デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

https://heyzine.com/flip-book/40adf6eb52.html https://heyzine.com/flip-book/e25ac741f2.html https://heyzine.com/flip-book/ce3de770c6.html

2026年8月14日金曜日

免許更新

 


義務を喜びに染め直す魔法:人生という長距離走を、軽やかに駆け抜けるために

時計の針が2320分を指した夜更け。

アルバイトを終えた娘を迎えに、夜の街へと車を走らせました。

助手席に座る娘との、家路に向かう車中での短い会話。それは私にとって、一日の終わりに与えられる「感謝と喜びの恵みの時」です。今日のまかないは焼きそばだったそうで、量が多かったからと半分を持ち帰ってきてくれました。さらに、誕生日のお祝いとして美味しいマンゴ酒をいただいたとのこと。 帰宅後、あたたかい家の中でさっそくその焼きそばを口に運びました。深夜の静寂の中で味わうその美味しさは、家族の無事とささやかな喜びに満ちた、特別な味がしました。

 


「退屈」を「喜び」へ反転させる工夫

明日は、娘の運転免許更新のために免許センターへ行く予定です。

免許の更新。それは多くの人にとって、できれば避けたい「面倒でつまらない時間」の代表格かもしれません。私たちの日常には、こうした義務や、心が躍らない出来事が定期的に巡ってきます。 しかし、ただ仕方なくこなすだけでは、時間は色褪せてしまいます。そこで今回は少し計画を変え、まずは三人で午前中に免許センター近くの「汗蒸幕(はんじゅんまく)の湯」へ足を運び、ゆっくりと汗を流して過ごして、久々に韓国料理を食べてから、午後の更新手続きへ向かうことにしました。

この提案に、二人は大喜びしてくれました。

 


出来事の意味を決めるのは、私たち自身

本来なら多くの人が嫌がる「免許更新」という時間を、心弾む「楽しい時間」へと見事に変身させること。 実はこれこそが、私たちが日々の生活の中で大切にすべき魔法なのだと、改めて気づかされます。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18

聖書が語るこの言葉は、単に「無理をしてでも笑いなさい」と強要しているわけではありません。状況そのものが退屈でつまらないものであっても、私たちの心の在り方と少しの工夫次第で、その時間を「感謝と喜び」に変えることができるのだという、力強い真理を教えてくれています。 出来事の表面だけを見れば「ただの義務」であっても、そこに温泉の温もりや家族の笑顔を掛け合わせることで、全く違う景色が立ち現れるのです。

 


人生のマラソンを息切れせずに走る秘訣

嫌なこと、つまらないことを、自らの手で「楽しい事」へと変身させる魔法。

このしなやかな魔法を日頃から意識して使いこなすことこそが、決して平坦ではない「人生」という長いマラソンを、息切れすることなく、笑顔で楽しく走り抜けるための最大の秘訣なのかもしれません。 深夜に味わった焼きそばの余韻と、明日の汗蒸幕で流すであろう心地よい汗を楽しみにしながら。

今日も、共に前進です。わたしは二度寝です。

2026年8月13日木曜日

箴言21章

 


見えない大きな手の中を流れる水のように

目覚めの静寂の中、まだ世界の喧騒が始まる前の澄んだ時間。 深呼吸をして冷たい空気を肺の奥まで吸い込むと、今日という新しい一日が静かに動き出したという確かな身体感覚が満ちることを感じる時があります。朝の光の中で聖書を開き、箴言21章の言葉に目を落とすとき、日々の忙しさの中で凝り固まっていた心に、一本の透き通るような水路が開かれるのを感じます。

現代を生きる私たちは、無意識のうちに「自分の人生は、自分でコントロールしなければならない」という強い重圧を抱えています。しかし、数千年の時を超えて語りかける箴言の言葉は、私たちのそのこわばった両手を、優しく、そして力強くほどいてくれるのです。

「自分の手の中」にあるという錯覚を手放す

「王の心は主の手の中にあって、水の流れのように、主の望むところへ向けられる」

私たちは、「努力すれば必ず報われる」「すべては自分次第だ」と信じて疑わない時代を生きています。もちろん、懸命に汗を流し、知恵を絞って計画を立てることは尊い営みです。しかし、人生には私たちの努力や計算をはるかに超えた、見えない大きなうねりがあります。絶対的な権力を持つ「王の心」でさえも、神様の大きな手のひらの上を流れる水に過ぎない。この真理に触れるとき、私たちは不思議な安堵感に包まれます。 最善を尽くして計画を立てながらも、最終的な結果は「自分を超えた大いなる御手」に委ねる。このしなやかな謙虚さを持つとき、私たちは「思い通りにならないこと」への執着や不必要なストレスから解放され、より自由に、水のように柔軟に生きることができるようになります。

 


誠実さという、決して枯れない泉

コントロールを手放した私たちが、では、この地上で何に力を注ぐべきなのか。箴言は明確に「正しい行いと公正」を指し示します。

現代社会はスピードを求めます。手っ取り早く結果を出すための近道や、時には倫理の境界線を曖昧にした「賢いやり方」がもてはやされることもあります。しかし、聖書は「不正な富は死の罠である」と鋭く警告します。 短期的な利益や目先の見栄に目を奪われることなく、「これは神の前に正しいか」「隣人に対して公正か」を問い続けること。いけにえという形式的な宗教行為よりも、日々の暮らしの中で誠実さを貫くことこそが、神様に最も喜ばれ、私たちの人生に長期的な平安をもたらす揺るぎない土台となります。

魂を守る「言葉の温度」

そしてもう一つ、私たちの日常に最も身近で、最も危険な武器となるのが「言葉」です。

「自分の口と舌を守る者は、苦難から自分の魂を守る」

SNSを開けば、無数の言葉が濁流のように溢れ返る現代。私たちは、いつでも、誰に対してでも、自分の感情を瞬時に発信できる便利さと引き換えに、言葉の重みを忘れかけています。 無責任な発言や、感情に任せた冷酷な言葉は、誰かの心を深く傷つけるだけでなく、発した自分自身の魂をも確実にむしばんでいきます。

言葉を口にする前、あるいは送信ボタンを押す前に、ほんの一呼吸だけ間を置くこと。 「この言葉の温度は、冷たすぎないか?」 「誰かを打ち負かすためではなく、生かすための言葉になっているか?」 その小さな自問自答の習慣が、争いを防ぎ、私たちの周囲に温かな平和の輪を広げていきます。

 


委ねて、歩む

すべてを自分の思い通りに動かそうとするから、私たちは疲れ果ててしまうのです。 私たちの人生は、大いなる神様の手の中にあります。その圧倒的な安心感に包まれながら、私たちは今日、自分にできる「誠実な行い」と「温かな言葉」だけを丁寧に紡いでいきましょう。結果を思い煩う必要はありません。大いなる流れに身を任せ、軽くなった足取りで、新しい一日を踏み出してください。

今日も、共に前進です。

おはようございます!

 


濃霧に響く二つの「おはよう」:交わらない時代の中で、心の空を晴れやかに保つ

午前5時過ぎ、重くまとわりつくような湿気と、雨、そして濃い霧に包まれた朝。 いつもの散歩コースへ足を踏み入れると、そこにはすでにそれぞれの道を歩き、走り、自分の目的地へと向かっていく人々の姿がありました。視界を遮る白い霧の中で、互いの影が近づいては、また静かに遠ざかっていきます。

 


坂道と階段で交わされた、対照的な挨拶

大年寺山公園を目指して急な坂を上っていると、前方から年配の女性が歩いてきました。(この方も山公園の朝礼(?)のメンバーで、何度か見かけた方です。)彼女のそばからは、クマよけの代わりになっているであろう、大きなラジオの音が響いています。 すれ違う瞬間、ラジオのアナウンサーが元気な声で「おはようございます!」と叫びました。私は彼女の代わりに挨拶をしてくれたその声に反応し、心の中で静かに「おはようございます」と挨拶を返しました。直接言葉を交わさなくとも、不思議と温かいものが胸をよぎりました。その後、愛宕神社の階段を降りる時のことです。今度はすれ違った一人の女性が、私に向かってはっきりと「おはようございます!」と声をかけてくれました。私もすかさず「おはようございます!」と声に出してお返しをしました。

  • ラジオを通じた、心の中の静かな挨拶。
  • 階段ですれ違った、肉声の温かな挨拶。

霧の深い朝に響いたこの二つの「おはよう」は、私の心に小さな灯りをともしてくれました。

 


干渉しない時代の「自然な距離感」

ランニングや散歩の最中、見知らぬ人同士が挨拶を交わすことは、今の時代、ほとんどなくなりました。 皆、視線を合わせず、ただ黙々と自分の道を進んでいくだけです。しかし、その無言のすれ違いに対して、私たちはもはや何の違和感も、心の負担も抱かなくなっています。それは現代社会が生み出した、極めて「自然」な距離感なのです。

人間の他者には声をかけない人に限って、散歩中のペットには優しく声を掛けている風景もよく目にします。 それもまた、一つの愛の形であり、決して悪いことではありません。私たちは皆、それぞれの心地よい距離感の中で、自分だけの小さな世界を守りながら生きているのです。

 


心地よい言葉がもたらす「魂の晴れ間」

それでも、愛宕神社の階段で交わしたあの短い言葉が、重い湿気の中で私の心をふっと軽くしてくれたことは確かな事実でした。聖書には、このような言葉があります。

「心地よい言葉は蜂蜜のよう、魂に甘く、骨を健やかにする。」(箴言 16:24

無理をして全員に声をかける必要はありません。時代が変わり、人が交わらなくなったことを嘆く必要もありません。 しかし、誰かの口から発せられた誠実な一言は、蜂蜜のように魂を潤し、霧の立ち込める暗い道に一瞬の晴れ間を作ってくれる力を持っています。心の中での無言の挨拶であれ、声に出した挨拶であれ、他者の存在を承認するそのささやかな営みは、確実に私たちの内側を新しくしてくれます。

 


心の天候は自分で選べる

今日は娘がアルバイトに行く日であり、また夜には車で彼女を迎えに行きます。 外の世界は今日一日中、雨と霧に包まれ、息苦しいほどの湿気に満ちていることでしょう。しかし、外の天気がどうであれ、「心の中の天候」だけは、私たち自身で決めることができます。重い足取りですれ違う人々の無言の背中にも、それぞれの人生の重さがあります。 その重さを静かに尊重しつつ、私は今日、心の中の空だけは高く晴れやかにして、自分の歩むべき道を真っ直ぐに進んでいこうと思います。

今日も、共に前進です。

夜中のケーキ作り

 


真夜中のキャロットケーキと「普通」の正体:自分流で愛を生きる夜明け前

昨夜は23時過ぎに目が覚めました。 昨日から無性にケーキが食べたかったため、起きてすぐに一階の自室から二階へと上がりました。私が起き出して動き始めると、愛犬のノアはいつもその優れた感覚で察知し、目を覚まして待っています。

家族が静かに眠る二階。足音を忍ばせてドアを開け、音が漏れないようにリビングルームの扉をしっかりと閉めてから、真夜中のケーキ作りがスタートしました。 少し自分なりのアレンジを加えたキャロットパウンドケーキの生地を、予熱しておいたオーブンへ。焼き上がるまでの約1時間、ふと天気予報を見ると、この後1時間ほどだけ雨がやむという予報が出ていました。今日と明日も雨模様の続く中、この小さな晴れ間は恵みです。急いでノアを連れ出し、ささやかな夜の散歩を終えて無事に帰宅しました。小さな奇跡のような時間に、心から感謝しました。

 


「痕跡を残さない」という私なりの流儀

現在、オーブンからは甘く香ばしい匂いが漂い始めています。 私が夜中などに料理やケーキ作りをする際、絶対に守っている一つのルールがあります。それは「決して痕跡を残さないこと」です。

周囲を綺麗に片付け、妻が昨晩眠りについた時に記憶している台所の状態と、全く同じ状態に戻してすべてを終える。それが、私なりの「自分流」のやり方です。

世間ではよく、「そんなに気を遣わずに、普通にやればいいのに」と言う人がいます。しかし、ふと立ち止まって考えてしまうのです。 その「普通」とは、一体何なのでしょうか。

  • 誰かが決めた「平均値」のことでしょうか。
  • 多数派が採用している「常識」のことでしょうか。

定義は非常に曖昧です。よく考えてみれば、人の数だけそれぞれの「普通」が存在します。世間の曖昧な「普通」の枠組みに、無理に自分を押し込めて生きる必要などどこにもないのです。

 


自由と愛が同居する「自分流」の生き方

自分の「普通」に合わせて生きる。周りに迷惑をかけず、法的な問題もないのであれば、堂々と自分のスタイルを貫けばよいのです。 私の「自分流」は、決して自分勝手な振る舞いではありません。家族が気持ちよく朝を迎えられるように台所を磨き上げること、雨の合間を縫って愛犬と歩くこと。それは、私なりの静かな愛の表現でもあるのです。


聖書に、このような力強い言葉があります。

「こういうわけで、あなたがたは、食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」(コリントの信徒への手紙一 10:31

神様は、私たちを金型で抜いたような「普通」のロボットとしてではなく、それぞれに全く違う個性と流儀を持つ、かけがえのない存在として創造されました。 大切なのは、世間の「普通」に合わせることではありません。自分が選んだ「自分流」の生き方が、家族を愛し、隣人を愛し、そして神様の栄光を現すものへと真っ直ぐに向かっているかどうかです。誰かと比較する必要はありません。 私は今日も、このままの私で生きることにしました。無理に人に合わせるのではなく、自分に与えられた流儀で、主の栄光のため、愛する家族のため、そして教会の兄弟姉妹のために、今日という命を精一杯に生きていきます。

オーブンのタイマーが、もうすぐ焼き上がりを知らせてくれます。 あなたもどうか、あなただけの美しい「自分流」を大切に、今日というキャンバスを自由に彩ってください。

今日も、共に前進です。

2026年8月12日水曜日

ちゃんと生きていますか?

 


永遠を望む心と、手触りのある日常:私たちが本当に「待ち望むもの」

今の時代を生きる人々は、心の底で一体何を期待して生きているのでしょうか。 何を望み、日々の暮らしの中で何を楽しみにしているのでしょうか。

街を歩き、あふれる情報に目を向けると、この世界は常に新しい刺激や、一瞬の楽しさ、物質的な豊かさを追い求めているように見えます。しかし、それらを手に入れてもなお満たされない「魂の渇き」のようなものが、現代の空気の底には静かに沈殿しているのを感じずにはいられません。

 


遠くを見つめる祈りと、足元にある喜び

私自身の心に問いかけてみます。私が本当に望んでいること、それは極めて明確です。 「神の国が、この世界に実現すること」。そして、「一人でも多くの人が、真の命と真の救いを得ること」。 これが、私の人生を貫く最大の願いであり、究極の希望です。

しかし、この「神の国の実現」という壮大な祈りは、決して現実から遊離した遠い世界の話ではありません。それは、極めて手触りのある、汗と温もりを伴った「私の日常の楽しみ」の中にしっかりと根を下ろしています。

私が日々の生活の中で心から楽しみにしているもの。それは次のような、ごく当たり前の営みです。

  • 家族と共に過ごす、何気ない時間。
  • 愛犬であるゴールデンレトリバーのノアとの、温かなふれあいと散歩。
  • 教会員の方々の人生に寄り添い、共に祈る牧会の働き。
  • 息を切らし、足の痛みと向き合いながら走るランニング。
  • そして、やがて来るサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅。

一見すると、壮大な神の国と、犬の散歩や毎日のランニングは、全く次元の違う事柄のように思えるかもしれません。しかし、信仰の目を通して見つめる時、これらは決して切り離されたものではないことに気づくのです。

 

昨日、妻は大量の揚げ物を作りました。

日常のただ中に訪れる「神の国」

聖書に、主イエスが語られたこのような言葉があります。

「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(ルカによる福音書 17:20-21

神の国とは、死後にだけ行く遠い場所ではなく、私たちが誠実に生きる「今、ここ」の日常の中にこそ現れるものです。 家族と食卓を囲む温かな時間。ノアの柔らかい毛並みをなでる手のひらの感覚。傷ついた教会員と共に流す涙。自分の限界に挑むランニングの静寂。そして、遠きスペインの巡礼路(サンティアゴ)へと向かう一歩一歩の祈り。

その一つひとつの誠実な営みの中に、神様の愛と息吹が確かに宿っています。真の命とは、遠くの理想を追い求めることではなく、与えられた今日という日のささやかな喜びを、深く味わい尽くすことの中にこそあるのです。


 

あなたが今日、楽しみにしていることは何ですか

私たちは、大きな奇跡や劇的な変化を期待しがちです。しかし、今日あなたが誰かにかける優しい言葉や、家族と交わす笑顔、そして静かに捧げる祈りの中に、すでに神の国は芽生え始めています。

どうか今日、あなたの足元にある小さな楽しみに、心を込めて向き合ってみてください。 その手触りのある日常の喜びこそが、あなたを本当の希望へと導く、最も確かな道しるべとなるはずです。

今日も、共に前進です。

夜中のランニング

 


暗闇を照らす一筋の光と、夜明けを渇望する魂:見知らぬ街を駆け抜けた23キロ

昨夜は22時ごろ、アルバイト先で働く娘を迎えに車を走らせました。 無事に帰宅した後、待っていたノアを連れて夜の散歩へ。そして、一日の終わりのゴミ出し。いつもであれば、ここで布団に潜り込んで「二度寝」の心地よさに身を委ねるところですが、昨夜はなぜか、夜中のランニングに出かけることにしました。

スタート地点に立ったのは、2252分。 太陽の光に満ちた朝の道とは違い、夜の闇は深く、足元さえおぼつかなくなります。私は手に持ったライトで暗闇の道を照らし出しながら、静寂の中へと足を踏み入れました。

 


コースのない道と、小さな手元の光

昨夜は、あらかじめコースを定めていませんでした。ただひたすらに、前へ前へと走り続けました。

暗闇の中、ライトの光だけを頼りに進んでいくうちに、ふと、自分がこれまで走ったことのない見知らぬ街の風景の中にいることに気がつきました。暗がりに浮かび上がったのは、大梶にある中嶋病院の建物。初めて訪れる街の空気を肌で感じながら、そこから大きく方向を変え、見慣れた仙台駅の方へ。そして最後は広瀬橋を渡り、無事に自宅へと帰り着きました。

  • 行き先が分からないまま、見知らぬ街を走る不安。
  • それでも、手元のライトが一歩先の道を確実に照らしてくれる安心感。

この「夜中のランニング」は、私たちが歩む人生そのものに似ているのかもしれません。

 


闇夜の静寂と、私たちが本当に求めるもの

私たちは時として、人生のコースを見失い、真っ暗闇の中を手探りで歩まなければならない時期を経験します。先の見えない不安の中で、たどり着いた場所が全く見知らぬ景色(状況)であることも少なくありません。

聖書は、そのような暗闇を歩む私たちに、一つの確かな道具を手渡してくれています。

「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを照らす灯(ともしび)。」(詩編 119:105

 


神様の言葉は、何十キロも先まで見通せるような強烈なサーチライトではないかもしれません。しかし、暗闇の中で迷う私たちが「次に踏み出すべき確かな一歩」だけは、決して見失わないように、手元を優しく、そして力強く照らし出してくれます。

ライトを握りしめ、23キロを完走した夜中のランニング。 寝静まった街の静けさの中を走るのも、案外悪くない時間でした。しかし、暗闇を走り終えた私の心の一番深いところにあったのは、「やはり自分には、夜明けのランニングが一番だな」という静かで確かな気づきでした。

闇夜には闇夜の安らぎがありますが、人間の魂は本能的に、世界が新しく生まれ変わる「夜明けの光」を渇望するように創られているのです。

 


光を信じて、今日を生きる

これから少しだけ仕事に向かい、それからいつもの二度寝の眠りにつきます。 目を覚ませば、そこには必ず、私が心から愛する「夜明け」が待っています。

あなたの今の人生が、もし暗闇の中を手探りで進むような道のりであったとしても、決して恐れることはありません。手元にある小さな光(御言葉と祈り)を信じて、今日踏み出すべき一歩を淡々と重ねていってください。見知らぬ街を巡り巡っても、道は必ず、あなたを夜明けへと導いてくれます。



今日も、共に前進です。

2026年8月11日火曜日

山の日

 


時代を渡る新しい橋と、変わらぬ人間の本性:急坂を上る杖が示す「今日」の歩み

今日は、いつもの大年寺山公園への散歩に出かけました。 公園からの下り道、向こうからゆっくりと歩いてくる例の小柄なおばあさんに出会いました。決して楽ではない急な坂道を、杖をしっかりと突きながら、ご自分の足で上っておられました。



今日は「山の日」という祝日であり、空には台風の予報も出ています。 気候やカレンダーの変化を理由に休むこともできるはずですが、このおばあさんにとって何より大切なのは、毎日のルーティンワークを守り抜くこと、そして山公園で待つ仲間たちと顔を合わせることなのでしょう。愛宕大橋を渡り、あの急な坂道を上って山公園まで往復するのは、決して簡単なことではありません。そのひたむきな後ろ姿に、私は心からの感銘を覚えました。

 


移りゆく景色と、静かな朝

おばあさんの姿を背にして、私は自分の歩みを続けました。 山の上の愛宕神社まで上ると、眼下には仙台の市街地が静かに広がっています。その後、神社から下って広瀬川の川沿いへと出ると、水面ではハクチョウたちが静かに穏やかな新しい朝を迎えていました。

川沿いの景色の中で、ひときわ目を引くのは新しい宮沢橋です。 約4年という長い歳月をかけて工事の様子を見守り続けてきましたが、いよいよこの9月に完工し、新しい橋がその全貌を現そうとしています。

古いものが壊され、新しいものが建てられる。組織の形が変わり、人は過ぎ去り、新しい世代がまた後を継いでいく。人間が生きるこの社会は、目まぐるしいスピードで常に変化し続けています。

 


人は入れ替わるのに、なぜ世界は変わらないのか

しかし、ここで一つの深い疑問が湧き上がります。 建物が新しくなり、世代が新しく入れ替わっているにもかかわらず、なぜこの社会の本質は変わらないのでしょうか。なぜ、いつの時代も繰り返し、犯罪や痛ましい事件、そして愚かな戦争が絶えることなく続くのでしょうか。

その理由は、極めて残酷で、かつ避けられない真実の中にあります。 それは、「人間の罪ある本性は、決して変わらないから」です。時代がどれほど進歩し、橋が新しく架け替えられたとしても、私たちの内側にある自己中心的な思いや、他者を傷つけてしまう性質は、生まれつき同じものを抱えたままなのです。

聖書は、この人間の変わらぬ本質を静かに見つめ、こう語っています。 「太陽の下、新しいものは何一つない。」(コヘレトの言葉 1:9

私たちは、そのような自己矛盾と罪の痛みを抱えた世界の中で、今日も生きています。

 


 

嘆きを捨てて、今日を笑顔で生き抜く

しかし、変わらない世界の悲惨さを前にして、私たちがただ嘆き、うつむいて生きることを神様は望んでおられません。 罪ある世界の中で、それでも私たちがなすべきことは、暗闇を呪うことではなく、自ら小さな光となって「明るく笑顔で生きること」です。

  • 感情に左右されず、自分を律して生きる。
  • 言葉を口から出す前に、それが誰かを生かすものか、もう一度深く考える。
  • 悔いのないように、与えられた「今日」という命を精一杯に生きる。

台風が近づく重い空気の中でも、杖をつきながら急な坂を上り続けるあのおばあさんのように。私たちもまた、自分の弱さや社会の不条理を言い訳にすることなく、今日という日を誠実に、一歩ずつ上っていきましょう。

感情の波に飲み込まれそうになる時こそ、一度立ち止まって深呼吸をし、美しい言葉を選び取る。その小さな実践の積み重ねだけが、私たちの人生を確かなものにしてくれます。


昨晩、妻が焼いてくれたパンをいただきました。 とても美味しくて、心まで満たされる味でした。 本当に美味しいパンでした。毎日ではなく、たまにがいいのです。

今日も、共に前進です。

2026年8月10日月曜日

朝ラン30キロ完走

 


滝のような汗と夜明けの祈り:痛みを抱え、30キロを走り抜く命の誓い

昨夜は23時過ぎに目が覚めました。深い夜の静寂の中で仕事に向かい、二通の手紙を書き終え、それぞれの教会員の家まで行って投函。そして午前3時ごろ、まだ暗闇に包まれた外の世界へとランニングのスタートを切りました。

扉を開けると、重くまとわりつくような湿気が立ち込めていました。走り出して間もなく、滝のように流れる汗が顔を覆います。その汗を何度も何度も拭いながら、私はひたすらに前へ、前へと歩みを進めました。

 


痛みと共に捧げる、暗闇の中の祈り

コースの途中で、今、教会員の姉妹が入院している病院の前を通りかかりました。 眠りについた街の中で、静かにそびえ立つその建物を仰ぎ見ながら、病床にある彼女の上に神様の豊かな癒やしと平安があるようにと、走りながら深く祈りをささげました。

その時、私の右のかかとには、昨日の朝から続く確かな痛みが居座っていました。 まとわりつく湿気、滝のように流れる汗、そして一歩踏み出すごとに響くかかとの痛み。それは、私たちが生きているこの現実が、決して無菌室のような心地よいだけの場所ではないことを生々しく教えてくれます。

病院のベッドで、痛みや孤独と闘いながら朝を待っている人がいる。そして外の世界でも、私たちはそれぞれに目に見えない重荷や、身体の痛み、心の湿気を抱えながら、息を切らして生きています。 生きるということは、この痛みから無傷で逃げ切ることではなく、痛みを引き受け、祈りを携えながら、それでも一歩前に足を踏み出すことなのだと、痛むかかとが静かに語りかけてくるようでした。

 


夜明けの光と、走り抜く信仰

汗と痛みに耐えながら走り続けていると、やがて重く暗かった空の向こうから、少しずつ夜が明け始めました。 光が差し込み、世界が新しい朝の輪郭を取り戻していくその静厳な景色を見つめながら、私の胸の奥に一つの熱い思いが込み上げてきました。「今日も、頑張って生きよう」。それは、与えられた命への、深く誠実な誓いでした。

聖書には、人生という道のりを走り抜くことについて、このような言葉が記されています。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。」(テモテへの手紙二 4:7

 


私たちは時として、なぜこれほどの汗を流し、痛みをこらえてまで人生の道を走り続けなければならないのかと問うことがあります。しかし、その道の途中で捧げる誰かのための祈りや、苦しみの果てに迎える夜明けの光の中にこそ、神様が用意された確かな真理が隠されているのです。

  • 痛みがあるからこそ、誰かを思いやる祈りは深くなる。
  • 息苦しい夜を越えるからこそ、夜明けの光は美しく輝く。

かかとの痛みを覚えながらも、最後まで足を止めることなく、無事に30キロを完走しました。仕事と手紙、そして長いランニングを終えて一休みしている今、私の心は疲労と共に、確かな清々しさに満ちています。

 


今日、あなたが抱えている痛みやしんどさは、決してあなたを打ち倒すためのものではありません。それは、あなたが今、命の道を確かに走り続けているという「生きている証」です。 流れる汗を拭いながら、痛む足を引きずりながらでも構いません。明ける空を見上げ、今日という日を精一杯に生き抜いていきましょう。


先日から新しいシューズに履き替えて走っています。 足にしっかり馴染み、履き心地もとても良く感じています。半年間頑張ってもらいます。

今日も、共に前進です。

人生の黄昏

 


最終幕の重みと、その先にある光:「死でお終い」ではない希望への歩み

たまに散歩へ出る道すがら、日常のささやかな風景に目を留めることがあります。 自転車の後ろ籠に重そうなゴミ袋をくくりつけて進む方や、買い物籠のような手押し車にゴミを載せ、ゆっくりと集積場に向かって歩くお年寄りの後ろ姿です。

若い頃には片手で軽々と提げていたはずのゴミ袋が、年を重ねるごとにずっしりとした

重い塊へと変わっていく。ゴミ出しという当たり前の日常さえも、途方もない労力を要する大仕事になっていく現実に、人生という時間の重みを感じずにはいられません。 しかしある意味では、自分の足で歩き、ゴミ出しができるというのは、まだ「まし」なことなのかもしれません。世の中には、それすら叶わない体になり、病床で深い苦しみの中を生きている方々もいらっしゃるからです。

 


望んだ「ハッピーエンド」と、厳しい現実

若い時に汗水流して必死に働き、家庭を築き、子どもたちを育て上げる。やがて子どもたちは成長して独り立ちし、それぞれの人生の場所へと巣立っていきます。あとに残されるのは、夫婦ふたり、あるいは一人きりの静かな暮らしです。

誰もが、人生の黄昏の時くらいは、穏やかで心休まるものであってほしいと願うはずです。せめて自分が主役を演じてきた人生というドラマの最終幕だけは、温かなハッピーエンディングで締めくくられたい、と。 しかし、現実は私たちが期待するほど甘くはありません。老いの孤独の中で思いがけない病が見つかり、先の見えない不安と痛みに絶望しながら生きている方々がいます。 どんなに苦しくても、命の火が灯っている限り、私たちは「生きなければならない」のです。時にそれは、残酷なほどの重圧となり、息をするだけで精一杯というつらい日々を強いることになります。

 


「死でお終い」という虚無の誘惑

その激しい痛みや絶望の淵に立たされた時、人の心にはある一つの考えがよぎることがあります。

  • 「死んだら、すべてお終いだ」
  • 「死んでしまえば、この苦しみも、悩みも、痛みもすべて終わるのだ」

終わりのない苦痛から逃れるため、死を「完全なる消滅」であり「苦しみからの解放」だと考えたくなる。それは、限界まで追い詰められた人間の、悲しくも切実な心の叫びです。

でも……本当にそうでしょうか。 もし死が単なる「無」への帰結であり、すべてのお終いであるならば、私たちが流した涙も、愛した記憶も、耐え抜いた苦しみも、すべては虚無の中に消え去る無意味なものになってしまいます。

 


朽ちていく外なる人、新しくされる内なる人

聖書は、この絶望的な問いに対して、全く異なる次元の真理を私たちに提示しています。

「だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は朽ちていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」(コリントの信徒への手紙二 4:16

私たちの肉体(外なる人)は、時と共に確実に衰え、病に倒れ、やがて朽ちていきます。人生の最終幕は、決して痛みのない華やかなものではないかもしれません。 しかし、死は「お終い」ではありません。それは、古いテントを脱ぎ捨てて、永遠の光に包まれた本当の住処へと移り住むための「通過点」に過ぎないのです。

人生の黄昏は、闇夜に向かって沈みゆく終わりの時間ではなく、永遠の朝陽を迎えるための準備の時間です。神様は、私たちの痛みも、悩みも、流した涙のひとしずくさえも無駄にはされません。私たちがこの地上でどれほど不条理な苦しみを味わおうとも、そのスクリーンの向こう側には、神様ご自身が涙をぬぐい去ってくださる、まことの「ハッピーエンディング」が確実に用意されているのです。

手押し車をきしませながら歩く、その一歩。 病床で痛みに耐えながら見上げる、窓の外の空。 そのすべてを、見えない温かな御手がしっかりと支えています。私たちの魂は、今日という日も静かに、新しくされ続けています。

今日も、共に前進です。

2026年8月9日日曜日

戦争はやめましょう!

 


すり減った靴底と水辺のハクチョウ:私たちの内なる「見えない戦争」を止めるために

昨日のランニングの疲労が、右側のかかとに鈍い痛みとして残っていました。 そのため今朝は無理をして走ることをやめ、大年寺山公園への散歩へと切り替えました。痛みの原因の一つは、間違いなく靴底のすり減りです。

一般的に、ランニングシューズの寿命は走行距離500キロから700キロだと言われています。しかし、月に500キロを走る私にとって、その一般論を真面目に守れば、わずか45日ごとに新しい靴を買い替えなければならない計算になります。決して安価ではないシューズをその頻度で消費することは現実的ではないため、私はそのセオリーを横に置き、二足の靴を交互に使いながら、1年間という時間をかけて履き潰すことにしています。

痛みと妥協を抱えながら、涼しい風に背中を押されて公園の階段を駆け上がり、そして静かに歩きました。 川辺へ目を向けると、ハクチョウや河の鳥たちが、水面で羽を休めながら元気な姿で新しい朝を迎えていました。空の青さと鳥たちの静かな息づかいが溶け合う、本当に美しく、平和な風景でした。

 


112分に消え去った日常

今、私の目の前に広がっているような、涼やかな風と鳥の声に包まれた平和な朝。 194589日の長崎も、もしかすると同じような、ごくありふれた平和な朝の始まりだったのかもしれません。

しかし、午前112分。 一発の原子爆弾が投下され、そのささやかな平和は一瞬にして消え去り、大地は想像を絶する地獄のような光景へと変貌してしまいました。

黒澤明監督の映画『八月の狂詩曲』の中で、原爆の傷を抱えるおばあちゃんは「アメリカ人が悪いのではない、戦争が悪いんだ」と語りました。その言葉を厳密に突き詰めれば、「戦争を起こした人間そのものに罪がある」という重い事実に行き当たります。 あれほどの悲劇を経験し、戦争の恐ろしさを知っているはずなのに、なぜこの世界から戦争は絶えないのでしょうか。

 


形を変えて宿る「心の戦場」

その答えは、戦争が単に国と国との間で起こるものだけではないからです。 目に見える爆弾の雨が止んでも、戦争は決して終わってはいません。それは形を巧妙に変え、今度は私たち人間の「心の中」に深く宿り続けているのです。

  • 自分より恵まれている者への、黒い妬み。
  • 自分とは異なる意見を持つ者への、激しい憎しみ。
  • 匿名という安全な場所から放たれる、容赦のない誹謗中傷。

これらはすべて、現代における「見えない戦争」です。私たちは今、銃弾やミサイルの代わりに、冷たい言葉と悪意という武器を使って、隣人の心を深く傷つけ、見えないところでその魂を殺し続けています。平和を願いながら、自らの手で身近な平和を破壊しているのです。

 


知恵ある人の舌は人を癒す

聖書は、私たちが日々用いている「言葉」という武器の恐ろしさと、その本来の役割についてこう語っています。

「軽率に語って、剣で刺すように人を傷つける者がある。しかし、知恵ある人の舌は人を癒す。」(箴言 12:18

私たちの内にある妬みや憎しみは、放っておけば必ず誰かを刺し貫く剣へと変わります。 私たちがなすべきことは、遠い国の戦争を憂うことと同時に、まず自分自身の心の中にある「戦争の火種」を静かに見つめ、それを消し止めることです。

すり減った靴底で、痛みを感じながら歩く人生の道。 私たちは不完全で、時に人を傷つけてしまう弱い存在ですが、それでも「人を癒す知恵」を選び取ることはできます。今日、あなたが出会う人に対して放つその一言を、剣ではなく、平和を創り出すための温かな包帯へと変えていきましょう。

今日も、共に前進です。