今年から婦人会の例会で取り扱う奇跡シリーズを掲載しています。
聖書箇所:列王記下 5章1節〜19節
1. 導入:思考は「魂の指揮官」
皆さま、こんにちは。2026年という新しい幕が開けましたが、私たちの心には今、どのような「風」が吹いているでしょうか。人生には、晴れの日もあれば、嵐の日もあります。しかし、私たちの人生を最終的に決定づけるのは、実は「何が起きたか」ではなく、それを「どう捉えるか」という、私たちの思考の向きです。心理学的な側面から見ても、思考はその人の人格を導く「指揮官」のような役割を果たします。肯定的な思考は成熟した人格を育て、否定的な思考は可能性を閉ざしてしまいます。今日は、重い皮膚病(らい病)に苦しんだアラムの将軍ナアマンの物語から、絶望を奇跡に変える「三つの視点の転換」について学んでいきましょう。
2. 「名もなき少女」の神学:最小の者が最大の門を開く
この壮大な奇跡の物語の始まりは、一人の名前さえ記されていない、捕虜の少女の言葉でした。
【ここが驚き!】: 聖書学的に見ると、この少女はヘブライ語で「ナアラー・ケタンナー(小さな少女)」と表現されています。彼女は戦争の犠牲者であり、異国で奴隷となった、当時の社会で最も「力のない存在」でした。しかし、彼女の口から出たのは、恨みや呪いの言葉ではなく、「主人を癒やしたい」という驚くべき肯定的な願いでした。
【逆転のパラドックス】: アラムの強大な将軍ナアマンを動かし、王たちを動かし、歴史を動かしたのは、軍事力でも金でもなく、一人の少女の「信仰に裏打ちされたポジティブな一言」でした。神様は、世の「強いもの」を恥じ入らせるために、あえて「弱いもの」を奇跡の最初の鍵(キーマン)として選ばれるのです。皆さんの小さな祈り、小さなお節介、小さな励ましが、実は巨大な奇跡の導火線になっているかもしれません。
3. イスラエル王の陥穐:恐れが作る「心の迷宮」
少女の言葉を受けて、ナアマンはイスラエルの王のもとへ向かいます。ところが、アラム王からの手紙を読んだイスラエル王の反応は悲惨なものでした。「私は神なのか?
殺したり生かしたりできるとでもいうのか!」と、自分の服を裂いて絶望したのです。
- 【ここが驚き!】:
王という最高の地位にありながら、彼の思考は「過去の恐怖」に支配されていました。彼は問題を「外交上の罠」として拡大解釈し、まだ起きていない未来の戦争を恐れて自滅しかけていたのです。
- 神学的な教訓:
信仰のない思考は、問題を実際よりも巨大に見せ、自分を無力化させます。イスラエルの王は「王冠」を持っていましたが、少女が持っていた「神の視点」を持っていませんでした。問題に直面したとき、服を裂く(絶望する)のではなく、まず「神様ならどうされるか」を尋ねる。これこそが、私たちが学ぶべき思考のレッスンです。
4. ヨルダン川の「7回」:期待というプライドを捨てる
エリシャのもとにたどり着いたナアマンを待っていたのは、さらなる「期待外れ」でした。エリシャは顔も見せず、使いの者を通して「ヨルダン川で7回洗え」と伝えただけだったからです。
- 【ここが驚き!】:
ナアマンは怒りました。「ダマスコの川(アマナやパルパル)の方がずっと綺麗じゃないか!」と。実はこれ、地理学的には正しいのです。ダマスコの川は澄み切っていますが、ヨルダン川は泥が混じり、濁っていることが多いのです。
しかし、神様が求めておられたのは「綺麗な川」ではなく、ナアマンの「素直な従順」でした。
- 数秘学的な意味(7の意味): なぜ「7回」だったのでしょうか。聖書において「7」は完全数(シェバ)を意味します。1回、2回と洗っても変化はありません。3回、4回……もし6回で止めていたら、奇跡は起きなかったでしょう。7回という数字は、「自分の納得」を完全に捨て、神様の言葉を「100%受け入れる」までやり抜く、徹底した服従の象徴なのです。
5. 「タバル(浸かる)」の奇跡:罪という病の癒やし
ナアマンがようやく自分の考えを捨てて、ヨルダン川に身を沈めたとき、彼の皮膚は「幼子の肌のように」新しくなりました。
- 驚きのヘブライ語:
ここで「浸かる」と訳されている言葉は、前回学んだヨシュア記と同じ「タバル」です。これは単に洗う(ラハツ)のではなく、完全に潜り、自分を消し去ることを意味します。
- 魂のリカバリー:
私たちの心にも、誰にも言えない「罪の皮膚病」のような汚れがあるかもしれません。自分なりの解決策(ダマスコの綺麗な川)では治りません。ただ、泥だらけのヨルダン川のような「十字架の恵み」の前に自分を投げ出し、神様の言葉に100%同意するとき、私たちの魂は幼子のように新しく創造されます。
6. 結び:神様の視点に「チャンネル」を合わせる
皆さま。 私たちの人生という戦場において、肯定的な思考を持つということは、単なるポジティブシンキング(前向きな考え方)ではありません。それは、**「自分の視点から、神様の視点へと、チャンネルを合わせ直すこと」**です。
- 捕虜の少女のように、不条理の中でも神の可能性を語りましょう。
- イスラエル王のように、問題を拡大解釈して自滅するのをやめましょう。
- ナアマンのように、自分の「こうあるべきだ」という期待を捨てて、主の言葉に従いましょう。
「どうせ無理だ」という否定的なリマインダーを捨て、今日、私たちは高らかに宣言しましょう。「神様には不可能なことは一切ない」と。
皆さんの2026年が、この「信仰の肯定」によって、想像もつかないような素晴らしい奇跡で彩られることを、主の御名によって祝福いたします。






