銀の道、嘆きの橋 —— 「生きよ」と命ずる声を追って
今朝の空気は、二度。 二月の仙台としては、柔らかな温度でした。 いつもなら肺の奥を突き刺すような氷点下の冷気も、今日はどこか優しく、私を「生の現場」へと誘い出す伴走者のようでした。
二十七キロの道のり。 アスファルトを叩く足音は、静かな夜明けの街にリズムを刻みます。尚絅学院の中高方面を駆け抜け、身体が心地よい熱を帯び始めた頃、私は一つの出会いを果たしました。
見過ごしていた「沈黙の証人」
青葉公園。これまで幾度となくその前を通り過ぎてきたはずの場所に、その銅像は立っていました。 「仙台キリシタン殉教碑」。初めてその姿を「見て」、私は立ち止まりました。 なぜ今まで、この祈るような沈黙に気づかなかったのか。 かつてこの地で、自らの命をかけて信仰を貫いた人々がいた。
彼らが命を捧げたその土を踏みしめながら、私は今日まで何を「見て」走ってきたのか。今日からは、この場所を通るたびに特別な思いを抱くことになるでしょう。 彼らの静かな叫びが、私の走る道に新しい意味の層を重ねていきます。
命の交差点、深淵の淵
スタートが少し遅れたことで、今朝は多くの通勤・通学の方々とすれ違いました。 誰もがそれぞれの家を出て、一日の「戦場」へと向かっていく。 その背中に、確かな生命の躍動を感じながらも、私の心には昨日耳にした訃報が、冷たく重い影を落としていました。
八木山の橋。 私のランニングコースでもあるその場所から、十代の少女が自ら命を絶ったといいます。 そこは深い谷間。人が通ることのない、野生の熊の通り道のような場所です。
なぜ、彼女はそこを選ばねばならなかったのか。 どれほどの孤独が、その若い心に谷間の暗闇よりも深い絶望を刻んだのか。 彼女が飛び降りたその橋を、私は今日も走ります。 胸の奥が、鋭く、痛みます。
「生きる」という名の聖なる命令
帰り道の川面には、今日も白鳥たちが静かに羽を休めていました。 昇る朝日は、凍てついた大地を黄金色に染め上げていきます。 この美しい景色を前にして、私は自らに問いかけます。 「なぜ、私は生かされているのか?」その答えは、自分の中にはありません。 命の持ち主である神様が、**「生きなさい」**と命じておられるからです。「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。……隣人を自分のように愛しなさい。」
私たちはただ生きるために生きるのではなく、この「愛の命令」を果たすために、そして命の言葉である福音を宣べ伝えるために生かされています。 殉教者たちが守り抜いたそのバトンが、今、私たちの手に握られています。橋の欄干に手をかけ、立ち止まってしまう誰かのために。 一日の重みに押しつぶされそうな、あの通学路の少年のために。 私たちは走り続け、祈り続け、愛を語り続けなければなりません。二十七キロのゴールは、一日の始まりに過ぎません。 与えられた新しい命という贈り物を、私たちは今日、誰のために開くのでしょうか。
今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。
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