デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年5月26日火曜日

地球という聖所を守る

 


地球という聖所を守る】限界の時代のキリスト者の歩み

現代を生きる私たちは、今、かつてない「限界」の時代に立っています。先日、オーストラリアのフリンダース大学などの研究チームが発表した報告(『Environmental Research Letters』誌掲載)は、人類にとって極めて厳しい現実を突きつけました。現在、地球の人口は約83億人に達していますが、地球が本来持つ資源の再生能力や環境の自浄作用から見れば、すでに持続可能な収容限界を大きく超えているというのです。

研究によれば、もし全人類が先進国並みの豊かな生活を求めるならば、地球の適正人口はわずか15億人から25億人程度にすぎないといいます。私たちは今、未来の世代が使うべき資源を「前借り」し、地球という器から溢れ出すような過剰な消費を続けているのです。この「飽和」の状態は、私たちが目的地を見失い、ただ闇雲に走り続けている姿に似ています。

 創世記128節において、神は人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ」と祝福を与えられました。しかし、この「従わせよ(治めよ)」という言葉は、決して人間が地球をわがままに支配し、搾取してよいという免罪符ではありません。原典の意味を辿れば、それは「神が造られた美しい世界を、神に代わって慈しみ、守り、管理する」という、聖なる「管理人(スチュワードシップ)」としての使命を指しています。

神が創造の業を終えられたとき、「極めて良かった」と仰ったその世界には、調和と秩序、そして「余白」がありました。しかし、現代の不条理は、私たちがこの「管理人」としての責任を、自らの「欲」という欲望にすり替えてしまったことから始まっています。解決策は科学的に提示されています。「人口を抑制し、消費を抑えること」です。しかし、なぜこれが実現しないのでしょうか。それは、現代人が「犠牲」を極端に嫌うからです。誰もが自分は痛みを受けず、他人も痛まず、それでいて全てが解

決するという「ウィン・ウィン」の幻想を追い求めています。私たちキリスト者の使命は、この「犠牲を厭う世界」にあって、あえて「十字架の道」を指し示すことにあります。主イエス・キリストがそうであったように、報いを1%も期待しない、純粋な自己犠牲の歩みこそが、硬直した世界に風穴を開けるのです。それは、無理な拡大を求める生き方から、神が定められた「足もとの一歩」を大切にする生き方への転換です。

私が今週、120kmという距離を走る中で学んだのは、「週100km」という自分の限界を知り、それに「満足する」という知恵でした。満足すること、すなわち「足るを知る」ことは、地球の資源を守るための最も具体的で霊的な戦いです。自分の欲を十字架に付け、主から与えられた「命の冠」だけを唯一の報酬として、簡素に、しかし豊かに生きる。その一人ひとりの「小さな安息」の積み重ねこそが、傷ついた地球を癒やす「聖霊の風」となるのです。

今、私たちの足もとにあるランプは、遠い未来を全て照らしはしません。しかし、今日踏み出すべき「慎ましい一歩」は、はっきりと照らしています。主が造られたこの地球という聖所を、次世代のために守り抜く。その管理人の使命を、私たちは今、改めて深く刻まねばなりません。すべては主なる神様の栄光のために!!!

ひとつの器に満ちる無事

 


ひとつの器に満ちる無事 ―― 久しぶりのサバ定食と、それぞれの帰還

いつものドアを開ける、安堵の夜

教区総会の一日目が終了し、夜の気配が満ちる頃、無事に我が家へと帰宅しました。やはり、大きな公務の後は心地よい疲労感がずっしりと身体に残ります。心から「疲れました」と、深い息がこぼれます。

玄関で靴を脱ぐと、日中きちんと留守番をしてくれていたノアちゃんが迎えてくれました。そして、今まさに、娘も病院での実習を無事に終えて帰宅しました。

それぞれが自分の持ち場で、自分なりの闘いを繰り広げてきた火曜日。こうして再び同じ屋根の下に集まり、家族全員が無事に「帰還」を果たしたこと。その当たり前のようでいて、決して当たり前ではない事実に、胸の奥から静かな感謝が湧き上がってきます。

 


手渡されたお弁当と、数年ぶりの外食の味

今日の総会では、お昼にお弁当が手渡されました。 私はそのお弁当を持って、事務所で働いている妻のところへ行き、それを彼女に手渡しました。(妻はお昼の時間、コーヒー販売などの仕事があるので)そして自分自身は、近くにあるお店へと足を運び、そこでご飯を食べることにしたのです。注文したのは、じっくりと火が通された「サバ定食」。 湯気のあがる焼き魚を箸でほぐしながら、ふと気がつきました。こうして自分の家やいつもの台所ではなく、「お店」に入って腰を落ち着けてご飯を食べたのは、もしかしたら数年ぶりのことかもしれない、と。そして、丁寧に焼かれた魚の味を外でいただくことも、本当に久しぶりの豊かな時間でした。私たちは日々のルーティンや役割のなかで、知らず知らずのうちに自分の行動範囲や習慣の枠を固定してしまいがちです。けれど、いつもと少しだけ違う選択をしてみること。誰かにお弁当を譲り、自分は違う扉を開けてみる。そのささやかなひと手間の先に、忘れていた新鮮な感謝の味が待っているのです。

会場では、久しぶりに出会った山形の先生と言葉を交わすことができました。それぞれが全く異なる場所で、それぞれの重荷を背負いながらも、主に用いられ、誠実に活躍している姿。その横顔に接することができたことも、今日という一日を優しく支えてくれる大きな恵みでした。

 


悲鳴をあげる前に、器を休める知恵

今日の23キロの闘いのようなランニングを経て、さらに総会の議論を重ねた身体は、今、確実な休息を求めています。 だからこそ、私は心の中で「明日もランニングは休むことにしよう」と決めました。知らんけど、とりあえず今はそういうつもりです。

明日の朝、また心の取引が始まるかもしれませんが、今の自分のコンディションに正直になり、「休む」という決断を自分に許してあげること。それもまた、長く走り続けるための大切な信仰の知恵です。

聖書は、私たちが自らの限界を知り、神様の平和のなかに身を委ねることの大切さをこのように語りかけています。

「あなたがたは、立ち返って静かにしているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る。」(イザヤ書 3015節)

活動の強火を一度止め、余熱のような静けさのなかで、与えられた恵みをじっくりと咀嚼する。外でどれほど世界の秩序が乱れ、社会が忙しく動いていようとも、私たちは自分の器のサイズに合わせて、静かに息を整える聖域を持っています。

 


今日を肯定し、それぞれの荷を降ろす

火曜日の今日、あなたの身体と心は、どれほどの疲れを溜め込んでいるでしょうか。スタートしたばかりなので「まだまだがんばれる」と、自分を追い込みすぎてはいないでしょうか。誰かと比べるのをやめ、自分たちが無事に一日を終えられたことに、ただ真っ直ぐに目を留めてみましょう。

  • 出会いの足跡に感謝する: 久しぶりに会った人の活躍を喜び、互いの無事を執り成し合うなかで、心の国境線を優しく溶かしていく。
  • 小さな非日常を味わう: 数年ぶりの外食や久しぶりの焼き魚のように、日常のわずかな変化のなかに隠されている新鮮な喜びを、見落とさずに受け取る。
  • 「休む決意」を堂々と持つ: 明日のことは、明日になってみなければ分かりません。だからこそ、今は「休むつもりだ」と自分の身体の声を尊重し、魂に深いゆとりをプレゼントする。

 


温かい食卓と、それぞれの眠りへ

昨日仕込んだキャロットパウンドケーキの甘い記憶をどこかに残しながら、我が家には、実習を終えた娘の息遣いと、しっかりお留守番をしてくれたノアちゃんのぬくもりが満ちています。明日は教区総会の二日目。どのような時間が待っているかは分かりませんが、今夜はただ、家族全員が無事に帰還したという最大の奇跡を両手で抱きしめて、美味しく食べ、深く眠るだけです。

張り詰めた防衛のスコップをそっと降ろして、満たされた心のまま、心地よい夜の帳の中へと一歩を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

50点の朝に灯る、小さき一歩

 


50点の朝に灯る、小さき一歩 ―― 「止まらない」という名の、確かな信仰

午前五時の重い身体、冷たい靴紐

新しい朝が目を覚ますとき、私たちの心と身体は、いつも完璧な満点を示しているわけではありません。

今朝の私のコンディションは、お世辞にも万全とは言えない「50点」。 ずっしりと残る昨日の疲れを前に、身体は「今日は横になっていよう」とささやき、心は「いや、それでも路上へ出よう」と促す。50点という限られたエネルギーの境界線の上で、今朝もまた身体と心の静かな闘いが始まりました。

結果として、いつものことですが、今回も心が勝ちました。 時計の針が五時を過ぎた頃、私は玄関のドアを開けて外の空気のなかへ這い出していきました。走り出してすぐ、やはり思うようにスピードが出ないことを自覚します。呼吸はいつもより重く、一歩一歩が路面を重く叩く。けれど、私は足を止めませんでした。ただ淡々と、止まらずに、前に向かって走り続けたのです。

 


「気持ちよさ」の彼方にある、闘いとしてのラン

今日のランニングは、澄んだ朝風を心地よく感じるような、爽快なものでは決してありませんでした。最初から最後まで、自分の弱さや重みと愚直に向き合い、闘い続けた23キロ。走り終えたとき、手元の時計が示したペースは1キロあたり521秒でした。限界を感じる身体のわりには、よく崩れずに走り切れたなと思うと同時に、内側からはもう一つの「心の悲鳴」が小さく湧き上がってきます。

「今日から明日まで、教区総会だ。疲れるな、しんどいな……

これから始まる大切な公務、長時間の議論や調整。これから向かう予定の山積みのタスクを前に、私の魂は早くもプレッシャーを感じて身構えていたのかもしれません。

周囲を見渡せば、今日、娘は自らの持ち場である実習へと励むために出かけていきます。彼女もまた、慣れない環境のなかで必死に自分の闘いに挑んでいる。そして、私たちがそれぞれの戦場へと向かう日中、愛犬ノアちゃんは我が家で静かに留守番を担ってくれます。 誰もが、それぞれの重荷と、それぞれの「50点の現実」を抱えながら、今日という火曜日を生きようとしているのです。

 


100点満点を求めない、神の優しいまなざし

私たちは現代社会の中で、「いつでも元気で、成果を上げ、完璧でなければならない」という、見えない100点満点のプレッシャーに追われがちです。仕事でも、家庭でも、信仰生活においてさえも、100点を出せない自分を責め、無力感に苛まれてしまう。

しかし、神様が私たちに求めておられるのは、疲れを知らない鉄人のような強さではありません。むしろ、エネルギーが半分しか残されていない「50点の状態」のなかで、それでも差し出された今日の一歩をどう踏み出すかという、その姿をじっと見つめておられるのです。

 


聖書は、重荷を背負い、内なる悲鳴を上げながらも歩みを進める人々へ、このように寄り添う言葉を届けています。

「疲れた者に力を与え、勢いのない者に勢いを増される。若者も倦み、疲れ、壮年もよろめき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走っても倦まず、歩いても疲れない。」(イザヤ書 402931節)

よろめき、心の悲鳴を上げるのは、あなたがそれだけ今を真剣に、精一杯に生きているという何よりの証拠です。神様は、スピードの出ない私たちの遅い歩みを決して急かすことはされません。ただ、倒れずに「止まらずに歩み続ける」その小さき足取りを、大いなる愛の手で支え、担ってくださるのです。

 


不完全な今日のまま、生きる

新しく手渡された今日という日のなかで、あなたの心のコンディションは何点を示しているでしょうか。早くも心に疲れが溜まり、「しんどいな」と足が止まりそうになってはいませんか?満点ではない自分を、どうか責めないであげてください。私たちは、50点なら50点なりの、その時にできる精一杯の歩幅で、目の前の路を刻めばそれで良いのです。

  • 悲鳴をあげる自分を許す: 「疲れるな」という心の声を否定せず、「それだけがんばってきたんだね」と、自分自身の魂をまず優しく労ってあげる。
  • 「止まらない」を選ぶ: スピードは出なくても、劇的なジャンプはできなくても、今日与えられた持ち場(実習、仕事、家事)の中で、淡々と最初の一歩を踏み出す。
  • 身近な存在の尊さを覚える: 自分のために家を守ってくれるノアちゃんの静けさや、それぞれの場所で奮闘する家族の存在を想い、日常のなかに隠された小さな感謝のピースを集める。

 


一歩を前に、生きるのだ

走り終えた脚に少しの痛みを覚えながら、私は今、教区総会という次なる大切なスタートラインへと向かう準備を調えています。

どんなにしんどくても、どんなに先行きが不透明に見えても、私たちは今日という奇跡の一日を「生きる」ために送り出されています。完璧な条件が揃うのを待つ必要はありません。私たちはすでに、帰るべき温かい食卓と、共にいてくださる神様のまなざしを持っているのですから。身体の悲鳴をそっと大きな愛の中に委ねて、肩の力を抜き、確かな足取りで今日の一歩を前に進めていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年5月25日月曜日

不便は不幸じゃない

 


「不便は不幸じゃない ―― 取り違えた心をそっとほどくために」

🌿スマホを持たない人たちのこと

私の周りには、スマホも携帯も持たずに暮らしている人々がいます。すると、知人からは決まってこう言われます。「今の時代、それで生活できるの?」確かに、スマホがない生活は不便かもしれません。地図もすぐに見られないし、連絡も取りづらい。
でも、それは 不便であって、不幸ではありません。むしろ、「不便=不幸」と考えてしまう私たちの心のほうが、どこか疲れているのかもしれません。


 


🌧 2.なぜ私たちは不便不幸だと思うのか

現代の私たちは、便利さに慣れすぎてしまいました。

  • すぐに返事が来ないと不安
  • 充電が切れるとパニック
  • SNSの通知がないと取り残された気分

便利さは確かにありがたいものです。しかし、便利さに依存すると、少しの不便が「人生の危機」のように感じられてしまうのです。これは心理学でいう
「比較の罠」 に近い現象です。

  • 他人の便利と比べる
  • 他人のスピードと比べる
  • 他人の充実と比べる

その結果、「自分は遅れている」「自分は劣っている」「自分は不幸だ」と錯覚してしまうのです。でも、それは事実ではありません。


 


🔥 3.神様は不便の中にも恵みを置く」

聖書には、便利さを追い求めるような言葉は一つもありません。むしろ、こう語られます。「あなたがたの命は、衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6章)

神様が見ておられるのは、あなたがどれだけ便利な生活をしているかではなく、あなたが今日、どれだけ豊かに息をしているかです。

不便の中には、便利さの中では気づけない恵みがあります。

  • 待つ時間に生まれる静けさ
  • 連絡が取れないからこそ守られる心の余白
  • 道に迷うことで出会う風景
  • 手間をかけることで深まる感謝

神様は、不便の中にもちゃんと光を置いてくださっています。


 


🌱 4. 不便を不幸と勘違いしてしまう似た例

実は、私たちは他にも同じような錯覚をしています。

「忙しい=価値がある」

本当は、休むことにも価値があるのに。

「速い=正しい」

本当は、ゆっくりだから見える景色があるのに。

「持っている=幸せ」

本当は、持たないことで自由になることもあるのに。

「人と同じ=安心」

本当は、違うからこそ美しいのに。これらはすべて、比較が生み出す錯覚です。

神様は、あなたを誰かと比べて創られたのではありません。あなたは、あなたとして十分に尊いのです。


 


🌤 5.不便の中に、今日の恵みを見つけよう

もし今日、スマホがなくて不便を感じたら、それを不幸だと思わないでください。

もし今日、誰かより遅れているように感じても、それを敗北だと思わないでください。

不便は、あなたを不幸にしません。むしろ、不便はあなたを今日に連れ戻す力を持っています。

  • 今ここにある風
  • 今ここにある光
  • 今ここにある人とのつながり

それらは、便利さでは手に入らない恵みです。どうか、不便の中に置かれた小さな祝福を見つけてください。

今日も、共に前進です。

大学礼拝説教

 


「東北学院土樋キャンパス礼拝説教」25-MAY-2026

説教題:「弱さ」でつながる勇気 ―― 孤立ではなく、共に歩む自立へ

聖 書:コヘレトの言葉4910

一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。

たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。/一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。

 

5月も下旬に入りました。新緑が美しい季節ですが、皆さんの心のコンディションは

いかがでしょうか。 4月の緊張感がふっと切れ、大型連休が終わって日常に戻った今、「なんだか力が入らない」「周りのみんなは楽しそうなのに、自分だけが取り残されている気がする」……そんな、言葉にできない「重さ」を感じている人もいるかもしれません。今の私達は、「一人で何でもこなせること」が自立だと教えられてきました。弱音を吐かず誰にも迷惑をかけず、スマートに生きること。しかしその「スマートな自立」を目指せば目指すほど、私たちは誰にも助けを求められない「孤独な檻」の中に閉じ込められては

いないでしょうか。

 

今日読んだ聖書の言葉は、非常に現実的です。たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。と語っています。ここで注目したいのは、聖書が「人は必ず倒れる者だ」という前提に立っている点です。私達はつい、「倒れないようにしなければ」「弱さを見せてはいけない」と自分を追い込みがちです。しかし人生という長い道のりで、一度もつまずかない人などいません。むしろ聖書は倒れる事そのものを否定していないのです。大切なのは、倒れないことではなく、倒れた時に誰かがそばにいること。そして、誰かが倒れた時に自分が手を差し伸べられる事。神様は、私達が「一人で完璧に生きる」ことを求めておられません。むしろ弱さを抱えた者同士が支え合い、助け合いながら歩む事を

望んでおられます。私達が互いに寄り添い、倒れた者を起こし合う時、そこに神の国がつまり、神の愛が息づき、広がっていく姿が現れるのです。本当の意味で「自立」して

いる人とは、自分の限界を知っている人です。「ここからは自分の力だけでは無理だ」

「助けてほしい」と、自分の「弱さ」を正直に開示できる力。これを最近では**「受援力」**と呼んだりします。

皆さんの周りを見渡してみてください。皆、完璧に見えるかもしれませんが、実は誰もが「助けてくれる誰か」を必要としています。自立とは誰にも頼らない事ではありません。神様の眼差しの前に立ち、自分の弱さを認め、その弱さを介して誰かと手をつなぐこと。それこそが、聖書が教える「共に生きる」の第一歩です。

あなたが「助けて」と言ったその一言が、実は同じように苦しんでいた隣人の心を救う「光」になることもあるのです。

 

私は毎週、100キロを超える距離を走ります。一人で走る30キロ、40キロは、時に孤独で、足が止まりそうになる時もあります。しかし、誰かが横を走っていたり、応援の声をかけてくれたりするだけで、不思議と新しい力が湧いてくるものです。

皆さんの大学生活というレースも、一人で走り切る必要はありません。あなたが倒れそうになった時、主は必ず「助け手」を送って下さいます。そして何より、主ご自身があなたのすぐ隣を、あなたのペースに合わせて伴走して下さいます。もし今、何かに躓き、立ち上がれないと感じているなら、そのままで大丈夫です。主はあなたが倒れているその場所まで降りてきて、手を差し伸べておられます。その手を握り、隣にいる仲間の手を取ってもう一度ゆっくりと歩き出しましょう。「弱さ」は、あなたを孤立させるものではなく、

誰かと深くつながるための「鍵」なのです。

 

祈祷:主なる神様、 わたしたちが自分の弱さを受け入れ、その弱さの中から生まれる

新しい歩みを、あなたが支え導いてくださいますように。 主の御名によって祈ります。

朝ラン30キロ完走

 


深い霧の向こうで待つ、希望の朝日

霧に包まれた夜明けのスタート

季節は確実に歩みを進め、朝の4時半にもなると、すっかり明るさを感じる季節になりました。今朝もその時間に靴紐をしっかりと結び、ランニングをスタートさせました。

今日は、土曜日に走る尚絅学院中高のコースを少しアレンジして走り、トータルで30キロを完走しました。

走り始めの空気は、とても不思議なものでした。辺り一面に深い霧が立ち込め、いつもなら見えるはずの風景が白く濁り、少し先すら見通せない状態だったのです。しかし、一歩一歩と足を進めるうちに、だんだんとその霧が消え去り、やがて見慣れた街の姿がはっきりと現れました。そして帰りの道では、力強い朝日が昇り、周りのすべてを暖かく照らしてくれました。気温もちょうどよく、息を呑むような美しい朝の光景でした。

 


見えない不安という「霧」のなかを走る現代人

この「深い霧のなかを走り、やがて光に出会う」というプロセスは、私たちが生きる現代の姿、そして人生の歩みそのものに重なるように思えます。

私たちは今、常に先の見えない「霧」のなかを走らされているような時代を生きています。 仕事の先行き、複雑に絡み合う人間関係、将来への漠然とした不安。SNSやニュースには情報があふれかえっているにもかかわらず、本当に信じるべきもの、進むべき確かな道は、かえって見えにくくなっています。足元すらおぼつかないまま、「この道で合っているのだろうか」と孤独や葛藤を抱えながら、手探りで日々を駆け抜けている方がたくさんいらっしゃいます。

しかし、立ち止まることはできません。 私自身も今日、午前中には近所の大学チャペルで礼拝説教を担当し、お昼には家族を送り出し、その後は教会員の方との打ち合わせが控えています。私が立ち止まっても、時間は待ってくれず、一日はすでに始まって静かに流れていくのです。

 


光はすでに昇っているという真理

焦りや不安に押しつぶされそうになりながら走る私たちに、聖書は確かな希望の言葉を届けてくれます。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯。」(詩編 119105節)

私たちが自分の力で、目の前の霧を吹き飛ばそうと必死にもがく必要はありません。霧のなかで先が見えなくても、ただ神様の言葉を小さな足元の「灯」として信じ、今日与えられた一歩を黙々と踏み出し続けていればよいのです。

今朝のランニングが教えてくれたように、霧は必ず晴れます。 私たちが気づかない間にも、分厚い雲の向こう側では、すでに「希望の朝日」が昇り始めているのです。神様の完全な光が差し込むとき、私たちが恐れていた不透明な現実は、かつてないほど美しく、温かい景色へと姿を変えます。現代の効率やスピードばかりを求める社会の中で、私たちはすぐに「結果(晴れ間)」を求めますが、神様はあえて霧の中を歩ませることで、見えないものに信頼する「本物の信仰」を育ててくださるのです。

 


すべてを感謝と喜びに変えていく一日

今日もまた、慌ただしい一日が流れていきます。 皆さんの目の前にも、いまだ晴れない霧のような課題が立ちはだかっているかもしれません。しかし、その向こうには、あなたを照らす愛の光がすでに用意されています。

今日というかけがえのない一日を、決して悔いのないように生きたいと願います。思い通りにならない状況に不平をこぼすのではなく、霧のなかにあっても共に歩んでくださる神様を見上げ、すべての状況を「感謝と喜び」に変えていく一日でありたいものです。

霧が晴れたあとに広がる、あの温かい朝日を信じて。



今日も、共に前進です。

夜更けの足音と、交わす視線

 


夜更けの足音と、交わす視線

時計の針が23時半を回った頃、愛犬ノアとの静かな夜の散歩が始まります。 トントントンと、階段を慎重に降りてくる彼の姿を見つめながら、私はまず、今日もこうして無事に歩けることへの深い感謝を覚えました。

夜の静寂のなか、手にした資源ごみを出しに行き、そこからまたゆっくりと歩き出します。すっかりリラックスしたのか、途中、ノアは大きく3回もあくびをしました。リードを引く手を通じて伝わってくる温もり。歩きながら、私たちは何度も何度も目を合わせました。言葉はなくても、その穏やかな視線の交差だけで、心が満たされていくのを感じるひとときです。

 


階段の踊り場で待つ、小さな期待

散歩から帰り、今度は階段を上がるノアの後ろ姿を優しく見守りながら、私は自分の仕事部屋へと向かおうとしました。

いつものことですが、ノアは階段を上がる途中、中間地点の踊り場でぴたりと止まります。くるりと振り返るその目には、「呼んでくれないかな」という明らかな期待感が光っていました。以前、そこで待っていた彼に、私がリンゴの一切れを持ってきてあげたことが何度かあったからです。彼はその甘い記憶を、しっかりと覚えていたのでしょう。

「ノア、ちょっと待っててね」 心の中でそう声をかけつつも、私はふと立ち止まりました。「でも、寝る前に食べ物を口にするのは、彼の体によくないな」。そう考え直した私は、リンゴをあげることなく、そのまま自分の仕事部屋へと入っていきました。

そして、自分の部屋に戻った私が何をしたかといえば…… 熱いコーヒーを淹れ、自分だけ林檎を食べたのです。 「なんという利己的な飼い主だろう!」と、思わず可笑しくなりましたが、罪悪感は抱きませんでした。 なぜなら、私にはこれから夜を徹して取り掛からなければならない「仕事」があったからです。

 


普遍的な真理への昇華:神様の「与えない」という深い愛

仕事部屋で林檎をかじりながら、私はこのちょっとした出来事の裏側に、私たちの人生と神様との関係に深く通じる「真理」が隠されていることに気がつきました。

現代を生きる私たちは皆、人生という階段の「踊り場」で立ち止まり、上を見上げて待っているノアのような存在です。 「神様、あの時のように、どうか私が欲しいものを(リンゴを)与えてください」 「この願いを叶えてください」 私たちは、過去の成功体験や他人の幸せを見て、強い期待感をもって祈ります。

しかし、時にはどれだけ待っても、神様が私たちの願い通りに「リンゴ」を与えてくださらないことがあります。祈りが聞かれないとき、私たちは「なぜ自分だけ与えられないのか」「神様は不公平だ、愛がないのではないか」と、踊り場で悲しみに暮れたり、不信感を抱いたりします。

でも、ノアには分からなかった飼い主の事情があったように、私たちにも見えない「神様の視点」があるのです。 私がノアに林檎を与えなかったのは、いじわるでも、愛情が冷めたからでもありません。「寝る前の食べ物は体によくない」という、彼の健康と安息を一番に願う「深い愛ゆえの拒絶」でした。神様が私たちの願いをすぐに叶えない時、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちの魂の健康を守るため、あるいは、もっと良いタイミングを備えるためなのです。

そしてもう一つ、大切なことがあります。 飼い主である私がコーヒーと林檎を口にしたのは、愛する犬が安心して眠りにつく間、一人起きて「仕事」をするためでした。 旧約聖書の詩編121編には、このような言葉があります。

「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」

私たちが踊り場で願いを断られ、何も分からずに眠りにつくその暗闇のなかでも。神様は決して眠ることなく、私たちの人生を守り、導くために、見えない部屋で「仕事」を続けておられるのです。

 


見えない愛を信じて、眠りにつく勇気を

現代社会は、すぐに結果が出ること、目に見える見返りがあることばかりを評価します。願いがすぐに叶わないと、まるで自分が見捨てられたかのように感じてしまう、焦りと不安の時代です。

しかし、もし今、あなたが人生の踊り場で立ち止まり、「なぜ与えられないのだろう」と孤独を感じているなら、どうか思い出してください。 散歩の途中で、何度も何度もあなたと目を合わせてくださった神様の温かい視線を。

与えられないことの裏側には、あなたを深く愛し、あなたの魂の健やかさを何よりも願う、大きな愛が隠されています。あなたが思い通りにいかない現実に涙して眠る夜も、神様はあなたのために起きて、働き続けておられます。

だから、安心して今日という日を終え、目を閉じてください。 あなたの人生は、決して利己的ではない、完全な愛を持つ飼い主の御手の中にあります。



今日も、共に前進です。

2026年5月24日日曜日

心のチューニングと、吹き抜ける聖霊の風

 


心のチューニングと、吹き抜ける聖霊の風

ペンテコステの熱気と、会議後の静かな疲労

今日は、教会に聖霊が降ったことを記念するペンテコステ(聖霊降臨日)の礼拝でした。恵みに満ちた時間を過ごした後、私はそのまま岩沼へと向かい、地区総会に出席してきました。組織を運営していく上で、会議というものは間違いなく重要なものです。しかし、正直なところ、決して「楽しいもの」ではありません。長時間の話し合いを終えて家路につく頃には、肩にずっしりとした重みを感じ、心身ともに静かな疲労感が広がっていました。

 


私たちが生きる日常は、このような「義務」や「調整」の連続です。神様を見上げる熱い礼拝の直後であっても、私たちはすぐさま、現実の泥臭い話し合いや、エネルギーを消耗する業務へと引き戻されます。これは、現代社会で働く多くの皆さんが、日曜日の夜や月曜日の朝に感じている「ため息」と、とてもよく似ているのかもしれません。

 


消耗する日常と、情熱の在り処(ありか)

今週もまた、慌ただしく忙しい一週間が始まります。会議の疲れを引きずったまま、次々と押し寄せるタスクをこなしていかなければなりません。しかし、私の心の奥底には、その疲労を貫いて燃え続ける一つの確かな光があります。それは、来る31日に控えている「静岡草深教会」での青葉伝道礼拝、そして礼拝後の講演会です。

私にとって、これこそが自分の命を注ぎ込むべきメインの働きです。そこで語るべき言葉があり、出会うべき魂があります。だからこそ、万全を期して臨みたい。その日のために、心と体のコンディションを最高に整えていくこと。それは単なる体調管理ではなく、神様の器として自分自身を「チューニング」する神聖な作業なのだと、改めて気づかされます。私たちは、ただ消耗するためだけに生きているのではありません。

  • 「自分は結局、何のためにこの忙しさを耐えているのか」
  • 「私の情熱の本当の在り処は、どこにあるのか」

この軸が定まっているとき、私たちは日々の地味な会議や疲れる業務のなかでも、決して自分を見失うことはないのです。

 


疲労のなかに吹く「新しい風」

聖書は、疲れ果てた現代の私たちに、このような普遍的な希望を語っています。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二 416節)

ペンテコステに降った聖霊は、決して派手な奇跡を起こすためだけのものではありませんでした。それは、日々の会議に疲れ、人間関係に悩み、重い足を引きずる私たちの「内なる人」に、もう一度、新しく温かい息吹を吹き込むための「命の風」です。

私たちが「疲れた」「しんどい」と素直に認め、その弱さを隠さずに神様の前に差し出すとき。聖霊の風は、私たちのさびついた心の隙間を吹き抜け、明日へ向かうための静かな力を満たしてくださいます。完璧な環境が整わなくても、心身のコンディションを神様に委ねながら整えていくプロセスそのものが、美しい信仰の歩みなのです。

 


それぞれの場所で、光を放つ

ふと見ると、娘がアルバイトへと出かけていきました。 彼女には彼女の、若く、そして真剣な戦いの場所があります。私が次の日曜日の礼拝に向けて準備をするように、彼女もまた、自分の持ち場で一生懸命に汗を流しているのです。その小さな後ろ姿を見送ったとき、私の胸に深い感謝の念が湧き上がってきました。 誰もが皆、それぞれの場所で、見えない重荷を背負いながら頑張っています。教会での奉仕も、職場での会議も、アルバイトでの接客も、すべては神様が与えてくださった尊い「生きる現場」です。

 


もし今、あなたが週の初めの疲れや、日々の消耗に押しつぶされそうになっているなら、どうか深呼吸をして、聖霊の風を胸いっぱいに吸い込んでみてください。 あなたは、そのままで十分に頑張っています。疲れたときは少し休んで、自分の心と体のコンディションを優しく整えてあげてください。あなたの魂のチューニングが整ったとき、そこから奏でられる音色は、必ず誰かの心に届くはずです。それぞれが与えられた持ち場で、命の輝きを放つことができますように。

今日も、共に前進です。