祭りの灯が照らす不均等な夜 ―― 「問い」を抱えて共に生きる
お皿の上の小さな新風と、街を揺らす祭りの足音
お昼時に、冷蔵庫にある食材を揃えて焼きそばを作りました。家族三人で囲んだ食卓。これまでの作り方とは少し違う、美味しさが三倍もアップしたような格別な味わいとなり、お腹も心も満たされる温かいランチタイムとなりました。
今日と明日の二日間、私の暮らす仙台の街では「青葉まつり」が開催されています。実は、私はこれまで一度もこのお祭りを実際に見たことはありません。それでも、新緑の街路樹の隙間をすり抜けてくる熱気や、行き交う人々の弾んだ声を聞けば、この催しが街全体を力強く元気づけていることは間違いありません。
「何のために生きるのか」という眩しさと影
風の噂に、この祭りに参加することだけを楽しみに、一年間懸命に働いている人がいると聞きました。その話に触れたとき、かつて私がドイツに滞在していた頃に出会った友人の言葉が鮮やかによみがえってきました。彼は「自分は夏のバカンスを楽しむために、この一年間働いているんだ」と笑っていました。
人生の中に、そこへ向かって走るための明確な「モチーフ」があり、そのために大変な状況を耐え抜いて働くことができる人々。それはある意味において、とても幸せな姿なのだと思います。なぜなら、この世界の片隅には、人生を楽しむ余裕など一切なく、ただ明日の生計を立てるためだけに、休みなく働き続けなければならない人々も確実に存在するからです。
ふと、胸の奥に一つの重い問いが兆します。これは、不公平なことなのだろうか、と。 ある人は生まれたときから裕福な家庭に育ち、大した苦労もせず、自分の好きなことだけを追求して生きていく。その一方で、貧しい家庭に生まれ、最初から苦労の連続の中に置かれ、大切な家族を養うために、自らの夢を諦めて働かなければならない人だっているのです。
答えなき不条理の荒野に、互いの体温を寄せる
この「不公平」に見える現実を前に、私たちは立ちすくみます。 誰もが平等に夢を持ち、それを叶えられる社会とは、一体どこにあるのでしょうか。明確な答えを出すことは、あまりにも難しい。それは人類がずっと抱え続けてきた、答えのない問いなのかもしれません。
しかし、聖書はすべてが平等に見えないこの世界において、私たちが進むべき「一つの道」を指し示しています。
「互いに重荷を担い合いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになります。」(ガラテヤの信徒への手紙 6章2節)
環境の違いや、背負わされた境遇の差を、人間の制度だけで完全に無くすことはできないかもしれません。けれど、私たちはその不条理を前に諦めるのではなく、「共に生きる」
ことを選択することができます。重荷を一人で背負う誰かの傍らに立ち、その痛みを分かち合おうとする意志。それこそが、暗闇に閉ざされそうな社会に、一本の確かな光の筋を通すのです。
社会の隙間で、夢を見続けるために
あなた自身の今日という一日も、他者との比較の中で「どうして自分ばかりがこんな苦労を」と、割り切れない思いを抱えてはいませんか。あるいは、夢を諦めざるを得なかった過去の痛みに、胸を痛めてはいないでしょうか。
その問いに、今すぐ答えが出なくてもいいのです。 大切なのは、理不尽な現実に心を冷え切らせてしまうのではなく、「それでも、誰もが夢を持って共に生きられる社会になってほしい」と願う、その心の温度を消さないことです。
- 眼差し: 自分の豊かさや貧しさだけに囚われず、隣人の荷物に目を留める。
- 小さな祈り: 休みなく働く人々に、一瞬でも静かな安息が訪れるよう願う。
- 誠実さ: 与えられた場所がどこであれ、今日という一日を懸命に生き切る。
不完全な世界のなかで、手を繋ぎ合う
青葉まつりの賑やかな囃子が、遠くから聞こえてくるような気がします。 お祭りで輝く主役の後ろ影には、今日も音もなく、ただ家族のために汗を流している尊い労働者たちがいます。私たちはみな、異なる背景を持ち、異なる重さの十字架を背負って歩いています。だからこそ、私たちは互いを必要としています。答えのない問いを抱えたまま、それでもなお、互いを認め合い、支え合える美しい社会を、私は祈り、信じ続けたいと思います。我が家の食卓に満ちた美味しい焼きそばの余韻を胸に、今日も目の前の一人を愛することから始めていきましょう。
今日も、共に前進です。
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