彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。(マタイ2:9-11)
クリスマス礼拝の朝である。
今日の朝は、戦場のところでも、王室でも、羊飼いのところでも、病院でも、監獄でも、宇宙でも、地の果てでも訪れる朝である。この朝を拒否できる場所は存在しない。そして全人類の救いのために救い主イエス・キリストが生まれたことも否定することができない。ただ出来るのはその救い主を受け入れるか否かである。かつて真の平和の王が生まれたベツレヘムでは戦いが続き、多くの人々が今も死の恐怖に包まれて、怯えて過ごしている。人間が始めた戦争である。いったいどれだけの犠牲者が出れば終わるのだろうか?世界各地で戦いは続き、この日本では政治家の裏金で騒ぐクリスマスと年末となった。
相次ぐ事故や事件、さらに家庭はどうだろうか?全部ではないが、平和は消え去り葛藤と憎しみと争いが続く。親は施設に入り、施設の職員たちが準備したクリスマス会に参加するだろう。はたして幸せだろうか?そんなはずがない。だからといって対策があるのでもない。ただ死ぬまでそこにいて過ごさなければならない現実。ならばそこでも意味ある日々を送るための本当の福音が必要である。良い知らせが必要である。それをもたらしたのが救い主イエス・キリストの誕生である。イエス・キリストこそすべての環境や状況にある人々を喜びへと、真の希望へと導くことができるのである。死さえ恐れずに生きられる福音がここにある。その真の光がすべての施設、すべてのところに差し込んで人々に喜びを与えてくれるように祈るクリスマスの主の日の朝である。
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