デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年6月25日木曜日

歯医者

 


🌙 記憶の中の鋭い痛みと、十字架が教えてくれる「荒削りな愛」

🍃 麻酔の感覚が呼び覚ました、遠い森の記憶

9時。 歯科医院特有の清潔な香りに包まれながら、治療台に身を預けました。 今日は奥歯の抜歯と、欠けた部分の埋め込み治療です。

「痛かったら言ってくださいね」 優しい声とともに麻酔が静かに効き始めると、無事に治療を受けられることへの感謝が胸に広がりました。

しかし同時に、口元がじんわりと麻痺していくあの独特の感覚が、 私の意識を遠いドイツの森へと連れ戻していったのです。

ハイデルベルクでの3年間の学びを終え、 帰国を1週間後に控えていた、あの日の出来事──

 


麻酔なしの抜歯と、荒削りな優しさ

私が暮らしていたのは、ハイデルベルクからバスで30分ほどの 森に囲まれた小さな街、ヴィルヘルムスフェルト。 人口3000人ほどの静かな村で、歯科医院も治療台が1台だけの小さな場所でした。

ある朝、耐えがたい虫歯の痛みに襲われ、 その歯科医院へ駆け込みました。

しかし受付で告げられたのは、 「歯の治療には別の保険が必要で、費用が高くなるかもしれません」という現実。

「実は、あと1週間で帰国するのです」 そう伝えると、女性の先生は私を別室へ案内し、 「事情はわかりました。任せてください」と言いました。

──何をどう任せるのか、説明はありませんでした。

治療台に座った次の瞬間、 彼女は助手とともに、なんと 麻酔なしで歯を抜いたのです。

想像を超える衝撃と痛み。 しかし、牧師である自分が取り乱すわけにはいかない。 私はただ、十字架のキリストを心に描きながら、その痛みに耐え抜きました。

今でも鮮烈に残る、忘れられない瞬間です。

 


🕊 痛みの奥に隠れていた、普遍的な真理

最新の麻酔技術に守られながら今日の治療を受け、 あの出来事を思い返すと、 そこには「乱暴さ」と「優しさ」が奇妙に同居していたことに気づかされます。

荒削りな愛

あの女性歯科医の行動は、決して洗練されてはいませんでした。 しかし、貧しい留学生を借金から守ろうとする、 彼女なりの荒削りな優しさが確かにありました。

苦しみを共にする方

十字架のキリストは、私たちの痛みを背負うため、 いかなる麻酔もなく、その道を歩まれました。 私の痛みは小さなものですが、 あの瞬間、私は確かに「十字架の痛みの端っこ」に触れ、祈ることができたのです。

人生には、麻酔なしで直面させられる痛みがあります。 しかしその奥には、 誰かの不器用な愛や、主が共に苦しんでくださる事実が隠れています。

 


🌙 日常という名の温かい恵み

二箇所の麻酔と治療を終え、 痺れた口元を抱えながら買い物を済ませ、家に戻りました。

今日は娘も早く帰宅するとのことで、ランチには「ナスのたたき」を作りました。 白いご飯が進むほど味が染み込み、 家族で囲む食卓の温かさに、何気ない日常こそ最大の恵みであることを深く噛みしめました。

二日連続の朝ランで、足には心地よい疲労が残っています。 今日は無理をせず、しっかり休息をとる一日にします。過去の痛みを思い返し、 今の恵みに感謝し、 明日への力を養う── これもまた、人生の大切な歩みです。

今日も、共に前進です。

朝ラン24キロ完走、そして地震が・・

 


巡る空模様の中で、心に太陽を宿して歩む

🌅 祈りの足音が響く、夜明けの道

午前4時半。 街がまだ深い眠りの中にあるその時、静けさを切り裂くように走り始めました。 冷たい空気を胸に受けながら青葉山公園を抜け、東へ向かってただ足を運び続けます。今日のコースには、特別な意味がありました。 転院先で闘病を続けている兄弟が入院する病院。その前を通るたび、彼の回復を願って祈りを重ねました。 そして今日は、彼の誕生日。 巡り来る命の記念日に祈りを込めて刻んだ、24キロの道のりでした。

祈りとは、静かに座って捧げるものだけではありません。 一歩一歩、大地を踏みしめる痛みや汗の中で、誰かを思い続ける時間もまた、確かな祈りとなります。

 


☁️ 曇り空と、運命論の罠

見上げると、今日の空は曇り。 明日はまた雨が降る予報です。 天気は私たちの意思とは無関係に、ただ巡り続けます。

人生も同じです。 雨ばかりの人生もなければ、曇りばかりの人生もありません。 かといって、雲ひとつない快晴ばかりが続く人生もありません。

晴れ・曇り・雨── そのすべてが折り重なって、私たちの人生という空模様をつくっています。訪れた「色違いの人生」をまず受け止めること。 それは諦めではなく、現実を正しく見つめるための大切な姿勢です。しかし、 「雨だから暗く生きなさい」 「曇りだからうつむいて歩きなさい」 という意味ではありません。

 


🌤 どんな空の下でも「晴れの人生」を生きる

大切なのは、 厳しい現実を受け止めた上で、 「それでもなお、晴れの人生を生きる方法を探す」 という選択です。これこそが、神が私たちに与えてくださった自由であり、希望の源泉です。聖書はこう語ります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」 テサロニケ 5:16–18

この言葉は、 「晴れの日だけ喜びなさい」 とは言っていません。

雨の日も、曇りの日も、嵐の夜でさえも、 心の奥に小さな光を灯すことはできる。 病床で誕生日を迎える兄弟のためにも、 外の天気がどうであれ、 心に晴れの日の平安が訪れるように祈ることができるのです。

 


🌱 生きるならば、精一杯に

さて、日常は淡々と、時に容赦なく続きます。 今日の私は、これから歯医者で抜歯を控えています。 痛みを伴う現実であり、決して嬉しい予定ではありません。 けれど、これもまた「今日を生きる」という現実の手ざわりです。

24キロを走り抜いた疲労も、友への祈りも、曇り空も、そして歯を抜く痛みも。 そのすべてを抱えながら、それでも前へ進む。どうせ生きるならば、 どんな空模様の下であっても、 命の限り、精一杯に生きる。外が雨でも、 心に太陽を宿して歩み続ける。

只今、地震が・・・・これも突然訪れるものです。

今日も、共に前進です。

マックのランチ

 


ドライブスルーの温かな紙袋と、「一日一生」を走り抜く覚悟

昨日は、娘の学校が1限と2限だけで終わる日でした。 朝、駅まで車で送りながら「じゃあ、お昼はマックでも買って家で食べようか」と言葉を交わしました。お昼ごろに妻を八木山まで送り届け、そのまま駅へ向かうと、ちょうど到着した娘を拾うことができました。近くのマックのドライブスルーに寄り、温かな紙袋を抱えて家で昼食を共にする。

妻のためにはアップルパイを単品で購入しました。こうした親子でのささやかな場面は、年に23回あるかないかの特別な時間です。

 

娘の好みに合わせる、残りわずかな季節

テーブルを囲みながら、ふと心の中で思いました。「やはり自分は、マックはもういいかな」と。 もともとファストフードは好きではなく、自分の意志で買うことなどほとんどありませんでした。この数年、マックを口にしてきたのは間違いなく娘の影響です。彼女が学校を卒業し、やがて巣立っていけば、私が自らの足でこの店に向かうことはもうないでしょう。自分の好みとは違うけれど、娘が喜ぶものを共に味わう時間。 それもまた、親に許された愛の表現のひとつの形です。やがて過ぎ去っていくこの愛おしい季節を思いながら、私は静かに「これも良し」と受け入れていました。

 

歯を抜き、限りある命を覚える朝

そして今日、私は歯医者に向かいます。 私が歯医者に行く理由は、いつも決まっています。「抜歯」のためです。それ以外で通うことはほぼありませんし、そもそも事故でもない限り、病院に行くこと自体がありません。それは決して、自分の健康に絶対の自信があるからではありません。 むしろ逆です。「人はいつ、何が起こるかわからない」という、人間の命のどうしようもない脆さを知っているからです。歯が一本抜け落ちていくように、私たちの肉体という天幕は、少しずつ確実に古びていきます。だからこそ、自分の命の期限を思い煩うのではなく、ただ「与えられた一日」を人生の最後の日として受け止め、そこに向き合うことしかできないのです。

 


一日一生──すべてを注ぎ尽くして生きる

日本の偉大な思想家であり信仰者であった内村鑑三は、「一日一生」という言葉を残しました。 一つの日が、ひとつの生涯である。まさにその通りだと、深く頷く自分がいます。明日という日は、誰にも約束されていません。だからこそ、自分に許された「今日」という一つの小さな生涯を、一切の悔いなく生き切るのです。

  • 精一杯に、目の前の人を愛する。
  • 精一杯に、家族のために料理の腕を振るう。
  • 精一杯に、教会と人々に仕える。
  • 精一杯に、夜明けの道を走る。
  • 精一杯に働き、精一杯に歩み続ける。

力を温存して生きる必要などありません。「休むのは、死んだ時だけでいい」のです。 命のすべてを燃やし尽くし、天に召されたその時にこそ、私たちは永遠の安息(安らぎ)という最高の休息を与えられるからです。そう信じて今日を完全燃焼することもまた、「これも良い」と心から思えるのです。

自分の好みを手放して笑い合った昨日の食卓も、痛みを伴う今日の抜歯も、すべては「今日という生涯」に与えられた尊い出来事です。

 


また、昨日は、いつもの床屋さんで髪を切り、ついでにカラーもしてきました。 2か月に一度の「外見メンテナンス祭り」です。椅子に座った瞬間、視界の端にキラリと光るカードが。 60歳以上シニア割引・200円引き」

……なるほど。 店側はやさしく背中を押してくるわけです。

しかし私は、心に決めているのです。 シニア割は70歳になってから堂々と使う と。

まだ60代で使うのは、なんだかフライング気味の老成のようで、 自分の中の小さなプライドが「まだ早い」と囁きます。というわけで今回も、通常料金をきっちりお支払い。 財布は少し軽くなりましたが、心はなぜか晴れやか。

これもまた、良し。 人生には、こういう誰にも理解されなくても自分だけは満足できるこだわりがあっていいのだと思います。

今日も、共に前進です。

2026年6月24日水曜日

ごみ回収車

 


街の輪郭を保つ静かな働き手と、心の「見えない塵」を贖う朝

早朝の冷たい空気を胸いっぱいに吸い込みながら、いつものランニングコースへと歩みを進めました。 街がまだ深い眠りの中にある時間。太白区のゴミ収集を担う会社の前を通りかかると、整然と並んだ回収車が静かに佇んでいました。

エンジンを休め、ただ夜明けを待つ車体たち。 その沈黙の列は、まるで街を守るための祈りがそこに宿っているかのようでした。

🌱 日常という名の、危うい均衡

私たちの街にゴミが溢れないのは、決まった曜日に必ず回収車が走り、 私たちが生み出した不要なものを淡々と引き受けてくれているからです。 それは決して「当たり前」ではありません。年に一度、大晦日と正月が重なり回収が休みになると、 次の回収日には指定場所が驚くほどのゴミで埋め尽くされます。たった一度の空白で、街の均衡は簡単に崩れてしまう。もしこれが一週間、あるいは一ヶ月続いたら…… 走りながら、そんな想像が胸をよぎりました。

🌿 「心のゴミ回収車」はどこにあるのか

整然と並ぶ回収車を見つめていると、 ふと心の奥からひとつの願いが湧き上がってきました。

「私たちの心にも、こんな回収車があればいいのに。」

人の心には、日々見えないが降り積もります。

  • 憎しみ
  • 妬み
  • 怒り
  • 悲しみ
  • 言えなかった言葉
  • 飲み込んだため息

これらは目には見えませんが、確かに心を重くし、 時に私たちの魂を腐らせてしまう心のゴミです。街の空気を見渡せば、 そうした見えない塵があちこちに漂っているのを感じます。 それが処理されずに溜まり続けるからこそ、 世界には痛ましい出来事が絶えないのかもしれません。

🌤 溜め込んだ重荷を手放す場所

目に見えるゴミは袋に入れて指定場所に出せば、 回収車が運び去ってくれます。

では、 心に溜まった見えない塵は、どこへ出せばいいのでしょうか。

私たちには、 自分の力では浄化しきれない感情の濁りを そっと明け渡す場所が必要です。それは、 弱さを隠さずに神の前に静まる祈りの時間です。

憎しみも、妬みも、怒りも、悲しみも、 自分では処理できない重荷を 「主よ、これはもう私には抱えきれません」 と御前に置くとき、

主は限りない恵みの御手でそれらを静かに回収し、 新しい風で心を満たし直してくださいます。

🌈 今日という一日を、軽やかに歩むために

街をきれいにするために走り出す回収車たちのように、 私たちもまた、心を曇らせるものをため込まず、 主に委ねながら歩みたいと思います。

今日という一日は、 昨日の重荷を抱えたまま歩く必要はありません。

主が受け取り、 主が清め、 主が新しい光を注いでくださるからです。

明日も、共に前進です。

朝ラン27キロ完走

 


🌅 雨上がりの夜明け、27キロの祈り──「今日」という命を生きる光

午前2時。 世界がまだ深い眠りの中にあるその時、静かに目を覚ましました。 心と体を整える1時間のルーティンを終え、午前3時。 私は暗闇の中へと一歩を踏み出しました。

夜明け前のひんやりとした空気は、まるで心の奥まで澄ませてくれるようで、 走り出した瞬間、胸の中に静かな祈りが灯り始めました。

4日間降り続いた雨がようやく止み、 見上げれば久しぶりの晴れ間。 雨に洗われた空気は驚くほど透明で、 深く息を吸い込むたびに、心まで清められていくようでした。

今日は、少し久しぶりの道を選び、ただ前へ、前へと走り続けました。

 


🌄 闇を破る光──「必ず朝は来る」という約束

暗い道を進むうちに、空の端がほんのり白み始めました。 夜がゆっくりと退き、朝が生まれていく瞬間です。

どれほど深い夜であっても、 どれほど長い雨であっても、 朝は必ずやってくる。

その確かな約束のような光景に、胸が熱くなりました。

太陽が沈黙を破るように昇り、 今日という一日を照らし出すその瞬間、 私の27キロの道のりは、自然と祈りの旅へと変わっていきました。

  • 苦しむ人に、喜びをもたらす光が届きますように。
  • 不安の中にいる人に、心を包む平安の光が注がれますように。
  • 欲や恐れに縛られている人に、自由へと導く光が差し込みますように。
  • そして今、病床にある兄弟の上に、主の癒しの光線がまっすぐに届きますように。

走る足音は、いつしか祈りのリズムになっていました。

 


🌤 「今日の命は、今日のために」──夜明けが教えてくれること

夜明けの光は、静かに語りかけてきます。

今日の命は、今日のために与えられている。

私たちはつい、まだ来てもいない明日の不安を背負い、 見えない重荷で心を押しつぶしてしまいます。

けれど、聖書は言います。 「明日のことは明日が思い煩う。」

私たちがすべきことは、 遠い未来を恐れることではなく、 今日という一日に与えられた光の中で、 目の前の一歩を誠実に踏みしめること。

それだけでいいのです。

 


🌈 祈りを乗せた27キロが教えてくれたこと

澄み切った空気。 生まれたばかりの朝の光。 そして、祈りを抱えて走った27キロ。

そのすべてが、 「もう一度立ち上がっていいよ」 と優しく背中を押してくれました。

今日という一日を、 与えられた光の中で、 誠実に、丁寧に、生き切ること。

その積み重ねの中にこそ、 本当の希望が宿り、 静かな勇気が育ち、 再び歩き出す力が生まれていきます。

今日も、共に前進です。

2026年6月23日火曜日

タイヤパンク

 


5時の静寂に響く小さな音と、すべてを御手にゆだねる朝

昨夜も仙台は雨が降っていました。冷たい雨の中、アルバイトを終えた娘を車で迎えに行き、無事に家路につけたことにほっと息をつきながら眠りにつきました。

そして明けた今朝。いつものようにゴミ出しへ向かうと、ふと車の後方タイヤの空気が抜けていることに気がつきました。日常の小さなほころびは、いつも突然姿を現します。

 


5時のガソリンスタンドで見つけたもの

時刻はまだ朝の5時。近くのガソリンスタンドへゆっくりと車を走らせ、空気を補充しました。その時です。 ひんやりとした朝の空気の中で耳を澄ませると、かすかに空気が漏れる音が聞こえてきました。手を当て、よく調べてみると、タイヤに一本の釘が深く刺さっていました。

  • 見えない不安より、見える原因 普通ならため息をつきたくなる場面かもしれません。しかし、私の心に静かに湧き上がってきたのは「原因がわかったことへの感謝」でした。 「問題が分かったら、半分は解決済み」と言われます。正体がわからないまま走り続けてバーストするよりも、ここで釘の存在に気づけたことは大きな恵みです。

空気が完全に抜け切る前に、もう一度ガソリンスタンドへ車を戻して停め置くことができました。お店が開く8時になったら、プロの手でパンク修理をしてもらうつもりです。幸いなことに、今日は二人の送迎が要らない日でした。この絶妙なタイミングにも、不思議な守りを感じずにはいられません。

 


自分の手放し方と、日常の歩み

原因がわかり、自分には直せないと悟ったなら、あとは「時間になるまで待ち、しかるべき人に任せる」だけです。 車を預けたあとの時間は、ただひたすらに、私に与えられている「いつもの朝のルーティン」を淡々とこなすのみです。

  • 会堂の除湿機にいっぱい溜まった重い水タンクを空にする
  • 静かに掃除をし、場を清らかに整える
  • 朝の祈りと、御言葉に向き合う聖書朗読、そして黙想
  • 少しばかりの仕事を進める

除湿機の水をジャーッと流し捨てる心地よい音を聞きながら、心の中に溜まったものも一緒に流れていくような感覚を覚えました。

 


祈りの旅路にある「ゆだねる」という真理

実は今日、娘の三か月に一度のMRI検査の日でもあります。

タイヤに刺さった釘のように、私たちの人生には時に予期せぬ引っかかりや、痛みを伴う現実が起こります。そして、私たちが自分の力だけで解決できることなど、本当にごくわずかです。 だからこそ、「すべては御手にゆだねて歩む」のです。

満水になったタンクを空にするように、心に溜まった不安や思い煩いも一度すっかり空にして、神様に明け渡す。問題から目を背けるのではなく、しっかりと現実を見据えた上で、「私の手には負えない部分は、どうか御手にお委ねします」と手放す。 それが、私たちが重荷に潰されることなく、今日を力強く歩み続けるための確かな道なのだと思います。雨上がりの澄んだ空気の中、整えられた会堂で静かに祈る朝。 目の前のなすべきことに心を込めながら、すべてを委ねる平安がここにあります。

今日も、共に前進です。

2026年6月22日月曜日

本日の夕食

 


究極の「豚肉と彩り野菜の黄金炒め」

お肉は柔らかく、野菜はシャキッと。それぞれの食材の持ち味を最大限に引き出すための、ちょっとした「順番」と「下ごしらえ」が究極の鍵です。

📝 材料(3人前)【メイン食材】

豚肉小間切れ300g 

なす: 2 

ピーマン: 3 

玉ねぎ: 1/2 

にんじん: 1/3 

本小松菜: 1/2

【豚肉の下味】(これが柔らかさの秘密です)

酒: 大さじ1  

醤油: 小さじ1

片栗粉: 大さじ1.5(お肉の旨味を閉じ込め、タレを絡みやすくします)

【究極の黄金ダレ】(あらかじめ小鉢で混ぜ合わせておきます)

醤油: 大さじ2

オイスターソース: 大さじ1.5(深いコクを出します)

酒: 大さじ1

みりん(または砂糖): 大さじ1

すりおろし生姜: 1片分(チューブなら約3cm

すりおろしニンニク: 1片分(チューブなら約3cm

鶏ガラスープの素: 小さじ1/2

【仕上げ用】ごま油: ひとまわし  サラダ油: 適量(炒め用)

 

🍳 究極への5ステップ

1. 食材の切り出しと下準備

なす: 乱切りにして、5分ほど水にさらしアクを抜いた後、水気をしっかり拭き取ります。

玉ねぎ: 1cm幅のくし切りにします。

にんじん: 火が通りやすいよう、薄めの短冊切りにします。

ピーマン: 種を取り、一口大の乱切りにします。

小松菜: 4cmほどの長さにざく切りにし、「茎」と「葉」の部分を分けておきます。

豚肉: ボウルに入れ、酒と醤油をもみ込みます。炒める直前に片栗粉をまぶします。

2. なすを先に「揚げ焼き」にする

フライパンに少し多めのサラダ油(大さじ2程度)を中火で熱し、なすを炒めます。なすは油と相性が良く、先に火を通すことでトロッとした食感と美しい色合いが保てます。しんなりしたら、一度お皿に取り出しておきます。

3. 豚肉と硬い野菜を炒める

同じフライパンにサラダ油(大さじ1)を足し、片栗粉をまぶした豚肉を中火でほぐしながら炒めます。お肉の色が8割ほど変わったら、にんじんと玉ねぎを加え、玉ねぎが少し透き通るまで炒め合わせます。

4. 緑の野菜で彩りと食感をプラス

ピーマンと、小松菜の「茎」の部分を加え、さらに1分ほどサッと炒めます。(緑の野菜は火を通しすぎないのがシャキシャキ感のコツです)。

5. 黄金ダレを一気に絡める

取り出しておいた「なす」と、残りの「小松菜の葉」をフライパンに加えます。すかさず混ぜ合わせておいた【究極の黄金ダレ】を回し入れ、強火にして全体を手早く炒め合わせます。タレの香ばしい匂いが立ち上り、全体にツヤが出たら火を止め、仕上げにごま油をひとまわしして完成です。

お肉をコーティングした片栗粉のおかげで、野菜から出た水分も旨味としてまとまり、ご飯が止まらない一品に仕上がります。


*先ほど、レシピ通りに作って一人で食べました。美味しかったと思います。おそらく二人も美味しいと言うでしょう。

本日の東北学院大土樋キャンパス礼拝説教(22-JUN-2026)

 


学期末が近づくこの時期、皆さんの日常は否応なく慌ただしさを増しているのではないでしょうか。目の前に迫る試験の対策、山積みのレポート、あるいはインターンの準備や、将来を左右する就職活動……。今、この場所に座っていても、皆さんの心は「少し先の未来」へと引っ張られ、そわそわと落ち着かない状態にあるかもしれません。

私たちは誰もが、未来の不確実な不安に備えようとするあまり、皮肉にも「今日」という二度と戻らないかけがえのない時間を、犠牲にしてしまいがちです。

2026年の今、社会はAIによる予測や徹底的な効率化が進み、かつてないほど「正解を先回りできる」時代になったかのように見えます。しかし、私たちの心の内にある不安だけは、テクノロジーの進化とは裏腹に、むしろ大きく膨れ上がっているのではないでしょうか。未来を計画し、真剣に考えることは決して悪いことではありません。しかし、まだ来ぬ明日の心配が、皆さんの「今日の呼吸」まで浅くし、今ここで笑えるはずの安心を奪ってしまっているなら、それは皆さんの心が「もうこれ以上、未来の重荷を背負いきれない」と悲鳴を上げているサインなのです。

私たちは、たくさん心配し、不安を先回りして脳内でシミュレーションすれば、明日の痛みを減らせるような錯覚に陥ります。しかし実際には、いくら思い悩んでも明日の課題が消えるわけではありません。ただ、今日を生きるために神様から与えられている大切なエネルギーが、底の抜けたバケツのように、今この瞬間から虚しく流れ出してしまうだけなのです。

そんな、未来の重圧で「今日」を空っぽにしてしまいそうな私たちに向かって、イエス・キリストは今から2000年前、ガリラヤの丘の上でこのように優しく語りかけられました。「空の鳥を見なさい。」 「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。」鳥たちは、将来の安心のために銀行に貯金をしません。就職活動を有利にするための資格も取りませんし、エントリーシートも書きません。それでも、彼らは大空をのびのびと飛び回り、生きています。必要なものを、必要な時に、彼らを造られた天の神様が必ず与えてくださるからです。もちろんこれは、「だから人間である皆さんも、努力なんてしなくていい」「将来のことなど何も考えずに怠けていればいい」という、無責任な放任を勧めているのではありません。 イエス様が言いたかったのは、「明日の不安に、あなたの『今日』という尊いエネルギーを盗まれるな」ということです。

神様という方は、あなたが「明日」を生きるために必要な力や恵みを、今日のうちに前借りさせることはなさいません。明日必要な力は、明日という朝が来たら、その時に必ず100%の満タンにして与えてくださいます。だから、今日のあなたは、今日使えるだけの力を使って、今日任されていることだけに集中すればいいのです。

人生の大きな目標や「正解」が見えないとき、私たちはどうしても焦ります。 「この道で合っているのだろうか」「自分だけが遅れているのではないか」と、周りのペースと比べて自分を責めてしまいます。しかし、イエス様は私たちに「10年先までの未来を見通す目を持て」とは言われませんでした。むしろ、「今日という日を、野の花のように生きなさい」と語られたのです。野の花は、明日の天気が雨か嵐かを心配して身を縮めたりしません。自分が隣の薔薇や百合よりも美しく咲けるかどうかを、計算して落ち込むこともありません。彼らはただ、今日与えられた太陽の光と恵みの水をいっぱいに受け取り、「今、ここ」にある命を精一杯に、しなやかに生き抜いています。

神様が今、皆さんを見つめるとき、注目しておられるのは「あなたが10年後に社会的な成功者になっているかどうか」ではありません。

  • 今日、隣にいる寂しそうな友人に、優しい言葉を一つかけられたか。
  • 今日、不安な気持ちを抱えながらも、誠実に一ページの教科書を開いたか。
  • 今日、自分のためだけでなく、苦しんでいる誰かのために静かに祈ったか。

神様が大切にされるのは、その一見目立たない、数字には表れない「小さな今日」の誠実さです。そして、確かな未来というものは、その愛に満ちた「今日」の積み重ねの先にしか、決して形づくられることはありません。だからこそ、イエス様は「今日という一日に集中しなさい」と語られたのです。

現代社会は、私たちに「もっと強く、もっと有能に、もっと完璧な未来の計画を立てろ」と、絶えず目に見えないプレッシャーをかけてきます。自分の価値を、他者との比較や成果だけで測ろうとするこの冷たい世界の片隅で、皆さんの魂は乾き、疲れているかもしれません。しかし、どうか覚えていてください。 皆さんの本当の価値は、宇宙を造られた神様が、「あなたは私の目に高価で尊い。私はあなたの存在そのものを愛している」と宣言してくださっています。あなたが何者かになれなくても、キリストの十字架の愛によって、あなたはすでに「無条件の合格通知(内定)」を受け取っているのです。

未来の不安に押しつぶされそうになったら、どうぞあの野の花を、空の鳥を思い出してください。彼らは、今日を生き抜く強さを神様から与えられています。そしてその全く同じ強さと守りは、今、皆さん一人ひとりの内にも確かに息づいているのです。

安心して、神様に明日の重荷を委ねましょう。肩の力を抜いて、今日という恵みの溢れる一日の一歩を、共に踏み出していきましょう。

 

【祈祷】

主なる神様、今、見えない将来への不安や、周囲との比較の中で重荷を背負い、呼吸を浅くしている学生たちのお一人おひとりの心を、あなたの温かい御手で包み込んでください。一人で抱え込んで焦る孤独な夜にも、あなたが「明日必要な力は、明日必ず与える」と約束して並んで歩んでくださっていることを、確信させてください。

主イエス・キリストの御名によって、お祈りいたします。

無事に務めを終えて

 


過ぎ去る時の速さと、肉野菜炒めの温もり――区切りの日に刻む日常の足跡

祭壇の静寂から、街の喧騒へ

今朝、今年度最後となる東北学院大でのチャペル礼拝説教を務め終えました。後期は時間が取れないため、私の担当はいつもこの4月から6月までの季節です。

語るべき言葉を紡ぎ終え、静かな礼拝堂を後にしたとき、肩の荷がふっと下りるような安堵とともに、「無事に終わった」という深い感謝が胸の奥に広がりました。

そして帰り道、その足で向かったのは消防署です。3年に一度の消防設備点検報告の提出。神の御言葉を取り次ぐ霊的な時間から一転して、建物の安全を守るための極めて現実的な手続きへ。一見すると正反対のようなこの二つの出来事も、滞りなく無事に終えられたことに、ただ感謝が溢れます。

 


年齢とともに深まる、時間の手ざわり

ふと立ち止まれば、いよいよ2026年の歩みも半年が終わろうとしています。

「過ぎ去ったら早く感じ、来なかったら遅く感じる。」

振り返る過去は疾風のように駆け抜けたように思えるのに、見上げる未来は果てしなく遠い道のように感じられる。この時間に対する不思議な感覚は、年を重ねるごとにそのグラデーションを変え、人生の深みを教えてくれるものです。

私たちは皆、コントロールすることのできない「時」という大きな川の流れの中に身を置いています。その流れの速さに戸惑い、時に立ちすくみそうになることもあるでしょう。

 


錨となる、ささやかな営み

では、目まぐるしく過ぎていく時の中で、私たちが自分を見失わず、確かにそこに立ち続けるための錨となるものは何でしょうか。

それはきっと、手触りのある「日常」を反復することなのです。

  • これから妻を八木山の坂道まで車で送る、その道中の時間。
  • 帰りに立ち寄るお店で、家族の顔を思い浮かべながらする買い物。
  • そして今夜の食卓に並ぶ、フライパンで力強く炒められた肉野菜炒め。

チャペルの説教壇に立ち真理を語ることも、消防署の窓口へ書類を提出することも、大切な人のために車を走らせ、台所で肉と野菜を炒めることも――神様のまなざしの前では、すべて等しく尊い「今日を生きる使命」です。

特別な務めを果たし終えた区切りの日だからこそ、こうした飾らない日常の温もりが、冷えた手を温めるように心に沁み渡ります。

 


目の前にある今日を、最後まで

半年という一つの折り返し地点。過ぎ去った時間の速さを慈しみ、まだ見ぬ未来へ静かな希望を灯しながら。

まずはこの後、妻を送る車のハンドルを握り、夕食の準備へと向かいます。与えられた今日という一日を、夕暮れまで丁寧に、そして力強く生き抜いていきたいと思います。

今日も、共に前進です。