痛みは、眠りこけた世界を呼び覚ます「神のメガホン」である
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15章34節)
1. 善なる神が「痛み」を許される矛盾
もし神が全能であり、かつ善であるならば、なぜこの世界から苦しみを取り除かないのか? これは、論理的な思考を持つ者が必ずぶつかる壁です。
C.S.ルイスはこう答えました。「神は、私たちが快楽の中にいるときにはささやき、良心の中にいるときには語りかけ、苦しみの中にいるときには大声で叫ばれる。痛みとは、眠りこけている世界を呼び覚ますための神のメガホン(拡声器)である」と。
私たちは順風満帆なとき、自分だけで生きているという錯覚(自我欲)に陥ります。しかし、激しい痛みや絶望に直面したとき、初めて「自分には自分以上の存在が必要だ」という事実に気づかされるのです。
2. 「親切」と「愛」の決定的な違い
私たちはしばしば、神様に対して「おじいちゃんのような親切」を期待します。ただニコニコして、私たちがやりたいようにさせてくれる安易な優しさです。
しかし、聖書が語る神の愛は、もっと峻烈で、もっと深いものです。 ルイスは、神を**「彫刻家」**に例えました。
彫刻家は、ただの石ころを愛しているわけではありません。彼はその石の中に「最高の完成像」を見ています。だからこそ、ノミを使い、激しく石を打ち、余計な部分を削り落とすのです。
石にとっては、ノミで打たれるのは痛みでしかありません。しかし、彫刻家にとっては、それは「愛の極致」です。神様は、私たちが今の不完全なままの姿で安住することを許さないほどに、私たちを深く愛しておられる。その愛が、時に「痛み」という形をとって現れるのです。
3. 神が「共に苦しむ」という究極の回答
論理的に「痛みの意味」を理解したとしても、なお心の傷は疼きます。そこで最後に提示されるのが、十字架の論理です。
神は、天上の安全地帯からメガホンで叫ぶだけではありませんでした。 神は自ら、そのメガホンの「叫びの渦中」へと飛び込まれました。 「わが神、なぜ私を見捨てたのですか」と叫ばれたキリストは、人間が味わうあらゆる不条理、裏切り、絶望の全データを、自らの肉体に書き込まれました。
結論: キリスト教が提示する希望は、「苦しみからの脱出」ではありません。 どんなに深い暗闇に落ちても、そこに**「先回りして、すでに苦しみを経験した神」**が待っておられるという、圧倒的な事実です。

