2026年4月14日火曜日

荒浜へと続く、40キロの対話



春風の中を走り、日常という「聖所」を守る

荒浜へと続く、40キロの対話

今朝は荒浜まで走りました。距離にして40キロ。 早朝の空気はひんやりと心地よく、木々はいつの間にか瑞々しい緑の衣装に着替えています。一歩踏み出すたびに、春の風が頬をなで、遠くから潮の香りが届く。「今は、走るには最高の季節かもしれない」 そう心の中で呟きながら、自分の呼吸と心拍に耳を澄ませる時間は、私にとって神様との密やかな対話の時間でもあります。40キロという道のりは、決して楽ではありません。しかし、体を動かし、大地を踏みしめる感覚は、自分が「今、ここで生かされている」という確かな手応えを教えてくれます。

 


画面越しに流れ込む「不条理」と、心の境界線

ところが、心地よい疲労感と共に帰宅し、栄養を補給してふとニュースに目を移すと、そこには先ほどまでの静寂とはあまりにかけ離れた世界が広がっていました。

無念にも遺体で発見された小学生のニュース。 再び戦火の足音が近づくイランとアメリカの緊張。 互いを批判し、非難の言葉を投げつけ合う世界の指導者たち。

つい数分前まで全身で感じていた「平和な春」が、一瞬で色あせてしまうような不条理の奔流。私たちは、あまりにも多くの「痛み」を、処理できない速さで受け取りすぎているのかもしれません。そこで私は決めました。**「ニュースを見るのは、週に一度、土曜日だけにする」**と。 これは世界から目を背けることではありません。むしろ、世界のために祈り、誠実に生きるための「心の境界線」を引くという決断です。


 


料理をすること、愛を送ること――それが「平和」の最前線

聖書には「自分の持ち場を誠実に守る」ことの大切さが、繰り返し語られています。 巨大な世界の潮流を変えることは、私たち一人の力では不可能に見えるかもしれません。しかし、私たちの「日常」という半径数メートルの中には、私たちが守るべき確かな平和があります。

  • パートに向かう妻を笑顔で見送ること。
  • 家族のために、心を込めて買い物をして料理を作ること。
  • 与えられた説教や講演の仕事を通して、一言でも希望の言葉を紡ぐこと。

これらの、傍目には何気ない「ルーティンワーク」こそが、実は不条理な世界に対する最大の実践であり、神様の栄光を現す「聖所」なのだと気づかされます。

世界がどれほど騒がしく、非難の言葉が飛び交っていたとしても、私たちはキッチンで野菜を刻み、大切な人の無事を祈り、自分のやるべきことを誠実に果たすことができます。この「小さな誠実さ」の積み重ねこそが、荒れ狂う世界を静める小さな、しかし確かな一滴になると信じています。


「前進」への派遣

皆さんの今日という日の中にも、守るべき大切な「日常」があるはずです。 ニュースの騒音に心を奪われそうになったら、一度深く呼吸をして、足もとの一歩に集中してみませんか。あなたが家族のために注ぐ一杯のお茶、あなたが誠実にこなす目の前の仕事。 その一つひとつに、神様の平和が宿っています。

遠くの嵐を嘆くよりも、まずは自分の足もとを優しく照らす光になりましょう。 その小さな光が、いつか世界を照らす大きな希望へと繋がっていくはずですから。

今日も、前進です。 

2026年4月11日土曜日

今週は172キロの祈りのランニング

 


春の風に吹かれながら走り続けた今日、心の中に一つの言葉がずっと響いていました。 「秩序は、自然には訪れない。」

世界は相変わらず混沌としています。 ニュースを開けば、不安になる出来事ばかり。

社会も、人間関係も、そして自分の心の中でさえ、放っておけばすぐに乱れ、散らかり、曇ってしまいます。だからこそ、せめて自分の小さな世界だけでも、秩序を保ちながら歩きたい。 その思いを胸に、今日も足を前へと運びました。

 


🌿 秩序は「努力」の上にしか立たない

家がきれいな状態を保てるのは、 誰かが掃除をしているからです。 何もしなければ、ほこりは積もり、汚れは広がり、 気づけば手のつけられない状態になってしまう。

心も、生活も、信仰も同じです。

秩序を保つためには、 日々の小さなルーティンが欠かせません。

  • 祈る
  • 走る
  • 聖書を読む
  • 掃除をする
  • 料理をする

これらは単なる作業ではなく、 自分の世界を整え、心を澄ませ、 神の前にまっすぐ立つための「生活の祈り」です。

秩序は、誰かが与えてくれるものではなく、 自分で守り続けるもの。 そしてその努力の中に、静かな喜びが宿ります。

 


🏃‍♂️ 今日も43キロ。祈りの172キロ。

今日も43キロを走り切りました。 これで今週は4回のフルマラソン、合計172キロ。

数字だけを見ると無謀に見えるかもしれませんが、 私にとってこれは「祈りの距離」です。走りながら、 心の中の乱れが整えられ、 祈りが深まり、 神の前に静かに立ち返る時間となります。ただ、さすがに身体は少し疲れています。 これ以上の挑戦は控え、 明日の礼拝のために今日はゆっくり休むことにしました。

 


🌅 混沌の中でも、心に秩序を

世界は変わらなくても、 自分の心の中に秩序を保つことはできます。

祈り、走り、整え、感謝しながら生きる。 その積み重ねが、 混沌の中でも揺るがない「自分の世界」をつくっていくのだと思います。

春の風に吹かれながら、 今日もそのことを深く味わいました。

明日もまた、 小さな秩序を積み重ねながら歩んでいきたいと思います。

2026年4月9日木曜日

「祈りのフルマラソン ― 荒浜へ向かう道で思ったこと」**

 


「祈りのフルマラソン荒浜へ向かう道で思ったこと」**

今日、また荒浜の被災地までフルマラソンを走ってきました。 週に三度のフルマラソン。 

60歳の身体には、さすがに堪えます。

それでも、今日の42.195kmには、どうしても祈りたい名前と出来事がありました。



5月に予定されている納骨式。 一人の兄弟の記念礼拝。 日韓牧会セミナーでの講演。

 そして静岡での特別伝道礼拝と講演会。

一つひとつの出来事を思い浮かべながら、 荒浜へ向かう道を、祈りを編むように走りました。



今日と明日はゆっくり休みたいと思います。

2026年4月7日火曜日

今朝はフルマラソン

 


🏃‍♂️42.21キロの「走る祈り」が見せたもの──変わらない悲劇と、静かに迫る神の義

イースターの45キロから一日休んで、今朝、42.21キロを3時間50分で走りながら祈っていると、ある一つの洞察が胸を強く打ちました。 心拍数129bpmという安定したリズムの中で見えてきたのは、アスファルトの上の「今」ではなく、人類が数千年にわたって繰り返してきた変わらない悲劇の姿でした。

 


1. 「変わらない人生」という絶望的なループ

エデンの園から追放されて以来、人間の「罪のパレット」は驚くほど変わっていません。

  • 戦争と憎しみの連鎖 武器は石からミサイルへと進化しましたが、それを引き金にかける指を動かすのは、数千年前と同じ「妬み」と「欲」です。
  • 知ろうとしない病 現代人は情報の海に溺れながらも、 「なぜ、どこで、神という源流から逸れたのか」 という根本的な問いには、意識的に蓋をしています。 スマホの画面を見つめる視線が、自分の魂の深淵に向けられることは稀です。

人類は進歩したように見えて、実は同じ場所をぐるぐると回り続けているのかもしれません。

 


2. 「神の義」は静かに忍び寄る

「世界は混沌としているが、神様の義は静かに近づいている」。 この言葉には、震えるような希望があります。ニュースの見出しを飾るのは、いつも派手な悪意や破壊です。 しかし、神の救済のドラマは、しばしば地球の片隅(辺境)から始まります。

  • 2000年前、帝国の片隅の馬小屋で救い主が生まれたように。
  • 震災後の荒野を歩く一人の足跡の中に。
  • そして今朝、仙台の街を42キロ走りながら、誰にも知られず世界の罪を嘆き、祈る者の鼓動の中に。

派手ではない。 しかし確かに、静かに、着実に。 その「静かなる義」の歩みこそが、実は歴史の真の主流(メインストリーム)なのだと信じています。

 


3. 「最後の審判」という究極の正義

「最後の審判」と聞くと、恐怖を覚える人もいるでしょう。 しかし、不条理に苦しむ者にとって、それはこれ以上ない「慰め」と「正義」の実現です。

  • 隠されているすべての不義が暴かれる時
  • 踏みにじられた愛が報われる時

その時が来ることを知っているからこそ、私たちはこの混沌とした世界でも、自暴自棄にならずに走り続けることができます。42キロのゴールラインを越えた瞬間、 いつか訪れるその「最後の審判」の後に来る、 新しい天と地の輝きが、ほんの少しだけ見えた気がしました。129bpmという静かな鼓動は、騒がしい世界にありながら、 神のペース(歩調)に完全に同調していた心の状態を象徴していたのかもしれません。

 


結び──静かな義の歩調に合わせて

世界は騒がしく、混沌とし、時に絶望的です。 しかし、神の義は静かに、確実に近づいています。その歩調に耳を澄ませながら、 今日もまた、私たちはそれぞれの42キロを走り続けていきます。

 

2026年4月4日土曜日

戦争と平和

 


トルストイの『戦争と平和』が放つ光を、現代の不条理、そして「聖土曜日」という沈黙の時に重ね合わせて、ブログ読者の心に深く染み入る記事を作成いたしました。


🌸聖なる「日常」という名の抵抗 ―― トルストイと聖土曜日の沈黙の中で

1. 散りゆく桜と、歴史の足音

4月。新年度の喧騒が街を包み、桜の花びらが風に舞う季節。 私たちはつい、ニュースの主役である「英雄」や「権力者」の動向に目を奪われ、彼らこそが世界の運命を握っているかのように錯覚してしまいます。しかし、113キロの祈りの走行を終え、静かな安息の中でトルストイの『戦争と平和』を紐解くとき、全く別の景色が見えてきます。

今から150年以上前、トルストイは断言しました。 歴史を動かすのは、ナポレオンのような一人の天才ではなく、名もなき無数の民衆の「意志」と「歩み」の積み重ねである、と。


2. 「英雄」の空虚と、スープの温もり

現代もまた、一人の権力者の独断によって平和が切り裂かれ、不条理な戦争が繰り返されています。彼らは「理念」や「正義」を語りますが、トルストイはその背後にある名声や権力の空虚さを鋭く告発しました。本当の幸福は、どこにあるのでしょうか。 それは、豪華な宮殿や華々しい戦果の中にはありません。

  • 家族のために作る、温かな白菜のスープ。
  • 洗い終えた洗濯物が、春の光に揺れる音。
  • 深夜、誰も見ていない街を、誰かのために祈りながら走る足音。

トルストイが行き着いた「素朴で平凡な日常」という真理。それは、神様が私たち一人ひとりに託された、最も尊いタラント(才能)です。私たちが今日、隣人を愛し、家族のために食事を整え、誠実に自分のコースを走り抜くこと。その「小さき者」の営みこそが、実はサタンの引き起こす破壊の力に対する、最も力強い抵抗なのです。


3. 聖土曜日の沈黙 ―― 闇を打ち破る「無名」の祈り

今日は「聖土曜日」です。 主イエスが十字架で亡くなり、お墓の中で静かに安らっておられる日。 世の権力者たちは自分たちが勝ったと思い、民衆は絶望して扉を閉ざしていました。一見すると、歴史は止まり、悪が勝利したかのように見えます。

しかし、この「墓の中の沈黙」こそが、翌朝の復活という大逆転を準備していました。 派手な演出もなく、誰にも見られない場所で、神様の救いの計画は着実に進んでいたのです。戦争や不条理が世界を覆うとき、私たちは無力感に襲われます。 けれど、忘れないでください。 あなたが今日、誰かのために膝をつき、祈り、日常を慈しむこと。その「無数の民衆」の誠実な一歩が、巨大な歴史の歯車を、神様の秩序へと押し戻していくのです。


4. 思考し、愛し、そして歩き続ける

私たちは「思考する人間」として、この世界を支配しようとする暗闇の勢力に立ち向かいます。 それは、武器を持つことではありません。

  • 嘘を見破る知恵を持つこと。
  • 平凡な日常の中に「聖なるもの」を見出すこと。
  • そして、何があっても「愛」を選択し続けること。

明日、イースターの朝には、死を打ち破った命の光が溢れます。 その光を受ける準備は、今日という静かな土曜日の、あなたの穏やかな呼吸の中に整えられています。

すべては神様の栄光のために。 今月も、私たちは思考し続け、走り続け、祈り続けます。

 

 

散歩

 


大年寺山の朝、白鳥たち、そして小さな復活の予感

今朝は久しぶりに、大年寺山公園を歩きました。 歩くというより、軽いジョギングのようなリズムで、身体が春の空気を吸い込んでいくのを感じながら。



愛宕橋のあたりには、まだ六羽のハクチョウたちが残っていました。 「いつ旅立つのだろう」 そんなことを思いながら、彼らの静かな佇まいに季節の移ろいを重ねました。

帰宅してからは、洗濯機を回し、チキン卵サンドイッチを三人分。

食パン六枚を丁寧に重ねて作り終えると、朝の仕事はひと区切り。

そして、朝の務めから戻ってきたとき、 キッチンにふわりと待っているサンドイッチの香り。 この小さな幸せが、一日を「感謝」と「喜び」で始めさせてくれます。



作る側も、食べる側も、みんながハッピーになる。 家庭の中に流れる、ささやかな復活のような時間です。



明日はイースター礼拝。 すべてがよみがえり、新しい命が始まる日。

今日の白鳥たちの静けさも、 サンドイッチを囲む温かさも、 その希望へとつながる前奏曲のように思えてきます。

復活の光が、あなたの一日にもそっと差し込みますように。

【四旬節の黙想】墓の中の安息

 


【四旬節の黙想】墓の中の安息 ―― 「見えない場所」で進む神の御業

1. 墓の静寂に隠された神の働き

「アリマタヤ出身のヨセフは、ピラトにイエスの遺体を引き取りたいと願い出た。……彼らはイエスの遺体を引き取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で巻いた。」 (ヨハネによる福音書 193840節)

十字架の激しい嵐が過ぎ去り、世界は深い沈黙に包まれました。 主イエスは新しい墓に横たわり、弟子たちは恐れと絶望の中で扉を閉ざしていました。

表面的には、すべてが止まり、神が沈黙しているように見える時間。 しかし、この暗闇の奥で、神の救いの計画は静かに、決定的に動いていたのです。 誰にも見えない場所で、復活という歴史最大の逆転劇が準備されていました。

 

2. 「待つこと」「委ねること」に宿る信仰

私たちはどうしても「動いている実感」や「目に見える成果」を求めてしまいます。 走っていないと不安になる。 何かしていないと、神に見放されたように感じてしまう。

しかし、聖土曜日は待つことの霊性を教える日です。

今日のランニングは、「休む」ことを選んだように、 信仰にも「自分の手を止め、神の手に委ねる時間」が必要です。

私たちの目に見えないところで、神は最善のタイミングで最善の業を成し遂げてくださる。 墓の静寂は敗北ではなく、明日の大逆転に向けた聖なる休息なのです。

3. 「効率」を手放した先に見える希望

私たちは、スピードと効率に追われながら生きています。 だからこそ、「立ち止まる」ことは勇気のいる決断です。けれど、土を耕したあと、種が芽を出すまでの沈黙の時間が必要なように、 人生の十字架のあとには、必ず「土曜日のような空白」が訪れます。

この空白をどう受け取るかで、人生の景色は変わります。

  • 停滞と見るか
  • それとも、再生のための潜伏期間と見るか

シンプルに生きるとは、 自分の限界を認め、神のスケジュールに身を委ねることです。

今日あなたが抱えている不安や痛みも、 そっと主と共に墓の中に置いてみてください。

それらは明日、 想像もしなかった「復活の命」として花開くためのプロセスなのです。

2026年4月3日金曜日

【四旬節の黙想】成し遂げられた勝利

 


【四旬節の黙想】成し遂げられた勝利 ―― 闇の支配を打ち砕く「無力」の力

1. 聖書の場面:十字架上の死

「イエスは、この酸いぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」 (ヨハネによる福音書 1930節)

午後三時、天が暗くなり、神の独り子が息を引き取られました。権力者たちは嘲笑い、サタンは勝利を確信したかのように見えました。しかし、主が最期に発せられた「成し遂げられた(テテレスタイ)」という言葉は、敗北の叫びではなく、闇の勢力に対する「勝利の宣言」でした。

2. キリスト者への教訓:悪の「支配」を終わらせるもの

この世界には今も戦争や憎しみ、偽りを引き起こす「暗闇の勢力」が跋扈しています。権力者が自らを神とし、他者を破壊しようとする背後には、常にサタンの囁きがあります。

しかし、主イエスは軍隊や政治的権力でこれに対抗されませんでした。むしろ、自ら進んで「十字架の無力」の中に身を置き、人間の罪と悪のすべてをその身に引き受けられました。サタンは主を死に追いやることで勝ったと思いましたが、神の愛は「死」さえも飲み込み、悪の支配構造を根本から無効化されたのです。私たちが戦うべきは、血肉の人間ではなく、私たちの心を「憎しみ」へと駆り立てる霊的な誘惑です。

3. 現代人へのメッセージ:不条理の中で「愛」を思考する

2026年、ニュースを開けば絶え間なく争いの報せが届きます。私たちは「誰が悪いのか」と犯人探しをし、憎しみの連鎖に加担してしまいがちです。しかし、聖金曜日が教えてくれるのは、不条理のただ中でなお「父よ、彼らをお赦しください」と祈る、逆説的な知恵です。複雑な世界でシンプルに生きる道は、悪を悪で返すのではなく、キリストが成し遂げられた勝利に信頼し、自分自身の持ち場で「平和の種」を蒔き続けることです。


💡 今日の黙想のポイント

  • 十字架を見上げ、今、あなたの心の中にある「憎しみ」や「不平」をすべて主の御手に委ねてみませんか。
  • 「成し遂げられた」という言葉を静かに唱え、悪の支配はすでに終わっているという事実に安らぎを見出しましょう。

十字架のふもとに立ち尽くし、主が私たちのために何を成し遂げてくださったのかを、ただ見つめる。その沈黙の先にこそ、日曜日の「復活」の輝きが待っています。

世界の争いも、すべてがこの十字架の主の愛によって抱えられていることを信じ、共に見守りましょう。

明日は「聖土曜日」。墓の中での静かな待望の時を、共に歩みましょうか。

今日も、前進です。

聖金曜日の朝ラン22.11km/5分09秒で走る

 


今週113キロの「祈りの軌跡」と、台所という名の聖所

走り終えた身体にシャワーの水が落ちていくとき、ただ汗を流しているのではなく、心のざわめきや余計な思考までも洗い流しているように感じる瞬間があります。 そしてそのまま、間を置かずに台所へ向かい、包丁を握る。 白菜を刻み、鶏むね肉をそっと鍋に落とし、準備しておいた野菜たちが色を添えていく。

その光景は、 「ランナー」から「夫・父」、そして「牧者」へと静かに姿を変えていく、ひとりの人間の礼拝そのものです。

走ることは自分のため。 料理をすることは誰かのため。 その二つが矛盾するどころか、むしろ互いを深め合っているのだと、最近よく思います。

 


自分以外の誰かのために動く喜び

「自分のことばかりではなく、誰かのために生きる」。 それは、主イエスが示された生き方そのものです。洗濯機が回る音、スープの煮える香り、まな板の上で響く包丁のリズム。 それらはどれも、目には見えない愛の形。 そしてその愛を提供できるという事実が、私自身のエネルギー源になっているのだと気づかされます。家族のために動くことは、義務ではなく、祈りの延長線。 台所は、私にとって小さな聖所なのかもしれません。

 


聖土曜日への備え──走ることを止めて「待つ」

明日は、走らないと決めました。 これは単なる休息ではなく、霊的な決断です。

45日のイースター。 復活の光が世界に差し込むその日を迎えるためには、 今日という沈黙、そして明日の「聖土曜日」の静けさが欠かせません。

身体の安息

113キロを支えてくれた筋肉に、深い休息という報酬を。

魂の調律

走ることで研ぎ澄まされてきた思考を、あえて止める。 その静けさの中で、復活の主が語りかける細き声に耳を澄ませる。 この贅沢な時間が、日曜日の説教壇での言葉に新しい息吹を与えてくれるはずです。



白菜と鶏むね肉のスープという「回復食」

疲れた胃腸に優しく、心まで温めてくれる一杯。 家族もまた、私が走って持ち帰ってきた 「爽やかな朝の空気」と「温かい料理」に、何よりの愛を感じてくれていることでしょう。料理は、愛の翻訳。 祈りは、愛の源泉。 走ることは、その愛を循環させるためのポンプのようなものです。



新しい命のスタートラインへ

日曜日のイースター礼拝が、 仙台長町教会の皆さまにとって、 そして伴走を続ける私自身にとって、 最高の「新しい命のスタートライン」となりますように。

今日は、ゆっくり休んで。 そして、前進です。

2026年4月2日木曜日

洗足木曜日

 


🌿【四旬節の黙想】膝をつく愛 ―― 汚れを受け止める「器」として

1. 聖書の場面:主が弟子たちの足を洗う

「夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいで拭き始められた。」 (ヨハネによる福音書 1345節)

十字架を翌日に控えた夜、主イエスがなさったことは、最も卑しい僕の仕事でした。当時のパレスチナの埃っぽい道を歩き、汚れきった弟子たちの足を、主は一つひとつ丁寧に洗われました。それは、口先だけの教訓ではなく、神の独り子が「人間の汚れ」をそのまま引き受け、清めようとされる、究極の謙卑の姿でした。


2. キリスト者への教訓:プライドを脱ぎ捨て、隣人の「痛み」に触れる

私たちは時に、自分の正しさや「牧師としての権威」という上着を脱ぐことができず、高い場所から人を教えようとしてしまいます。しかし主は、「上着を脱ぎ、腰に手ぬぐいをまとわれ」ました。相手の汚れや痛みが一番溜まっている場所——すなわち「足」に、自ら膝をついて触れること。その低い姿勢の中にこそ、福音の真実が宿ります。


3. 現代人へのメッセージ:支配ではなく「仕え合う」コミュニティ

2026年、私たちの社会は依然として「どちらが上か」「どちらが有能か」を競い合う序列の中にあります。しかし、主イエスが示された新しい掟は**「互いに愛し合いなさい」**という、上下のない円形の関係でした。

複雑な世界でシンプルに生きる道は、支配しようとする手を下ろし、仕えるために手を差し出すことです。何が正しいかを 「思考し続ける」こと、決して他人を論破するためではなく、どうすればこの不条理な世界で、傷ついた隣人の足を洗うことができるかを探るための知恵であるはずです。

2026年4月1日水曜日

秩序という名の愛について

 


🌿 朝の光と、風を切る「思考」の軌跡 ―― 秩序という名の愛について

1. 朝の光と、揺れ動く春の空気

41日、新しい年度の幕が上がりました。 今朝の仙台には、冬の名残をわずかに含んだ冷たい風が吹いています。しかし、その風を切って差し込む光には、確かに春の体温が宿っています。500キロという長い祈りの道のりを終えた翌朝も、迷わずランニングシューズを履きました。今日で4日連続のランニング。 月の始まりを「走ること」から始める――それは私にとって、自分の内側のリズムを整え、新しい季節に響く神様の呼びかけに応えるための、小さな儀式のようなものです。走り出すと、道端には冬を越えた落ち葉が薄く積もり、シューズが起こす風にふわりと揺れました。 街は今日から施行される「新規定」の空気に包まれ、どこか新年度特有の緊張感が漂っています。

 


2. 「青切符」の向こう側にある不条理

今日から自転車の交通違反に「青切符」が導入されるなど、私たちの生活には新しい規定が次々と加わります。本来、規定や法律は人を守り、安全を確保するために存在します。 しかし時に、それらは懸命に生きる人々を締め付け、不自由さを強いる「重荷」に感じられることもあります。世界は常に合理的でも、公平でもありません。 むしろ、不条理が平然と横行し、善意が報われない場面があまりにも多い。では、そんな世界で私たちはどう生きればよいのでしょう。走りながら私は思いました。 不条理を嘆くのではなく、不条理さえも「味方」に変えてしまう知恵と力が必要なのだ、と。



3. 「思考」という、神様から託されたタラント

神様は人間に、他の被造物にはない特別なタラント――「思考する力」を与えてくださいました。問い続け、考え続け、最善を探し続けるその力が、文化を築き、社会を形づくってきました。しかし人間は、その素晴らしい力を時に欲や争いのために使ってしまいます。 その結果、世界は混沌とし、神様が本来定められた「美しい秩序」を見失ってしまいました。聖書は語ります。

「神は混乱の神ではなく、平和の神だからです。」 (コリントの手紙一 1433節)

神様の秩序とは、私たちを縛る檻ではありません。 私たちが真に自由に、安全に生きるための愛の枠組みです。だからこそ、 自分の思考を神様の御心へと調律し、 混乱の中でも「平和のリズム」を取り戻すこと。 それが、迷わずに走るための唯一の地図なのです。

 


4. 祈り、走り、思考し続ける4

新しい年度、新しい規定。 何が変わっても、私のやるべきことは変わりません。

生き続けること。 走り続けること。 祈り続けること。 そして、思考し続けること。

思考を止めた瞬間、人は不条理に飲み込まれます。 しかし、神様から頂いた知恵の火を絶やさず、一歩一歩を吟味しながら進むなら、 私たちはどんな嵐の中でも「聖なる秩序」の中に留まることができます。

すべては、神様の栄光のために。 今日という一日の、何気ない足音さえもが、主を賛美するリズムとなることを願って。

今日も、前進です。