デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年9月10日木曜日

今日の日課も無事に終了

 


期待を手放す朝の余白 ―― 汗と尻尾が教えてくれた「平和を創り出す」生き方

 

早朝の散歩を終えての2時でした。

午前6時前、二階の階段での小さな出会い

今朝、ランニングを終えて家に着いたのは、時計の針が6時を少し回る前のことでした。 走り抜いた身体は汗びっしょりで、重たい衣服を早く脱ぎ捨てて、冷たいシャワーを浴びたいという思いが全身を駆け巡っていました。

しかし、二階の階段を上がると、そこには真っ先に私を出迎えるノアの姿がありました。 ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、彼の表情は雄弁にこう語っていました。 「誰も出てこないよ!朝ごはんの時間なのに、あの、おばさんはまったくだ!」

その愛らしくも切実な訴えに、私は思わず微笑んでしまいました。 汗だくの身体のまま、まずはノアの前にしゃがみ込み、食前の祈りを捧げてから朝ごはんを与えました。私の中では「自分がそうする」ともうすでに決めていたことなので、そこに心の葛藤や苛立ちは微塵もありません。ただ、温かな朝の日常がそこにあるだけでした。

 


「期待」という名の重荷を下ろす

この朝のささいな出来事は、私たちが生きていく上で陥りやすい「心の罠」について、大切なことを教えてくれます。私たちは、家族の中で、あるいは社会の中で、時に深く疲れて帰宅することがあります。そんな時、無意識のうちに「これくらいはやっておいてほしい」「家にいるのだから、気を利かせてくれるだろう」と、他者に対して密かな期待を抱いてしまうものです。 しかし、現実は往々にして予想通りにはいきません。

  • 期待が裏切られたと感じた時、人は不機嫌になります。
  • いやな気分を抱えながら家事をすることで、ため息や足音に怒りが滲みます。
  • それが引き金となり、家族の間に不和やトラブルの火種が生まれます。

中には、その不満が膨らみ続け、相手の家系にまでさかのぼって悪く考えてしまうほど、心を縛られてしまうケースすらあります。期待とは、時に私たちの心を蝕む毒にもなり得るのです。

 


平和は与えられるものではなく、創り出すもの

だからこそ、私はこう心に決めています。 「はじめから、まったく期待しない」と。

やっていなかったら、自分がやる。 やっていてくれたのなら、心からありがたく思う。 ただそれだけです。物事を複雑にこじらせる必要はどこにもありません。

聖書には「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉があります。 家族の平和、そして自分自身の心の平和を保つことは何よりも大切です。しかしその「平和」は、相手が自分の思い通りに動いてくれることで与えられるものではありません。自ら期待を手放し、自ら愛をもって行動することによって、「自分で創り出すもの」なのです。

 


奇跡の今日を、精一杯に生きる

今日も無事に、一日が終わろうとしています。 こうして命が与えられ、家族がいて、一日を終えられること自体が、途方もない奇跡であり、ただただ感謝しかありません。

明日もまた、私は頑張って走ります。 命がある限り、その命を燃やして精一杯に生きていく。どうせ生きるのならば、不満を抱えて生きるのではなく、自らの手で平和と喜びを創り出し、楽しく生きる努力をしたいのです。 誰かの行動に自分の幸不幸を任せるのではなく、自分の足で立ち、自分の手で愛を選ぶ。それが「真に生きる」ということなのだと、確信しています。

今日も、共に前進です。

朝ラン33キロ完走

 


縛られない魂の軽やかさ ―― 17度の風と、坂道の向こうにある「真の自由」

 


静寂を切り裂く33キロの道のり

ノアとの散歩を終えた午前255分。まだ深い夜の底にいるような時間帯に、靴紐を結び、走り出しました。気温は17度。肌を撫でる風はひんやりと心地よく、ランナーの身体にとってこれ以上ない「最高の温度」です。

聖和学院三神峯キャンパスの厳しい坂道に息を弾ませ、さらに八木山動物公園へと続く長い上り坂を力強く踏みしめました。そこから久々に仙台城跡へと向かい、青葉山公園、花壇、東北学院、愛宕大橋と夜明け前の静かな街を駆け抜け、最後は広瀬橋を渡って帰着。33キロの完走です。

 


目標と、手放すことの美しさ

少しずつ足の回転も上がり、これからの1年間、本気で「サブ3(フルマラソン3時間切り)」を目指して走り抜こうという静かな闘志が湧き上がっています。 しかし、深く息を吐きながら、ふと心の中でひとつの真理を確認するのです。

「これは、私の人生のすべてではない」

サブ3の達成は素晴らしい目標ですが、人生という壮大なタペストリーの中では、ほんのひとコマの小さな出来事に過ぎません。仮にその目標が達成できなかったとしても、私の人生の価値が揺らぐわけではなく、何の問題もないのです。

 


「一番大切なもの」が教えてくれる自由

私にとって走ることは、祈りと心身を研ぎ澄ます大切な時間です。しかしそれは決して、以下のものより優先されることはありません。

  • 主を畏れ、心から礼拝を捧げること
  • 愛する家族との温かい時間
  • 教会の群れのために祈り、仕えること

この「魂の優先順位」が明確に定まっている時、人は驚くほど自由になれます。「どうしてもこうでなければならない」「達成しなければ価値がない」という見えないこだわりに縛られず、ただ、主が与えてくださった今日の命に感謝して、笑顔で生きることができるのです。一番大切なものが、一番大切な場所(神様の御手の中)にあると知っているからこそ、私たちは趣味や目標という日常の営みを、重荷ではなく「喜び」として楽しむことができます。

 


今日という日を、丁寧に紡ぐ

執着を手放した心は、秋の風のように驚くほど軽やかです。

今日はこの澄み切った自由な心で、楽しく仕事に向かいます。家族の喜ぶ顔を思い浮かべながらキッチンに立ち美味しい料理を作り、そして、愛するノアのために静かに祈りながら、与えられた今日という一日を丁寧に、味わい深く過ごすことでしょう。

あなたの肩に乗っている「こだわり」という重荷をそっと下ろし、主の恵みの中で、大きく深呼吸をしてみませんか。



今日も、共に前進です。

 

2026年9月8日火曜日

朝ラン25キロ完走

 


頭を垂れる稲穂と、愛の重さという名の「実り」

午前4時過ぎ、まだ薄暗い道を走り出しました。肌に触れる風にも、吸い込む空気にも確かな秋の気配が溶け込んでいる、気持ちの良い25キロの朝ランでした。

 


田畑の広がる道を抜けていくと、豊かな実をつけた稲が、その重みで少しずつ倒れ、頭を垂れ始めていました。いよいよ収穫の時が訪れます。 その黄金色の風景を見つめながら、私の内側に一つの静かな問いが生まれました。 「今年の秋、私自身には収穫するような『心の実り』があるだろうか?」

  • 兄弟姉妹のために、十分に祈っただろうか。
  • 病床にある姉妹や、孤独の中にいる兄弟姉妹に手紙を書き送ったが、本当に足りていただろうか。
  • 家族のために奉仕をしてきたが、もっと愛せたのではないか。

歩みを振り返れば振り返るほど、善いことを十分になし得ていない自分の「足りなさ」ばかりが浮き彫りになっていきます。

 


昨夜は23時半に娘のアルバイト先まで車を走らせて迎えに行き、共に帰宅しました。そこから3時間ほどの短い睡眠を挟んで、今朝のランニングへ。そして走り終えたいま、娘を駅まで送り届け、このあと10時からは妻を仙台まで送る予定が控えています。 「家族だから」という大切な務めです。しかし、正直な本音をこぼせば、さすがに疲労を感じ、「少し休みたい」とため息をつきたくなる瞬間もあります。

 


しかし、この痛みと疲労の只中に立つとき、私の心は不思議と世界へ向かって開かれます。現実の社会には、同じように疲れ果て、それでも愛する誰かのために休むことなく身を粉にして働いている人々が無数にいるのです。自分の体が疲れているからこそ、彼らの痛むような思いが、痛いほどによく分かります。

 


「十分ではない」「もっとできたはずだ」という葛藤は、決して実りが少ないから生まれるのではありません。それは、稲穂が豊かな実をつければつけるほど深く頭を垂れるように、誰かを真剣に愛し、重荷を背負おうとするからこそ生まれる「謙遜という実り」なのです。

 


休みたいと願う体を引きずりながらも、命がある限り、私たちは精一杯に今日を生き抜きます。心置きなく、ゆっくりと羽を休める安息の日は、主が待つ天国のために大切に取っておけばよいのですから。重い稲穂のように、祈りと愛の重みで頭を垂れながら。

今日も、共に前進です。

2026年9月6日日曜日

朝ラン45キロ完走

 


嵐の前の静寂と、名もなき「一人大会」を走り抜く祈り

午前2時に起床し、静けさの中で早朝のルーティンを終え、午前3時にランニングをスタートしました。すっかり涼しくなった夜気を肺の奥まで吸い込みながら、昨日と同じコースをたどりつつ、今日はさらに距離を延ばして走り出しました。季節の移ろいを感じる心地よい風が背中を押し、澄んだ空気の中で非常に気持ちよく足を進めることができました。

 


すれ違うランナーと、孤独な道の交差点

走り出して約20キロ地点、愛宕大橋に差し掛かった時のことです。何かの大会に出場している3人のランナーたちが駆け抜けていく姿を目にしました。それぞれの胸には、誇りを示すようにナンバープレートがつけられています。さらに、帰路についた午前7時頃にも、懸命に前を見据えて走る一人のランナーとすれ違いました。

常にたった一人で「一人大会」を走り続けている私にとって、そうした公式の大会は縁のない世界です。しかし、彼らのひたむきな姿を見たとき、私の内側には不思議なくらい澄み切った喜びが湧き上がり、心から彼らの背中を応援している自分がいました。

 


それぞれのゼッケンと、与えられた使命

私たちは皆、人生というそれぞれに異なるコースを走るランナーです。

  • 目に見えるゼッケンをつけて、誰かと共に走る華やかな道
  • 誰の目にも留まらない、孤独で静かな「一人大会」を黙々と進む道

どちらの道が優れているということはありません。本質的なのは、自分に与えられたコースの孤独を引き受けながらも、すれ違う他者の健闘を心から祝福できる、その魂の柔らかさにあるのではないでしょうか。

今日は、主の日の礼拝(振起日礼拝)を心に深く刻み、祈りを込めながら最終的に45キロを走り抜きました。限界に挑むようなこの距離もまた、私に与えられた使命と向き合うための静かな礼拝の一部です。

 


明日の嵐を委ね、今日を生き切る

天気予報によれば、明日はこれまで経験したことのないような激しい雨が降ると告げられています。未曾有の嵐が近づくとき、人はどうしても明日のことばかりを思い煩い、心をすり減らしてしまいます。

しかし、聖書が教えるように、私たちが本当に引き受けるべき重荷は「今日」という一日分だけです。明日の激しい雨は、すべてを治められる主の御手にすっかりと委ねてしまえばよいのです。未だ見ぬ明日の嵐を恐れるのではなく、今日私に託された使命をしっかりと果たし、誠実に歩みを重ねていくこと。それこそが、どんな天候の中でも変わらない私たちの確かな道しるべです。

今日も、共に前進です。

2026年9月5日土曜日

秋の気配と32キロの道標、そして「選ぶ」という静かなる力

 


肌に触れる秋の風と、見慣れた景色

今朝は3時半ごろにランニングをスタートしました。暗闇の中を駆け抜ける風には、すでに秋のような涼やかな気配が溶け込んでいます。今日の32キロの道のりは、とても気持ちの良い朝ランとなりました。

 


最近のコースは、長町周辺を5キロ走り、大野田から泉崎辺りを経由して向山へ向かう約18キロの道のりです。そこからさらに花壇、青葉山公園、仙台二高周辺へと足を延ばして25キロ。そして再び引き返し、教会へと帰り着く頃にはちょうど32キロになります。 同じコースを繰り返すことは、変化に乏しく面白みが薄れる側面もあります。しかしその反面、どこに坂があり、どこで風が抜けるかを知り尽くした「慣れた道」は、心に確かな安心感を与え、深い思索の空間を作ってくれます。

 


環境をどう受け止めるかという鍵

季節の変わり目を迎え、コース上には以前よりも多くのランナーの姿が目につくようになりました。いずれ厳しい真冬になれば、寒さの中で再び孤独な一人きりのランニングに戻るでしょう。しかし、私はそれもまた良い時間だと考えています。

  • 賑やかな季節も、孤独な真冬の道も、それぞれの良さとして受け入れる。
  • 仮にそれが最悪の状況に思えても、見方を変えれば最高の状況へと転換できる。

それぞれの環境や状況を、自分に合わせてプラスに変えていく。そのための「鍵」は、決して外の世界にあるのではなく、いつだって自分自身の内側に握られているのです。

 


言葉を選び、今日を生きる

私たちは絶えず、選択の只中を生きています。どの道を走るべきか、何を買うべきか、そして「どういう言葉を発するべきか」。 その一つの選択によって、その日一日の自分の人生が決まってしまうことさえあります。だからこそ、その時の感情の波に身を任せるのではなく、立ち止まり、よく考えて選ばなければなりません。

 


聖書は、私たちの口から出る言葉が持つ大きな力を教えています。特に、相手に伝える言葉は、決して一時的な感情に流されず、しっかりと選び抜いて手渡す誠実さが求められます。絶えずよく考えて生きること。それこそが、状況に振り回されず、心に平和を保つための確かな歩み方です。走り慣れた道に安心を見出し、今日紡ぎ出す言葉に祈りを込めて。

今日も、共に前進です。

2026年9月4日金曜日

一日の終わりを告げる

 


病という目に見える痛み、家族という見えない傷跡

一週間の緊張を解きほぐす、スタバへと向かう車の中。 助手席に座る娘が、流れる街の景色を見つめながら、実習で出会った患者さんたちのことをぽつりぽつりと話してくれました。

「患者さんには、本当に様々な事情があるの。病気そのものの苦しさよりも、実は『家族の関係』のほうが深い問題だったりするんだよ」

狭く静かな車内で語られたその気づきは、彼女が、命の最前線で受け取ってきた非常に重みのある真実でした。

私たちはつい、病室のベッドに横たわる人の「身体の痛み」や「病名」ばかりに目を奪われてしまいます。しかし、人間は単なる細胞や臓器の集合体ではありません。体力が削がれ、心も無防備になったとき、患者さんの魂を最も深く苛むのは、カルテに書かれた数値ではなく、もつれてしまった関係性の糸なのです。

  • ベッドの傍らに誰も座ることのない、長すぎる時間。
  • 見舞いに訪れる家族との間に流れる、ぎこちない空気。
  • 病に倒れたことで否応なく浮き彫りになる、長年のすれ違いや孤独。

病気というものは、健康なときには忙しさで誤魔化せていた「見えない関係の傷跡」を、残酷なほど鮮明に浮かび上がらせてしまいます。娘は、ただ病気を見るのではなく、その背後で重荷を背負って生きる「一人の人間の全存在」を見つめようとしているのです。

聖書に登場するイエス・キリストもまた、決して「患部」だけを診る方ではありませんでした。 中風で寝たきりの人を癒やすとき、主は身体を治す前に「あなたには罪の赦しが与えられている」と宣言されました。それは、病によって社会や共同体から断絶され、自分を責め続けてきたその人の「関係性の傷」をまず包み込み、心の根底から回復させるためでした。最大の苦しみは病そのものよりも、愛や繋がりからの「断絶」にあることを、主は深くご存知だったからです。

身体の不調を治すのは医学の力です。しかし、その背後にある見えない痛みに寄り添い、耳を傾けることは、愛にしかできない領域です。 患者さんの言葉の奥にある「家族の事情」にまで思いを馳せることができる娘の温かい眼差しを、親として深く感謝した車中でのひとときでした。

私たちの身近な場所にも、見えない事情や関係性の痛みを抱えて歩いている人が必ずいます。その重荷に気づき、静かに寄り添える者でありたいと願います。

今日も、共に前進です。

スタバとカルパッチョ

 


明日は御手に委ねて、今日という道を共に歩む

夜明けの風と、32キロの祈り

午前3時過ぎ、まだ深い闇と静寂に包まれた街へ走り出しました。肌を撫でる風の温度に、ランナーにとって心地よい季節の訪れを感じます。今日も30キロを目標に足を踏み出し、結果的に32キロの道のりを、祈り、深く思索を巡らせながら駆け抜けました。

 


「支え合う」という日々のメンテナンス

今週は、看護への道を歩む娘にとって厳しい実習の最終日です。緊張の続く日々ですが、実習がある金曜日は彼女にとって「スタバの日」というささやかなオアシスとなっています。心も体も、エナジーを枯渇させないための日頃からのメンテナンスは欠かせません。もちろん、前に進むための最も重要な原動力は本人の意志です。しかし、周囲のサポートがどれほど大きな力になることでしょう。人間は本来、一人では生きられない存在だからです。

  • 共に支え合うこと
  • 互いに励まし合うこと
  • 愛し合い、一緒に歩み続けること

これこそが、私たちが日々を生き抜くための確かな杖となります。今日は妻を八木山まで送り届け、その足で買い物を済ませました。今日の食卓には、娘の好きなカルパッチョ(ただいま半分ほど仕込みと準備を終えました)と、良質なタンパク質となる鶏むね肉の料理、そしてレンジで蒸したホクホクの焼き芋が並びます。日常の食卓を丁寧に整えることもまた、大切な「支え合い」の形です。

 


細くなった脚と、今を生きる恵み

少し仕事に向かい、午後3時半ごろになれば、愛犬ノアの夕食の時間です。彼の一日は、この早い夕食の後の時間がとても長いのです。

今朝、ノアの脚をゆっくりとマッサージしていると、骨が以前より細くなっていることに気がつきました。この足で、あとどれくらいの時間一緒に歩けるのかは誰にも分かりません。だからこそ、先のことで心をすり減らすのではなく、「今」を精一杯に生きることが何よりも大切なのです。

 


誠実に「今日」を整え、明日を委ねる

明日のことは、主の御手に委ねる。自由に、安心して、平和な心で、自分に与えられた務めを誠実にこなしながら歩み続ける。それが私たちの歩むべき道です。

現在、11月に控えたスペイン・サンティアゴへの祈りの旅も、準備が終盤を迎えています。並行して、1212日の仙台長町教会クリスマスコンサートのプログラムもほぼ完成し、印刷の準備を進めています。「少し早いのでは」と思われるかもしれませんが、時間がある今のうちに手を動かさなければ後から大変なことになります。(昨年の経験から学んだことです。)だからこそ、9月中にはすべて終わらせるつもりです。先を思い煩うのではなく、ただ誠実に「今、ここにある今日」の準備を整えること。 細くなった愛犬の確かな温もりを感じながら、与えられた今日という道を一歩ずつ進んでいきます。



今日も、共に前進です。

2026年9月2日水曜日

日々の奇跡中で生きる

 


「いってきます」が「ただいま」に還る奇跡と、命の満ちる食卓

夜半から雨が降るという予報を受け、先ほどノアとの散歩を済ませてきました。 いつもの道を歩き、家路につき、ゆっくりと階段を上っていくノアの背中。その姿を下から見つめながら、「ノアもずいぶん歳をとったな」という静かな感慨が胸に広がりました。いつも家で待っていてくれる彼の存在も、いつか終わりを迎える日が来る。その逃れられない時の流れが、今この瞬間の輪郭をより濃く、愛おしく浮かび上がらせます。

 


当たり前ではない「日常」の重み

今日も、実習に向かう娘と、仕事へ向かう妻が、家を出て無事に帰ってきました。 私たちはこれを「いつものこと」として受け流してしまいがちですが、決して当たり前のことではありません。

  • 「行ってきます」と声をかけてドアを出た人が、二度と帰らぬ人となる現実がこの世界にはあります。
  • とりわけ不確実で安心の揺らぐ現代において、無事に再会できることは一つの「奇跡」に他なりません。

その奇跡の一日一日に深く感謝し、互いを愛し合いながら生き抜くこと。それが私たちに託された、最も尊い務めなのだと教えられます。

 


走る脚と、愛を料理する手

今夜の夕食には、酢豚と白菜のスープ、そしてビビンバップを用意しました。 目の前で二人が美味しそうに頬張る姿を眺めていると、心の底から静かな感謝の念が湧き上がってきます。ふと、「こういう料理を、自分はいつまで作り続けることができるのだろうか」という問いが頭をよぎりました。 しかし、自らの心に尋ねてみれば答えは明確でした。きっと、私が朝の街をランニングできる限り、この手で家族に料理を作り続けることができるはずです。大地を踏みしめて走る力と、愛する者のために火を灯す力は、私の中で深く、確かに結びついています。

 


先の憂いを手放し、今日を生き切る

聖書は、先の見えない未来を思い煩うことの無意味さを説き、ただ今日与えられた糧に感謝することを教えます。 先のことを考えすぎるのではなく、今、命がある限り、与えられた今日を精一杯に生きる。家族が帰り、ノアが迎え、温かい食卓を囲む。この奇跡のような「今日」の恵みがあれば、それだけで十分なのです。

これから少しだけ仕事に向かい、そのあと二度寝の床につきます。 静かな雨音が包む夜、無事に終わろうとしている一日に心からの感謝を込めて。

明日も、共に前進です。

今日も朝ラン30キロ完走

 


雨音と一人の足音、そして「家族」という名の恩寵

午前3時。昨日とよく似た空模様の下、静かな雨に打たれながらランニングをスタートしました。まだ誰も起きていない静寂の街。耳に届くのは、雨音と自分の足音だけです。

今日も目標は30キロ。少し筋肉痛が残っており、思ったようにスピードは上がりませんでしたが、今日は「タイムを気にせず自由に走ろう」と決めていたので、その感覚に身を委ねました。 しかし、ペースを落としたからといって走ることが「楽」になるわけではありません。常に一歩を踏み出し続ける自分との闘いです。どんな時も、諦めずに前へ進み続けること。それが長距離を走り抜く唯一の答えです。

 


饒舌なおばあさんと、娘の巣立ち

昨日、整形外科での実習(10日間)に励む娘が、受け持った患者さんのことを話してくれました。 詳細は伏せられていましたが、70代のとてもよく喋るおばあさんで、「私が一つ言うと100返ってくるのよ」と笑っていました。娘自身もよく話す明るい性格なので、「それは良かったな!」と声をかけました。娘がその持ち前の明るさで実習を通し、多くを学び、無事に経験を積んでくれることを祈るばかりです。

あと半年もすれば、娘もいよいよ独り立ちの時を迎えます。 親としては寂しさもあるのが普通かもしれませんが、正直なところ、私は彼女が自立していくことをとても嬉しく思っています。いつまでも親元にとどまるのではなく、自分の足で人生を歩み出してほしいと願っているからです。

現在、「大人になっても親と同居している人」の現状は次のようです。総務省の国勢調査(2015年)などをひもとくと、現在日本で親と同居している40代・50代の未婚者は約340万人に上ると報告されています。30代を含めればその数はさらに膨らみます。様々な事情があるとはいえ、社会構造の変化の中で「独り立ち」が非常に難しい時代になっているのは紛れもない事実です。 そうした現代社会の現実を思うとき、我が家がこうして順調に子どもの自立を迎えられることは、決して当たり前ではなく、深く感謝すべきことだと感じています。

 


「一人の自由」から「神が結んだ奇跡」へ

私自身は、高校時代からずっと一人暮らしをしてきました。 だからこそ、誰にも縛られない「一人のほうが自由で楽だ」という感覚を、骨の髄まで知っています。一人でいることの気楽さを知る私が、こうして妻を迎え、子どもを育て、家族という共同体を持っていること。それは自分の力や計画などではなく、ただただ「奇跡」としか呼びようがありません。聖書に「神は孤独な者を家に住まわせる」(詩編68編)という言葉があります。一人で生きるほうが楽だと考えていた不器用な私に、神様は「家族」という尊い絆を与え、誰かのために食事を作り、祈り、共に生きる喜びを教えてくださいました。これは間違いなく、神様の豊かな恵みです。

闇夜の街に響く一人の足音。 しかしその帰る先には、今、私の帰りを待つ家族がいます。やがて巣立っていく娘の背中を頼もしく見つめながら、私は今日もこの恵まれた奇跡の時間を、精一杯に生きていきます。今日も頑張って30キロ完走でした。感謝。

今日も、共に前進です。

2026年9月1日火曜日

人生のペースメーカー

 


息遣いを合わせる方——人生の長距離走と、見えないペースメーカー

ランニングの大会に出場すると、風を切って走る集団の中に、風船やゼッケンをつけた「ペースメーカー」の姿を見かけることがあります。

彼らの役割は、単なる「動く時計」ではありません。苦しくなる区間で選手と並走しながらペースを微調整し、絶妙なタイミングで給水を手渡し、何よりも心が折れそうになる瞬間に「大丈夫、その調子」「ここからだよ」とメンタルを支え続ける、極めて献身的で重要な存在です。彼らが隣にいてくれるだけで、ランナーはどれほど計り知れない安心感を得ることでしょう。

 

日常の中の「給水所」

今日、私はドン・キホーテとロピアへ足を運び、両手にたっぷりと買い物を済ませてきました。これからキッチンに立ち、まな板に向かいます。新しい環境での実習に必死に食らいついている娘のため。そして、日々の仕事の重圧の中で懸命に働く妻のため。彼女たちが今日という一日を無事に走り切れるように、美味しくて温かい料理を作ります。

家族のために食事を作り、帰りを待つこと。それは、彼女たちが走るそれぞれの人生のコースにおいて、私なりの「給水」であり、無言のペーシング(励まし)なのだと思います。

 

最高のペースメーカーと共に

しかし、支える側である私たち自身が息切れし、上り坂の途中で足が止まりそうになる時はどうでしょうか。 私たちの人生という、時に孤独で過酷な長距離走には、決して私たちを見捨てない「最高のペースメーカー」が並走してくださっています。

それが、イエス・キリストです。

主は、はるか先のゴール地点から「早く来い」と腕組みをして見下ろしているような方ではありません。私たちが走る泥まみれの生活道路に自ら降り立ち、その土埃の中で、私たちの隣を走ってくださる方です。

  • 歩幅を合わせる: 私たちの心が悲しみで重く、ペースが落ちてしまう時、主は決して私たちを急かさず、その遅い歩幅に静かに合わせてくださいます。
  • 命の水を渡す: 乾ききった心には、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と、魂を潤す恵みを手渡してくださいます。
  • 絶え間ない励まし: そして、孤独に押しつぶされそうな夜には、「恐れるな、わたしが共にいる」と、呼吸を合わせながら耳元で励まし続けてくださるのです。

私たちが今日、困難な道を投げ出さずに走り続けられるのは、ご自身の命をかけて私たちの伴走者となってくださった方がいるからです。

この確かな足音が隣にある限り、私たちは何度でも顔を上げることができます。 さあ、見えない最高の伴走者の愛に包まれながら、私は目の前の家族のために、心を込めて火を灯し、料理を作りましょう。

今日も、共に前進です。

朝ラン30キロ完走

 


恵みの雨と30キロの足跡、ただ「家族だから」という愛の真理

今日から9月。新しい季節の幕開けは、午前141分の静寂の中で始まりました。

走る前のルーティンワークを静かに整え、午前3時、まだ深い暗闇の中へと駆け出します。今日は久々に、太白山の方へと向かうコースを選びました。 頭に点したヘッドライトの細い光だけを頼りに一歩一歩を重ねていると、やがて空から雨が降り始めました。それは決して冷たい障害などではなく、火照る体を優しく冷やしてくれる、非常に心地よいシャワーランとなりました。

今日から定めた新たな目標。それをしっかりと見据えながら、30キロを無事に完走しました。新しい月の始まりに降る雨は、次なるステージへの歩みを祝福してくれる恵みのようにも感じられました。

 


「いつも通り」という名の、最も尊いサポート

私がこうして新しい目標に向かって走るのと同じように、家族もまた、それぞれの道を懸命に走っています。 娘は今日も実習という学びの現場へ向かい、妻もまた自らの仕事へと出かけていきます。それぞれの場所でひたむきに頑張る姿を思うとき、私の心には深い感謝が湧き上がってきます。

彼女たちに対して、私ができることは何でしょうか。

  • 特別な魔法や、大げさなサポートがあるわけではありません。
  • いつものように車で送り迎えをすること。
  • 帰りを待って、美味しい料理を作って食卓に並べること。
  • 今日は妻を送った帰りに、ドン・キホーテとロピアに立ち寄り、日々の生活に必要なものを買い揃えること。

言葉にすれば、ごく当たり前の「日常の風景」に過ぎません。しかし、この地道な日々の支え合いの中にこそ、私たちの命を温め、前へ進む力を生み出す本質が宿っているのです。

 


ただ「家族だから」という無条件の光

なぜ、私たちは見返りを計算することなく、目の前の人のために食事を作り、車を走らせることができるのでしょうか。

「理由は、家族だからです。ただそれだけです。」

この「ただそれだけ」という思いの裏には、実はとてつもなく深い真理が隠されています。条件付きの愛(「〇〇をしてくれるから愛する」「役に立つから大切にする」)は、状況が変わればもろくも崩れ去ってしまいます。しかし、「ただ家族だから」という理由は、どんな不条理や嵐がやって来ても決して揺らぐことのない、最強の土台なのです。

聖書が教える神様の愛もまた、同じ響きを持っています。私たちが何か立派なことを成し遂げたからではなく、ただ「私の子だから」という無条件の愛で、いつも私たちを包み、日々の糧を与えてくださっています。

 


目の前の人を、ただ大切に生きる

どこか遠くに、特別な意味を探し求める必要はありません。今日、目の前にいる家族を大事にして生きる。美味しいご飯を作り、買い物をし、「いってらっしゃい」と背中を見送る。その繰り返される小さな営みこそが、最も確かな希望の形です。

9月の雨の朝、30キロの道のりを真っ直ぐに照らしたヘッドライトのように。 今日も、自分の手の届く範囲の日常を、愛をもって温かく照らしながら歩みましょう。

今日も、共に前進です。