デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年5月11日月曜日

託された場所で、それぞれの「一歩」を

 


託された場所で、それぞれの「一歩」を ―― 喉の痛みと、朝日のエール

祭りのあとの静寂を、光とともに駆ける

昨日の仙台国際ハーフマラソンの熱狂が、嘘のように静まった月曜日の朝。私は午前四時半、少し重たい身体を動かして路上へと踏み出しました。昨日からのどの痛みが続いており、正直に言えば疲れも感じていましたが、朝日が街を黄金色に染め始める中、自分自身と約束した二十五キロを無事に完走しました。

これで六日連続の朝ラン。朝の冷たく澄んだ空気を肺に満たし、自分の足音だけが響く道を走り抜けることで、心の中にはのどの痛みも疲れも「何とか乗り切れる」という静かな覚悟が灯りました。


 

家族それぞれの「持ち場」へ

今日から三日間、私はホテル日航成田でのセミナーに参加します。最初の講演を担当するという重責を担い、仙台を離れます。

家族もまた、それぞれの場所へと向かいます。  娘は今日も実習。今朝は「今日は三歳児の担当だよ」と教えてくれました。小さな命と向き合うその一日は、きっと体力も神経も使うことでしょう。けれど、どうかその大変さを、彼女らしい喜びへと変えていけますように。妻は午後のアルバイトへ。今週は私が車で送ることができませんが、彼女にとってのその道のりが、良い運動、良い気分転換になることを願っています。そして愛犬ノアは、今週は妻との散歩を楽しみます。

私が不在にする間、家族が不便を感じることもあるかもしれません。しかし、互いに自立し、自分の持ち場で誠実に生きることは、家庭という共同体をより深く、強く結びつける「祈りの時間」でもあるのだと気づかされます。


 


弱さの中にこそ宿る、確かな助け

喉が痛み、身体に疲れがある。そんな「万全ではない自分」で大切な講演の壇上に立つとき、私は改めて、自分の力で語るのではないことを悟ります。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」(コリントの信徒への手紙二 129節)

私たちは、完璧な状態でなければ役割を果たせないと思い込み、不安になります。しかし、聖書が教えるのは、むしろ自分の弱さを知る者こそが、神様の大きな力に委ねることができるという真理です。私の声がかすれても、その言葉に「命」が宿るならば、それは主の働きに他なりません。


 


移動を、途切れることのない「巡礼」に

今回はスペインへの巡礼ではなく国内の移動なので、ノートパソコンを携えて旅立ちます。それは、場所が変わってもブログを通じて皆様と繋がっていたい、この思索の歩みを止めたくないという願いからです。移動とは、単なる「地点から地点への移動」ではありません。そこには新しい出会いがあり、風景があり、深い対話があります。たとえホテルの部屋であっても、そこは私の「祈祷室」となり、言葉を紡ぐ場所となります。大切なのは、どこにいても「今、ここに神様が共におられる」という事実を離さないことです。


 


あなたの一週間も、祝福のうちに

新しい一週間が始まりました。もし、あなたが今、身体の不調や、抱えきれない重荷、あるいは慣れない環境への不安を感じているとしても、どうぞ安心してください。あなたが「弱い」と感じているその場所こそが、神様の力が現れる舞台です。娘が三歳児の笑顔に癒されるように、妻が歩く道に小さな春を見つけるように、あなたの一歩にも必ず「小さな恵み」が用意されています。



成田の空の下から、皆様の歩みが守られるよう祈っています。

成田でのランニングも正直、楽しみにしています。もちろんランニングウェアーとシューズも持参して行きます。

今日も、そして今週も、共に前進です。

ノアの散歩

 


「暗闇を照らす嗅覚――ノアが教えてくれた見えない導き

■ 011分、静けさの中で始まった一日

日付が変わって011分、ふと目が覚め、 いつものルーティンワークを静かにこなしました。外はまだ夜の余韻が残る時間。 先ほど、ノアとの散歩にも行ってきました。 薄暗い道を歩きながら、私はノアの足取りに目を向けました。

 


見えないのに、迷わない

13歳になるノアはあまり目が見えません。 けれど、その代わりに与えられた嗅覚の力で、 彼は自分の進むべき道を確かに判断し、 躓くこともなく、まっすぐ歩いていきます。その姿を見ながら、 「人間には真似できないな」と思いました。 そして心の中で、 犬にそのような対応能力を与えてくださった神様、ありがとう。 と祈りました。

ノアは、見えるものではなく、 与えられた感覚を信じて歩くのです。

 


私たちもまた、見えない道を歩いている

人生には、先が見えない夜道のような時があります。 不安や迷いが押し寄せ、 「どちらへ進めばいいのか」わからなくなる瞬間があります。

けれど、聖書はこう語ります。

「あなたの道を主にゆだねよ。主は成し遂げてくださる。」(詩編37編)

私たちに必要なのは、 すべてが見える視力ではなく、 主が与えてくださった嗅覚のような感覚”―― 心の奥で働く静かな導きに耳を澄ますこと。

ノアがそうであるように、 私たちもまた、与えられた力で今日を歩くことができます。

 


今日という一歩を、恐れずに

ノアは、見えないからこそ、 与えられた感覚を最大限に使って歩きます。

私たちも、 見えない未来を恐れるのではなく、 与えられている今日の力を信じて歩むことができます。暗闇の中でも、 主は私たちの足元を照らし、 必要な感覚を与え、 倒れないように支えてくださるからです。

今日も、共に前進です。

【月曜日の朝に捧げる、希望と命の祈り】

 


【月曜日の朝に捧げる、希望と命の祈り】

愛する天の父なる神様。

新しい一週間、その最初の一歩を今、踏み出すお一人おひとりの上に、あなたの豊かな慈しみと平安がありますように。

主よ、私たちは今、それぞれの「月曜日」を抱えてあなたの前に立ちます。 身体に残る疲れや、心にある小さな不安、あるいはこの一週間に待ち受けているであろう困難を思い、足がすくんでしまう瞬間があります。不条理な出来事や、思い通りにいかない現実に、希望を見失いそうになることもあります。

どうか今、その震える心に、あなたの温かな手を置いてください。

私たちが自分の力だけで歩もうと力むとき、あなたは「わたしが共にいる」と語りかけてくださいます。どうか今、お一人おひとりに、今日一日を生き抜くための新しい力と、明日を恐れない勇気を注いでください。

たとえ歩みが遅くとも、たとえ人生が未完成であっても、その一歩一歩があなたの目に尊く、愛されているものであることを、魂の奥底で確信させてください。

憎しみのあるところに愛を、 絶望のあるところに希望を、 暗闇のあるところに光を運ぶ者として、 私たちを今日、それぞれの持ち場へと派遣してください。

主よ、あなたが私たちの重荷を共に背負い、正しい方向へと導いてくださることを信じます。 私たちの弱さを、あなたの力によって「生きる力」へと変えてください。この一週間、皆様の歩みが、あなたの光に照らされた喜びの巡礼となりますように。私たちの命の源であり、完成者である、主イエス・キリストの御名によって、心から祈ります。アーメン。

月曜日という名の「新しい恵み」へ

 


始まりの光を汲み取る ―― 月曜日という名の「新しい恵み」へ

週の扉を叩く、静かな鼓動

新しい一週間が始まりました。

月曜日の朝(?011分ですが・・・・自分には夜中ではなく、一日のスタートの朝になりました。)、窓を開けた瞬間の空気は、昨日までのそれとは少し違う、ピンと張り詰めた「始まり」の匂いがします。週末の休息を経て、あるいは家族のために心身を尽くした休日を終えて迎える月曜日。私たちの身体には、まだ心地よい重だるさが残っているかもしれません。しかし、その重みこそが、私たちが一生懸命に今日までを駆け抜けてきた、生きた証でもあります。


 


「憂鬱」を「期待」に書き換える

世間ではよく「ブルーマンデー」などと言われ、月曜日を重荷のように感じる風潮があります。確かに、再び始まる仕事や学業、終わりの見えない家事や介護の日常を前にして、足がすくんでしまうこともあるでしょう。

けれど、視点を少しだけ変えてみてください。もしこの世界に「月曜日」という区切りがなかったら、私たちの人生は際限のない砂漠を歩くようなものになってしまいます。月曜日があるからこそ、私たちは「昨日までをリセットし、新しいページを開く」という特権を、神様から毎週プレゼントされているのです。

疲れた体は、あなたが愛する誰かのために、あるいは自分自身の使命のために、誠実に歩んだ勲章です。その体を、今は否定するのではなく「よく頑張っているね」と労わりながら、正しい方向へと向け直してあげましょう。


 

          広瀬川に残って過ごしている一羽のハクチョウはもう4年目を迎えます。

枯れない泉から汲み出す力

聖書は、疲れ果てた私たちに、驚くべき約束を届けてくれています。

「主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(イザヤ書 4031節)

月曜日の元気とは、自分の中から無理に絞り出すものではありません。それは、空を舞う鷲が上昇気流に乗るように、天から注がれる新しい力を「受け取る」ことから始まります。「今日一日の力は、今日与えられる」  その真理に信頼して、まずは深呼吸を一つ。  自分一人の力で一週間を完走しようと思わなくていいのです。ただ、今日という最初の一段に、主の助けを借りて足をかける。その小さなアクションが、あなたの内に眠っていた喜びを呼び覚まします。


 


今、ここから踏み出す勇気

月曜日だからこそ得られる恵み。それは「再出発」という名の希望です。先週うまくいかなかったことも、昨日の失敗も、月曜日の朝の光はすべてを新しく塗り替えてくれます。

  • 身体を整える: 温かい飲み物で、内側から温度を上げる。
  • 心を整える: 今日出会う誰かの一つの幸せを祈ってみる。
  • 一歩を踏み出す: 目的地を遠くに置かず、まずは目の前の一歩に集中する。

このシンプルな繰り返しの中に、真の自由と平和が宿ります。不条理な世界にあっても、月曜日という扉を開ける鍵は、常にあなたの手の中に握られているのです。


 


光の中を、軽やかに

今、あなたの心と体にある疲れは、間もなく「新しい力」へと作り変えられます。顔を上げてください。五月の爽やかな風が、あなたの背中をそっと押しています。あなたは独りではありません。共に歩み、共に走り、共に祈る主が、この一週間のすべての道筋を既に備えてくださっています。

さあ、軽やかに、そして自分らしく。新しい恵みの週を、喜びをもって始めましょう。

今日も、共に前進です。

2026年5月10日日曜日

飽和を越える「一瞬」の尊さ

 


鮮烈な「最初の一口」に、永遠を垣間見る ―― 飽和を越える「一瞬」の尊さ

朝の光に洗われた感覚の芽吹き

今朝も五月の清々しい空気に包まれながら、私は自身の内に目覚める感覚を静かに見つめていました。一日の最初に口にする冷たい水、走り出して最初に肺に満ちる澄んだ空気、そして愛犬ノアの頭を撫でる時の掌の温度。

私たちは日常の中で、無意識に「最初」の瞬間を求めています。一瞬の喜び、楽しさ、美味しさ、そして幸福感。それらが「最初」であるとき、私たちの感覚は最も鮮烈に、そして最高潮に震えるようにできています。


 


慣れという名の「飽和」

どれほど美味しい料理であっても、二回目、三回目とその味を重ねるうちに、最初の一口で感じたあの衝撃的な感動は、少しずつ影を潜めていきます。喜びも、幸福感も、それが日常の当たり前になった瞬間に、私たちはその鮮やかさを失ってしまうのです。

人は毎日、絶え間ない幸せや喜びを求め続けます。けれど、刺激が日常化すれば、それはもはや刺激ではなくなります。「毎日の幸せ」が維持されることを願うほど、皮肉にもその価値は摩耗していく。それが、私たちが生きるこの世界の不条理な姿なのかもしれません。世間の流行や、絶え間なく消費を促す情報の流れは、「もっと、もっと」と私たちの渇望を煽り立てます。その濁流の中で、いかに自分らしく、惑わされずに生きられるか。それが、私たちが直面している静かな戦いです。


 


「たまに」の恵みを数え上げる

この世が「最初」のものを最良とするように造られているのであれば、私たちは「たまに」訪れる恵みをこそ、宝物のように扱うべきなのでしょう。

聖書は、私たちが日々の糧に感謝しつつも、この世の形あるものに心を奪われすぎないよう、こう諭しています。

「持っているものは、持っていない者のようになりなさい。この世のものを利用する者は、それを使い尽くさないようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。」(コリントの信徒への手紙一 73031節)

すべてが移ろい、過ぎ去っていく不条理な世界だからこそ、私たちはその「一瞬」を使い尽くさず、執着せず、ただ「今」与えられている喜びを、そのままの鮮やかさで受け取るのです。


 


不条理の中で「自分」を走らせる

週に百キロを走る私の日々に、同じ道はあっても、同じ走りは一度としてありません。  今日の風の冷たさ、脚の重み、そして空の色。それらはすべて「最初」であり、唯一無二のものです。毎日が最高である必要はありません。むしろ、不調な日や、何も感じられない無味乾燥な日があるからこそ、時折訪れる「鮮烈な喜び」が、私たちの魂を深く潤してくれるのです。世の流れが幸福の量を競うなら、私たちは幸福の「質」と、それを受け取る「心」の静けさを大切にしたいものです。


 


最初の一歩を、新しく

もし、あなたが今、繰り返される日々に退屈し、幸せが目減りしているように感じているなら。 一度、立ち止まって深呼吸をしてみてください。そして、当たり前だと思っていた「今」を、もう一度「最初の一瞬」として味わい直してみてください。

最初の一口、最初の風、最初の対話。その新鮮な驚きこそが、不条理な世界を生き抜くための、神様からの贈り物です。世間の流れに背中を向け、あなただけの確かな一歩を踏み出しましょう。

今日も、共に前進です。

娘は今日、バイトに元気に出かけていきました。

母の日

 


「お母さんたちが本当に求めているもの――世界が教えてくれる静かな真実」

世界中で共通していた「ひとつの願い」

母の日が近づくと、街には花やギフトが並びます。 けれど、世界中のお母さんたちが本当に求めているものを探ってみると、 国や文化が違っても、驚くほど共通したある願いに行き着きます。

それは―― 高価な贈り物ではなく、「ひとりの時間」と「心からの感謝」。

母の日の本音は、静かで、深くて、そしてとても人間らしいものです。

 


■ 1. 「自分だけの時間(Me Time)」という贅沢

アメリカ、ヨーロッパ、日本。 どの国でも、お母さんたちが口をそろえて願うのは、 「数時間だけでいい、一人で過ごす時間がほしい」ということ。

育児、家事、仕事。 休む間もなく動き続ける日々の中で、 「誰にも呼ばれない時間」

「邪魔されないお風呂」「静かに読む本」 そんなささやかな時間が、心を回復させる大切な瞬間になります。

 


■ 2. 「家事からの完全な解放」

世界共通で人気なのが、 「今日だけは料理も皿洗いも休んでいい日」

欧米では、父子がキッチンに立ち、 お母さんにベッドでの朝食を運ぶのが憧れのシーン。 現代では、 「献立を考えなくていい」 「包丁を握らなくていい」 その状況そのものが、最高のプレゼントになります。

 


■ 3. 「形ではなく、心からの感謝」

アンケートで必ず上位に入るのが、 「手書きの手紙」や「ありがとうの言葉」

モノは古くなりますが、 「あなたの頑張りを見ているよ」 「いつもありがとう」 その言葉は、お母さんの心のガソリンになります。

デジタルの時代だからこそ、 不器用な文字で書かれたカードや、 家族で笑い合う時間が、何よりの宝物になります。

 


■ 4. 国ごとに違う、母の日の風景

  • オーストラリア:家族でチャリティマラソンに参加し、健康を祝う
  • タイ:王妃の誕生日でもあり、ジャスミンの花を贈る
  • 韓国:実利的に「現金+カーネーション」が人気

文化は違っても、 「お母さんを大切に思う心」はどこでも同じです。

 


最後に――すべてのお母さんへ

お母さん。 あなたが今日まで歩いてきた道は、 誰にも見えないところでの献身と忍耐の連続でした。家族のために時間を削り、 自分のことを後回しにし、 ときに涙をこらえながら、 それでも前に進んできたあなた。

どうか忘れないでください。

あなたがそこにいるだけで、 家族の世界は確かに守られ、照らされているということを。

母の日の贈り物が何であれ、 あなたの存在そのものが、 家族にとってかけがえのない祝福です。今日、ほんの少しでも、 あなた自身のための静かな時間が与えられますように。 そして、心からの「ありがとう」が、 あなたの心にそっと届きますように。

今日も、共に前進です。

魂を調律する響き

 


魂を調律する響き ―― 音楽療法的な神学への誘

5回:共に歌うことの共感回路―― 孤独を溶かすハーモニーの科学

1. 一人の歩み、みんなの祈り

日々の生活は、ときに孤独な歩みに感じられることがあります。自分の呼吸、自分の鼓動、自分のペース。けれど、日曜日の朝、礼拝堂で賛美歌を歌い始めた瞬間、 その「個」の境界線がふわりと溶けていくように感じたことはないでしょうか。一人ひとりの声が重なり合い、やがて大きな響きとなって空間を満たしていく。 そのとき、私たちの内側では、孤独を癒やす「聖なる化学反応」が起きているのです。

 


2. 合唱がもたらす「つながりの力」

音楽療法や生理学の研究によれば、合唱には驚くべき癒やしの力があります。複数の人が一緒に歌うと、心拍数が自然と同期し、呼吸のリズムも揃っていきます。 まるで、バラバラだった鼓動が一つの大きな拍動へと統合されていくようです。このとき、脳内では「絆のホルモン」と呼ばれるオキシトシンが分泌され、私たちの心と身体に、次のような恵みをもたらします:

•孤独感の緩和:不安が和らぎ、他者とのつながりを感じやすくなります。

•痛みの軽減:エンドルフィンの働きで、心身の痛みが和らぎます。

•免疫力の向上:ストレスホルモンが減少し、身体の回復力が高まります。

一人で頑張ることも大切ですが、誰かと声を合わせるとき、私たちは「支えられている」ことを体感するのです。



3. 「多くの肢体、一つの体」

この現象は、聖書が語る「キリストの体」の教えとも深くつながっています。「体は一つであっても、多くの肢体から成る」(Ⅰコリント12:12

 ソプラノ、アルト、テノール、バス。 それぞれが異なる音を持ち、異なる旋律を歌いながら、 重なり合ったときにしか生まれない立体的な美しさがあります。もし全員が同じ音しか歌わなければ、音楽に深みは生まれません。 私たちがそれぞれ違う痛みや喜びを抱えながら、 一つの主を賛美する――その「差異の調和」こそが、神が望まれた共同体の姿です。礼拝堂は、傷ついた「個」が集まり、キリストという一つの大きな「共感回路」へと繋がる癒やしの空間なのです。

 


4. 声を合わせる勇気

日々の生活の中で、私たちは「自分一人で頑張らなければ」と思いがちです。でも、神様は私たちを共に歌い、共に祈る存在として創られました。もし今、あなたが孤独や重圧に押しつぶされそうになっているなら、どうか、誰かと声を合わせてみてください。賛美歌の一節でも、小さな祈りの言葉でも構いません。あなたが声を出すとき、聖霊の見えない回路があなたの心と誰かの心をつなぎ、「あなたは一人ではない」と語りかけてくれるはずです。

意志を越えて、風の中へ

 


快晴の路上の「一歩」 ―― 意志を越えて、風の中へ

祭りの朝、独り駆ける25キロ

五月十日、日曜日。今日は「仙台国際ハーフマラソン」が開催される日です。 街が号砲を待つ熱気に包まれる数時間前、私は午前四時の静寂の中で、自分自身のハーフマラソンをスタートさせました。

昨年のように距離を欲張ることはせず、今日はあえて「25キロ」と決めて臨みました。  平均ペースは506秒、合計タイムは2時間0736秒。五日連続のランニングという負荷がかかっているはずなのに、不思議と足は軽く、五月の快晴の空のように澄み渡ったリズムで地面を蹴ることができました。

今、私は自分の走るペースを身体の感覚だけで概ね把握できるようになりました。それは、長年積み重ねてきた路上の記憶が、身体に刻まれているからです。


 


「何もしない」が奪うもの

すがすがしい風が吹き抜ける道を走り続ける。この快感、この恵み、そして高鳴る鼓動という感情。これらはすべて、自分の脚で地面を蹴り、前に進んだからこそ得られたものです。「何もしなければ、何も得られない」それはあまりにも厳しい正論かもしれません。

けれど、自分が変わることを、あるいは世界が変わることを願うならば、私たちはどこかで「アクション」を起こさなければなりません。自らの意志で、自らの力で、最初の一歩を踏み出す……

しかし、私たち人間は、いつも強い意志を持てるわけではありません。どうしても力が出ないとき、自分一人では立ち上がれないほどに心が疲弊しているとき。そんな「意志の弱さ」に直面したとき、私たちはどうすればよいのでしょうか。


 


内なる「私」から、外なる「一歩」へ

意志を強くしようと、自分の中に籠もっていても答えは見つかりません。  大切なのは、自分を律しようとする努力以上に、まず「外に向けて一歩を踏み出す」ことそのものです。聖書は、神様が私たちを外へと連れ出される姿をこう描いています。

「主は言われた。『外に出て、山の上で主の前に立ちなさい。』」(列王記上 1911節)

洞窟の中に閉じこもり、絶望していた預言者エリヤに、神様はまず「外へ出なさい」と命じられました。意志が伴わなくてもいい。確信がなくてもいい。ただ、重い腰を上げて一歩外へ出る。冷たい朝の空気に触れる。誰かに「おはよう」と声をかける。その小さな、しかし勇気ある「外向き」の行動の中に、神様の風が吹き込み、新しい意志と力が宿り始めるのです。


 


すべては、踏み出すことから始まる

今日の快晴の空も、頬を撫でる風も、家の中で座っていては「知識」でしかありませんでした。実際に走り出し、汗を流したからこそ、それは私の「命の輝き」へと変わりました。変わりたいと願いながら、足が竦んでいる皆様。意志の強さを測る必要はありません。ただ、靴を履いて玄関を開ける。あるいは、一通のメッセージを誰かに送ってみる。その「外へのアクション」こそが、不条理な停滞を打ち破る唯一の鍵です。

あなたが踏み出したその一歩を、主は決して見逃さず、背中をそっと押してくださるでしょう。


 


新しい風を、その身に受けて

今日という一日は、まだ始まったばかりです。 たとえ昨夜まで悩みの淵にいたとしても、今日はもう一度、外の世界へ向かって一歩を踏み出してみませんか。最初の一歩さえ踏み出せば、あとは風が、そして主の恵みが、あなたをふさわしい場所へと導いてくれます。    さあ、光の中へ。

今日も、共に前進です。

2026年5月9日土曜日

「今」を抱きしめる静かな約束

 


闇と光の境界線で ―― 「今」を抱きしめる静かな約束

午前二時の階段、二つの時間の交差点

深い静寂に包まれた時刻、私は愛犬のノアと共に散歩へ出かけました。散歩を終え、二階へと自力で階段を上っていくノアの背中を見送りながら、心に浮かぶのはやはり「感謝」の一言です。いつか彼が歩けなくなるときが来れば、私はこの腕で彼を抱え、階段を上り下りすることになるでしょう。幸い、今の私にはまだその力が備わっています。だから「その時はその時で、何とかなる」と思える。未来の不安に怯えるのではなく、目の前の一段を自ら踏みしめるノアの姿、その「今」を何よりも大事にしたいのです。

ふと時計を見つめ、自問します。これは一日の始まりなのか、それとも終わりの残照なのか。おそらく、その両方なのでしょう。私たちは一つの終わりを告げると同時に、新しい始まりへと足を踏み入れています。


 


自分と交わす「25キロ」の約束

散歩を終えた私は、これから二時間ほど仕事に向き合い、それから再び少しの眠りにつきます。いよいよ明日は、仙台国際ハーフマラソン。街が熱気に包まれるその早朝、私は一人、25キロを走ることを自分自身と約束しました。

昨年は勢いに任せて43キロを駆け抜けましたが、今年はあえて25キロに留めることにしました。これで五日間連続のランニングとなります。来週から四日間、成田でのセミナーや講演のために仙台を離れます。その「空白」を埋めるため、そして自分が定めた「週百キロ」という規律を守るため。それは誰に強制されたわけでもない、自分との小さな約束です。けれど、その約束を守り抜くことが、私の牧会者としての、そして一人の人間としての体幹を支えてくれているのだと感じます。


 


「今日」という一日の完結と萌芽

私たちは明日を憂い、過去を悔いることに多くの時間を費やしてしまいます。けれど、散歩で見せたノアの迷いのない足取りは、真理を雄弁に物語っています。

「だから、あしたのことを思いわずらうな。あしたのことは、あした自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。」(マタイによる福音書 634節)

一日は始まりであると同時に、終わりでもあります。今日という日に与えられた力を使い切り、満足して眠りにつく。そして目覚めたとき、再び新しい恵みとしての一歩を踏み出す。その繰り返しこそが、私たちの「生」を形作ります。

夕方ごろまで吹いていた強風も、今は静かに止んでいます。明日はきっと、素晴らしいマラソン日和になるでしょう。それは大会に出るランナーにとっても、そして早朝の静寂を走る私にとっても、等しく降り注ぐ神様からの微笑みのようなものです。


 


整えられた心で、一歩先へ

あなたにとって、今は「始まり」のときですか、それとも「終わり」のときですか?    たとえどのような重荷を背負っていたとしても、明日を無理に引き寄せようとする必要はありません。今、目の前にある一段を上りきること。自分と交わした小さな約束を、大切に守ること。「その時はその時で、何とかなる」そう信じられるのは、今日まであなたを支えてきた確かな御手があるからです。

一時の休息を大切に。そして、新しく備えられた朝の光の中へと、勇気を持って踏み出していきましょう。

今日も、最後まで共に前進です。