交差点の冷たい視線と、不完全な世界に灯す「譲る」という希望
妻を見送り、日々の買い物を済ませて帰路についていた時のこと。 信号待ちで停車した私の車の窓越しに、ふと、現代の私たちの社会をそのまま切り取ったような光景が映りました。横断歩道を渡る一人の年配の女性。そこに、右折しようとする一台の車が接近してきました。人が渡っているのに対して、車が横断歩道の線に少し近すぎたのでしょう。その女性は、横断歩道を渡り終えるまでの間ずっと、運転席のドライバーを鋭く睨みつけながら歩いていきました。
権利を握りしめ、息苦しさを増す社会
こうした光景は、特別なものではありません。私たちが日ごろからあちこちで目にする日常の一部です。
- 絶対に相手に譲らない。
- 自分だけは絶対に損をしたくない。
- 自分の持っている権利を100%守り抜く。
そこには、他者のための小さな犠牲や、相手を思いやる想像力が入り込む余地はありません。私たちは今、目に見えない憎悪や警戒心が常に張り詰めている、ひどく息苦しい社会を生きています。心温まる話がないわけではありませんが、悲しいかな、決して多くはないのが現実です。
摩擦は、人間が生きる証
人が生き、交差する場所には、絶えず何らかのトラブルが発生します。これが、ごまかしのない真理です。 最も愛し合い、理解し合っているはずの家族の中でさえ、時に分かり合えないことで摩擦やトラブルが起こるのです。ましてや、価値観も背景も違う他人同士がすれ違う社会において、トラブルが発生するのは、ある意味で当たり前のことなのかもしれません。「なぜもっと平和にならないのか」と嘆きたくなりますが、このような自己中心的な心のぶつかり合いが消えてなくなることは、この世界が続く限りないでしょう。この息苦しさもまた、私たち人間が生きる「世界そのもの」の姿だからです。
憎悪の連鎖を止める、小さな余白
聖書は、人間の罪深さや世界の不条理を否定せず、ありのままに映し出します。しかし、ただ絶望するのではなく、その暗闇の中でどう生きるべきかを私たちに教えてくれます。
「何事も党派心や虚栄からするのでなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」(フィリピの信徒への手紙 2:3-4)
誰もが自分の権利を主張し、損をすまいと睨み合うこの社会において。キリストが自らの権利を捨てて私たちに歩み寄ってくださったように、私たちもまた、ほんの少しだけブレーキを踏み、相手に道を「譲る」という余白を持つよう召されています。
社会全体から憎悪やトラブルをなくすことは不可能です。しかし、今日自分が立っている小さな交差点の温度を、自らの「譲る心」によって、ほんの少し温かくすることはできます。不完全で息苦しい世界であっても、嘆くのではなく、自らが光の一滴となることを選び取る。その静かな決意を胸に、今日という一日を歩んでいきましょう。
今日の夕食は石焼ビビンバ。 二人が「美味しいね」と笑ってくれることを願いながら、これから準備に取りかかります。
今日も、共に前進です。
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