デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年9月21日月曜日

ご来光(??)

 


ご来光を待つ人々

早朝の富士山頂へ向かう長い列を想像してみます。

そこには学生もいるでしょう。 会社経営者もいるでしょう。 AIを開発する技術者も、 世界中を飛び回るビジネスマンも、 研究者も、 医師も、 教師もいるかもしれません。

彼らは高度な知識を持ち、 スマートフォンで世界中の情報にアクセスし、 人工知能を駆使しながら働いています。

しかしその人々が、 夜明け前の暗い登山道を歩き、 東の空が明るくなるのをじっと待っているのです。

なぜでしょう。

太陽は毎日昇ります。

天文学的には説明できます。 地球の自転による現象です。

それでも人は、 ただの自然現象として片付けられない何かを 朝日に感じています。


人間は「意味」を求める存在

21世紀は情報の時代です。

検索すれば答えが出ます。 AIに尋ねれば瞬時に説明してくれます。

けれども人間が本当に求めているのは 「答え」だけではありません。

「意味」です。

なぜ生きるのか。 なぜ今日を始めるのか。 なぜ苦労して山を登るのか。

それらはデータでは解決できません。

だから人は、 ご来光を見つめながら、 言葉にならない何かを受け取ろうとするのです。


太陽は支配しない

聖書の最初のページには、 太陽は神ではなく、 神によって造られた被造物として描かれています。

これは驚くべき視点です。

古代世界では太陽は崇拝の対象でした。

しかし聖書は、 太陽を礼拝せよとは言いません。

むしろ、 太陽の向こうにある創造主を見上げなさいと語ります。

だから私たちは朝日そのものではなく、 朝日が指し示す恵みを見ることができます。

毎朝変わらず光が与えられること。 新しい一日が始まること。 失敗した昨日の続きではなく、 もう一度生きる機会が与えられること。

そこに神の憐れみを見るのです。


AI時代にも消えない渇き

AIは便利です。

仕事を助け、 知識を整理し、 効率を高めてくれます。

しかしAIは朝日を見て涙を流しません。

感動しません。

祈りません。

人間だけが、 光に希望を重ね、 朝焼けに人生を重ねます。

それは人間が単なる情報処理装置ではなく、 霊的な存在だからではないでしょうか。

どれほど科学が進歩しても、 どれほど技術が発達しても、 人の心の奥には 「光を求める渇き」が残っています。

だから人々は富士山へ向かいます。

知識のためではなく、 感動のために。

効率のためではなく、 希望のために。


今日のご来光

富士山に登らなくても、 私たちにも毎朝ご来光があります。

カーテンの隙間から差し込む光。

犬との散歩道で見上げる空。

静かな祈りの時間。

湯気の立つ朝のコーヒー。

その光の中で、 神は今日も新しい一日を与えてくださっています。

21世紀を生きる私たちは、 最先端技術を使いながらも、 実は昔と同じように光を求めています。

それは弱さではありません。

むしろ人間らしさです。

富士山の登山道にできた長い列は、 単なる観光客の列ではないのかもしれません。

それは、「希望の光を見たい」という、 時代を超えて変わらない人間の魂の列なのです。

「民は暗闇の中を歩んでいたが、大いなる光を見た。」 (イザヤ9:2

 

ご来光(?)

 


今朝、富士山のご来光を目指す登山者の混雑についての記事を読みながら、ふと約20年前のことを思い出しました。

当時、静岡草深教会の会員の方に誘っていただき、仲間たちと富士山に登ったのです。

11時頃、ヘッドライトの灯りを頼りに山道を歩き始めました。周囲は漆黒の闇です。しかし、不思議なことに、山頂を目指す人々の列には高揚感がありました。「もうすぐ朝日が見られる」という期待が、一歩一歩を支えていたのです。

そして夜が明けました。

東の空が少しずつ赤く染まり、やがて太陽が姿を現した瞬間、山頂には歓声ともため息ともつかない声が広がりました。私もその光景に心を奪われました。(実は自分は高山病で苦しかったのですが・・・しかし下山の時には走って下りました。)

思い返せば、日本で最初に登った本格的な山は富士山だったように思います。少々無謀な山登りの始まりでしたが、その体験がきっかけとなって山が好きになりました。

その後、さまざまな山を歩くようになり、今では山道を走ることもあります。登山からトレイルランニングへと形は変わりましたが、山に向かう気持ちの根っこはあまり変わっていないように感じます。

なぜ人は山に登るのでしょうか。

頂上に立つためでしょうか。 景色を見るためでしょうか。 健康のためでしょうか。

もちろん、それらも理由の一つでしょう。

しかし富士山のご来光を目指す大勢の人々を見ていると、人は単に景色を求めているのではなく、「光」を求めているのではないかと思うのです。

21世紀を生きる私たちは、多くの知識を手にしました。スマートフォン一つで世界中の情報に触れ、AIによって仕事の仕方も大きく変わっています。

それでもなお、人々は夜の山道を登り、東の空から昇る太陽を待ち続けます。

人間の心の奥には、科学や技術だけでは満たされない何かがあるのでしょう。

私たちは知識だけで生きているのではありません。希望によって生きています。

だから今日も、富士山の山頂に向かう人々の列は絶えないのかもしれません。

毎朝昇る太陽は、「今日も新しい一日が与えられている」という静かなメッセージを私たちに届けてくれます。

富士山で見たあのご来光から20年余り。山道を走る今も、その光の中に希望を見出そうとしている自分がいることに気づかされます。

今日は一日雨

 


【雨音のサインと立ち止まる勇気】本能を静め、深く「聴く」者となるために

今日は、一日を通して雨模様の空が広がっています。 窓を打つ静かな雨音を聴きながら、私はこれを天からの「今日は休みなさい」というサインとして受け止め、大人しく、しっかりと休息をとることに決めました。土曜日はフルマラソン、昨日は27キロ完走、そして迎えた今日ですが、実のところ、私の身体の半分は今も「走りたい」と声を上げて叫んでいます。しかし、今日ばかりはその声に耳を貸しません。なぜなら、長い目で見て、これからも怪我なく走り続けるためには、何よりも「休むこと」が不可欠だからです。

 

「心と体のジレンマ」がもたらす怪我

長く走り続けていると、一つの真理に気づかされます。私たちが怪我をするのは、不注意によるものもありますが、その多くは「無理をしたから」だということです。ひとたび怪我を負えば、しばらくの間、走ることそのものが奪われてしまいます。だからこそ、日頃からの微細な調整が必要なのです。これは大人も、若者も、子どもも変わりません。

私たちの内側には、常に「心と体のジレンマ」が存在しています。 心は、いつだって「まだ大丈夫だ」「もっといける」と私たちを急き立てます。私たちはその強気な声に騙され、体を無理に引きずり回し、結果として体がついていけずに悲鳴を上げるのです。 だからこそ、本能的な衝動に流されるのではなく、いったん立ち止まり、本当の自分の状態に耳を傾ける習慣が何よりも大切になります。

 


聴くことの優先順位

しかし、私たちキリスト者には、自分の心の声よりもさらに深く、耳を澄ませるべき声があります。

  1. 第一に、神様の御声に耳を傾けること(聖書の言葉に耳を傾けることです。)
  2. そして、目の前にいる相手の声に耳を傾けること

自分の願望や「走りたい」という本能的な衝動よりも先に、天から降る雨のように静かな神様の御声に従うこと。それこそが、私たちの歩みを最も安全で豊かな道へと導く羅針盤です。

 


獣の本能と、人間の深淵なる思索

人間は「考える生き物」です。よく考えて行動すること、それこそが人間に与えられた最大の力です。 もし、私たちが何も考えず、沸き起こる感情や本能のままに行動してしまうなら、それは獣と同じです。獣も本能的に動き、時にわずかな判断を下すことはありますが、人間のように「自らを省み、深淵へと至るような思索」をすることはありません。

人生という長い道のりにおいては、多くの場合、立ち止まって「よく考える人」が確かな勝利(平安)を手にします。もちろん、時間との戦いの中で、咄嗟の行動を優先すべき事柄もあるでしょう。しかし、私たちの日常の多くは、熟考することを求めています。

  • 話す前に、考える。
  • 行動する前に、考える。

衝動のままに走り出したくなる足を止め、雨音の中で静かに思索にふける今日という日は、決して無駄な空白ではありません。それは、私たちが獣ではなく、深く愛され、考え、神の御声を聴く「人間」として生きるための、尊い恵みの時間なのです。

焦る必要はありません。 今日も、心に静寂を取り戻し、確かな一歩のための準備を整えましょう。

2026年9月20日日曜日

墓前礼拝

 


【こぼれ落ちなかった雨と、祈りの風景】彼岸の丘で永遠を想う

今にも泣き出しそうな灰色の雲を見上げながら、それでも最後まで雨の雫が落ちてくることはありませんでした。

本日は、教会にとって大切な「召天者記念礼拝」と、それに続く「墓前礼拝」が執り行われました。雨を覚悟して臨んだ一日でしたが、すべてが終わるその瞬間まで静かに守られ、無事に終えることができたことに、深い感謝の念が込み上げています。それはまるで、天の御手がそっと私たちの上を覆い、その悲しみや祈りの時間を優しく守り抜いてくれたかのようでした。

 


この時期だけの、祈りが交差する風景

霊園に足を運ぶと、そこには秋のお彼岸を迎え、墓参りに訪れる大勢の人々の姿がありました。

  • 花を抱えて歩く家族連れ
  • 墓石を静かに磨く年配の方
  • そっと手を合わせ、目を閉じる背中

それは、この時期にしか見ることのできない、特別で美しい風景でした。 彼岸とは、文字通り「あちら側の岸」を意味します。信仰の形は違えども、ここを訪れるすべての人々の心には、「目に見えなくなった大切な人と、もう一度心を通わせたい」という、人間としての根源的な願いと愛が溢れています。

 

境界線を越えて届くもの

冷たい石の下に、愛する人のすべてがあるわけではないと、私たちは心のどこかで知っています。それでも、私たちは丘へ登り、花を手向けます。目に見える行為を通して、目に見えない「永遠」に触れようとしているのです。

私たちキリスト者は、死の向こう側にある「天のふるさと」を確かな希望として見上げます。今日、私たちが墓前で捧げた祈りも、お彼岸の霊園に満ちていた数え切れない人々の静かな祈りも、愛する者を想うその心の温度は同じです。

天が雨を降らせるのをじっと堪えてくれたように、神様は、愛する者を想って見上げる私たちの切実な思いを、決して無下に扱うことはなさいません。見えない空の向こう側から、今日という日を懸命に生きる私たちを、温かい眼差しで見守ってくださっています。

今日、それぞれの場所で手を合わせたすべての人の心に、天からの静かな慰めが届いていますように。 守られた恵みへの感謝を胸に、明日からまた、与えられた命の道を歩み始めたいと思います。

 

朝ラン27キロ完走

 


【見えない空の向こう側へ】灰に還る命と、魂の向かう確かな場所

昨日のフルマラソンを走り終えた体に鞭を打つわけではなく、今朝もいつものように27キロの道のりを走りました。フルマラソンの翌朝にあえて走ることは、私にとって欠かせない習慣です。立ち止まって休息するよりも、静かに足を動かし続ける方が、かえって体の強張りが解け、不思議と重さが抜けて軽くなっていくのを感じるからです。 見上げた空は、重く垂れ込めた曇り空。今日と明日は、このまま曇りと雨が続く予報です。しかし、このどんよりとした空模様もまた、今日という一日にふさわしい静けさを連れてきてくれているように思えます。

 


「天に送る」という人間の祈り

本日は、教会で召天者記念礼拝が捧げられ、午後からは墓前での礼拝が予定されています。すべては、主の豊かな恵みと導きの中で、厳かに執り行われることでしょう。

走りながら、私の心は「見送る」という行為の重さについて深く沈潜していました。 自分を育ててくれた親を天に送る。 苦楽を共にしてきた連れあいを天に送る。 愛する我が子を天に送る。 共に育った兄弟姉妹を天に送る。

私たちは皆、別れの悲しみの中で「天に送る」という言葉を使います。しかし、冷厳な事実を見つめれば、肉体は例外なく最後は灰となり、地にまかれて自然へと還っていくだけです。それなのに、私たちは愛する人を「どこへ」送ろうとしているのでしょうか。

  • 獣と人間の決定的な違い それは、人間が「自分たちはただの肉体の塊ではなく、魂を持つ存在である」と心の奥底で知っているからです。だからこそ、灰になった後も向かうべき「天」があると信じ、そこへ愛する人を送ろうと祈るのです。

 

疑い深い私たちが抱く、曖昧な希望

しかし、多くの人が思い描くその「天」とは、一体どのような場所なのでしょうか。

実は、誰もその問いに確信をもって答えることはできません。天の世界をこの目で見たこともなければ、科学的に証明することもできないからです。 本来、人間という生き物はとても疑い深くできています。自分の目で見て、自分の手で触って確認しない限り、おいそれとは信じようとしない頑なな存在です。それほどまでに現実的で疑い深い私たちが、死を前にした時だけは、なぜか証明もできない「天」の存在を信じ、すがりつこうとします。そこには、人間の抱える深い矛盾と、魂の切実な乾きがあります。

 

確かな約束の言葉を握りしめて

曖昧で、輪郭のない「天」という概念。 しかし、聖書はこの「死の向こう側にある世界」について、決して曖昧にはせず、極めて明確に語りかけています。

キリスト者とは、特別な神秘体験をした人や、疑いを持たない完璧な人のことではありません。自分の目では見えず、手で触れることができなくても、聖書に記された「神の確かな約束の言葉」をそのまま信じ、その言葉に人生の碇(いかり)を下ろして歩む人のことです。

  • 見えないからこそ、信じる 曇り空の向こうに太陽が存在することを私たちが疑わないように。 聖書の言葉は、悲しみの霧を抜け、愛する魂が還っていく「確かな場所」を私たちに指し示してくれます。

マラソンの翌日、痛みを抱えながらも走り続けることで体が軽くなるように。 私たちも、悲しみや喪失という痛みを抱えたまま、神の言葉を信じて今日という日を歩み続ける時、いつしか魂の重荷が少しずつ軽くなっていくのを感じるはずです。

今日も、与えられた命の道のりを進みます。 見えない空の向こうにある、確かな約束を見上げながら。これから礼拝のための最終確認をします。

2026年9月19日土曜日

フルマラソン自己ベスト更新

 


【恵みの雨と42キロの祈り】与えられた「命の秒」を刻み抜く

午前5時。 ひんやりとした空気を肺いっぱいに吸い込み、静かな街へと足を踏み出しました。風の温度も、空の高さも、今はまさに「走るための季節」です。

一定のリズムでアスファルトを踏みしめながら走っているうちに、ふと私の内に一つの思いが込み上げてきました。 「明日は、先に天のふるさとへ帰られた方々を覚える、召天者記念礼拝だ。今日のこの走りを、明日の召天者記念礼拝に集う群れと召天者を偲ぶフルマラソンにしよう」と。

 


孤独な道のりと、秒を削る戦い

ペースを丁寧に調節しながら、鈎取イオンを抜け、尚絅学院中高の方面へと向かいます。 長い道のりの中で、私の心には一人の姿がありました。今日、午前11時から夜の10時までという長時間のアルバイトに向かう娘のことです。懸命に自分の務めを果たそうと頑張る娘の姿を心に留め、その無事と守りを祈りながら、私はひたすらに足を前に進めました。また新たな病棟で実習が始まることも覚えて祈る大事なひと時でした。

そして迎えた、最後の5キロ地点。 疲労がピークに達する中で、私は「ここでもう少し頑張れば、自己ベストが更新できる」と直感しました。そこから残りの力を振り絞り、スピードを上げて最後まで走り抜きました。

  • 距離: 42.22 km
  • ペース: 1キロ 520
  • タイム: 3時間45

見事、自己ベストの更新です。これで9月に入って2度目のフルマラソン完走となりました。 マラソンに限らず、陸上の世界は「秒の戦い」です。たった1秒を削り出すために、途方もない鍛錬と忍耐が求められます。しかしそれは、私たちがこの地上で生きる「命の時間の使い方」にとてもよく似ている気がするのです。

 


「ただの雨」を「恵みの雨」に変えるもの

私たちが今、この地上で刻んでいる「11秒」は、永遠の命へと繋がる尊い時間です。 11時間という長いシフトを懸命に働く娘も、1秒を削り出すために42キロを走り抜く私も、そして、かつてこの地上で精一杯に命の時間を生き抜き、今は天にいる懐かしいあの人たちも。皆、神様から与えられた「命の秒」をそれぞれの場所で刻み続けているのです。

 


明日の召天者記念礼拝、墓前での祈りの時間は「雨」の予報が出ています。 冷たい雨の日の墓前礼拝は、少し気が重くなるかもしれません。しかし、考え方を変えれば、それは「ただの雨」です。悲しみの雨にするか、それとも天からの「恵みの雨」として受け取るか。それは、今を生きる私たちの心のあり方にかかっています。 乾いた大地を潤し、新しい命を芽吹かせるための優しい雨なのだと思えば、その雫さえもが愛おしく感じられるはずです。

 


安息という名の準備

今日も無事に走り終え、与えられた命の営みに心から感謝しています。 精一杯に今日を生き抜いたからこそ、明日の主の日の礼拝、そして天の聖徒たちとの交わりを、深い平安の中で迎えることができます。


 

42キロを走り終えた今日は、さすがにゆっくりと身体を休めたいと思います。 「安息」とは、何もしないことではなく、次なる恵みを受け取るために器を空にする尊い準備の時間です。平和な一日を祈りながら。 今日という日を懸命に生きるあなたの上にも、明日、豊かな恵みの雨が降り注ぎますように。

2026年9月18日金曜日

箴言26章の知恵

 


私たちは人生の中で、愚かな人に振り回されたり、怠け心と戦ったり、誰かの陰口や噂話に傷ついたりすることがあります。しかし箴言26章を読むと、それらの問題は決して現代特有のものではなく、人類が昔から抱えてきた普遍的な課題であることに気づかされます。この章は、「愚か者」「怠け者」「偽善者」という三つの人物像を通して、人間の弱さと向き合う知恵を教えています。そして興味深いことに、箴言は単に「そういう人に気をつけなさい」と言うだけではありません。むしろ、その姿の中に自分自身の影を見るよう私たちを招いているのです。

 

愚か者とどう向き合うか

箴言26章は、愚か者を尊ぶことを「夏の雪」や「収穫期の雨」にたとえています。本来あるべき時ではないものが混乱をもたらすように、愚かさを評価する社会は健全さを失ってしまいます。また、この章には有名な二つの言葉があります。

「愚か者の愚かさに従って答えるな」

「愚か者には、その愚かさに応じて答えよ」

一見すると矛盾するように見えます。しかしここには深い人生の知恵があります。

すべての議論に参加する必要はありません。時には沈黙が最善の答えになります。しかし一方で、放置することで誤りが広がるなら、勇気をもって真実を語るべき時もあります。

大切なのは、「答えるか、答えないか」ではなく、「いつ、どのように答えるか」を見極める知恵なのです。インターネットやSNSが発達した現代は、まさにこの知恵が試される時代と言えるでしょう。

 

怠け者の問題は「行動しないこと」だけではない

箴言26章に登場する怠け者の描写は、どこかユーモラスです。

戸がちょうつがいの上で動いても前進しないように、怠け者は寝返りばかり打って起き上がろうとしません。さらには、食べ物を口に運ぶことすら面倒がる姿が描かれます。

しかし聖書が問題にしているのは、単なる怠けではありません。

怠け者は「外にライオンがいる」と言って行動しない理由を探します。そして、自分では七人の賢者よりも賢いと思っています。つまり怠惰の根本には、「できない」のではなく「言い訳」と「思い込み」があるのです。私たちもまた、「もう少し落ち着いてから始めよう」 「準備が整ってから挑戦しよう」 「今はタイミングが悪い」と言いながら、本当に大切な一歩を先延ばしにしてしまうことがあります。

成長を妨げる最大の敵は能力不足ではなく、行動を先送りする心なのかもしれません。

神は完璧な人を求めておられるのではなく、一歩を踏み出す人を用いられるのです。

 

噂話は火に油を注ぐ

箴言26章は、人間関係についても鋭い警告を発しています。

他人の争いに不用意に介入することは、「通り過ぎる犬の耳をつかむようなもの」だと言います。賢明さを欠いた介入は、問題を解決するどころか自らトラブルを招くことになるからです。また、この章は陰口や噂話の危険性についても語ります。火に薪がくべられなければ消えるように、噂話もそれを運ぶ人がいなければ広がりません。現代ではSNSやメッセージアプリによって、言葉はかつてない速度で拡散します。一度発した言葉は、多くの場合取り戻すことができません。だからこそ私たちは、「これは本当に事実なのか」 「これを伝える必要があるのか」 「この言葉は相手を生かすのか」と自分自身に問いかける必要があります。人を傷つける言葉は簡単に広がりますが、人を建て上げる言葉は意識して選ばなければ生まれないからです。

 

最も危険なのは「自分だけは大丈夫」という心

箴言26章の締めくくりは、非常に印象的です。

自分を知恵ある者と思う人を見たか。 その人よりも愚か者の方に、まだ望みがある。

これは厳しい言葉です。愚かな人に希望がないのではありません。むしろ、自分の愚かさに気づかない人こそ問題だというのです。

本当に知恵ある人は、自分の限界を知っています。

本当に成熟した人は、自分にも間違いがあることを認めます。

本当に謙遜な人は、学び続ける姿勢を失いません。

しかし、自分は十分に分かっている、自分は間違えないと思い始めた瞬間、人は成長を止めてしまいます。

 

今日の私たちへの問いかけ

箴言26章を読むと、「愚か者」「怠け者」「噂好きな人」といった存在が問題にされているように見えます。しかし、よく読むと聖書は私たちにこう問いかけています。

「その姿は、あなたの中にはないだろうか。」

他人の愚かさはよく見えます。しかし自分の愚かさは見えにくいものです。

だからこそ、真の知恵は知識の量ではなく、自分自身を正しく知ることから始まります。

愚かさを笑うのではなく、自らを省みること。
怠惰を正当化するのではなく、小さな一歩を踏み出すこと。
人を裁く言葉ではなく、人を生かす言葉を選ぶこと。

箴言26章は、そんな知恵への招きを私たちに静かに語りかけています。

そしてその招きに応える人は、日々の歩みの中で少しずつ真の知恵へと成長していくのです。

前進

 


今朝は大年寺で階段トレーニングを行いました。

ひんやりとした空気の中に、深まりつつある秋の気配を感じながら一段一段を駆け上がります。途中で息が切れ、足も重くなります。それでも前へ進み続けます。

そして階段を上り切ったとき、目の前に現れるのが巨大な「前進」の文字です。



「前進」

人生は前に進まなければなりません。私たちは時間の流れの中で生きています。誰も時間を止めることはできませんし、過去に戻ることもできません。だからこそ与えられた今日という一日を受け止め、その時の中で最善を尽くしながら生きるのです。しかし、ここで一つの問いが生まれます。



最高の人生とは何でしょうか。

人によって答えは違うでしょう。

初めて絶品の料理を食べたとき、「人生最高!」と思う人がいます。

旅先で目を奪われるような景色に出会い、「こんな素晴らしい人生はない」と感じる人もいます。けれども、その感動は永遠には続きません。時間が経つと記憶は薄れ、やがて慣れてしまいます。同じ体験を繰り返せば、最初の感動はどうしても小さくなっていきます。それがこの世の与える「最高」です。もちろん、それらは素晴らしいものです。しかし一瞬の喜びで終わってしまうことが少なくありません。けれども聖書は、もっと深く、もっと確かな「最高の人生」があると教えています。それはイエス・キリストと出会い、共に生きる人生です。そしてその人生には、この世のどんな贈り物とも比較できない最高のプレゼントがあります。それが永遠の命です。おとぎ話のように聞こえる人もいるでしょう。

それでも聖書は、それを事実として語ります。そしてその約束を信じて歩む人々がキリスト者なのです。だから私は思います。本当に目指すべきものは、「人生最高!」という瞬間を追い求めることではないのではないか、と。そうではなく、与えられた日常を最高のものへと造り上げていくことなのです。



今朝、娘を駅まで送りました。

その後、教会の階段を掃除し、洗い物を片付け、来週の礼拝の準備をし、今晩の献立を考えます。どれも特別な出来事ではありません。

誰かに褒められることもないかもしれません。

しかし、こうした営みこそが人生を形づくる大切な素材です。

信仰も、愛も、感謝も、特別な瞬間だけで育つわけではありません。

むしろ、こうした地味で目立たない日常の中で少しずつ育まれていくのです。

だから忘れがちなこれらのことを、もっと大切にして生きたいと思います。

大年寺の階段の上に掲げられた「前進」の文字を思い出しながら。

今日もまた与えられた一日を感謝して歩みたいと思います。

最高の人生とは、遠くにある理想ではありません。

神と共に歩みながら、今日という日を丁寧に生きること。

その積み重ねの中にこそ、本当の意味での「最高の人生」があるのです。

今日も共に前進です。

あなたの命はいくらですか?

 


【命の値段と、十字架の価値】私たちが「計算できない」ほど尊い理由

私たちの命には、いくらの「値段」がつけられるのでしょうか。 9.11同時多発テロ事件の直後、アメリカで実際に起きた知られざるドラマを描いた映画『ワース 命の値段』(原題:Worth)は、私たちに非常に重く、そして根源的な問いを突きつけます。

 

『ワース 命の値段』が突きつける現実の計算式

映画のあらすじは、テロの被害者と遺族に補償金を分配する「被害者補償基金」の特別管理人を任された弁護士、ケネス・ファインバーグの苦悩の軌跡です。 当初、彼は冷静な法律家として、独自の「計算式」を作り上げました。犠牲者の年齢、これまでの収入、将来の予測生涯賃金を算出し、補償額を弾き出したのです。

しかし、その冷徹な計算式は遺族たちの激しい怒りと悲しみを買うことになります。 大企業のCEOの命は数億円と見積もられ、清掃員や皿洗いの命は数百万円と見積もられる。「私の夫の命の価値は、あの人より低いというのか?」「命の値段を、給料で決めるのか」。 遺族たちの涙と一人ひとりの「生きた物語」に直面したとき、弁護士はついに、命を数字で割り切るシステムに限界を感じ、一人ひとりの人生に耳を傾ける道へと変わっていきます。

 

値札で価値を決める「この世の法則」

映画が描いた「命の計算式」は、決して特別なものではありません。実は、私たちが生きているこの世界そのものが、すべてのものに「値札(値段)」を貼ることで成り立っているからです。

  • 才能の価値: 人気俳優やプロスポーツ選手の価値は、その「出演料」や「年俸」によってランク付けされます。
  • モノの価値: 高級レストランで出される美しい料理も、ダイヤモンドなどの輝く宝石も、市場が定めた「価格」が高いほど価値があると見なされます。

この世のルールは非常にシンプルです。「価値=金額(あるいは生み出す利益)」なのです。 しかし、私たちは無意識のうちに、この「世の中の計算式」を人間の命や、自分自身の存在にまで当てはめてしまっていないでしょうか。 「自分は生産性が低いから価値がない」「あの人より稼いでいないから劣っている」「年老いて何も生み出せなくなったから、もうお荷物だ」と。

 

神様が定めた「あなたの本当の価値」

もし人間の価値が、この世のルールのように「能力」や「財産」で決まるのであれば、私たちは常に誰かと比較し、怯えながら生きなければなりません。しかし、私たちを造られた主なる神様は、全く別の基準を持っておられます。

聖書は、私たちの本当の価値について、このように語りかけます。

「わたしの目には、あなたは価高く、尊い。わたしはあなたを愛している。」 (イザヤ書 434節)

「あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖われたのは、銀や金のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。」 (ペトロの手紙一 118-19節)

神様の目には、あなたに「値札」はついていません。 あなたの価値は、あなたがいくら稼いだか、どれほど立派な仕事をしたか、社会にどれだけ貢献したか(銀や金のようなもの)では決まりません。神様があなたにつけた価値。それは「御子イエス・キリストの命そのもの」です。 「あなたは、私のひとり子を十字架にかけてでも、取り戻したいほどに尊い存在なのだ」。 それが、天地を造られた神様が、あなたという存在に対して下した「価値」のすべてなのです。

 


今、ここにある恩寵

この世はこれからも、私たちを数字で測ろうとするでしょう。 しかし、私たちは今日、その冷たい計算式から降りることができます。あなたが今、病の床にあって何もできないと感じていたとしても、仕事で大きな失敗をして自信を失っていたとしても、あなたの「本来の価値」は1ミリも傷ついていません。

十字架の愛によって、すでに最高の価値が宣言されている。その揺るがない事実にゆっくりと心を休め、今日という一日を、胸を張って歩んでいきましょう。あなたは神様の目から見て、測り知れないほど「価高く、尊い」のですから。

ノアの手術費100万円?(9月27日週報のコラム)

 


映画『ニューヨーク 眺めのいい部屋売ります(原題:Ruth & Alex)』の中に、深く心に残る場面があります。長年連れ添った老夫婦が、10年間共に過ごした愛犬の急病に直面するシーンです。命を救うための手術費用は1万ドル(約150万円)。「もう十分生きたのだから、自然の法則に委ねるべきだ」という思いと、「なんとしても手術を受けさせて助けたい」という思いの間で、二人の意見はぶつかり合います。しかし、かつて愛犬を初めて家に迎えた日の喜び、これまで共にしてきた温かい時間を思い出し、彼らは最終的に手術を受けさせる決断を下すのです。

 


この場面を観ながら、私は自分自身のことに置き換えて考えずにはいられませんでした。「もしも、私たちの愛犬ノアに同じ状況が起きたら、自分はどうするだろうか?」と。100万円という莫大な手術費。すぐには決断が出せないまま、しばらくの間、真剣に考え込みました。しかし、数日間自問自答の末に出た結論は「受けさせるべきだ」という確信でした。ノアは13歳になる老犬です。これから先、どれくらいの時間が残されているかは誰にもわかりません。それでも確かなことは、ノアは今、私たち家族にかけがえのない喜びと笑顔を与えてくれているという事実です。残された時間の長さや、いわゆる「費用対効果」などは問題ではありません。「今、ここで一緒に生きている事実」。私にとって大切なのは、ただそれだけだったのです。

 


この私の心に与えられた気づきは、そのまま、ご高齢の方が多く集う現代の教会が学ぶべき大切な真理につながっていると感じています。現代の社会は、常に「生産性」や「効率」、「将来どれだけの働きができるか」という基準で、人の価値を量ろうとする冷たさを

持っています。その世の基準に照らせば、年を重ねて弱さを覚えることはマイナスと捉えられがちです。しかし、キリストの体なる教会は違います。ご高齢の兄弟姉妹がそのお姿を通して私たちに教えてくださるのは、「何か有益な働きができるから価値がある(Doing)」のではなく、「ただそこにいるだけで尊い(Being)」という神様の愛の基本です。長年、祈りをもってこの教会を支えてこられた方々が、今日この日、同じ礼拝堂に座り、微笑みかけてくださる。ただそれだけで、私たちにどれほどの安らぎと喜びを与えてくれていることでしょうか。残された時間の長さや、物理的な活動量ではなく、「今、ここで一緒に主を礼拝し、生きている事実」こそが、教会にとって計り知れない宝なのです。



「今ここで一緒に生きている」。これ以上の恵みはありません。私たち仙台長町教会も、世の冷たい基準から離れ、ただ「共に存在することの喜び」を分かち合える神の家族でありたいと切に願います。今日も、互いの存在を心から喜び合い、主の愛の中で共に歩んでまいりましょう。

 


すぐに答えを出せなかったことで、ノアには申し訳ない思いが残りました。しばらく罪責感にとらわれる時もありましたが、最終的には悔いのない決断が与えられたことを感謝しています。