それぞれの朝、それぞれの自由 ── 共に生きるための「小さな配慮」という光
大年寺山公園の朝、それぞれの過ごし方
今朝は久しぶりに、大年寺山公園へ散歩に出かけました。 ひんやりとした早朝の空気を深呼吸しながら歩を進めると、いつもの場所に見慣れた風景が広がっていました。
いつも6時頃に集まっては、ラジオ体操をして持ち寄った軽食を共にしているお年寄りの方々。普段は6〜7人ほどいらっしゃるのですが、今朝は4人でした。私がちょうどその前を通りかかったとき、ラジオから体操の音楽が流れていました。
しかし、その光景は少しユニークなものでした。
- 体操をしていたのは、青葉区から愛宕大橋を渡って来られる小柄のおばあちゃんただ一人。(おそらく85歳にはなっただろうと思われますが・・・)
- お二人は体操には参加せず、楽しそうにおしゃべりに花を咲かせている。
- いつも車で仔犬を連れてくるおじいちゃんは、傍らで犬と無邪気に遊んでいる。
誰かが「体操の時間だから」と強要することはありません。それぞれが、それぞれのスタイルで自由に早朝の時間を味わっていました。その穏やかな風景を見て、私は心の中で「それでいいのだ」と深く頷いていました。規則に縛られず、個人の在り方が尊重される、心地よい自由の形がそこにはありました。
自由の裏側にある問いと、他者への想像力
しかし、歩みを進めながら、私の思索は「自由」という言葉のもう一つの側面に及んでいきました。公園の彼らのように、互いの境界線を優しく守り合う自由は美しいものです。けれど、私たちが生きるこの社会では、時に個人の「自由な行動」が、他者の「自由と平和」を奪ってしまうことがあります。
わがままな考え方や自己中心的な振る舞いが秩序を乱し、周囲の人の心に不愉快な影を落とす。私たちは皆、少しずつ違いを持った存在です。だからこそ、共に生きるためには「マナー」という名の他者への思いやりが不可欠です。
- 少しだけ譲り合うこと。
- 少しだけ相手の立場を理解しようと努めること。
それは、自分の命を投げ出すような大げさな犠牲ではありません。ほんの少しの、手のひらサイズの配慮です。しかし、その「少しの配慮」が欠けているがゆえに、不必要に傷つき、不愉快な思いを抱えなければならないことが多い時代でもあります。「共に生きられる世界」という理想の頂は、私たちが思うよりも、まだまだ遠い場所にあるのかもしれません。
不完全な世界を、それでも歩む
聖書の中に、このような言葉があります。
「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤの信徒への手紙5章13~14節)
真の自由とは、他者を顧みない放縦ではなく、愛を持って互いに仕え合い、小さな配慮を贈り合う中にこそ宿るものです。
今朝の試合は「2対0で勝つ」という私の予想は外れてしまいましたが、結果は引き分け。それでも良かったのだと、今は思えます。選手たちはピッチの中で、決して諦めず、泥臭く頑張って戦い抜きました。
私たちの日常も、鮮やかな「完全勝利」ばかりではありません。配慮が欠けた世界に落胆し、理想とは程遠い現実に直面することもあります。まるで、引き分けの試合のように、スッキリとしない葛藤を抱える日々です。それでも、私たちは生きていきます。
公園のお年寄りたちがそれぞれのペースで朝陽を浴びていたように、違いを認め合い、ほんの少しの譲り合いを心に忍ばせて。不完全なこの世界で、それでも互いの平和を守るために奮闘する姿は、やはり尊いものなのです。
今日も、共に前進です。




