人々の震える手。 あの時、共に汗を流し、共に祈った時間は、今の私の牧師としての、そして一人の人間としての骨組みとなっています。

「もう十五年」という人もいます。 しかし、現場に立ち続け、人々の心の奥底に触れてきた者として、私は知っています。 **「十五年経っても、消えない悲しみがある」**ということを。

消えない寂しさ、共に歩む痛み

愛する家族を失った寂しさ、あの日から止まったままの時計の針。 それらは時間が解決してくれるような、単純なものではありません。 「時間が薬になる」という言葉は、時に残酷です。十五年が過ぎても、ふとした瞬間に襲ってくる孤独や、会いたいという切実な願いは、少しも色褪せることがないからです。

しかし、今日の三十二キロの走りが私に教えてくれたことがあります。

悲しみは、消すためにあるのではない。 その悲しみを抱えたまま、共に生きていくためにあるのだ、と。

三十二キロを走り抜くとき、身体は悲鳴を上げ、心は折れそうになります。 けれど、その苦しさの先にしか見えない光があります。私たちの人生も同じではないでしょうか。癒えない傷を抱え、重い足取りで進むその背中を、主は「よく頑張っているね」と、一歩一歩見守っておられます。

「祈り」という名の完走

私が今日走った三十二キロは、単なる運動ではありません。 石巻で出会った人々、今も仮設住宅や新しい家で寂しさと戦っている方々、そして天に召された多くの魂への**「身体を通した祈り」**です。

十五年前の瓦礫は片付いても、心の瓦礫を整理するには、まだまだ時間が必要です。 もしかすると、一生終わらない作業かもしれません。 でも、それでいいのです。神様は、私たちが「強く、明るく」あることだけを求めているのではありません。 泣きながら、震えながら、それでも今日という日を精一杯生きようとする、その「弱さの中にある誠実さ」をこそ、主は祝福してくださいます。


光の射す方へ

和歌山から石巻へ通ったあの日の情熱を、私は忘れません。 そして、仙台というこの地で、皆さんと共に歩んでいる今の使命を、改めて深く噛み締めています。

家族を失った悲しみは、裏返せば、それだけ深く愛したという「愛の証」でもあります。 その愛がある限り、私たちは独りではありません。 十五年目の今日、新しいシューズの紐を締め直し、また明日への一歩を踏み出しましょう。

主の柔らかな慰めが、今も涙を流すお一人おひとりの頬を拭ってくださいますように。

今日も、前進です。

  

2026年3月10日火曜日

記憶の岸辺で、愛を灯し続ける

 


記憶の岸辺で、愛を灯し続ける――介護という長い旅の途上で

三月の朝、冷たい空気の中に春の気配がかすかに混じります。 走り出す一歩目、肺に吸い込む空気はまだ鋭く、吐き出す息は白く濁ります。舗装された道を一歩ずつ踏みしめる足音だけが、静かな街に響く。二十キロ、三十キロと走り続ける時、私は時折、自分が「終わりなき旅」の途上にいるような錯覚に陥ることがあります。

それは、現代の多くの家族が直面している「介護」という名の、あまりにも長く、あまりにも孤独なマラソンに似ているのかもしれません。


消えていく「知っている背中」

認知症という病は、ある日突然、愛する人の輪郭をぼやかしていきます。 昨日まで交わしていた冗談、共に囲んだ食卓の記憶、自分を呼ぶ温かな声。それらが少しずつ、潮が引くように指の間からこぼれ落ちていく。

「なぜ、わかってくれないのか」 「あんなに立派だった人が、どうして」

その戸惑いはやがて深い疲労となり、時には「怒り」という黒い影となって私たちの心を侵食します。社会ニュースで流れる悲しい事件は、決して遠い世界の出来事ではありません。それは、献身という糸が限界まで引き絞られ、ぷつりと切れてしまった瞬間の、誰の身にも起こりうる「心の悲鳴」なのです。

「自分の力」という電池の限界

私たちが「自分の愛」だけで誰かを支えようとするとき、そのバッテリーは必ずいつか底をつきます。 特に認知症の介護において、相手からの「反応」や「感謝」が期待できなくなったとき、私たちの心は乾ききった大地のようにひび割れてしまいます。

平和に、共に暮らす秘訣。 それは、**「自分の愛で頑張ることを、一度諦めること」**にあるのかもしれません。

聖書は、私たちにこう語りかけます。 「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント二 12:9)。

私たちが「もう限界だ」と膝をつくとき、そこが実は、神様の無限の愛が流れ込む「入り口」になります。自分は愛を「生み出す源」ではなく、ただ上から流れてくる愛を通す**「管」**にすぎない。そう自分を定義し直すとき、肩の力が少しだけ抜けるのを感じられないでしょうか。

「孤立」という壁を壊して

介護という密室の中で、一人でゴリアテ(困難)に立ち向かってはいけません。 神様が

教会という共同体や、手助けをしてくれる人々を私たちの周りに置いてくださったのは、重荷を「分かち合う」ためです。

  • 弱さを開示すること: 「辛い」と声を上げるのは、敗北ではありません。それは

愛を継続するための「勇気」です。

  • 不完全さを許すこと: 今日、優しくできなかった自分を責めないでください。神様は、そのボロボロになったあなたの手を見て、「よくやっている」と涙を流して寄り添っておられます。
  • 「今」だけを見つめる: 明日の不安を数えるのをやめ、今この瞬間の、柔らかな日差しや一杯のスープの温かさにだけ、心を留めてみてください。

平和とは、問題がなくなることではなく、嵐の中でも「共にいてくださる方」を信じて、その御手にすべてを委ねる静けさのことです。




光の射す方へ

たとえ、愛する人があなたの名前を忘れてしまったとしても。 たとえ、昨日までの絆が目に見えなくなってしまったとしても。 あなたが注いだ愛の一滴一滴は、神様の記憶の中に、決して消えない宝物として刻まれています。

あなたは独りではありません。 あなたの流す涙も、夜通しの看病も、行き場のない怒りも、すべてを知り、共に背負ってくださる「最高の伴走者」がすぐ隣にいます。

重いシューズを履き直しましょう。 深呼吸をして、また今日の一歩を踏み出しましょう。 その道の先には、必ず、光が待っています。

今日も、前進です。

恵みの内に葬儀を終えて

 


人生には、自分の計画をはるかに超えた「神様の時間割」が差し込まれる瞬間があります。 この数日間、私はまさにその怒涛のような、しかし圧倒的な恵みに満ちた奔流の中にいました。


 

娘のために弟が仁川国際空港でクリスピークリームドーナツを買ってくれました。それも6個入り四箱も。それをもって韓国→成田→上野→仙台→長町→教会へ



午後六時三十分、長町駅からの再始動

家族の用件で韓国へ渡っていた私に届いたのは、一通の緊急連絡でした。 三年間、共に食卓を囲み、深い信仰の交わりを重ねてきた知人の召天。八十九歳。 「最後はキリスト教式で」という故人の強い願いを受け、私は急遽、日本への帰路につきました。

土曜日の午後六時五十分ごろ、長町駅に降り立ち、荷物を置く間もなくご自宅へと駆けつけました。そこにはすでに葬儀社の方々、そして静かに横たわる故人の姿。まず祈りを捧げ、具体的な段取りを打ち合わせ、そのまま教会へ。

日曜日の主日礼拝、週報作成、教会学校、婦人会の例会……。山積するタスクを前にしても、不思議と心は静かでした。なぜなら、この慌ただしさのすべてを神様がコントロールされているという、確かな手応えがあったからです。

 

二十三時の癒やし:深夜のドライブ

当然のように徹夜を覚悟した土曜の夜。 時計の針が二十三時を回る頃、私は仙台市内でアルバイトを終える娘を迎えに行きました。 車内での何気ない会話。看護実習の苦労や、将来の夢、日々の出来事……。 仕事に追われる深夜、娘と過ごすこの短い時間が、私にとっては何よりの「癒やし」となりました。

「お父さん、頑張ってね」 その一言を背中に受けて、再びデスクに向かい、前夜式のプログラムを印刷し終えた時、主の日の朝が明けました。 疲れる暇さえ与えられない。それは、神様に必要とされているという、最高の「特権」でもありました。

「葬儀専門牧師」としての悦び

今回の前夜式と葬儀には、多くの未信者の方々が参列されました。 しかし、そこで私を力づけてくれたのは、教会の兄弟姉妹の姿でした。私の報告を聞き、多くのメンバーが駆けつけ、式場に響き渡る大きな声で讃美歌を歌ってくれたのです。

その歌声を聞きながら、私は確信しました。 **「八年前、私がこの仙台に遣わされたのは、決して偶然ではなかった」**と。 もし私が専門的な分野の牧会を担う環境にいたならば、私は迷わず「葬儀専門の牧師」になっていたでしょう。それほどまでに、ご遺族に寄り添い、最期の瞬間に福音の希望を灯す働きは、私の魂を震わせます。

「素晴らしい式をありがとう」というご遺族の言葉。 すべての栄光を主にお返ししながら、私は牧師としての至福を噛み締めていました。昨日の葬儀、火葬場の別れを終えて帰る途中、買い物をして教会に戻ると十六時半ごろになりました。


 


祈りの距離、命の鼓動

慌ただしい日々の中でも、私が決して止めないものがあります。それは「走ること」です。 昨日は、故人との三年間の交わりの思い出を胸に、名取の海へと続く道を二十六キロ完走しました。

私にとって、走る距離は「祈る距離」であり、走る時間は「祈る時間」です。

週百キロというルーティンは、私を主と、そして愛する人々へと繋ぐ大切な回路です。 走りながら、故人の笑顔を思い出し、厳しい状況にある教会員一人ひとりの名を呼び、家族の健康を祈ります。

日常という名の祭壇

今朝はノアちゃんの散歩を終えて五時頃から仕事に取り掛かりました。まずは家族のための食事作りから一日が始まりました。 白菜のスープと鶏むね肉の料理。看護実習に向かう娘、仕事へ向かう妻。そして元気に尻尾を振るノア。 留守の間に少し寂しくなっていた食卓を、再び温かな愛で満たす。これもまた、神様から託された大切な奉仕です。

命がある限り、精一杯に生きる。 主のために、家族のために、教会のために。 そして、私を必要としてくれるすべての人々のために。

新しいシューズを履き、今日も私は走り出します。 神様の備えてくださった、この輝かしい一日の中へ。

2026年3月1日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第12日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第12日:孤独な裁き ―― レッテルを越える主の眼差し

1. 聖書の場面:法廷に立つ無罪の罪人

「ピラトは言った。『お前はユダヤ人の王なのか。』……イエスはお答えになった。『わたしの国はこの世のものではない。』」(ヨハネによる福音書 1833-36節)

主イエスは、当時の権力者ピラトの前に立たされました。そこには真実の対話はなく、あるのは「政治的利用価値」と「社会的なレッテル」だけでした。

宗教指導者たちは主を「冒涜者」と呼び、群衆は「反逆者」というラベルを貼って叫びました。たった数日前まで「ホサナ」と迎えた人々の記憶から、主がなされた数々の癒やしや愛の奇跡は、一瞬にして消え去ったのです。世界は、主イエスをただ一つの「死罪に値する犯罪者」として記憶に刻み込もうとしました。

2. 心の揺らぎ:剥がれない「レッテル」という恐怖

現代を生きる私たちは、先生が仰る通り「レッテルの社会」に生きています。一度の過ち、一度の失敗、あるいは他者から貼られた「不十分な人間」というラベル。それがSNSや人々の噂を通じて拡散されるとき、私たちのこれまでの誠実な歩みは、まるで最初からなかったかのようにかき消されてしまいます。

「自分はもう、このレッテルと共に生きていくしかないのか」という絶望。それは、介護に疲れ果て「自分は失格だ」と自分にラベルを貼ってしまう兄弟姉妹の孤独にも、看護の現場で「声なき存在」として扱われる患者さんの痛みにも通じています。

3. 核心:神は「過去」ではなく「あなた」を見ている

しかし、十字架への道を歩まれる主イエスは、人々の貼ったレッテルをすべてその身に引き受けながらも、ご自身の尊厳を失われませんでした。なぜなら、主は「世の評価」ではなく「天の父の眼差し」の中に生きておられたからです。

世界があなたにどんなレッテルを貼ろうとも、主はあなたのこれまでの歩み、流した汗、誰にも見せなかった祈りの距離をすべてご存じです。 一つの過ちで人生を否定する世界の中で、主だけは「それでも、あなたはわたしの愛する子だ」と言って、消えることのない愛の印を、私たちの心に刻んでくださいます。


現代人へのメッセージ

202632日、月曜日。 今日から新しい一週間、あるいは新しい旅が始まります。

過去の失敗や、誰かの心ない言葉が、あなたの心に「剥がれないラベル」のようにこびりついていませんか。 「自分はもうダメだ」「あの人はあんな人間だ」と、自分や他者を一つの色で塗りつぶしてはいませんか。

主イエスは、人々が投げつけた「犯罪者」というレッテルを十字架の上に釘付けにされました。主の愛は、私たちの不名誉な過去よりも、はるかに大きいのです。 今日、人からの評価という重荷を下ろし、主があなたを呼ぶ「尊い者」という名前に耳を澄ませてみましょう。

主と共に、新しい一歩を踏み出しましょう。

今日も、前進です。