デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月7日火曜日

トンテキ

 


偶然という名の導きと、強張った命をほどく柔らかな食卓

仕事を終えて帰宅した妻に、夕食のトンテキを出しました。 「お肉が柔らかい!」 その弾むような声と笑顔を引き出すために、実は調理の段階で、肉を柔らかくするための小さな「秘訣」を仕込んでおきました。手間をかけて仕込んだものが、愛する人の一日の疲れを癒やすのを見るのは、何にも代えがたい喜びです。しばらくして、娘から「実習が終わった」と連絡が入り、駅まで車で迎えに行きました。家路に向かう短い車中、彼女は今日一日の中で起きた、密度の濃い出来事を語り始めました。

 


15分の遅れがもたらした、思いがけない使命

今朝、南仙台駅(悲しいことですが、人身事故がよく起こることで知られる駅です)で、線路に人が立ち入るというトラブルがありました。その影響で電車は遅れ、実習に遅刻するのではないかと、彼女はひどく焦ったそうです。

しかし、約15分遅れでやってきた電車に無事に乗れたことに胸をなでおろしたのも束の間、今度は隣に立っていた女子高校生が体調を崩し、しゃがみ込んでしまいました。呼吸が浅くなり、少し呼吸困難のような状態に陥っていたのです。娘はすぐに症状を把握し、彼女の背中を優しくさすりながら、深呼吸を誘導しました。その的確で温かい対応によって、女子高校生の具合は少しずつ落ち着きを取り戻したといいます。

  • 予定通りにいかない焦り
  • 遅延という一見マイナスな出来事
  • そこで偶然隣り合わせた、助けを必要とする命

もし電車が遅れていなければ。もし彼女が別の車両に乗っていれば。 この世界には、人間の計画を超えた不思議な采配があります。娘は予定通りに実習現場に到着できたことを喜んでいましたが、あの15分の遅れは、強張って息苦しくなっていた一人の少女の背中をさすり、呼吸を取り戻させるために、神様が娘に用意された「必然の配置」だったのではないでしょうか。

 


厳しい現実の前に立ち尽くし、生きる意味を問う

実習現場に到着した娘を待っていたのは、これまで彼女が経験したことのないような、厳しい生活環境に強いられている一人暮らしのおばあさんの姿でした。

孤独と過酷な現実。その生々しい風景を前にして、娘はひどく複雑な感情を抱き、「人生とは何か」「生きることの意味とは何か」を深く考えさせられたと語ってくれました。同時に、自分が今いかに恵まれた環境の中で生かされているかという事実を、肌身をもって痛感したのです。私たちは皆、それぞれの場所で、見えない重荷を背負って生きています。息ができなくなるほどの不安を抱える少女も、厳しい環境で孤独に耐えるおばあさんも、そして、その現実に直面して心を震わせる娘も。

 


魂を回復させる「日ごとの糧」

帰宅した娘は、私が作ったトンテキを頬張り、見事に元気を取り戻してくれました。さらに、私が買っておいたコメダ珈琲のラテティーを見つけると、顔をほころばせて喜んでくれました。「パパ!実習の間は特別な料理よろしくお願いいたします。」

そう明るく宣言する娘の姿に、私は思わず目を細めました。 夕食後、彼女は私が焼いたレモンケーキを食べながら、実習の報告書をまとめる作業に真剣に向き合っています。

 


聖書には、「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください」という祈りがあります。 厳しい現実の冷たさに触れ、心が強張り、すり減って帰ってくる家族のために。私ができることは、肉を柔らかく仕込み、温かい食事を用意し、安心できる空間を整えて待つことだけです。しかし、そのささやかな「日ごとの糧」こそが、明日再び立ち上がり、誰かのために手を差し伸べるためのエネルギー(真の命の力)となっていくのです。

予定外のトラブルに焦り、他者の痛みに触れ、悩み、そして温かい食卓で回復し、また明日へ向かって備える。無事に終わろうとしている今日という日に、深い感謝が込み上げてきます。ああ、これが人生なのだと。

今日も、共に前進です。

捨てる勇気を

 


過去の錨を解き放つ。捨てられない心に隠された科学と、明日を変える「手放す勇気」

部屋の片隅に積み上げられたままの段ボール箱や、クローゼットの奥でひっそりと眠っている、いつか着るかもしれない服。私たちは時折、そうした「物」たちを前にして、どうしても捨てる決断を下せず、そっと扉を閉めてしまうことがあります。

「いつか使うかもしれない」「もったいない」。 その言葉の裏側に隠されているのは、単なる物への執着ではありません。物を捨てられないという現象は、実は私たちの心が「過去」という目に見えない錨に縛り付けられ、そこから解放されていない状態を映し出しているのです。

 

「手放せない」を解き明かす、心の科学

なぜ、私たちは不用なものを手放すことにこれほどの痛みを伴うのでしょうか。それは、人間の心理的メカニズムが科学的にそうプログラミングされているからです。

行動経済学や心理学の世界では、この現象を主に二つの法則で説明します。

  1. 保有効果(Endowment Effect 人間は、一度自分が所有したものに対して、客観的な価値よりもずっと高い価値を感じてしまう生き物です。「自分が手に入れたのだから特別なはずだ」と脳が錯覚を起こし、手放すことを無意識に拒絶します。
  2. 損失回避の法則(Loss Aversion 人間にとって、「何かを得る喜び」よりも「何かを失う痛み」の方が、約2倍も強く心に響くと言われています。使っていない物を捨てるという行為は、脳にとっては「自分の財産(=過去の思い出や可能性)を切り捨てられる」という強いアラートとして鳴り響くのです。

つまり、物を捨てられない人は決して「だらしない人」ではありません。むしろ、過去の記憶や、かつての自分の決断を無意識に大切に守り抜こうとしている、ある意味で情に厚い人だとも言えます。しかし、その「過去を守る脳の働き」が強すぎるあまり、前に進むためのエネルギーまでも奪われてしまっているのです。

 

物の渋滞は、人間関係と社会活動を停滞させる

この「過去への執着」は、単に部屋が狭くなるという物理的な問題にとどまりません。

私たちの脳は、視界に入るあらゆる情報を無意識に処理しています。使わない物に囲まれた空間にいると、脳は常に「処理しきれない情報」にエネルギーを奪われ続け、知らず知らずのうちに決断疲れ(認知負荷)を起こします。

この見えない疲労感は、やがて人間関係や社会活動にも暗い影を落とします。 心に「余白」がないため、新しい出会いを受け入れる余裕がなくなり、人からの誘いを億劫に感じるようになります。また、過去の物に囲まれていると「あの頃は良かった」という過去の自分にアイデンティティを求めがちになり、今の自分をアップデートして社会へと一歩踏み出す活力を失わせてしまうのです。 部屋の風通しが悪くなることは、そのまま「人生の風通し」が悪くなることを意味しています。

 

明日から歩き出すための、最初の一歩

では、過去の錨を断ち切り、現在(いま)を生きるためにはどうすればよいのでしょうか。 過去に強く縛られている人が、いきなり思い出の品を捨てるのは至難の業です。ですから、最初の一歩は感情の揺れが少ない、以下の「2つのルール」から始めてみてください。

  • ルール1:「すでに使えなくなったもの」を捨てる 壊れた家電、インクの出ないペン、片方しかない靴下。これらはすでに「物の命」を終えています。過去のあなたを支えてくれたことに「ありがとう」と感謝を伝え、休ませてあげましょう。
  • ルール2:「この1年間、一度も使わなかったもの」を手放す 春夏秋冬、365日というサイクルの中で一度もあなたの日常に登場しなかったものは、今のあなたには「必要のないもの」です。それは「過去のあなた」が必要としていたものであり、「今の、そして未来のあなた」を輝かせるものではありません。

 

捨てることは、未来のための「余白」を作ること

物を手放すことは、過去を否定することでも、何かを失うことでもありません。 それは、今の自分にとって本当に大切な人、新しい役割、そしてこれからの出会いを迎え入れるための「神聖な余白」を空間と心の中に作り出す、希望に満ちた作業なのです。

過去の自分に感謝し、そっと手を離す。 その小さな勇気が、あなたの人間関係を風通しの良いものに変え、社会へと踏み出す足を驚くほど軽くしてくれます。明日、まずは一つの引き出しから、新しい風を吹き込んでみませんか。

 

さて、牧師は「本こそ財産だ」とよく言います。 けれど私は、必ずしもそうは思っていません。これまで天に召された牧師たちのご家族を見てきましたが、 一番困っていたのは、残された大量の本でした。 簡単に片付けられるものではなく、重く、場所を取り、 特に註解書シリーズなどは動かすだけでも大仕事になります。

だから私は、 「これからも繰り返し読むべき本100冊だけを残し、あとは手放す」 という方針で毎年本を整理しています。 そして、いずれその100冊でさえ、自分が生きているうちに処分するつもりです。

服や物も同じです。 毎年少しずつ捨てて、身の回りを軽くしています。

礼拝用と大学礼拝用のスーツ以外は、 ほとんどランニングウェアが中心。 秋冬・春夏それぞれ3着ずつで十分で、 10年以上買い替えなくても問題なく使えています。

唯一買う必要があるのはランニングシューズ。 どうしても靴底が削れて穴が開くからです。 靴下も同じですね。流行は、自分にはほとんど関係ありません。 必要なものだけを持ち、不要なものは手放す。 捨てることで、心も体も軽くなります。

今日も、共に前進です。

今日も知恵を求めて生きる

 


知恵は人生を守る静かな力──箴言2章が語る「幸いへの道」

私たちの毎日は、選択の連続です。 仕事、人間関係、家庭、将来。 どの選択も、時に迷い、時に悩みながら歩んでいきます。そんな私たちに、聖書の箴言2章は静かに語りかけます。「知恵を授けるのは主。 主の口は知識と英知を与える。」知恵とは、ただ物知りになることではありません。 人生の岐路で、どちらへ進むべきかを見極める心の力です。 そしてその力は、時代が変わっても決して古びることがありません。

 


🌿 知恵は「幸いに導く力」

箴言2章はこう続けます。「あなたは悟るであろう。 正義と裁きと公平はすべて幸いに導く。」正しいことを選ぶ勇気。 誠実に生きる姿勢。 不正や誘惑から距離を置く判断力。

これらは、どれも知恵の働きです。 そして知恵は、私たちを幸いへと導く力を持っています。

 


🌱 情報社会でこそ、知恵が必要になる

現代は、情報があふれすぎています。 SNS、ニュース、広告、誰かの意見。 そのすべてが私たちの心に流れ込んできます。しかし、情報が多いほど、 「何が正しいのか」「何を選ぶべきか」が見えにくくなるものです。知恵があれば、 誤情報に振り回されず、 偏った意見に飲み込まれず、 自分にとって本当に価値あるものを選び取ることができます。

知恵は、情報の海を泳ぐための羅針盤です。

 

🤝 誠実に生きることが、人生を守る

箴言2章は、誠実さの大切さも教えています。短期的な利益のために不正を選ぶ企業は、 長期的には信頼を失い、衰退していきます。人間関係でも同じです。 不誠実な人と関われば、 心が疲れ、トラブルに巻き込まれます。知恵ある人は、 誠実さを選び、 健全な関係を築き、 長い目で見て幸いへと向かう道を歩みます。

 

🔥 誘惑から距離を置く力

現代社会には、 過度な消費、依存症、ギャンブル、「楽して得をしたい」という甘い誘惑が溢れています。知恵は、 その誘惑を見抜き、 自分の人生を壊すものから距離を置く力を与えてくれます。「本当に大切なものは何か」 その問いを忘れない心が、私たちを守ります。

 

神の導きを信頼する生き方

箴言2章は最後に、こう語ります。

「主は正しい人のために力を備え、 主の慈しみに生きる人の道を見守ってくださる。」

人間の知識だけでは、 人生のすべてを見通すことはできません。だからこそ、 神の知恵を求めることが、 より確かな道を歩む鍵となります。信仰は、 困難の中でも希望を失わない力を与えてくれます。

 

🌅 知恵は、人生を豊かにする静かな光

知恵は、派手な力ではありません。 しかし、人生のあらゆる場面で、 静かに、確かに、私たちを守り、導いてくれます。

  • 情報の中で迷ったとき
  • 人間関係で悩んだとき
  • 誘惑に心が揺れたとき
  • 将来が見えなくなったとき

知恵は、私たちの心に灯る小さな光です。

その光を求め、磨き続けることが、 豊かで安定した人生へとつながっていくのではないでしょうか。今日も、知恵を求めて歩む一日となりますように。

死亡率2:出生率1になった国で生きる意味

 

眠そうな顔で散歩のために降りてきました。まだ2時半です・・・・

年寄りになった私の相棒です。


黎明の30キロ──死の影を越える真の命と、愛する者のための食卓

午前2時。 世界がまだ深い眠りの底に沈んでいる時間に目を覚まし、静かにルーティンを終える。 そして午前3時半、夜の闇がまだ街を包む中、私は一歩を踏み出しました。 今日の目的地は、久しぶりの宮城大学太白キャンパス。 ただ前へ、ただ前へ。 30キロの道のりを走りながら、夜の黒が少しずつ薄れ、黎明の光が街を染めていく瞬間を見つめていました。

 


🌒 街の風景が語る「生と死」の現在地

走っていると、街が語りかけてきます。 最近、特によく目に入るのは新しく建てられた葬儀会館。家族葬の流行に合わせて施設は増え、 葬儀保険という仕組みも当たり前になり、 「死」は巨大な産業として整えられていく。

中には「感謝祭」と書かれた看板まで掲げる葬儀会館もありました。 企業が生き残るために必死で工夫を凝らす姿は、 どこか切なく、どこか現実的で、 この時代の輪郭をくっきりと浮かび上がらせる。今は出生数より死亡数が倍になった日本。 産婦人科が減り、葬儀屋が増える。 これが、私たちが生きている社会の偽りなき姿です。

 


✝️ 絶望の壁を扉に変えた方

「死」は本来、すべての終わりであり、 人間にとって最も深い絶望を意味する。

しかし聖書は、そこで終わらない。 死を絶望の壁としてではなく、新しい命への扉として語ります。その扉を開いた方── それがイエス・キリストです。

十字架の死と復活によって、 死はもはや行き止まりではなくなりました。 キリストを信じる者には、 「死んでも生きる」という揺るぎない希望が与えられています。だから

私は、 死を恐れずに今日を生きることができる。 真の命が内側に灯っているからです。

 


👣 「ださい」姿に宿る尊さ──日常を生きる力

永遠の命の希望を胸に抱いているからこそ、 私は今日という一日を全力で生きることができるのです。今朝も、娘を駅まで送りました。 重い荷物を抱え、車を降りる直前に彼女は笑いながら言いました。「この格好、ださい!」今日から在宅実習が始まります。今日は八幡宮の近くでの実習だそうです。(八幡宮はわたしのランニングコースの一つでよく走ったりする場所です。)しかし父親の目には、 自分のためにだけではなく、人のために学び、働き、前へ進もうとするその姿が どれほど尊く、どれほど美しく映ったことか。

 


妻も今日は仙台で仕事。 彼女を職場に送り届けたあと、 私はドン・キホーテとロピアで両手いっぱいの買い物をする予定です。人のために歩む娘。 今日の務めを果たすために働く妻。 それぞれの場所で懸命に生きる二人のために、 私は最高の「トンテキ」を作る。

美味しい肉を焼き、 温かい食卓を整え、 彼女たちの帰りを待つ。このささやかな営みこそが、 愛であり、命の輝きであり、 永遠の命を知る者が生きる今日の美しさであるのです。

 


🌅 死を越える命を願いながら、今日の命を養う

いつか娘も、妻も、 そしてこのブログを読んでくださる誰もが、 肉体の終わりを越えた「真の命」を所有する人になってほしい。

その願いを胸に、 私は今日も目の前の命を養う。 愛する者のために食卓を整え、 与えられた一日を丁寧に生きる。

今日も、共に前進です。

 

2026年7月6日月曜日

知恵が乏しい時代

 

只今!買い物から帰ってくると一番先に迎えてくれる大切な存在です。

知恵は人生を照らす静かな光

「主を畏れることは知恵の初め。 無知な者は知恵をも諭しをも侮る。」(箴言17節)

私たちが生きる現代は、情報があふれ、選択肢が多すぎる時代です。 スマートフォンを開けば、ニュース、意見、広告、SNSの声が絶えず流れ込みます。 しかし——その膨大な情報の中で、何が本当に価値あるものなのかを見極める力こそ、聖書が語る「知恵」です。

知恵とは、単なる知識の量ではありません。 人生の岐路に立ったとき、どちらへ進むべきかを静かに示してくれる方向感覚のようなものです。 時代が変わっても、流行が移り変わっても、知恵の価値は決して色あせません。

 


🌿 人間関係にこそ、知恵は生きる

知恵は、私たちの言葉や態度にも深く関わっています。

  • 衝動的に言い返すのではなく、 一度心の中で言葉を温めてから話すこと。
  • 相手を理解しようとする姿勢を忘れないこと。
  • 争いよりも平和を選ぶこと。
  • 目先の利益よりも、長い目で見た成長を大切にすること。

こうした小さな積み重ねが、 人間関係を豊かにし、人生を安定させる土台となります。

 


🌱 知恵は自分を知る力でもある

知恵は、外側の世界だけでなく、内側の世界にも働きます。

自分の限界を知ること。 助けが必要なときに「助けてほしい」と言えること。 間違いを認め、学び直す柔らかさを持つこと。

知恵は、傲慢ではなく、謙虚さの中に宿ります。 そして、困難に直面したとき、 知恵は私たちを慌てさせず、冷静に立ち向かわせてくれる力となります。

 


知恵は生き方そのものを形づくる

結局のところ、知恵とは思考のテクニックではなく、 人生の歩き方そのものに深く結びついています。知恵を磨くということは、 より豊かに、より穏やかに、より確かな人生を歩むための道のりです。そして聖書は、その知恵の源をこう語ります。

「主を畏れることは知恵の初め。」

神を畏れ、神の言葉に耳を傾けるところから、 本当の知恵は始まります。

今日の歩みが、最後まで知恵に満ちた一歩となりますように。

善い人?

 


太陽を待つ曇り空と、不完全な私たちが結び合うための「弱さ」

今日の大年寺山公園コースの散歩も、見上げれば灰色の曇り空が広がっていました。 このように曇りや雨の日が長く続くと、私たちは理屈抜きに、あの明るく温かい太陽の光がひどく恋しくなります。そして、晴れの日がいかに私たちの日常にとって大切なものであったかを、肌を通して実感するのです。

天気というものには、本当に不思議な力があります。 雲ひとつない晴れ晴れとした空は、私たちの心までパッと明るく引き上げてくれます。反対に、今日のような重く垂れ込めた曇り空は、どこか憂鬱で沈んだ気分を連れてきます。

しかし、よく考えてみれば、私たちが天気にこれほど影響を受けるのは、ごく当たり前のことなのかもしれません。 なぜなら聖書は、最初の人間が「土から造られた」と教えているからです。私たち人間もまた、大いなる自然の一部であり、同じ自然の構成員としてこの地上を歩んでいる命なのです。

 


裁く心と、私たちの中にある矛盾

自然の構成員であるはずの人間ですが、その歩みには常に矛盾がつきまといます。 美しい自然を命懸けで守ろうとする人々がいる一方で、平気で自然を破壊していく人々もいます。この決定的な差は、一体どこから来るのでしょうか。

人間とは、本当に不思議で、そして哀しい生き物です。

  • 自分自身は日々過ちを犯し、弱さを抱えているのに。
  • 他者に対しては「常に清廉で、善い人でいてほしい」と強く願ってしまう。

たまに著名人の不祥事が報道されると、それまで社会が抱いていた素晴らしい印象は一瞬にして消え去り、悲しいかな、その「最後の失敗した姿」だけが人々の記憶にこびりついてしまいます。彼らも私たちと同じ、血の通った、過ちを犯す一人の人間に過ぎないにもかかわらず、私たちは勝手な期待を押し付け、裏切られたと感じて裁いてしまうのです。

 


「善い人」はいないという、静かな救い

ある日のこと、一人の青年がイエス様の元を訪ねてきました。 彼が「善い先生」と呼びかけたとき、イエス・キリストは静かに、しかし明確にこう答えられました。

「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」(マルコによる福音書 10:18

この世界に、自分自身の力だけで完璧な「善い人」になれる人間など、一人もいません。誰もが心に影を持ち、間違え、利己的になってしまう「罪人」として存在しているのです。しかし、この事実は決して絶望ではありません。むしろ、私たちを完璧主義の重圧や、他者を裁く冷たい心から解放してくれる、大いなる希望の光です。

 


弱さを持ち寄り、支え合う世界へ

誰も完璧に善くはない。だれもが欠けを持った不完全な存在である。 だからこそ、私たちの生きるこの世界には、互いの弱さを補い合い、助け合いながら生きるための「余白」が用意されているのです。相手の弱さを責めるのではなく、「自分もまた弱い人間なのだ」と互いに認め合うこと。その深い自己認識と赦しがあって初めて、人と人との間に本当の意味での「助け合い」が生まれます。 曇り空の下で、私たちが太陽の温もりを求めるように。不完全で弱い私たちは、互いの存在という温もりを必要としているのです。

自分の弱さを隠さず、他者の弱さを優しく包み込みながら、今日という日を丁寧に歩んでいきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年7月5日日曜日

お腹が満たされたら、次は?

 


満たされた後に探すもの。私たちが彷徨う「空間」と魂の帰る場所

人は、お腹が空いているとき、頭の中が「食べ物」のことでいっぱいになります。 しかし、いざ食事が与えられ、その空腹がすっかり満たされたとき、私たちの心は次に何を考えるのでしょうか。

 


ひとつの「穴」では生きられない私たち

食欲という最も根源的な欲求が満たされても、私たちの思考がそこで完全に停止し、永遠の満足を得ることはありません。心はすぐに次の関心事へと移り、別の何かを求め始めます。もしかすると、人間というものは、たったひとつの「穴」——ひとつの空間や、ひとつの満たし——だけでは決して生きていけない存在なのかもしれません。

私たちは常に、何らかの「空間」の中で生きています。

  • 雨風をしのぐ、家という空間
  • 自分の役割を確認するための、社会や家庭という空間
  • 心を満たすための、趣味や人間関係という空間

次から次へと新しい空間を求め、その中を移り渡りながら生きていく。そして、人生の最後の時が近づくと、多くの人が自分の行き着く先として「墓場」という空間を考え始めます。常に空間の中に身を置き、空間を埋めようとし続ける。それが、人間の逃れられない本質なのだろうかと考えさせられます。

 


永遠を慕う渇きと、本当の居場所

私たちがこれほどまでに「空間」に執着し、次々と新しい満たしを求めてしまうのはなぜでしょうか。それは、私たちが本来、この目に見える有限の空間だけでは決して満足しきれないように造られているからです。

聖書には、人間の心の奥底にある真実を突く、このような言葉があります。

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの言葉 / 伝道の書 3:11

私たちが次々と新しい空間を求め、最終的に墓場という物理的な空間にまで思いを馳せるのは、心の奥底にある「永遠への渇望」の裏返しです。私たちは、やがて朽ちていく土の中の穴ではなく、絶対に失われることのない「永遠の居場所」を、魂の深いところで探し求めているのです。

 


恐れずに、今の空間を生きる

私たちの魂が最後に行き着き、永遠に安らぐことができる場所。それは、冷たい石の下の空間ではなく、命の源である神様の、果てしなく温かく、広大な恵みの中です。

その最大の「空間」がすでに約束されていると知るとき、私たちはこの地上での有限な空間を、恐れることなく、もっと自由に生きることができるようになります。お腹が空き、満たされ、また別の何かを求める。そんな不完全で愛おしい人間の営みを繰り返しながら、確かな光の差す方へ、一歩ずつ歩みを進めていきましょう。

今日も、共に前進です。

朝ラン22キロ完走

 


孤独という名の自由と、魂の鎖を解き放つ夜明けの風

午前4時。今日もランニングに出かけました。 今日は西公園方面へと足を伸ばし、最後は若林区のコースを巡って帰宅する道のり。祈りを込めながら一歩一歩を重ねる、22キロの祈りのランです。休日の朝ということもあり、道中では思いのほか多くのランナーの姿を見かけました。

 


並走の熱と、やがて訪れる静かな孤独

流れる景色の中で、すれ違う人々は一体何のために走っているのだろうかと、ふと考えを巡らせました。 風を切る心地よさを求めて走る人。健康を願う人。あるいは、誰か大切な人のために走る人もいるかもしれません。しかし、その理由が何であれ、懸命に前へ進もうとするその姿そのものが、理屈抜きに良いものだと感じます。

走っている途中、たまたま同じ道沿いを誰かと並走することがあります。 すると不思議なもので、自分の心の奥底から静かな熱のようなものが湧き上がり、脚に確かな力が入ってくるのを感じるのです。共に前を向く存在が放つ、無言の励ましです。

しかし、「このままずっと一緒に走ってほしい」という微かな願いは、道半ばで崩れ去ります。彼らはやがてその日の走りを終え、歩き始めるからです。 以前、若林区の緑地にある陸上トラックを20周(20キロ)走った日のことを思い出しました。あの時も、最初は周りに人がいたはずなのに、気がつけば皆どこかへ行き、最後まで同じ道を走り続ける人は誰もいませんでした。

 


縛られない身軽さと「真の自由」

結局のところ、同じ道を最後まで走り抜いてくれる人はいません。 しかし、それは決して寂しいことではありません。なぜなら、一人のランこそが、誰のペースにも縛られずに気ままに走ることができる「自由な道」だからです。

私たちが生きる上で、この「自由に生きる」ということは、本当に大切なことです。

  • この世が絶えず要求してくる目に見えないプレッシャー
  • 終わることなく湧き上がる、欲という名の束縛


 

私たちは知らず知らずのうちに、これらに縛り付けられ、息苦しさを抱えながら生きています。イエス・キリストがこの世界においでになったのは、私たちがこれらの鎖から解き放たれ、欲に縛られずに満足して生きる「真の自由」を与えるためでした。

それなのに、一部の宗教家たちはそのせっかくの自由を、「掟」や「律法」という新たな拘束の道具として用い、再び人々の魂を不自由に縛り付けてしまっています。キリストが与えられたのは、人を息苦しくさせるルールではなく、大空の下を自分の足で軽やかに走り出すような、本質的な解放であったはずです。

 


掟ではなく、恵みの中を走る

誰かとペースを合わせるために息を乱す必要はありません。この世の掟や、人間が作り出した宗教的な重荷に縛られて立ち止まる必要もないのです。

すでに与えられている真の自由を胸いっぱいに吸い込み、気負うことなく、あなた自身の道を歩き出してください。魂の鎖は、もう解かれています。

今日は主の日の礼拝。 この尊い務めのために、私は一週間を走り抜いてきました。

そして今日、礼拝を通して新しい力をいただき、また次の一週間を走り出していく――その始まりの日です。

今日も、共に前進です。

2026年7月4日土曜日

前菜で焼きそば

 


語られない36キロの軌跡と、食卓を満たす静かな恵み

昼下がり、近くの八百屋とパン屋へ足を運びました。 家族にはそれぞれ、愛すべきいつもの好みがあります。

  • 妻には、変わらず大好きなブドウパンを。
  • 娘には、嬉しそうに選ぶチョコ系のパンを。
  • そして私は、やっぱり餡子ぱん。
  • ノアには?今日もリンゴです。ノアの好物は、いつだってリンゴ。

こうして一人ひとりの好きなものを思い浮かべながら買い物をする時間は、ささやかですが、とても幸せなひとときです。

娘は来週から始まる在宅実習に向けて、さまざまな準備に追われています。妻はそんな娘をサポートするため、実習に必要なものをダイソーへ買い出しに出かけていきました。 私はといえば、明日のための準備をしながら、静かに自分の時間を過ごしています。

 


語らないという、穏やかな愛の形

長距離を走った日は、一日中、体の奥底から空腹感が続きます。 あれこれと食べ物を口にしている私を見て、妻がふと笑って言いました。 「ノアと一緒だね」

妻は、私が今朝すでに36キロもの距離を走り抜いてきたことを知りません。私からは日頃言わないので、どこを何キロ走ったのか、彼女は知る由もないのです。 そして私も、あえてそれを口にはしません。 「別に問題にならないことは、あえて言わない」 それが私の主義であり、それで良いのだと深く納得しています。

私たちは、自分の努力や達成したことを、つい誰かに認めてもらいたくなるものです。しかし、すべてを言葉にして説明しなくても、自分自身が確かにその道を走り抜いたという事実は、決して消えることはありません。 他者の評価に依存せず、自分の内に静かに収めておく努力の結晶。それを持つことは、心の深い部分に揺るぎない根を張るような、確かな平安をもたらしてくれます。

 


サンティアゴの記憶と、満ち足りた食卓

お昼には、野菜をたっぷりと入れた焼きそばを作りました。 妻と娘は「これだけでお腹がいっぱいになる」と言いますが、私にとって焼きそばは、あくまで「前菜」です。

かつて歩んだ「サンティアゴ・デ・コンポステーラ祈りの旅」での光景を思い出します。あの巡礼の地のレストランでは、自分はランチの際、まず前菜としてパスタ(スペインでは前菜のメニューになっています。)を食べ、その後にメインの肉料理をいただくのが習わしでした。 その時と同じ感覚で、私は焼きそばを平らげた後に、メインとしてご飯をいただきます。食べる量も、好みの味も、歩幅も違う私たちですが、食卓を囲む時、そこには共通する一つの大きな恵みが降り注いでいます。 それは、「お腹いっぱい食べられる」という圧倒的な祝福です。

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。」(マタイの福音書 6:11

ただ美味しいご飯を食べ、お腹が満たされていく。この何気ない日常のひとときは、決して人間の力だけで勝ち取ったものではなく、天から与えられた限りない恵みです。

 


恵みに感謝し、静かに羽を休める

今日は土曜日です。 張り詰めた糸を少しゆるめ、無理に頑張ることはせず、心と体を静かに休ませながら明日に備える日です。 語られない36キロの努力も、家族それぞれの歩みも、すべてを優しく包み込むような豊かな食卓の恵みに心から感謝しながら、この静かな午後を深く味わいたいと思います。


今、リンゴ食べ中

今日は、ゆっくり前進です。