デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年5月27日水曜日

今日も無事に帰還

 


帰りのスーパーで、私は一本のサバを見送りました。本当は、今日はあの店の焼きサバ定食を食べるつもりでした。昨日の夜から、心はすでに決まっていました。脂ののったサバ、大根おろし、湯気の立つ味噌汁、白いご飯。忙しい二日間を終えた自分への、小さなご褒美でした。教区総会を終えた帰り道、張り詰めていた時間がようやくほどけ、肩に食い込んでいた見えない重りを下ろしたような気持ちになっていました。

「今日は、ゆっくりサバ定食を食べよう。」

そう思っていたはずなのに、気がつけば私はスーパーのカゴにキャベツともやしと豚肉を入れていました。家族の夕食を作ろう。ただ、それだけでした。

 


不思議なもので、人は疲れている時ほど「自分のため」より「誰かのため」に動くことで、心が整っていくことがあります。キッチンに立ち、包丁の音が響き、フライパンの上で野菜が跳ね、コチュジャンの香ばしい匂いが部屋に広がっていきました。誰もまだ帰ってきていない静かな家の中で、私は一人、湯気の向こうを見つめていました。

すると、娘から連絡が入りました。

「今から終わるよ。」

昨日までは「スタバでコーヒー買って待ってるね」という約束でした。しかし予定が変わり、「一緒にスタバへ行こう」という話になりました。人生は、こうした小さな変更に満ちています。私たちは毎日、「こうなるはずだった」という設計図を心に描いて生きています。予定通り進めば安心し、狂えば少し苛立ちます。けれど最近、私は思うのです。
神様は時に、私たちの予定を壊すのではなく、書き換えておられるのではないか、と。

 

サバ定食を失った代わりに、私は家族の食卓を得ました。先にコーヒーを買って待つ代わりに、スタバに向かう中で娘と話し合う時間を得ました。もし予定通りサバ定食屋に入っていたら、私はきっと満腹にはなったでしょう。しかし今日ほど、心は温かくならなかったかもしれません。

聖書にはこうあります。

「人は心に自分の道を思い巡らす。しかし、その人の歩みを確かなものにするのは主である。」(箴言169節)

人は計画します。それは悪いことではありません。むしろ、真剣に生きている証拠です。
しかし本当に大切なのは、「予定通り進んだかどうか」ではなく、予定外の出来事の中で何を受け取ったか、なのかもしれません。明日は、愛犬ノアの13回目の狂犬病予防接種の日です。13年という数字は短く見えますが、その中には数え切れない朝と夜があります。

散歩道。眠る姿。家族の笑い声。病気を心配した日。帰宅を喜んで飛びついてきた瞬間。
命を守るというのは、劇的なことではありません。毎年変わらず病院へ連れて行くこと。
ご飯を準備すること。名前を呼ぶこと。「今日も生きていてくれてありがとう」と心のどこかで思うこと。愛とは、案外こうした地味な継続なのだと思います。派手ではなく、誰にも褒められない。しかし、その積み重ねが人生を静かに支えています。

だから私は思います。人生は「特別な成功」でできているのではなく、予定変更の連続の中で、それでも誰かを愛そうとした時間でできているのだ、と。

 


夕暮れのスタバで、娘と並んでメニューを見つめ、冷たいコーヒーのカップを受け取り、何気ない会話を交わしました。その瞬間、私は気づきました。今日という日は、決して「計画通りに進まなかった日」ではありませんでした。むしろ、計画以上の恵みが静かに流れ込んだ日だったのです。もし今、あなたの人生にも「予定外」が起きているなら、どうか絶望しないでください。遠回りに見える道の途中でしか出会えない景色があります。失ったと思ったその場所に、別の贈り物が置かれていることがあります。

 


神様は、私たちから何かを奪うためではなく、もっと深い喜びへ導くために、時に予定を書き換えられるのです。だから今日も。完璧にできなかった自分を責めるのではなく、思い通りにいかなかった一日の中に隠されている小さな恵みを探してみましょう。湯気の立つ食卓。誰かと分け合うコーヒー。帰りを待ってくれる命。「おかえり」と言える家。

それだけで、人はまた明日を生きていけます。

今日も、人生は美しく続いています。

汗と冷たいコーヒーが繋ぐもの

 


汗と冷たいコーヒーが繋ぐもの ―― 平和という名の、愛の「手作り」

午前四時半の路上と、季節を告げる汗のしずく

迷いを振り切るように、結局、私は今日も朝の路上に立っていました。時計の針が午前四時半を回る頃にスタートを切り、昨日と全く同じコースを辿って、23キロの距離を走り抜きました。

一歩一歩路面を蹴るたびに、大気に含まれる熱がじわじわと身体にまとわりついてくるのを感じます。季節は確実に、だんだんと夏場へと向かっています。それに伴い、走ることへの負荷も少しずつ苦しくなってきました。  全身を止めどなく流れる汗の量が、私にひとつの確かな事実を告げています。そろそろ、自らの手でお水を持参して走る時期がやってきたのだ、と。これから先はさらに厳しいランニングの季節となりますが、環境の変化にしっかりと対応する準備を整えながら、私はこの道を走り続けたいと願っています。

 


スタバの約束と、満面の笑みが教えること

朝ラン23キロの闘いを終えて迎えた、家族の朝。  今日、娘は自らの学びの場である実習へと向かいます。厳しい環境に立ち向かう彼女の背中を押すために、私はひとつの提案をしました。 「帰りはパパが迎えに行くよ。その時、スタバのコーヒーも買って車で待っているから、メニューが決まったら到着時間などを知らせてね」と。

その言葉を聞いた瞬間、娘の顔にパッと「満面の笑み」が咲き誇りました。朝から彼女の心のテンションが、目に見えて上向きになったのが分かります。  そして妻に対しても、「今日は送っていくことは出来ないけれど、帰りには必ず迎えに上がるからな」と言葉を手渡しました。この何気ない朝のやり取りのなかで、私はある深い真理に直面していました。  それは、「平和と笑顔を作ってあげるのは、決して自然に起きる現象ではなく、誰かの確かな努力が必要である」という事実です。

私たちは時折、家庭の団らんや穏やかな日常を「そこにあって当たり前のもの」として消費してしまいがちです。しかし、自然のままに放置された庭がやがて荒れ果ててしまうように、人の心もまた、誰かが水を注ぎ、手入れをしなければ、すぐに渇き、すれ違ってしまうものなのです。

 


愛とは、先回りして「水」を準備する努力

私が夏のランニングの厳しさを予期して「お水を持参しよう」と準備するように。  実習という闘いで乾ききった娘の心を見越し、冷たいスタバのコーヒーを「先回りして」車に準備するように。

愛する人の笑顔は、天から偶然降ってくるものではありません。それは、誰かが相手の労苦を思いやり、自分の時間とエネルギーを削って生み出した「手作りの芸術」です。

聖書は、私たちが自ら進んで平和を創り出すことの尊さを、このように語っています。

「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれます。」(ヤコブの手紙 318節)

平和を「待つ」のではなく、平和を「実現する(創り出す)」人になること。  自分自身は23キロの疲労で身体が悲鳴を上げていても、愛する妻や娘のために車のキーを握り、迎えに行く。その誰にも見えない「ひと手間という名の努力」が種となって蒔かれるとき、我が家という空間に、何ものにも代えがたい「笑顔の収穫」がもたらされるのです。

 


今日、誰かのために汗を流す

あなたの周りにある「平和」は、今、誰の努力によって支えられているでしょうか。そしてあなた自身は今日、誰の笑顔のために、ほんの少しの汗を流すことができるでしょうか。完璧な人間になる必要はありません。ただ、ほんの少しだけ相手を想う「準備」があれば、世界は確実に温かくなります。

  • 環境の変化を受け入れる: 夏の暑さや生活の厳しさに文句を言うのではなく、「それに対応して走り続ける」ための準備(水)を整える。
  • 小さなオアシスを約束する: がんばる誰かに、「帰りに待っているよ」「好きなものを買っておくよ」という未来の楽しみ(スタバのコーヒー)を約束し、今日を生き抜く力をプレゼントする。
  • 努力を惜しまない: 平和と笑顔は「自然発生」しないという事実を胸に刻み、大切な人のために、あえてひと手間をかける労苦を愛する。

 


助手席のコーヒーと、変わらぬ歩み

やがて夕暮れが訪れ、車の中で娘の好きなコーヒーの香りが漂う頃。助手席のドアが開き、疲れ果てた彼女が満面の笑みで乗り込んでくる瞬間を想像するだけで、私の魂はすでに深い喜びで満たされています。

夏へと向かう道がどれほど厳しくとも、私たちは決して一人で走っているわけではありません。愛する者の笑顔という最高の報酬がある限り、どんな労苦も、美しい汗へと変わっていくのですから。

誰かのために心を砕くその尊い努力を胸に抱きながら、明日という新しい路へ向かって、力強く一歩を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。こういう気持ちで今日の総会会議に臨みたいと思います。

暗闇をひらく午前三時の足音

 


暗闇をひらく午前三時の足音 ―― 名もなき誠実さと、今日も続く私たちの路

夜明け前の静寂と、隣の建物の小さな熱気

深い夜の底を歩くような、愛犬ノアちゃんとの散歩。ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込み、静まり返った街から無事に帰宅しました。

時計の針が午前三時を回る頃、世界はまだ深い眠りの中にありますが、我が家の隣の建物の1階だけは違います。そこには人々が集まり、慌ただしくも確かなリズムで動き出す姿が、今日も私の目に飛び込んできました。 彼らは、私たちの街の朝を形作る、新聞配達員の方々です。その顔ぶれは実に様々です。これからの未来を背負う若者から、人生の年輪を深く刻んだご年配の方まで。一人ひとりが、決して口には出さない「それぞれの思い」や「背負うべき生活の重さ」を胸に秘めながら、黙々と新聞の束と向き合っているのです。

 


雨の日も雪の日も、指定された場所へ

ランニングの途中、花壇の地域を担当する新聞配達所の前を通りかかったとき、ふと一枚の貼り紙が目に入ったことがあります。 そこには「75歳まで働けます。」と書かれていました。隣の配達員の方々の姿を数年にわたって見つめ続けてきた私には、その言葉の奥にある「重み」が痛いほどよく分かります。この仕事は、ただ「朝が弱い人には絶対に出来ない」という生易しいものではありません。 叩きつけるような雨の日も、凍えるような雪の日も、息苦しいほどの暑い日も、骨身に染みる寒い日も。彼らは決まった曜日の午前三時になると、一人、また一人と集まり、ただ黙々と、自分の担当する地域へと重い新聞を携えて闇の中へ出発していくのです。

華やかなスポットライトが当たることはありません。誰かから直接「ありがとう」と拍手をもらうことも少ないでしょう。しかし、彼らが冷たいペダルを漕ぎ、一軒一軒のポストに「今日」という日を届けてくれなければ、社会の朝は始まりません。そこにあるのは、どんな不条理な天気であっても自分の持ち場から決して逃げ出さない、人間の極めて気高く、美しい「誠実さ」そのものです。

 


見えない労苦を見つめる、神のまなざし

私たちは時折、自分の抱える重荷や、誰にも評価されない日々の単調なルーティンに虚しさを覚え、「こんなことを続けていて何になるのだろう」と足が止まりそうになることがあります。しかし、人々が寝静まった午前三時の暗闇の中で、黙々と新聞を配る彼らの背中を想うとき、私たちの魂は静かな慰めと勇気を受け取ります。誰も見ていない場所での労苦を、決して見落とさない方がおられるからです。

「何をするにも、人に対してではなく、主に仕えるように、心から行いなさい。」(コロサイの信徒への手紙 323節)

神様は、私たちがどれほど大きな成果を上げたかではなく、与えられた今日という「担当地域」に、どれほど誠実に足を運んだかを、その温かいまなざしでじっと見つめておられます。午前三時の配達員も、実習に向かう学生も、そして教区総会へと向かう牧師も、神の御前においては等しく、尊い「今日を運ぶ者」なのです。

 


サバの記憶と、愛を仕込む夕暮れ

今日、あなたはどんな思いを胸に秘めて、自分の持ち場へと出かけていくのでしょうか。

私にとっての今日は、教区総会の二日目という、精神的にも大きなエネルギーを必要とする日です。しかし、私の心には今、ひとつの小さな、しかし極めて強固な「楽しみ」の錨が下ろされています。

それは、昨日食べた「焼きサバ定食」の、忘れられない味です。 数年ぶりに味わった、あのお店での焼き魚の豊かな風味。今日もまた、あのお店ののれんをくぐり、あのサバ定食を食べようと固く心に決めています。大きな議論や公務の合間に、自分自身を労わり、命の味をじっくりと咀嚼する時間を持つこと。それもまた、自分の路を長く歩み続けるための、大切な信仰の知恵なのです。

  • 名もなき誠実さを尊ぶ: 誰かの目につかなくても、雨の日も風の日も持ち場を守る自分自身の歩みを、誇り高く肯定する。
  • 小さな喜びを予約する: 「今日のお昼はあれを食べよう」というささやかな楽しみが、張り詰めた心に深い余白とゆとりを生み出す。
  • 帰るべき場所へ愛を届ける: 大きな公務を終えたあとは、ロピアで丁寧に食材を選び、待っている家族のために美味しい夕食を作る。その日常の営みこそが、世界で最も確かな平和の砦となる。

 


それぞれの「今日」を携えて

隣の建物からは、今日も新聞を積み込む微かな音が聞こえてきます。彼らはすでに、それぞれの担当地域へと出かけていきました。

私たちもまた、自分の心の中に「誠実さ」という新聞を携えて、今日という日のスタートラインに立ちましょう。 総会の重責も、焼きサバ定食の香ばしい喜びも、そしてロピアの袋に詰まった家族への愛情も、すべてを等しく大切な荷物として背負いながら。

暗闇をひらいてくれた誰かの足音に感謝しつつ、確かな足取りで、目の前の一歩を力強く踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年5月26日火曜日

地球という聖所を守る

 


地球という聖所を守る】限界の時代のキリスト者の歩み

現代を生きる私たちは、今、かつてない「限界」の時代に立っています。先日、オーストラリアのフリンダース大学などの研究チームが発表した報告(『Environmental Research Letters』誌掲載)は、人類にとって極めて厳しい現実を突きつけました。現在、地球の人口は約83億人に達していますが、地球が本来持つ資源の再生能力や環境の自浄作用から見れば、すでに持続可能な収容限界を大きく超えているというのです。

研究によれば、もし全人類が先進国並みの豊かな生活を求めるならば、地球の適正人口はわずか15億人から25億人程度にすぎないといいます。私たちは今、未来の世代が使うべき資源を「前借り」し、地球という器から溢れ出すような過剰な消費を続けているのです。この「飽和」の状態は、私たちが目的地を見失い、ただ闇雲に走り続けている姿に似ています。

 創世記128節において、神は人間に「生めよ、ふえよ、地に満ちよ。地を従わせよ」と祝福を与えられました。しかし、この「従わせよ(治めよ)」という言葉は、決して人間が地球をわがままに支配し、搾取してよいという免罪符ではありません。原典の意味を辿れば、それは「神が造られた美しい世界を、神に代わって慈しみ、守り、管理する」という、聖なる「管理人(スチュワードシップ)」としての使命を指しています。

神が創造の業を終えられたとき、「極めて良かった」と仰ったその世界には、調和と秩序、そして「余白」がありました。しかし、現代の不条理は、私たちがこの「管理人」としての責任を、自らの「欲」という欲望にすり替えてしまったことから始まっています。解決策は科学的に提示されています。「人口を抑制し、消費を抑えること」です。しかし、なぜこれが実現しないのでしょうか。それは、現代人が「犠牲」を極端に嫌うからです。誰もが自分は痛みを受けず、他人も痛まず、それでいて全てが解

決するという「ウィン・ウィン」の幻想を追い求めています。私たちキリスト者の使命は、この「犠牲を厭う世界」にあって、あえて「十字架の道」を指し示すことにあります。主イエス・キリストがそうであったように、報いを1%も期待しない、純粋な自己犠牲の歩みこそが、硬直した世界に風穴を開けるのです。それは、無理な拡大を求める生き方から、神が定められた「足もとの一歩」を大切にする生き方への転換です。

私が今週、120kmという距離を走る中で学んだのは、「週100km」という自分の限界を知り、それに「満足する」という知恵でした。満足すること、すなわち「足るを知る」ことは、地球の資源を守るための最も具体的で霊的な戦いです。自分の欲を十字架に付け、主から与えられた「命の冠」だけを唯一の報酬として、簡素に、しかし豊かに生きる。その一人ひとりの「小さな安息」の積み重ねこそが、傷ついた地球を癒やす「聖霊の風」となるのです。

今、私たちの足もとにあるランプは、遠い未来を全て照らしはしません。しかし、今日踏み出すべき「慎ましい一歩」は、はっきりと照らしています。主が造られたこの地球という聖所を、次世代のために守り抜く。その管理人の使命を、私たちは今、改めて深く刻まねばなりません。すべては主なる神様の栄光のために!!!

ひとつの器に満ちる無事

 


ひとつの器に満ちる無事 ―― 久しぶりのサバ定食と、それぞれの帰還

いつものドアを開ける、安堵の夜

教区総会の一日目が終了し、夜の気配が満ちる頃、無事に我が家へと帰宅しました。やはり、大きな公務の後は心地よい疲労感がずっしりと身体に残ります。心から「疲れました」と、深い息がこぼれます。

玄関で靴を脱ぐと、日中きちんと留守番をしてくれていたノアちゃんが迎えてくれました。そして、今まさに、娘も病院での実習を無事に終えて帰宅しました。

それぞれが自分の持ち場で、自分なりの闘いを繰り広げてきた火曜日。こうして再び同じ屋根の下に集まり、家族全員が無事に「帰還」を果たしたこと。その当たり前のようでいて、決して当たり前ではない事実に、胸の奥から静かな感謝が湧き上がってきます。

 


手渡されたお弁当と、数年ぶりの外食の味

今日の総会では、お昼にお弁当が手渡されました。 私はそのお弁当を持って、事務所で働いている妻のところへ行き、それを彼女に手渡しました。(妻はお昼の時間、コーヒー販売などの仕事があるので)そして自分自身は、近くにあるお店へと足を運び、そこでご飯を食べることにしたのです。注文したのは、じっくりと火が通された「サバ定食」。 湯気のあがる焼き魚を箸でほぐしながら、ふと気がつきました。こうして自分の家やいつもの台所ではなく、「お店」に入って腰を落ち着けてご飯を食べたのは、もしかしたら数年ぶりのことかもしれない、と。そして、丁寧に焼かれた魚の味を外でいただくことも、本当に久しぶりの豊かな時間でした。私たちは日々のルーティンや役割のなかで、知らず知らずのうちに自分の行動範囲や習慣の枠を固定してしまいがちです。けれど、いつもと少しだけ違う選択をしてみること。誰かにお弁当を譲り、自分は違う扉を開けてみる。そのささやかなひと手間の先に、忘れていた新鮮な感謝の味が待っているのです。

会場では、久しぶりに出会った山形の先生と言葉を交わすことができました。それぞれが全く異なる場所で、それぞれの重荷を背負いながらも、主に用いられ、誠実に活躍している姿。その横顔に接することができたことも、今日という一日を優しく支えてくれる大きな恵みでした。

 


悲鳴をあげる前に、器を休める知恵

今日の23キロの闘いのようなランニングを経て、さらに総会の議論を重ねた身体は、今、確実な休息を求めています。 だからこそ、私は心の中で「明日もランニングは休むことにしよう」と決めました。知らんけど、とりあえず今はそういうつもりです。

明日の朝、また心の取引が始まるかもしれませんが、今の自分のコンディションに正直になり、「休む」という決断を自分に許してあげること。それもまた、長く走り続けるための大切な信仰の知恵です。

聖書は、私たちが自らの限界を知り、神様の平和のなかに身を委ねることの大切さをこのように語りかけています。

「あなたがたは、立ち返って静かにしているならば救われ、穏やかにして信頼しているならば力を得る。」(イザヤ書 3015節)

活動の強火を一度止め、余熱のような静けさのなかで、与えられた恵みをじっくりと咀嚼する。外でどれほど世界の秩序が乱れ、社会が忙しく動いていようとも、私たちは自分の器のサイズに合わせて、静かに息を整える聖域を持っています。

 


今日を肯定し、それぞれの荷を降ろす

火曜日の今日、あなたの身体と心は、どれほどの疲れを溜め込んでいるでしょうか。スタートしたばかりなので「まだまだがんばれる」と、自分を追い込みすぎてはいないでしょうか。誰かと比べるのをやめ、自分たちが無事に一日を終えられたことに、ただ真っ直ぐに目を留めてみましょう。

  • 出会いの足跡に感謝する: 久しぶりに会った人の活躍を喜び、互いの無事を執り成し合うなかで、心の国境線を優しく溶かしていく。
  • 小さな非日常を味わう: 数年ぶりの外食や久しぶりの焼き魚のように、日常のわずかな変化のなかに隠されている新鮮な喜びを、見落とさずに受け取る。
  • 「休む決意」を堂々と持つ: 明日のことは、明日になってみなければ分かりません。だからこそ、今は「休むつもりだ」と自分の身体の声を尊重し、魂に深いゆとりをプレゼントする。

 


温かい食卓と、それぞれの眠りへ

昨日仕込んだキャロットパウンドケーキの甘い記憶をどこかに残しながら、我が家には、実習を終えた娘の息遣いと、しっかりお留守番をしてくれたノアちゃんのぬくもりが満ちています。明日は教区総会の二日目。どのような時間が待っているかは分かりませんが、今夜はただ、家族全員が無事に帰還したという最大の奇跡を両手で抱きしめて、美味しく食べ、深く眠るだけです。

張り詰めた防衛のスコップをそっと降ろして、満たされた心のまま、心地よい夜の帳の中へと一歩を踏み出していきましょう。

今日も、共に前進です。

50点の朝に灯る、小さき一歩

 


50点の朝に灯る、小さき一歩 ―― 「止まらない」という名の、確かな信仰

午前五時の重い身体、冷たい靴紐

新しい朝が目を覚ますとき、私たちの心と身体は、いつも完璧な満点を示しているわけではありません。

今朝の私のコンディションは、お世辞にも万全とは言えない「50点」。 ずっしりと残る昨日の疲れを前に、身体は「今日は横になっていよう」とささやき、心は「いや、それでも路上へ出よう」と促す。50点という限られたエネルギーの境界線の上で、今朝もまた身体と心の静かな闘いが始まりました。

結果として、いつものことですが、今回も心が勝ちました。 時計の針が五時を過ぎた頃、私は玄関のドアを開けて外の空気のなかへ這い出していきました。走り出してすぐ、やはり思うようにスピードが出ないことを自覚します。呼吸はいつもより重く、一歩一歩が路面を重く叩く。けれど、私は足を止めませんでした。ただ淡々と、止まらずに、前に向かって走り続けたのです。

 


「気持ちよさ」の彼方にある、闘いとしてのラン

今日のランニングは、澄んだ朝風を心地よく感じるような、爽快なものでは決してありませんでした。最初から最後まで、自分の弱さや重みと愚直に向き合い、闘い続けた23キロ。走り終えたとき、手元の時計が示したペースは1キロあたり521秒でした。限界を感じる身体のわりには、よく崩れずに走り切れたなと思うと同時に、内側からはもう一つの「心の悲鳴」が小さく湧き上がってきます。

「今日から明日まで、教区総会だ。疲れるな、しんどいな……

これから始まる大切な公務、長時間の議論や調整。これから向かう予定の山積みのタスクを前に、私の魂は早くもプレッシャーを感じて身構えていたのかもしれません。

周囲を見渡せば、今日、娘は自らの持ち場である実習へと励むために出かけていきます。彼女もまた、慣れない環境のなかで必死に自分の闘いに挑んでいる。そして、私たちがそれぞれの戦場へと向かう日中、愛犬ノアちゃんは我が家で静かに留守番を担ってくれます。 誰もが、それぞれの重荷と、それぞれの「50点の現実」を抱えながら、今日という火曜日を生きようとしているのです。

 


100点満点を求めない、神の優しいまなざし

私たちは現代社会の中で、「いつでも元気で、成果を上げ、完璧でなければならない」という、見えない100点満点のプレッシャーに追われがちです。仕事でも、家庭でも、信仰生活においてさえも、100点を出せない自分を責め、無力感に苛まれてしまう。

しかし、神様が私たちに求めておられるのは、疲れを知らない鉄人のような強さではありません。むしろ、エネルギーが半分しか残されていない「50点の状態」のなかで、それでも差し出された今日の一歩をどう踏み出すかという、その姿をじっと見つめておられるのです。

 


聖書は、重荷を背負い、内なる悲鳴を上げながらも歩みを進める人々へ、このように寄り添う言葉を届けています。

「疲れた者に力を与え、勢いのない者に勢いを増される。若者も倦み、疲れ、壮年もよろめき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新たなる力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走っても倦まず、歩いても疲れない。」(イザヤ書 402931節)

よろめき、心の悲鳴を上げるのは、あなたがそれだけ今を真剣に、精一杯に生きているという何よりの証拠です。神様は、スピードの出ない私たちの遅い歩みを決して急かすことはされません。ただ、倒れずに「止まらずに歩み続ける」その小さき足取りを、大いなる愛の手で支え、担ってくださるのです。

 


不完全な今日のまま、生きる

新しく手渡された今日という日のなかで、あなたの心のコンディションは何点を示しているでしょうか。早くも心に疲れが溜まり、「しんどいな」と足が止まりそうになってはいませんか?満点ではない自分を、どうか責めないであげてください。私たちは、50点なら50点なりの、その時にできる精一杯の歩幅で、目の前の路を刻めばそれで良いのです。

  • 悲鳴をあげる自分を許す: 「疲れるな」という心の声を否定せず、「それだけがんばってきたんだね」と、自分自身の魂をまず優しく労ってあげる。
  • 「止まらない」を選ぶ: スピードは出なくても、劇的なジャンプはできなくても、今日与えられた持ち場(実習、仕事、家事)の中で、淡々と最初の一歩を踏み出す。
  • 身近な存在の尊さを覚える: 自分のために家を守ってくれるノアちゃんの静けさや、それぞれの場所で奮闘する家族の存在を想い、日常のなかに隠された小さな感謝のピースを集める。

 


一歩を前に、生きるのだ

走り終えた脚に少しの痛みを覚えながら、私は今、教区総会という次なる大切なスタートラインへと向かう準備を調えています。

どんなにしんどくても、どんなに先行きが不透明に見えても、私たちは今日という奇跡の一日を「生きる」ために送り出されています。完璧な条件が揃うのを待つ必要はありません。私たちはすでに、帰るべき温かい食卓と、共にいてくださる神様のまなざしを持っているのですから。身体の悲鳴をそっと大きな愛の中に委ねて、肩の力を抜き、確かな足取りで今日の一歩を前に進めていきましょう。

今日も、共に前進です。

2026年5月25日月曜日

不便は不幸じゃない

 


「不便は不幸じゃない ―― 取り違えた心をそっとほどくために」

🌿スマホを持たない人たちのこと

私の周りには、スマホも携帯も持たずに暮らしている人々がいます。すると、知人からは決まってこう言われます。「今の時代、それで生活できるの?」確かに、スマホがない生活は不便かもしれません。地図もすぐに見られないし、連絡も取りづらい。
でも、それは 不便であって、不幸ではありません。むしろ、「不便=不幸」と考えてしまう私たちの心のほうが、どこか疲れているのかもしれません。


 


🌧 2.なぜ私たちは不便不幸だと思うのか

現代の私たちは、便利さに慣れすぎてしまいました。

  • すぐに返事が来ないと不安
  • 充電が切れるとパニック
  • SNSの通知がないと取り残された気分

便利さは確かにありがたいものです。しかし、便利さに依存すると、少しの不便が「人生の危機」のように感じられてしまうのです。これは心理学でいう
「比較の罠」 に近い現象です。

  • 他人の便利と比べる
  • 他人のスピードと比べる
  • 他人の充実と比べる

その結果、「自分は遅れている」「自分は劣っている」「自分は不幸だ」と錯覚してしまうのです。でも、それは事実ではありません。


 


🔥 3.神様は不便の中にも恵みを置く」

聖書には、便利さを追い求めるような言葉は一つもありません。むしろ、こう語られます。「あなたがたの命は、衣服よりも大切ではないか。」(マタイ6章)

神様が見ておられるのは、あなたがどれだけ便利な生活をしているかではなく、あなたが今日、どれだけ豊かに息をしているかです。

不便の中には、便利さの中では気づけない恵みがあります。

  • 待つ時間に生まれる静けさ
  • 連絡が取れないからこそ守られる心の余白
  • 道に迷うことで出会う風景
  • 手間をかけることで深まる感謝

神様は、不便の中にもちゃんと光を置いてくださっています。


 


🌱 4. 不便を不幸と勘違いしてしまう似た例

実は、私たちは他にも同じような錯覚をしています。

「忙しい=価値がある」

本当は、休むことにも価値があるのに。

「速い=正しい」

本当は、ゆっくりだから見える景色があるのに。

「持っている=幸せ」

本当は、持たないことで自由になることもあるのに。

「人と同じ=安心」

本当は、違うからこそ美しいのに。これらはすべて、比較が生み出す錯覚です。

神様は、あなたを誰かと比べて創られたのではありません。あなたは、あなたとして十分に尊いのです。


 


🌤 5.不便の中に、今日の恵みを見つけよう

もし今日、スマホがなくて不便を感じたら、それを不幸だと思わないでください。

もし今日、誰かより遅れているように感じても、それを敗北だと思わないでください。

不便は、あなたを不幸にしません。むしろ、不便はあなたを今日に連れ戻す力を持っています。

  • 今ここにある風
  • 今ここにある光
  • 今ここにある人とのつながり

それらは、便利さでは手に入らない恵みです。どうか、不便の中に置かれた小さな祝福を見つけてください。

今日も、共に前進です。

大学礼拝説教

 


「東北学院土樋キャンパス礼拝説教」25-MAY-2026

説教題:「弱さ」でつながる勇気 ―― 孤立ではなく、共に歩む自立へ

聖 書:コヘレトの言葉4910

一人より二人のほうが幸せだ。/共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。

たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。/一人は不幸だ。倒れても起こしてくれる友がいない。

 

5月も下旬に入りました。新緑が美しい季節ですが、皆さんの心のコンディションは

いかがでしょうか。 4月の緊張感がふっと切れ、大型連休が終わって日常に戻った今、「なんだか力が入らない」「周りのみんなは楽しそうなのに、自分だけが取り残されている気がする」……そんな、言葉にできない「重さ」を感じている人もいるかもしれません。今の私達は、「一人で何でもこなせること」が自立だと教えられてきました。弱音を吐かず誰にも迷惑をかけず、スマートに生きること。しかしその「スマートな自立」を目指せば目指すほど、私たちは誰にも助けを求められない「孤独な檻」の中に閉じ込められては

いないでしょうか。

 

今日読んだ聖書の言葉は、非常に現実的です。たとえ一人が倒れても/もう一人がその友を起こしてくれる。と語っています。ここで注目したいのは、聖書が「人は必ず倒れる者だ」という前提に立っている点です。私達はつい、「倒れないようにしなければ」「弱さを見せてはいけない」と自分を追い込みがちです。しかし人生という長い道のりで、一度もつまずかない人などいません。むしろ聖書は倒れる事そのものを否定していないのです。大切なのは、倒れないことではなく、倒れた時に誰かがそばにいること。そして、誰かが倒れた時に自分が手を差し伸べられる事。神様は、私達が「一人で完璧に生きる」ことを求めておられません。むしろ弱さを抱えた者同士が支え合い、助け合いながら歩む事を

望んでおられます。私達が互いに寄り添い、倒れた者を起こし合う時、そこに神の国がつまり、神の愛が息づき、広がっていく姿が現れるのです。本当の意味で「自立」して

いる人とは、自分の限界を知っている人です。「ここからは自分の力だけでは無理だ」

「助けてほしい」と、自分の「弱さ」を正直に開示できる力。これを最近では**「受援力」**と呼んだりします。

皆さんの周りを見渡してみてください。皆、完璧に見えるかもしれませんが、実は誰もが「助けてくれる誰か」を必要としています。自立とは誰にも頼らない事ではありません。神様の眼差しの前に立ち、自分の弱さを認め、その弱さを介して誰かと手をつなぐこと。それこそが、聖書が教える「共に生きる」の第一歩です。

あなたが「助けて」と言ったその一言が、実は同じように苦しんでいた隣人の心を救う「光」になることもあるのです。

 

私は毎週、100キロを超える距離を走ります。一人で走る30キロ、40キロは、時に孤独で、足が止まりそうになる時もあります。しかし、誰かが横を走っていたり、応援の声をかけてくれたりするだけで、不思議と新しい力が湧いてくるものです。

皆さんの大学生活というレースも、一人で走り切る必要はありません。あなたが倒れそうになった時、主は必ず「助け手」を送って下さいます。そして何より、主ご自身があなたのすぐ隣を、あなたのペースに合わせて伴走して下さいます。もし今、何かに躓き、立ち上がれないと感じているなら、そのままで大丈夫です。主はあなたが倒れているその場所まで降りてきて、手を差し伸べておられます。その手を握り、隣にいる仲間の手を取ってもう一度ゆっくりと歩き出しましょう。「弱さ」は、あなたを孤立させるものではなく、

誰かと深くつながるための「鍵」なのです。

 

祈祷:主なる神様、 わたしたちが自分の弱さを受け入れ、その弱さの中から生まれる

新しい歩みを、あなたが支え導いてくださいますように。 主の御名によって祈ります。