夜更けの足音と、交わす視線
時計の針が23時半を回った頃、愛犬ノアとの静かな夜の散歩が始まります。 トントントンと、階段を慎重に降りてくる彼の姿を見つめながら、私はまず、今日もこうして無事に歩けることへの深い感謝を覚えました。
夜の静寂のなか、手にした資源ごみを出しに行き、そこからまたゆっくりと歩き出します。すっかりリラックスしたのか、途中、ノアは大きく3回もあくびをしました。リードを引く手を通じて伝わってくる温もり。歩きながら、私たちは何度も何度も目を合わせました。言葉はなくても、その穏やかな視線の交差だけで、心が満たされていくのを感じるひとときです。
階段の踊り場で待つ、小さな期待
散歩から帰り、今度は階段を上がるノアの後ろ姿を優しく見守りながら、私は自分の仕事部屋へと向かおうとしました。
いつものことですが、ノアは階段を上がる途中、中間地点の踊り場でぴたりと止まります。くるりと振り返るその目には、「呼んでくれないかな」という明らかな期待感が光っていました。以前、そこで待っていた彼に、私がリンゴの一切れを持ってきてあげたことが何度かあったからです。彼はその甘い記憶を、しっかりと覚えていたのでしょう。
「ノア、ちょっと待っててね」 心の中でそう声をかけつつも、私はふと立ち止まりました。「でも、寝る前に食べ物を口にするのは、彼の体によくないな」。そう考え直した私は、リンゴをあげることなく、そのまま自分の仕事部屋へと入っていきました。
そして、自分の部屋に戻った私が何をしたかといえば…… 熱いコーヒーを淹れ、自分だけ林檎を食べたのです。
「なんという利己的な飼い主だろう!」と、思わず可笑しくなりましたが、罪悪感は抱きませんでした。 なぜなら、私にはこれから夜を徹して取り掛からなければならない「仕事」があったからです。
普遍的な真理への昇華:神様の「与えない」という深い愛
仕事部屋で林檎をかじりながら、私はこのちょっとした出来事の裏側に、私たちの人生と神様との関係に深く通じる「真理」が隠されていることに気がつきました。
現代を生きる私たちは皆、人生という階段の「踊り場」で立ち止まり、上を見上げて待っているノアのような存在です。 「神様、あの時のように、どうか私が欲しいものを(リンゴを)与えてください」
「この願いを叶えてください」 私たちは、過去の成功体験や他人の幸せを見て、強い期待感をもって祈ります。
しかし、時にはどれだけ待っても、神様が私たちの願い通りに「リンゴ」を与えてくださらないことがあります。祈りが聞かれないとき、私たちは「なぜ自分だけ与えられないのか」「神様は不公平だ、愛がないのではないか」と、踊り場で悲しみに暮れたり、不信感を抱いたりします。
でも、ノアには分からなかった飼い主の事情があったように、私たちにも見えない「神様の視点」があるのです。 私がノアに林檎を与えなかったのは、いじわるでも、愛情が冷めたからでもありません。「寝る前の食べ物は体によくない」という、彼の健康と安息を一番に願う「深い愛ゆえの拒絶」でした。神様が私たちの願いをすぐに叶えない時、それは私たちを傷つけるためではなく、私たちの魂の健康を守るため、あるいは、もっと良いタイミングを備えるためなのです。
そしてもう一つ、大切なことがあります。 飼い主である私がコーヒーと林檎を口にしたのは、愛する犬が安心して眠りにつく間、一人起きて「仕事」をするためでした。
旧約聖書の詩編121編には、このような言葉があります。
「見よ、イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。」
私たちが踊り場で願いを断られ、何も分からずに眠りにつくその暗闇のなかでも。神様は決して眠ることなく、私たちの人生を守り、導くために、見えない部屋で「仕事」を続けておられるのです。
見えない愛を信じて、眠りにつく勇気を
現代社会は、すぐに結果が出ること、目に見える見返りがあることばかりを評価します。願いがすぐに叶わないと、まるで自分が見捨てられたかのように感じてしまう、焦りと不安の時代です。
しかし、もし今、あなたが人生の踊り場で立ち止まり、「なぜ与えられないのだろう」と孤独を感じているなら、どうか思い出してください。
散歩の途中で、何度も何度もあなたと目を合わせてくださった神様の温かい視線を。
与えられないことの裏側には、あなたを深く愛し、あなたの魂の健やかさを何よりも願う、大きな愛が隠されています。あなたが思い通りにいかない現実に涙して眠る夜も、神様はあなたのために起きて、働き続けておられます。
だから、安心して今日という日を終え、目を閉じてください。 あなたの人生は、決して利己的ではない、完全な愛を持つ飼い主の御手の中にあります。
今日も、共に前進です。
