デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年8月6日木曜日

「今」を生きる

 


午前1時の階段と、約束されていない明日:この「今」を精一杯に愛し抜く

午前1時。深い静寂に包まれた家の中に、トントンという微かな足音が響きました。 愛犬ノアが、自分の脚でしっかりと階段を下りてきたのです。

その姿は、昨日見た姿と全く同じでした。昨日と同じように元気な姿を、今日も同じこの目で見ることができる。それは当たり前の日常の風景のようでいて、実は震えるほどの「奇跡」なのだと、その歩みを見つめながら深く実感しました。ただただ、ありがたいことです。



「同じ明日」という錯覚

私たちは無意識のうちに、「昨日と同じ今日」があったのだから、「今日と同じ明日」も当然のようにやって来るものだと信じて生きています。

しかし、命あるものの歩みにおいて、それは決して確約されたものではありません。 明日もまた、今日と同じ姿で、元気に自分の脚でこの階段を降りてきてくれるとは限らないのです。突然足がすくむ日もあれば、立ち上がれない日も来るかもしれない。それは私にも、誰にも分からない、人間にはどうすることもできない領域のことです。

「いつまでも続くわけではない」という絶対的な事実。それは時に私たちを不安にさせますが、同時に、目の前にある命の尊さを鮮烈に照らし出してもくれます。



明日をゆだね、「今」を引き受ける

明日どうなるか分からないからこそ、私たちは心をどこに向けるべきなのでしょうか。 聖書は、私たちに極めて明確な生き方の指針を示しています。

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイによる福音書 6:34)

どうなるか分からない明日のことは、明日に、そして神の御手に完全にゆだねてしまうこと。そして、今目の前にある「今日の姿」を、全身全霊で受け止め、深い感謝とともに生きることです。



精一杯に、ただ精一杯に

決して、与えられたこの「今」という尊い時間を無駄にしてはいけません。 いつか振り返ったときに「もっとこうしていれば」と後悔することがないように、この瞬間をおろそかにせず、ただひたすらに、精一杯に生きるのです。

  • 精一杯に、今を生きる。

  • 精一杯に、目の前の命を愛し抜く。

  • 精一杯に、家族や隣人を支え、助け合いながら生きる。

約束されていない明日を恐れて立ち止まるのではなく、確かな体温と手触りを持つこの「今日」という日を、ありったけの愛と感謝で満たしていくこと。それが、命を与えられた私たちの務めです。

今日も、共に前進です。

2026年8月5日水曜日

恐れなしの人生を

 


棘だらけの心と、最も深い場所にある「恐れ」:絶対的な安心という避難所

まだ街が目を覚ます前の、静寂に包まれた早朝。 夏の気配が色濃く漂う生ぬるい風を肌に感じながら、いつものように一歩、また一歩と足を進めます。この誰もいない静かな時間、規則正しい自分の足音と呼吸だけを聞いていると、日中には見えない「人間の心の内側」が透けて見えてくることがあります。

スマートフォンを開けば、あるいは街の雑踏に足を踏み入れれば、そこには常に人々の様々な感情が渦巻いています。 現代を生きる私たちは、なぜこれほどまでに心がささくれ立ち、感情の波に飲み込まれそうになるのでしょうか。

 

怒り、妬み、苛立ちの正体

人はなぜ怒るのか。なぜ妬むのか。なぜ、ふとしたことで苛立ってしまうのか。 これらの感情は、一見すると「他者への攻撃」のように見えます。しかし、心の奥底へステップ・バイ・ステップで深く降りていくと、全く別の風景が広がっています。

  • 怒りとは、「防具」です。 傷つけられたくない、自分の尊厳を守りたいという防衛本能が、怒りという棘になって表れます。
  • 妬みとは、「欠乏感の鏡」です。 誰かの光を見たとき、自分の中にある「足りない」という空虚さが照らし出され、心が焦燥感に焼かれるのです。
  • 苛立ちとは、「心の息切れ」です。 自分のコントロールが及ばない現実に対して、余裕を失い、魂が悲鳴を上げている状態です。

現代社会は、常に誰かと比較され、成果を求められ、急かされる世界です。この息苦しい社会の中で、人々は必死に自分を守ろうとして、結果として怒りや妬み、苛立ちという重い鎧を着込んでしまっているのです。

 

人が最も恐れているもの

では、その重い鎧の下で、人が抱えている「一番の恐れ」とは何でしょうか。 病気でしょうか。経済的な困窮でしょうか。それらも確かに恐ろしいものです。しかし、人間の魂の最も深い次元にある根源的な恐れ、それは「自分の存在価値がなくなること」「誰からも愛されず、忘れ去られること」への恐怖ではないでしょうか。

私たちは、「自分には価値がないのではないか」「一人ぼっちになってしまうのではないか」という絶対的な孤独と無価値感を、本能的に最も恐れています。 だからこそ、虚勢を張り、他者を下げて自分を上げようとし、思い通りにならない現実に苛立つのです。すべてのネガティブな感情の根っこには、この「愛されていないかもしれないという恐れ」が静かに横たわっています。

 

恐れを締め出す、絶対的な光

この根源的な恐れから解放される道は、自分を強く見せることでも、他者に勝つことでもありません。 聖書は、この人間の深い葛藤に対して、極めてシンプルで力強い真理を提示しています。

「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。」(ヨハネの第一の手紙 4:18

私たちが恐れから解放される唯一の道は、「自分はすでに、条件なしに、完全に愛され、受け入れられている存在なのだ」と深く知ることです。 神の絶対的な愛という安全な避難所に身を委ねたとき、「自分の身は自分で守らなければ」という強迫観念から解放されます。

自分がすでに満たされていると知れば、他者の幸せを妬む必要はなくなります。 自分が神の目に高価で尊いと知れば、誰かの言葉に過剰に怒り、自分を防衛する必要もなくなります。 コントロールできない明日を神に委ねたとき、苛立ちは静かな平安へと変わっていくのです。

 

鎧を脱ぎ、今日を歩む

私たちは弱い存在です。時にはまた、怒りや妬みや苛立ちの感情に足元をすくわれる日もあるでしょう。 しかし、その感情が湧き上がった時こそ、「ああ、私は今、何かに恐れているのだな」と自分の弱さを認め、再びあの「絶対的な愛」という帰るべき場所へ心を向ければよいのです。自分の心の棘に気づき、痛みを覚えながらも、その奥にある恐れを光のもとにさらけ出す。その誠実なプロセスを通してのみ、私たちは少しずつ、本当に人に寄り添える優しさを手に入れていくことができます。あなたの存在そのものが、すでに大きな愛に包まれています。 その安心感を胸の奥に灯しながら。今日も、共に前進です。

今日は散歩の日

 


偏る記憶と見落とされた平地:苦しみを成長の階段に変える

日付が変わった深夜、愛犬ノアとの静かな散歩を終え、ゴミ出しを済ませました。 夜の静寂の中で呼吸を整え、こうして私自身の「水曜日の歩み」が静かに幕を開けました。



それから数時間後、午前5時を過ぎた頃に再び外へ出ました。向かったのは、いつもの大年寺山公園です。朝のひんやりとした空気の中、公園へと続く長い階段を半分は走って、半分は一歩ずつ、自らの体重と重力と向き合いながら上り、歩き続けました。

 


階段の重みと、錯覚する時間

息を切らしながら階段を上りきったとき、私の身体には「今日は本当にたくさんの階段を上り続けた」という疲労感と達成感が色濃く残っていました。

しかし、冷静に歩みの道のりを振り返ってみると、ある事実に気がつきます。 実際に階段を上っていた時間よりも、息を乱すことなく「平地」を歩いていた時間の方が、はるかに長かったのです。



それにもかかわらず、私は苦しんで上った階段の記憶ばかりに心を奪われ、平地を苦労なく歩いた長い時間よりも、あの短い苦しみの時間の方を「長かった」と錯覚していました。 人はなぜ、痛みのない穏やかな道のりを忘れ、息の上がるような苦しい道のりばかりを強烈に記憶してしまうのでしょうか。

 


忘れ去られる「平和な日々」

この大年寺山公園での錯覚は、そのまま私たちの「人生の歩み」に重なります。

私たちは、自分の人生を振り返る時、病気になった時、人間関係で傷ついた時、あるいは経済的な不安に押しつぶされそうになった日々のことを、まるでそれが人生の大部分を占めているかのように語りがちです。

  • 痛みがないからこそ、忘れてしまう平坦な道。
  • 苦しいからこそ、永遠のように感じる階段。

本当は、苦しんだ日々よりも、何事もなくご飯を食べ、誰かと笑い合い、穏やかに眠りにつけた「平和な日々」の方がはるかに多かったはずなのです。それにもかかわらず、私たちはその大いなる恵みの日々を忘れ、短くも濃密な苦しみの期間だけを記憶に刻み込んで生きています。

 


苦しみを「どう受け止めるか」という選択

人生における苦しみや痛みは、決して軽いものではありません。その渦中にいる時、時間は鉛のように重く、足取りは止まりそうになります。

しかし、聖書はこの苦しみの時間について、力強い真理を語っています。

「そればかりではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマの信徒への手紙 5:3-4



階段を上る時のあの苦しい負荷がなければ、私たちの足腰の筋肉が鍛えられないように。人生の苦しみもまた、ただ私たちを痛めつけるためのものではなく、私たちの魂を鍛え、より高い場所へと引き上げる「成長のための時間」なのです。

今、あなたが直面している苦しみを、ただの「不幸」として片付けてしまうのか。それとも、新しい景色を見るための「成長の階段」として受け止めるのか。 目の前にある苦しみを「どう受け止めるか」によって、その後の人生の景色は全く違うものになります。

歩きやすい平地の恵みに深く感謝しつつ、目の前に現れる階段からも逃げずに足を乗せていく。 そんなしなやかな心を持って、今日という一日を歩んでいきたいと思います。



今日も、共に前進です。

2026年8月4日火曜日

時を見極める知恵を

 


崩れ去る「自分の力」と、不意に訪れるその日:弱さを引き受けるという恵み

静かな時間の中で一人、自分の呼吸や脈打つ鼓動に耳を澄ませていると、ふと人間の命の輪郭というものを生々しく感じることがあります。今、当たり前のように動いているこの身体も、決して永遠に続くものではないという、静かで冷たい事実です。

現代の社会では、まるで一つの真理であるかのように、ある言葉が繰り返し語られます。

「自分の身は自分で守る」

自立し、自分の足で立ち、自己責任で生きていくこと。それは一見すると、強く、正しく、そして当然の言葉のように響きます。しかし、深い思索の淵に立ってこの言葉を見つめ直したとき、私たちはある厳粛な事実に直面せざるを得ません。

「当たり前」が音を立てて崩れる時

「自分の身は自分で守る」——この当然であるはずの言葉は、永遠の真理ではありません。それは単に、「今の自分に、それを守るだけの力が残っている限りにおいて」成立している、極めて限定的な条件付きの言葉に過ぎないのです。

人間はだれもが、例外なく、いずれ自分の力だけでは生きられない時を迎えます。 これは悲観的な予測ではなく、命あるものが等しく辿る確かな道筋です。しかし、人間の心とは不思議なもので、多くの人はその事実を頭ではっきりと理解していても、心の底で認めようとはしません。

  • 「それはまだ、ずっと先のことだ」
  • 「自分だけは、まだ大丈夫だ」

そうやって、老いや衰え、弱さという現実を遠い未来の彼方へと押しやり、見えないベールで覆い隠そうとします。自分の力でコントロールできるという錯覚の膜を張り巡らせて、日々を生きているのです。

それである日、突然、その時がやってきます。 病、怪我、あるいは抗いようのない老いの波。予鈴もなく訪れる「その時」の前で、私たちは自らが信じて疑わなかった「自分の力」が、いかに脆く、儚いものであったかを思い知らされるのです。

弱さを通して流れ込む光

自分の力だけで生きられなくなること。それは、世間の価値観からすれば「喪失」や「敗北」のように映るかもしれません。しかし、神のまなざしから見れば、それは全く別の意味を持ちます。

聖書に、このような深い慰めの言葉があります。

「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」(コリントの信徒への手紙二 12:9

私たちが「自分の力で生きられる」と強く思い上がっている時、私たちの心は硬く閉ざされ、他者の助けや神の恵みが入り込む隙間がありません。しかし、自分の力の限界を知り、「もう自分だけでは立てない」と膝を折ったその時、初めて魂の窓が大きく開かれます。自分の身を自分で守るという重い鎧を脱ぎ捨てた時、私たちは初めて、誰かの温かい手に身を委ねるという「無防備な恵み」を知るのです。人が本当に深く愛し合い、支え合い、神の哀れみに触れることができるのは、強さを見せびらかしている時ではなく、お互いの弱さを認め合った時です。

不確かな今日を、誠実に生きる

「いつか必ず、自分の力では生きられない日が来る」。 その事実から目を背けるのではなく、真っ直ぐに見据えて受け入れること。それは、今日という日を虚無的に生きることではありません。むしろ、今この手に残されている「力」のすべてが、神から与えられた期限付きの尊い預かり物であると気づき、深い感謝へと導かれるためのプロセスです。

ある日突然やってくる「その時」を恐れるのではなく、いつその時が来てもいいように、今はただ、目の前にある命の道を誠実に歩んでいきましょう。 自分の力が及ばなくなったその場所には、必ず、あなたを支える見えない御手が用意されていると信じて。

今日も、共に前進です。

箴言20章

 


箴言20揺れる時代を歩くための静かな知恵

箴言20章は、私たちが毎日直面する選択や誘惑、焦りや不安に対して、 「地に足の着いた生き方」を示す章です。 テーマは多岐にわたりますが、すべてに共通しているのは 「人間の限界を知り、神の導きに信頼して歩むこと」という深い知恵です。

🌿 1. 快楽に流されず、自分を整える知恵

章の冒頭は「酒」への警告から始まります。 酒は人を騒がせ、判断力を奪い、人生を狂わせることがあります。 これは単にアルコールの話ではなく、 現代の私たちにとっては SNS、ギャンブル、買い物、刺激的な娯楽 など 「自分を見失わせるあらゆる誘惑」を指しています。一時的な快楽は心を満たすように見えて、 実は私たちの判断力を鈍らせ、 大切なものを見えなくしてしまうことがあります。

箴言は静かに語ります。 「自制心は、人生を守る盾である」

🌿 2. 誠実さは、どんな富よりも価値がある

箴言20章は、正直さを繰り返し強調します。

  • 不正なはかりは神が忌み嫌われる
  • 不正に得た富は長続きしない
  • 誠実な行いが真の豊かさを生む

現代は「儲かれば勝ち」「数字がすべて」という風潮が強く、 不正や偽装が後を絶ちません。 しかし、箴言は揺るぎなく語ります。「誠実さは、人生の土台である」

目先の利益よりも、 透明性・正直さ・信頼を積み重ねることが、 長い人生を支える力になります。

🌿 3. 怠惰は人生を蝕み、勤勉は未来を育てる

怠け者は冬に耕さず、 収穫の時に何も得られない―― これは単なる農業の話ではありません。「いつかやろう」「そのうちやろう」と先延ばしにしていると、 人生の大切な機会を逃してしまうという警告です。勤勉とは、 「毎日少しずつ、今日できることを積み重ねる姿勢」。 それが未来の実りを育てます。

🌿 4. 人の心は深い井戸のようである

箴言は、人の心を「深い水のようだ」と表現します。 その深みにある思慮や本音は、 知恵ある人だけが汲み出すことができます。これは、 「人を理解するには時間が必要」 「表面だけで判断してはならない」 という深い洞察です。親を呪う者の灯が消えるという言葉も、 家族への敬意や感謝が人生の灯を守るという教えです。

🌿 5. 神の主権計画を確立するのは主である

箴言20章の中心には、 「人は計画するが、歩みを定めるのは主である」 という深い真理があります。努力や計画は大切ですが、 最終的に道を開かれるのは神です。

焦りすぎず、 結果を急ぎすぎず、 自分の最善を尽くしたら、 あとは主に委ねる―― この姿勢が、心を平安へと導きます。

現代人への3つのメッセージ

快楽と自制心のバランスを保つ

誘惑の多い時代だからこそ、 自分を見失わないための「自制心」が人生を守ります。

誠実さを最優先する

不正は必ず自分に返ってきます。 誠実さは、長期的な信頼と成功の基盤です。

忍耐と計画性を持って歩む

焦らず、短期的な結果に振り回されず、 今日できる一歩を積み重ねることが、 真の成功へと導きます。

結び

箴言20章は、 「揺れる時代をどう生きるか」という問いに対して、 静かで力強い答えを与えてくれます。自制心、誠実さ、勤勉、忍耐、そして神への信頼。 これらは、どんな時代にも揺るがない神の知恵です。

今日も、その知恵を胸に抱きながら歩んでいきましょう。 共に前進です。

朝ラン26キロ完走

 


涼風の26キロと分かち合えない痛み:命ある限り、「できること」を灯して歩む

午前4時過ぎ、まだ暗さの残る中でランニングをスタートさせました。 降り始めていた小雨は途中でふっと止み、代わりに心地よい風が体を吹き抜けていきました。ニュースを見れば、他の地域は連日のように酷暑日が続いているというのに、今私が走っているこの道は、まるで別世界のように涼やかです。この透明な風を「恵み」として深く受け止めながら、私は歩みを止めることなく走り続けました。

 


祈りの道標としての病院

今日のコースの途中、明日に受診を控えている兄が通う病院の前を通りました。 静まり返った建物を横目にしながら、私は走りながら天を仰ぎました。兄の身体が早く回復し、再び元気に日常を歩めるようにと、足音のリズムに合わせて深い祈りを捧げました。

同時に、私の家でも妻が右側の肩の痛みを抱え続けています。 病院での治療を受けてはいるものの、昨日は痛みで眠れない夜を過ごしました。痛みは思いのほか長引いているようで、今日は新たに針の治療を試みることになっています。

  • 明日の受診を待つ兄の不安。
  • 右肩の痛みに耐える妻の日常。

家族の誰かが病に倒れたり、何らかの介護や手助けが必要になったりする季節は、私たちが生きている限り、必ず訪れます。それは避けては通れない人生の確かな一部です。

 


痛みという「孤独」に寄り添うこと

病や痛みに直面したとき、私たちはある残酷な真理に直面します。 それは、「本人の身体の痛みや心の痛みを、そのまま半分引き受けてあげることは誰にもできない」ということです。痛みとは、どれほど愛する家族であっても、その人自身の身体の中で孤独に耐え抜かなければならないものです。

しかし、痛みを肩代わりできなくても、私たちにできることがあります。 それは、徹底して「寄り添う」ことです。そばにいて、少しでも不自由な部分が改善されるように、共に手を探り、支え合うことです。

聖書には、このような言葉が記されています。

「ふたりはひとりにまさる。彼らはその労苦によって良い報いを得るからである。もし彼らのひとりが倒れるならば、そのひとりはその友を起きあがらせる。」(コヘレトの言葉 4:9-10

痛みを消し去る魔法を持っていなくても、倒れそうな時に手を差し伸べることはできます。 「どうしてこんなに痛いのか」「なぜできないのか」と、失われたものや出来ないことばかりを数えて嘆くのではなく、今、手の中にある「できること」を最大限に生かし、共に歩む道を見つけ出すこと。それこそが、愛の具体的な実践です。

 


命がある限り、精一杯に

祈り、思考を深めながら、26キロの距離を走り抜きました。

涼やかな風も、身体を動かせる喜びも、そして家族を思い祈る痛みさえも、すべては生きているからこそ味わえるものです。私たちは、命がある限り、どんな状況であっても頑張って生き抜かなければなりません。

今日のこの一日も、最後まで主の栄光のために、私に与えられた命を精一杯に生きます。 できないことを数えるのをやめ、できることの光を数えながら。



今日も、共に前進です。

2026年8月3日月曜日

箴言19章

 


箴言19何が本当に価値ある生き方なのか

箴言19章は、私たちが日々直面する「価値の基準」を静かに問い直す章です。 富や肩書き、スピードや効率が重視される現代に向けて、 聖書は 「人間性」「知恵」「忍耐」「思いやり」 という、 揺るがない価値をもう一度見つめるように促します。

🌿 1. 誠実さは富よりも価値がある

章の冒頭にはこうあります。

「貧しくても誠実に歩む者は、偽りを語る愚かな者より良い」

これは、外側の豊かさよりも 内側の誠実さ がはるかに尊いという宣言です。 貧しさは時に人を孤立させますが、誠実さは人を守り、 その人の人生を静かに支える力となります。

現代では、収入・学歴・ブランドなど「見える豊かさ」が評価されがちですが、 箴言は「人格こそが人の価値を決める」と語ります。

🌿 2. 愚かさは人生を破壊し、知恵は人生を整える

箴言19章は、愚かさの危険性を繰り返し警告します。

  • 衝動的な行動は過ちを招く
  • 怒りを抑えられない者は自らを傷つける
  • 無分別な判断は人生を混乱させる

反対に、知恵ある人は「一呼吸置く」ことを知っています。 言葉を発する前に考え、行動する前に整える。 その慎重さが、人生の多くのトラブルを避ける力となります。

SNSの炎上や感情的な発言が日常化している現代において、 この教えは驚くほど実践的です。

🌿 3. 言葉は人格を映し、忍耐は知恵を育てる

箴言19章は、言葉の扱い方にも深く踏み込みます。

  • 嘘は必ず自分に返ってくる
  • 急いで言葉を発する者は過ちを犯す
  • 忍耐強い言葉は人を生かす

言葉は、私たちの内側をそのまま映し出す鏡です。 だからこそ、言葉を慎むことは「自分自身を整えること」と同じ意味を持ちます。

🌿 4. 神への信頼計画を確立するのは主である

人は多くの計画を立てます。 しかし箴言はこう語ります。

「人の計画を確立するのは主である」

努力や計画は大切ですが、 最終的に道を開かれるのは神であるという事実は、 私たちの心を静かに安定させます。

「すべてを自分で抱え込まなくていい」 この視点は、現代人にとって大きな慰めです。

🌿 5. 貧しい者への思いやりは、主への貸し付けである

箴言19章の中でも特に美しい教えがあります。

「貧しい者に施すことは、主への貸し付けである」

見返りを求めない親切は、 神が必ず報いてくださると約束されています。 小さな助け、小さな優しさでも、 それは神の国に積み上がる「宝」となるのです。

現代を生きる私たちへの3つのメッセージ

人間性を最優先にする

外側の豊かさではなく、 誠実さ・優しさ・人格を大切にすることが、 人生を豊かにする最も確かな道です。

衝動ではなく、思慮深さで動く

一呼吸置くこと。 言葉を発する前に心を整えること。 それが信頼を築き、人生を守ります。

利他的な行動は、神への捧げもの

小さな親切は、神が必ず覚えてくださいます。 それは他者を救うだけでなく、 自分自身の心を豊かにする「祝福の循環」です。

結び

箴言19章は、 「何が本当に価値ある生き方なのか」を静かに教えてくれます。

誠実さ、知恵、忍耐、思いやり―― これらは時代が変わっても揺るがない、神の国の価値です。今日も、その価値を胸に抱きながら歩んでいきましょう。

今日も、娘を病院へ送り出し、料理をし、ケーキを焼きながら一日を過ごしました。 小さな働きの積み重ねの中に、神が今日も命を与え、 私たちを生かしてくださっている恵みを静かに覚えています。共に前進です。

MY WAY?

 


誰もいない階段と、譲らない二人:息苦しい世界に「恵みの余白」を創る

今朝は一人、大年寺山公園へと散歩に出かけました。 誰もいない静かな階段を一歩、また一歩と登り続ける時間。耳に届くのは、木の葉から滴り落ちる雨の音、かすかな鳥のさえずり、そして自分の規則正しい足音だけです。

世間のあらゆる騒音から物理的に切り離された、深い静寂のひととき。大自然の音と、自分自身の内なる心の音だけに静かに耳を澄ませて歩くこの時間は、私が私として生きるために、どうしても欠かせない大切な時間です。

しかし、その静寂の山を下り、広瀬川沿いへと出たとき、私は現代社会の「縮図」とも言えるような光景を目にすることになりました。

 

この二人です。

すれ違う道、譲らない心

川沿いの道には、何人かのランナーや散歩をする人々の姿がありました。 そこで、同じ道の同じ側を、一人は歩き、一人は走って、正面から向かってくる二人の年配の姿が目に入りました。歩いているのは女性、走ってくるのは男性です。

私は後ろからその様子をずっと見ていました。どう見ても、そのままでは真正面からぶつかります。誰かが少しだけ避けて、道の反対側を歩かなければならない状況でした。 先に状況に気づいたのは、歩いている女性の方でした。しかし彼女は、最初から「自分はこの道を誰にも譲らずに歩く」と固く決めているかのように、歩幅もコースも一切変えようとしません。一方の走っている男性は、周囲にまったく気づかずに自分の世界に入り込んで走ってきているようでした。

二人はぎりぎりまで譲らず、本当にぶつかりそうになったその一瞬、ようやく気がついた男性の方がサッと身を避けて走り去っていきました。幸いにも衝突は免れましたが、その息を呑むような数秒間に、私は深く考えさせられました。

 


疲弊した社会が奪っていく「余白」

誰かがほんの少し、一歩横にずれるだけで解決するはずのすれ違い。 しかし、それができない。この光景こそが、今の世の中の姿そのものではないかと思えてならなかったのです。他者への配慮に欠け、自分の歩く道だけを頑なに守ろうとする姿。それは決して、その人たちが生まれつき悪意を持っているからではないのでしょう。社会全体が疲れ果て、人々の心が深く疲弊しているからです。 心に「ゆとり」がなくなり、生きるための「余裕」が失われている時、人は「自分さえよければ、他はどうでもいい」という自己満足と自己防衛の小さな殻に閉じこもってしまいます。自分の正当性ばかりを主張し、他者に道を譲るという小さな恵みを与えることすらできなくなる。それが、今のこの息苦しい社会の現実です。

 


聖書に、このような言葉があります。 「めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピの信徒への手紙 2:4

他者に道を譲るためには、自分の心の中に「他者を招き入れるための余白」がなければなりません。私たちが本当に恐れるべきは、人とぶつかることそのものよりも、心からその「余白」が完全に失われてしまうことなのです。

 


家族という「小さな聖域」から

それでも私たちは、この息苦しさを感じる社会の中で、今日を生きていかなければなりません。世の中のすべての人の心に、今すぐゆとりを取り戻させることは不可能に近いでしょう。だからこそ、私は心に決めます。 せめて「家族」という、私に与えられた最も身近な場所だけでも、余裕のある生き方を体現しようと。

  • 笑顔を絶やさず、お互いに道を譲り合うこと。
  • 疲れ果てた時には助け合い、支え合うこと。
  • 言葉を尽くして、深く理解し合うこと。

社会がどれほど配慮を欠き、自己中心的に回っていたとしても、私たちの家を、互いを思いやる「ゆとりのオアシス」にすることはできるはずです。今朝、大年寺山公園の階段で味わったあの深い静寂と安らぎを、今度は自分自身の生き方を通して、身近な人々の間に創り出していくのです。

一歩道を譲ることは、負けではありません。それは、心に愛の余白を持っている者だけができる、美しく力強い選択です。 外の世界がどれほど冷たくとも、私たちの内なる歩みは、今日も温かなゆとりと共にあります。

今日も、共に前進です。

2026年8月2日日曜日

終わりがあるから生きられる

 


終わりのない円環と500キロの「安息」:自らの手で喜びを灯す生き方

「終わり」があるということは、それだけでひとつの救いであり、恵みです。

ひとつの礼拝を終えたあとの、あの深いため息のような安堵感。私と同じ職に身を置く者にとって、一週間のすべての歩み、思考、そして祈りは、日曜日のその時間のために注がれます。それが決して「日曜日だけの働き」ではないことを知る人は、外から見れば多くはないかもしれません。だからこそ、すべてを出し切った後の休息はひとしおです。

しかし、そのほっとしたのも束の間、すぐさま「次の礼拝」に向けた終わりのない準備が始まります。終わっては始まり、始まっては終わる。私たちの日常は、この円環の繰り返しです。

 

終わりのない世界の重みと、500キロの歩み

私たちの日常のサイクルとは別に、世界を見渡せば「終わりのない事柄」が重くのしかかっています。今なお続く戦争のように、いつ終わるのか、どこに向かっているのかさえ見えない暗闇は、人々の魂を深くすり減らしていきます。終わりが見えないことほど、絶望に近いものはありません。だからこそ、私にとって11月に予定している3週間の「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」への祈りの旅は、どうしてもなくてはならない、年1回だけの唯一の「安息」の時なのです。

  • 距離にして500キロを自分の足で歩き抜くこと。
  • 雨の日も風の日も、ただひたすらに道を進むこと。

肉体的には過酷を極めるはずのこの巡礼が、なぜ私にとって「安息」となるのでしょうか。それは、終わりのない日常のサイクルから物理的に離れ、ただ「歩く」という純粋でシンプルな行為の中に魂を解き放つことができるからです。肉体は激しく消費されても、心は深く澄み渡り、真の休息を得るのです。

 

喜びは、待つのではなく「創り出す」もの

終わりのない円環を生き抜くために、私たちはただ歯車のように日々をこなすだけではいけません。日々の合間に、自らの手で「楽しみ」と「喜び」を差し込んでいくことがどうしても必要です。11月の旅そのものだけでなく、旅先へ向かうまでの準備の過程、計画を練る時間からすでに、旅の喜びは始まっています。

「楽しい事と喜びの出来事を願うならば、自分で考えて造り上げること」

これは、生きるための真理です。喜びは、空から偶然降ってくるのを口を開けて待つものではありません。自らの意志で種をまき、水をやり、日常の隙間に意図的に創り出していくものです。

 

意志としての「喜び」

聖書には、このような言葉があります。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケの信徒への手紙一 5:16-18

「喜んでいなさい」という言葉は、感情の強制ではありません。終わりのない日常や、時に残酷な世界の現実のただ中にあっても、なお「喜ぶことを選び取る」という強靭な意志への招きです。私たちが自分で考え、楽しみを準備し、喜びを創り出すとき、私たちは「創造主」である神の似姿として、自らの人生に光を灯しているのです。

次の日曜日への準備、そして11月の500キロの道程。 そのすべての過程を慈しみながら、今日も自分の手で小さな喜びを創り出していきましょう。

今日も、共に前進です。