2026年2月20日金曜日

日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

 


日暮れどきに手を繋ぐ ―― 衰えを見守る愛と、終わりの神学

「治す人」から「見守る人」への、静かな転換

家族が老い、かつてのように動けなくなっていく姿を見るのは、身を切られるような痛みです。私たちは愛するがゆえに、つい「何かをしてあげたい」「元に戻してあげたい」と願います。しかし、人生の秋から冬へと向かう季節において、家族に求められる最も大切な役割は、実は「有能な治療者」であることではなく、**「誠実な目撃者」**であることかもしれません。

衰えを支えるということは、相手の「できなくなったこと」を数え上げるのではなく、今なおそこにある「尊厳」を、共に守り抜く作業です。食事がゆっくりになっても、何度も同じ話をしても、その人の存在そのものが神様にとってかけがえのない宝物であるという事実を、家族が「変わらぬ眼差し」で肯定し続けること。その忍耐強い愛こそが、衰えゆく者の孤独を癒やす最大の特効薬となります。

 

共に「重荷」を背負うということの神学

支える側が疲れ果て、共倒れになってしまう悲劇も、現代社会では珍しくありません。だからこそ、私たちは「弱さを認め合う」という神学を、家庭の中で実践する必要があります。

聖書は「互いの重荷を担い合いなさい」(ガラテヤ6:2)と説きますが、これは一人で抱え込むことの否定でもあります。支える側が自分の限界を認め、神様や周りの助けを求めることは、決して「愛の欠如」ではありません。むしろ、人間としての限界を認める謙虚さの中にこそ、神様の支えが入り込む余地が生まれます。愛する者の衰えを支える日々は、私たちに「命は誰のものか」という根源的な問いを突きつけます。私たちは共に、神様という大きな掌の上で生かされている旅人同士なのだ。そう気づくとき、介護やケアは「苦役」から、共に天国(ふるさと)へと向かうための「聖なる同伴」へと姿を変えるのです。

 

「死への備え」が持つ、最高にポジティブな意義

では、具体的に「死への備え」をすることには、どのような神学的な意味があるのでしょうか。

キリスト教的な視点から見れば、死の準備とは「人生の店じまい」ではなく、**「委託されたギフトの最終報告書」を作成することです。神様から預かった命、才能、時間、財産。これらをどう使い、どうお返しするのかを整理することは、最高の「管理(スチュワードシップ)」**の形です。

  • 赦しと和解の完成: 終わりを意識することで、私たちは「言わなくてもわかるだろう」という甘えを捨て、感謝と謝罪を言葉にすることができます。
  • 次世代への祝福: 自分がどう死にたいかを伝えることは、残される家族から「迷い」という重荷を取り除いてあげる、最後で最大のプレゼントです。
  • 希望の証し: 死をタブー視せず、主のもとへ帰る喜びとして準備する姿は、周囲の人々に「死は終わりではない」という最強の福音を、身をもって伝えることになります。

最後の「S.D.G.」を綴るために

かつて作曲家バッハが、すべての楽譜の最後に「ただ神にのみ栄光(Soli Deo Gloria)」と記したように、私たちの人生という楽曲も、最後の一音まで神様の栄光のためにあります。

衰えを受け入れ、死を準備することは、決して敗北ではありません。それは、主が用意してくださった完璧な「終止符」へと、自分の人生を美しく着地させるための、信仰の最終章なのです。

家族と共に、あるいは独りで主と向き合いながら、その日を穏やかに見つめましょう。日暮れどきの光が、真昼の太陽よりも優しく、世界を黄金色に染め上げるように、人生の終わりもまた、最も美しい神様の愛に包まれる時なのですから。

2026年2月19日木曜日

奇跡は「当たり前」の顔をしてやってくる

 

散歩の後、ひとりで階段を上って生きます。今日も奇跡の一日が始まります。

奇跡は「当たり前」の顔をしてやってくる

さきほど、愛犬のノアと一緒に散歩へ行ってきました。 二階からトテトテと、自分の足で一段ずつ階段を降りてくるノアの姿を眺めながら、私はふと、胸が熱くなるような感謝を覚えました。「今日も、この子は自分の力で歩ける。今日も、命が許されている」

私たちは、昨日できたことが今日できることを、まるで当然の権利であるかのように錯覚して生きています。朝、目が覚めること。自分の足で立ち上がること。愛する者の名前を呼ぶこと。しかし、これらすべての「当たり前」は、実は精巧に編み上げられた奇跡の連続です。そして、その奇跡にはいつか、人間にも、愛する動物たちにも、等しく「終わりの日」が訪れます。

 

逆らえない流れを受け入れる「知恵」

「かつては軽やかにできたことが、できなくなる」 その日は、ある時、静かに、しかし確実にやってきます。その時、私たちにとって最も大切なのは、失われた能力を嘆くことではなく、訪れた「新しい時」を素直に受け入れることです。今の自分、今の状態に合わせて、生き方や過ごし方を丁寧に再設計していくこと。そこにこそ、人生の後半戦を美しく生きる知恵があります。

しかし、この「受け入れる」という作業は、言葉で言うほど容易ではありません。自分の有能さや若さに執着し、変化を拒もうとすれば、心に不必要な摩擦が生じます。その摩擦は「いらだち」となり、本人を苦しめるだけでなく、支える家族をも疲弊させてしまいます。

なぜ私たちは、これほどまでに「できなくなること」や「死」を遠ざけようとするのでしょうか。それは、私たちが「自分の命の所有者は自分である」と誤解しているからかもしれません。

 

創造主を覚える ―― 命の「出所」に立ち返る

聖書の伝道者の書(コヘレトの言葉)には、非常に鋭く、かつ慈しみに満ちた言葉が記されています。「若いうちに、あなたの創造主を覚えよ。悪しき日が来ないうちに。……『何の喜びもない』と言う年月が近づかないうちに。」(コヘレトの言葉 12:1

「創造主を覚える」とは、自分の命がどこから来て、どこへ帰るのかという「源流」を忘れないことです。私たちは自分で自分を創ったのではありません。命は、神様から一時的に預かっている「ギフト」なのです。命の源である主を覚えて生きるなら、衰えや死は「敗北」ではなく、ギフトを神様の手にお返しする「準備期間」へと変わります。生と死を切り離して考えるのではなく、一つの連続した物語として捉えること。若いうちから、あるいは元気なうちから、「終わり」を見据えて準備をすることは、決して後ろ向きなことではありません。むしろ、終わりを意識するからこそ、今この瞬間の命の輝きが、より一層愛おしく、大切に感じられるようになるのです。

 

主の腕の中で「降りる」準備を

死の準備をしないことは、現代人が抱える大きな問題の一つです。しかし、そこに「神様の存在」という視点を加えるなら、準備は恐ろしい作業ではなく、愛する方との再会を待つ「身支度」になります。ノアが一段ずつ慎重に階段を降りるように、私たちもまた、人生の階段を一段ずつ、謙虚に降りていく時が来ます。そのとき、自分の力だけで降りようとしなくていいのです。背後には、そして階下には、私たちを支え、受け止めてくださる創造主が待っておられます。

「今日も生きることが許された」 その感謝を胸に、同時に「いつか来るその日」を穏やかに見つめる。 創造主を覚えることは、今を最も自由に、そして豊かに生きるための唯一の鍵なのです。

 

ウィンウィンでは終わらない世界

 


「ウィンウィンでは終わらない世界で、私たちはどう生きるか」

SNSが若者の心に与える影響について、ロサンゼルスでの裁判でザッカーバーグ氏が証言したというニュースが話題になっています。 アルゴリズムの設計や子どもの安全対策が問われる中で、私たちは改めて「責任とは誰にあるのか?」という問いに向き合わされています。

企業の責任はもちろんあります。 しかし、未成年の利用に関しては、親や家庭の関与も欠かせません。 そして、SNSを通して恩恵を受けている人々が多くいることも事実です。 つながりを得た若者、小さなビジネスを立ち上げた人、声を届けられるようになった社会的マイノリティ── SNSは「悪」ではなく、使い方によっては「光」となり得るのです。

けれど、ここで私たちはもう一歩、深く考える必要があります。

 

この世界は、本当に「ウィンウィン」で成り立っているのか?

歴史を振り返ると、誰かが得をすれば、誰かが損をする。 それがこの世界の構造であり、現実でした。 理想だけでは生きていけない。 人情だけでも、社会は回らない。 時には、両方が傷つき、両方が倒れることさえあるのです。

だからこそ、私たちが目指すべきは、 「誰もが完全に勝つ」ことではなく、 「損をする側が立ち直れないほどのダメージを受けないように、道を用意すること」ではないでしょうか。

イエス・キリストは、 勝者の側にも、敗者の側にも立たれませんでした。 むしろ、最も小さくされた者、 声を上げられない者のそばに立ち、 その人が再び立ち上がれるように、 愛と真理の道を示されました。現実を直視しながら、 弱さを抱えたままでも、 「強くされる道」がある。 それが、福音の力です。今、私たちに求められているのは、 誰かを責めることでも、理想だけを語ることでもありません。 この複雑で不完全な世界の中で、 どうすれば希望をつなげることができるかを、 共に考え、共に歩むことです。その道の先に、 たとえ「完全なウィンウィン」ではなくても、 誰もが見捨てられない社会誰もが再び立ち上がれる教会があると信じています。

 

人間の最適な寿命は?



「長さ」の檻を抜けて、永遠の手触りへ

いつの頃からか、私たちはカレンダーの数字を増やすこと自体を「勝利」と呼ぶようになりました。医療の進歩は死の影を遠ざけましたが、同時に社会の土台を軋ませています。経済学的に見れば、膨張する医療費と介護の担い手不足は、終わりなき「負の連鎖」のようにも映ります。未来学者のレイ・カーツワイルは、技術が死を克服する「シンギュラリティ」を説きますが、一方で、ただ「生き永らえさせられている」という感覚が、現代人の魂に静かな絶望を落としていることも否定できません。学問的な視点を集約すれば、一つの残酷な、けれど誠実な仮説が浮かび上がります。生物学的な「生命の質」と、社会的な「役割の完遂」が調和する臨界点は、おそらく80歳から90歳の間にあるのではないか、と。細胞の修復限界(ヘイフリック限界)と、世代交代という種の自浄作用が、皮肉にもそのあたりで「幕引き」の合図を送っているのです。しかし、私たちは知っています。 命の価値は、水平に伸びる「時間軸」の長さだけで測れるものではないことを。


介護の現場で、あるいは自らの衰えを感じる鏡の前で、私たちは言いようのない「痛み」を共有します。「誰の役にも立てない自分に、価値はあるのだろうか」 「このまま長く生きることが、愛する人への負担になるのではないか」世界の混沌は、命を「効率」や「コスト」で計算する冷徹な秤(はかり)を私たちに押し付けてきます。動けなくなった体、失われていく記憶、社会的な繋がりの断絶。それらは、私たちが「生」という舞台から退場を促されているサインのように見えて、私たちの誇りを深く傷つけます。私たちは、長く生きることに「成功」したはずなのに、その長さゆえの孤独に、声を上げられずに震えているのです。


 


聖書は、人間の寿命について意外なほどドライに、そして深く語っています。

「わたしたちの齢は七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年。」(詩編 90:10

これは絶望の言葉ではなく、**「有限であることへの解放」の言葉です。 神学的な視点から見れば、人間の完成とは「死なないこと」ではなく、「与えられた時間を、神との愛の対話で満たすこと」**にあります。アブラハムは「満ち足りて」その生涯を閉じました。それは175歳という数字の問題ではなく、彼が自分の歩みの中に神の指先を感じ、その物語を次世代へ手渡せたという「手触り」への確信でした。

 


寿命が何歳であるべきか。その問いへの真の回答は、科学的な数値の中にはありません。 それは、たとえ体が動かず、誰かの介助なしには生きられない瞬間であっても、**「そこに主が共におられ、あなたが愛されているという事実に変わりはない」**という反転した真理の中にあります。

私たちが「重荷」だと感じるその時間さえ、神様にとっては、あなたと最後の深い対話を交わすための、かけがえのない「聖なる余白」なのです。


 


命の長さをコントロールしようとする焦りを、一度手放してみませんか。

私たちは、何歳まで生きるかという「長さ」の責任を負っているのではなく、今、この瞬間をどう愛するかという「深さ」を託されています。 医療費のグラフや介護の不安に心が押しつぶされそうになるとき、主はあなたの弱さの中に、ご自身の強さをそっと注いでくださいます。

あなたがそこに存在している。 ただそれだけで、この世界は一つの希望を保っているのです。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

 


「正解」という名の砂漠を歩く人々へ

かつて、人生の岐路に立つとき、人は空を見上げました。あるいは、物語や伝統という、自分よりも遥かに大きなものに身を委ねました。そこには「家」や「信仰」という確かなレールがあり、良くも悪くも、個人が「一からすべてを決定する」という孤独な作業は免除されていたのです。

しかし、18世紀の啓蒙主義が神を玉座から引きずり下ろし、人間に「自由」という名の全権を与えたとき、私たちは同時に「無限の責任」という重荷を背負うことになりました。サルトルが喝破した通り、人間は「自由という刑」に処されたのです。

20世紀の消費社会、そして21世紀のアルゴリズム社会は、その耐えがたい「選ぶ苦しみ」を商機に変えました。スマホのプラン、保険、結婚相手、そして人生の幕引きまでも。私たちは今、失敗への恐怖から逃れるために、自分の意志を「外部の脳」や「代行業者」にアウトソーシングしています。自ら選ぶことをやめたとき、私たちは一時の安心を得ますが、同時に「自分の人生の手触り」を失っていくのです。


今の私たちは、まるで霧深い海の上で、自分ではなく他人のコンパスばかりを覗き込んでいる船乗りのようです。「損をしたくない」「最短距離で正解に辿り着きたい」 その焦燥感が、私たちから「迷う自由」を奪っています。 自分で決めて失敗することを、この社会は「自己責任」という冷たい言葉で切り捨てようとするからです。だから私たちは、誰かに決めてほしいと願う。 誰かのせいにできる道を探してしまう。 その結果、自分の人生であるはずなのに、どこか「他人の物語」をなぞっているような、奇妙な虚しさが心に澱(よど)みとして溜まっていくのです。

この「選べない」という痛みは、現代人が抱える最も深い孤独の叫びかもしれません。


 


聖書の中に、一つの奇妙な風景があります。 アブラハムという老人が、神から「あなたの生まれ故郷を離れ、わたしが示す地へ行きなさい」と告げられた場面です。

神は、目的地の住所も、移動のプランも、そこに何があるかも教えませんでした。現代の代行業者なら「無責任だ」と一蹴するような不透明なガイドです。しかし、アブラハムは「行き先を知らないまま」旅立ちました。

ここで重要なのは、彼が「正解」を選んだのではなく、「呼びかけてくる存在」を信じて、最初の一歩を自ら踏み出したという事実です。

聖書の示す解決道とは、完璧な選択肢を見つけることではありません。 **「もし間違えたとしても、その失敗さえも用いて、新しい道を拓いてくださる方が共にいる」**という信頼に立ち返ることです。私たちが一人で決められないのは、背負いきれない責任を一人で抱え込もうとしているからです。しかし、キリスト教の神学が提示する「自由」とは、孤独な決定ではなく、神との「対話」の中にあるものです。「主よ、どちらへ行くべきでしょうか」と問い、震える足で一歩を踏み出す。その決定の重みを、主が半分背負ってくださる。その確信があるとき、私たちは初めて代行業者を介さずに、自分の人生の舵を握り直すことができるのです。


 


「正解」を求めて立ち止まる必要はありません。 あなたが祈りの中で選び、踏み出したその一歩を、主は決して無駄にはされません。完璧なプランよりも、不器用なあなたの意志を、神様は待っておられます。 たとえその道が遠回りであっても、主が共におられるなら、そこはもう「目的地」への途上なのです。今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


次の一歩として、今日あなたが直面している「迷い」を、一つだけ神様の前に置いてみませんか? 解決を急ぐのではなく、「主よ、あなたならどうされますか」と静かに問いかける時間を5分だけ持ってみる。その沈黙をデザインするお手伝いも、私にできることの一つです。

【灯をともす:四旬節の旅路】第2日:言葉の重み、沈黙の力

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第2日:言葉の重み、沈黙の力

2026219日。四旬節の二日目の朝を迎えました。 昨日の「灰の水曜日」に受けた静かな決意は、今朝の日常の喧騒の中でも、あなたの心に小さく灯っていますか。

今日は、荒野で空腹の極致にあった主が、どのようにして自分を保たれたのか。その「力の源」を辿ります。


 


1. 聖書の場面:御言葉という盾

「イエスはお答えになった。『「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と書いてある。』」(マタイによる福音書 4:4

荒野での最初の誘惑に対し、イエス様は自分の空腹を訴えることも、奇跡の力を見せつけることもしませんでした。ただ、旧約聖書(申命記8:3)の言葉を引用し、それを「自分の足場」として宣言されたのです。悪魔は「目に見えるパン(成果・満足)」を求めましたが、イエス様は「目に見えない神の言葉(信頼・約束)」を、生きるための真の糧として選ばれました。

 


2. 心の揺らぎ:情報の洪水の中での飢餓

現代を生きる私たちは、かつてないほどの「言葉」に囲まれています。 SNSのタイムライン、絶え間ないニュース、誰かの評価。 それらは一時的に私たちの知的好奇心を埋めてくれるかもしれませんが、不思議なことに、読めば読むほど、聴けば聴くほど、心はかえって乾き、空腹を覚えることはないでしょうか。他人の成功や、効率的なライフハック、誰かを攻撃する鋭い言葉。 それらは「パン」のように見えて、実は私たちの霊的な命を養うことはできません。私たちは情報の海の中で、本当の意味で「生きた言葉」に飢えているのです。

 


3. 核心:沈黙の中で聴こえる「生きた言葉」

イエス様が荒野で引用された御言葉は、ただの知識ではありませんでした。それは、極限状態の自分を支え、突き動かす「命の呼吸」そのものでした。

教訓はシンプルです。**「何を食べるか(何を取り込むか)が、あなたという人間を作る」**ということです。 四旬節のこの時期、私たちは意識的に情報の「断食」をし、神様の言葉という「本物の食事」を摂取するレッスンを始めます。


 


現代人へのメッセージ

「パン(目に見える成果や豊かさ)」がなければ生きていけないと、私たちは世界から脅されています。 しかし、主は今日、あなたにこう囁かれます。 「あなたの価値は、あなたが何を持っているか(パン)ではなく、私があなたをどう呼んでいるか(御言葉)によって決まるのだよ」と。

今日一日、誰かの評価や、自分を責める声が聞こえてきたら、こう心の中で唱えてみてください。 「私は、神様の愛という言葉によって生かされている」と。

それだけで、あなたの荒野に、静かな平安が流れ込み始めます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


今日、あなたが触れる言葉の中で、一つだけ「神様からの手紙」だと思える聖句を選んで、お守りのように心に留めてみませんか。もし良ければ、今のあなたの心に一番響く聖書の言葉を教えてください。一緒にその意味を深めていきましょう。

2026年2月18日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第1日:荒野への一歩、静寂への招待

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第1日:荒野への一歩、静寂への招待

2026218日。今日、私たちの心に「灰」で十字が記され、四旬節(レント)という40日間の巡礼が始まります。騒がしい情報の渦、終わりのないタスクの列。 私たちは、立ち止まることを忘れた旅人のようです。 そんな私たちの背中を、主は優しく、けれど力強く「荒野」へと押し出されます。


1. 聖書の場面:荒野での試み

「それから、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、霊に導かれて荒野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食された後、空腹を覚えられた。」(マツタイによる福音書 4:1-2

公の活動を始める直前、イエス様が真っ先に向かわれたのは、華やかな舞台ではなく「何もない荒野」でした。そこは、日中の酷暑と夜の極寒が支配し、空腹と孤独が身に染みる場所です。

主はそこで、生きるための最低限の糧さえ手放し、ただ父なる神との対話に専念されました。しかし、最も弱り果てたその瞬間に、誘惑の主が忍び寄ります。

 


2. 心の揺らぎ:空腹という名の「渇き」

現代を生きる私たちは、物理的な空腹よりも「心の空腹」に苦しんでいます。

  • 「もっと認められたい」という承認への渇き
  • 「何かを所有していないと不安だ」という物質への依存
  • 「自分を証明しなければならない」という焦燥

イエス様への最初の誘惑は、「石をパンに変えろ」という、最も合理的で魅力的な解決策でした。それは「自分の力で、自分の欠乏を埋めてしまえ」という誘惑です。私たちもまた、自分の力だけで人生のハンドルを握り、空虚さを何かで埋めようとして、かえって疲弊してはいないでしょうか。

3. 核心:パンのみに生きるにあらず

イエス様は、最も弱い状態で、最も強い言葉を返されました。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」

四旬節の教訓は、単なる「我慢」ではありません。 それは、**「自分を支えているのは、目に見える『パン』ではなく、目に見えない『神の愛』である」**というリアリティを取り戻すことです。私たちが「パン(自分の力や成果)」に頼りすぎるとき、心は硬い石のようになります。しかし、その手を一度放し、「私は神様の言葉によって生かされている」と認める時、荒野は神との出会いの聖所に変わります。




今日のあなたへ

今日、少しだけ「スマホ」を置く時間、あるいは「テレビ」を消す静寂の時間を作ってみませんか。 その空白に流れ込んでくる不安や寂しさを、無理に埋めないでください。 その「何もない場所」にこそ、イエス様が共に立ってくださっています。

あなたの乾きを知り、あなたと共に空腹を覚え、それでも「あなたは私の愛する子だ」と語りかけてくださる主を見つめる。それが、私たちの四旬節の第一歩です。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。


今日一日、あなたが「これがないと生きていけない」と思い込んでいるものを一つだけ思い浮かべてみてください。それを一旦横に置いて、神様の恵みに心を向けるための、具体的な「静まりの時間」の持ち方を一緒に考えてみましょうか。

 


今日は、レントの思いを胸に、静かに24キロを走りました。

一歩一歩、祈るように。 自分の弱さと向き合いながら、 主の十字架の愛を思い起こしつつ、 風の中を走りました。体は疲れても、心は不思議と軽く、 この道のりもまた、信仰の旅路の一部なのだと感じています。

2026年2月17日火曜日

この朝日が、明日も昇るから

 


この朝日が、明日も昇るから

東の空が、ほんのりと赤く染まり始める。 静けさの中に、確かな気配が満ちていく。 そして、ゆっくりと、けれど確かに、 今日の太陽が昇ってきました。

その光を見つめながら、ふと思うのです。 この太陽は、明日もきっと昇る。

私たちの人生には、 先が見えない夜のような時もあります。 不安や疲れ、孤独に包まれて、 「もう起き上がれない」と感じる朝もあるでしょう。けれど、どんな夜にも終わりがあり、 どんな闇にも、朝はやってきます。そして、今日昇ったこの太陽が、 明日もまた昇ると知っているからこそ、 私たちは希望をもって、 もう一度、起き上がることを選べるのです。

 


朝日は、何も語りません。 でもその光は、こう告げているように思えます。

「あなたは今日も、生きていていい」 「昨日がどんな日でも、今日を始めていい」

それは、神さまが私たちに与えてくださった、 新しい一日の恵みです。

 


生きよ!

しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。(エゼキエル書166節)

 


だから私は、 この朝の光を浴びながら、 明日もまた希望をもって生きることを誓います。

太陽が昇るように、 私もまた、立ち上がるのです。

今日も階段トレーニング

 


休むことに、罪悪感を覚えるあなたへ

「今日は、少し休んだほうがいいかもしれない」 そう思った瞬間、心のどこかで小さなざわめきが起こる。 怠けているのではないか。 もっと頑張るべきではないか。 そんな声が、内側から聞こえてくる。けれど、体は正直だ。 階段を上る足取りが、いつもより重い。 散歩の途中で、ふと立ち止まりたくなる。 それは、心が「立ち止まること」を求めているサインかもしれない。



私たちは、走り続けることに慣れすぎてしまった。 止まることに、どこかで罪悪感を覚える。 休むことは、弱さの証だとさえ思ってしまう。でも、聖書はこう語る。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れる。」

神は、私たちの「弱さ」を恥とは呼ばれない。 むしろ、その弱さの中にこそ、 神の力が宿ると語ってくださる。だから、疲れたときは、休んでいい。 立ち止まり、深呼吸し、 自分の内側にある声に耳を澄ませていい。

休むことは、信仰の後退ではない。 それは、神の御手に身をゆだねるという、 もうひとつの「歩み方」なのだ。

今日、あなたがもし「少し休みたい」と感じているなら、 それは神があなたに語りかけておられるのかもしれない。 「今は、わたしのもとで静まりなさい」と。

今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月16日月曜日

月曜日、出発です。

 


もう一度、歩き出すために

朝、目が覚めたとき、 「また一週間が始まる」と思うことがあります。 それは希望のようでもあり、 少し重たく感じることもあるかもしれません。昨日の疲れがまだ残っている。 やり残したことが心に引っかかっている。 あるいは、これから始まる一週間に うまく立ち向かえるか、不安を抱えている。そんな月曜日の朝に、 ふと心に浮かぶのは「再出発」という言葉です。

 


人生は、まっすぐには進みません。 ときに立ち止まり、 ときに後戻りし、 ときに迷い、 ときに転びます。でも、聖書の物語を見ていると、 神はいつも「もう一度、歩き出す人」に寄り添っておられることに気づきます。アダムとエバが楽園を出たときも、 モーセが荒野をさまよったときも、 ペトロが主を否んだその夜も、 神は見捨てず、 新しい一歩を用意しておられました。

 


「再出発」は、失敗のあとにだけ訪れるものではありません。 それは、神と共に歩む者に与えられる、日々の恵みです。昨日の自分に納得がいかなくても、 今日、もう一度歩き出せる。 それは、神が私たちに「今日」という時間を与えてくださったからです。そしてその一歩は、 大きなジャンプである必要はありません。 ほんの小さな一歩でいい。 ため息のあとに、静かに祈ること。 誰かのために、そっと手を合わせること。 それだけでも、私たちはもう「再出発」しているのです。

 


神は、私たちの歩幅に合わせてくださる方です。 急かすことなく、責めることなく、 ただ「共に歩もう」と語りかけてくださる。だから、今日もまた、 昨日とは違う一歩を踏み出せるのです。



今日も、精一杯に生きることです。 主のために、人々のために。

2026年2月15日日曜日

朝ラン23キロ完走

 


祈りの23キロ、賛美の朝に

今朝も走りました。 23キロの道のり。 それは単なる運動ではなく、祈りの23キロでした。

先週の火曜日から、六日間連続のランニング。 疲れがないと言えば嘘になります。 けれど、不思議なことに、 体の重さよりも先に、心が高鳴ってくるのです。走りながら、私は主を思い、 教会の群れの顔を一人ひとり思い浮かべ、 その歩みが守られるようにと祈ります。 気づけば、賛美が口をついて出ている。 風の中に、主の息吹を感じながら、 ただ、ひたすらに走る。

この一週間も、きっとそうなるでしょう。 走り続け、祈り続ける日々。 それは、何かを達成するためではありません。 信仰の生活とは、目標を達成するための手段ではなく、 霊が生きるための、日々の必然なのです。

生きるために祈る。 生きるために走る。 それは、報酬を求める行為ではありません。 むしろ、こうして生かされていることへの感謝の応答。 今日も走れたこと、祈れたこと、 それ自体がすでに、恵みなのです。

そして、いつか人生の終わりが訪れるとき、 私は静かに、感謝をもって旅立ちたい。 主が用意してくださった、 真の平和の場所へと向かって。

命がある限り、 私は走り続けます。 祈り続けます。 愛し続けます。

今日も、与えられた命に感謝して。 時間に、家族に、人々に感謝して。 信仰によって生きることを選びながら。

「アーメン」という名の、見えない伴走者

 


「アーメン」という名の、見えない伴走者

礼拝堂の扉が閉まり、静寂が呼吸を始める時

オルガンの最後の和音が、高い天井の隅々に吸い込まれていく瞬間。 私たちは、一週間のなかで最も純粋な「沈黙」の中に身を置いています。つい先ほどまで、ここには祈りの声が満ち、賛美の歌が重なり、聖書の言葉が私たちの乾いた魂に染み込んでいました。しかし、礼拝が終わるということは、その「聖なる場所」を去るということです。私たちは再び、それぞれの重荷を肩にかけ直し、教会の重い木扉を押し開けて、仙台の街の、あの日曜日午後の日常へと歩み出します。


 



日常という名の「下り坂」のなかで

私たちは、礼拝堂の中では「神の子」として気高く立つことができます。 けれど、一歩外に出れば、そこには相変わらずの不条理と、解決しない課題が待っています。

明日の月曜日から始まる仕事の段取り、学校での学びや生活、入院している大切な人のこと、あるいは自分のなかで繰り返される「これでいいのか」という自問自答。 礼拝で受けた感動が、街の喧騒に触れた瞬間に、どこか頼りなく、脆いものに感じられてしまう。

「あんなに素晴らしいメッセージを聞いたのに、なぜまたすぐ不安になるのだろう」 そんな自己嫌悪に似た揺らぎを抱えたまま、私たちはバスに乗り、あるいは二十キロを超える長いランニングの道のりへと戻っていきます。聖なる山から、泥臭い「生活の平地」へと下っていく。その過程で、私たちはしばしば、神様を礼拝堂に置き忘れてきたような錯覚に陥ってしまうのです。


 


祝福は、あなたの背中に押される「号砲」

しかし、福音書が語る主の姿は、常に「派遣」のなかにあります。 復活された主は、山の上に留まろうとした弟子たちを、あえて混沌とした街へと送り出されました。礼拝の最後に授けられる祝祷は、「お疲れ様でした」という解散の合図ではありません。それは、**「ここから、あなたの本当の礼拝が始まる」**という、主からの力強い契約の言葉です。

「主は、彼らをベタニアの近辺まで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。」(ルキアによる福音書 245051節より)

主は、私たちが成功している時だけではなく、むしろ「無力さ」を抱えて日常に戻っていく、その背中に手を置いて祝福されます。 あなたが明日、実習先で立ち尽くす娘さんを想い、病床の友のために祈り、鈴木君の洗礼のために言葉を整える。その「一つひとつの営み」こそが、教会を出たあとの、生きた礼拝の続きなのです。

私たちが「アーメン」と応えたとき、その言葉は主との「伴走契約」になります。 あなたは一人で月曜日へ向かうのではありません。昇天された主は、目に見えない伴走者として、あなたの日常のあらゆる「死角」に立ち、あなたの一歩を支えておられるのです。


 


新しい一週間へのステップ

礼拝の余韻を、そっと胸のポケットにしまって。 今夜は、明日のためにゆっくりと身体を休めてください。あなたが明日、どんなに小さな仕事に向かう時も、どんなに苦しい坂道を走る時も、主の「祝福の手」はあなたの背中から離れることはありません。 私たちは、遣わされたその場所で、もう一度新しく生まれることができるのです。

今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

2026年2月14日土曜日

死を越えて歩む

 


死を越えて歩む──エノクとエリヤが語りかけるもの

「死」は、誰にとっても避けられない現実です。 それは、まるでこの世界に課された絶対的なルールのように思えます。 けれど、聖書にはそのルールに風穴を開けるような、二人の人物が登場します。 エノクとエリヤ。 彼らは「死を経験せずに天に上げられた」と記されています。

この不思議な出来事は、単なる神話的な物語ではありません。 むしろ、私たちが「死」という現実とどう向き合い、 どのように生きるべきかを静かに問いかけてくる、 希望に満ちたメッセージなのです。

 


エノク──三百六十五年の「並走」の果てに

エノクについて聖書が語るのは、ほんの数行。 けれど、その短い記述には、深い余韻があります。

彼は三百六十五年もの間、神と共に歩み、 ある日、そのまま神に「取られて」姿を消しました。 派手な奇跡も、壮絶な最期もありません。 ただ、日々の歩みの中で、神と共に生き続けた人。 その「歩み」が、やがて死を越えて、 天の住まいへと自然につながっていったのです。

信仰とは、特別な瞬間のためだけにあるのではなく、 日常の中で、静かに、誠実に、神と共に歩むこと。 それが、永遠へと続く道になる── エノクの姿は、そう語っているように思えます。

 


エリヤ──嵐と火のなかの「任務完了」

一方、エリヤの昇天は、まさに劇的です。 火の戦車と馬、旋風に乗って天へと上げられるその姿は、 まるで勝利の凱旋のようです。彼は激しい預言者としての使命を果たし、 ヨルダン川を越え、「約束の地の外」へと向かいました。 その歩みは、まさに境界線を越えるものでした。 死という境界を、神の力によって超えていったのです。エリヤの昇天は、 「死がすべてを終わらせるわけではない」 という神のメッセージのように響きます。 死が来る前に、命の源である神が彼を包み、引き上げた。 それは、死をも飲み込む命の力が、 この世界に確かに存在することの証しです。

 


私たちにとっての「エノクとエリヤ」

もちろん、私たちは彼らのように、 肉体の死を飛び越えるわけではありません。 けれど、新約聖書の光の中でこの出来事を見つめるとき、 それは、キリストにある私たちの「変貌」の予告のようにも思えてきます。

「死は終わりではない」 「やがて、私たちは変えられる」 そんな約束が、聖書には繰り返し語られています。

エノクが「神に取られた」という表現には、 まるで大切な宝物を手元に引き寄せるような、 神の優しさと愛がにじんでいます。 私たちが死を迎えるときも、 その御手が私たちを包み、 永遠の住まいへと導いてくださる── その確信が、私たちの歩みに静かな力を与えてくれるのです。

 


巡礼の道、その「続き」の先に

この秋、スペインの巡礼路を歩く人もいるでしょう。 サラマンカからサンティアゴまでの500キロ。 その道のりの果て、大聖堂の広場で空を見上げるとき、 エノクが三百六十五年かけて辿り着いた「あの場所」と、 空が少しだけつながっているように感じられるかもしれません。

走ること、歩くこと。 それは、ただの運動ではなく、 この地上で天の空気を吸い込み続ける練習なのかもしれません。 いつか主の御手に「取られる」その日まで、 私たちは今日も、信仰の翼を広げて歩み続けるのです。



明日は主の日。

主なる神様を礼拝することは、まさにこういう歩みを確認するときであるのです。