2026年3月26日木曜日

【四旬節の黙想】第36日目

 


【四旬節の黙想】

十字架の完了 ―― 「渇き」が潤される場所

1. 聖書の場面:最後の一滴、最後の一言

「この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。……イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」 (ヨハネ 19:28–30

十字架に釘付けにされ、血も水分も失われていく極限状態の中で、主イエスは「渇く」と言われました。 それは単なる肉体的な渇きではありません。

神の救いの計画を、一つ残らず完成させるための最後のピースを求める叫びでした。

酸いぶどう酒を受け取られた主は、すべての預言が満たされたことを確認し、 「成し遂げられた」と宣言されます。

それは敗北の言葉ではなく、 救いの完成を告げる勝利の宣言でした。

2. キリスト者への教訓:私たちの「借金」は完全に支払われた

「成し遂げられた」という言葉は、当時の商取引で 「完済した」「支払いはすべて終わった」 という意味でも使われていました。

私たちは日々、

  • 自分の弱さ
  • 罪の意識
  • 「もっと頑張らなければ愛されない」という思い

こうした心の負債を抱えて生きがちです。

しかし主イエスは十字架の上で、 その負債をすべて肩代わりし、最後の一円まで支払いきってくださいました。

だからキリスト者の人生のゴールは、 「何かを成し遂げること」ではありません。

すでに主が成し遂げてくださったという安心の中に安らぐこと。

その土台の上に立つとき、 私たちは喜びをもって奉仕へと踏み出すことができます。

3. 現代人へのメッセージ:「足りない」という渇きからの解放

2026年の私たちは、 「もっと、もっと」という終わりのない渇きの中に生きています。

  • もっと効率よく
  • もっと豊かに
  • もっと認められたい

しかし、どれだけ手に入れても、魂の渇きは癒えません。

主イエスが十字架で「渇く」と叫ばれたのは、 私たちが二度と乾くことのない命の水を得るためでした。

孤独、虚しさ、焦り―― これらは自分の努力で埋めるものではありません。

キリストの「成し遂げられた」という愛によって満たされるものです。

十字架はこう語ります。

「もう頑張らなくていい。 そのままのあなたを、わたしはすでに買い取った。」

このメッセージこそ、 不条理な世界を生き抜くための最も確かな希望です。

💡 今日の黙想のポイント

  • あなたが今、「足りない」と感じているものは何でしょうか。  その渇きを、主の十字架の前にそっと置いてみましょう。
  • 「成し遂げられた」という主の声を聞きながら、  深く息を吸い、心を静めてみましょう。

十字架の下で、あなたの渇きは必ず潤されます。

2026年3月25日水曜日

十字架への道 ―― 「重荷を共に担う愛」第35日目

 


十字架への道 ―― 「重荷を共に担う愛」

1. 聖書の場面:キレネ人シモン ―― 偶然に見える必然

「人々はイエスを引いて行くとき、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえ、十字架を担がせて、イエスの後ろから運ばせた。」 (ルカ 23:26

鞭打たれ、嘲られ、肉体の限界に達していた主イエス。 十字架の横木を背負い、ゴルゴタへ向かうその道で、主は何度も倒れ込まれました。

その時、兵士たちは通りがかった一人の男――キレネ人シモンを捕まえ、強制的に十字架を担がせました。

シモンにとっては、 「なぜ自分が?」 と思うような不運な出来事だったかもしれません。しかしその瞬間、彼は 全人類の罪を背負う主イエスの痛みを、肩で分かち合う者 となったのです。偶然に見える出来事の背後に、神の深い計らいが働いていました。

 

2.


キリスト者への教訓:予期せぬ「十字架」をどう受け止めるか

私たちの人生にも、シモンのように突然「重荷」が回ってくることがあります。

  • 思いがけない病
  • 家族の問題
  • 職場や教会の課題
  • 自分では選んでいない責任

「なぜ私が?」 「どうして今?」

そう叫びたくなる時があります。

しかし、シモンが後にキリスト者となり、彼の家族が初代教会の柱となったように、 主と共に担ぐ十字架は、苦しみで終わらないのです。

主イエスは、 「あなたの重荷を、わたしも共に担う」 と語りかけておられます。

あなたが今抱えているその重さは、 主がすでに前を歩き、 その大部分を背負ってくださっている重荷です。十字架は、 主との深い一致へと導く恵みの場所 でもあります。

 


3. 現代人へのメッセージ:孤独ではなく「連帯」の道へ

2026年の私たちは、 「自分のことは自分で」 「弱さを見せてはいけない」 という空気の中で生きています。自己責任という名の十字架を、 一人で背負わされているように感じることもあります。しかし、ゴルゴタへの道は私たちに教えます。

神の子であるイエスでさえ、助けを必要とされた。

だから私たちも、 「助けてください」と言っていい。 そして、誰かの重荷をそっと支える者にもなれる。効率や損得を優先する社会では、 こうした関わりは無駄に見えるかもしれません。しかし、 誰かの痛みを分かち合うことこそ、人間を最も人間らしく輝かせる行為 なのです。あなたが今、誰かのために差し出しているその優しさは、 ヴィア・ドロローサで主を支えたシモンの手と同じ尊さを持っています。

 


💡 今日の黙想のポイント

  • あなたが今、一人で抱えている「十字架」は何でしょうか。  その重荷を、主に正直に打ち明けてみましょう。
  • あなたの周りで、倒れそうになっている「隣人」は誰でしょうか。  その人の十字架の下に、そっと肩を差し出すことができるかもしれません。

主は、あなたのすぐそばで歩んでおられます。 見えない伴走者として、あなたの息遣いに寄り添い、 あなたが倒れそうな時には支えてくださいます。

イースターの朝、 すべての重荷が喜びへと変わるその時まで、 私たちは主の足跡を一歩ずつ辿り続けます。

2026年3月24日火曜日

【四旬節の黙想】第34日目



【四旬節の黙想】第34日目―沈黙の夜、委ねる勇気

1. 聖書の場面:血のような汗を流した祈り

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」 (ルカ 22:42

十字架を目前にした主イエスは、ゲツマネの園で深い苦悩の中に立っておられました。 これから背負う全人類の罪、神との断絶という恐るべき現実を前に、主は激しくもだえ、血のような汗を流して祈られました。弟子たちは眠り、主は孤独のただ中で苦しみと向き合われました。 しかしその祈りの終わりに、主は静かにこう告げられます。

「わたしの願いではなく、御心のままに。」

それは、すべてを父なる神に委ねる完全な信頼の言葉でした。

 

2. キリスト者への教訓:弱さを隠さず、神に投げ出す霊性

私たちはしばしば、「信仰者は強くあらねばならない」「弱音を吐いてはいけない」と自分を縛ってしまいます。 しかし、ゲツマネの主イエスは、恐れも苦しみも隠されませんでした。 その弱さを、飾らず、偽らず、父なる神にそのまま差し出されたのです。

「この杯を避けたい」 そう願うことは罪ではありません。 むしろ、その本音を神に向けて祈ることこそ、信仰の核心です。

自分の力で状況をコントロールしようとする手をいったん離し、 「御心のままに」と委ねるとき、 そこに神の平和が静かに訪れます。

自立とは、自分だけで立つことではなく、 自分の限界を認め、神に寄りかかる勇気を持つことなのです。

 

3. 現代人へのメッセージ:コントロールできない世界を生き抜く

2026年の私たちは、予測不能な世界の中で生きています。 突然の事故、揺れ動く国際情勢、健康への不安。 「自分の人生を完璧に管理しなければならない」という重圧が、私たちを疲れさせています。

しかし、人生にはどうしても避けられない「杯」があります。 努力ではどうにもならない現実が訪れることがあります。

そのとき、ゲツマネの祈りは私たちに語りかけます。

「あなたは、一人で背負わなくていい。」

暗闇の中で震えるあなたのそばに、 血のような汗を流して祈られた主イエスが立っておられます。 あなたが抱えきれない重荷を、 主は「一緒に背負おう」と招いておられます。

明日の心配を神に委ね、 今日という一日を誠実に生きる。 その「委ねる勇気」こそ、 混沌とした世界を歩むための確かな道です。

 

💡 今日の黙想のポイント

今、あなたの心を重くしている「杯」は何でしょうか。 その重荷を、今日一日だけでも神様に預けてみませんか。主はあなたの弱さを責める方ではなく、 あなたの隣で共に祈り、共に歩んでくださる方です。

  

2026年3月22日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第33日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第33日目:裂かれた幕 ―― 神様への新しい道

1. 聖書の場面:沈黙を破る「断絶の解消」

「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。地は震え、岩は割れた。」 (マタイ 27:51

主イエスが息を引き取られた瞬間、エルサレム神殿で驚くべき出来事が起こりました。 聖所と至聖所を隔てていた、厚く重い垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。

至聖所は、神の臨在を象徴する「最も聖なる場所」。 大祭司でさえ年に一度しか入れない領域でした。

その幕が裂けたということは、 人間と神を隔てていた「罪」という壁が、キリストの死によって完全に取り除かれた という神の宣言です。

世界が闇に包まれ、人々が責任の押し付け合いや悪への注目に心を奪われていたその時、 神は自ら幕を裂き、私たちの住む不条理な世界へと踏み出してこられました。



2. キリスト者への教訓:直接、父なる神の前に立つ特権

私たちは時に、自分の弱さや罪深さを思い、 「こんな自分が祈ってよいのだろうか」 「神様は遠い存在だ」 と心の幕を閉ざしてしまうことがあります。

しかし、聖書は「幕は上から下まで裂けた」と語ります。 これは、人間の努力ではなく、 神が一方的に道を開いてくださった というしるしです。

特別な資格も、完璧な実績も必要ありません。 裂かれた幕の間を通り、 ただ父なる神のもとへ行けばよいのです。

四旬節の終盤、 この「大胆な信頼」を受け取ることこそ、 私たちに与えられた最大の恵みです。



3. 現代人へのメッセージ:孤独な「自力」を卒業する

2026年の今、私たちは 「自分の責任は自分で取れ」 「弱さを見せるな」 という空気の中で生きています。

誰かに弱さを見せれば批判の対象になり、 善よりも悪が注目される社会では、 人は心に厚い幕を張り、孤立を深めてしまいます。

しかし、十字架で裂かれた幕は、静かに語りかけています。

「あなたはもう、一人で戦わなくていい」 「裁かれることを恐れなくていい」

世界が指を指し合っていても、 神はあなたを責めるためではなく、 抱きしめるために手を伸ばしておられます。

自力で壁を越えようとするのをやめ、 主が開いてくださった「新しい道」に身を委ねてみませんか。



黙想のひととき

今日、あなたの心の中にある「幕」は何でしょうか。 神や他者を遠ざけてしまう思い込み、 「どうせ理解されない」 「自分は正しくない」 という声を、十字架の前にそっと置いてみましょう。

主が幕を裂いてくださったことで、 私たちの人生は孤独な戦いではなく、 主と共に歩む喜びの旅へと変えられました。

今日は、新しく開かれた道を通って、 天の父の平安の中を歩みましょう。

2026年3月21日土曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第32日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第32日目:すべてが成し遂げられた ―― 完了と安息

1. 聖書の場面:最後の一息に込められた「勝利」

「イエスは、この酸いぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」 (ヨハネ 19:30

十字架の上で、主イエスが最後に発せられた言葉は「テテレスタイ(成し遂げられた)」でした。 これは敗北の言葉ではありません。 当時の商取引で「負債が完済された」ときに使われた言葉でもあります。

私たちの罪という重すぎる負債を、主はその命をもって完全に支払い終えられました。 神と人を隔てていた壁を、ご自身の体を裂くことで取り除かれたのです。

その壮大な「救いの仕事」が完璧に終わったことを宣言し、主は静かに安息へと入られました。

2. キリスト者への教訓:自分の力で「付け足す」必要はない

信仰生活の中で、私たちはしばしば不安を抱えます。

「もっと祈らなければ」 「もっと奉仕しなければ」 「もっと愛さなければ」

そうやって、自分の不足を埋めようと必死に努力し続けてしまうことがあります。

しかし、主の「成し遂げられた」という言葉は、 救いのために人間が付け足すものは何一つ残っていない という宣言です。

救いは100%、キリストによって完成しました。 私たちはただ、その「完成した恵み」を受け取り、感謝して憩うだけでよいのです。

四旬節の旅路の終盤、 自分の「努力の階段」を降りて、 主の「恵みの腕」に身を委ねる平安を味わいたいと思います。

3. 現代人へのメッセージ:「まだ足りない」という呪縛からの解放

2026年の今、私たちは「もっと、もっと」という無限の要求に囲まれています。 仕事の成果、SNSでの評価、家庭の役割。 どれほど努力しても「これで十分だ」と思える日はなかなか訪れません。

私たちは常に「未完了」の不安に追われています。

しかし、十字架から響く「成し遂げられた」という声に耳を澄ませてみてください。

今日、どれほど失敗したとしても、 何一つ成果を上げられなかったとしても、 神の目には、キリストを通してあなたはすでに「十分」な存在です。

自分を追い詰める声を一度静め、深く息を吸ってみましょう。 あなたの価値は、あなたの行いではなく、 主があなたのために何をしてくださったか によってすでに決定しているのです。

黙想のひととき

今日、あなたが「もっと頑張らなければ」と自分にムチを打っていることは何でしょうか。 その重荷を、主イエスの十字架の足元にそっと置いてみませんか。

主はあなたの人生の最後の一歩まで伴い、 すでに「完了」の印を押してくださっています。今日は、その安息の中で、 自分自身を労わる時間を持ちましょう。

2026年3月20日金曜日

31キロの祈り、105キロの決意

 


31キロの祈り、105キロの決意 ―― 狂った世界で「日常」を刻み続けるということ


 夜明け前の静寂、そして一歩目

今週、私は105キロという距離を走り抜きました。今日一日の歩みだけでも31キロ。アスファルトを叩く規則正しい足音と、自分の肺が求める荒い呼吸の音だけが、耳元で響き続けています。しかし、一歩コースを外れれば、そこには言葉を失うような不条理が広がっています。 トンネルでの凄惨な事故、終わりの見えない戦争、憎しみの連鎖、そして誰かを糾弾せずにはいられない世論の喧騒。世界は依然として、どこか「正気」を失ったまま、混乱の渦中にあります。そんな不条理な世界を走る一人のランナーとして、今、皆さんに伝えたいことがあります。


 


「祈り」と「掃除」から始まる抵抗

世界がどれほど荒れ狂い、価値観が崩れ去ったとしても、変わらない朝が来ます。 目が覚めればまず祈り、部屋に箒をかけ、愛犬ノアと共に歩く。聖書を広げ、魂に静かな光を蓄えてから、ランニングの支度をして外に出る。

一見、これはただの「ルーティンワーク」に見えるかもしれません。 けれど、この繰り返される日常こそが、実は不条理な世界に対する最も力強い**「静かなる抵抗」**なのです。誰かを憎むニュースが流れても、家族のために料理を作る。 未来に絶望しそうな予感に襲われても、今日走るべき30キロを黙々と走り抜く。 私たちが「いつも通り」を貫くとき、私たちは世界という濁流に飲み込まれることを拒絶し、自分の魂の主権を取り戻しているのです。


 


なぜ、私たちは走り続けるのか

31キロを走ったところで、世界の戦争が止まるわけではありません。 105キロを完走したからといって、悲劇的な事故の記憶が消えるわけでもありません。

それでも私たちが走り続け、祈り続け、掃除をし続けるのは、**「神様が造られたこの世界を、諦めないため」**です。

混沌とした闇の中で、自分が何者であるかを忘れないこと。 「自分には何の影響力もない」と嘆くのではなく、自分の手の届く範囲の清潔さを保ち、出会う命(それは散歩道の愛犬であったり、道ゆく隣人であったりします)を慈しむこと。 その「継続」そのものが、この世界にわずかな秩序と、確かな愛の体温を繋ぎ止める楔となります。


 


不条理を越える「聖なるルーティン」

あなたにとっての「30キロのランニング」は何でしょうか。 それは、心を込めて仕事に向き合うことかもしれません。 家族の健康を願って献立を考えることや、誰にも知られず庭の手入れをすることかもしれません。

世界がどう変わろうとも、あなたのその「ルーティン」を捨てないでください。 あなたが今日、当たり前のことを当たり前にやり抜いたという事実は、誰にも奪うことのできない尊厳であり、この狂った世界における「真実の光」です。

朝の光の中で靴紐を結ぶとき、あるいは台所に立つとき。 そこには、神様と共に歩む新しい一日が、確かに始まっています。


 


「前進」への派遣

不条理なニュースに心を削られる日もあるでしょう。 自分の無力さに膝をつきたくなる夜もあるでしょう。けれど、明日の朝もまた、太陽は昇ります。 私たちは再び祈り、掃き清め、自分に与えられたコースへと踏み出していきます。 世界を救う大きなドラマではなく、今日という一日を誠実に「完走」すること。 その積み重ねが、やがて歴史のサイクルを新しい朝へと導くのだと信じて。

今日も、前進です。

なぜ私たちは「影」に惹かれてしまうのか



なぜ私たちは「影」に惹かれてしまうのか ―― ネガティブ情報が心を支配する時代に

善い行いよりも悪い行い、平和な日常よりも悲劇的なニュース。 私たちの視線は、望んでいないはずの「影」の方へと吸い寄せられてしまいます。

2026年の今、情報が光の速さで世界を駆け巡る時代において、この現象は単なる個人の好みでは説明できません。 そこには、人間の本能・経済システム・心の飢えが複雑に絡み合った構造があります。

この記事では、そのメカニズムを一つずつ紐解いていきます。

1. 生存本能としての「ネガティビティ・バイアス」

人間には、ポジティブな情報よりネガティブな情報に強く反応する性質があります。 これは「ネガティビティ・バイアス」と呼ばれます。

  • 花が咲いているのを見逃しても命は失われません。
  • しかし、茂みに潜む危険を見逃せば命を落とします。

私たちの脳は、危険を察知するために「悪い知らせ」に敏感に反応するよう設計されているのです。

現代ではどうなるか

SNSやニュースサイトは、この本能を過剰に刺激します。 遠くの戦争や誰かの不祥事が、まるで自分の身に迫る危機のように感じられ、脳はアラートを鳴らし続けてしまいます。

2. 怒りと関心を換金する「アテンション・エコノミー」

現代社会を動かしているのは、「注目」を奪い合う経済構造です。

アルゴリズムの仕組み

SNSAIは「正しい情報」ではなく、「クリックされる情報」を優先します。 そして、人間が最も反応しやすいのは、

  • 怒り
  • 恐怖
  • 嫉妬

といった強い感情です。

善いニュースは心を温めますが、悪いニュースは「許せない!」という激しい反応を生み、拡散力が桁違いです。

悪のインフレ

刺激的な情報が溢れる中で、普通の善行は風景に溶け込みます。 より強い刺激、より深い闇が求められ、「悪のインフレ」が起きているのが現代です。

3. 「自分は正しい」という心理的麻薬

他人のスキャンダルや失敗を消費することには、中毒性があります。

比較による安心

誰かの悪行を批判するとき、私たちは無意識に 「それに比べて自分はまともだ」 という安価な安心感を得ます。

これは、聖書で語られる「自分を正しいとし、他人を見下す」ファリサイ派の姿に重なります。

代理正義の快感

悪を叩くことで、自分が正義の味方になったような高揚感を味わえます。 しかしそこには、苦しむ人への共感や痛みが欠けていることが多いのです。

4. このサイクルの中で、どう生きるか

世界が「影」に引き寄せられる構造を理解した上で、私たちはどう歩むべきでしょうか。

「沈黙」と「生活」という名の抵抗

喧騒の中に飛び込み、誰が悪いかを議論するのではなく、 あえて一歩下がり、沈黙を選ぶこと。 そして、自分の手が届く範囲の「生活」を誠実に営むこと。

これは、情報の洪水に対する静かな抵抗です。

「小さな善」を信じ抜く

世界は悪行に注目しますが、 私たちの日常にある小さな善は、確かに世界を支えています。

  • 家族のために作る食事
  • 誰かのための祈り
  • 感謝の言葉
  • 誠実に働く一日

ニュースにはなりませんが、これらは社会を崩壊から守る「地の塩」です。

時間の使い方を変える

悪いニュースに1分費やすなら、 身近な誰かのために2分祈る。 その小さな選択が、あなたを「影のサイクル」から解き放ちます。

終わりに

混沌とした2026年、世界の視線が闇に向かう中でも、 私たちの足元には「光」を選ぶ自由があります。今日も、静かに、しかし確かに前へ進んでいきましょう。 

「犯人捜し」の喧騒と、奪われた涙のゆくえ

 


「犯人捜し」の喧騒と、奪われた涙のゆくえ

ニュースのタイムラインを埋め尽くす「誰が悪いのか」という議論。 尊い命が失われたその瞬間にさえ、世界はまず「責任の所在」を計算し始めます。誰かを糾弾することで、自分たちは「正しい側」に立ち、安心しようとする。その残酷なまでのスピード感の中で、本来そこにあるべき**「一人の人間が失われたという、取り返しのつかない重み」**が、砂のように指の間からこぼれ落ちていくのを感じます。

今の時代、私たちは悲しむことさえ、誰かに許可を取らなければならないような、あるいは効率的に済ませなければならないような、奇妙な不自由さの中にいます。


1. 「沈黙」という名の、最後の防波堤

不条理な事故や事件が起きたとき、最も誠実な対応は「沈黙」であるはずです。 言葉にならない悲しみに、安易な答えを出さないこと。その命がそこにあったという事実に、ただ立ち尽くすこと。

しかし、現代社会は「沈黙」を許しません。 沈黙は「無関心」や「敗北」とみなされ、誰もが即座に言葉を持ち寄り、分析し、批判し、注目を競い合います。その喧騒の中で、遺された人々の静かな涙はかき消され、亡くなった若者の「生きた証」は、消費されるコンテンツへと成り下がってしまいます。

「沈黙できない人々は、本当の意味で他者の痛みに触れることができない。」

理不尽な世界に抗う唯一の方法は、あえてその騒がしい議論から距離を置き、**「沈黙という聖域」**を守り抜くことではないでしょうか。


2. 責任論の陰に隠れる「命の尊厳」

「なぜ防げなかったのか」という議論は、再発防止のためには必要かもしれません。 しかし、それが「誰かを叩くための娯楽」になっているのだとしたら、それは亡くなった命への二重の冒涜です。

私たちは、命を「数字」や「教訓」として処理しようとします。しかし、一人の人間がこの世に存在したという事実は、どんな分析結果よりも巨大で、深遠なものです。 30キロ、33キロと走り続ける中で、自分の鼓動一つ、呼吸一つの重みを噛み締めるように、私たちは失われた命の「替えのきかなさ」に、もっと震えるべきなのかもしれません。


3. 不条理な世界を、それでも歩む理由

世界は変わりません。 紀元前から、人間は憎しみ、妬み、そして「自分だけは正しい」と主張し続けてきました。 その「変わらない世界」の中で、私たちはどう生きればよいのでしょうか。

  • 「正しさ」よりも「慈しみ」を選ぶ 議論に勝つことよりも、隣で泣いている人と共に沈黙することを選びたい。
  • 「奇跡」を日常の中に再定義する 大きな変化やドラマを求めるのではなく、今日も愛する人が無事に一日を終えたという、その「当たり前」を最大の奇跡として抱きしめること。
  • 「自分の道」を走り続ける 世界がどれほど混沌としていても、自分が今日なすべきこと(買い物、料理、祈り、そして走ること)を淡々と続ける。その日常の継続こそが、不条理への静かなる勝利です。

「前進」への派遣

若い命が失われるという理不尽を前にして、私たちはあまりにも無力です。 けれど、無力であるからこそ、私たちは「神様の領域」にすべてを委ねるしかありません。

「なぜ」という問いの答えは、テレビのコメンテーターの口からも、SNSの議論からも出てくることはないでしょう。その答えは、沈黙の果てに、静かにあなたを抱きしめる光の中にだけあります。

誰かが悲しむことさえ忘れて議論に明け暮れる世界で、あなたはどうか、**「共に悲しみ、共に沈黙できる人」**であってください。

今日も、前進です。

【灯をともす:四旬節の旅路】第31日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第31日目---暗闇の中の叫び ―― 「わが神、わが神、なぜ」

1. 聖書の場面:真昼に訪れた暗闇と、絶望の叫び

「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。 『エリ、エリ、レマ、サバクタニ。』 これは、『わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか』という意味である。」 (マタイ 27:46

午後三時、真昼であるはずの時間に全地が暗闇に包まれました。 その闇の中で、十字架の上から主イエスの魂を引き裂くような叫びが響きました。

これは単なる肉体の痛みの声ではありません。 父なる神から完全に引き離されるという、私たちが本来受けるべき「神の不在」という絶望を、主が身代わりに引き受けられた瞬間の叫びでした。

「神の子」である方が、最も神から遠い場所――私たちの罪のどん底にまで降りて来られたのです。

2. キリスト者への教訓:「なぜ」という問いは、神への叫びであっていい

私たちは苦しみの中で、「信仰があるなら弱音を吐いてはいけない」「不平を言ってはならない」と、自分の心を押し殺してしまうことがあります。

しかし、主イエスご自身が十字架の上で「なぜ」と叫ばれました。

この叫びは詩編22編の引用でもあります。 つまり、絶望の淵にあっても主は「わが神」と呼びかけ、沈黙する神にしがみついておられたのです。

私たちが人生の暗闇で 「なぜ私だけが」 「神様、どこにおられるのですか」 と叫ぶとき、その声は不信仰ではありません。

むしろ、主イエスが通られた、神との最も深い対話の入り口なのです。

3. 現代人へのメッセージ:孤独の底で出会う「共感者」

2026年の今、多くの人が「誰にも理解されていない」と感じています。 世界に満ちる憎しみ、病の再発、努力が報われない虚しさ。 そのような現実の中で、私たちは宇宙に一人取り残されたような孤独を覚えることがあります。

しかし、思い出してください。 あなたの「なぜ」という問いには、すでに先客がいます。

主イエスは、あなたが今感じている孤独の底に、先回りして降りて来られました。 あなたが「神に見捨てられた」と感じるその場所こそ、 主が「あなたを一人にしないために」身代わりとなって捨てられた場所です。

「なぜ」という問いの先には、 あなたを黙って抱きしめる主の臨在が必ずあります。

黙想のひととき

今日、あなたが心の奥にしまい込んでいる「神への問い」は何でしょうか。 「なぜ、世界はこうなのですか」 「なぜ、私の道はこんなに険しいのですか」。

その問いを隠さず、そのまま主に差し出してみましょう。 沈黙の向こうに、微かな光が差し込み、あなたの魂を癒し始めます。