2026年2月8日日曜日

真の助け主

 


今朝、スマートフォンの画面に映し出された一枚の写真をじっと見つめながら、私の心には静かな、けれど深い「問い」が浮かんできました。そこには、広瀬川の川面を黄金色に染め上げる太陽と、その光の中を穏やかに進む白鳥たちの影が映っています。 一見、どこにでもある美しい風景。しかし、この写真を眺める私の胸のうちは、少しざわついています。なぜなら、この「光」の正体を知っているのは、その場に立ち、その温度を感じた私一人だけだからです。

 

真実と解釈の「深淵」

この写真を、何も知らずに手渡されたなら、多くの人はこう迷うはずです。「これは、新しい一日が始まる『朝日』だろうか。それとも、すべてが静寂に帰していく『夕日』だろうか」と。写真という切り取られた静止画の中では、朝と夕の区別は曖昧です。どちらとも取れるし、どちらであっても美しい。 しかし、その場にいた本人だけが、これが「これから昇りゆく光」であるという真実を知っています。そして、それを見る人々がこの光を「朝日」だと信じることができるのは、その場にいた私の言葉を信頼してくださる、その一点にかかっています。

私たちの人生もまた、これと同じではないでしょうか。 目の前に立ちはだかる大きな試練や、手術を控えた不安、あるいは将来への迷い。それらは、ある人には「終わりの兆し(夕日)」に見えるかもしれません。しかし、同じ景色が、ある人には「新しい命の始まり(朝日)」に見える。 私たちは、自分の目に見える「現象」という不確かな写真だけを頼りに、右往左往し、時に絶望してしまうのです。

________________________________________

キリストという「唯一の証人」

私たちが、自分自身の人生という風景の中に、それが「夕日」ではなく「朝日」であると確信を持つためには、どうしても一人の「証人」が必要です。聖書が語る主イエス・キリストこそが、その証人です。 主は、最も高い天から最も低い場所へ 、そして「よみ(死者の世界)」という深い暗闇の底まで自ら降りて行かれました。死という

「夕暮れ」の現場に立ち、そこから復活という「夜明け」を最初に経験された、唯一の目撃者です。「恐れることはない。……あなたのために、救い主がお生まれになった。」

この天使の歌声、そして主イエスの言葉を私たちが信じることは、主の「真実」に自分を重ねることです。 たとえ今の自己像がうまくいかない現実に囚われていても 、主イエスに出会ったペトロが「岩」という新しい将来像を与えられたように 、主は私たちの人生の景色を、決定的に「希望の朝日」へと書き換えてくださいます。

神様はすべての人に「可能性(Potential)」を公平に与えてくださいました 。全能なる神(Omnipotent)とは、あらゆる可能性を光へと変える方です 。私たちがその方の証言を信じて歩み出すとき、私たちの前にある扉は、必ず輝く可能性の扉へと続いていくのです 。

________________________________________

証言のバトンを携えて

皆様。

今、皆さんの前にある景色は、どんな色をしていますか。もしそれが「沈みゆく太陽」に見えて不安でたまらないのなら、どうか「その場にいた方」の声に耳を澄ませてください。

主イエスは、あなたの痛みや不安や孤独の現場に確かに立っておられます。そして、「これは終わりではない。新しい始まりなのだ」と、命を懸けて証言してくださっています。その言葉を信じて一歩を踏み出すとき、私たちは「ただ生きる」のではなく、神様を愛し、隣人を愛する「愛の動詞」を生きる者へと変えられます。一人の少女が絶望したあの橋も、病床の不安も、主の証言があれば、必ず光の中へと組み込まれていきます。 私たちが主の真実を受け取り、今度は私たちが、誰かのための「希望の証人」となっていきましょう。

 

今日も、精一杯に生きることです。主のために、人々のために。

私たちの真の助け主は、主イエス・キリストのみです。

 

目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。わたしの助けはどこから来るのか。わたしの助けは来る/天地を造られた主のもとから。どうか、主があなたを助けて/足がよろめかないようにし/まどろむことなく見守ってくださるように。(詩編121編1~3節)

0 件のコメント:

コメントを投稿