デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年9月19日土曜日

フルマラソン自己ベスト更新

 


【恵みの雨と42キロの祈り】与えられた「命の秒」を刻み抜く

午前5時。 ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込み、静かな街へと足を踏み出しました。風の温度も、空の高さも、今はまさに「走るための季節」です。

一定のリズムでアスファルトを踏みしめながら走っているうちに、ふと私の内に一つの思いが込み上げてきました。 「明日は、先に天のふるさとへ帰られた方々を覚える、召天者記念礼拝だ。今日のこの走りを、明日の召天者記念礼拝に集う群れと召天者を偲ぶフルマラソンにしよう」と。

 


孤独な道のりと、秒を削る戦い

ペースを丁寧に調節しながら、鈎取イオンを抜け、尚絅学院中高の方面へと向かいます。 長い道のりの中で、私の心には一人の姿がありました。今日、午前11時から夜の10時までという長時間のアルバイトに向かう娘のことです。懸命に自分の務めを果たそうと頑張る娘の姿を心に留め、その無事と守りを祈りながら、私はひたすらに足を前に進めました。また新たな病棟で実習が始まることも覚えて祈る大事なひと時でした。

そして迎えた、最後の5キロ地点。 疲労がピークに達する中で、私は「ここでもう少し頑張れば、自己ベストが更新できる」と直感しました。そこから残りの力を振り絞り、スピードを上げて最後まで走り抜きました。

  • 距離: 42.22 km
  • ペース: 1キロ 520
  • タイム: 3時間45

見事、自己ベストの更新です。これで9月に入って2度目のフルマラソン完走となりました。 マラソンに限らず、陸上の世界は「秒の戦い」です。たった1秒を削り出すために、途方もない鍛錬と忍耐が求められます。しかしそれは、私たちがこの地上で生きる「命の時間の使い方」にとてもよく似ている気がするのです。

 


「ただの雨」を「恵みの雨」に変えるもの

私たちが今、この地上で刻んでいる「11秒」は、永遠の命へと繋がる尊い時間です。 11時間という長いシフトを懸命に働く娘も、1秒を削り出すために42キロを走り抜く私も、そして、かつてこの地上で精一杯に命の時間を生き抜き、今は天にいる懐かしいあの人たちも。皆、神様から与えられた「命の秒」をそれぞれの場所で刻み続けているのです。

 


明日の召天者記念礼拝、墓前での祈りの時間は「雨」の予報が出ています。 冷たい雨の日の墓前礼拝は、少し気が重くなるかもしれません。しかし、考え方を変えれば、それは「ただの雨」です。悲しみの雨にするか、それとも天からの「恵みの雨」として受け取るか。それは、今を生きる私たちの心のあり方にかかっています。 乾いた大地を潤し、新しい命を芽吹かせるための優しい雨なのだと思えば、その雫さえもが愛おしく感じられるはずです。

 


安息という名の準備

今日も無事に走り終え、与えられた命の営みに心から感謝しています。 精一杯に今日を生き抜いたからこそ、明日の主の日の礼拝、そして天の聖徒たちとの交わりを、深い平安の中で迎えることができます。


 

42キロを走り終えた今日は、さすがにゆっくりと身体を休めたいと思います。 「安息」とは、何もしないことではなく、次なる恵みを受け取るために器を空にする尊い準備の時間です。平和な一日を祈りながら。 今日という日を懸命に生きるあなたの上にも、明日、豊かな恵みの雨が降り注ぎますように。

2026年9月18日金曜日

箴言26章の知恵

 


私たちは人生の中で、愚かな人に振り回されたり、怠け心と戦ったり、誰かの陰口や噂話に傷ついたりすることがあります。しかし箴言26章を読むと、それらの問題は決して現代特有のものではなく、人類が昔から抱えてきた普遍的な課題であることに気づかされます。この章は、「愚か者」「怠け者」「偽善者」という三つの人物像を通して、人間の弱さと向き合う知恵を教えています。そして興味深いことに、箴言は単に「そういう人に気をつけなさい」と言うだけではありません。むしろ、その姿の中に自分自身の影を見るよう私たちを招いているのです。

 

愚か者とどう向き合うか

箴言26章は、愚か者を尊ぶことを「夏の雪」や「収穫期の雨」にたとえています。本来あるべき時ではないものが混乱をもたらすように、愚かさを評価する社会は健全さを失ってしまいます。また、この章には有名な二つの言葉があります。

「愚か者の愚かさに従って答えるな」

「愚か者には、その愚かさに応じて答えよ」

一見すると矛盾するように見えます。しかしここには深い人生の知恵があります。

すべての議論に参加する必要はありません。時には沈黙が最善の答えになります。しかし一方で、放置することで誤りが広がるなら、勇気をもって真実を語るべき時もあります。

大切なのは、「答えるか、答えないか」ではなく、「いつ、どのように答えるか」を見極める知恵なのです。インターネットやSNSが発達した現代は、まさにこの知恵が試される時代と言えるでしょう。

 

怠け者の問題は「行動しないこと」だけではない

箴言26章に登場する怠け者の描写は、どこかユーモラスです。

戸がちょうつがいの上で動いても前進しないように、怠け者は寝返りばかり打って起き上がろうとしません。さらには、食べ物を口に運ぶことすら面倒がる姿が描かれます。

しかし聖書が問題にしているのは、単なる怠けではありません。

怠け者は「外にライオンがいる」と言って行動しない理由を探します。そして、自分では七人の賢者よりも賢いと思っています。つまり怠惰の根本には、「できない」のではなく「言い訳」と「思い込み」があるのです。私たちもまた、「もう少し落ち着いてから始めよう」 「準備が整ってから挑戦しよう」 「今はタイミングが悪い」と言いながら、本当に大切な一歩を先延ばしにしてしまうことがあります。

成長を妨げる最大の敵は能力不足ではなく、行動を先送りする心なのかもしれません。

神は完璧な人を求めておられるのではなく、一歩を踏み出す人を用いられるのです。

 

噂話は火に油を注ぐ

箴言26章は、人間関係についても鋭い警告を発しています。

他人の争いに不用意に介入することは、「通り過ぎる犬の耳をつかむようなもの」だと言います。賢明さを欠いた介入は、問題を解決するどころか自らトラブルを招くことになるからです。また、この章は陰口や噂話の危険性についても語ります。火に薪がくべられなければ消えるように、噂話もそれを運ぶ人がいなければ広がりません。現代ではSNSやメッセージアプリによって、言葉はかつてない速度で拡散します。一度発した言葉は、多くの場合取り戻すことができません。だからこそ私たちは、「これは本当に事実なのか」 「これを伝える必要があるのか」 「この言葉は相手を生かすのか」と自分自身に問いかける必要があります。人を傷つける言葉は簡単に広がりますが、人を建て上げる言葉は意識して選ばなければ生まれないからです。

 

最も危険なのは「自分だけは大丈夫」という心

箴言26章の締めくくりは、非常に印象的です。

自分を知恵ある者と思う人を見たか。 その人よりも愚か者の方に、まだ望みがある。

これは厳しい言葉です。愚かな人に希望がないのではありません。むしろ、自分の愚かさに気づかない人こそ問題だというのです。

本当に知恵ある人は、自分の限界を知っています。

本当に成熟した人は、自分にも間違いがあることを認めます。

本当に謙遜な人は、学び続ける姿勢を失いません。

しかし、自分は十分に分かっている、自分は間違えないと思い始めた瞬間、人は成長を止めてしまいます。

 

今日の私たちへの問いかけ

箴言26章を読むと、「愚か者」「怠け者」「噂好きな人」といった存在が問題にされているように見えます。しかし、よく読むと聖書は私たちにこう問いかけています。

「その姿は、あなたの中にはないだろうか。」

他人の愚かさはよく見えます。しかし自分の愚かさは見えにくいものです。

だからこそ、真の知恵は知識の量ではなく、自分自身を正しく知ることから始まります。

愚かさを笑うのではなく、自らを省みること。
怠惰を正当化するのではなく、小さな一歩を踏み出すこと。
人を裁く言葉ではなく、人を生かす言葉を選ぶこと。

箴言26章は、そんな知恵への招きを私たちに静かに語りかけています。

そしてその招きに応える人は、日々の歩みの中で少しずつ真の知恵へと成長していくのです。

前進

 


今朝は大年寺で階段トレーニングを行いました。

ひんやりとした空気の中に、深まりつつある秋の気配を感じながら一段一段を駆け上がります。途中で息が切れ、足も重くなります。それでも前へ進み続けます。

そして階段を上り切ったとき、目の前に現れるのが巨大な「前進」の文字です。



「前進」

人生は前に進まなければなりません。私たちは時間の流れの中で生きています。誰も時間を止めることはできませんし、過去に戻ることもできません。だからこそ与えられた今日という一日を受け止め、その時の中で最善を尽くしながら生きるのです。しかし、ここで一つの問いが生まれます。



最高の人生とは何でしょうか。

人によって答えは違うでしょう。

初めて絶品の料理を食べたとき、「人生最高!」と思う人がいます。

旅先で目を奪われるような景色に出会い、「こんな素晴らしい人生はない」と感じる人もいます。けれども、その感動は永遠には続きません。時間が経つと記憶は薄れ、やがて慣れてしまいます。同じ体験を繰り返せば、最初の感動はどうしても小さくなっていきます。それがこの世の与える「最高」です。もちろん、それらは素晴らしいものです。しかし一瞬の喜びで終わってしまうことが少なくありません。けれども聖書は、もっと深く、もっと確かな「最高の人生」があると教えています。それはイエス・キリストと出会い、共に生きる人生です。そしてその人生には、この世のどんな贈り物とも比較できない最高のプレゼントがあります。それが永遠の命です。おとぎ話のように聞こえる人もいるでしょう。

それでも聖書は、それを事実として語ります。そしてその約束を信じて歩む人々がキリスト者なのです。だから私は思います。本当に目指すべきものは、「人生最高!」という瞬間を追い求めることではないのではないか、と。そうではなく、与えられた日常を最高のものへと造り上げていくことなのです。



今朝、娘を駅まで送りました。

その後、教会の階段を掃除し、洗い物を片付け、来週の礼拝の準備をし、今晩の献立を考えます。どれも特別な出来事ではありません。

誰かに褒められることもないかもしれません。

しかし、こうした営みこそが人生を形づくる大切な素材です。

信仰も、愛も、感謝も、特別な瞬間だけで育つわけではありません。

むしろ、こうした地味で目立たない日常の中で少しずつ育まれていくのです。

だから忘れがちなこれらのことを、もっと大切にして生きたいと思います。

大年寺の階段の上に掲げられた「前進」の文字を思い出しながら。

今日もまた与えられた一日を感謝して歩みたいと思います。

最高の人生とは、遠くにある理想ではありません。

神と共に歩みながら、今日という日を丁寧に生きること。

その積み重ねの中にこそ、本当の意味での「最高の人生」があるのです。

今日も共に前進です。

あなたの命はいくらですか?

 


【命の値段と、十字架の価値】私たちが「計算できない」ほど尊い理由

私たちの命には、いくらの「値段」がつけられるのでしょうか。 9.11同時多発テロ事件の直後、アメリカで実際に起きた知られざるドラマを描いた映画『ワース 命の値段』(原題:Worth)は、私たちに非常に重く、そして根源的な問いを突きつけます。

 

『ワース 命の値段』が突きつける現実の計算式

映画のあらすじは、テロの被害者と遺族に補償金を分配する「被害者補償基金」の特別管理人を任された弁護士、ケネス・ファインバーグの苦悩の軌跡です。 当初、彼は冷静な法律家として、独自の「計算式」を作り上げました。犠牲者の年齢、これまでの収入、将来の予測生涯賃金を算出し、補償額を弾き出したのです。

しかし、その冷徹な計算式は遺族たちの激しい怒りと悲しみを買うことになります。 大企業のCEOの命は数億円と見積もられ、清掃員や皿洗いの命は数百万円と見積もられる。「私の夫の命の価値は、あの人より低いというのか?」「命の値段を、給料で決めるのか」。 遺族たちの涙と一人ひとりの「生きた物語」に直面したとき、弁護士はついに、命を数字で割り切るシステムに限界を感じ、一人ひとりの人生に耳を傾ける道へと変わっていきます。

 

値札で価値を決める「この世の法則」

映画が描いた「命の計算式」は、決して特別なものではありません。実は、私たちが生きているこの世界そのものが、すべてのものに「値札(値段)」を貼ることで成り立っているからです。

  • 才能の価値: 人気俳優やプロスポーツ選手の価値は、その「出演料」や「年俸」によってランク付けされます。
  • モノの価値: 高級レストランで出される美しい料理も、ダイヤモンドなどの輝く宝石も、市場が定めた「価格」が高いほど価値があると見なされます。

この世のルールは非常にシンプルです。「価値=金額(あるいは生み出す利益)」なのです。 しかし、私たちは無意識のうちに、この「世の中の計算式」を人間の命や、自分自身の存在にまで当てはめてしまっていないでしょうか。 「自分は生産性が低いから価値がない」「あの人より稼いでいないから劣っている」「年老いて何も生み出せなくなったから、もうお荷物だ」と。

 

神様が定めた「あなたの本当の価値」

もし人間の価値が、この世のルールのように「能力」や「財産」で決まるのであれば、私たちは常に誰かと比較し、怯えながら生きなければなりません。しかし、私たちを造られた主なる神様は、全く別の基準を持っておられます。

聖書は、私たちの本当の価値について、このように語りかけます。

「わたしの目には、あなたは価高く、尊い。わたしはあなたを愛している。」 (イザヤ書 434節)

「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」 (ペトロの手紙一 118-19節)

神様の目には、あなたに「値札」はついていません。 あなたの価値は、あなたがいくら稼いだか、どれほど立派な仕事をしたか、社会にどれだけ貢献したか(銀や金のようなもの)では決まりません。神様があなたにつけた価値。それは「御子イエス・キリストの命そのもの」です。 「あなたは、私のひとり子を十字架にかけてでも、取り戻したいほどに尊い存在なのだ」。 それが、天地を造られた神様が、あなたという存在に対して下した「価値」のすべてなのです。

 


今、ここにある恩寵

この世はこれからも、私たちを数字で測ろうとするでしょう。 しかし、私たちは今日、その冷たい計算式から降りることができます。あなたが今、病の床にあって何もできないと感じていたとしても、仕事で大きな失敗をして自信を失っていたとしても、あなたの「本来の価値」は1ミリも傷ついていません。

十字架の愛によって、すでに最高の価値が宣言されている。その揺るがない事実にゆっくりと心を休め、今日という一日を、胸を張って歩んでいきましょう。あなたは神様の目から見て、測り知れないほど「価高く、尊い」のですから。

ノアの手術費100万円?(9月27日週報のコラム)

 


映画『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります(原題:Ruth & Alex)』の中に、深く心に残る場面があります。長年連れ添った老夫婦が、10年間共に過ごした愛犬の急病に直面するシーンです。命を救うための手術費用は1万ドル(約150万円)。「もう十分生きたのだから、自然の法則に委ねるべきだ」という思いと、「なんとしても手術を受けさせて助けたい」という思いの間で、二人の意見はぶつかり合います。しかし、かつて愛犬を初めて家に迎えた日の喜び、これまで共にしてきた温かい時間を思い出し、彼らは最終的に手術を受けさせる決断を下すのです。

 


この場面を観ながら、私は自分自身のことに置き換えて考えずにはいられませんでした。「もしも、私たちの愛犬ノアに同じ状況が起きたら、自分はどうするだろうか?」と。100万円という莫大な手術費。すぐには決断が出せないまま、しばらくの間、真剣に考え込みました。しかし、数日間自問自答の末に出た結論は「受けさせるべきだ」という確信でした。ノアは13歳になる老犬です。これから先、どれくらいの時間が残されているかは誰にもわかりません。それでも確かなことは、ノアは今、私たち家族にかけがえのない喜びと笑顔を与えてくれているという事実です。残された時間の長さや、いわゆる「費用対効果」などは問題ではありません。「今、ここで一緒に生きている事実」。私にとって大切なのは、ただそれだけだったのです。

 


この私の心に与えられた気づきは、そのまま、ご高齢の方が多く集う現代の教会が学ぶべき大切な真理につながっていると感じています。現代の社会は、常に「生産性」や「効率」、「将来どれだけの働きができるか」という基準で、人の価値を量ろうとする冷たさを

持っています。その世の基準に照らせば、年を重ねて弱さを覚えることはマイナスと捉えられがちです。しかし、キリストの体なる教会は違います。ご高齢の兄弟姉妹がそのお姿を通して私たちに教えてくださるのは、「何か有益な働きができるから価値がある(Doing)」のではなく、「ただそこにいるだけで尊い(Being)」という神様の愛の基本です。長年、祈りをもってこの教会を支えてこられた方々が、今日この日、同じ礼拝堂に座り、微笑みかけてくださる。ただそれだけで、私たちにどれほどの安らぎと喜びを与えてくれていることでしょうか。残された時間の長さや、物理的な活動量ではなく、「今、ここで一緒に主を礼拝し、生きている事実」こそが、教会にとって計り知れない宝なのです。



「今ここで一緒に生きている」。これ以上の恵みはありません。私たち仙台長町教会も、世の冷たい基準から離れ、ただ「共に存在することの喜び」を分かち合える神の家族でありたいと切に願います。今日も、互いの存在を心から喜び合い、主の愛の中で共に歩んでまいりましょう。

 


すぐに答えを出せなかったことで、ノアには申し訳ない思いが残りました。しばらく罪責感にとらわれる時もありましたが、最終的には悔いのない決断が与えられたことを感謝しています。

2026年9月17日木曜日

日差しを浴びる

 


陽の光に背中を押されて

久しぶりに青空が広がりました。

今朝は34キロのランニングを終えたばかりで、さすがに少し疲れを感じていました。しかし、せっかく顔を出した太陽の光を逃したくありません。体にも心にも十分な光を浴びせようと思い、大年寺での階段トレーニングに向かいました。



いつものように大年寺の階段を上り、その足で愛宕神社の階段へ。息を整えながら一段一段を踏みしめるたびに、朝のランニングで重くなっていた足が少しずつほぐれていくようでした。

 


その後は広瀬川沿いを歩きました。

とはいえ、今日は「散歩」というよりも「歩くトレーニング」。歩行というよりジョギングに近いペースで、川の流れを横目に進みます。秋の気配をわずかに感じながら歩いていると、自然と心まで軽くなっていきました。

せっかくなので、上流の方へ移動しているハクチョウたちの様子も見に行きました。無事に過ごしているようでひと安心。毎年のようにその姿を気に掛けていると、まるで季節の便りを受け取ったような気持ちになります。元気そうな姿を見るだけで、こちらまで元気をもらえます。

 


歩き終えたあとは、駅前の八百屋さんへ立ち寄って買い物。体を動かした後の買い物は不思議と気分が良く、野菜の色までいつもより鮮やかに見えました。

帰宅してから妻の予定を確認すると、今日は休みだと思い込んでいたのですが、実は仕事の日とのこと。結局、また車で送ることになりました。

少し勘違いはありましたが、それもまた日常の一コマです。

 


何より今日は太陽をたっぷり浴びることができました。曇り空が続いた後の光には、それだけで人を元気にする力があるように思います。疲れが完全に消えたわけではありませんが、心の燃料はしっかり補給できました。

長い距離を走った日でも、階段を上り、川辺を歩き、自然の生き物の様子を見守り、家族のために車を走らせる。そんな一つ一つの小さな前進が、今日という一日を形づくっています。太陽に励まされながら、今日も最後まで前進です。

朝ラン34キロ完走

 


昨夜は、娘のアルバイト先へ迎えに行き、共に帰宅したのは23時頃でした。そこからなかなか寝付けず、いつの間にか微睡みに落ちたものの、ふと目が覚めると時計の針は午前3時を指していました。

睡眠時間は決して十分とは言えません。しかし、今日は走る日です。「週5日は必ず走る」という自らとの約束を守るため、重い身体に鞭打って身支度を整え、午前318分、暗闇の中へと踏み出しました。

 


孤独な軌跡と、変わりゆく空模様

走り始めは雨が降っていました。冷たい雨粒が頬を打つ中、ただひたすらに前へ前へと足を運びます。

  • 止む雨、流れる汗: 走り続けているうちに、いつしか雨は上がり、代わりに私の身体からは無数の汗が流れ落ちていました。
  • 変わらない風景と変化の兆し: 新宮沢橋の周辺を通りかかると、そこにはまだ続く工事の風景がありました。ゆっくりと、しかし確実に橋が造り上げられていく過程は、どこか人間の営みそのものに似ています。(橋は完成しましたが、周辺の工事はまだ続いています。)
  • 夜明けの到来: 次第に東の空が白み始め、愛宕大橋を渡る頃には夜が明けていました。気が付けば青葉山公園の方面まで足を伸ばしており、そこで静かに踵を返して、無事に帰宅の途につきました。

本日の記録は、34キロの朝ラン。ペースは1キロ512秒でした。

1分」という途方もない壁を越えるために

私の目標は、フルマラソンを3時間以内で走り切る「サブ3」です。 そのためには、現在のペースから「1キロあたり約1分」を縮めなければなりません。

たった1分。そう思われるかもしれません。しかし、ランナーにとってのこの1分は、途方もなく高く、険しい壁です。この1分を削り出すために、私はこれから1年という長い歳月をかけて練習を積み重ねていきます。

そこには、誰かに頼る甘えは存在しません。 自らを厳しく律する「コーチ」であり、実際に過酷な道を走る「ランナー」であり、身体を作る「栄養士」でもある。これらすべての役割を自分一人で担い、この体制を長く、淡々と継続すること。それこそが、上達するための唯一の鍵なのです。

 


日常の余白に差し込む、小さな光

帰宅し、呼吸を整えた今、この後は娘を駅まで送り届け、いつもの朝の仕事へと向かいます。しかし、今日の心は少しだけふわりと軽やかです。 なぜなら、今日は妻がパートのお休みの日だからです。車での送り迎えという一つのタスクがない。ただそれだけのことで、肩の荷がふっと下り、日常の余白に安らぎの風が吹き込むのを感じます。


 

継続という祈り

「こういうわけで、あなたがたの努力をみな傾けて、信仰に徳を、徳に知識を、知識に自制を、自制に忍耐を、忍耐に敬虔を……加えなさい。」(ペトロの手紙二 15-6節)

暗闇の中で雨に打たれながら走る34キロの孤独。 自らを管理し、1年かけて「1分」を削り出そうとする泥臭い道のり。 それは、私たちが日々を生きる「信仰の歩み」にとてもよく似ています。

 


新宮沢橋の工事が一日では終わらないように、私たちの魂の成長もまた、一夜にして成し遂げられるものではありません。誰も見ていない午前3時の努力、自らを律する孤独な戦いを経て、それでも諦めずに足を前に出し続ける者だけが、やがて美しい夜明けの光に出会うのです。

 


今日、もしあなたが果てしなく遠い目標の前に立ちすくみ、自分の歩みの遅さに嘆いているのなら、どうか思い出してください。 雨はやがて止み、夜は必ず明けます。 今日の一歩は、確実にあなたを昨日とは違う場所へと運んでいます。

小さな安らぎを胸に抱きながら、今日も共に、それぞれの道を走り始めましょう。

2026年9月16日水曜日

箴言25章

 


箴言25章は、「知恵の探求」「謙遜」「言葉の力」を中心に、人生を豊かにする実践的な知恵を教えています。ソロモンの箴言を集めたこの章には、人間関係や自己管理に役立つ洞察が数多く含まれています。

まず、「神の栄光は事を隠すことにあり、王の栄光は事を探り出すことにある」と語られます。神の御業には人知を超えた深さがありますが、人は謙虚に真理を求め続けるよう招かれています。また、銀から不純物を取り除くように、自らの心から悪を取り除くことの大切さも示されています。

続いて強調されるのが「謙遜」です。王の前で自分を高く見せようとせず、低い席に着くことが勧められています。自らを押し上げるのではなく、誠実に歩む人こそ、やがて真の尊敬を得るのです。

さらに、この章は「言葉の力」を重視しています。適切な時に語られる言葉は「銀の器にはめられた金のりんご」にたとえられ、人を励まし、癒やし、導く力を持つことが示されています。一方で、軽率な発言や秘密を漏らす行為は人間関係を損なう原因となります。

また、自制と忍耐の重要性も教えられています。怒りを制御できない人は「城壁のない町」のようだと語られます。感情に支配されるのではなく、それを治めることが真の強さなのです。さらに、「敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ」との教えは、憎しみではなく慈しみをもって接する道を示しています。

遠くから届く良い知らせは、疲れた人にとっての冷たい水のように心を潤します。この章全体を通して、信頼、思慮深さ、そして節度ある生き方の尊さが語られています。

 

現代を生きる私たちへの3つの教訓

1. 謙遜は信頼を生む

SNSの時代には、自分を大きく見せたくなる誘惑があります。しかし箴言は、無理に目立つのではなく、誠実に歩むことの価値を教えます。真の評価は自己宣伝からではなく、日々の積み重ねから生まれます。

2. 言葉には人生を左右する力がある

オンラインでも対面でも、一つの言葉が人を励まし、また傷つけることがあります。発言する前に一呼吸置き、「それは真実か、親切か、必要か」を考える姿勢が大切です。

3. 心の城壁を築く

ストレスの多い現代社会では、怒りや不安に振り回されやすくなります。祈り、黙想、運動、休息などを通して心を整えることは、自分自身と大切な関係を守る「心の城壁」となります。

おわりに

箴言25章は、派手な成功ではなく、謙遜な心、慎みある言葉、自制された思いこそが人生を豊かにすると教えています。今日の私たちもまた、この知恵に耳を傾けることで、神と人との関係の中でより健やかに歩むことができるでしょう。

2026年9月15日火曜日

コスタ・セレーナ

 

初日、乗船の前に記念写真

『再び出会った船、再び思い出した時間』

名古屋港・金城ふ頭に、今朝、巨大なクルーズ船「コスタ・セレーナ」が入港しました。 重さ約114000トン、全長約290メートル。 その雄大な姿は、まるで海の上に浮かぶ街のようです。 この船は、アジア競技大会に出場する選手たち約4000人の宿泊施設として使われるとのこと。 ニュースを見た瞬間、胸の奥がふっと温かくなりました。

なぜなら—— この船に、私は家族と共に乗ったことがあるからです。

200812月。 3年間のドイツ留学を終えて日本に帰ることが決まったとき、家族で10日間のクルーズ旅行をしました。 イタリアからバルセロナへ、スペインの島々へ、ポルトガルの島へ、そしてカサブランカへ。 海と空の境界がゆっくり溶けていくような旅でした。

 

イレネはいつも絵を描いていました。

「コスタ・セレーナ」という名前を聞いた瞬間、 船内の香り、デッキに吹く風、家族の笑顔、 夜の海を眺めながら語り合った時間—— すべてが一気に蘇ってきました。

あの旅は、ただの観光ではありませんでした。 家族が一緒に過ごせることの尊さを、 人生の節目に立つときの心の支えを、 静かに教えてくれた時間でした。

そして今日、同じ船が日本の港に姿を現した。 まるで「おかえり」と言ってくれているような、 そんな不思議な感覚に包まれました。

良く夕食の時には途中で寝ていました。
 

家族の思い出は、人生の航路を照らす灯台

人生には、嵐のような日もあります。 向かい風で前に進めない日もあります。 しかし、家族と過ごした温かい記憶は、 どんな時にも私たちを照らす灯台のようなものです。

 

カサブランカ

聖書はこう語ります。

「あなたがたの宝のあるところに、あなたがたの心もある。」 (マタイ6:21

宝とは、豪華なものや高価なものではありません。 心を満たしてくれる時間、 共に笑い、共に歩いた日々、 その一つひとつが、私たちのなのです。

そしてその宝は、 人生の航路がどれほど揺れても、 決して失われることはありません。

 

従業員がイレネのためにタオルで作ったおサルさんです。

再び出会った船が教えてくれたこと

名古屋港に停泊する「コスタ・セレーナ」を見ながら、 私は静かに思いました。

人生は旅であり、 家族はその旅を共に歩む仲間であり、 思い出はその旅を照らす光なのだと。今日、ニュースを通して再び出会った船は、 過去の思い出を優しく呼び起こし、 今の自分を励ましてくれる存在となりました。

あの時の旅が、 今も私の心の中で静かに航海を続けています。

敬老(?)

 

実が沢山詰まると腰が低くなる(謙虚)のが自然な姿ですが・・・・我々人間は・・・

敬老の精神が失われた背景(なぜ悲しい時代になったのか)

  • 「尊敬されるべき高齢者像」の喪失: かつて、年長者は「生きる知恵」を授けてくれる存在でした。しかし、技術や社会の変化が激しい現代では過去の経験が通用しにくくなっています。それに加え、年齢を盾にして過度な要求をしたり、周囲への配慮を欠いたりする一部の高齢者の姿が社会問題化し、「無条件に敬うべき存在」という自然な図式を壊してしまいました。
  • 「生産性」で人間の価値を測る社会風潮: 現代社会は、経済的な生産性や効率性を極端に重視します。そのため、労働市場から退き、医療や介護を必要とする高齢者を「社会を支える側」ではなく「コストを消費する側」と冷徹に見てしまう風潮が強まっています。
  • 世代間の断絶と経済的重圧: 核家族化により、若者が日常的に「優しく温かいお年寄り」と触れ合う機会が激減しました。同時に、少子高齢化によって若年層が抱える社会保障の負担感が極限に達しており、心理的な余裕が奪われています。

本当の意味での「敬老」を取り戻すための道

真の敬老社会を取り戻すためには、社会制度だけでなく、双方の心と姿勢の変革が必要です。

  • 【高齢者側】「にじみ出る品性」と柔和さの追求: 尊敬は強要して得られるものではありません。年齢を重ねるほどに頑固になるのではなく、自分の弱さを認め、

若者の声に耳を傾け、些細なことにも「ありがとう」と言える柔和さを持つこと。社会に不満をぶつけるのではなく、次世代のために祈り、温かく見守る「美しく老いる姿勢」こそが、自然な敬意を呼び起こします。

  • 【若者・社会側】「存在そのもの」への尊厳の回復: 「役に立つから」ではなく、「これまでの時代を生き抜き、命をつないできた存在そのもの」に価値を見出す視点を取り戻す必要があります。人間の価値は生産性ではなく、その人が刻んできた歴史そのものにあります。
  • 「弱さ」を共有し合うコミュニティの再構築: 強い者だけが生き残る社会ではなく、誰もが必ず老い、弱くなっていくという事実を前提とし、互いの弱さを補い合える小さな共同体(地域や教会など)の存在がこれまで以上に重要になります。