「仕える」喜びが景色を塗り替える ―― 十年ぶりの東京、再会の巡礼
喧騒の中に響く、新しい足音
今日は、十数年ぶりとなる東京駅周辺を歩きました。普段、仙台の静かな朝の道を一人で駆け抜けている私にとって、人波が絶え間なく流れる東京の街並みは、まるで別世界のようでした。しかし、今日の私の足取りは、いつものトレーニングのそれとは全く異なる意味を持っていました。自分の限界に挑む四十五キロのランニングではなく、韓国から来られた牧師先生方々を目的地へと導く、「ガイド」としての歩みだったからです。
「待つ」ことが「もてなし」に変わる時
今回の旅では、自分でも驚くような体験がありました。日本一の称号を持つ「五代目 花山うどん」でのこと。店先には長い列ができ、私たちは三十分ほど並ぶことになりました。普段の私なら、食事のためにこれほど並ぶことはまず「あり得ない」ことです。
けれど、今日は不思議と苦になりませんでした。なぜなら、その時間は「自分の欲」を満たすための待ち時間ではなく、遠方から来られた先生方に最高の味を届けたいという、「愛」の時間だったからです。供されたうどんの、あの透き通るような麺のつるつるした食感。先生方が「最高だ」と目を細める姿を見た瞬間、並んだ疲れは霧散していきました。中には歩くのがしんどいと言われる先生もおり、二十年ぶりに都内でタクシーを拾いました。一人であれば決して選ばなかった選択肢。しかし、誰かの弱さを補い、その歩調に合わせることで、東京の景色はこれまでとは違った優しさを持って映り込んできました。
小さき者に仕える、大きな喜び
旅の締めくくりは、東京駅地下の「函太郎」での立ち食い寿司でした。新鮮なネタが口の中で踊るたび、皆の顔に満面の笑みがこぼれます。立って食べるというスタイルさえも、旅の愉快なスパイスとなりました。一人ひとりの体調を確認し、荷物を世話し、店を選び、歩調を合わせる。正直に言えば、自分のペースで走るよりもずっと、神経を使い、疲れました。しかし、聖書はこの「仕える」という行為の奥底にある真理を指し示しています。
「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。」(マタイによる福音書
20章26節)
自分のペースを捨て、他者の喜びを優先する。そのとき、心には「自分を満足させる」ことでは決して得られない、深い充足感と大きな喜びが湧き上がってきます。疲れは、誰かを大切に想ったことの尊い「余韻」なのです。
最終日のステージを前にして
予定通り成田エクスプレスに乗り込み、ホテルへと戻ってきました。振り返れば、すべてが守られた感謝の一日でした。
いよいよ明日はセミナーの最終日。私は講演の担当として、この集まりの始まりと終わりを締めくくる役割を担っています。今日、先生方に「仕える」ことで教えられた謙遜な心を携えて、壇上に立ちたいと願っています。自分の言葉で人を動かそうとするのではなく、ただ、神様の愛が私を通じて真っ直ぐに伝わるように。
あなたの「疲れ」を誇りに
あなたも今日、誰かのために自分の時間を使い、少し疲れてはいませんか? 思い通りにいかない他者のペースに合わせることに、もどかしさを感じてはいないでしょうか。
その疲れこそが、あなたが愛を実践した証です。 自分のペースを崩してまで誰かに差し出したその手は、何よりも美しく、神様の目に留まっています。
今夜はゆっくりと身体を休め、その「心地よい重み」を誇りに思ってください。
明日の朝、あなたはまた新しい愛を携えて、歩き出すことができるはずです。
今日も、共に前進です。
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