未来を抱きしめる腕、独りでは支えきれない宝 ―― 孤立を越える「共生」の祈り
西から東へ、朝の静寂を駆ける
今朝も午前三時に起床し、いつものルーティンを終えて、四時に路上へと踏み出しました。 今日は西から東へと、昇りゆく光を追いかけるようにして走ったハーフマラソン。
明日の朝、十四キロほどを走りきれば、今週の目標である「週百キロ」をクリアすることになります。無理をせず、欲張らず。この百キロという数字で満足しようと、自分に言い聞かせています。……もっとも、かつて週に百七十キロを走り抜いた記憶が疼くこともあり、絶対の保証はできませんが。それでも、距離や時間に囚われすぎず、朝の聖なる習慣として快く行うことこそが、今の自分には最も大切だと感じています。
しがみつく小さな命、その「重み」
昨日、保育園実習から帰った娘は、相当な疲れの中にありました。「数人の園児たちが、しがみついて離れないんだよ」そう語る彼女は、まさに体力の限界に挑んでいるようでした。私はその姿に、かつての自分を重ねます。私もまた九年間、幼稚園で園児たちと毎日のように走り回り、泥にまみれて遊んできました。あの小さな腕がしがみつく力強さと、その命の重み。それは理屈を超えた、切実な「生のぶつかり合い」です。
子どもは未来であり、その存在そのものが宝です。 けれど、現代という鏡に映るその「宝」は、時としてあまりにも重すぎる荷物のように扱われてはいないでしょうか。宝を宝として見ることができず、育児の疲れの中で、親さえも希望を失いかけてしまう。そんな痛切な現実が、私たちのすぐ隣にあります。
「個人」という自由の限界
私たちは神ではなく、あまりにも脆い人間です。一人で立ち続けるには、この世界はあまりに不条理で、風が強すぎる。 それなのに、今の社会は「個人」であることを至上の価値とし、誰かと深く関わることを避ける傾向にあります。「一人のほうが自由で平和だ」という考え方は、一見、賢明な選択に見えるかもしれません。
しかし、その自由と平和は、果たしてどれほど長く保てるものでしょうか。聖書は、私たちが一人で生きるようには造られていないことを、繰り返し伝えています。
「二人は一人よりも勝っている。……もし一人が倒れば、もう一人がその仲間を助け起こすからである。独りならば、だれがその人を助け起こしてくれようか。」(伝道の書 4章9~10節)
個人主義という殻に閉じこもる平和は、一度揺らげば脆くも崩れ去ります。それが不条理な世界の真実です。だからこそ、私たちは壊れることのない「真の自由」と「真の平和」を、誰かとの「繋がり」の中に求めずにはいられないのです。
支え合うという「強さ」
娘の疲れを癒やしたのは、用意したアイスクリームだったかもしれません。けれど、本当に彼女を支えているのは、「一人で戦っているのではない」という安心感です。園児たちに必要とされる喜びと、家に戻れば誰かが食事を整えて待っているという調和。
子どもを育てることも、信仰を守ることも、そして週に百キロを走ることも、すべては「支え、助け合う環境」があって初めて継続できるものです。
自分の弱さを認め、他者の手を借りること。それこそが、孤立を招く「個の自由」を超えた、福音による「共生の自由」への第一歩なのです。
誰かのために、門を開ける
明日、私は今週の締めくくりとなる走りに向かいます。 そして娘はまた、自分をしがみついて離さない小さな未来(子どもたち)のもとへと向かいます。
もし、あなたが今「一人でいるほうが楽だ」という壁の中にいるのなら、あるいは「育児や仕事の重み」に押し潰されそうになっているのなら。どうか、その重荷を誰かに、あるいは神様に、半分預ける勇気を持ってみてください。
一人の平和は壊れますが、共に祈り、共に支え合う平和は、嵐の中でも輝きを増します。 不条理な世界だからこそ、私たちはあえて、誰かと関わる「面倒で、愛おしい」道を選び取っていきましょう。
今日も、共に前進です。


















