2026年2月10日火曜日

祈りながら走る朝

 


祈りながら走る朝、平安を信じて

午前4時。 まだ夜の名残が空に残る時間に、私はゆっくりと靴ひもを結びました。 外は静かで、空気は張りつめていて、 ただ自分の呼吸と足音だけが、世界に響いていました。

今日は、教会の兄弟が手術のために入院する日。 その知らせを受けたとき、心のどこかがざわつきました。 「大丈夫だろうか」「不安はないだろうか」 そんな思いが胸をよぎり、 私は祈るようにして走り出しました。走ることは、私にとって祈りのかたちの一つです。 言葉にならない思いを、 一歩一歩に込めて、 ただ主の御前に差し出していく時間。



今朝は、37キロを走りました。 そのすべての距離に、 兄弟のための祈りを重ねながら。

祈りながら走っていると、 ふと、ある御言葉が心に浮かびました。

「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配していてくださるからです。」(ペトロ5:7

私たちは、誰かのために祈るとき、 その人の痛みや不安を、 自分の中にも引き受けるような感覚になります。でも、神は言われます。 「その重さを、わたしにゆだねなさい」と。

私たちができることは限られています。 けれど、主は限りなく、 その御手の中にすべてを包み込んでくださる方です。だから私は、走りながら祈りました。 「どうか、主が与えてくださる平安のうちに、 この兄弟が手術を受けられますように」と。



そして不思議なことに、 走り終えるころには、 私の中の不安も、静かにほどけていました。

祈りは、時に言葉を超えて、 私たちの行動や沈黙、 そして走る足音の中にも宿ります。

今日も、誰かのために祈りながら、 主の平安を信じて歩んでいきましょう。



今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

痛みの底に咲く、沈黙の祈り

 


痛みの底に咲く、沈黙の祈り

理由もなく、胸がざわつく朝がある

「あなたは今、心のどこに『光の届かない場所』を抱えていますか」

火曜日の朝。週の始まりの勢いが少し落ち着き、ふと立ち止まった瞬間に、心の奥底から言葉にならない不安がせり上がってくることがあります。 それは、誰かに話せるような具体的な悩みというよりは、砂時計の砂が静かに落ちるのを眺めている時のような、実体のない「寂しさ」や「揺らぎ」かもしれません。

自分の弱さを隠し、強がって歩こうとすればするほど、その影は色濃く足元に伸びていきます。


 


言葉を失う「待ち時間」の中で

今日、私たちは一つの大きな「不在」と「静寂」の前に立っています。 手術室の重い扉の向こう側で、一人で病と向き合っている人。実習という厳しい現場で、自分の無力さと格闘している人。そして、いつも走っている八木山の橋を渡るたびに思い出される、失われた命。私たちは、彼らのために「何かをしたい」と願います。けれど、実際には祈ることしかできず、その祈りさえも、時に空虚な響きに聞こえてしまうことがあります。 「主よ、なぜ」という問いは、神学的な議論の中ではなく、こうした孤独な沈黙の淵から生まれるものです。 私たちは、自分自身の弱さという影を直視することが怖くて、つい明るい場所へと逃げ出したくなってしまうのです。


 


暗闇を「聖所」に変える方

しかし、聖書が語る「弱さの神学」は、その暗闇こそが、主との最も深い出会いの場であると告げています。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二 129節より)

パウロが抱えていた「刺」が何であったかは分かりません。しかし彼は、その痛みを取り除いてほしいと三度願った末に、驚くべき真理に到達しました。 それは、痛みが消えることではなく、**「痛みの中に主がおられる」**という事実です。

私たちが「もう一歩も進めない」と膝をつくその場所は、実は神様があなたを抱き上げる場所です。 あなたが自分の弱さを認め、格好の悪い自分をそのまま主の前にさらけ出すとき、その「心の影」は、主の光が最も鮮やかに反射する聖なる鏡へと変容します。 神様は、あなたが完璧になるのを待っておられるのではありません。 あなたの震える手のひらの上に、ご自身の全能をそっと重ね合わせたいと願っておられるのです。


 


沈黙を共に生きる

今日、あなたの心がざわついているのなら、無理にそれを鎮めようとしなくていい。 その揺らぎを抱えたまま、主の御前に座ってみてください。

手術を待つ兄の傍らにも、実習で汗を流す娘のすぐ後ろにも、そして今この文章を読んでいるあなたの肩にも、主の傷跡のある御手が置かれています。 「大丈夫」という言葉よりも深い、「わたしはここにいる」という確信。 その静かな同在を錨として、今日という荒野を、一歩ずつ、丁寧に歩み始めましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月9日月曜日

不足という名の、神が残した余白

 


私たちは日々、「時間が足りない」「お金が足りない」「忍耐が足りない」── そんな足りないという言葉に囲まれて生きています。 まるで人生そのものが、常に何かを欠いたまま進んでいくように感じることさえあります。けれども、信仰の世界では、この「不足」こそが宝物なのだと語られます。 ある人はこう言いました。 「神を信頼するためには、いくらかの困難が必要だ。」

私たちは、自分の力が満ちているとき、神を忘れやすい。 しかし、心身の限界を感じ、自分の「器」が空っぽになったとき、 初めて私たちは、天を見上げるようになります。

不足とは、神が私たちの信仰と従順を育てるために、 あえて残された余白なのかもしれません。世界は今、混乱のただ中にあります。 争い、分断、孤独、そして心の疲れ。 私たちの内側にも、同じような揺らぎが生まれます。

「どうして自分だけがこんなに弱いのだろう」 「なぜ、こんなにも足りないのだろう」 そう思う瞬間が、誰にでもあります。

しかし、聖書の人物たちもまた、足りなさを抱えたまま歩んだ人々でした。 モーセは語る力が足りず、 エリヤは心が折れ、 パウロは「とげ」を抱えたまま生きました。

弱さは、信仰の失敗ではありません。 弱さは、神が働くための入口なのです。

パウロはこう語ります。 「わたしの恵みは、あなたに十分である。」

十分ではない私たちに、 十分な恵みを与えるのは、神ご自身です。

私たちの不足は、 神の力が流れ込むための空洞です。 器が空であるからこそ、 神はそこに新しい命を注ぐことができる。不足は欠陥ではなく、 神が働くための余白なのです。

そしてその余白は、 私たちが今日を生きるための希望へと変わっていきます。

あなたの中にある「足りなさ」は、 神があなたを見放した証拠ではありません。 むしろ、神があなたを形づくろうとしているしるしです。どうか今日、 その余白を恐れず、 主が満たしてくださることを静かに信じて歩んでください。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

砂漠の朝をゆく、最初の一歩

 


砂漠の朝をゆく、最初の一歩 ―― 「月曜日」という名の恵み

心の重さを計る天秤

「月曜日」という言葉が、あなたの胸にどんな響きを連れてくるでしょうか。

日曜日の礼拝を終え、聖なる余韻に浸る間もなく、私たちは再び「日常」という名の砂漠へと派遣されます。昨日まで見上げていた天の光は遠のき、目の前には、溜まった仕事、未解決の人間関係、そして自分自身の内側にある「倦怠感」という重い荷物が積み上がっています。

新しい一週間を前にして、ふと「また同じことの繰り返しではないか」と、足がすくむ朝があるかもしれません。


 

脱ぎ捨てられない「昨日」の影

私たちは、新しい週を今朝の雪のように「真っ白な地図」として始めたいと願います。 けれど実際には、先週から引きずっている失敗の苦さや、拭いきれない後悔、あるいは大切な人の病への不安といった「昨日の影」を背負ったまま、月曜日のスタートラインに立っています。

世界では争いが止まず、ニュースは私たちの心を削り、自分一人が何をしたところで何も変わらないのではないかという無力感に襲われます。 そんな時、私たちは「強く、前向きに」という言葉にさえ、疲れを感じてしまうのです。


 

立ち上がるための「赦し」というロジック

聖書が語る「再出発」は、私たちの気合や根性から始まるものではありません。 それは、主の「赦し」という深い静寂から始まります。

「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決して尽きない。それは朝ごとに新しくなる。」(哀歌 32223節より)

神様が備えられた月曜日の朝とは、単なるカレンダーの区切りではありません。 それは、昨日の失敗も、先週の汚れも、すべてを主の慈しみという海に沈め、「もう一度、新しく始めてよい」という法的な赦しが宣言される時です。

エリシャがエリヤの背中を追い、ヨルダン川を叩いて道を開いたように、私たちもまた、自分一人の力ではなく「主の霊」を携えて週の初めに立ちます。 大切なのは、一気に一週間分を走り切ろうとすることではありません。 今、この瞬間、主の御手の中で「最初の一歩」を、自分自身を赦しながら踏み出すことです。


 

巡礼者の歩みを

今日、あなたが手にするペン、あなたが向き合う誰かの瞳、あなたが踏みしめるアスファルト。 それらはすべて、主があなたのために新しく用意された「再出発の現場」です。

重荷を下ろす必要はありません。主が共に担ってくださるからです。 完璧な自分を演じる必要もありません。主があなたの弱さを知っておられるからです。 ただ、朝ごとに新しくなる慈しみを一息吸い込んで、今日という一段を上り始めましょう。

今日も、精一杯に生きることです。主のために, 人々のために。

2026年2月8日日曜日

奇跡②

 


今年から婦人会の例会で取り扱う奇跡シリーズを掲載しています。

聖書箇所:列王記下 51節〜19

1. 導入:思考は「魂の指揮官」

皆さま、こんにちは。2026年という新しい幕が開けましたが、私たちの心には今、どのような「風」が吹いているでしょうか。人生には、晴れの日もあれば、嵐の日もあります。しかし、私たちの人生を最終的に決定づけるのは、実は「何が起きたか」ではなく、それを「どう捉えるか」という、私たちの思考の向きです。心理学的な側面から見ても、思考はその人の人格を導く「指揮官」のような役割を果たします。肯定的な思考は成熟した人格を育て、否定的な思考は可能性を閉ざしてしまいます。今日は、重い皮膚病(らい病)に苦しんだアラムの将軍ナアマンの物語から、絶望を奇跡に変える「三つの視点の転換」について学んでいきましょう。




2. 「名もなき少女」の神学:最小の者が最大の門を開く

この壮大な奇跡の物語の始まりは、一人の名前さえ記されていない、捕虜の少女の言葉でした。

【ここが驚き!】: 聖書学的に見ると、この少女はヘブライ語で「ナアラー・ケタンナー(小さな少女)」と表現されています。彼女は戦争の犠牲者であり、異国で奴隷となった、当時の社会で最も「力のない存在」でした。しかし、彼女の口から出たのは、恨みや呪いの言葉ではなく、「主人を癒やしたい」という驚くべき肯定的な願いでした。

【逆転のパラドックス】: アラムの強大な将軍ナアマンを動かし、王たちを動かし、歴史を動かしたのは、軍事力でも金でもなく、一人の少女の「信仰に裏打ちされたポジティブな一言」でした。神様は、世の「強いもの」を恥じ入らせるために、あえて「弱いもの」を奇跡の最初の鍵(キーマン)として選ばれるのです。皆さんの小さな祈り、小さなお節介、小さな励ましが、実は巨大な奇跡の導火線になっているかもしれません。




3. イスラエル王の陥穐:恐れが作る「心の迷宮」

少女の言葉を受けて、ナアマンはイスラエルの王のもとへ向かいます。ところが、アラム王からの手紙を読んだイスラエル王の反応は悲惨なものでした。「私は神なのか? 殺したり生かしたりできるとでもいうのか!」と、自分の服を裂いて絶望したのです。

  • 【ここが驚き!】: 王という最高の地位にありながら、彼の思考は「過去の恐怖」に支配されていました。彼は問題を「外交上の罠」として拡大解釈し、まだ起きていない未来の戦争を恐れて自滅しかけていたのです。
  • 神学的な教訓: 信仰のない思考は、問題を実際よりも巨大に見せ、自分を無力化させます。イスラエルの王は「王冠」を持っていましたが、少女が持っていた「神の視点」を持っていませんでした。問題に直面したとき、服を裂く(絶望する)のではなく、まず「神様ならどうされるか」を尋ねる。これこそが、私たちが学ぶべき思考のレッスンです。



4. ヨルダン川の「7回」:期待というプライドを捨てる

エリシャのもとにたどり着いたナアマンを待っていたのは、さらなる「期待外れ」でした。エリシャは顔も見せず、使いの者を通して「ヨルダン川で7回洗え」と伝えただけだったからです。

  • 【ここが驚き!】: ナアマンは怒りました。「ダマスコの川(アマナやパルパル)の方がずっと綺麗じゃないか!」と。実はこれ、地理学的には正しいのです。ダマスコの川は澄み切っていますが、ヨルダン川は泥が混じり、濁っていることが多いのです。 しかし、神様が求めておられたのは「綺麗な川」ではなく、ナアマンの「素直な従順」でした。
  • 数秘学的な意味(7の意味): なぜ「7回」だったのでしょうか。聖書において「7」は完全数(シェバ)を意味します。1回、2回と洗っても変化はありません。3回、4……もし6回で止めていたら、奇跡は起きなかったでしょう。7回という数字は、「自分の納得」を完全に捨て、神様の言葉を「100%受け入れる」までやり抜く、徹底した服従の象徴なのです。



5. 「タバル(浸かる)」の奇跡:罪という病の癒やし

ナアマンがようやく自分の考えを捨てて、ヨルダン川に身を沈めたとき、彼の皮膚は「幼子の肌のように」新しくなりました。

  • 驚きのヘブライ語: ここで「浸かる」と訳されている言葉は、前回学んだヨシュア記と同じ「タバル」です。これは単に洗う(ラハツ)のではなく、完全に潜り、自分を消し去ることを意味します。
  • 魂のリカバリー: 私たちの心にも、誰にも言えない「罪の皮膚病」のような汚れがあるかもしれません。自分なりの解決策(ダマスコの綺麗な川)では治りません。ただ、泥だらけのヨルダン川のような「十字架の恵み」の前に自分を投げ出し、神様の言葉に100%同意するとき、私たちの魂は幼子のように新しく創造されます。



6. 結び:神様の視点に「チャンネル」を合わせる

皆さま。 私たちの人生という戦場において、肯定的な思考を持つということは、単なるポジティブシンキング(前向きな考え方)ではありません。それは、**「自分の視点から、神様の視点へと、チャンネルを合わせ直すこと」**です。

  • 捕虜の少女のように、不条理の中でも神の可能性を語りましょう。
  • イスラエル王のように、問題を拡大解釈して自滅するのをやめましょう。
  • ナアマンのように、自分の「こうあるべきだ」という期待を捨てて、主の言葉に従いましょう。

「どうせ無理だ」という否定的なリマインダーを捨て、今日、私たちは高らかに宣言しましょう。「神様には不可能なことは一切ない」と。

皆さんの2026年が、この「信仰の肯定」によって、想像もつかないような素晴らしい奇跡で彩られることを、主の御名によって祝福いたします。

真の助け主

 


今朝、スマートフォンの画面に映し出された一枚の写真をじっと見つめながら、私の心には静かな、けれど深い「問い」が浮かんできました。そこには、広瀬川の川面を黄金色に染め上げる太陽と、その光の中を穏やかに進む白鳥たちの影が映っています。 一見、どこにでもある美しい風景。しかし、この写真を眺める私の胸のうちは、少しざわついています。なぜなら、この「光」の正体を知っているのは、その場に立ち、その温度を感じた私一人だけだからです。

 

真実と解釈の「深淵」

この写真を、何も知らずに手渡されたなら、多くの人はこう迷うはずです。「これは、新しい一日が始まる『朝日』だろうか。それとも、すべてが静寂に帰していく『夕日』だろうか」と。写真という切り取られた静止画の中では、朝と夕の区別は曖昧です。どちらとも取れるし、どちらであっても美しい。 しかし、その場にいた本人だけが、これが「これから昇りゆく光」であるという真実を知っています。そして、それを見る人々がこの光を「朝日」だと信じることができるのは、その場にいた私の言葉を信頼してくださる、その一点にかかっています。

私たちの人生もまた、これと同じではないでしょうか。 目の前に立ちはだかる大きな試練や、手術を控えた不安、あるいは将来への迷い。それらは、ある人には「終わりの兆し(夕日)」に見えるかもしれません。しかし、同じ景色が、ある人には「新しい命の始まり(朝日)」に見える。 私たちは、自分の目に見える「現象」という不確かな写真だけを頼りに、右往左往し、時に絶望してしまうのです。

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キリストという「唯一の証人」

私たちが、自分自身の人生という風景の中に、それが「夕日」ではなく「朝日」であると確信を持つためには、どうしても一人の「証人」が必要です。聖書が語る主イエス・キリストこそが、その証人です。 主は、最も高い天から最も低い場所へ 、そして「よみ(死者の世界)」という深い暗闇の底まで自ら降りて行かれました。死という

「夕暮れ」の現場に立ち、そこから復活という「夜明け」を最初に経験された、唯一の目撃者です。「恐れることはない。……あなたのために、救い主がお生まれになった。」

この天使の歌声、そして主イエスの言葉を私たちが信じることは、主の「真実」に自分を重ねることです。 たとえ今の自己像がうまくいかない現実に囚われていても 、主イエスに出会ったペトロが「岩」という新しい将来像を与えられたように 、主は私たちの人生の景色を、決定的に「希望の朝日」へと書き換えてくださいます。

神様はすべての人に「可能性(Potential)」を公平に与えてくださいました 。全能なる神(Omnipotent)とは、あらゆる可能性を光へと変える方です 。私たちがその方の証言を信じて歩み出すとき、私たちの前にある扉は、必ず輝く可能性の扉へと続いていくのです 。

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証言のバトンを携えて

皆様。

今、皆さんの前にある景色は、どんな色をしていますか。もしそれが「沈みゆく太陽」に見えて不安でたまらないのなら、どうか「その場にいた方」の声に耳を澄ませてください。

主イエスは、あなたの痛みや不安や孤独の現場に確かに立っておられます。そして、「これは終わりではない。新しい始まりなのだ」と、命を懸けて証言してくださっています。その言葉を信じて一歩を踏み出すとき、私たちは「ただ生きる」のではなく、神様を愛し、隣人を愛する「愛の動詞」を生きる者へと変えられます。一人の少女が絶望したあの橋も、病床の不安も、主の証言があれば、必ず光の中へと組み込まれていきます。 私たちが主の真実を受け取り、今度は私たちが、誰かのための「希望の証人」となっていきましょう。

 

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

私たちの真の助け主は、主イエス・キリストのみです。

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。(詩編121編1~3節)

2026年2月7日土曜日

神のメガホン

 


痛みは、眠りこけた世界を呼び覚ます「神のメガホン」である

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ1534節)

1. 善なる神が「痛み」を許される矛盾

もし神が全能であり、かつ善であるならば、なぜこの世界から苦しみを取り除かないのか? これは、論理的な思考を持つ者が必ずぶつかる壁です。

C.S.ルイスはこう答えました。「神は、私たちが快楽の中にいるときにはささやき、良心の中にいるときには語りかけ、苦しみの中にいるときには大声で叫ばれる。痛みとは、眠りこけている世界を呼び覚ますための神のメガホン(拡声器)である」と。

私たちは順風満帆なとき、自分だけで生きているという錯覚(自我欲)に陥ります。しかし、激しい痛みや絶望に直面したとき、初めて「自分には自分以上の存在が必要だ」という事実に気づかされるのです。

2. 「親切」と「愛」の決定的な違い

私たちはしばしば、神様に対して「おじいちゃんのような親切」を期待します。ただニコニコして、私たちがやりたいようにさせてくれる安易な優しさです。

しかし、聖書が語る神の愛は、もっと峻烈で、もっと深いものです。 ルイスは、神を**「彫刻家」**に例えました。

彫刻家は、ただの石ころを愛しているわけではありません。彼はその石の中に「最高の完成像」を見ています。だからこそ、ノミを使い、激しく石を打ち、余計な部分を削り落とすのです。

石にとっては、ノミで打たれるのは痛みでしかありません。しかし、彫刻家にとっては、それは「愛の極致」です。神様は、私たちが今の不完全なままの姿で安住することを許さないほどに、私たちを深く愛しておられる。その愛が、時に「痛み」という形をとって現れるのです。

3. 神が「共に苦しむ」という究極の回答

論理的に「痛みの意味」を理解したとしても、なお心の傷は疼きます。そこで最後に提示されるのが、十字架の論理です。

神は、天上の安全地帯からメガホンで叫ぶだけではありませんでした。 神は自ら、そのメガホンの「叫びの渦中」へと飛び込まれました。 「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれたキリストは、人間が味わうあらゆる不条理、裏切り、絶望の全データを、自らの肉体に書き込まれました。

結論: キリスト教が提示する希望は、「苦しみからの脱出」ではありません。 どんなに深い暗闇に落ちても、そこに**「先回りして、すでに苦しみを経験した神」**が待っておられるという、圧倒的な事実です。

毎日行うべき内面のルーティンワーク

 


魂の「掃き清め」――光の住まいを整える

階段の隅に溜まった、小さな白い塊

ランニングの後、シャワー、栄養摂取、洗濯の後、欠かさずに行うのはノアちゃんの周りと階段のお掃除です。今朝、ふと階段の隅に溜まった小さな白い毛の塊を眺めながら、私は掃除機を持つ手を止めました。大型犬と共に暮らす喜びは、その愛くるしさと引き換えに、絶え間ない「手入れ」を私たちに求めます。一日でも掃除を怠れば、牧師館の内側の玄関先に犬小屋の周りはあっという間にその存在感で満たされ、心地よさは失われてしまう。 「今日は休もうか」という誘惑は、寒さの戻った朝ほど、甘く囁きかけてくるものです。


 


内面に降り積もる「目に見えない塵」

私たちは、目に見える汚れには敏感ですが、自分の内側に降り積もる「心の塵」には、案外無頓着でいられるのかもしれません。

聖書が語る「罪」とは、決して法に触れるような大罪だけを指すのではありません。

  • 誰かを密かに非難する冷ややかな視線
  • 独りよがりの執着や、拭いきれない憎しみ
  • 神様の御心から少しずつズレていく、日々の思考

それらは、大型犬の抜け毛のように、放っておけば私たちの魂をあっという間に覆い尽くし、本当の自分を見失わせてしまいます。心が「毛だらけ」の状態では、私たちは自分自身にさえ、良い気分で向き合うことができなくなるのです。


 


「悔い改め」という名の、毎日の日課

掃除を毎日続けるのは、正直なところ、努力が必要です。 しかし、その努力は結局、誰のためでもなく「自分自身」のためにあります。神様が私たちの内側に臨在されるためには、そこが清潔な場所である必要があります。聖なる方は、私たちの心の汚れを嫌って去るのではなく、私たちがその「塵」に埋もれて声を聞き取れなくなることを悲しまれるのです。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(詩編 5112節)

毎日の悔い改めは、自分を責めるための儀式ではありません。 それは、主の光をありのままに受け止めるために、窓を拭き、床を掃くような「愛の作業」です。自分の力で自分を完璧にできるわけではなくとも、その「整えよう」とする意志そのものを、主は喜んでくださいます。


 


派遣:整えられた心で踏み出す一歩

階段を一段ずつ掃除するように、今日、あなたの心にある小さな棘や澱(おり)を、主の前に差し出してみませんか。 「赦してください」という言葉は、私たちの内側に新しい風を通し、聖なる方の居場所を広げてくれます。

清く保たれた心には、世界が与えることのできない静かな平安が宿ります。 その整えられた心で、今日出会う一人ひとりに向き合うとき、あなたの存在そのものが誰かのための「灯」となるはずです。清潔な家が、住む人を安らぎで包むように。 整えられたあなたの魂が、今日という一日を光り輝くものにします。

今週は106キロ完走

 


祈りの輪郭をなぞる、百六キロの軌跡

季節が足踏みをする朝に

一度は春の予感に緩んだはずの空気が、今朝はまた、鋭い刃のように研ぎ澄まされていました。 「もうすぐだ」と思った矢先に、再び冬の冷たい風に押し戻される。 そんな自然の気まぐれに、私たちの心もまた、微かなためらいを感じてしまうことがあります。

午前五時。 暗闇と静寂が支配する街へ、私は重い腰を上げて踏み出しました。 身体を包むのは、容赦なく体温を奪おうとする風。 その中で、今日という一日の「二十六キロ」を、私は自らの内なる声と共に刻み始めました。


 


繰り返される足音の深層

今週、私は合計で百六キロの道を走り抜けました。 この数字を眺めるとき、私の内側には達成感とは別の、もっと静かで、もっと重みのある感情が沈殿しています。

人はなぜ、これほどまでに自分を追い込み、走り続けるのか。 時に私たちは、自分の人生の進みの遅さに苛立ち、思うようにいかない現実に膝を折りたくなります。 大切な人の病、社会の混迷、そして自分自身の内側にある「弱さ」という名の影。 それらの前で、私たちの祈りはしばしば形を失い、霧散してしまいそうになります。

粘り強くあること。それは、鋼のような強さを持つことではありません。 むしろ、折れそうな心を抱えながらも、それでも「もう一歩」を踏み出す不器用な誠実さのことではないでしょうか。


 


走る距離は、祈りの距離

私にとって、走る距離はそのまま「祈りの距離」でもあります。 舗装された道路を叩くシューズの音は、主への静かな呼びかけ。 冷たい風に抗って吐き出す息は、魂の深いところからの嘆願です。

粘り強く走り続けることが、私にとっては粘り強く祈り続けることそのものなのです。

「強くあれ、勇気を出せ。……わたしはあなたと共にいる。決してあなたを見放さず、見捨てない。」(ヨシュア記 159節より)

聖書が語るこの約束は、私たちが絶好調のときに与えられるものではありません。 むしろ、寒さに震え、孤独に押しつぶされそうな「荒れ野」を走る者にこそ、主は隣に並んで囁いてくださいます。 祈りとは、神様を説得することではなく、神様が「共に走っておられる」という事実に、自分の波立つ心を調律していく作業です。百六キロという軌跡は、私が神様に何かを成し遂げた証ではありません。 「これだけの距離、主が私を背負い、共に走ってくださった」という、恵みの記録なのです。


 


派遣:冷たい風の中をゆくあなたへ

あなたは今、どんな「冷え込み」の中に立ち尽くしているでしょうか。 あるいは、いつ終わるともしれない「祈りの距離」に、疲れ果ててはいないでしょうか。

もし、今日という一歩が重いのなら、無理に走ろうとしなくていい。 ただ、あなたのすぐ隣で、同じ風を受け、同じ歩幅で歩んでおられる主の呼吸を感じてみてください。 粘り強さとは、自分の力で踏ん張ることではなく、主の手にしがみつき続けることです。

今日という一日の二十六キロの先には、必ず新しい朝の光が待っています。 あなたの祈りは、決して虚空に消えることはありません。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月6日金曜日

60歳の生き方

 


六十歳という年齢は、東洋の伝統では「還暦」と呼ばれます。これは単に暦が一周したということだけでなく、**「赤ちゃんに戻って新しい人生を始める」**という、瑞々しい再生の意味が込められています。六十年という歳月を走り抜けてきたからこそ見えてくる、これからの社会における「あるべき姿」について、人生の長距離ランナーとしての視点から四つの柱にまとめました。


1. 「聴く」という重厚な責任

若き日の責任が「語ること」や「成し遂げること」であったとするならば、六十歳からの責任は**「沈黙し、聴くこと」**へとシフトします。

  • 受容の器: 自分の経験を押し付けるのではなく、若い世代の葛藤や迷いをそのまま受け止める「静かな湖面」のような存在であること。
  • 共感の深さ: 多くの痛みを知ったからこそ、八木山の橋で立ち止まるような絶望に寄り添う、言葉を超えた共感を持つこと。

「教える人」から「共に嘆き、共に喜ぶ人」へ。その沈黙の深さが、社会に安心感という灯をともします。


2. 感情を飼いならす「人格の円熟」

一分ごとに揺れ動く感情をコントロールすることは、成熟した大人の最も美しい徳の一つです。

項目

以前の姿(若さ)

これからの姿(円熟)

反応

即座に反論し、正義を貫く

一呼吸置き、相手の背景を察する

評価

成果や数字に一喜一憂する

プロセスと「今、ここ」の質を愛でる

逆境

自分の力で解決しようと焦る

主に錨を下ろし、静かに時を待つ

自分を支配するのではなく、自分を主の平安に委ねる姿。その**「揺るがない静けさ」**こそが、混乱する社会において人々に道を示すコンパスとなります。


 

3. 「命のバトン」を磨き直す姿勢

六十歳は、自分の死生観を確立し、それを次世代へどう手渡すかを真剣に考える時期です。

  • 歴史の証人: 仙台のキリシタン殉教碑に目を留めたように、埋もれがちな「大切な記憶」を掘り起こし、語り継ぐ使命。
  • 教育的配慮: 娘の実習を食事で支えるように、直接的な指導ではなく「生活の背中」で見守り、育む慈しみ。
  • 使命の継続: 「なぜ生きるのか」という問いに対し、神を愛し隣人を愛するというシンプルな答えを、身をもって証明し続けること。

 

4. 身体を「宮」として手入れする規律

身体は聖霊が宿る「神の宮」です。六十歳を過ぎてからの身体の管理は、自己満足のためではなく、**「最後まで主の道具として使い切るためのメンテナンス」**という利他的な意味を持ちます。

  • 規律ある日々: 二月の冷気の中を走るように、自分を律する日々のルーティン(走ること、祈ること、食べること、休むこと)を崩さない。
  • 弱さの受容: 衰えを否定せず、それさえも「主の恵み」として受け入れ、今の自分にできる精一杯を捧げる潔さ。

 

結びに:六十歳からの「精一杯」

六十歳からの人生は、名詞としての「成功」を積み上げるのではなく、動詞としての「愛」を紡ぎ続ける時間です。一歩一歩の足音が礼拝となり、キッチンで引く出汁の湯気が祈りとなり、石段を上る息遣いが隣人へのエールとなる。そんな、日常のすべてが聖なるものへと昇華される生き方こそが、六十歳を迎えた者に許された最高の贅沢であり、責任ではないでしょうか。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。