死を越えて歩む──エノクとエリヤが語りかけるもの
「死」は、誰にとっても避けられない現実です。 それは、まるでこの世界に課された絶対的なルールのように思えます。 けれど、聖書にはその“ルール”に風穴を開けるような、二人の人物が登場します。 エノクとエリヤ。
彼らは「死を経験せずに天に上げられた」と記されています。
この不思議な出来事は、単なる神話的な物語ではありません。 むしろ、私たちが「死」という現実とどう向き合い、 どのように生きるべきかを静かに問いかけてくる、
希望に満ちたメッセージなのです。
エノク──三百六十五年の「並走」の果てに
エノクについて聖書が語るのは、ほんの数行。 けれど、その短い記述には、深い余韻があります。
彼は三百六十五年もの間、神と共に歩み、 ある日、そのまま神に「取られて」姿を消しました。 派手な奇跡も、壮絶な最期もありません。
ただ、日々の歩みの中で、神と共に生き続けた人。 その「歩み」が、やがて死を越えて、 天の住まいへと自然につながっていったのです。
信仰とは、特別な瞬間のためだけにあるのではなく、 日常の中で、静かに、誠実に、神と共に歩むこと。 それが、永遠へと続く道になる── エノクの姿は、そう語っているように思えます。
エリヤ──嵐と火のなかの「任務完了」
一方、エリヤの昇天は、まさに劇的です。 火の戦車と馬、旋風に乗って天へと上げられるその姿は、 まるで勝利の凱旋のようです。彼は激しい預言者としての使命を果たし、
ヨルダン川を越え、「約束の地の外」へと向かいました。 その歩みは、まさに境界線を越えるものでした。 死という境界を、神の力によって超えていったのです。エリヤの昇天は、
「死がすべてを終わらせるわけではない」 という神のメッセージのように響きます。 死が来る前に、命の源である神が彼を包み、引き上げた。 それは、死をも飲み込む命の力が、
この世界に確かに存在することの証しです。
私たちにとっての「エノクとエリヤ」
もちろん、私たちは彼らのように、 肉体の死を飛び越えるわけではありません。 けれど、新約聖書の光の中でこの出来事を見つめるとき、
それは、キリストにある私たちの「変貌」の予告のようにも思えてきます。
「死は終わりではない」 「やがて、私たちは変えられる」 そんな約束が、聖書には繰り返し語られています。
エノクが「神に取られた」という表現には、 まるで大切な宝物を手元に引き寄せるような、 神の優しさと愛がにじんでいます。 私たちが死を迎えるときも、
その御手が私たちを包み、 永遠の住まいへと導いてくださる── その確信が、私たちの歩みに静かな力を与えてくれるのです。
巡礼の道、その「続き」の先に
この秋、スペインの巡礼路を歩く人もいるでしょう。 サラマンカからサンティアゴまでの500キロ。
その道のりの果て、大聖堂の広場で空を見上げるとき、 エノクが三百六十五年かけて辿り着いた「あの場所」と、 空が少しだけつながっているように感じられるかもしれません。
走ること、歩くこと。 それは、ただの運動ではなく、 この地上で天の空気を吸い込み続ける練習なのかもしれません。 いつか主の御手に「取られる」その日まで、
私たちは今日も、信仰の翼を広げて歩み続けるのです。
明日は主の日。
主なる神様を礼拝することは、まさにこういう歩みを確認するときであるのです。














