2026年3月11日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第22日目

 


【灯をともす:四旬節の旅路】

三月十一日の静寂 ―― 瓦礫の中の「復活の種」

1. 聖書の場面:暗闇が地を覆ったとき

「昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時まで続いた。……イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地が震え、岩が砕け、墓が開いた。」 (マタイによる福音書 2745節、50–51節)

主イエスが十字架で息を引き取られた瞬間、世界は深い暗闇に包まれ、地は激しく震えました。 人々が拠りどころとしていた神殿の幕は裂け、日常の秩序は崩れ去りました。 それは、神の子が私たちの苦しみの底まで降りてこられた、宇宙的な痛みの瞬間でした。

しかし、その「震え」は破壊だけではありませんでした。 古い世界が終わり、新しい命が生まれようとする産みの苦しみでもあったのです。

2. 心の揺らぎ:15年目の「あの日」と重なる痛み

三月十一日という日は、東北に生きる私たちにとって特別な静けさをもたらします。 15年前、多くの命が失われ、見慣れた景色が一瞬で瓦礫と化しました。 あの日の震えは、今も心の奥に残っています。そして今もまた、誰かが大切な人を天に送り、介護や病の現実の中で深い孤独と向き合っています。 「なぜ、これほどの悲しみが続くのか」 「神様はどこにおられるのか」 そんな問いが、瓦礫の中から、あるいは眠れぬ夜の静けさの中から聞こえてくるようです。四旬節の旅路は、この暗闇の三時間を避けて通ることはできません。

3. 核心:共に震え、共に泣く神

十字架の震動の中で、神は遠くから眺めていたのではありません。 神ご自身が、その震えの中に、その叫びの中に、その死の中におられました。

3.11の津波が襲ったときも、 記憶が薄れていく家族を見守る絶望の中でも、 主は「そこ」におられました。主が十字架で共に震え、共に死んでくださったのは、 私たちのどんな絶望も、もはや「神のいない場所」ではなくするためです。墓が開いたという記述は、死が最終的な勝利者ではないことを示しています。 瓦礫の下にも、認知症の霧の中にも、主は「復活の種」を蒔かれました。 沈黙の土曜日を経て、必ず日曜日の朝が来る―― その約束があるからこそ、私たちは今日を生きる力を得るのです。

現代人へのメッセージ

2026311日、水曜日。 震災から15年。 あるいは、人生の大きな喪失から立ち直れずにいるあなたへ。癒えない傷や消えない寂しさを、無理に隠す必要はありません。 主イエスが十字架で叫ばれたように、あなたも主の前で泣いてよいのです。

主はあなたの痛みを「わかる」と言われます。 なぜなら、主ご自身が十字架という震災を、孤独という津波を、全身で受け止められたからです。

今日、被災地の上に、 そして介護や病の中で戦うあなたの上に、 主の静かで力強い平安が注がれますように。

暗闇の後に来る光を信じて、今日という日を大切に歩みましょう。

主と共に、新しい一歩を。

十五年目の鼓動


十五年目の鼓動 ―― 和歌山から石巻、そして三十二キロの祈り

三月十一日の朝。 仙台の冷たい空気の中、私は一歩を踏み出しました。 今日、私が走ったのは三十二キロ。震災から十五年という歳月を、自らの鼓動と足音で刻み直すための距離です。走りながら、私の心は十四年前の景色へと飛んでいました。


和歌山から石巻へ ―― 往復を重ねた「命の道」

震災の翌年からの一年間、私は和歌山県の御坊(ごぼう)から、月に一度、一週間ずつ石巻のボランティア活動に通っていました。 紀伊半島の端から、東北の被災地へ。 気がつけば、その回数は十三回を数えていました。

当時の石巻の光景、泥の匂い、そしてそこで出会った人々の震える手。 あの時、共に汗を流し、共に祈った時間は、今の私の牧師としての、そして一人の人間としての骨組みとなっています。

「もう十五年」という人もいます。 しかし、現場に立ち続け、人々の心の奥底に触れてきた者として、私は知っています。 **「十五年経っても、消えない悲しみがある」**ということを。

消えない寂しさ、共に歩む痛み

愛する家族を失った寂しさ、あの日から止まったままの時計の針。 それらは時間が解決してくれるような、単純なものではありません。 「時間が薬になる」という言葉は、時に残酷です。十五年が過ぎても、ふとした瞬間に襲ってくる孤独や、会いたいという切実な願いは、少しも色褪せることがないからです。

しかし、今日の三十二キロの走りが私に教えてくれたことがあります。

悲しみは、消すためにあるのではない。 その悲しみを抱えたまま、共に生きていくためにあるのだ、と。

三十二キロを走り抜くとき、身体は悲鳴を上げ、心は折れそうになります。 けれど、その苦しさの先にしか見えない光があります。私たちの人生も同じではないでしょうか。癒えない傷を抱え、重い足取りで進むその背中を、主は「よく頑張っているね」と、一歩一歩見守っておられます。

「祈り」という名の完走

私が今日走った三十二キロは、単なる運動ではありません。 石巻で出会った人々、今も仮設住宅や新しい家で寂しさと戦っている方々、そして天に召された多くの魂への**「身体を通した祈り」**です。

十五年前の瓦礫は片付いても、心の瓦礫を整理するには、まだまだ時間が必要です。 もしかすると、一生終わらない作業かもしれません。 でも、それでいいのです。神様は、私たちが「強く、明るく」あることだけを求めているのではありません。 泣きながら、震えながら、それでも今日という日を精一杯生きようとする、その「弱さの中にある誠実さ」をこそ、主は祝福してくださいます。


光の射す方へ

和歌山から石巻へ通ったあの日の情熱を、私は忘れません。 そして、仙台というこの地で、皆さんと共に歩んでいる今の使命を、改めて深く噛み締めています。

家族を失った悲しみは、裏返せば、それだけ深く愛したという「愛の証」でもあります。 その愛がある限り、私たちは独りではありません。 十五年目の今日、新しいシューズの紐を締め直し、また明日への一歩を踏み出しましょう。

主の柔らかな慰めが、今も涙を流すお一人おひとりの頬を拭ってくださいますように。

今日も、前進です。

  

2026年3月10日火曜日

記憶の岸辺で、愛を灯し続ける

 


記憶の岸辺で、愛を灯し続ける――介護という長い旅の途上で

三月の朝、冷たい空気の中に春の気配がかすかに混じります。 走り出す一歩目、肺に吸い込む空気はまだ鋭く、吐き出す息は白く濁ります。舗装された道を一歩ずつ踏みしめる足音だけが、静かな街に響く。二十キロ、三十キロと走り続ける時、私は時折、自分が「終わりなき旅」の途上にいるような錯覚に陥ることがあります。

それは、現代の多くの家族が直面している「介護」という名の、あまりにも長く、あまりにも孤独なマラソンに似ているのかもしれません。


消えていく「知っている背中」

認知症という病は、ある日突然、愛する人の輪郭をぼやかしていきます。 昨日まで交わしていた冗談、共に囲んだ食卓の記憶、自分を呼ぶ温かな声。それらが少しずつ、潮が引くように指の間からこぼれ落ちていく。

「なぜ、わかってくれないのか」 「あんなに立派だった人が、どうして」

その戸惑いはやがて深い疲労となり、時には「怒り」という黒い影となって私たちの心を侵食します。社会ニュースで流れる悲しい事件は、決して遠い世界の出来事ではありません。それは、献身という糸が限界まで引き絞られ、ぷつりと切れてしまった瞬間の、誰の身にも起こりうる「心の悲鳴」なのです。

「自分の力」という電池の限界

私たちが「自分の愛」だけで誰かを支えようとするとき、そのバッテリーは必ずいつか底をつきます。 特に認知症の介護において、相手からの「反応」や「感謝」が期待できなくなったとき、私たちの心は乾ききった大地のようにひび割れてしまいます。

平和に、共に暮らす秘訣。 それは、**「自分の愛で頑張ることを、一度諦めること」**にあるのかもしれません。

聖書は、私たちにこう語りかけます。 「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(コリント二 12:9)。

私たちが「もう限界だ」と膝をつくとき、そこが実は、神様の無限の愛が流れ込む「入り口」になります。自分は愛を「生み出す源」ではなく、ただ上から流れてくる愛を通す**「管」**にすぎない。そう自分を定義し直すとき、肩の力が少しだけ抜けるのを感じられないでしょうか。

「孤立」という壁を壊して

介護という密室の中で、一人でゴリアテ(困難)に立ち向かってはいけません。 神様が

教会という共同体や、手助けをしてくれる人々を私たちの周りに置いてくださったのは、重荷を「分かち合う」ためです。

  • 弱さを開示すること: 「辛い」と声を上げるのは、敗北ではありません。それは

愛を継続するための「勇気」です。

  • 不完全さを許すこと: 今日、優しくできなかった自分を責めないでください。神様は、そのボロボロになったあなたの手を見て、「よくやっている」と涙を流して寄り添っておられます。
  • 「今」だけを見つめる: 明日の不安を数えるのをやめ、今この瞬間の、柔らかな日差しや一杯のスープの温かさにだけ、心を留めてみてください。

平和とは、問題がなくなることではなく、嵐の中でも「共にいてくださる方」を信じて、その御手にすべてを委ねる静けさのことです。




光の射す方へ

たとえ、愛する人があなたの名前を忘れてしまったとしても。 たとえ、昨日までの絆が目に見えなくなってしまったとしても。 あなたが注いだ愛の一滴一滴は、神様の記憶の中に、決して消えない宝物として刻まれています。

あなたは独りではありません。 あなたの流す涙も、夜通しの看病も、行き場のない怒りも、すべてを知り、共に背負ってくださる「最高の伴走者」がすぐ隣にいます。

重いシューズを履き直しましょう。 深呼吸をして、また今日の一歩を踏み出しましょう。 その道の先には、必ず、光が待っています。

今日も、前進です。

恵みの内に葬儀を終えて

 


人生には、自分の計画をはるかに超えた「神様の時間割」が差し込まれる瞬間があります。 この数日間、私はまさにその怒涛のような、しかし圧倒的な恵みに満ちた奔流の中にいました。


 

娘のために弟が仁川国際空港でクリスピークリームドーナツを買ってくれました。それも6個入り四箱も。それをもって韓国→成田→上野→仙台→長町→教会へ



午後六時三十分、長町駅からの再始動

家族の用件で韓国へ渡っていた私に届いたのは、一通の緊急連絡でした。 三年間、共に食卓を囲み、深い信仰の交わりを重ねてきた知人の召天。八十九歳。 「最後はキリスト教式で」という故人の強い願いを受け、私は急遽、日本への帰路につきました。

土曜日の午後六時五十分ごろ、長町駅に降り立ち、荷物を置く間もなくご自宅へと駆けつけました。そこにはすでに葬儀社の方々、そして静かに横たわる故人の姿。まず祈りを捧げ、具体的な段取りを打ち合わせ、そのまま教会へ。

日曜日の主日礼拝、週報作成、教会学校、婦人会の例会……。山積するタスクを前にしても、不思議と心は静かでした。なぜなら、この慌ただしさのすべてを神様がコントロールされているという、確かな手応えがあったからです。

 

二十三時の癒やし:深夜のドライブ

当然のように徹夜を覚悟した土曜の夜。 時計の針が二十三時を回る頃、私は仙台市内でアルバイトを終える娘を迎えに行きました。 車内での何気ない会話。看護実習の苦労や、将来の夢、日々の出来事……。 仕事に追われる深夜、娘と過ごすこの短い時間が、私にとっては何よりの「癒やし」となりました。

「お父さん、頑張ってね」 その一言を背中に受けて、再びデスクに向かい、前夜式のプログラムを印刷し終えた時、主の日の朝が明けました。 疲れる暇さえ与えられない。それは、神様に必要とされているという、最高の「特権」でもありました。

「葬儀専門牧師」としての悦び

今回の前夜式と葬儀には、多くの未信者の方々が参列されました。 しかし、そこで私を力づけてくれたのは、教会の兄弟姉妹の姿でした。私の報告を聞き、多くのメンバーが駆けつけ、式場に響き渡る大きな声で讃美歌を歌ってくれたのです。

その歌声を聞きながら、私は確信しました。 **「八年前、私がこの仙台に遣わされたのは、決して偶然ではなかった」**と。 もし私が専門的な分野の牧会を担う環境にいたならば、私は迷わず「葬儀専門の牧師」になっていたでしょう。それほどまでに、ご遺族に寄り添い、最期の瞬間に福音の希望を灯す働きは、私の魂を震わせます。

「素晴らしい式をありがとう」というご遺族の言葉。 すべての栄光を主にお返ししながら、私は牧師としての至福を噛み締めていました。昨日の葬儀、火葬場の別れを終えて帰る途中、買い物をして教会に戻ると十六時半ごろになりました。


 


祈りの距離、命の鼓動

慌ただしい日々の中でも、私が決して止めないものがあります。それは「走ること」です。 昨日は、故人との三年間の交わりの思い出を胸に、名取の海へと続く道を二十六キロ完走しました。

私にとって、走る距離は「祈る距離」であり、走る時間は「祈る時間」です。

週百キロというルーティンは、私を主と、そして愛する人々へと繋ぐ大切な回路です。 走りながら、故人の笑顔を思い出し、厳しい状況にある教会員一人ひとりの名を呼び、家族の健康を祈ります。

日常という名の祭壇

今朝はノアちゃんの散歩を終えて五時頃から仕事に取り掛かりました。まずは家族のための食事作りから一日が始まりました。 白菜のスープと鶏むね肉の料理。看護実習に向かう娘、仕事へ向かう妻。そして元気に尻尾を振るノア。 留守の間に少し寂しくなっていた食卓を、再び温かな愛で満たす。これもまた、神様から託された大切な奉仕です。

命がある限り、精一杯に生きる。 主のために、家族のために、教会のために。 そして、私を必要としてくれるすべての人々のために。

新しいシューズを履き、今日も私は走り出します。 神様の備えてくださった、この輝かしい一日の中へ。

2026年3月1日日曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第12日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第12日:孤独な裁き ―― レッテルを越える主の眼差し

1. 聖書の場面:法廷に立つ無罪の罪人

「ピラトは言った。『お前はユダヤ人の王なのか。』……イエスはお答えになった。『わたしの国はこの世のものではない。』」(ヨハネによる福音書 1833-36節)

主イエスは、当時の権力者ピラトの前に立たされました。そこには真実の対話はなく、あるのは「政治的利用価値」と「社会的なレッテル」だけでした。

宗教指導者たちは主を「冒涜者」と呼び、群衆は「反逆者」というラベルを貼って叫びました。たった数日前まで「ホサナ」と迎えた人々の記憶から、主がなされた数々の癒やしや愛の奇跡は、一瞬にして消え去ったのです。世界は、主イエスをただ一つの「死罪に値する犯罪者」として記憶に刻み込もうとしました。

2. 心の揺らぎ:剥がれない「レッテル」という恐怖

現代を生きる私たちは、先生が仰る通り「レッテルの社会」に生きています。一度の過ち、一度の失敗、あるいは他者から貼られた「不十分な人間」というラベル。それがSNSや人々の噂を通じて拡散されるとき、私たちのこれまでの誠実な歩みは、まるで最初からなかったかのようにかき消されてしまいます。

「自分はもう、このレッテルと共に生きていくしかないのか」という絶望。それは、介護に疲れ果て「自分は失格だ」と自分にラベルを貼ってしまう兄弟姉妹の孤独にも、看護の現場で「声なき存在」として扱われる患者さんの痛みにも通じています。

3. 核心:神は「過去」ではなく「あなた」を見ている

しかし、十字架への道を歩まれる主イエスは、人々の貼ったレッテルをすべてその身に引き受けながらも、ご自身の尊厳を失われませんでした。なぜなら、主は「世の評価」ではなく「天の父の眼差し」の中に生きておられたからです。

世界があなたにどんなレッテルを貼ろうとも、主はあなたのこれまでの歩み、流した汗、誰にも見せなかった祈りの距離をすべてご存じです。 一つの過ちで人生を否定する世界の中で、主だけは「それでも、あなたはわたしの愛する子だ」と言って、消えることのない愛の印を、私たちの心に刻んでくださいます。


現代人へのメッセージ

202632日、月曜日。 今日から新しい一週間、あるいは新しい旅が始まります。

過去の失敗や、誰かの心ない言葉が、あなたの心に「剥がれないラベル」のようにこびりついていませんか。 「自分はもうダメだ」「あの人はあんな人間だ」と、自分や他者を一つの色で塗りつぶしてはいませんか。

主イエスは、人々が投げつけた「犯罪者」というレッテルを十字架の上に釘付けにされました。主の愛は、私たちの不名誉な過去よりも、はるかに大きいのです。 今日、人からの評価という重荷を下ろし、主があなたを呼ぶ「尊い者」という名前に耳を澄ませてみましょう。

主と共に、新しい一歩を踏み出しましょう。

今日も、前進です。

2026年2月28日土曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第11日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第11日:茨の冠 ―― 嘲笑の中に輝く王の尊厳

1. 聖書の場面:痛ましい王の装い

「兵士たちは茨で冠を編んでイエスの頭に載せ、紫の服をまとわせた。」(ヨハネによる福音書 192節)

ローマの兵士たちは、主イエスを徹底的に辱めました。鋭い棘を持つ茨を無理やり編み込んだ冠を頭に押しつけ、王権の象徴である紫の衣を皮肉として着せたのです。

彼らは主の前に跪き、「ユダヤ人の王、万歳」と嘲笑いました。しかし、この最も無残で滑稽に見える姿の中にこそ、神の国の王としての本当の尊厳が隠されていました。主は一言も反論せず、その痛みと侮辱を静かに受け入れられました。

2. 心の揺らぎ:プライドと「評価」の檻

現代を生きる私たちは、人からの評価やプライドという「見えない冠」を大切に守ろうとしています。「立派に見られたい」「弱みを見せたくない」「正当に評価されたい」。その願いが叶わないとき、私たちは深く傷つき、憤り、あるいは自己嫌悪に陥ります。

「一生懸命やっているのに、なぜ馬鹿にされるのか」「誠実に走っているのに、なぜ誰も理解してくれないのか」。そんな思いが、心に茨の棘のように刺さることがあります。世の中の「成功」という基準に照らせば、私たちの信仰や誠実さは、時として兵士たちに嘲笑われた「茨の冠」のように無力で、時代遅れに見えるかもしれません。

3. 核心:愛こそが、真の「冠」である

しかし、主イエスが被られた茨の冠は、実は「愛の王冠」でした。主は、私たちの高慢さ、嘘、そして「自分を王として生きてしまう罪」のすべてを、その棘とともにご自分の身に引き受けられたのです。

主がこの辱めを耐え抜かれたのは、力による支配ではなく、愛による自己犠牲こそが、世界を本当に変える力であることを知っておられたからです。私たちがどれほど惨めな状況に置かれ、人から軽んじられたとしても、神様の目には、私たちは「キリストが命を懸けて守った、尊い王の子」なのです。


現代人へのメッセージ

2026228日、土曜日。 今日、誰かの言葉に傷ついたり、自分自身の不甲斐なさに落胆したりしていませんか。

もしそうなら、茨の冠を被りながら、あなたを静かに見つめておられる主を思い出してください。 あなたの価値は、世間の評価(冠)が決めるのではありません。主があなたのために流された血、その愛の深さこそが、あなたの価値です。

他人の評価という檻から自由になり、主の愛という本当の冠を頂いて、堂々と顔を上げましょう。不器用でも、笑われてもいい。あなたは主にとって、かけがえのない宝物なのです。

今日も、前進です。

2026年2月27日金曜日

「命の重さ」と向き合うとき

 


「命の重さ」と向き合うとき

―― 若き看護学生が見た、現代日本の祈りの現場

ある20歳の看護学生が、重症心身障害の方々が入院する病棟で実習を経験しました。そこは、医療技術と人間の尊厳が鋭く交差する「命の最前線」。 彼女が実習後にぽつりと漏らした「急に大人になった気がする」という言葉には、教科書には載っていない命の重さと不条理を、肌で受け止めた静かな覚悟がにじんでいました。

言葉を持たない患者さんと向き合うとき、看護師は「魂で聴く」姿勢を求められます。沈黙の中で、彼女は「人間の存在そのものの価値」に触れたのかもしれません。

また、30年にわたり入院し、家族の面会がない患者さんの姿からは、「家族だけで背負うことの限界」と、それを支える社会の脆さが浮かび上がります。 介護の現場では、献身が美徳として語られる一方で、それが「終わりなき十字架」となる現実もあります。

「互いの重荷を担い合いなさい」(ガラテヤ6:2) この聖句のように、重荷は本来、分かち合うべきもの。しかし現場では、特定の家族や医療従事者が、身を削って担っているのが現実です。

それでも彼女は、実習を終えたその足で、日常のアルバイト先へと向かいました。生と死の狭間から、ラーメンの湯気立つ厨房へ――。 そのギャップを往復する姿に、私は大きな希望を見出します。現実を生きる力、そして祈りを携えて歩む若者のたくましさ。

今、多くの人がこのような現場に立ち会い、心を揺さぶられています。 命の現場で、誰かの痛みに触れ、無力さに打ちのめされながらも、それでもなお、誰かのために立ち続けようとする姿。 それは、静かなる祈りのかたちであり、私たちが見失ってはならない「人間らしさ」の証なのかもしれません。

2月ラン合計453.55km

 


祈りの距離を走る ―― 休息の恵みに包まれて

今朝も変わらず、20キロの朝ランを完走しました。感謝とともに、今週の走行距離は107キロ、今月は合計453.55キロに達しました。数字の背後には、ただの運動ではない、祈りと信仰の歩みがあります。 一歩一歩が、誰かのための祈りとなり、心の中で主と語り合う時間となっています。走ることは、私にとって祈りのかたちの一つ。疲れを感じる日もありますが、「あきらめない」ことを主が教えてくださっているように思います。



明日の土曜日は、週に一度の完全休息日。礼拝の準備はありますが、心も体も静かに整える大切な時間です。もしその日に何か大切な働きが与えられたとしても、それもまた主の恵みとして受けとめたいと思います。



走り続けること、祈り続けること。どちらも、主に信頼する者の歩みです。疲れたときは休んでいい。でも、決してあきらめない。主が共におられるからです。命がある限り走り続け、祈り続け、愛し続けます。

【灯をともす:四旬節の旅路】第10日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第10日:ピラトの前の主イエス ―― 権力と真理の対峙

1. 聖書の場面:二つの「国」の衝突

「ピラトが、『それでは、お前は王なのだな』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのために世に来た。真理に属する者は皆、わたしの声を聞く。』」 (ヨハネによる福音書 1837節)

ローマ総督ピラトの官邸。そこには、地上の圧倒的な権力を象徴するピラトと、無力な囚人として立つ主イエスが対峙していました。ピラトが問うたのは、軍事力や政治力といった「目に見える支配」についてでした。

しかし、主が語られたのは、この世の尺度では測れない「真理の国」についてでした。ピラトは思わず「真理とは何か」と自嘲気味に問い返しますが、主は沈黙をもって、ご自身こそが真理そのものであることを示されました。

 

2. 心の揺らぎ:世の「正解」と、神の「真実」

現代を生きる私たちは、常にピラトのような問いに晒されています。「どれだけ稼いだか」「どれだけ効率的か」「どちらが強いか」。数字や力による「世の正解」が、私たちの価値を決めようとしてきます。

誠実であろうとすれば損をし、真理を語れば孤立する。そんな時、私たちは「世渡りのうまさ」という権力の前に、自らの信仰を小さく見積もってしまいそうになります。「真理なんて言っていられない」という誘惑が、耳元で囁くのです。

 

3. 核心:真理こそが、私たちを自由にする

主イエスがピラトの前で堂々と立たれたのは、ご自分が「天の父なる神様」という究極の権威に支えられていることを知っておられたからです。地上の権力は移ろいやすく、いつか消え去りますが、神様の真理は永遠に変わりません。

「真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」。 私たちがどれほど無力に見えても、主の御言葉という真理に根ざして生きる時、私たちはこの世のどんな圧力からも自由になれます。誰かに評価されるためではなく、神様の前に「正しくある」こと。その静かな確信こそが、クリスチャンの本当の強さなのです。


 


現代人へのメッセージ

2026227日、金曜日。 今日、あなたが直面する「権力」や「理不尽な要求」は何でしょうか。

もし、世の中のスピードや価値観に圧倒されそうになったら、ピラトの前で静かに立たれた主の姿を思い出してください。主は、あなたの弱さも、あなたの沈黙も、すべてを真理の光の中で肯定してくださいます。

今日、損得ではなく「何が正しいか」を選び取ろうとするあなたの小さな一歩を、主は「真理に属する者の歩み」として祝福してくださいます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月26日木曜日

33キロ朝ランでの考察

 


一秒の交差点 ―― 33キロの路上で考えた「時」のゆくえ

33キロ、祈りのリズムを刻んで

今朝は、冷たい空気を切り裂くように33キロの距離を走り抜けました。 足裏が地面を叩く一定のリズムは、次第に深い瞑想のような、あるいは神様との静かな対話のような時間へと変わっていきます。コースの途中、娘のイレーネが看護実習に励んでいる西多賀病院の周りを一回りしました。 「今日の実習が、娘と友たちにとって、そして患者さんにとって恵み豊かなものとなりますように」。 そう祈りながら走る私の影が、朝の光に長く伸びていきました。


 


「あの時、もし……」という問いの重さ

走りながら、ふと考えていたことがあります。それは**「人生のタイミング」**という、目に見えない不思議な糸のことです。私たちは時に、やり場のない後悔に襲われることがあります。 「あのバスに乗らなければ、事故に遭わなかったのに」 「あと一分早く家を出ていれば、あの日、あの人に会えたのに」 悲劇的なニュースの裏側にも、あるいは幸運な巡り合わせの影にも、常に「時間」という残酷で、かつ神秘的な要素が絡みついています。

この世で起こる出来事は、ただの偶然の積み重ねなのでしょうか。それとも、逃れられない「運命」という冷たい決まりごとなのでしょうか。私たちは、自分の力ではどうにもできない「一秒の差」に、しばしば立ち尽くしてしまいます。


 


「時に適って」という、大いなる手のひら

聖書の中には、こうした私たちの葛藤に一つの光を投げかける言葉があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」 (コヘレトの言葉 31節)これは、単なる運命論ではありません。 私たちが自分の手で人生を100%コントロールしようと必死になり、「効率」や「予測」という枠に自分を閉じ込めてしまうとき、私たちは苦しくなります。しかし、私たちの理解を遥かに超えたところで、神様が「最も良い時」を編み上げてくださっていると信じるとき、私たちの心には不思議な余白が生まれます。33キロという長い距離を走るなかで、私の呼吸も、心臓の鼓動も、一歩一歩の着地も、すべてが緻密なタイミングで繋がっています。もしその中の一つでも欠ければ、完走することはできません。私たちの人生も同じではないでしょうか。たとえ今、自分の身に起きていることの「理由」が見えなくても、それは神様の広大な譜面の中に書き込まれた、大切な一音であるはずなのです。


 


明日への一歩:委ねることで見えてくる道

すべてに理由があるかどうか、今の私たちには分かりません。 けれど、今日こうして命が与えられ、33キロを走りきることができたという事実の中に、私は神様の確かな慈しみを見出します。

「あの時」を悔やむのではなく、今のこの瞬間を「与えられた時」として受け入れること。 自分の計算を一度手放して、天の父なる神様のリズムに身を委ねてみること。 そうすることで、私たちは「もし……だったら」という過去の鎖から解き放たれ、今という「新しい道」を走り出すことができるのです。足は少し重いかもしれません。けれど、心は不思議と軽やかです。 あなたの人生のタイミングも、決して間違いではありません。

 


今日も、前進です。

【灯をともす:四旬節の旅路】第9日

 




【灯をともす:四旬節の旅路】第9日:ペトロの拒絶 ―― 「知らない」と言った後の夜明け

 

1. 聖書の場面:三度の否認と鶏の声

「するとすぐ、鶏が鳴いた。ペトロは、『鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われたイエスの言葉を思い出した。そして外へ出て、激しく泣いた。」(マタイによる福音書 2674-75節)

大祭司の屋敷の中庭で、焚き火にあたっていたペトロに突きつけられたのは、「お前もあの男の仲間だろう」という鋭い指摘でした。恐怖に震えた彼は、呪いの言葉まで口にして「あんな人は知らない」と三度も言い放ちました。その直後に響いた鶏の声は、彼の慢心と弱さを白日の下にさらしました。主を誰よりも愛していると豪語していたペトロは、自分自身のどうしようもない「裏切り」に直面し、暗闇の中で激しく泣き崩れたのです。

 

2. 心の揺らぎ:理想と現実のギャップ

現代を生きる私たちも、ペトロと同じ弱さを抱えています。「正しいと信じる道」を歩みたいと願いながら、保身のために沈黙し、周囲の空気に流され、大切な信念を「知らない」と言ってしまう瞬間があります。特に、今の効率と成功が重視される社会では、自分の弱さや失敗を認めることは「負け」を意味するように感じられます。失敗した自分、約束を守れなかった自分を許せず、ペトロのように「心の外」へ出て、一人泣き続けている人も少なくありません。

 

3. 核心:主の眼差しは「断罪」ではなく「招き」

しかし、この物語の真のクライマックスは、ペトロの涙ではなく、彼を見つめていた主イエスの眼差しにあります。主は彼が裏切ることを知った上で、それでも彼のために祈っておられました。

鶏の声は、ペトロを裁くための鐘ではなく、彼が「神様の憐れみなしには一歩も歩けない存在であること」を思い出させるための合図でした。主は、私たちが自分自身の底(限界)を打ったその場所で、新しい関係を始めようと待っておられます。


 


現代人へのメッセージ

2026年の今日、もしあなたが自分の不甲斐なさに絶望し、「自分はもう失格だ」と夜明け前の暗闇にいるなら、どうかこの鶏の声を「希望の音」として聴いてください。

あなたが自分を諦めても、主はあなたを諦めません。 三度拒絶したペトロに、主は後に三度「わたしを愛するか」と問いかけ、再び使命を与えられました。

失敗は終わりではなく、神様の圧倒的な恩寵(恵み)に身を委ねるための「新しいスタートライン」です。 泣き腫らした目の先に、主が用意してくださる新しい夜明けが、今まさに始まろうとしています。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

2026年2月25日水曜日

【灯をともす:四旬節の旅路】第8日

 


【灯をともす:四旬節の旅路】第8日:裏切りと沈黙 ―― 独り残された主の眼差し

 1. 聖書の場面:散りゆく弟子たち

「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げ去った。」(マルコによる福音書 1450節)

ゲツセマネの祈りの直後、松明と武器を持った群衆が押し寄せます。接吻をもって主を裏切ったユダ、そして剣を抜いて抵抗しようとしたものの、主の制止にあって狼狽した弟子たち。ほんの数時間前まで「たとえ死ぬことになっても、あなたを見捨てません」と誓い合っていた彼らは、恐怖に飲み込まれ、闇の中へと散っていきました。主イエスは、この地上で最も信頼していた友人たちから、たった一人で暗闇の中に取り残されたのです。

 


2. 心の揺らぎ:信頼が崩れるとき

現代を生きる私たちにとって、最大の痛みは「裏切り」かもしれません。 信じていた仲間が離れていく。誠実に尽くした相手から背を向けられる。あるいは、教会の存続や伝道に必死に取り組んでいる中で、自分一人だけが空回りしているような、冷たい孤独を感じる夜。

「なぜ、自分だけがこんな目に」という怒りと、何も答えてくださらないかのような「神の沈黙」が、私たちの心を凍えさせます。

 


3. 核心:沈黙の中に響く愛

しかし、主イエスはこの孤独をあえて受け入れられました。 逃げ去る弟子たちを追いかけることも、呪うこともされませんでした。なぜなら、主は彼らの「弱さ」をあらかじめ知っておられ、その弱さのすべてを背負って十字架へ向かうことこそが、彼らを本当の意味で救う道だと知っておられたからです。神様の「沈黙」は、冷淡さではなく、私たちの想像を超えた「深い愛」の現れであることがあります。言葉にならないほどの痛みの時、主は雄弁な説得ではなく、静かな沈黙をもって、私たちの傍らに立ち続けてくださいます。


 


現代人へのメッセージ

2026年の今日、あなたがもし「誰にも分かってもらえない孤独」の中にいるなら、思い出してください。 主イエスは、弟子たちが逃げ去ったあの暗闇の中で、あなたを見つけるために独り残られました。「見捨てられた」と感じるその場所は、実は「主と二人きりになれる」最も聖なる場所でもあります。 多くの声や情報が溢れる現代だからこそ、あえて主と共に「沈黙」の中に身を置いてみませんか。あなたが主を見捨てることがあっても、主があなたを見捨てることは決してありません。 その揺るぎない事実に翼を休めるとき、私たちは再び、静かな勇気を持って立ち上がることができます。

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。