デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月3日金曜日

元々我々は複雑な人間です。

 


掌の土器が記憶を温める。複雑な私たちがたどり着くシンプルな祈り

いつものように、土器のカップに温かいコーヒーを注ぎます。両手に伝わる土の素朴な質感と、そこから静かに立ち上る湯気の香り。

このお気に入りのカップは、9年前に御坊の地を離れる際、幼稚園と牧師館を設計してくださった方からプレゼントとして頂いたものです。 御坊を離れてすでに9年という月日が流れていますが、いまだにその方のことを忘れることはありません。なぜなら、このカップを手にするたび、確かな手触りとともにその方の温かな眼差しや言葉が蘇ってくるからです。言葉を発しないひとつの「物」が、人と人との間柄を繋ぎ、大切な思いをこれほどまでに長く保ち続けさせてくれるのです。

 


人の繋がりの脆さと、私たちの複雑さ

物がこれほどまでに記憶を留め、思いを繋いでくれるのなら。本来、「人」が繋いでくれた人間同士の間柄は、もっと長く、深く、そして力強く持ち続けられるべきではないでしょうか。

しかし現実は、その願いとは裏腹であることに気づかされます。

  • あっけなく短く終わってしまう縁
  • いつの間にか浅く、表面的なものになってしまう関係
  • ふとしたすれ違いで、無惨に壊れてしまう絆

関係がほころぶとき、私たちは時折「あの人が悪い」「自分が至らなかった」と裁き合ってしまいます。しかし、根底にある理由は「人が悪い」からではありません。人間という存在そのものが、決して単純ではないからです。私たちは皆、限りなく複雑で、扱いが難しく、時には自分自身でも持て余すほど厄介で、容易には理解しがたい存在なのです。

 


土の器が求める、澄み切った願い

複雑な人間だからこそ、私たちは心の奥底で「シンプルな人生」を強く求めてしまうのかもしれません。(反対に、シンプルな存在は、あえて複雑な生き方をしたがるものなのかもしれませんね。)

聖書には、創造主である神様が、私たち人間の脆さや複雑さをあらかじめ知っておられるという言葉があります。

「主は、私たちがどのように造られているかを知り、私たちがちりであることを覚えておられる。」(詩篇 103:14

私が毎日コーヒーを飲んでいるこのカップが土から造られたように、私たち人間もまた、傷つきやすく複雑な「土の器」です。感情の糸がもつれ、人間関係の難しさにため息をつき、自分自身の厄介さに疲れてしまう。それが人間という存在のリアルな姿です。

しかし、どれほど人生が複雑な迷路のように思えたとしても、私たちが魂の底で求めているものは、実はとても澄み切っています。 それは、「幸せに生きること」。ただそれだけなのです。

 


複雑なまま、シンプルな幸せを祈る

自分の複雑さを否定する必要はありません。他者の厄介さに絶望しきる必要もありません。もつれた糸を無理に解こうとするのではなく、温かいコーヒーで心をほどくように、「ただ幸せでありたい」というシンプルな願いに立ち返るだけでいいのです。

思い通りにならない複雑な人間関係のただ中にあっても、私たちの中にある「幸せに生きたい」というシンプルな光は、決して消えることはありません。その光を見つめながら、今日という一日を大切に味わって歩んでいきましょう。

これからノアと散歩に出かけます。 帰ってきたらゴミを出して、少しだけ二度寝の時間。

そして――明日は走らないと・・・

今日も、共に前進です。

聞く耳を持っていますか?

 


握りしめた「自分の正しさ」をそっと置く勇気と、平和を紡ぐ静かな耳

日々の生活の中で、私たちはどれほどの「声」を浴びているでしょうか。 画面の向こうから流れてくる政治の世界の激しい議論や、現代のSNSで日常的に燃え上がる炎上の話題。そこには熱を帯びた言葉が飛び交っていますが、その多くは、相手の本当の意見や心の本意に耳を傾けることなく、自らの考えや判断のみで一方的に発信されているように感じます。そんな喧騒に触れるたび、人間の内にある根深い性質について、深く考えさせられるのです。

 


経験とエゴが作り出す「心の壁」

私たち人間は、どうしても自分の考えや、過去の経験、そして自らのエゴを中心に物事を量り、判断してしまう傾向があります。

  • 自分がこれまで培ってきた信念
  • 自分が正しいと信じて疑わない経験則
  • 傷つきたくない、自分を守りたいというエゴ

これらを一旦手放し、他者に譲ることは、言葉で言うほど簡単なことではありません。自分の正しさを主張している時、人は無意識のうちに心に高い壁を築き、相手の言葉を弾き返してしまっているのです。しかし、自分の枠組みの中だけで相手を裁き、理解しようとする歩み寄りを放棄してしまえば、この世界が変わることは決してありません。それどころか、最も身近で大切な存在である「家族」の間にさえ、本当の意味での平和をもたらすことはできないのです。

 


「聞く耳」という愛の余白

聖書には、人との関わりにおいて最も大切な、このような真理の言葉が記されています。

「だれでも、聞くのに早く、語るのに遅く、また怒るのに遅くありなさい。」(ヤコブの手紙 1:19)平和を築くための第一歩は、誰かを論破することでも、自分の正しさを証明することでもありません。握りしめている「自分の考え方」という荷物を、一度自分の横にそっと置くこと。そして、目の前にいる人の言葉に対して、まず「聞く耳」を持つ勇気を持つことです。相手の言葉に静かに耳を傾ける行為は、自分の心の中に「相手を受け入れるためのスペース(余白)」を作るという、とても尊い愛の実践です。

 


勇気をもって、相手の言葉に耳を澄ます

今日、あなたの目の前にいる人は、どんな言葉を語るでしょうか。 もし意見が食い違ったり、理解しがたいと感じたりした時こそ、深呼吸をして、自分の正しさをほんの少しだけ脇に置いてみてください。相手を完全に理解することは難しくとも、「理解しようと耳を傾ける姿勢」そのものが、冷たい関係に温かい温度を灯し、小さな平和の種となります。聞く勇気を持ったその静かな一歩が、分断された世界や、すれ違う家族の心に、確かな希望の橋を架けていくのです。

今日も、共に前進です。

生きる力はどこから?

 


甘いシロップの記憶と、不条理な世界で愛を灯し続けること

妻を車で送っている最中、娘から弾むような連絡が入りました。 「終わった、帰る!はらへり🚁!」 「食べたいものは?」と返すと、「スタバティ!」という元気な文字が躍ります。そのまま駅で待ち合わせをして、娘を車に乗せてスターバックスへと向かいました。娘はいつも、買ったものを「一口飲んでみて」と私に差し出します。今日は特別にカスタマイズをお願いしたそうで、シロップを多めにいれてもらったとのこと。一口含むと、口いっぱいに広がる強い甘み。 「甘い!美味しいよ!」と感想を伝えると、彼女は嬉しそうに笑いました。来週から、あちこち場所を変えながらの忙しい在宅実習が始まると言います。「今週も4回バイトをしたから、ご褒美で美味しいものを食べるの」と語るその横顔には、ささやかな達成感が滲んでいました。

 


小さな反応がもたらす「生きる力」

帰宅してからは、夕食用に下味をつけておいた鶏肉を焼いてあげました。 ここでも娘は、「美味しい!」と弾むような声を上げます。

  • 「美味しい!」
  • 「ありがとう!」

彼女の素晴らしいところは、何かをしてもらったときに、すぐさま豊かな反応を示し、感謝の言葉を口にできることです。父親として、それは本当に「いいことだ」と心から思います。私たちが日々を歩むための「生きる力」は、こうした日ごろの小さな営みや、何気ない出来事をどう受け止めるかにかかっています。少し考え方の角度を変えるだけで、人生の景色は楽しくもなり、逆につらくもなるものです。

 


この世の力だけで完結する寂しさ

目の前にある小さな喜びに目を向け、前向きに考える力。それは間違いなく「この世で生きるための力」です。多くの人は、その力だけで十分に生きていけると考え、実際に懸命に頑張って、笑顔で生き抜いています。私は、それはそれで素晴らしいことだと願っています。しかし、もう少し深く心の淵を覗き込んでみると、「この世の力だけで完結する人生」に、拭いきれない寂しさを覚える人がいるのも事実です。私も、その一人です。

私たちの生きるこの世界は、時として凍りつくような不条理を見せつけます。 一生懸命に働き、あらゆる困難を乗り越えてようやく成功の入り口に立った途端、がんの告知を受け、わずか3ヶ月でこの世を去ってしまった人がいます。 異国の地で昼夜を問わずアルバイトをして学費を稼ぎ、血のにじむような苦労の末に博士号を取得。大学での席も約束され、希望に胸を膨らませて帰国するはずだった飛行機が墜落し、帰らぬ人となった人もいます。真面目に働き、苦労を重ね、誠実に生きた人が、必ずしもこの世の基準で報われるとは限らない。それが、私たちの直面する現実です。

 


諦めずに、愛し続けるという真実

では、すべては無駄なのでしょうか。 そうではありません。理不尽な暗闇が口を開けているような世界であっても、私たちは「それでも」と信じて生きるのです。

見返りや結果のためではなく、ただ自分の信じた道を歩み続けること。 家族を愛し続けること。 諦めずに愛し続けること。 悔いのないように愛し続けること。

シロップ多めの甘い飲み物を分け合い、「美味しい」と笑い合う今日のこの瞬間を、全身全霊で愛し抜くこと。命の期限や不条理な出来事は誰にもコントロールできませんが、「今日、誰かを愛する」という選択は、私たちに委ねられた確かな希望の光です。

今日も、明日も、そして次の日も。 私たちは小さな愛を灯し続けながら、歩みを重ねていきます。

今日も、共に前進です。

人は希望によって生きる

 


何気ない日常の尊さと、絶望のトンネルに射し込む「真の希望」

「パパ、行きだけを送ってくれる?」

そんな娘の言葉に応え、結局今日も駅まで見送ることから第二の朝(?)が始まりました。今日は少し早く帰ってくるそうです。

 


平和な時間と、地球の裏側の現実

午前中の静かな時間は、やるべきことを一つひとつ整えながら過ごしました。夕食の準備として鶏むね肉の仕込みも終え、あとは火を入れて焼くだけの状態に。お昼には妻を車で送り届け、私の心には穏やかな凪のような時間が流れていました。 それは、本当に何気ない、言ってみれば「平和な時間」そのものです。

しかし、ふと見えない遠くへと思いを馳せるとき、同じ地球という空間の裏側にある痛ましい現実に心が引き締まります。

  • 戦争のさなかで、いつ命が奪われるかわからない過酷な状況を生き抜いている人々。
  • ベネズエラの大地震で家族の安否がわからず、悲しみと焦りの中で懸命に捜索活動を続けている人々。

私が今日働き、家族が温かいご飯を食べ、養われていること。私たちが当たり前のように享受しているこの日常は、決して当然のものではなく、奇跡のような恵みの上に成り立っているのだと深く思わされます。この恵まれた時に、心からの感謝を捧げて生きることがどれほど大切でしょうか。

 


感謝の源泉にある「本当の強さ」

すべてが順調で、恵まれた状況の中で感謝の言葉を口にすることは、誰にでもできることです。しかし、真に問われるのは、状況が暗転し、感謝の理由など一つも見出せないような時の私たちの在り方です。

感謝できないような厳しい状況の中でも、心から感謝することができる。それこそが、キリスト者として生きる真髄です。それは、人間の無理なポジティブ思考や精神論によるものではありません。命の源である主なる神様に対する「信仰」が根底になければ、決してできないことです。

なぜなら、神様を信じる者には、状況に決して左右されない「真の希望」が与えられているからです。 その希望は、どんな暴風雨の中でも魂を繋ぎ止める、見えないけれど強靭な錨のようなものです。揺るがない希望があるからこそ、人はどんな場合でも、どんな時にも感謝して生き抜くことができる。これこそが、人間の持つ「本当の強さ」なのだと確信しています。

 


暗闇の中で光を待つあなたへ

今、この文章を読んでくださっている方の中にも、深い落胆の中にいる方、挫折してなかなか立ち上がれないでいる方がいるかもしれません。まるで真っ黒なトンネルの中に閉じ込められ、手探りで必死に光を求めているような、そんな痛みを抱えている人もいるでしょう。あなたのその暗闇のただ中に、命の源からの「真の希望」の光が静かに、しかし力強く射し込むことを心から祈り願っています。どうか、絶望と思えるその場所から、あなたが再び希望の温もりを知り、力強く立ち上がることができますように。

今日も、共に前進です。

部屋の模様替え3時間

 


雨音の静寂と、心に青空を広げる朝の整頓

午前3時半。まだ深い暗闇に包まれた世界に響くのは、降りしきる雨の音でした。 雨など気にすることなく歩き出そうとするノアと共に外へ出たものの、やはり小雨とは呼べない雨足に、途中で引き返すことになりました。 家に戻る頃には、帽子も服もすっかり濡れて重くなっていました。

「このままシャワーランに出かけたら、きっと気持ちが良いだろう」。 そんな誘惑がふと頭をよぎりましたが、今日はその衝動を静かに手放し、大人しく休む選択をしました。

 


空間のホコリを払い、心を磨く

走ることを休んだ分、私が向かったのは自分自身の住まう空間です。 半年に1度ほど行っている、部屋の模様替えに取り掛かりました。 家具を動かし、普段は手の届かない場所に溜まっていたホコリをきれいに払い落とし、部屋全体を整えていく。その作業に、じっくりと約3時間を費やしました。

不思議なもので、目に見える空間の乱れが整い、空気が澄んでいくにつれて、雨に濡れた不快感や重たかった気分までもが、すっきりと晴れ渡っていくのを感じました。

その後も、私の朝の務めは続きます。

  • 会堂の除湿器の水タンクを空にする
  • 階段を掃き清める
  • ノアに朝ごはんを用意する
  • 洗濯をする

今、ようやくそれらを終えて、静かな一休みの時間を迎えています。 まるで専業主婦のような働きに思えるかもしれませんが、これらは普段から仕事をしながら重ねている、私にとっての大切なルーティンワークなのです。

 

変えられない空模様と、変えられる心模様

窓の外は雨曇り。じめじめとしていて、決して心地よい天気とは言えません。 私たちは生きている中で、時として自分ではどうすることもできない「外側の環境」に対して、思い悩み、心をすり減らしてしまいがちです。しかし、降る雨を止めることは誰にもできません。聖書には、このような言葉があります。

「何を見守るよりも、自分の心を見守れ。いのちの泉はここから湧き出るからである。」(箴言 4:23

私たちが注力すべきは、変えることができないものに心を使うことではなく、変えることができる「自分の心」を晴れ晴れとさせることです。 部屋のホコリを払い、空間を整える3時間の作業は、まさに自分自身の内側を整え、心の空を晴らすための静かで神聖なプロセスでした。

 

これは妻からの娘へのメッセージ


甘い香りと共に、今日を生きる

今日、娘は学校が2限からということで、駅までの送迎はありません。 このあと少し仕事に向かい、洗い上がった洗濯物を干して、朝食にはフレンチトーストを作る予定です。

早朝のバイトを終えて帰って来る妻のために・・・

自分はあまり好きではないので、食べませんが・・・

二人はフレンチトーストが好きですね。

外の天気がどれほどじめじめとしていても、部屋の中にはまもなく、甘く温かい香りが漂うことでしょう。 外の環境は変えられなくとも、私たちの内なる空は、自分の手でいくらでも晴らすことができます。変えられない現実に嘆くのではなく、整えられた心で、今日というかけがえのない一日を力強く生きていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年7月2日木曜日

もう少し寛容な心を、自分のために

 


ざわめく車内と沈黙の波紋――私たちが「他者」を意識して生きる理由

夕方、雨が続く中、駅まで娘を迎えに車を走らせました。密室である車内は、外の喧騒から切り離された穏やかな空間です。そこで、今日一日を終えたばかりの娘と、少し深い話をしました。

 


車の中で聞いた、ある車内の風景

話題は、娘が帰りの電車の中で直面した出来事でした。

隣の席に無造作に荷物を置き、スマートフォンの音を鳴らしたままゲームに興じていた二人の若者。そして、その前に立ち、彼らの振る舞いを嫌悪と非難の入り混じった視線で見つめていた人々。直接的な口論があったわけではありません。しかし、その車両には間違いなく「不愉快」という重たい空気が渦巻いていたことでしょう。娘の話を聞きながら、私は人間という存在の不思議さと、その厄介さについて深く思いを巡らせました。

 


「ありのまま」を受け入れることの難しさ

人を不愉快にさせる行為、言葉、そして印象。私たちはなぜ、他者の振る舞いにこれほどまでに心をかき乱されるのでしょうか。

  • 他者を「それぞれの個性」として受け入れられず、すぐに批判してしまう心理。
  • 直接自分に関わることでもないのに、相手の服装や見た目だけで不愉快に感じ、非難してしまう危うさ。

もし私たちが、目の前で起きるすべてをありのままに受け入れ、「そういうものだ」と通り過ぎることができたなら、人間関係のトラブルは大いに減るはずです。若者たちの振る舞いも、ただ「無視」してしまえば、心に波風を立てずに済むのかもしれません。

 


無視できないのは、私たちが「繋がって」生きているから

しかし、私たちは完全に無関心になることはできません。

なぜなら、人間は、周囲の状況を常に意識し、環境の変化を敏感に感じ取りながら生きています。 それは、自分を守り、危険を避けるために備わった、本能的な生き物の姿なのかもしれません。私たちは孤立したカプセルの中で生きているのではなく、同じ空間の「温度」や「空気」を共有して呼吸しています。だからこそ、和を乱す音や配慮の欠如に対して、本能的に摩擦を感じてしまうのです。

この「他者を意識してしまう」という性質は、時に私たちを苦しめ、苛立たせます。しかし見方を変えれば、それこそが私たちが「他者を思いやる」ことができる根源でもあるのです。不快感の裏側には、「もっと互いを尊重し合えるはずだ」という、人間への密かな期待が隠されているのではないでしょうか。

 


摩擦の先にある「寛容」という光

聖書に、このような言葉が記されています。

「互いに忍び合い、だれかに不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。」(コロサイの信徒への手紙 313節)

ここで求められているのは、不快な現実から目を背ける「無視」ではありません。他者の不完全さ、そして自分自身の未熟さを痛いほど認識した上で、それでもなお、その摩擦を引き受けようとする「寛容」という積極的な意志です。

すべてを自分の理想通りにコントロールすることはできません。しかし、波立った自分の心をどう鎮め、どのようなまなざしをこの不完全な世界に向けるかは、私たちが選ぶことができます。

 

車を降りると、夜の帳が下りた街に、家々の明かりが優しく灯り始めていました。一人ひとりが異なる事情を抱えながら、それでもこの同じ時代、同じ空間を共に生きています。その事実に静かな祈りを込めながら、また新しい一日への階段を上っていきたいと願います。娘は今から近くバイト先へ。

今日も、共に前進です。

チヂミを作りながら歴史を考える

 


太陽の下、古き道を歩む――私たちが過去の偉大な魂に惹かれる理由

7月の湿気を帯びた空気を肌に感じながら――と言いたいところですが、今日は雨のため走り出すことはありませんでした。 その代わり、窓越しに降り続く雨音を聞きながら、いつもならアスファルトを蹴って響くはずの自分の足音を、心の中でそっと思い描いていました。走る日は、規則的なリズムが私を前へと運び、人間の営みもまた同じ場所を静かに巡り続けているのではないかと感じることがあります。 今日は身体を動かさない分、ゆっくりと流れる時間の中で、歴史という大きなうねりに思いを馳せました。 雨に濡れた街の静けさが、その思索をさらに深いところへ導いてくれたように思います。

 


現代の学問と、失われた「黄金時代」への問い

今の社会や学問を見渡すと、最先端のAIやテクノロジー分野を除けば、その多くが過去の偉大な思想家、哲人、神学者、芸術家の作品を学ぶことに費やされています。ここで一つの大きな疑問が湧き上がります。

  • なぜ、かつてのように歴史を揺るがすような新たな発見や思想、芸術が、現代においてはそれほど注目を浴びないのでしょうか。
  • もちろん現代にも素晴らしい作品は生まれていますが、文化が百花繚乱のごとく咲き誇った昔の時代に比べると、ほんのわずかな割合にすぎないのではないか。

時代はただ、クルクルと同じ円を描いて回っているだけだからでしょうか。この問いは、現代を生きる私たちの現在地を浮き彫りにする、非常に重要な視点です。

 


「いかに(How)」の時代と、「なぜ(Why)」の深み

深く思いを巡らせると、一つの答えの輪郭が見えてきます。それは、私たちが「情報」や「技術」には満たされている一方で、「魂の根源的な問い」に強く飢えているからではないか、ということです。

過去の偉人たちは、今よりもずっと不便で、静寂に包まれた時間の中で、人間の存在意義や神との関係、生と死について、文字通り命を削って深く掘り下げました。

一方、現代はあまりにもノイズが多く、変化のスピードが速すぎます。私たちは「いかに効率よく生きるか(How)」の技術は手に入れましたが、立ち止まって「なぜ生きるか(Why)」という深い井戸を掘る時間を失ってしまったのかもしれません。

だからこそ私たちは、過去の偉大な魂が遺した「深く澄んだ井戸の水」を求め、古典や歴史に立ち返るのです。それは決して退行や行き詰まりではありません。目まぐるしい現代社会の中で見失いそうになる「自分の根源」へと繋がる命綱を、しっかりと握り直すための大切な作業なのです。

 


普遍的な真理への昇華

聖書に、このような言葉が記されています。

「四つ辻に立って見渡し、昔からの道に問いかけてみよ。どれが幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを見いだせ。」(エレミヤ書 616節)

時代がどれほど移り変わり、テクノロジーが進歩しても、人間の悲しみや喜び、孤独や愛の形、そして魂が求めるものは驚くほど変わりません。

時代がクルクルと巡っているように見えるのは、人間が抱える本質的な課題が常に同じだからです。しかし、それは絶望ではありません。「すでに先人たちが、私たちが歩むべき『良い道』を切り拓き、道標を立ててくれている」という力強い希望のメッセージなのです。

 


前進への派遣

私たちは、無理に「誰も見たことのない全く新しいもの」をゼロから生み出す必要はないのかもしれません。大切なのは、過去の偉大な魂たちと対話しながら、その古き良き知恵を現代のこの場所に、そして自分自身の日常にどう翻訳し、どう生きるかということです。先人たちの思想や芸術という光を胸に宿すことで、私たちの平凡な日常もまた、豊かな芸術へと変わっていきます。古い道に立ち返り、そこから得た確かな温度を足元に感じながら、また新しい一日への階段を一段ずつ上っていく。

今日も、共に前進です。

*こういう雨の日は、チヂミを作って食べるのが一番です。今日はキムチチヂミを作りました。

雨の日の物語

 


窓を打つ雨音と、それぞれの居場所──離れた場所で同じ「今日」を生きる

今日は、静かな雨の日です。 空から降り注ぐ無数のしずくが、街の輪郭をぼやかし、日常の喧騒を優しく洗い流してくれています。

私にとって、今日は足を止めて「休む日」です。 部屋の片隅では、ノアが心地よさそうに、穏やかな寝息を立てて眠っています。雨の日の特権とも言える、この静寂と停滞の時間を、私たちはただ静かに味わっています。

 


ひとつの屋根から、別々の空の下へ

しかし、家の中が静寂に包まれている一方で、家族全員が休息のなかにいるわけではありません。

  • 娘は、夕方アルバイトの日。 雨の降る外の世界へと足を踏み出し、社会の中で自分の時間と労力を使い、役割を果たしています。
  • 妻は、整形外科のリハビリテーションに通う日。 自身の身体と向き合い、痛みを越えて本来の機能を取り戻すための、地道な回復の道を歩んでいます。

休む者。働く者。癒やしに向かう者。そして、ただ無心に眠るノア。 私たちは同じ家族でありながら、今日という一日において、まったく違う風景を見て、まったく違う温度の空気を吸っています。

 


「それぞれの場」で命を灯すということ

ふと、雨粒が窓を伝い落ちるのを見つめながら考えました。 家族とは、常に同じ場所で同じ行動をしているから家族なのではないのだと。それぞれが別々の場所で、自分に与えられた「今日」という課題に誠実に向き合っている。その見えない繋がりこそが、家族という共同体の本当の強さなのです。聖書のなかで、人間の共同体はしばしば「ひとつの体」に例えられます。「もし全身が目であったら、どこで聞くのか。もし全身が耳であったら、どこで嗅ぐのか。そこで神は、御旨のままに、肢体をそれぞれ、からだに備えられたのである。」 (コリント人への第一の手紙 1217-18節)

動く手があり、休む内臓があり、回復を待つ細胞があるように。 私たちが今、それぞれ違う場所にいて、違う時間を過ごしているのは、決してバラバラになっているからではありません。神様が今日、私たち一人ひとりに最もふさわしい「生きる場」を備えてくださったからです。

 


離れていても、同じ恵みの雨に打たれて

自分の力で社会に立つ娘のたくましさも、身体の回復に努める妻の忍耐も、そして今、静かに休むことを許された私の余白も、すべてはひとつの命の営みとして繋がっています。

窓の外に降る雨は、大地を等しく潤します。 娘の働く場所にも、妻の通う病院の屋根にも、そして私が休むこの家にも、同じ恵みの雨が降り注いでいます。

自分が今いる「それぞれの場」を愛し、そこで精一杯に今日を生きること。 離れた場所にいる家族を心の中で思いやり、無事な帰りを静かに待つこと。それもまた、立派な愛の形であり、前への確かな歩みです。

雨の日は、それぞれの場所で頑張る命の根っこに、静かに水を注いでくれます。 それぞれが今日という日を全うし、またこの温かい家に帰ってくる時を待ち望みながら。

今日も、共に前進です。

過去・現在・未来

 


夜が道を譲る朝に──「今」という奇跡を繋ぐための哲学

72日、木曜日。 新しい一日がやってきました。ノアとの散歩を終えてから、ふと「時間」というものの不思議な法則に思いを馳せます。

新しい一日は、ただ唐突に空から降ってくるわけではありません。前日である「昨日」が静かに退き、席を譲ってくれたからこそ、今日という新しい時間がそこに入り込むことができるのです。

 


過去と未来の狭間にある「現在」の運命

過去と未来の狭間に、私たちが立っている確かな「現在」が存在しています。 しかし、その現在もまた、永遠にその場所に留まることは許されません。やがて時が来れば過去へと場を譲り、静かに退かなければならない。それが、人間には決して抗うことのできない宇宙の厳粛な秩序です。

ここで、私たちに突きつけられる一つの大きな問いがあります。 それは、「過去・現在・未来という3つの時間を、どううまく繋ぎ合わせて生きるか」ということです。

 


置き去りにされる「今日」という真実

静かに人間の営みを見つめてみると、そこにはひどく悲しい矛盾が隠されていることに気づきます。多くの人は、すでに手放したはずの「過去」をいつまでも悔やみ、まだ影も形もない「未来」の夢や不安にばかり心を奪われています。 過去に縛られ、未来だけを見つめて生きる。その結果、どうなるでしょうか。

私たちが唯一、息をし、温度を感じ、行動を起こすことができる「現在」という最も重要な時間が、きれいに無視されてしまうのです。 現在を生きる者が、現在を抜きにして生きようとする。人間とは、なんと愚かで、不器用な生き物なのでしょうか。

 


愚かさを手放し、現在の大地に立つ

この「現在を無視する」という人間の愚かさは、私たちの命から輝きを奪う最大の落とし穴です。聖書において、神様は「わたしは『ある』という者である(I AM WHO I AM)」(出エジプト記3:14)と名乗られました。神様からの恵みも、人を愛する喜びも、すべては「今、ここ」という現在においてしか受け取ることはできません。 過去の幻影に囚われ、未来の蜃気楼に怯えている間、今日という豊かな命の時間は、指の間からこぼれ落ちてしまいます。過去を切り捨てるのではありません。未来を諦めるのでもありません。 過去の痛みを「教訓」としてそっと抱きとめ、未来への希望を「道しるべ」として見上げながら、その両足をしっかりと「現在」という大地に踏みしめること。 それこそが、バラバラになりがちな時間を正しく繋ぎ合わせる、唯一の生き方なのです。

昨日が退いてくれたからこそ与えられた、真新しい今日。 見えない時間に心を奪われる愚かさを静かに手放し、目の前にある「現在」の空気を胸いっぱいに吸い込みましょう。与えられた今日という一日だけに集中し、ただ誠実に生き抜くのです。

今日も、共に前進です。

今から少し二度寝の時間です。

2026年7月1日水曜日

今日もまたマーボー豆腐

 


三十年変わらないレシピと、命を味わう余白──効率化の時代に「食べる」を問う

夕食の食卓に、湯気を立てるマーボー豆腐が並びました。 これで三日連続のマーボー豆腐です。ふと自分の身体に意識を向けると、まだどこかに拭いきれない「歯の違和感」が居座っています。明日で処方箋の薬も無くなってしまいますが、焦っても仕方がありません。とりあえず、今週いっぱいまでは自分の身体の様子を静かに待つことにしました。

思うようにいかない身体の揺らぎを抱えながら、スプーンで掬うマーボー豆腐。 実はこの一皿には、私が三十年間守り続けている作り方があります。

 


寮生活の記憶と、食べるという生存本能

このレシピの始まりは、昔、大学の寮生活時代にまで遡ります。 当時の私は若く、あり余るエネルギーを抱えていました。自分で作ったフライパンいっぱいのマーボー豆腐を、あっという間に平らげてしまった日のことを、今でも鮮明に覚えています。

三十年という歳月が流れ、食べる量も身体の強さもすっかり変わりました。 それでも、フライパンの底でふつふつと香り立つ市販ソースの匂いは、あの日の記憶をそっと呼び起こします。今の私が作るマーボー豆腐は、卵を2つ落とし、溶けるチーズを2枚加え、粉唐辛子で少しだけ刺激を添えた、やわらかく食べやすい一皿です。 噛むことが難しい状態が続く中で、こうした工夫をしながら栄養を摂ることの大切さを、身体の「違和感」や薬の存在が静かに教えてくれます。生き物はすべて、食べなければ命を繋ぐことができません。 その冷徹な自然の掟の中で、今日も私はフライパンを温め、ゆっくりと自分のペースで食事を整えています。

 


「生存」から「文化」へ、そして「効率」へ

しかし、人間という生き物はどこか特別です。 他の動物たちが「ただ生き延びるため」だけに餌を口にするのに対し、人間だけは、いつしか食べる行為に意味を見出し、一つの「文化」として、時には美しい「芸術」として昇華させてきました。

器を選び、旬の命を愛たい、火の通り具合に祈りを込める。 それは一体、いつ頃から始まったのでしょうか。おそらく人間が、食事の時間を単なる「栄養補給」ではなく、神様が与えてくださった自然の恵みに感謝し、大切な人と心を通わせる「喜びの儀式」だと気づいた時からでしょう。

 


ところが、現代の風景を見渡すと、不思議な逆転現象が起きています。

かつて人々が多くの時間を費やし、愛しんできた「食べる(作る)」という行為は、今やできるだけ時間をかけずに済ませるべきタスクになりつつあります。 「時短」「簡単」「三分でできる」。そうした料理がもてはやされ、求められる時代になりました。忙しすぎる現代社会において、それは生きていくための必然の知恵かもしれません。しかし、効率化の波の中で、私たちが手放してしまった「時間」の中には、本当はとても大切なものが隠されていたのではないでしょうか。

 


命のペースを取り戻すための食卓

聖書の中で、イエス・キリストは人々と共に多くの食事の席に着きました。 効率を重んじるなら、食べ物など一瞬で胃袋を満たせば済むはずですが、彼はあえて時間をかけ、パンを裂き、杯を分け合い、人々と食卓を囲むプロセスを大切にされました。

時間をかけて料理を作り、それをゆっくりと味わうこと。 それは、「私は機械ではなく、神に生かされている血の通った人間である」ということを思い出すための、静かな抵抗であり、祈りでもあります。

 


三日連続のマーボー豆腐。 三十年前と同じ手順で豆腐を切り、火を入れ、とろみをつける。その変わらない手作業の時間が、身体に違和感を抱える今の私に、「焦らなくていい」「命のペースで進めばいい」と、優しく語りかけてくれる気がします。

世の中のスピードがどれほど速くなっても、自分の命を養うための時間は、決して無駄な時間ではありません。 薬が切れる不安や、思い通りにならない身体の痛み。そうした自分の弱さを受け入れながら、今日与えられた温かい一皿を、丁寧に身体へと取り込んでいく。明日もまた、変わらないレシピで命を繋ぎましょう。

今日も、共に前進です。