デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年6月21日日曜日

雨雨雨の中の、雨の二日目の日

 


真夜中の雨と、13年の足跡 ── 祈りに包まれた足元

◆ 23時過ぎの静寂と、優先される命

昨夜、時計の針が23時を回った頃。激しかった雨が少しだけ弱まったその隙間を縫って、ノアと共に夜の闇の中へ歩み出しました。

雨の日の、この夜遅くの散歩。実は我が家では、決して珍しい光景ではありません。自分の睡眠時間を削ってでも、ノアのことが気にかかるのです。

  • 雨の切れ間を待つ、静かな忍耐
  • 眠りよりも優先される、小さな命への責任
  • 「これで13年間も一緒にやってきたのだから、大丈夫」という確かな絆

冷たいアスファルトを踏みしめながら、リード越しに伝わるノアの息遣いを感じる時、

そこには不思議な安らぎがあります。そうして夜の空気を吸い込んでいるうちに、静かに日付が変わり、新しい一日が始まりました。

 


復活の朝と、降りしきる大雨

日曜日。キリスト教では「主の日」と呼ぶ特別な一日です。イエス・キリストが死の暗闇から復活なさったのが日曜日であったことから、その名が付けられています。

しかし、今日の「主の日」は、恵みの光が差し込むような空模様ではなく、朝から大雨の予報です。それでも、心の中には「これも良し」と受け止める静けさがあります。雨には雨の日の、神様の御心があるからです。

ただ一つ、深く案じられることがありました。それは、激しい雨の中を教会へ足を運ばれる方々のことです。

 


「心の問題」では片付けられない現実

「足元が悪くなる中を礼拝に集うのは、信仰という心の問題だろうか?」

ふとそんな問いが頭をよぎりました。確かに、困難を乗り越えて集う心は尊いものです。しかし、教会に集うお年寄りの方々の顔を思い浮かべた時、決して「心の問題」だけで片付けてはいけないという強い思いが湧き上がってきました。

ご高齢の方にとって、雨で滑りやすくなった道や、水溜りを避けて歩くことは、晴れの日とは比べ物にならないほどの身体的な負担と危険を伴います。精神論で覆い隠してはいけない、切実な「肉体の現実」がそこにはあるのです。

 


守り手は、まどろむことがない

聖書の中に、このような詩編の言葉があります。

「主はあなたの足を滑らせることをお許しにならない。あなたを守る方はまどろむことがない。」(詩編 121:3

昨夜、私が自身の眠りよりもノアの散歩を優先し、その歩みを13年間見守り続けてきたように。神様もまた、まどろむことなく私たちの歩みを見つめ、雨の日の滑りやすい足元を案じてくださっているはずです。

 


大雨の主の日。私はただ、ひたすらに祈ります。 どうか、今日その道を歩む一人ひとりの足元が、確かな御手によって守られますようにと。

雨の冷たさを知っているからこそ、私たちは互いの弱さに寄り添い、祈り合うことができます。そろそろ二度寝をしないといけませんね……

気づけば、もう023分を過ぎていました。

今日も、共に前進です。

2026年6月20日土曜日

キムチチジミ

 


恵みの雨音と、約束を待つ時間 ──祈りが紡ぐ静かな午後

重たい空気と、身軽になるための儀式

じっとりとした湿気が空気を重くするこの梅雨の季節。心地よい環境から遠ざかってしまうのは、私たち人間だけではありません。共に暮らすペットたちにとっても、このまとわりつくような湿気は同じように重苦しいものでしょう。とりわけ、毛深いノアにとってはなおさらのことです。

今日の昼頃、妻がノアにブラッシングをしてあげていました。 くしを通すたびに驚くほどの毛が抜け落ち、集めればふかふかのクッションが一つ作れてしまいそうなほどの量になりました。ノアは嫌がることもなく、心地よさそうに横たわり、その時間が終わるのをじっと待っていました。彼がこんなにも穏やかに身を委ねられるのは、理由があります。 「ブラッシングの終わりには、大好きなリンゴがもらえる」 その確かな約束を知っているからです。

 


日常の余白に響く、誰かを想う声

ノアの身体から重たい毛をすきながら、妻は優しく語りかけていました。

「日曜日にノアを見に来てくれる男性は、Sさんだけだからね。彼が今、入院中だからお祈りしてね!」その言葉に、はっとさせられました。 毎週日曜日に会いに来てくれるSさんの温かな眼差し。今はそれが叶わない寂しさと、病床にある彼の一日も早い回復を願う切実な思い。妻はノアに語りかけるという形を通して、日常の何気ない動作の中に「祈り」を織り込んでいたのです。言葉を持たないノアもまた、その静かな祈りの輪の中に確かに招かれていました。

 


「雨、雨、雨」を恵みに変えて

天気予報によれば、今晩からいよいよ本格的な雨が降り出します。

  • 今晩から本格的な雨
  • 明日は大雨
  • 明後日も雨

まさに「雨、雨、雨!!!」という日々が続くことになります。空は暗く、足元は悪くなり、外の世界は閉ざされたように感じるかもしれません。

しかし、ふと心に浮かんだのは「これも良し」という思いでした。

聖書には、このような言葉があります。 「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」(イザヤ書 30:15

外に出られない激しい雨の日は、神様が与えてくれた「立ち止まるための時間」なのかもしれません。ノアが古い毛を脱ぎ捨てて身軽になったように、私たちも心の重荷を下ろし、Sさんのために祈り、静けさの中で魂を休ませる時間が必要です。

降りしきる雨音は、世界からノイズを消し去り、この午後を静かで平和なものにしてくれます。ノアがリンゴの約束を信じて待つように、私たちもまた、雨の向こうにある晴れやかな明日を信じて、今日という日を静かに味わいましょう。心身を整え、明日に備えるために。今日のランチはキムチチヂミを作り、3人でいただきました。 この季節のランチには、ぴったりの一品です。

今日も、共に前進です。

朝ラン26キロ完走


濡れた靴下と、縛られない自由 ──祈りの坂道を越えて

午前5時の祈りと、梅雨の足裏

午前5時。曇りのせいで薄暗く、たっぷりと湿気を含んだ重い空気の中、今日のランニングをスタートさせました。今日は坂道、橋、トンネルなど多くの道を走りました。

今日のコースの中心地点は「例の病院」です。いつもとは逆方向からアプローチしたその道のりは、やはり坂道の多い地域でした。一歩、また一歩とアスファルトを踏みしめながら、ひたすらに兄弟の癒しを求めて祈り、走り続けました。


ランナーにとって、この梅雨の時期の最大のネックは「足裏の湿気」です。 特にロングランとなると、長い時間を濡れた靴下で走り続けることになります。

  • 水分で皮膚がふやけ、皮がむけやすくなる
  • 実際に皮がむけてしまうことが多い
  • 一度むけると、痛みとともに治るまでに長い時間がかかる

もちろん、「プロテクトJ1」というランナーを守る心強い塗り薬もあります。しかし、どんなに準備をしても、それが100%の完璧な守りになるわけではありません。

 


完璧な備えはないからこそ

この時期、足を痛めないために一番良いのは「ロングランはやめること」です。あるいは、雨の日をできるだけ避け、晴れた時を選んで走ることでしょう。

理屈ではわかっていても、現実はそう簡単ではありません。私たちの人生と同じで、いつも晴れの日ばかりを選ぶことはできないからです。

濡れた靴下の不快感や、足裏の痛みを抱えながら走る中で、ふと一つの思いに至りました。私たちは時に「こうすべきだ」「こうしなければならない」という自分自身が作り上げたルールに縛られ、かえって苦しんでしまうことがあります。

だから、悩まず、無理をせず。 「走る時に、走ればよい。」

答えはとてもシンプルでした。 一番大切なのは、思い込みや状況に縛られず、自由に生きることなのです。

 


日常の中の「ご褒美」と真理

昨日、娘が弾むような声で私にこう言いました。

「パパ、明日はわたしの髪のスタイルを見てびっくりするかも。自分へのご褒美として、今日は美容院に行って来るの」

その言葉を聞いて、心がふっと温かくなりました。彼女もまた、日常の中で自分自身を労わり、軽やかに「自由」を楽しんでいるのです。髪を切るという小さな変化が、心に新しい風を吹き込みます。

 


聖書には、「真理はあなたがたを自由にします」(ヨハネの福音書 8:32)という言葉があります。完璧なコンディションでなくとも、100%の保護がなくとも良いのです。雨の中には雨の日の恩寵があり、坂道には坂道でしか見えない景色があります。縛られない自由な心があれば、私たちはどんな道でも歩んでいけるのです。

 


雨であれ、嵐であれ

今日は26キロを完走し、今週は合計で104キロの完走となりました。 ここまで走り抜いた身体を労わるため、明日と明後日はしっかりと休む予定です。

梅雨であれ、雨であれ、嵐であれ。 私たちは今日も、与えられた命を懸命に生き抜きます。今日も、共に前進です。 

小雨の夜の散歩

 


雨音のクレッシェンドと、縛られない魂のしなやかさ

日付が変わり、新しい一日が産声を上げたばかりの土曜日、014分。ノアと共に、夜の静寂へと歩み出しました。頬に触れるか触れないかほどの、ごくわずかな小雨。 すれ違ったのは一人の歩行者、そして通り過ぎていくタクシーと原チャリが一台ずつだけでした。街全体が深く長い呼吸をしているような、ただひたすらに静かな夜です。

 

帰宅してゴミ出しを終え、机に向かって仕事をしていると、窓を打つ雨の音が少しずつ強くなっていることに気がつきました。 もう一度眠りにつこうと二度寝を試みましたが、意識は静かに冴えわたり、眠りは訪れません。焦ることはせず、その自然な流れに身を任せて起き上がり、再び仕事に向かいました。

 


自分で決めたルールという「鎖」

今日は本来なら、ランニングの日です。 しかし、私は窓の外の空気を確かめ、天候の状況を見てから走るかどうかを判断することにしました。

私たちは生きる中で、いつの間にか「自分で作ったルール」の奴隷になってしまうことがあります。「一度決めたことなのだから、何が何でもやらなければならない」。そんな真面目さや責任感は、時に私たちの心を窮屈に縛り上げ、目的と手段をすり替えてしまいます。走ることで活力を得るはずが、走るという「義務」にエネルギーを奪われてしまうのです。しかし、私は「決めたことは絶対に行う主義」ではありません。 その時々の状況、自然の移ろい、そして自分自身の状態に合わせて進める。その「しなやかさ」こそが、今の私の土台となっています。

 


何にも縛られない、真の自由

  • 時間に縛られない。
  • お金に縛られない。
  • 仕事に縛られない。
  • そして、「自分の過去の決定」にすら縛られない。
  • 唯一、縛られて生きるのは主なる神様の愛にのみ。

真の自由とは、自分勝手に振る舞うことではなく、自分の小さなコントロールを手放し、その瞬間に与えられた大きな流れ(天候や状況、あるいは神様の導き)に対して、柔らかく応答していく姿勢のことではないでしょうか。

聖書に「御霊の吹くところは自由である」というニュアンスの言葉があるように、私たちの魂は本来、何ものにも縛られない軽やかさを持っています。強まる雨音を聞きながら、「今日は走らなくてもいい、別のことをしよう」と計画を脇に置くとき、そこには律法主義的な重圧からの解放と、深い安息があります。

 


軽やかな足取りで

雨の日は雨の日の、晴れの日は晴れの日の歩み方があります。 予想通りに進まないこと、計画が変更になることを嘆くのではなく、「今日という日が、私に何を求めているのか」に静かに耳を澄ましてみませんか。

何にも縛られない、自由で軽やかな心をもって。

今日も、共に前進です。

2026年6月19日金曜日

今日も生かされて感謝

 


鼓動の奥にあるもの——大年寺255段の階段と、御手への委ね

今朝も、澄んだ空気と静寂に包まれる大年寺山公園へと足を運び、土を踏みしめてきました。振り返れば、いつの間にか一週間のリズムが、私の心と身体の輪郭をはっきりと形作るルーティンワークとなっています。

  • 日・火・木・土:週4回のランニング日(100キロ以上を走る道のり)
  • 月・水・金:大年寺山公園での散歩と思索の時

完全に走らない日、歩かない日は一日もありません。とりわけ月・水・金の朝は、大年寺の255段の階段や愛宕神社の階段を一段一段上りながら、約1時間、深い思索と対話の時を味わいます。額ににじむ汗、早くなる呼吸、そして足の筋肉に伝わる確かな重力。この絶え間ない歩みと走りが、今の自分に最も合っており、私に活力を与えてくれる大切なルーティンとなっているのは間違いありません。

 


階段の途中で気づく、ひとつの錯覚

しかし、階段を上りきり、ふと息をついて見晴らしの良い景色を前にしたとき、私の内にひとつの静かな問いが生まれます。

「果たして、この鍛錬や習慣そのものが、私を生かしているのだろうか?」

私たちは時として、自分が築き上げたルーティンや、自らの意志の力、あるいは健康な身体そのものを「命の土台」だと錯覚してしまうことがあります。「これだけ走っているのだから」「これだけ規則正しく生きているのだから」と、自分の努力の結晶を頼みの綱にしてしまうのです。確かに、この日々のルーティンは私を元気にしてくれる大切な「要因」の一つです。しかし、決して私を生かす「源」ではありません。ルーティンはあくまで器であり、その器に命の水を注いでくださる方が別にいるのです。

 


命の源、ただその御手の中に

私たちの本当の活力、命の源は、主なる神様の御手の中にのみあります。

心臓が今日も休まずに鼓動を打つこと。肺が新鮮な空気を吸い込めること。そして、前へ進もうとする意志が与えられること。そのすべては、決して私の力で生み出したものではなく、命の源である主からの一方的な賜物です。だからこそ、どれほど脚力を鍛え、どれほど完璧なルーティンをこなしていたとしても、最も大切なのは「自分が主の御手にあることを常に意識しながら生きる」という一点に尽きるのです。

  • 自分の力や健康を過信しないこと
  • 絶えず主の御手にすべてを委ねること
  • 今日という一日を、ただ信仰によって歩むこと

自分の足で階段を上っているようでいて、実は、見えない大きくて温かい御手によって「生かされ、引き上げられている」のだという真理。それに気づいたとき、私たちの人生からは「自分の力でなんとかしなければ」という重いプレッシャーが消え去り、真の平安と深い呼吸が戻ってきます。

 


大年寺の255段の階段も、ランニングの100キロの道のりも、すべては「主の御手の中で生かされている喜び」を身体全体で味わうための、感謝の祈りのようなものです。

あなたの今日の一歩もまた、決してあなた一人の孤独な力で踏み出すものではありません。命の源である方が、その御手であなたをしっかりと包み、支えておられます。その大いなる力に委ね、頼りきってよいのです。

今日も、共に前進です。

2026年6月18日木曜日

連載コラム応答編

 


連載コラム応答編:見えない声に耳を澄ませて——奉仕の喜びと葛藤、そして共に築く未来

これまでの連載コラムを通して、教会における「奉仕」と「報酬」のあり方について、聖書的な視点や文化的な背景、そして実務的な側面から共に考察を深めてきました。この連載に対し、本当に多くの読者の皆さまから反響をいただきました。「自分のこれまでの奉仕を見直す、良い立ち止まりのきっかけになった」「これまでタブーのように感じていた報酬について語ることに、勇気をもらった」「教会の中に、もっと感謝を伝え合う文化を育てていきたい」といった、前向きで温かいお声の数々に、筆者自身も深く励まされています。

その一方で、非常に率直で、切実な声も届いています。「奉仕は喜びであるはずなのに、長年続けているうちに、時折ひどく重荷に感じてしまうことがある」「自分から報酬の話題を出すことには、どうしても戸惑いや罪悪感を覚えてしまう」といったお悩みです。今回は応答編として、こうした「皆さまの生の声」にしっかりと向き合い、奉仕の現場にある光と影について共に考えてみたいと思います。

 

奉仕が「重荷」に変わるとき——葛藤への共感

まず第一にお伝えしたいのは、「奉仕を負担に感じる自分は、信仰が弱いのではないか」とご自身を責める必要は全くない、ということです。寄せられた声の中には、誰にも言えない疲労感や、自発的であったはずの奉仕がいつしか「義務」になってしまっていることへの苦しみが綴られていました。

教会の奉仕は、神様への感謝と愛から溢れ出る喜びの応答です。しかし、私たちが生身の人間である以上、肉体的な疲れや精神的なプレッシャーは必ず存在します。特に、特定の誰かに負担が偏ってしまったり、「やって当たり前」という空気が流れてしまったりするとき、本来の喜びは次第にすり減り、見えない葛藤へと変わってしまいます。皆さまから寄せられた戸惑いや疲れの声は、教会が単なる制度や無機質な組織ではなく、血の通った人間が集まる「生きた共同体」であることの何よりの証しなのです。

 

声に耳を傾け合う「キリストの体」

奉仕の現場には、目に見える喜びだけでなく、見えない葛藤や疲れが常に隣り合わせにあります。だからこそ、教会は奉仕者のその小さな「ため息」に敏感に耳を傾ける共同体でありたいと願います。「少し休みたい」「このままでは続けるのが苦しい」という弱音を、安心して吐き出せる安全な場所であること。それもまた、教会の大切な役割です。奉仕者が一人で重荷を抱え込むのではなく、互いに祈り、対話をもって支え合うとき、私たちは本当の意味で「キリストの体」として結び合わされていくのです。

 

「喜んで与える」ための聖書のメッセージ

聖書は、私たちに無理な自己犠牲を強いているわけではありません。パウロはコリントの教会への手紙で、「神は、喜んで与える人を愛してくださる」(コリント 9:7)と語っています。これは、「どんなに苦しくても無理をして与えなさい」という厳格な命令ではなく、「心からの自由な献げ物こそが、神様に喜ばれる」という温かいメッセージです。

また、マルコによる福音書12章に登場する「レプタ銅貨二枚を献げたやもめ」の姿を思い起こしてください。主イエスが彼女を称賛されたのは、献げた「量」や「立派さ」ではなく、彼女の「心の深さ」と「神への信頼」でした。奉仕も全く同じです。大切なのは、どれだけ多くの時間を割いたか、どれほど完璧にこなしたかではなく、それが「喜びのうちに捧げられているか」なのです。

 

持続可能な奉仕のために——休息と支援体制

すべての奉仕が「喜び」として捧げられ続けるために、教会は精神論だけでなく、具体的な環境づくりに取り組む必要があります。奉仕者が疲れ果てる前に心身を休める「休息の期間」を設けること。一人に負担が集中しない「交代制」を導入すること。そして、前回のコラムでも触れたように、必要に応じて「報酬」や「支援体制」を適切に整え、感謝を形にして表すことです。

教会が奉仕者に感謝を表し、具体的な支援の仕組みを整えることは、決して世俗的なことでも、信仰の弱さでもありません。それは、互いの労苦を尊び合い、共に神の国を建て上げる「共同体の成熟と一致」の美しい表れなのです。

この応答編が、今まさに奉仕の重荷を抱え、小さな葛藤の中にある方々の心に優しく寄り添い、教会の奉仕文化をより健やかで風通しの良いものへと育てる一助となれば幸いです。奉仕の喜びも、そして涙や疲れもすべて主の御前に差し出しながら、これからも祈りと感謝をもって、共にこの歩みを進めてまいりましょう。

大年寺山公園の散歩

 


画面を閉じて、石段を上る——「沈黙」という魂の深呼吸

喧騒から離れた、静かなる一日

昨日はふと思い立ち、「IT DETOX(デジタル断食)」を実施してみました。

スマートフォンやパソコンなど、すべての電子機器から距離を置き、ただ自然の中を歩き、その後は自分の部屋で静かな時を過ごす。世の中の絶え間ないニュースや、メディアが四六時中報じている無数の「声」から、あえて意識的に離れてみる一日です。

ランニングをお休みしたこの日、私は久々に大年寺山公園へと足を運びました。豊かな木々に囲まれた道を歩き、お寺や神社へと続く数多くの階段を、ゆっくりと上っていきました。画面の中の平坦な世界から抜け出し、自分の足で一段ずつ重力を感じながら石段を上るその時間は、見失いかけていた自分自身の呼吸を取り戻すような、とても清々しいものでした。

 


溢れる情報の波と、見失われる内なる声

現代の私たちは、常に何かの情報に接続されています。 世界中の出来事を瞬時に知ることができる便利さの一方で、私たちの心は絶えず他者の言葉や社会の不安に揺さぶられ、無意識のうちに深く疲労しています。大年寺山の静かな木漏れ日の中を歩きながら、私はひとつの確かな事実に気がつきました。それは、「外の世界の音が大きすぎると、自分の内側にある本当に大切な声が聞こえなくなってしまう」ということです。 何もしない空白の時間、ただ静かに歩く散歩の時間。そうした「余白」を日常の中に意図的に設けることが、今を生きる私たちにはどれほど必要なことでしょうか。

 


静かにささやく声を聞くために

旧約聖書の列王記の中に、預言者エリヤが神様と出会う美しい場面があります。 神様は、岩を砕くような激しい嵐の中にも、大地を揺るがす地震の中にも、燃え盛る火の中にもおられませんでした。すべての喧騒が過ぎ去った後、神様は「静かにささやく声(微かな細い声)」として、エリヤの心に触れられたのです。

私たちが真理と出会い、深い平安を受け取るのは、情報が溢れる騒がしい場所ではありません。自ら画面を閉じ、心の耳を澄ませたその「沈黙」の中にこそ、神様の静かな慰めの声は響き渡るのです。

 


新しいリズムを刻む

静かに散歩をし、階段を上る日を設けることができた昨日の喜びに、私は深く感謝しています。 この気づきを一時的なもので終わらせないために、私はこれからの日常に一つの新しいリズムを取り入れることにしました。

  • 毎週、月・水・金の三日間を「IT DETOX」の日にする

これは単に「インターネットを見ない」という制限ではありません。自分の魂を守り、静かな祈りと自己対話の時間を豊かに育むための、前向きで積極的な選択です。

もし今日、あなたが溢れる情報や誰かの声に少し疲れてしまっているなら、ほんの数十分でも画面を伏せ、窓の風を感じ、静かな時間を味わってみてください。情報から離れて作られたその小さな空白に、きっと温かな光が差し込んでくるはずです。



今日も、共に前進です。

連載コラム補足編



連載コラム補足編:見えない労苦に光をあてる——「奉仕と報酬」をめぐる誤解と希望

これまでの連載コラムでは、教会における「奉仕」の本当の意味、礼拝を支えるオルガニストの働き、そこに生じる報酬のあり方、そして私たちの根底にある文化的背景について共に考察してきました。連載を通して、多くの方から「自分の奉仕を見つめ直す機会になった」「今まで気づかなかった視点をもらえた」といった温かいお声をいただき、心より感謝申し上げます。さて、今回は補足編として、「奉仕と報酬」にまつわる誤解と、そこから開かれる希望について、もう少し深く掘り下げてみたいと思います。

 


「奉仕は無償であるべき」という固定観念の背景

日本の教会、あるいは広く日本の社会において、「奉仕(ボランティア)は無償であるべきだ」という考え方は非常に根強く存在しています。自分の時間や労力を対価なしに捧げる自己犠牲の精神は、キリスト教の「隣人愛」や、日本古来の「清貧」の美徳とも重なり、確かに尊く美しい信仰の姿勢です。しかし、その美しい理想が、時に見えない重荷となることがあります。「無償であること」が絶対のルールになると、専門的な技術や膨大な準備時間を要する働き(例えば、オルガン奏楽や特別な専門職など)を担う人々が、密かに疲弊していく限界を招くのです。

 


なぜ教会でお金の話は避けられるのか

それにもかかわらず、教会の中で「奉仕に対する報酬」の話題を出すことは、どこかタブー視されがちです。そこには、「お金の話をするのは俗っぽい」「報酬を求めるのは信仰が弱い証拠ではないか」という誤解や、謙遜を美徳とする文化的な遠慮が深く絡み合っています。奉仕者は「神様のためにしているのだから」と口をつぐみ、支える側も「信仰でやってくださっているのだから」と甘えてしまう。この無言のすれ違いが続くと、奉仕者は孤独を感じ、教会全体としての健全な成長が阻まれてしまうことがあります。

 

聖書が語る「労にふさわしい報い」

では、聖書はこの問題についてどのように語っているのでしょうか。実は聖書は、奉仕に対して報いが与えられることを決して否定していません。むしろ、明確に肯定しています。主イエスは、弟子たちを宣教の働きへと派遣する際、こう語られました。 「働く者が報酬を受けるのは当然である」(ルカによる福音書 10:7

これは、福音のために労苦する者に対して、共同体がその生活と働きを支えるべきだという、主イエスからの具体的な教えです。神様への純粋な献身と、共同体から正当な支え(報酬)を受けることは、決して矛盾するものではないのです。

 


対価ではなく「感謝と敬意の表現」として

ここで大切なのは、教会における報酬の捉え方を転換することです。一般社会の報酬が「労働の対価」や「労働力を買い取るもの」であるならば、教会における報酬は「見えない労苦に対する感謝と敬意の表現」です。礼拝で奏でられる美しい賛美の裏には、水面下での何時間もの個人的な練習と、技術を磨くための長年の歩みがあります。教会がその働きに対して報酬をお渡しすることは、奉仕者の心をお金で買うことではありません。「あなたの見えない労苦を知っています」「その重荷を、私たちも共に負わせてください」という、共同体としての愛と応答の形なのです。教会が奉仕者を適切に支えることは、共同体としての成熟の証でもあります。

 


対話と祈りから始まる、新しい奉仕の文化

大切なのは、最終的に報酬を「出すか、出さないか」という表面的なルールではなく、その背後にある「心のあり方」です。奉仕する者も、支える者も、互いに感謝と祈りをもって関わるとき、教会は「キリストの体」としての一致をさらに深めていきます。

そのためには、沈黙のヴェールを取り払い、透明性を持った対話が必要です。互いの遠慮や誤解を恐れず、「どのように支え合うのが最も良いのか」を、愛と祈りをもって話し合う土壌を育てていくこと。それこそが、健全で持続可能な奉仕の文化を築くための第一歩となります。この補足編が、皆さんの中にある小さな疑問や葛藤に温かい光を当て、教会内での健やかな対話の土台となれば幸いです。次回は、読者の皆様から寄せられた声に応えるかたちで、さらにこのテーマを深めていきたいと思います。 

Sさんを覚えての朝ラン

 


祈りを刻む24キロと、突然の立ち止まり——人生の「雨」を越える知恵

久しぶりの道と、夜明けの祈り

午前4時半。明るくはなっていますが、まだ深い静寂が支配する街へ、シューズの紐を固く結び、ランニングに出発しました。

 


今日選んだのは、ここ数ヶ月ほど足を踏み入れていなかった久しぶりのコースです。懐かしい景色を確かめるように一歩一歩を進めた今日の道のりは、ただのトレーニングではなく、一人の教会員の入院を覚えての「祈りのラン」でした。

人間の体は、時に思いもよらない突然の異変を告げることがあります。それは決して特別な誰かの出来事ではなく、今を生きる私たち全員に、いつ起こっても不思議ではない身近な現実です。だからこそ、その小さなサインに早く気づき、適切な措置を行うことが何よりも大切になります。どうか無事に原因が判明し、再び元気な姿を取り戻されますように。その切実な願いを天へと届けようと祈りながら、24キロの道のりを走り抜きました。

 


病の床で向き合う「魂の軌跡」

私たちが、自らの歩んできた人生の軌跡を最も深く、ごまかしのない目で振り返るきっかけとなるのは、いつもこうした「突然の病」や、立ち止まりを余儀なくされた時ではないでしょうか。健康で忙しい日々の中では、私たちはどうしても目の前のことに追われ、自分の内面を通り過ぎてしまいます。しかし、病の床という静寂の中で、魂は根源的な問いを投げかけてきます。

「これまでの自分の選択は、本当に正しかったのだろうか」 「心の中に、やり残した悔いはないか」 「自分の言葉や態度で、誰かを深く悲しませてはいなかっただろうか」

さまざまな角度から己の過去と現在を見つめ直すこの葛藤は、決して後ろ向きなものではありません。それは、取り繕うことのできないありのままの姿で主の御前に立ち、真剣に祈り、自分自身の本質と対話するための、極めて神聖で尊い時間なのです。

 


人生の「梅雨」を賢く歩む

天気予報では、これから本格的な梅雨の時期に入っていきます。 重く湿った空気が空を覆い、晴れやかな太陽が見えなくなるこの季節は、まるで私たちの人生に突然訪れる病や試練の時期のようです。しかし、雨が降らなければ大地が潤わず、木々が深く根を張れないように、人生の雨の時期もまた、私たちの魂の不純物を洗い流し、神様との関係をより深く根付かせるための恵みの雨となり得ます。聖書にも「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」とあるように、立ち止まる時間には必ず深い意味が隠されています。

不確かな人生を歩む私たちが心に留めておきたいことがあります。

  • 突然の立ち止まりを恐れず、自分を見つめ直す「主の御前の時間」として受け入れること
  • 避けられない人生の雨季に対し、不平を言うのではなく、賢く乗り越える知恵を祈り求めること
  • 今、病や困難の中にある隣人のために、心を寄せて共に祈ること

 


これから迎える長い梅雨の季節。降り続く雨の音に静かに耳を傾けながら、この時期を賢く、そして豊かに乗り越える知恵を身に付けて歩んでいきたいと思います。

今日も、共に前進です。

2026年6月16日火曜日

連載コラム第4回「教会文化とこれからの歩み」

 


連載コラム 第4回:「教会文化とこれからの歩み」

  • 文化的視点
    • 日本の「無償奉仕」文化とその背景
    • ヨーロッパとの比較(職業としての教会音楽家)
  • 主な内容
    • 誤解を避けるための丁寧な説明と対話の必要性
    • 感謝と一致をもって、健全な奉仕のあり方を築く提案

 

教会文化とこれからの歩み:感謝と一致で織りなす健全な奉仕

日本の教会文化には、長年にわたり「無償奉仕」という価値観が深く根付いています。この背景には、戦後の相互扶助的な地域共同体の精神、古くから日本社会に存在する仏教的な「施し」の概念、そしてキリスト教における「献身」に対する独特の理解が複雑に絡み合っています。奉仕は、神への純粋な献げであり、それに対して物質的な報酬を求めるべきではない——この考え方は、信仰的に見て非常に尊いものであり、多くの教会員が真摯な心で奉仕に励んできた歴史があります。

 


しかし、目を世界に転じると、異なる教会文化が存在することに気づかされます。例えば、ヨーロッパの伝統的な教会では、教会音楽家やオルガニストといった専門職が明確に存在し、彼らはその高度な専門性と礼拝における重要な責任に見合った正当な報酬を受け取ることが一般的です。そこには、神に仕える才能豊かな働き手への深い敬意と、教会がその働きを経済的にも精神的にも全面的に支えるという、共同体としての成熟した姿が伺えます。彼らの奉仕は単なる趣味やボランティアではなく、信仰に基づいたプロフェッショナルな職務として位置づけられているのです。

 

このような対比を前にしたとき、日本の教会文化における「無償奉仕」の概念は、時に課題をはらむことがあります。特に、オルガニストのような専門的な訓練を必要とする奉仕や、教会の運営を支えるために多くの時間と労力を要する働きにおいて、「無償」であることの重みが、奉仕者自身の負担となり、結果として継続的な奉仕を困難にしてしまう可能性も否めません。奉仕者の生活が逼迫したり、専門性を高めるための投資ができない状況に陥ったりすることは、教会全体の奉仕の質を低下させかねません。

 

日本の教会においても、奉仕者の働きに対して感謝と敬意をもって応え、その労苦を具体的に支えることは、決して「世俗的」なことではありません。むしろ、それは、神が私たちに与えてくださった恵みを認識し、互いに支え合うキリストの体の健全な姿を現すものです。この点を巡る誤解や、心ない言葉によって奉仕者が傷つくことがないよう、教会全体として「報酬の意味」や「奉仕の本質」について、丁寧な説明と継続的な対話が必要です。奉仕者が報酬を受け取ることは、決して信仰の弱さを示すものではなく、むしろ教会がその奉仕をどれほど大切に思い、その働きをどれほど尊んでいるかの確かな証しであるという理解を深める必要があります。

 

これからの教会の歩みにおいて、私たちは「無償か有償か」という単純な二項対立で奉仕を捉えるのではなく、「感謝と一致をもって支え合う」というより包括的で健全な視点を育てていく必要があります。それは、奉仕者自身の献身的な心と、共同体がその献身を心から感謝し、具体的に支えるという、双方向の愛の循環を生み出すものです。

 

具体的な方法としては、例えば、奉仕にかかる実費の支給、専門的な働きへの謝礼の検討、あるいは奉仕者への定期的な慰労会の開催など、様々な形が考えられます。重要なのは、形よりも、奉仕者が「自分の働きが認められ、大切にされている」と感じられるような配慮と心遣いです。

 

奉仕する者も、その奉仕を支える者も、私たち全てが神の豊かな恵みに生かされていることを覚え、互いに支え合い、励まし合う中で、健全で喜びに満ちた奉仕のかたちを築き上げていくことが求められています。そうすることで、教会はより強固な共同体となり、神の愛を世に証しする力強い存在へと変えられていくでしょう。私たちが共に神の栄光を現すために、それぞれの賜物を喜びをもって捧げ、互いを尊ぶ文化を育んでいくことこそが、これからの教会の豊かな歩みを確かなものにするのです。

 


*今日も変わらず、買い物、料理、仕事、掃除、そして一休み……。 そんないつもの流れの中で、今日は春雨料理を作り、きゅうり漬けも仕込みました。

変わらない日々の営みを積み重ねながら過ごすこと。 その中で、喜びや平和、感謝、生き甲斐を見つけて歩むことが大切だと感じています。

つまり、日々の歩みの中で 「自分は何のために、誰のためにこれをしているのか」 その問いを心に覚えながら前へ進むこと。

それこそが、生きる価値を確かにしてくれる鍵なのだと思います。

今日も最後まで頑張って生きることです。

明日は、一日まるごと ITデトックスの日 にすることにしました。ちなみに金曜日も。