2022年5月31日火曜日

Compassion

 

イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。「群衆がかわいそうだ(Compassion)。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のままで解散させたくはない。途中で疲れきってしまうかもしれない。(マタイ15:32)

 福音書の中に現れているイエス様の姿はいつも相手の立場から考えることです。「群衆がかわいそうだ」相手に同情し、哀れみ、思いやるイエス様でした。全能なる神の御子イエス・キリストが天の栄光を捨てて泥沼の世界、罪深い世界、争いと妬みと欲に満ちている地上に降りてきたのは私たちの立場になってその弱さを知り、経験し、そして最後は死ぬためでありました。人間が経験するすべてを経験したあと、最後は救いを完成したのが我々の主、イエス・キリストです。

 


肉体の疲れだけではなく、いつも争い、ご自分の御心を理解できないでいる弟子たち、ファリサイ派、群衆、さらに家族さえも理解しませんでした。それで心の苦しみを経験しました。それだけではありません。人々から侮辱され、ののしられ、石を投げつけられ、さらにすべてを注いで愛し、支え、助け、教えていた弟子たちから裏切られる悲劇を経験なさったのが神の御子イエス・キリストでした。私たちが今経験している苦しみはもしかすると主イエスの経験からみればほんの小さなことかも知れません。最後はあんな恐ろしい十字架に張り付けられ死んだからです。

 


でもここが大事です。主イエスはご自分が経験した数々の苦痛に比べればあなたがたが今、受けている苦しみは苦しみとは言えないんだよ、と言わず、分かっているよ、わたしも経験したことだからそれがどれほどつらいか、くるしいか、わかっているんだよ、と言ってくれる方です。飢えも、寂しさも、恐れも、不安も、痛みも何もかも私たちが今、経験しているすべてを経験して理解し、そういう私たちに同情し、哀れみ、思いやって下さる方が他ではなく、我々の主、イエス・キリストであるのです。

 


けれども我々の主なる神様はただ私たちに同情し、私たちの状況を理解する方だけではありません。すべての苦しみと問題を解決してくださる神様であることを忘れてはなりません。ここに希望があるのです。ただ自分の愚痴を聞いてくれる友達に過ぎない方ではなく、心の痛みを癒し、不安を取り除き、喜びと希望を与える方であるのです。だからイエス・キリストは我々の救い主となるのです。イエス様が救われない人は一人もいません。どんな状況に置かれていても必ず救うことができる全能なる神様です。

 


その救うことが出来る方に絶えず祈り続け、そしてすべてを委ねて生きることです。哀れみ深い父なる神様は他ではなく、我々の父なる神様であることを忘れてはなりません。父親の一番の関心は何よりも子どもにあるのです。慈愛深い父なる神様の愛の視線は私たちから離れることはありません。私たちが苦しみに耐えられず泣くとき、主なる神様も一緒に泣いているのです。私たちが明日の事で不安を覚え、ため息をするときにも、主なる神様はそばにいて暖かく、大きな手で私たちを抱きしめて下さるのです。

そして言うのです。何もかも私に任せなさい、と。一人で苦しむことはありません。父親の神様はあなたの苦しみ以上に苦しみを覚えているのです。そしてその苦しみから解放されるように救いの扉を開いて下さるのです。その扉は信仰のカギによって開かれる扉です。家族のことで悩んでいますか?悩まずにまず祈って下さい。明日の事が不安ですか?まず祈ることです。それらの祈りに耳を傾けて下さる全知全能なる神様がいるのです。信仰による祈りは奇跡を引き起こすカギとなるのです。マラナタ!

シャワーラン

  あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。(マルコ 13 : 37 )   今日は雨の中を走り続けた。シャワーラン。 22 キロ完走。 雨にぬれてもまだ気持ち良い時期である。 これが一気に寒く感じるようになる。 それを常に意識...