立ち止まる勇気と、痛みが告げる恩寵 ―― 走る足を止め、次の一歩に備える朝
消えない違和感と、アスファルトの記憶
昨日の朝ランの後、右足の親指の隣の関節に巣食う違和感と痛みを感じました。その痛みが消えずにそこに留まっていました。
どこかに強くぶつけたわけではありません。しかし、毎日アスファルトを蹴り、何十キロという距離を重ねてきた私の足には、私自身が気づかないうちに、目に見えない衝撃と疲労が静かに蓄積されていたのでしょう。
歩みを支え続けてくれた右足が、今、はっきりとした声で「少し休ませてほしい」とサインを送ってきています。
「走らない」という、もう一つの前進
今日は東北大学のキャンパス礼拝での説教の務めが控えています。この痛みを抱えながらも、まずは神様から託されたその大切な時間を、心を込めて全うしてきます。
そして礼拝が終わったら、その足で真っ直ぐ、近くの整形外科へ向かい、専門の先生にしっかりと診ていただくつもりです。同時に、私の中で一つの決断を下しました。 「今週は、ランニングを完全に休む」ということです。
毎日走ることが日常となっている者にとって、「走るのをやめる」というのは、実は走ること以上に大きな勇気が必要になります。休めば体力が落ちるのではないか、せっかくの習慣が途切れてしまうのではないかという焦りが、心を急き立てるからです。
しかし、この痛みを無視して走り続けることは、決して「強さ」ではありません。自分の体の限界を知り、その声に素直に耳を傾けること。それこそが、長く道を歩み続けるための本当の強さなのだと、今、静かに思い至っています。
今を受け入れ、次なる道へ備える
聖書は「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と語っています。 走る時があれば、立ち止まる時がある。痛みが教えてくれる「休むべき時」を素直に受け入れることは、決して人生の後退ではありません。それは、次に踏み出す一歩をより確かなものにするための、神様が与えてくださった「恵みの安息」なのです。
この痛みは、私に「自分の力だけで走っているとうぬぼれてはいけない」という謙遜さを教えてくれています。 今の自分の状況をごまかさず、真摯に受け止めること。そして、焦らずに治療とメンテナンスに専念し、来るべき秋の祈りの旅や、これからの長い人生の道のりのために「備える」こと。
この立ち止まる一週間もまた、私が歩むべき大切な巡礼の道の一部なのだと確信しています。
焦りを手放し、恵みの時を味わう
もしかすると皆様の中にも今、病や怪我、あるいは環境の変化によって、思い通りに前に進めず、強制的に「立ち止まらされている」と感じている方がいらっしゃるかもしれません。どうか、その焦りを手放してみてください。
立ち止まることは、負けではありません。それは、傷ついた羽を休め、次に飛翔するための力を蓄える尊い時間です。今のその状況を静かに受け入れた時、見えなかった新しい景色と、神様の優しい配慮が必ず見えてくるはずです。私は今日、走る足を止め、心穏やかに回復への道を歩み始めます。
どんな状況にあっても、歩むべき道は用意されています。走ること自体が人生の目的ではないので・・・・・ランニングは元気な人生を支える一つの手段であるのです。
今日は、少し休みながら、共に前進です。
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