デジタル書庫 ―― 祈りの旅路

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2026年7月13日月曜日

頑張って生きた一日でした。

 


終わりのない舞台と、役者を降りる許し:車中の語らいから見つめる家族の形

夜の帳が下りた街を走り抜け、無事に娘を車に乗せて家路につきました。 心地よいエンジン音だけが響く車内は、日常の慌ただしさから切り離され、親子の何気ない対話が自然と深まる温かい空間です。

あんかけ焼きそばと、明日への準備

今日の帰り道も、私たちは車の中でいろいろなことを話し合いました。 今度のワールドカップ、フランスとスペイン戦の行方についての予想。そして、今日の賄いで出たという「あんかけ焼きそば」をはじめ、いろいろと美味しいものを食べたこと。そんな他愛のない、しかし確かな生活の手触りがある話題に、心がほぐれていきます。

話の中で、娘が「明日は実習でグループホームに行く予定だ」と教えてくれました。 そこでは大半が認知症の方々であるため、「同じことを20回は繰り返し言うことになる」と事前に教えられたそうです。それに対する彼女の決意は、とても印象的なものでした。

「役者になったつもりで対応する」

その横顔を見ながら、私はふと「彼女ならば、きっとそれが出来る人かもしれない」と頼もしく思うひと時を過ごしました。相手の不安に寄り添い、何度でも同じ言葉を優しく返す。それは、プロフェッショナルとしての見事な「配役」です。

家族は、役者になれない

しかし、その娘の言葉を心の中で反芻しながら、私の思索はもう一つの重く切実な現実へと向かっていきました。

それは、実際に認知症の親を抱え、日々介護に向き合っている「家族」の姿です。 実のところ、家族は決して役者にはなれません。なぜなら、彼らの現実は「毎日」だからです。

  • 幕が下りない舞台: 役者がその役を演じきることができるのは、そこに必ず「舞台の終わり」があるからです。出番が終われば幕が下り、自分の素顔に戻って深く息を吸い込む「息抜き」の時間があるからこそ、また次の舞台に立つことができます。
  • 逃げ場のない日常: しかし、家族にはその幕がありません。毎日、一年365日、休むことなく「介護する家族」という役を演じ続けられる人間など、どこにもいないのです。

それは数年、時には数十年という途方もない長さで、同じ空間の中で生活を共にすることです。どれほど相手を愛していても、息を継ぐ場所のない現実は、やがて耐えがたいほどの重圧となって家族の心をすり減らしていきます。

距離を置くという、もう一つの愛の形

私たちは時に、「家族なのだから、最後まで自分の手で抱え込まなければならない」という強い責任感という名の鎖に、自分自身を縛り付けてしまいます。しかし、私たちが限界を持った脆い存在であることは、決して恥ずべきことではありません。

以前、別の記事でも取り上げたことですが、終わりのない現実の中で私たちが生き抜くためには、守るべき大切な知恵があります。

  1. 一人で抱え込まないこと(現実には非常に難しいことですが、だからこそ声を上げる必要があります)
  2. 必ず、周りの助け(専門家や制度)を得ること
  3. そして、意識的に「距離を置く」こと

「距離を置くこと」は、決して見捨てることでも、愛が冷めたことでもありません。それは、あなたがあなた自身の心を守り、再び相手に優しく接するための「息抜きの場所(舞台裏)」を確保するという、とても神聖で必要な行為なのです。

神様は、私たちが無限の力を持つ神のように振る舞うことを求めてはおられません。限界のある私たちが、互いに弱さを認め合い、助けを求め合うその手の中にこそ、本当の愛が宿るように人間を造られました。もし今、終わりのない日常の舞台で限界を感じている方がいるならば、どうか「役者を降りる勇気」を持ってください。他者の手を借り、少し離れた場所から深く息を吸い込んでいいのです。

明日は、ランニングを休んで休息日にする予定ですが・・・・

眠いけど

 


限界の淵で握るフライパン

午前中は近くのヤマダ電機まで除湿器を修理に運び、今日予定されていたいくつもの用事をこなしてきました。そして先ほど、二人用の夕食である「トンテキ」を台所で焼き終えたところです。 分厚い豚肉がフライパンの上で立てる力強い音と、立ち込める香ばしい匂い。しかし、その生命力にあふれた匂いの中で、私は今、抗いがたいほどの強烈な眠気に包まれています。

 


午前2時前から絶え間なく働き続け、さらに34キロを走り抜いてきたのですから、肉体が休息を渇望するのは当然のことでしょう。まぶたは鉛のように重く、思考の輪郭が少しずつぼやけていきます。今すぐソファに倒れ込み、深い眠りの底へと沈んでしまいたい。 しかし、私には寝る訳にはいかない理由があります。この後、残された少しの仕事を片付け、16時からは牧師会へと出かけていかなければならないからです。

 


「生きる」ということの泥臭さと神聖さ

極限の眠気と戦いながら、それでも夕食を準備し、次の予定へと身を整えようとしているとき、私の胸の奥に一つの思いが静かに満ちてきました。

「ああ、生きるとは、こういうことなのだ」と。

私たちは時に、生きることを何か特別な、輝かしいイベントの連続のように錯覚してしまいます。あるいは、常に心身が満たされ、余裕を持って微笑んでいる状態こそが「正しい生き方」なのだと思い込んでしまうことがあります。 しかし、実際の「生きる」という営みは、もっと泥臭く、重たく、体温と汗を伴うものです。

  • 壊れた家電を抱えて、修理のカウンターに並ぶこと
  • まぶたの重さと戦いながら、大切な人のために肉を焼くこと
  • すり減った体に鞭を打ち、自らの責任を果たすためにドアを開けること

そのどれもが、決してSNSで称賛されるような華やかな出来事ではありません。しかし、その一つひとつに、命の手触りがあります。

 


荒れ野で食べる命の糧

聖書の中に、偉大な預言者エリヤが疲れ果て、荒れ野の木の下で倒れ込んで「もう死んだほうがましだ」と眠り込んでしまう場面があります。神様は、限界を迎えた彼を「気合が足りない」と責めることはなさいませんでした。ただ、彼の枕元に焼きたてのパンと水を置き、「起きて食べなさい。道のりはまだ長いのだから」と優しく声をかけられたのです。

私たちがギリギリの気力で焼き上げる今日のトンテキもまた、この重たくて愛おしい現実の道をさらに歩み続けるために、神様が備えてくださった「命の糧」なのだと思います。

眠いです。本当に、どうしようもないほどに眠い。 しかし、この心地よい疲労と泥のような眠気こそが、私が今日、与えられた命を燃やし尽くして生きているという何よりの証拠です。重いまぶたをこすり、残りの仕事に向かいます。そして、夕暮れの街へと足を運びます。格好良くなくてもいい。這いつくばるようであっても構わない。ただ、自分の持ち場で命を燃やし続ける。 今日も、共に前進です。

箴言8章

 


現代を生きる私たちへ──箴言8章が語る知恵と共に歩む人生

「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見いだす。」 箴言8章は、まるで知恵そのものが私たちに語りかけてくるような、優しく力強い招きの言葉から始まります。

ここで描かれる知恵は、単なる知識や情報ではありません。 人生の本質を見抜き、正しい道へと導く、深い洞察と判断力の象徴です。 そしてこの知恵は、神の創造の働きの中で中心的な役割を果たし、世界が形づくられる前から神と共に存在していた──箴言8章はその壮大な背景を語ります。

知恵は金銀よりも価値がある

箴言8章は、知恵の価値を「金や純金よりもまさる」と語ります。 それは、知恵が人生の豊かさや平和、正しさをもたらす源だからです。

知恵と共に歩む人は、

  • 慈善の道を歩み
  • 正義の道を進み
  • 名誉と豊かさを得る

と語られています。 ここで言う豊かさとは、単なる物質的な成功ではなく、心の深い満足と人生の安定を指しています。

知恵は創造の始まりから存在する力

章の後半では、知恵が世界の創造における役割を語ります。

「主が地の基を定められたとき、わたしはそこにいた。」 知恵は、神が世界を形づくるその瞬間から共にあり、 海の境界が定められ、山々が築かれ、地が整えられるすべての場面に立ち会っていました。

つまり、 知恵は世界の秩序と調和を支える創造の原理そのもの だということです。

この視点は、現代の私たちにとっても大きなヒントになります。 自然の美しさや世界の調和を感じるとき、そこには神の知恵が息づいている── その事実に気づくことで、私たち自身の生き方も整えられていきます。

知恵を求める者はを見いだす

箴言8章は最後にこう語ります。

「知恵を見いだす者は命を見いだす。」

知恵を愛し、求める人は、 人生の目的、平安、そして神の祝福を見いだすことができる。 これは、古代の言葉でありながら、現代の私たちにも驚くほど響く真理です。

🌿 現代人が受け取るべき3つの教訓

  • 知恵の価値を認識する 情報が溢れる時代だからこそ、何が本当に大切かを見極める知恵が必要です。
  • 謙虚さを持つ 知恵は、自分の限界を認め、神と他者から学ぶ姿勢の中で育まれます。
  • 創造の秩序を尊重する 自然の調和や世界の美しさに心を留めることで、自分の生き方を見直す機会が与えられます。

おわりに──知恵の声に耳を傾けるとき、人生は光を帯びる

箴言8章は、知恵が私たちを招き、導き、守る存在であることを教えています。 知恵を愛し、求める人は、人生の深い目的と平和を見いだすことができる── それがこの章の中心にあるメッセージです。

今日、あなたの心にはどの言葉が響きましたか。 知恵の声に静かに耳を傾けるとき、あなたの歩みは必ず光に照らされていきます。

 

朝ラン34キロ完走

 


新しい角度が照らし出す景色:34キロの軌跡と、喜んで生きるという選択

午前147分に起床。まだ世界が深く静かな沈黙に包まれている時間帯に目を覚まします。 会堂での祈り、部屋の掃除、ノアとの散歩、ゴミ出し、そして心を整える聖書朗読。いつもの早朝のルーティンワークを静かに終え、午前3時、夜の闇の中へランニングの第一歩を踏み出しました。

 


見慣れたはずの山々が教えてくれたこと

今日の軌跡は、今日から西公園、尚絅学院中高、大学病院を抜け、台原、八乙女、そして泉中央駅へと至るルート。そこから南光台、宮町、仙台駅を経由し、広瀬橋を渡って帰宅する、合計34キロの道のりでした。

泉中央駅まで自分の足で走って向かったのは、今日が初めてのことです。徒歩で訪れたことは何度もある場所ですが、「走る」という身体感覚を通して眺める風景は、まるで別の世界のように目に飛び込んできました。

とりわけ心を打たれたのは、帰路についた南光台から眺めた北山や泉ヶ岳の姿でした。 これまで何度も目にしてきたはずの風景が、まったく違う表情を持っていたのです。それはおそらく、私が立つ位置が変わり、「見える角度」が異なったからでしょう。 初めての道を踏みしめながら走る胸の高鳴りと、したたり落ちるたくさんの汗。空が少しずつ白み始めるにつれて、道端でお年寄りがのんびりと散歩をする姿とすれ違いました。

すれ違う彼らはきっと、目の前を走り抜けていくこの人間が、はるか長町から走ってきているとは思いもしないでしょう。 その時、ふと感じたのです。私たちは皆、すれ違う他者には見えない「その人だけの長い道のり」を背負いながら、同じ朝の光の中を生きてるのだ、と。

 


慌ただしい日常という名の「巡礼」

ランニングから帰宅した後も、息をつく暇はありません。 忙しくなる予感に背中を押されるように、朝は娘を駅まで送り、11時半ごろには妻を送り届けます。その後、夕食の準備を整え、16時からは地区の牧師会へ向かいます。夕食を取りながらの会議ですが、私はどうせ家に帰ってから食べるので、途中のコンビニでサンドイッチでも買っていく予定です。そして夜になれば、仙台でアルバイトをする娘を再び迎えに走ります。

  • 家族を見送る車中
  • 夕食の支度をする台所の温度
  • 片手でつまむコンビニのサンドイッチ

一つひとつを取り上げれば、どこにでもある慌ただしい日常の風景かもしれません。 しかし今日、私にとってこの一日は特別な意味を持っています。10度目となるサンティアゴ・デ・コンポステーラ祈り旅まで、あと「120日」という節目を迎えたからです。

 


楽しく生きることを、選び取る

スペインの広大な大地を歩くことだけが巡礼ではありません。 家族のためにハンドルを握り、食事を整え、額に汗して今日という日を懸命に生きること。それらすべてが、神様が用意してくださった大切な「日常の巡礼」なのだと気づかされます。

私たちは時に、変わらない日々の連続に疲れ、重さを感じてしまうことがあります。しかし、走るルートを少し変えただけで泉ヶ岳の新しい美しさに出会えたように、私たちの心の「角度」を少し変えるだけで、退屈に見えた日常の中に必ず新しい光を見出すことができます。

 


生きること。 生きることを、深く考えること。 どうせ命を与えられ、この道を歩むのならば、私は「楽しく生きること」を考えたい。それは現実から目を背けることではなく、見慣れた景色の中に潜む恵みを、自分の意志で選び取るという強い祈りです。

あなたの今日という道のりも、誰の目には見えなくとも、確かな価値と意味を持っています。立ち止まる日があってもいい。見方を変えれば、そこからまた新しい景色が広がっているはずです。

今日も、共に前進です。

2026年7月12日日曜日

時給5000円

 


「失うには惜しい場所」をつくる――あるレジ打ちの15億円と、私たちの社会の定規

今日の仙台は、空気が肌に張りつくような湿度で、歩くだけで体の内側までじんわりと湿り気が入り込んでくるような一日でした。 そんな重たい空気の中、私は早朝5時ごろ、近くの西友へ買い物に出かけました。 店内では、エプロン姿のスタッフの方々が黙々と準備を進めていました。 その姿を目にすると、いつも思わされます。 この社会の土台を支えているのは、華やかなオフィスの光ではなく、こうした現場で働く人々の確かな手仕事なのだと。しかし同時に、胸の奥に静かな問いが浮かびます。 私たちの社会は、彼らの「熟練の価値」を正しく測れているだろうか。

 


アメリカから届いた、ある「レジ打ち」の驚くべき物語

最近、ウォールストリートジャーナル(WSJ)が報じたコストコの雇用改革の記事を読みました。 そこには、日本の常識では想像もつかない「働く人の尊厳」が描かれていました。アリゾナ州の店舗で40年間レジ一筋で働くトニ・バザールさん。 彼の時給は32.90ドル(約5,000円)。 さらに退職年金口座には100万ドル(約15,000万円)以上が蓄積されているといいます。なぜ小売業でこれほどの待遇が可能なのか。 そこには「効率賃金理論」と「グッジョブ戦略」という、経済学と経営学の知恵が働いています。

  • 市場平均より高い賃金を払うことで優秀な人材を引き留める
  • 「失うには惜しい職場」を提供し、従業員の自発的な成果を引き出す
  • 離職率を劇的に下げ、採用・教育コストを削減する

事実、コストコの離職率はわずか7%。 一般的な小売業が50%を超えることもある中で、これは驚異的な数字です。 熟練したベテランは1時間に70人もの会計をミスなくこなし、顧客の信頼を勝ち取ります。 結果として売上は伸び、株価は2008年から23倍以上に跳ね上がりました。

 


日本の現場を見つめ直す――「コスト」という名の定規

このニュースを読むと、日本の現場の姿が胸に浮かびます。

都市部でも時給1,0001,300円。 地方では最低賃金近辺。 何十年勤めても、時給が数百円上がる程度。 「時給5,000円」や「老後を支える退職金」といった世界は、ほとんど存在しません。日本の多くの企業は、いまだに労働力を「コスト」としてしか見ていないのではないか。 その定規を当て続けた結果、私たちが手にしたものは──

  • 慢性的な人手不足
  • 絶えない離職の連鎖
  • 「どれだけ頑張っても報われない」という静かな絶望

短期的には帳尻が合っても、長期的には社会の生命線である「現場の力」をすり減らしてしまうのです。

 


人を「宝」として数える知恵

聖書は、労働と報酬についてこう語ります。

「働く者が報酬を得るのは当然である。」(テモテ5:18

神様の定規は、人を「安く使い倒せる労働力」として数えません。 一人ひとりの尊厳を認め、その汗にふさわしい敬意と報いを求めます。

コストコが示したのは、 「人に投資することは損失ではなく、最大の利益を生む」 という価値の転換でした。人を大切にするからこそ現場に平和が生まれ、信頼が育ち、それが最高のサービスとなって社会に還っていくのです。

効率と損得の風が吹きつける今の社会だからこそ、 私たちは「人を大切にする」という原点に立ち返る必要があります。

職場でも、地域でも、家庭でも、 そこを「失うには惜しい場所」にしていくこと。 それが、私たちの明日を温かく照らす光になると信じています。

湿気の重い一日でも、私たちは歩き続けます。生きることです。最後まで生き続けることです。・・・自分はもう寝る時間になりますが・・・・・とっくにノアは夢の中です。

今日も、共に前進です。

ペトロと岩の誤解?

 


聖書:マタイによる福音書161320

イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行った時、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子達は言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。

 

「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。私も言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。私はあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。

 

イエス様がペトロに語られた「この岩の上にわたしの教会を建てる」という言葉は、ペトロという一人の人間に絶対的な権威を与えたというよりも、彼が代表して告白した「信仰」と、その同じ信仰を持つ人々の群れ(教会)に向けられた約束として理解するのが自然です。ここでは、その理由を3つのポイントで整理してお伝えします。

 

「岩」とはペトロ個人のことか?

イエス様は「あなたはペトロ(岩)。わたしはこの岩の上に教会を建てる」と語られました。この言葉には、当時のギリシャ語の言葉遊びが含まれています。

  • ペトロ(Petros:小さな石、転がる石(男性名詞)
  • 岩(Petra:動かない巨大な岩盤(女性名詞)

カトリック教会は、この「岩」をペトロ個人と解釈しますが、プロテスタントの理解では「動かない岩盤(ペトラ)」はペトロという揺れ動く人間ではなく、彼が語った「あなたはメシア、生ける神の子です」という信仰告白そのもの、あるいは告白されたキリストご自身を指すと考えます。つまりイエス様は「あなたのその信仰告白という岩盤の上に、教会を建てる」と宣言されたのです。

 

「天の国の鍵」はペトロだけのものではない

「天の国の鍵を授ける」「地上で結ぶことは天でも結ばれる」という言葉は、一見するとペトロ個人に特別な権威が与えられたように見えます。しかし、聖書を読み進めると視点が変わります。マタイ1818節では、イエス様は同じ権威を弟子たち全員(=教会の共同体)に向けて語っておられます。つまり、16章でペトロが鍵を受け取ったように見えるのは、彼が弟子たちの代表として最初に信仰を告白したからであり、彼だけが特別な権力を持ったわけではありません。「天の国の鍵」とは、福音を語り、罪の赦しを宣言する権威のこと。これはペトロ個人の専売特許(せんばいとっきょ)ではなく、キリストを信じる教会全体に託された使命なのです。

 

なぜペトロに向かって語られたのか

では、なぜイエス様は「あなたに授ける」とペトロ個人に語られたのでしょうか。

それは、信仰がいつも「私と神様との一対一の決断」から始まるからです。イエス様は「群衆は何と言っているか」ではなく、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられました。ペトロは自分の人生を懸けて「あなたはメシアです」と応答しました。

イエス様はその個人的な信仰の決断を喜び、「あなたは幸いだ」と祝福されたのです。

 

結論

この箇所は、ペトロという特定の個人の権威を語っているのではなく、ペトロのようにキリストを救い主と告白するすべての信仰者に与えられた約束です。

ペトロ自身はこの後、イエス様を三度否み、弱さを露わにします。彼個人は決して完璧な「岩」ではありませんでした。しかし、彼が告白した信仰は本物であり、その信仰の岩盤の上に教会は建てられました。ですから、「私も弱く失敗ばかりですが、それでも『あなたは私の救い主です』と告白します」と祈る人は皆、すでにキリストの揺るがない岩の上に立っています。そして「天の国の鍵」を託された者として、家庭や社会に希望を届ける役割が与えられているのです。

聖域を守る

 


損得の定規を置く聖域:湿気を含む風と、恵みで回る日曜日の食卓

まとわりつくような湿気が、肌を重く包む一日でした。 外の空気は水滴をたっぷりと含み、息を吸い込むたびに季節の重みを感じます。しかし、どんなに空気が重くとも、私たちは呼吸をし、足を踏み出し、日々の営みを続けていく。生きるとは、そういうことなのだと静かに思う日曜日です。

 


魂の深呼吸をする場所

今日も無事に礼拝が守られ、婦人会の例会を含めて13時頃にすべてのプログラムが終わりました。いつもより少し長引いたとはいえ、他の教会と比べれば短い方かもしれません。時間の長さそのものに正解はありません。大切なのは、集った一人ひとりの心が喜びで満たされているかどうかです。 教会の玄関を出る時に、「ああ、疲れた!」というため息が漏れるような場所であってはならないと、私は常に自分に言い聞かせています。社会の重圧で強張った心と体を、最も良いコンディションに整え直して帰っていただくこと。それが教会の役割だからです。

ただ、今日の子どもたちへの説教は、初めて10分を越えました。時間を超過することは百も承知の上でしたが、それでもどうしても、今日彼らの心に手渡しておかなければならない大切な糧だったのです。準備の段階から長くなることは覚悟していましたが、心を込めて語りました。(その大切な内容は、また改めてこのブログに掲載します。)

 


損得と効率を脱ぎ捨てる食卓

帰宅後(ただ二階に上がるだけのことですが・・・中にはわたしがどこに住んいるのかを知らない方々もいます。)、いつものようにお昼の支度をし、家族で食卓を囲みました。日曜日であっても、私は台所に立ちます。

パート先の現場で日々体を張っている妻も、看護の道を志して日々の学びや実習に励む娘も、この湿気の多い時期を乗り越えようとする毛深いノアも、家族は皆それぞれに、自分の持ち場で懸命に戦っています。だからこそ、「やれる人が、やれることをする」。料理も、食後の洗い物も、ほとんど私が引き受けていますが、役割を厳密に決めないこの形が、我が家には一番合っているのです。ここで、心がけている大切なことがあります。 それは、流し台の前に立ちながら「なぜ自分ばかりが」という思いを一切持たないことです。私たちは、自分が健康で、家族のために食事を作り、皿を洗うこの日常が、永遠に続くかのように錯覚してしまいます。しかし、この還暦を迎えた命の時間は、あと100年続くわけではありません。いつか必ず、手放さなければならない日が来ます。 だからこそ、「今、やれるときに、やれること」があるという事実そのものが、途方もない感謝の対象へと変わるのです。

 


この社会のルールを持ち込まない

現代の社会は、どこへ行っても「損得」と「効率」の定規で物事を測ります。「これをして、何の見返りがあるのか」「どちらがどれだけ負担したか」。

しかし、その冷たい社会のルールを、決して家庭内に持ち込んではなりません。家庭は、厳しい会社や戦いの場ではないからです。損得勘定を脱ぎ捨て、ただ平和と、愛と、信頼だけがそこにある。私たちが真に安息できる唯一の聖域、それが家庭です。 その場を守るためには、強い決意が必要です。「社会の習わしを、ここには適用しない」という毅然とした姿勢が、家族の安らぎという城を守るのです。

 


重い空気の中で、新しく始まる歩み

そして今日は、教会にとってもう一つ嬉しい出来事がありました。 他教会から正規の手続きを経て、一人の男性が転入してこられたのです。 新しい交わりが始まり、これから共に信仰の道を歩めることを心から感謝し、祈りを捧げました。

この方のためには、毎朝欠かさず祈っています。 牧師にとって最も大切な務めは、教会に集う一人ひとりのために日々祈ることです。 人は誰かを心配することはあっても、「祈る」という形でその人を神の前に差し出すことは、なかなかできません。 祈りの力を知らないから。 そして、誰に祈ればよいのか分からないからです。

だからこそ、私はこれからも祈り続ける牧師でありたいと、今日あらためて心に刻みました。それにしても今日は、まとわりつくような湿気に思わず「重いな」とこぼしてしまいそうになる一日でした。 それでも、私たちは生きています。 誰かのために食事を作り、共に笑い、新しい友を迎え入れながら、この重たい空気の中を一歩ずつ歩き続けています。

今日も、共に前進です。

誘惑に打ち勝つ

 


現代を生きる私たちへ──箴言7章が語る誘惑に負けない心の守り方

箴言7章は、古代の物語でありながら、現代の私たちが直面する「誘惑」というテーマに驚くほどリアルに向き合っています。 この章は、知恵を「姉妹」、分別を「友」と呼び、人生のそばに置くべき大切な存在として描きます。 それらを心に刻むことで、私たちは不道徳な誘惑や破滅へと向かう選択から身を守ることができる──それが箴言7章の中心メッセージです。

誘惑は突然ではなく、静かに近づく

箴言7章では、誘惑が一人の若者に近づく様子が、まるでドラマのように描かれています。 その誘惑は、派手な警告音を鳴らしてやって来るわけではありません。 むしろ、言葉巧みに、魅力的に、心地よい雰囲気をまとって近づいてきます。

現代でも同じです。 SNSの誘惑、簡単に手に入る快楽、心を揺さぶる言葉、誰にも見られていないという油断── 誘惑はいつも「気づかないうちに心へ入り込む」形でやって来ます。

箴言はその危険性を、若者の姿を通して私たちに示しています。

知恵と分別は心の防御力になる

箴言は、知恵と分別を「姉妹」「友」と呼びます。 つまり、人生のそばに置くべき家族のような存在だということです。

知恵とは、正しい価値観を持つこと。 分別とは、状況を見極める判断力のこと。

現代社会は、誘惑があまりにも多く、そして巧妙です。 だからこそ、知恵と分別を身につけることは、心の防御力を高めることにつながります。

慎重な選択が未来を守る

箴言7章は、誘惑に対する「油断」がどれほど危険かを強調します。 目先の快楽や一時の感情に流されると、長い時間をかけて築いてきたものが一瞬で崩れてしまうことがあります。だからこそ、 「今の選択が、未来の自分をつくる」 という視点が大切です。

慎重に選び、長期的な結果を見据えること。 それが、誘惑に負けない生き方の第一歩です。

誘惑を避けることは弱さではなく強さ

箴言は、誘惑を避けることを恥ずかしいこととは言いません。 むしろ、それは心の平安と健全な人間関係を守るための勇気ある選択だと語ります。

現代では、「自由」「自己表現」「好きなように生きる」という言葉が強調されますが、 本当の自由とは、誘惑に振り回されない心の強さのことです。

おわりに──心を守るための知恵を、今日の歩みに

箴言7章は、誘惑の力を過小評価しないようにと私たちに語りかけます。 同時に、知恵と分別を日常の中で育てることの大切さを教えてくれます。

現代を生きる私たちも、 「心の友」として知恵を持ち、 「人生の姉妹」として分別をそばに置きながら、 誘惑に惑わされない歩みを選び取ることが求められています。

今日のあなたの選択が、未来の平安と祝福につながりますように。

ぜひ自分で決める幸せを

 


見えない水滴と、幸せの色を決める朝:選ぶことで世界は輝く

雨と湿気の重みを感じる日は、決まって心に留めている二つのことがあります。 一つは、愛犬ノアの散歩。そしてもう一つは、礼拝堂の湿度管理です。

私はもともとショートスリーパーで、二、三時間も眠れば必ず目が覚めます。だからこそ、夜中であっても外の気配を感じ取り、雨が弱まった一瞬の隙間を縫って、ノアを外へと連れ出すことができます。 老犬になったノアは、トイレの間隔がずいぶんと短くなりました。昔は私たちの事情に合わせて丸一日半も我慢してくれた時期もありましたが、今は違います。昨夜から早朝にかけても、粗相をしないようにと三度、外へ出ました。

命が歳を重ね、その季節が変わっていくこと。これもまた、ごく自然で、尊いことなのです。

 


誰も知らない、静かな朝の営み

もう一つの気がかりは、礼拝堂に設置されているパイプオルガンを守るための湿度です。 常に50%に保つため、三台の除湿器を稼働させていますが、先日そのうちの一台が不具合を起こし、修理に出すことになりました。今は残された二台が、懸命に湿気と戦ってくれています。この時期は、一日に三回、満水になったタンクの水を捨てる作業が欠かせません。 五時頃に三回目のその水捨てを終えましたが、この地道な作業に、他の人々はきっと気づかないでしょう。身近にいる妻でさえ気づいていないのですから、当然のことです。

「誰にも気づかれない労労」をどう捉えるか。 私は結局のところ、「これは自分のためなのだ」と思っています。放っておけないから、自分がそうしたいからやる。それが結果としてパイプオルガンを守ることへと繋がっていく。それで良いのです。誰かの称賛のためではなく、自分の心の形に従って生きることは、とても自由で清々しいものです。

 


美しいひとときと、心の決断

水捨てのあと、買い物へ行き、帰宅してから昨日焼いたレモンケーキの仕上げをしました。 真っ白なシュガーパウダーを振りかけ、きれいにカットし、二人分と自分の分とを分けてタッパーに入れ、冷蔵庫へ。一仕事終えた安堵の中で、コーヒーと共にそのケーキを一切れ味わいました。

美味しい。 自分の作る料理にはいつも厳しい評価を下してしまう私ですが、その私が「美味しい」と感じるのだから、間違いなく美味しいのです。きっと二人も、笑顔でそう言ってくれることでしょう。

今日の礼拝に備えて、静かに休息をとる時間。 ふと、人生というものの本質について考えます。

  • 生きることが楽しいかどうかは、すべて自分次第である

もし、「自分が幸せに生きる」と心で決めれば、目に映るすべての風景は「幸せの色」に染まります。 それは、当然の真理です。誰のものでもない、あなた自身の幸せなのですから、他の誰に決めることができるでしょうか。自分にしか、決めることはできないのです。

 


今日を、どんな色で塗りますか

私は、神様を礼拝することが幸せです。 み言葉を語るのも幸せです。 キッチンに立って料理をするのも、場を清める掃除も、風を切って走ることも、すべてが楽しい。そしてこうして、紡いだ言葉が誰かの心のビタミンになることを願ってブログを書くことも、心からの喜びです。

 

人生には、雨の日も、老いや衰えを感じる日も、機械が壊れる日もあります。 しかし、その出来事にどんな意味を持たせ、どんな色を塗るかは、すべて「自分が決めること」です。環境に流されるのではなく、自分の意志で、今日という日に幸せを見出すこと。それこそが、神様が私たち一人ひとりに与えてくださった、最も美しく力強い特権なのだと思います。

 

あなたは今日を、幸せな一日にしたいですか? どうか、あなた自身の手で、その答えを決めてください。

今日も、共に前進です。

2026年7月11日土曜日

ちゃんと服を着ていますか?

 


恵みの雨が織りなす「命の服」:生きていることの美しさ

午前中の集いを無事に終え、今は静かな午後の時間を過ごしています。 窓の外は雨。かなりの湿気を帯びた空気が、今日という一日をすっぽりと包み込んでいます。天気予報によれば、明日も一日中雨が続くとのこと。 「何か問題でも?」 いいえ、まったく問題ありません。むしろ、もう少し降ってほしいとさえ思っているくらいです。(仙台だけとのことですが・・)

 


広瀬川がまとう「生きた服」

今朝の散歩のことです。いつものように広瀬川沿いを歩きながら、豊かに流れる水面を見つめていました。「これぐらいの水量が、ずっとキープできればいいのに」と、心の中で願わずにはいられませんでした。

川に水が流れている。それは、ごく当たり前の風景です。 しかし、雨が降らず厳しい暑さが続くと、川の水は蒸発し、ひからびた川底がむき出しになってしまいます。それは決して、美しい風景とは呼べません。

川にとって、豊かな水は「服」なのだと気づかされます。 それもただの服ではありません。絶えず流れ、動き、生きている「命の服」です。その躍動する服をまとっているからこそ、川はあんなにも美しく、私たちの心を惹きつけるのです。

 


生きているという前提

ひるがえって、私たち人間の姿を考えてみます。 公の場で人が衣服を身につけずにいる姿を見て、美しいと感じる人はめったにいません。私たちは服を着た姿で他者と接し、語り合い、その交わりの中で時に「美しい」と感じ合います。

ここで重要なのは、服そのものの価値ではありません。

  • 生きている人が着る服:その人の呼吸や動きに合わせ、服そのものが生きているように躍動します。
  • 死者が着る服:いくら高価で美しい服であっても、命の通わないそれは単なる「喪服」にしか見えません。

生命の息吹があるからこそ、まとうものすべてが輝きを放つ。「生きていることは美しい」。これこそが、私たちが日々を歩む上での最も根本的な大前提なのです。

 


命を養う、静かな午後の営み

そんな「生きていることの美しさ」を心で噛み締めながら、午後は明日のための準備を進めました。 その合間には、二人にとても評判の良いレモンケーキをオーブンで焼き上げました。部屋中に広がる甘酸っぱい香りは、間違いなく命を喜ばせる匂いです。さらに、夕食用には焼きめしを作りました。

  • 明日の備えをする
  • 喜んでくれる顔を思い浮かべながらケーキを焼く
  • 温かい夕食の食卓をととのえる

こうしたささやかな日常の営みの一つ一つが、私たちがこの世界で「生きた服」をまとい、躍動している何よりの証です。

これで、今日の私の仕事は無事に終了です。 流れる川の水のように、与えられた今日という命の時間を生き切ることができたことに、ただ深く感謝するばかりです。

雨の湿気も、川のせせらぎも、すべては私たちが生きているからこそ感じられる恵みです。どうかあなたの一日も、その命の美しさに気づける時間でありますように。

今日も、共に前進です。