甘い香りの朝にひらく ―― 「誰がやるか」を越えて平和を編む
フレンチトーストの匂いと、朝の小さな驚き
今朝は午前六時半ごろ、愛犬ノアの朝食を用意するために二階へ上がりました。その瞬間、鼻腔をくすぐったのは、いつもとは違うどこか甘く香ばしい、美味しい匂いでした。
不思議に思いながら玄関の扉を開けると、そこには娘が立っていました。
「今日は早く目が覚めたから、フレンチトーストを作っているよ」
満面の笑顔でそう言われ、私は思わずびっくりしてしまいました。「すごいね!」と声をかけながら、私の心にはすがすがしい喜びが満ちていきました。予期せぬ家族の優しさに包まれて、ノアも嬉しそうに朝食を平らげました。これが、私の今日という一日の、第一の素晴らしい出来事でした。
「お花の世話は誰がするのか」という壁
喜びの余韻に浸りながら、次に向かったのは教会の外にある花への水やりでした。水やりをしながらお花を見つめていると、ふと、この場所に赴任したばかりの2018年4月ごろの記憶が鮮やかによみがえってきました。
当時、教会の外に美しいお花が欲しいね、と話す人々がいました。しかし一方で、「その毎日の世話は一体誰が責任を持ってするのか?」という現実的な意見が出され、結局は諦めていたようなのです。
誰も管理をする自信はないけれど、綺麗なお花は眺めたい。それもある種の、人間の自己欲の世界なのかもしれません。私は双方の言い分がよく理解できました。だからこそ、ある土曜日に私は一人で行動を起こしました。近くのホームセンターへ行き、自費で10個の植木鉢と春の花を買い、植え替えて教会の外側に並べたのです。 次の日曜日、教会員の皆様は大喜びでした。私は「水やりが大変なら牧師がやればいいと考えました。お花も鉢も自分で買ったので、あとは皆さんで管理してください」と言いました。こうして、長く揉めていた問題は一瞬で解決したのです。
こうした小さな葛藤は、教会に限らず、この社会のどこにでも、そしてどの家族の中にも頻繁に起こることでしょう。 問題の本質は、それぞれの正しい言い分をぶつけ合うことではなく、みんなにとっての「最高で最善の道」を模索すること、皆が喜ぶ方法を探し出すことです。しかし人間は、どうしても「できない理由」を先に考えてしまいます。だからこそぶつかり合い、葛藤や不和が続いてしまうのです。
探せば必ず見つかる、平和の平坦な道
実は、平和へと至る道はそれほど難しくありません。心を尽くして探せば、必ず見つかるようにできているのです。しかし多くの人は、「探すこと自体が面倒だ」と考えてしまいます。その結果、不便や不満を抱えながらも、ただ我慢して生きる道を選んでしまうのです。聖書は、私たちが互いの平和のために、どのように知恵を絞るべきかを教えています。
「平和を追い求め、これに生きよ。」(ペトロの手紙一 3章11節)
平和とは、何もしないところに自然に訪れるものではなく、自ら進んで「追い求める」ものです。「誰がやるのか」と互いを牽制し合うのをやめ、自分がその一歩を肩代わりしてみる。自分が植木鉢を買いに走ってみる。その小さな犠牲と実践のなかにこそ、主が用意してくださった平和の道が拓かれます。
悩みを抱える現場で、今を生き切る
前の教会ではこのような種類の問題はありませんでしたが、どの場所であっても、人々がそれぞれの悩みや課題を抱えて生きているのは確かです。
正直に告白するならば、赴任当時は、こうした小さな問題が重なったときに「自分はここでも長くはないかもしれない。来年になるか、再来年になるか……」と考えていたことも事実です。
あなたがいま置かれている場所でも、「どうして誰もやらないのか」と割り切れない思いを抱えたり、人間関係の摩擦に疲れ、ここから去るべきではないかと立ち尽くしたりしていませんか。
- 最善を追う: 自分の正しさを主張する前に、全員の喜びとなる選択肢を探す。
- 恐れない: 「できない理由」の壁を、自らの小さな奉仕で飛び越えてみる。
- 今を生きる: 未来がどうなるとしても、今日与えられた場所で精一杯愛を注ぐ。
答えが出ないように見える関係性の中にも、フレンチトーストの甘い香りのような、思わぬ和解と喜びの瞬間が必ず隠されています。
愛の連鎖を、自らの手から
娘が作ってくれた朝食の温もりと、みずみずしく咲く教会の花々。 日常のなかにちりばめられたこれらの景色は、私たちが諦めさえしなければ、世界はいつでも新しく、温かい場所になり得るのだと教えてくれます。
面倒に思えることの中にこそ、私たちが本当に手にするべき平和の種が眠っています。 今日出会う人々、そして共に暮らす家族にとっての「最善」を、まずはあなたの方から一歩踏み出して、一緒に探してみませんか。
今日も、共に前進です。
0 件のコメント:
コメントを投稿