2026年4月26日日曜日

🎬 揺れるイスと、揺るがない恵み

 


🎬 揺れるイスと、揺るがない恵み

先日、家族そろって映画館に行きました。 観たのは、娘のリクエストによるコナン映画。しかも4DX。 イスが揺れ、水しぶきが飛び、風が吹きつける── 映画というより、もはやアトラクションのような体験でした。家族全員で映画館に行くのは、気づけば56年ぶり。 スクリーンの明かりに照らされる横顔を見ながら、 「こういう時間も、恵みだな」と静かに思いました。

 


今日の説教の冒頭では映画の内容には触れず、 4DX揺れるイスの仕組みだけを紹介しました。

「居眠りの季節がやってきたので、教会のイスにも4DX機能が欲しいですね」 と軽く笑いを誘いながら。講壇のスイッチを押すと、イスがガタガタ揺れ、 ついでに水まで噴射される── そんな教会、ちょっと面白いかもしれません。

でも同時に、こうも思うのです。

詩編には、 「主は愛する者に眠りを与える」 とあります。

礼拝中に眠ってしまう姿を見ても、 「この人は神さまに愛されているんだな」 と受け止められるようになりました。

揺れるイスよりも、 揺るがない愛のほうが、ずっと大切です。

 


今朝は22キロの朝ラン。 まだ空気は冷たいけれど、走るうちに汗が流れ、 身体が目覚めていくのを感じます。



510日の仙台国際ハーフマラソンが近いせいか、 最近はランナーの姿が増えてきました。 私は大会には出ませんが、 自分のペースで、静かに走り続けます。

走ることは、祈ること。 一歩一歩が、心を整えてくれる。

揺れる季節でも、 予定がいっぱいの月でも、 主にゆだねるとき、 私たちは自分の力以上の力で前へ進むことができます。今日も無事に礼拝が終わり、 こうして静かな時間が与えられていることに感謝します。来週の日曜日は、礼拝後に和歌山へ。 5月は予定でいっぱいですが、 そのすべてが恵みの時です。

2026年4月25日土曜日

「独りで上る階段」と「共に担う重荷」

 


「独りで上る階段」と「共に担う重荷」―― 限界の先に差す光

老犬の背中を見つめながら

今、ノアとの散歩から帰ってきました。夜の冷気が心地よく、静かに一日の終わりを告げています。玄関先で、老犬となったノアが、一歩一歩確かめるようにして自力で階段を上っていく。その小さくなった背中を見つめながら、私は深い感謝を覚えていました。

「手がかからなくて良かった」ということではありません。私たちはつい、自力で自分のことができる状態こそが「健康」であり「感謝すべきこと」だと考えがちです。もちろん、それは一つの真実でしょう。けれど、階段を上るノアの姿を見ながら、私の心には別の、もっと深い問いが浮かんできました。


 


「自立」という美談の裏側にあるもの

私たちは「誰にも迷惑をかけずに生きる」ことを美徳としていないでしょうか。しかし、人生の本質的な感謝とは、実は「どんな時にも、どんな場合にも助け合って生きること」の中にあるのではないでしょうか。

年老いた親を世話し、体の不自由な家族を支え、言葉の通じないペットに寄り添う。それは、決して綺麗事ではありません。時には、出口のない暗闇の中にいるような絶望を感じ、死にたくなるほどの疲れに襲われることもあります。現実に、介護の重圧に耐えかねて、共に命を絶ってしまう悲劇がこの社会には溢れています。

それが、私たちの「人間としての限界」なのです。愛したいのに愛せない。支えたいのに、もう腕が上がらない。そんな自分自身の限界に突き当たった時、私たちはどこに希望を見出せば良いのでしょうか。


 


暗闇に差し込む、まばゆいほどの光

この「人間の限界」を突破する力は、私たちの外側からやってきます。それこそが、主イエス・キリストの十字架の死と、復活の出来事です。

十字架は、私たちの絶望や無力さ、すべての暗闇を引き受けた場所でした。そして復活は、その暗闇がもはや終わりではないことを証明した光です。「もう一歩も歩けない」と座り込む私たちの暗い世界に、主の復活の光は、まばゆいほど強力に差し込みます。

この光に照らされるとき、私たちの視点が変わります。自分の力で頑張ることをやめ、命の源である主にすべてを委ねる。そこから、再び立ち上がるための「生きる力」と、明日を信じる「希望」が湧き上がってくるのです。これこそが、信仰によって与えられる真の祝福に他なりません。


 


守られて生きる、その秘訣を

一日の無事を感謝してベッドに入る時、私は思います。ノアが階段を上れたことも、私が今日を走り抜けたことも、すべては大きな御手の中に守られていた結果なのだと。

今、重い荷物を一人で背負い、夜の長さに震えているあなたへ。その限界は、神様の力が現れる「始まりの場所」です。 明日は、この厳しい時代にあって、いかにして私たちは守られ、平安のうちに生き抜くことができるのか。その「秘訣」を皆さんと共に探っていきたいと思います。今夜は、ただその重荷を主の前に下ろして、安らかにお休みください。

おやすみなさい。

「境界線」を溶かす愛

 


「境界線」を溶かす愛 ―― ダイアナの悲劇と、キリストのグローバルな死

走る道はローカルでも、空はつながっている

今朝も仙台の街を走りながら、ふと考えました。私の足が踏みしめているのは長町の確かな地面であり、吸い込んでいるのは杜の都の空気です。しかし、私の手元にあるスマホは世界中のニュースを瞬時に運び、私の着ているウェアは海を越えた異国でデザインされたものです。私たちは今、「グローバル」という大きなうねりの中に生きています。政治も経済も文化も、もはや国境という壁は透き通ったガラスのように薄くなりました。けれど、私たちの「心」はどうでしょうか。あるいは、私たちが集う「教会」という場所はどうでしょうか。世界がこれほどまでに繋がっている中で、私たちは自分たちの居心地の良い「ローカル(地域)」という殻に閉じこもってはいないでしょうか。


 


ある「グローバルな死」のジョーク

先日、インターネットで「グローバリゼーション(世界化)の定義」についての、皮肉めいたジョークを見つけました。それによれば、グローバルの象徴とは「ダイアナ皇太子妃の死」だというのです。

彼女はイギリス人でありながら、フランスのパリで亡くなった。 乗っていたのはドイツ製のベンツで、運転手はベルギー人。 追いかけていたのはイタリア人のパパラッチで、彼らのバイクは日本製。 彼女を救おうとした医師はアメリカ人で、使った麻酔剤は南米産。 そして、世界中から届けられた手向けの花は、オランダ産だった。

このエピソードを、韓国製のモニターで見つめ、カナダ人が書いた記事を、台湾製のマウスでクリックして読む。これこそが現代の姿だという笑えない話です。

しかし、この物語を笑って済ませられない理由が、私たち日本の教会、特に地方の教会にはあります。世界がこれほど混じり合っているのに、私たちの教会は「いつものメンバー」だけで完結し、外部の、あるいは世界の教会の痛みに無関心な「超ローカル」な存在になってはいないでしょうか。


 


究極のグローバル・イベント ―― 十字架

もし、この歴史上で最も「グローバルな死」を挙げるとすれば、それはダイアナ妃の悲劇ではありません。それは、二千年前のゴルゴタの丘で起きた、主イエス・キリストの十字架の死です。

イエスの流した血は、ユダヤという一地方のためだけのものではありませんでした。それは人種、国籍、性別、そして時代さえも超えて、全世界を包み込む神の愛の表明でした。神の愛以上に、この世界を一つにする「グローバルな力」など存在しません。

現代のビジネスの世界では、「世界化に適応できなければ生き残れない」と必死に変化を求めています。ならば、主イエスの死を土台とする教会が、いつまでも「自分たちのための閉じた場所」であって良いはずがありません。  教会を自分たちの「固定資産」や「思い出の場所」にしてしまうこと。それこそが、教会の歩みを止める最大のブレーキなのです。


 


あなたの「心の国境」を拓くために

では、私たちは、誰にでも開かれた心を持っているでしょうか。「開かれた心」を持つということは、単に愛想良くすることではありません。それは、時には自分の慣れ親しんだ快適さを手放し、異質なものを受け入れるという**「犠牲」**を伴うものです。自分たちの教会のルール、自分たちの好みの音楽、自分たちの心地よい距離感。それらを「誰かのために」差し出し、変えていく痛み。その犠牲の先にしか、本当の意味で世界と繋がる道はありません。教会は、今ここにいる人々の所有物ではありません。それは、まだ見ぬ誰か、遠く離れた場所で苦しむ誰かと繋がるための「ステーション(発着場)」であるべきなのです。


 


境界線を越えていく勇気を

自分のローカルな殻から抜け出すのは、怖さを伴います。しかし、主イエスがそうであったように、私たちが自らの境界線を一歩踏み出し、世界を「一つの活動領域」として捉え直す時、そこには今まで見たこともないような豊かな恵みの景色が広がっています。

今日、あなたの隣にいる人、あるいは画面の向こう側にいる知らない誰か。その人を「異邦人」としてではなく、同じ主の愛に包まれた「家族」として受け入れる準備はできているでしょうか。完璧である必要はありません。まずは、自分の「心の窓」を少しだけ開けて、外の風を入れてみる。その小さなしぐさが、世界を変える一歩になります。

今日も、無事に守られて感謝。

 

「限界」という名の、新しい扉

 


「限界」という名の、新しい扉 ―― 二人で歩む豊かさの始まり

足音が止まる、その場所で見えてくるもの

透き通るような五月の風が、仙台の街を吹き抜けていきます。今朝も走り出し、いつものように自分の呼吸と鼓動だけに耳を澄ませていました。長い距離を独りで黙々と進む時、ふと、ある一点で「自分の力だけでは、これ以上は一歩も進めない」と感じる瞬間が訪れます。それは、肉体の限界というよりも、魂の壁のようなものです。私たちは日頃、「自分の力で立ち、自分の力で成し遂げなければならない」という強い強迫観念の中で生きています。けれど、その「一人の限界」に突き当たった時、景色は一変するのです。


 


完璧主義という名の、孤独な牢獄

今の社会は、自立していること、何でも一人でこなせることを「強さ」と呼び、助けを求めることを「弱さ」と見なす傾向があります。美味しいものを食べても、どこか味が薄く感じてしまう。美しい花を見ても、心が曇ったまま動かない。そんな時、私たちは「もっと自分がしっかりしなければ」と、さらに自分を追い込んでしまいがちです。

しかし、自分という器の底が見えたその時こそ、実は、真の意味での「他者」や「神様」との出会いが始まる場所なのです。

一人の限界を知ることは、二人の豊かさを知る始まりである。

この言葉は、私たちに静かな、けれど革命的な勇気を与えてくれます。一人で頑張るのをやめたとき、そこには空いた「スペース」が生まれます。その隙間にこそ、隣人の手の温もりや、主の優しい吐息が流れ込んでくるのです。


 


倒れた時に差し伸べられる、もう一つの手

聖書の「コヘレトの言葉」は、こう語りかけます。

「一人は二人よりも良い。……もし倒れても、一人がその仲間を助け起こす。」(コヘレト 4910節)

「二人」とは、単に数のことではありません。それは、自分の不完全さを認め、他者の存在を必要とする「謙遜」という名の豊かさです。一人の力は一倍ですが、二人が手を取り合った時、その力は単純な足し算を超えていきます。一人が倒れそうな時、もう一人が支える。その「支え、支えられる」という命の循環の中にこそ、私たちが生きる意味が宿っているのではないでしょうか。

あなたが今、もし深い闇の中で「もう限界だ」と立ち止まっているのなら、どうかその限界を「敗北」と呼ばないでください。それは、あなたの人生に「二人目(主、あるいは隣人)」を招き入れるための、輝かしい招待状なのです。


 


呼吸を合わせ、共に歩み出す

今朝のランニングの終盤、私の背中をそっと押したのは、自分自身の意志ではなく、すれ違う人々の会釈であり、木々を揺らす風であり、何より、共にある主の臨在でした。

皆様。一人で抱え込まなくても大丈夫です。 あなたの限界のすぐ先に、あなたを助け起こそうと待っている「もう一つの手」が必ずあります。 「完璧な一人」を目指すのをやめて、「不完全な二人」として歩み始めませんか。その時、あなたの世界はもっと色鮮やかに、もっと芳醇な香りに満ちたものへと変わっていくはずです。さあ、肩の力を抜いて、深呼吸を一つ。主が整えてくださったこの新しい一日を、共に見つめていきましょう。

今日も、生きることです。

 

今朝のもう一つの思索

 


春の色が、届かないあなたへ ―― 止まった時間の中で、主の吐息を聴く

モノクロームの春の中に、あなたはいますか?

窓の外を見上げれば、透き通るような青空が広がり、若葉が眩しいほどの光を跳ね返しています。桜の淡いピンクから、命のエネルギーを象徴するような赤や緑へ。街は今、溢れんばかりの色と香りに包まれています。

今朝、私はその光の中を二十一キロ走り抜けました。けれど、走りながらふと思うのです。  この鮮やかな世界が、もしも「自分とは無関係な別世界の出来事」に見えてしまっているとしたら、その心はどれほど孤独だろうか、と。

風の匂いを感じられず、美味しいはずの食事が砂を噛むような味しかせず、ただ、この息苦しい日常を終わらせたい……。そんな深い霧の中に立ち尽くしている方は、今、この言葉をどのような思いで見つめておられるでしょうか。


 


「一歩」の重さを、誰が計れるでしょうか

今朝のランニング中、愛宕大橋の上で、私は一人の年配の方の背中を追い越しました。  おそらく八十代後半。登山用のスティックを二本、魔法の杖のように大切に突きながら、急な坂道を一歩、また一歩と、祈るように進んでおられました。

その小さく、震える背中を見た時、私は自分自身を恥じました。  二十一キロを走る私の脚力よりも、あの坂道を一段上るその方の「一歩」に込められた勇気の方が、どれほど重く、尊いものだったか。

あなたは今、「何もできない自分」を責めてはいませんか?  周囲が春を謳歌する中で、布団から起き上がることさえできない自分を、「失格だ」と思い詰めてはいませんか?  けれど、考えてみてください。  深い闇の淵で、それでも今日という日を今日まで「生きてきた」こと。その一秒一秒の重さは、フルマラソンを完走する以上の、凄まじい魂の闘いではないでしょうか。


 


ゆだねることは、あきらめることではありません

聖書は、疲れ果て、道を見失った魂にこう語りかけます。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」(詩編 37 5節)

「ゆだねる」という言葉は、自らハンドルを放す「あきらめ」のように聞こえるかもしれません。けれど、そうではないのです。それは、嵐の中で荒れ狂う海を自分の腕で漕ぐのをやめ、あなたを包む大きな船に、その身を横たえるという決断です。

心が曇り、死の影を歩んでいる時、私たちは「自分の力で晴らさなければ」と焦ります。  しかし、空を覆う厚い雲の上には、常に変わらない太陽が輝いています。あなたがそれを感じられなくても、光はそこにあり、あなたを照らすことを決してやめてはいません。    「死にたい」と感じるほどの痛みは、あなたがそれほどまでに「一生懸命に生きようとしてきた」証拠です。神様は、あなたのその涙の一滴一滴を、革袋に蓄えてくださっています。  あなたが歩けないなら、主があなたを背負われます。あなたが食べられないなら、主がその命を支えられます。信仰とは、何かが「できる」ことではなく、何もできない自分を「愛されている」と受け入れることなのです。


 


呼吸をしている、それだけで「完走」です

今朝、私は二十一キロを走り終え、今週の累計は百十キロとなりました。  けれど、今日の私にとっての勝利は、距離を稼いだことではありません。あの橋の上で、懸命に一歩を踏み出す背中に、主の深い慈しみを見たことです。

今、苦しみの中にいるあなた。そして、その傍らで祈り、共に擦り切れているご家族の皆様。  無理に笑う必要はありません。春の色を感じようと焦る必要もありません。  ただ、今日、あなたが呼吸をしていること。  今日、あなたがここに存在していること。  それだけで、あなたは今日のレースを立派に走り抜いたのです。

夜がどれほど長くても、明けない夜はありません。  たとえ今はモノクロームの世界にいても、いつかまた、不意に風の匂いが鼻先をかすめる日が必ず来ます。  主はあなたの手を離しません。

さあ、今日はもう、頑張るのをやめて、静かに目を閉じてみませんか。  

その鼓動の中に、あなたを愛してやまない主の吐息を聴いてください。

御坊でのひと時 - 口にくわえているのは見つけた亀です。

今日、一歩を踏み出してみることです。

 

小さな背中が教えてくれたこと

 


🌿 小さな背中が教えてくれたこと

透き通る青空の下、青葉が風に揺れ、白からピンク、そして赤へと移ろう木々の花を眺めながら、今朝は21キロを走りました。 愛宕大橋に差しかかったとき、見覚えのある小柄な背中が前方に見えました。 大年寺山公園の散歩で何度も見かけた、あの年配の女性の方です。おそらく80代後半。 登山用のスティックを二本、今日は背中のバッグに挿し、上り坂ではそれを取り出して丁寧に一歩ずつ進んでいました。 向山近辺に住んでいるのだろうと思っていましたが、今朝、愛宕大橋を渡って来られる姿を見て、青葉区から歩いているのだと知りました。あの距離、あの坂道。 年齢を考えれば、決して軽い道のりではありません。 それでも、あの方は毎朝のように大年寺山公園まで歩き、ラジオ体操をし、仲間と軽食を囲んでいる。 その姿を何度も見てきました。



健康は、誰かから突然与えられるものではありません。 日々の小さな積み重ねが、静かに、しかし確かに形づくっていくものです。 そしてそれは身体だけでなく、心の健康も支えてくれる日常のルーティンなのだと、あの背中が教えてくれました。



ランナーとして仙台市内を隅々まで走るからこそ出会える光景があります。 30キロ、40キロと走れば、市内のどこへでも行ける。 その道すがら、こうした小さな発見が、心にそっと灯をともしてくれるのです。

 


聖書はこう語ります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」(詩篇37:5

人生の道もまた、坂道があり、息が上がる瞬間があり、 ときには立ち止まりたくなる日もあります。 それでも、あの年配の方のように、 自分のペースで、今日の一歩を踏みしめていくとき、 主はその歩みを確かに支えてくださいます。健康も、信仰も、心の平安も── どれも一夜にして手に入るものではありません。 小さな積み重ねが、やがて大きな恵みへと育っていくのです。

 


今朝は西公園方面を走り、春の色に染まっていく街を楽しみながら21キロ完走。 これで今週は110キロの走りとなりました。 今日も、精一杯に生きる。 その一歩が、明日の光へとつながっていきます。

今日も、前進です。

2026年4月23日木曜日

見えない道を走る朝に

 


🌅 見えない道を走る朝に

今朝は、まだ街が眠りについている4時ごろに走り始めました。 少し冷たい空気が頬をかすめ、東の空がわずかに白み始めるころ、市内を抜け、東高校の田んぼ道へと足を進めました。 30キロ完走。足は少し重かったけれど、初めての感覚ではありません。 走り続けていると、身体が静かに前へと押し出してくれる瞬間があります。

 


けれど、走れば必ず何とかなる──そんな日ばかりではありません。 どれだけ祈っても、どれだけ努力しても、思い通りにいかない現実がある。 それが、この世界の不条理であり、私たちが避けて通れない重さでもあります。五月の予定表を見れば、2日から31日までぎっしり。 和歌山、成田、静岡……飛行機や新幹線を乗り継ぎながらの移動が続きます。 忙しさに押し流されそうになる日もあるでしょう。 それでも、心のどこかでふっと思うのです。 「忙しいということは、生きているという証拠だ」と。

 


 まだ暗い道を一歩ずつ踏みしめながら、 「今日もあなたが共にいてください」と主に委ねていく。聖書はこう語ります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。」(詩篇37:5

見えない道でも、足元が不安定でも、 主にゆだねるとき、私たちは自分の力以上の力で前へ進むことができます。 夜明け前のランナーが、光を信じて走り続けるように。

 


昨日も触れたように、四月が終われば、青葉が輝く五月がやってきます。 けれど今年も、夏のような暑さが早く訪れることでしょう。 その猛暑をどう乗り越えるか──それもまた、これからの課題です。それでも、今日という一日を精一杯に生きる。 見えない道を、主に委ねながら歩む。 その積み重ねが、やがて確かな光へとつながっていきます。

今日も、前進です。

2026年4月22日水曜日

熊の気配と、静かな朝の祈り

 


🌄 熊の気配と、静かな朝の祈り

今朝は久しぶりに、大年寺山公園を歩きました。

夜明けの光が木々の間からこぼれ、空気はひんやりとしているのに、どこか柔らかい。

早朝の時間帯、人影はほとんどなく、ただ鳥の声だけが静かな山に響いていました。



先日、仙台市内の中心部で熊が目撃されたというニュースがあり、 「ここに出てもおかしくないね」と家族で話題になったばかり。 誰もいない山道を歩くときは、いつも以上に耳を澄ませ、 足音の先にある気配に注意を向けながら進みました。

それでも── 朝の散歩はやはり気持ちがいいものです。 木々の緑、湿った土の匂い、遠くで揺れる風の音。 自然の中に身を置くと、心の奥に溜まっていたものが、 少しずつほどけていくのを感じます。

 


帰り道、西友で買い物をして、家に戻ってサンドイッチを作りました。

 娘はこれから県内の病院を巡りながら実習が続くとのこと。 忙しくなるけれど、それもまた生きている証拠。 誰かの命に寄り添う道を歩む、その姿が頼もしく思えました。

 


四月が過ぎれば、青葉が光を放つ五月がやってきます。 けれど今年も、きっと夏のような暑さが早く訪れるのでしょう。 次の課題は、あの猛暑をどう乗り越えるか。 季節は容赦なく巡りますが、そのたびに私たちもまた、 新しい歩き方を学んでいくのだと思います。

今日の散歩も、祈りの一部でした。 静かな山道を歩く時間は、主と向き合う時間。

熊の気配に耳を澄ませながらも、 心の奥では確かに、主の平安が息づいていました。

2026年4月21日火曜日

🌿 揺れのあとに残る静けさの中で

 


🌿 揺れのあとに残る静けさの中で

昨日の地震は、胸の奥をぎゅっとつかむような揺れでした。 4月の風はやわらかくなってきたのに、あの瞬間だけは空気の温度がすっと下がったように感じた方も多いのではないでしょうか。

「大丈夫でしたか?」 他県の友人たちから届くメッセージに、ありがたさと同時に、言葉にしづらい不安がふっとよみがえる。 30年以上この地に暮らしても、慣れることのない揺れがあります。



東日本大震災を経験した方々にとって、地震はただの揺れではありません。 音、匂い、あの時の空の色──記憶のどこかに沈んでいたものが、突然浮かび上がってくることがあります。「備えが大事なのは分かっている。でも、心の備えは追いつかない。」

これは弱さではなく、人として自然な反応です。 私たちは、予測できないものに対して、どうしても身構えてしまう。 そしてその根っこには、いつも死への恐れが静かに横たわっています。



聖書は、そんな私たちの恐れに対して、まっすぐな言葉を差し出します。

「わたしのいのちは、あなたの御手の中にあります。」(詩篇31:15

この一文は、状況が安全だから安心できるのではなく、 どんな時でも、命は主の御手の中にあるという事実が安心をつくるのだと教えてくれます。

地震が来るかどうかは選べません。 明日がどうなるかも選べません。

でも── 「誰の手の中で生きるか」は選べる。

死を克服した方の手に、自分の命をゆだねて生きる。 それが信仰であり、恐れに飲み込まれない唯一の道です。



今日も、私たちは揺れの記憶を抱えながら、それでも歩き続けます。 心が追いつかない日があっても大丈夫です。 主の御手は、揺れの中でも、静けさの中でも、変わらずあなたを支えています。だからこそ、今日も与えられた命を、精一杯に生きていきましょう。

これらのことを考えながら今朝は36キロを走りました。



今日も、前進です。

2026年4月20日月曜日

🌿 光に洗われる一日

 


🌿 光に洗われる一日

■ 日常のフック

無事に礼拝と教会定期総会を終えた日曜日の午後、気温は23度。広瀬川を渡る風はやわらかく、冬の名残をそっと洗い流すようでした。朝ランで22キロを走り終えた身体には少し疲れが残っていましたが、青空の下に立つだけで、心の奥に明るい温度が広がっていきました。久しぶりにノアちゃんをシャンプーし、魚の匂いがふわりと良い香りに変わっていくのを眺めながら、「季節が変わるって、こういうことなんだな」と思わされました。

 


■ 葛藤と気づき

ノアちゃんのシャンプーを終えて、ついでに洗車も終え、買い物を済ませ、就職試験を終えて帰ってくる娘のために肉料理を作る。そんな慌ただしい一日の中にも、小さな喜びがいくつも散りばめられていました。

長町駅で娘を迎えた帰り道、彼女がぽつりと「本当に神様に感謝だわ」と言った瞬間、胸の奥が温かくなりました。面接で落ち着いて話せたこと、必要な言葉が自然と出てきたこと――それは、彼女の努力だけではなく、見えない御手がそっと支えてくださった証でした。ただ、スーツを叔母さんのところに置いてきてしまったという“落ち着きすぎた”一面には、思わず笑ってしまいました。

うまくいかなかったことに対しても感謝するのがキリスト者であることをきっと娘は分かっているはず。それをちゃんと知って生きることが感謝です。



■ 普遍的な真理への昇華

日常の中で、私たちは「自分の力で頑張らなければ」と思いがちです。でも、今日の恵みを振り返ると、すべては上から流れてくる愛に支えられていることに気づかされます。

聖書は言います。「あなたのすべての道で主を認めよ。主はあなたの道をまっすぐにされる。」私たちが気づかないところで、主は道を整え、必要な言葉を与え、心を落ち着かせ、時には笑いを添えてくださるのです。

 


■ 「前進」への派遣

今日もまた、新しい一日が始まります。命がある限り、主の栄光のために、家族のために、教会のために、人々のために――精一杯に生きていきましょう。

今日は東北学院大五橋キャンパス礼拝説教担当です。

今日も、前進です。

 

2026年4月17日金曜日

葉桜のトンネルを抜けて、新しい季節への助走

 


葉桜のトンネルを抜けて、新しい季節への助走


4時の夜明け、走り出す身体

今朝は21キロを完走しました。 まだ少し冷たさを含んだ空気を深く吸い込むと、肺の奥がシャキッと引き締まるような心地よさがあります。

気づけば、夜明けの時間がずいぶんと早くなりました。午前4時を過ぎる頃には、東の空がゆっくりと白み始めます。数日前まで私たちを楽しませてくれた桜は、その華やかな花びらを道に譲り、代わりに瑞々しく鮮やかな「緑」が、力強く枝を覆い始めています。

「ああ、季節は確実に春になったのだ」 そう実感する一方で、心の片隅には、予報が告げる「早い夏の訪れ」への小さな警戒心がよぎります。ランナーにとって、厳しい暑さは最も苦手な試練の季節です。


 

苦手な季節を、淡々と受け入れる

「今年は夏が早いらしい」 その言葉を聞くだけで、少し身構えてしまう自分がいます。

しかし、避けられない季節の移ろいに抗っても仕方がありません。

大切なのは、天候に一喜一憂することではなく、無理のない範囲で、自分の「ルーティンワーク」としての朝ランを淡々と続けることです。たとえ苦手な季節が来ようとも、変わらない一歩を刻み続ける。その積み重ねだけが、次の新しい景色を見せてくれる唯一の道だからです。

人生も同じかもしれません。思い通りにいかない季節、自分の力ではどうしようもない環境の変化。それでも、自分の持ち場を誠実に守り続けることに、私たちは心を砕くべきなのでしょう。


 

仙台駅、スーツケースに託す祈り

今日と明日は、娘の人生にとっても大切な一日です。 就職試験と面接のために、彼女は東京へと向かいます。午前中の学校を終えた彼女と、お昼過ぎに仙台駅で待ち合わせをします。私は家から彼女のスーツケースを運び、駅の改札で手渡す予定です。親としてできることは、重い荷物を持ってやり、せめて駅で少し良いお弁当を買ってあげることくらい。

「頑張って行って来なさい」

その言葉の裏には、言葉にできないほどの祈りが詰まっています。 幸いなことに、東京には彼女を快く受け入れてくれる身内がいます。慣れない土地で、自分を待ってくれる、泊めてくれる場所がある。それは、本当にありがたく、神様の守りを感じずにはいられない「恩寵」のようなものです。


 

「精一杯」という名の贈りもの

私たちは、誰かに支えられ、誰かを受け入れながら生きています。 娘を送り出す側の感謝。そして、見知らぬ地で扉を開けて待ってくれる身内の愛。

世の中は不条理なニュースや争いで溢れているかもしれません。しかし、目の前の家族を思い、駅で弁当を選び、誰かの挑戦を祈るという「精一杯の生」の中には、どんな闇も消し去ることのできない、確かな光が宿っています。

自分の道を走ること。 大切な人の背中を押すこと。 そして、与えられた今日という時間を慈しむこと。それ以上に尊いことは、この世にはないのかもしれません。




「前進」への派遣

皆さんは今日、誰のために、あるいは何のために「精一杯」を生きますか? 新しい挑戦に向かう人も、それを支える人も、あるいは自分自身の「苦手な季節」と戦っている人も。

遠くのゴールに気を取られすぎず、まずは今、自分の足もとにある「一歩」を大切に踏み出してみましょう。その一歩には、あなたが気づいている以上の価値があります。

スーツケースを預けるように、あなたの重荷も主の御手に委ねて。 明日は走るのを休み、体を休めるその時間さえも、次の一歩のための大切な備えなのですから。

今日も、前進です。