デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月15日水曜日

一日が終わる

 

暑いよ!!!


焼けつく太陽が教えてくれる、「自分は大丈夫」という幻想の向こう側

### 本番の夏の入り口で

今日は見上げる空は青く、肌を刺すような、焼けつくような暑さでした。しかし、これでもまだ本番の夏の「入り口」に過ぎません。一日のうちで最も暑い、太陽が真上から照りつける時間帯。私はあえて買い物に出かけました。妻からは「こんな暑い時間に買い物に行くの?」と驚きと呆れが混じった声で言われましたが、これには理由があります。ノアのきゅうりが、ちょうど無くなってしまったからです。(車だったので大丈夫)

熱気に包まれたアスファルトを踏みしめながら、ふと、この灼熱の時間帯に走っているランナーの姿をたまに見かけることを思い出しました。私自身、この過酷な環境下で走ることは到底真似できないことだと感じます。

きゅうり!!!

### 「自分は大丈夫」という見えない罠

これから、熱中症で救急搬送される方々のニュースが毎日のような報道されるでしょう。それにもかかわらず、危険な時間帯に限界に挑もうとする人がいる。人間の心理とは、本当に不思議なものです。

  • 「危ないからやめなさい」
  • 「注意してください」

そう促されれば促されるほど、どこかで反発し、あえてやってみたくなる衝動が心の奥底に潜んでいるのかもしれません。しかし、熱中症は健康に自信がある人にこそ突然襲いかかるものです。悲しい事故や思いがけない不幸に直面するケースの多くは、その根底に「自分だけは大丈夫だ」という思い込みが隠れています。警告のサインを見落とし、自分の限界を過信してしまうこと。それは、私たちが日常の中で最も陥りやすい「見えない罠」なのです。

買って来た?

### 聞く耳を持ち、限界を受け入れる恵み

「自分は大丈夫」。そのうぬぼれを手放し、他者の忠告や自然の摂理に対して「聞く耳を持つ」こと。それこそが、命を守り、心豊かに生きるための最も重要な知恵ではないでしょうか。聖書には、このような言葉が記されています。

「だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。」 (コリントの信徒への手紙一 1012節)

私たちが本当に強いのは、限界を知らないからではありません。自分がいつでも倒れうる、弱く脆い存在であることを素直に認め、「自分にもありうることだ」と受け止めることができるからです。

妻の「こんな暑い時間に?」という何気ない一言も、あるいは照りつける太陽の熱も、私たちが無理をして倒れてしまわないようにと、立ち止まる機会を与えてくれる「神様からのブレーキ」なのかもしれません。ノアのきゅうりを手にして帰路につく道すがら、そのブレーキのありがたさを静かに噛み締めました。

荷物もつのを手伝うか?

### 弱さを認めて、今日を歩む

私たちはみな、不完全で弱い存在です。 しかし、その弱さを認め、忠告に耳を傾け、決してうぬぼれることなく謙虚に歩幅を合わせるとき、私たちの進む道はより確かで、安全なものになります。照りつける夏の日差しの中でも、涼やかな風の声に耳を澄ませる心のゆとりを持ちたいものです。夜のあいだに雨が降ったようです。 目覚めて外を見ると、道路がしっとりと濡れていました。こうして、暑い一日が過ぎたあと、静かな夜の時間にそっと熱を冷ましてくれる雨が、毎日少しだけ降ってくれたらいいのになと思いました。

これからしばらく、仕事の時間です。

今日も、共に前進です。

水曜日の風景

 


夏空と静寂の向こう側で、それぞれの命が「今日」を生きる

静寂な朝、呼吸を確かめる時間

午前4時過ぎ。 街がまだ深い眠りの底にある静けさの中、大年寺山公園へと歩みを進めました。風はなく、肌を包む空気は少し厚みを増していましたが、暑苦しさはありません。 夏の気配をそっと肩に羽織るような、穏やかな温度でした。



誰もいない大年寺の階段。 その道のりを、半分は走り、半分は歩いて上る。 自分の足音と呼吸だけが響くその時間は、今日という新しい一日を迎えるための、静かな儀式のようでもあります。約1時間の道のりのなかで、私の目に飛び込んできたのは、力強く生きる「命」の姿でした。



  • 広瀬川のハクチョウ:水草をはみ、今日を生きるための確かな備えをしている。
  • 川沿いの夏草:いつの間にか背丈を超え、天へ向かって真っすぐに伸びている。
  • 見上げる空:これから始まる強い日差しを予感させる、まぎれもない夏空が広がっている。

 


水曜日の風景、繰り返される営み

今日は水曜日。 この街の一般ごみ収集日です。

それは同時に、街のギャングたち——カラスたちのパーティーの日でもあります。

早朝から、黒い影があちこちに見えました。 散らかされるゴミ。そして、それを黙々と片付ける人。毎週のように繰り返されるこの光景に、徒労感を覚える人もいるかもしれません。 しかし、街の人々はそれほど怒るわけでもなく、「いつもの風景」として受け止めているように見えます。

そこにあるのは、諦めではなく、 「人間もカラスも、ただ今日を生きているだけ」という事実の受容なのかもしれません。

 


普遍的な真理:空の鳥も、私たちも

カラスは生きるための糧を求め、 人間は生活の秩序を守るために片付ける。

広瀬川のハクチョウが水草を食べるのも、 草刈りをして働く人々が汗を流すのも、 すべては「生きる」という尊い営みの一部です。

聖書にはこうあります。

「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。 だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。」 (マタイによる福音書 626節)

美しいハクチョウも、ゴミをあさるカラスも、 みな等しく「空の鳥」であり、今日を生き延びるための命の火を燃やしています。

そして私たち人間もまた、同じ空の下で、 散らかっては片付けるという終わりのない日常を繰り返しながら、 今日という日を懸命に歩んでいます。

その繰り返しの階段を、 半分走り、半分歩きながら上っていくことこそ、 私たちが生きている証そのものなのです。

 


今日という日を受け入れる

背丈を超える夏草のように、もどかしい壁を感じる日もあれば、 風のない静かな朝に安らぎを覚える日もあるでしょう。それぞれの場所で、それぞれの命が、 今日を生きるための備えをしています。焦る必要はありません。 自分に与えられた階段を、自分のペースで、着実に上っていけばよいのです。見上げれば、そこには広い夏空が待っています。

今日も、共に前進です。

限りある人生に気づいて生きる

 


階段に響く足音と命の制限時間:ただ「今」を愛し抜く祈り

時刻は2時半ごろ。日課となっているノアの散歩の時間がやってきました。 いつものように下で待っていると、階段の上にすっと姿が現れます。そして、一段一段、踏みしめるようにして、彼が自力で階段を降りてきました。

そのゆっくりとした、しかし確かな足運びを見つめながら、私の胸の奥に、静かで、しかし決して目を背けることのできない重い事実が真っ直ぐに降りてきました。

 


自力で降りてくるという「奇跡」

私たちが毎日繰り返している日常の風景。ノアが自分で歩き、階段を下り、散歩に出かけること。私たちはつい、明日も明後日も同じ風景が続くと思い込んでしまいます。 しかし、彼が自力で階段を降りてくるこの姿は、決して「当たり前のこと」ではありません。そして、永遠に続くことでもないのです。

いつか必ず、この階段を降りてくる彼の姿が消え去り、ただ私の記憶の中にだけとどまる時が訪れます。それは遠いおとぎ話でも、不確かな予測でもありません。少しの疑いもなく、必ずやってくる確かな未来です。 それが、生きとし生けるものが等しく所有している「制限時間」という絶対的な掟なのです。

 


制限時間が教えてくれるもの

私たちは「限りある時間」や「失われること」を前にすると、どうしても悲しみや恐れに心を支配されそうになります。できればその現実から目を背け、「ずっとこのままでいてほしい」と願ってしまいます。

しかし、聖書の詩編の記者は、神様に向かってこのように祈りました。 「わたしたちの生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」(詩編 90:12

命に「制限時間」があるという厳粛な事実を正しく見つめることは、決して私たちを絶望に突き落とすためのものではありません。それはむしろ、残酷なまでに美しい「今」という時間の実輪郭を、はっきりと照らし出すための光なのです。

  • 永遠ではないからこそ: この毛並みの温もりも、階段を降りる爪の音も、永遠ではないからこそ、息を呑むほどに尊いのです。
  • 当たり前ではないからこそ: 今日、自分の足で歩いてくれたその一歩一歩が、神様から手渡された奇跡のような賜物であることに気づかされます。

 


「今」を大事にして生きる

命の制限時間を知る者は、過去への後悔や未来への不安に心をすり減らすことをやめ、ただ一点、神様から与えられたこの「今」へと魂を集中させることができます。

いつか記憶の中だけにとどまる日が来るのなら。 その日が来るまで、私はこの目の前にある命の手触りを、余すところなく愛し抜き、慈しみ、共に歩むだけです。だからこそ、私たちは今を大事にして生きるのです。

自力で階段を降りてきた彼の頭を優しく撫で、今日の風の中へと一緒に歩き出します。このかけがえのない、ただ一度きりの「今日」という時間を胸に刻みながら。

今日も、共に前進です。

再起

 


再起──人間関係で疲れた心へ

前に進めない朝こそ、もう一度立ち上がるための始まり

人間関係の疲れは、身体の疲れよりも深く、長く残ります。 誰かの言葉が胸に刺さったまま抜けなかったり、 誤解されたまま時間が止まってしまったり、 「自分が悪いのではないか」と責め続けてしまったり。

そんな日、私たちは前に進もうとしても、 心が重くて一歩が出ないことがあります。

でも── 前に進めない日は、再起の準備をする日です。

🌧 1. 心が疲れているのは、弱さではなく人間らしさ

人間関係で疲れるのは、あなたが不器用だからではありません。あなたが優しいからです。 あなたが真剣だからです。 あなたが誰かを大切にしているからです。

心が疲れるのは、 「自分の限界をひた隠しにしてきた証拠」でもあります。

本当は傷ついているのに、 本当は悲しいのに、 本当は助けてほしいのに、 それを隠して笑ってきたから、心が静かに悲鳴を上げているのです。

🌿 2. 再起は頑張ることではなく、休むことから始まる

再起とは、 もう一度立ち上がること。 でもその第一歩は、立ち上がることではありません。休むことです。自分い最高のご褒美を与えることです。

休むことは、逃げることではありません。 休むことは、心の修復作業です。

神様は、働く者だけでなく、 休む者にも同じように目を注いでおられます。

🔥 3. 人間関係の疲れは、あなたが悪いからではない

人間関係の疲れは、 あなたの性格の問題ではありません。

多くの場合、

  • 相手の心の余裕のなさ
  • 誤解
  • 価値観の違い
  • タイミングの悪さ
  • その場の空気
  • その人の人生の背景

こうしたあなたにはどうにもできない要素が重なって起きています。

だから、 あなたがすべて背負う必要はありません。

🌅 4. 再起とは、弱さを隠さない勇気

再起の本当の姿は、 強くなることではありません。

弱さを隠さないことです。

「もう無理です」 「疲れています」 「傷つきました」 「助けてください」

こうした言葉を言える人は、 すでに再起の道を歩き始めています。

幼子のように、 素直に、 ありのままの心で、 神様の前に立つこと。

そこから、再起は始まります。

5. 今日のあなたへ──再起の言葉

もしあなたが今、 人間関係で疲れ果てているなら、 どうか自分を責めないでください。

あなたは十分頑張ってきました。 限界を隠して、 笑顔をつくって、 誰かを傷つけないように気を遣って、 ずっと歩いてきました。

だから今日は、 休んでいい日です。

そして、 休むことこそが、 再起の第一歩です。

🌈 最後に──再起は、静かに始まる

再起は、 大きな決意や劇的な変化から始まるのではありません。

静かな朝に、 深い呼吸をひとつすることから始まります。

今日、あなたが休むなら、 それは前進です。 今日、あなたが涙を流すなら、 それは前進です。 今日、あなたが自分の弱さを認めるなら、 それは前進です。

再起は、静かに、確かに、あなたの中で始まっています。

今日は、自分に合わせて前進です。

2026年7月14日火曜日

選択の知恵



現代を生きる私たちへ──箴言9章が語る選択の知恵

「主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。」 箴言9章は、この力強い言葉から、人生における選択の重要性を私たちに語りかけます。

この章には、二つの招きが登場します。 一つは知恵の招き。 もう一つは愚かさの誘い。どちらも私たちの人生に向かって手を伸ばし、「こちらへ来なさい」と呼びかけています。 そして、どちらを選ぶかによって、歩む道はまったく違うものになります。

知恵の招き──命へと続く道

箴言9章の前半では、知恵が立派な家を建て、七本の柱を据え、祝宴を整え、人々を招きます。「ここに来て、命を得よ。」

知恵は、浅はかな者や思慮の足りない者に向かって、本当の命へと続く道へ招いています。

知恵と共に歩むとき、

  • 正しい判断
  • 平和
  • 豊かさ
  • 長い人生 が与えられると語られています。

知恵は、私たちを育て、守り、導く人生の良き友なのです。

愚かさの誘い──甘く見えて破滅へ続く道

一方で、愚かさを象徴する女性も登場します。 彼女は騒がしく、門口に座り、通りかかる人に声をかけます。

「盗んだ水は甘い。隠されたパンはうまい。」

一見魅力的に見える誘惑。 しかし、その道の先には死が待っていると箴言は警告します。

愚かさは、

  • 近道に見える道
  • 楽に見える選択
  • 甘い誘惑 を差し出しますが、 その結果は破滅であり、心の荒廃です。

叱責を愛する者が知恵を深める

箴言9章は、知恵ある者と愚かな者の違いをこう語ります。

  • 知恵ある者は叱責を受け入れ、さらに成長する。
  • 愚かな者は叱責を憎み、自分自身を傷つける。

これは、現代の私たちにも深く響く言葉です。 人からの助言や指摘を素直に受け止める心は、知恵の扉を開く鍵です。

知恵の土台──主を畏れること

箴言9章の中心は、この言葉です。

「主を畏れることは知恵の初め。」

ここで言う畏れるとは、 恐怖ではなく、 神様を人生の中心に置き、敬い、信頼する姿勢のことです。

神様を正しく知ることが、

  • 心の安定
  • 正しい価値観
  • 揺るがない判断 を生み出します。

忙しさや情報の洪水の中で揺れ動く現代人にとって、 この土台は何よりも大切なものです。

 

🌿 現代人が受け取るべき3つの教訓

  • 正しい選択の重要性 知恵の招きは命へ、愚かさの誘いは破滅へ。 日々の選択が未来を形づけます。
  • 謙遜と学びの姿勢 叱責を受け入れる心は、成長の扉を開きます。
  • 神との正しい関係 主を畏れる心が、人生の指針と平安をもたらします。

おわりに──今日、あなたはどちらの招きに応えますか?

箴言9章は、人生の分岐点に立つ私たちに、静かに問いかけます。

知恵の道を選ぶか。 愚かさの道を選ぶか。

その選択は、今日の心のあり方から始まります。 知恵の声に耳を傾けるとき、あなたの歩みは必ず光に照らされていきます。

今日も前進です。でも前進できない・・・

 

前進できない日がある。それでも、今日を大切にするために。

「今日も前進です。」 そう言いながら歩き続けてきた私たちにも、どうしても前に進めない日があります。 心が重く、身体が動かず、何をしても集中できない──そんな日です。

でも、前進できない日は、前進をあきらめる日ではありません。 むしろ、立ち止まる勇気を持つ日なのだと思います。

そんな日は、無理に頑張らなくていい。 甘いものをひと口食べて、すべての電子機器をオフにして、早めに布団に入る。 それだけで、心は静かに整い始めます。

休むことは、後退ではありません。 休むことは、次の前進のための準備です。 神様は、働く者だけでなく、休む者にも同じように目を注いでおられます。

今日、もしあなたが前に進めないと感じているなら、どうか自分を責めないでください。 休むことを選ぶあなたを、神様は優しく受け止めてくださいます。

そして、また歩けるようになったとき、静かに一歩を踏み出せばいいのです。

今日も、前進です。 たとえその前進が「休む」という形であったとしても。


プライムデー

 


焦げ付く日常の手触りと、日々新しくされる心

台所に立ち、真新しいフライパンを火にかける。油が静かに熱を帯び、食材が滑るように心地よい音を立てる。その引っ掛かりのない軽やかな手触りに、ふと深く息を吸い込むような安堵を覚える瞬間があります。

 


はがれ落ちたコーティングと、新しい手触り

先日終わったアマゾンのプライムデー。今回、私が選んで「勝った」と言えるのは、新しいフライパンセットでした。 これまで長年(?)愛用してきたフライパンは、すっかりコーティングがはがれ落ちてしまっていました。料理をするたびに食材が底に無残にくっついてしまい、それを剥がそうとする小さなストレスが、日々の台所仕事に重くのしかかっていたのです。ついに思い切って、その古いフライパンと鍋を捨て、新しいものを購入しました。 そして先ほど、さっそく新しいフライパンで料理をしてみたのです。結果は、やはり「いい感じ」でした。食材が焦げ付かず、スムーズに動く。たったそれだけのことで、日常の風景が少しだけ明るく見えました。

 


過去へと流れ去る「新しさ」の法則

しかし、真新しいフライパンを洗いながら、静かな思索が胸の奥に広がっていきました。 新しいものは、手にした最初はいつだって良い感じがするものです。しかし、毎日火にかけられ、使われている内に、その最初の新鮮な手触りは間違いなく過去へと流れてしまいます。

どんなに丁寧に扱っても、やがて新しいものは古いものに変わる。コーティングはいつか再びはがれ、傷がつく。 これが、形ある物がもつ本来の姿であり、この世界にある逃れられない法則です。

そして私たちは時として、自分自身の命や人生も、このフライパンと同じ法則に支配されていると思い込んでしまうことがあります。 年齢を重ね、体力がすり減り、人生の「コーティング」がはがれて、様々な問題が心に焦げ付くようになる。「自分はもう古びてしまった」「あの頃のような新鮮な喜びはもう戻ってこない」。そうやって、すり減っていく自分自身の姿に落胆し、ため息をつく夜があるのです。

 


日々新たにされる「内なる人」

しかし、聖書は私たちが生きるこの物質的な法則とは全く異なる、もう一つの真理を告げています。 物は使えば古びていきます。でも、人の心は、年をとっても新しくなることができるのです。

使徒パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、過酷な苦難と老いの中で肉体がすり減っていく現実を見つめながら、こう力強く宣言しました。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は滅びていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」 (コリントの信徒への手紙二 416節)

どれほど外側の肉体が年を重ねようとも。 どれほど生活の中で困難が焦げ付き、感情がすり減るような出来事があろうとも。 神様に愛され、生かされている私たちの「内なる心」は、決して過去へと流れて古びていくことはありません。神様の恵みという見えない手が、私たちの魂を昨日よりも今日、今日よりも明日、より豊かで新しいものへと造り変え続けてくださるからです。

 


永遠の真新しさへ向かって

私たちは、ただすり減って、古びて、捨てられていくような存在ではありません。 今日、あなたが抱えている心の焦げ付きや、どうしようもない疲労感の奥底で、神様はあなたの魂に静かに触れ、あなたを「全く新しい存在」として今この瞬間も磨き上げておられます。

  • 外側の衰えに、心を奪われないでください。
  • あなたの内側には、決して剥がれ落ちることのない、神様の愛がコーティングされています。

使い古された過去を数えるのをやめて、今日新しく与えられる命の軽やかな手触りを、もう一度信じてみませんか。

今日も、共に前進です。

朝ラン22キロ完走

 


誠実さが涙に変わる不条理な朝に――22キロの軌跡と、詩編が示す確かな道

夜中に眠りにつき、まだ深い夜の底にいるような時間に再び目を覚ます。 今日は午前3時に目が覚めました。そのまま起き上がり、いつものようにランニング前の静かなルーティンワークをこなし、午前4時ごろにスタートを切りました。

 


街の目覚めと、アスファルトに落ちる汗

まだ薄暗い仙台市内を走り抜けます。同じように息を弾ませる多くのランナーたちの姿が、すれ違うたびに目に入りました。今日もまた、いっぱいの汗を流しながら、ただひたすらに前へ前へと足を運び続けました。

22キロの道のりを完走する頃には、街の景色はすっかりと変わり始めていました。 次第に車の量が増え、足早にそれぞれの仕事場へと向かう人々の姿が交差していきます。その慌ただしくも健気なその後ろ姿を見つめながら、「どうか、今日という日がこの人たちにとって平和な一日でありますように」と、走り終えた息を整えながら祈るひと時でした。

 


誠実さが報われない、不条理な世界の溝

しかし、私たちが生きているこの世界を見渡したとき、その「平和であってほしい」という願いと現実との間には、あまりにも深く、暗い溝が横たわっていることに気づかされます。この社会は、決して綺麗なだけの場所ではありません。 理不尽で不条理な現実が、至る所に口を開けています。

  • 報われない誠実さ: 誰かを傷つけることなく、真面目に、誠実に生きようと汗を流している人が、なぜか報われず、どん底の生活から抜け出せない日々が長く続く現実。
  • 栄える悪: その一方で、平気で他者を騙し、自分だけの利益のために不法な行いをする人々が、富を築き、ぜいたくな暮らしを謳歌しているという事実。

私たちは心の奥底で、「正義は必ず勝つ」と信じて生きてきました。しかし、出口の見えない苦しい生活が何年も続くと、その信念は次第に揺らぎ、落胆へと変わります。 「真面目に生きるだけ損なのではないか」「これまでの自分の生き方は、間違っていたのではないか」。そんな深い挫折と悔恨が、誠実に生きようとする人の心を冷たく締め付ける夜があるのです。

 


それにもかかわらず、響き渡る声

それにもかかわらず、詩編37編の記者は、この不条理な世界で涙を流す私たちに向かって、力強くこう語りかけます。

「悪をなす者のゆえに、心を悩ますな。不正を行う者のゆえに、ねたみを起こすな。彼らは草のようにたちまち枯れ、青草のようにしおれ去る。主に信頼し、善を行え。」(詩編37:1-3)詩編の記者は、世の中の不条理から目を背けているわけではありません。悪が栄え、正しい者が苦しむという現実を痛いほど知った上で、それでもなお「心を悩ますな(思い煩うな)」と命じているのです。

 


この社会の「損得」や「効率」という定規で測れば、不法に富を築いた者が勝者に見えるかもしれません。しかし、神様の定規は違います。神様は、あなたが誰の目にも見えないところで流した誠実な汗と、正直に生きようとして流した悔し涙のすべてを、決して見落とすことなく見つめておられます。 不法に得た富や地位は、やがて枯れ草のように儚く消え去ります。しかし、あなたが苦しみの中で、それでも正義と愛を手放さずに積み上げてきた「誠実な生き方」は、永遠に朽ちることのない神様の記憶に深く刻み込まれているのです。

 


あなたの汗は、無駄ではない

22キロの道のりを走り終え、アスファルトに滴り落ちた私の汗も、やがて朝の日差しに乾いて消えていきます。しかし、その一歩一歩が確実に私の肉体を造り上げているように、あなたの誠実な歩みもまた、あなたの魂を気高く、力強く造り上げているのです。

どうか、これまでのご自分の誠実な生き方を悔いることはしないでください。 世の中の不条理に打ちのめされそうになる朝があっても、私たちは再び立ち上がり、正しいと信じる道を歩み続けることができます。あなたのその真っ直ぐな歩みそのものが、この暗い世界を照らす小さな、しかし確かな光だからです。

今日も、共に前進です。

2026年7月13日月曜日

頑張って生きた一日でした。

 


終わりのない舞台と、役者を降りる許し:車中の語らいから見つめる家族の形

夜の帳が下りた街を走り抜け、無事に娘を車に乗せて家路につきました。 心地よいエンジン音だけが響く車内は、日常の慌ただしさから切り離され、親子の何気ない対話が自然と深まる温かい空間です。

あんかけ焼きそばと、明日への準備

今日の帰り道も、私たちは車の中でいろいろなことを話し合いました。 今度のワールドカップ、フランスとスペイン戦の行方についての予想。そして、今日の賄いで出たという「あんかけ焼きそば」をはじめ、いろいろと美味しいものを食べたこと。そんな他愛のない、しかし確かな生活の手触りがある話題に、心がほぐれていきます。

話の中で、娘が「明日は実習でグループホームに行く予定だ」と教えてくれました。 そこでは大半が認知症の方々であるため、「同じことを20回は繰り返し言うことになる」と事前に教えられたそうです。それに対する彼女の決意は、とても印象的なものでした。

「役者になったつもりで対応する」

その横顔を見ながら、私はふと「彼女ならば、きっとそれが出来る人かもしれない」と頼もしく思うひと時を過ごしました。相手の不安に寄り添い、何度でも同じ言葉を優しく返す。それは、プロフェッショナルとしての見事な「配役」です。

家族は、役者になれない

しかし、その娘の言葉を心の中で反芻しながら、私の思索はもう一つの重く切実な現実へと向かっていきました。

それは、実際に認知症の親を抱え、日々介護に向き合っている「家族」の姿です。 実のところ、家族は決して役者にはなれません。なぜなら、彼らの現実は「毎日」だからです。

  • 幕が下りない舞台: 役者がその役を演じきることができるのは、そこに必ず「舞台の終わり」があるからです。出番が終われば幕が下り、自分の素顔に戻って深く息を吸い込む「息抜き」の時間があるからこそ、また次の舞台に立つことができます。
  • 逃げ場のない日常: しかし、家族にはその幕がありません。毎日、一年365日、休むことなく「介護する家族」という役を演じ続けられる人間など、どこにもいないのです。

それは数年、時には数十年という途方もない長さで、同じ空間の中で生活を共にすることです。どれほど相手を愛していても、息を継ぐ場所のない現実は、やがて耐えがたいほどの重圧となって家族の心をすり減らしていきます。

距離を置くという、もう一つの愛の形

私たちは時に、「家族なのだから、最後まで自分の手で抱え込まなければならない」という強い責任感という名の鎖に、自分自身を縛り付けてしまいます。しかし、私たちが限界を持った脆い存在であることは、決して恥ずべきことではありません。

以前、別の記事でも取り上げたことですが、終わりのない現実の中で私たちが生き抜くためには、守るべき大切な知恵があります。

  1. 一人で抱え込まないこと(現実には非常に難しいことですが、だからこそ声を上げる必要があります)
  2. 必ず、周りの助け(専門家や制度)を得ること
  3. そして、意識的に「距離を置く」こと

「距離を置くこと」は、決して見捨てることでも、愛が冷めたことでもありません。それは、あなたがあなた自身の心を守り、再び相手に優しく接するための「息抜きの場所(舞台裏)」を確保するという、とても神聖で必要な行為なのです。

神様は、私たちが無限の力を持つ神のように振る舞うことを求めてはおられません。限界のある私たちが、互いに弱さを認め合い、助けを求め合うその手の中にこそ、本当の愛が宿るように人間を造られました。もし今、終わりのない日常の舞台で限界を感じている方がいるならば、どうか「役者を降りる勇気」を持ってください。他者の手を借り、少し離れた場所から深く息を吸い込んでいいのです。

明日は、ランニングを休んで休息日にする予定ですが・・・・