期待を手放す朝の余白 ―― 汗と尻尾が教えてくれた「平和を創り出す」生き方
午前6時前、二階の階段での小さな出会い
今朝、ランニングを終えて家に着いたのは、時計の針が6時を少し回る前のことでした。
走り抜いた身体は汗びっしょりで、重たい衣服を早く脱ぎ捨てて、冷たいシャワーを浴びたいという思いが全身を駆け巡っていました。
しかし、二階の階段を上がると、そこには真っ先に私を出迎えるノアの姿がありました。 ちぎれんばかりに尻尾を振りながら、彼の表情は雄弁にこう語っていました。
「誰も出てこないよ!朝ごはんの時間なのに、あの、おばさんはまったくだ!」
その愛らしくも切実な訴えに、私は思わず微笑んでしまいました。 汗だくの身体のまま、まずはノアの前にしゃがみ込み、食前の祈りを捧げてから朝ごはんを与えました。私の中では「自分がそうする」ともうすでに決めていたことなので、そこに心の葛藤や苛立ちは微塵もありません。ただ、温かな朝の日常がそこにあるだけでした。
「期待」という名の重荷を下ろす
この朝のささいな出来事は、私たちが生きていく上で陥りやすい「心の罠」について、大切なことを教えてくれます。私たちは、家族の中で、あるいは社会の中で、時に深く疲れて帰宅することがあります。そんな時、無意識のうちに「これくらいはやっておいてほしい」「家にいるのだから、気を利かせてくれるだろう」と、他者に対して密かな期待を抱いてしまうものです。
しかし、現実は往々にして予想通りにはいきません。
- 期待が裏切られたと感じた時、人は不機嫌になります。
- いやな気分を抱えながら家事をすることで、ため息や足音に怒りが滲みます。
- それが引き金となり、家族の間に不和やトラブルの火種が生まれます。
中には、その不満が膨らみ続け、相手の家系にまでさかのぼって悪く考えてしまうほど、心を縛られてしまうケースすらあります。期待とは、時に私たちの心を蝕む毒にもなり得るのです。
平和は与えられるものではなく、創り出すもの
だからこそ、私はこう心に決めています。 「はじめから、まったく期待しない」と。
やっていなかったら、自分がやる。 やっていてくれたのなら、心からありがたく思う。 ただそれだけです。物事を複雑にこじらせる必要はどこにもありません。
聖書には「平和を実現する人々は、幸いである」という言葉があります。 家族の平和、そして自分自身の心の平和を保つことは何よりも大切です。しかしその「平和」は、相手が自分の思い通りに動いてくれることで与えられるものではありません。自ら期待を手放し、自ら愛をもって行動することによって、「自分で創り出すもの」なのです。
奇跡の今日を、精一杯に生きる
今日も無事に、一日が終わろうとしています。 こうして命が与えられ、家族がいて、一日を終えられること自体が、途方もない奇跡であり、ただただ感謝しかありません。
明日もまた、私は頑張って走ります。 命がある限り、その命を燃やして精一杯に生きていく。どうせ生きるのならば、不満を抱えて生きるのではなく、自らの手で平和と喜びを創り出し、楽しく生きる努力をしたいのです。
誰かの行動に自分の幸不幸を任せるのではなく、自分の足で立ち、自分の手で愛を選ぶ。それが「真に生きる」ということなのだと、確信しています。
今日も、共に前進です。
