2007年1月1日(月) 大晦日
今日は2006年の最後の日であり、日曜日。 世間ではフセインの死刑が報じられ、相変わらず自爆テロで数名の命が失われたというニュースが流れる。暗い世の中を前に、2006年を送り、新しい年を迎えようとしている。こちらでは、パン屋に新年のパンが並び、スーパーでは花火が売られている。
皆さんにとって、この一年はどんな年だっただろうか。一言では言い尽くせぬほど、たくさんのことが各家庭であったことだろう。来年こそは良い年に、と誰もが願い続ける。今の自分から抜け出して、新しい自分になりたいと。
いつも期待はするものの、変わらない自分を見て失望する。キルケゴールは著書『死に至る病』の中で、それを「絶望」と説明した。希望のない世界、まったくの暗闇の中での人生など、誰も想像したくないだろう。
私たちは、希望のある世界を生きているだろうか。 今日は久しぶりに、大阪にいる親しい友人から便りがあった。明るく、希望に満ちた言葉でいっぱいだった。私たちはどんな時であれ、希望を捨ててはならない。周りが暗闇に包まれていても、自分自身が小さな灯火となって、その闇を照らすのだ。無理に頑張らなくてもいい。ただ希望を持って生きることで、不思議と周りは照らされていくのだから。
希望に満ちた新年を夢見ながら、今夜も休もうと思う。
2007年1月19日(金) 新たな出発
この一ヶ月の間に、私たちの歩みは新たな方向へと導かれているようだ。 人間の計画と、神様の計画は違うこともあるだろう。しかし、それをどうやって知ることができるのか。それは人間にとって、最も苦しい問いの一つだ。
だが、まったく分からないわけでもない。神様は常に、御言葉や祈り、あるいは周りの人々を通して、歩むべき道への合図を与えてくださる。これからどう進むべきか、いくら考えても答えは出ない。しかし、立ち止まるのではなく、今の道を進む中で、常に神様の御心はどこにあるのかと祈り続けることが大事なのだろう。
はっきりと分かることは、この一年間でこれからの道が決まるということ。それまで祈りと努力を重ねて、歩み続けることが大切だ。
2007年1月27日(土) 愛するTさんを天に送って
「ちからの主をほめたたえまつれ……」 讃美歌9番。Tさんと二人でよく歌った曲だ。奥様を先に天に送られてから、彼はご子息のMさんと一緒に教会へ導かれた。体はあまり丈夫ではなかったが、日曜日には欠かさず礼拝に出席されていた。
一昨年の6月から、毎週金曜日にご自宅で洗礼準備会を始めた。彼はよく、ご自身のことを話してくれた。写真が趣味で、たくさんの思い出が詰まった写真を見せてくれた。生前の奥様と出かけた旅先での写真や、美しい自然を収めた写真など……。奥様との出会いは神戸にいた頃で、最初の印象は「若くて可愛い小娘だった」と、照れたように話してくれた。
息子のMさんとは普段あまり会話はないようだったが、とても彼のことを心配していた。Mさんもまた、口数は少ないながら、父親のことを深く案じていた。私はその真ん中で、息子から父へ、父から息子への、二人の静かな愛を感じることができた。
Tさんは準備会が終わると、いつもお茶を入れてくれた。教会に導かれてからは、キリスト教に関する本もご自身で買い求め、熱心に読んでおられた。彼が住んでいた6階の部屋は、日当たりがとても良かった。
彼は今頃、先に待つ奥様と共に天国で神様を讃美し、安らかに、まったき平安の中で過ごしているだろう。この地上での疲れや悩み、痛みから解放されて。幸せそうに微笑んでいる彼の笑顔が目に浮かぶ。
いつか再び、私たちは天の国で出会うだろう。その時まで、私たちを出会わせてくださったイエス様を、もっと多くの人々に伝えたい。それでも、彼がいなくなったこの世界を生きるのは、やはり寂しい。Mさんもそう思うだろう。私も同じだ。この寂しい気持ちを、隠すことはできない。
「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(テサロニケの信徒への手紙Ⅰ 5:10-11)
Tさんの死もまた、私たちが主と共に生きるようになるためなのだ。欲や憎しみ、争いを棄て、互いに励まし合い、愛し合い、天に望みを持たせるために、彼はこの世を去り、主の御胸に抱かれている。まったき平安の中で。
2007年2月4日(日) 冬学期が終わる
今週で冬学期が終わり、4月のイースター休暇が明けると夏学期が始まる。 最近は日が長くなったと感じる。また、昔とは違って暖かい日々が続いていると人々は言う。温暖化のせいだろうか。自然のリズムが狂っているように、私たちの人間社会でも同じ現象が起きている。家族関係、友人関係、職場での関係、あらゆる人との関係が狂っている。これは誰の責任でもなく、人間自らが招いた結果だ。
自己中心的な考え方、利己心が招いた結果。一言で言えば、罪である。人々は壊れた関係だけを回復しようとするが、その以前に、まず解決すべき問題がある。それは、神様との関係だ。しかし人々はそれに気づこうともしない。
私たちの世界は変わるだろうか。誰もが変わってほしいと願っている。せめて自分の家族や友人、身近な人々との関係が、平和なものであってほしいと。
今週の水曜日は、大変お世話になっている先輩の博士号授与式が行われる。家族で出かける予定だ。先輩は3月半ばに日本へ戻り、牧会に出られる。日本の伝道と、正しい神学に基づく教会形成が期待される。今日は本当に良い天気で、気持ちよく過ごしている。明日の平和のためにも、祈りながらこの日を送りたい。
2007年2月9日(金) 雪の世界
二日間、村に雪が降り、町中が白く染められた。ハイデルベルクでは雨だったが、こちらは雪だ。 尊敬する先生の博士号授与式が無事に終わった。とても素敵なホールで行われたが、少し寂しい感じの式だった。人が少なかったからだ。夏学期には大勢の人がいるらしいが、冬学期に博士号を取得したのは、神学部では6人だけだった。
2007年3月12日(月) ハイデルベルクの春
いよいよ、こちらに春がやって来た。 青空が広がり、数多の飛行機が、白い跡を残しながら飛んでいく。家の前の木々には花のつぼみが膨らみ始め、もう春の花もたくさん咲いている。
今日は3人で近くの森へ行った。朝の10時過ぎだったが、誰もいない。とても気持ちの良い一日だ。深く深呼吸をして、森の中へ入っていく。娘は気持ちよさそうに妻の手を掴んで歩いた。今日は1時間以上も歩いただろうか。
いつもこういう天気ならいいのに、と欲張ったことを考える。しかし、こんな天気が毎日続けば、きっとそのありがたさを忘れてしまうのだろう。人間とは、そういうものだ。だからこそ、久しぶりの晴天に神様へ感謝し、喜びながらこの一時を過ごす。
昨日は久しぶりに3人で、住宅街にあるヤコブス教会へ礼拝に行った。指導教授が説教をされるとメールで伺ったからだ。休日はバスが1時間に1本しかないので、私たちは1時間も早く家を出て、町で30分以上時間をつぶしてから10時の礼拝に出た。
教会は比較的新しい建物で、天井や壁がガラスでできており、朝の光が堂内いっぱいに差し込んでいた。とても明るく、気持ちまで晴れやかになるような教会だった。
春になると、たくさんの観光客がこの地を訪れる。本格的な観光シーズンの到来だ。私たちも、もう少し足を伸ばして、遠くまで旅に出たいなと思うこの頃だ。車でも借りてイタリアまで走りたいな、などと微笑みながら、今日一日を過ごす。
2007年3月17日(土) 森へ
今日は娘が19ヶ月になる日。毎月のこの数字は、我が家にとって大切な日となった。いつまでこうして意味を与えるかは分からないが、私たちにとっては感謝と喜びの数字だ。今日まで守られ、元気に育ってくれたことに、改めて神様へ感謝の祈りを捧げる。
午後、また3人で森の中へ入った。今日は歩いたことのない道を選んだ。春の日差しが森を照らし、鳥たちのさえずりが響く。途中で出会ったリスが素早く木に登る姿は、娘にとって初めての体験だった。
今日もたくさんの木が切られ、道端に積まれていた。電気ノコギリの音や、空を飛ぶ戦闘機の音には少し嫌な気分になったが、気持ちよく森林浴ができたことに感謝する。
この平和な町にも、悩みや苦しみを抱える人々がいるだろう。今日一日を生き延びるために、必死に戦っている人々がこの世界にはたくさんいることを、決して忘れてはならない。真の平和と安全な生活が、早くこの世界の隅々まで届きますようにと、今日も祈りを捧げる。
今はレントの期間。イースターまであと3週間だ。こちらではウサギの人形や卵の飾りが多く売られている。いつも通る道沿いの家には、わらで大きく作ったウサギも飾ってあった。これから、また色々と新しい経験と学びが始まる。
草原
森を少し抜けると、草原が広がっていた。村の家々も一望できる、とても景色の良い場所だ。帰り道、娘は疲れたのか、座ったまま動こうとしなかった。
2007年3月19日(月) 再び雨の日が
この一週間は良い天気だったが、今日からまた雨だ。 今日は、親しくさせてもらった先生の一家が日本に帰国する日だった。私たちはフランクフルトまで見送りに行こうと、朝早くから支度をした。しかし、礼拝が聖餐式や特別賛美などで長引き、終わったのは2時間後。天気も嵐のようになり、雨が降り続いていた。
妻はこの数日前から風邪で苦しんでいたが、私の言葉で空港まで行くことにしてくれたのだ。結局、見送りには間に合わず、そのまま家に帰ってきた。いつの間にか、自分の家族のことを第一に考えるようになった。年をとったせいか、今までとは少し違う自分に出会ったような一日だった。
明日からは、図書館で一日中勉強しなければならない。娘と遊べるのは、朝の1時間だけになる。その代わり、週末は家族のために充実させたい。この家族を与えてくださった神様に感謝。
2007年3月22日(木) 通り雪
再び冬が戻ってきたかのような天気が続いている。月曜日から、雪が降ったり止んだりを繰り返している。 今朝は晴れていたので、風邪気味の妻のことも考え、今週は家で過ごすことにして3人で買い物に出かけた。しかし、途中からまた雪が降り始め、天気はますます崩れていく。二人に先に帰るよう促し、私だけが買い物を続けた。
急いで家に戻ると、二人が外で待っていた。聞けば、鍵が開かないという。しまった!中から鍵を差し込んだまま、別の鍵を持って出てきてしまったのだ。
上の階の人に鍵屋の電話番号を教えてもらい、来てもらうことにした。30分から40分かかると言うので、玄関の前で待つ。娘は乳母車で眠り込み、私たちは買ってきたお菓子を食べながら話をした。普通なら夫婦喧嘩の種になりそうなものだが、二人で笑いながらこの時を過ごせたことに感謝した。私のミスを、二人が笑顔で受け止めてくれたのだ。
しかし、1時間経っても鍵屋は来ない。待ち時間は2時間近くになった。上の階の人がお茶を持ってきてくれたり、親切に声をかけてくれたりした。しばらくして日が差し、娘も目を覚ます。30分後、ようやく別の業者が来てくれ、金具をドアの隙間に差し込むと、あっという間にドアは開いた。70ユーロは払ったが、とにかく感謝だった。家に入ると、また雪が降り出し、嵐のようになっていた。
こういう失敗もしながら、ドイツでの生活は続いていく。今日は本当に、感謝の一日だった。早く妻の風邪が治りますように。
再び雪の世界
今朝、窓を開けると、雪の世界が目の前に広がっていた。一晩中、雪が降り続いたらしい。今も降り続き、外は真っ白だ。3月も終わりだというのに。 自然の世界も、私たちの人間社会のように、少しおかしくなっているのかもしれない。その原因を探せば、人間の罪や欲望に行き着くだろう。しかし、原因を探すよりも、回復のためにどうすればいいのかを考え、行動に移すべきだ。今なら、まだ遅くはない。
なるほど!
この前、ある韓国の教会で、有名なニュースアナウンサーの女性を招いてセミナーが開かれたそうだ。テーマは「説教の語り方」について。彼女は三つのことを言ったという。
一、礼拝での説教は、感動を与えなければならない。 二、感動を与えられないなら、面白い説- 教でなければならない。
三、感動も面白さもない説教なら、せめて短くしなければならない。 なるほど!皆さんはどう思うだろうか。
動物園
こちらに来て初めて、動物園へ行った。娘にとっては、生まれて初めて動物を見た日だ。 実は指導教授から誘われ、町の教会で一緒に礼拝を守った後、日本人の先輩家族と昼食をとり、そのまま動物園へ行くことになったのだ。こちらの動物園は規模が小さいので多くの動物には会えなかったが、娘は楽しそうだったので、感謝の一日だった。
不審者?
ある日、早く図書館から帰ると、家には誰もいなかった。二人は森へ行ったなと思い、探しに行く。温かいうちに一緒に食べようと、トルコ料理のケバブを買ってきたからだ。
しばらく森へ入ると、二人が歩いていた。まだ私には気づいていない。音を立てぬよう、木に隠れながら静かに近づく。妻がこちらを振り向いたが、私だとは気づかず、そのまま歩いていく。木陰から写真を撮ると、やっと気づいたらしい。「お父さんだよ!」と娘に声をかけていた。こうして、平凡な日々は過ぎていく。
緑と白の調和の世界へ
昼過ぎ、町から帰ってきて、一人で森へ行った。誰もいない静かな森。時折、鳥のさえずりが聞こえるだけだ。 散策路に沿って、白い雪の上を歩く。誰かが犬と歩いた足跡が残っているだけ。次にこの道を歩くのは、私一人だ。白い雪に染まった森を見ながら歩いていると、突然うさぎが現れた。人の気配を感じたのか、写真を撮る間もなく、素早く走り去っていった。この森で見た二種類目の動物だ。
最近、時々胸が苦しくなる。新鮮な空気を吸いたいと思い、今日も森へ来たのだ。これは体の問題ではなく、心の問題だろう。色々と考え事が多かったせいか、あるいは40代という年齢のせいか。常に健康には気をつけているが、油断してはいけないと改めて思った。
娘は最近、自己主張が一層強くなった。学びと子育てと家事。うまくバランスを取りながらやっていけるよう祈っているが、なかなか難しい。これは常に、愛を土台にした工夫と努力が伴う、大事な作業なのだろう。妻の風邪も少し治まったようなので、明日からはまた図書館での生活が始まる。
2007年3月23日(金) 苦しみを乗り越えて
「あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。」(イザヤ 41:14)
聞いてください。「わたしはあなたを助ける」と、主が言われるのです。 それは、力なく弱い人の言葉ではありません。どんな場合でも必ず助けるという、天地の造り主なる神様の言葉です。今、力がなく、歩くことさえできずにいますか。今日一日を生きるのも大変だと感じていますか。明日を生きる希望も、勇気も、力もない状態ですか。
この確かな約束を、もう一度聞いてください。「主は言われる……わたしはあなたを助ける。」
全能の神様が言うのです。あなたを助けると。だから生きるのです。だから希望があるのです。だから明日を待ち望むのです。だから私たちは祈るのです。「主よ、助けてください」と。
共にいる主
「見よ、わたしは火をもってお前を練るが、銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。」(イザヤ 48:10)
今、苦しみの中にいる人々よ、神様がこうおっしゃったことを常に覚えてください。 この御言葉は、正確には「苦しみの炉でお前を選んだ」という意味です。苦しみよ、来い。神様は私を選んだのだ、と。熱く燃え盛る炎の中にいたダニエルの三人の友と共にいてくださった主が、今、皆さんと共にその苦しみを受けています。
そして私たちにも、何の害も受けることなく、その苦しみを通り抜ける時が必ず訪れます。主が共にいてくださるからです。今の苦しみを、痛みを、孤独を恐れないでください。主が、あなたと共にいてくださいます。
雪に埋もれる
三日間、雪が降り続いている。今朝、一人で森へ行った。今日は、まだ誰も足を踏み入れていない雪の上を歩く、初めての人間となった。
雪は、私の腿のあたりまで積もっていた。歩きにくいが、心はわくわくしていた。木の枝が雪の重さに耐えきれず、あちこちで折れる音が聞こえる。動物の足跡が雪の上に残っていた。今日は会えるだろうかと、ひそかに期待しながら歩いた。
本当に、白い世界に自分一人がいる。不思議な気分だった。 今日は3人で、家でごろごろしながら過ごそう。この雪は、いつ止むのだろうか。
人形に埋もれて
大雪で外に出られず、家で遊んでいる娘。自分から「人形を椅子に乗せて」と言い出した。決して親の趣味ではない。 最近、気に入らないことがあると大声を出したり、泣いたりする。私たちの言葉の真似も、よくするようになった。確かにこの子は成長している。いや、神様によって育てられているのだと、考えを改めてもらった。
どんな時であれ、神様を第一に考える。それは、何よりも大切な信仰者の姿勢だ。
2007年3月24日(土) サマータイム
明日からサマータイムが実施される。午前2時が3時になることから始まる。 ドイツでは1980年から実施され、2002年には欧州連合が、毎年3月の最後の日曜日から10月の最後の日曜日までをサマータイムとする制度を導入したようだ。慣れていないと、礼拝の時間に1時間も遅れてしまう、ということも起こるらしい。
2007年3月27日(火) 平和の源
「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。」(マタイ 26:56)
「このとき」とは、どんな時だっただろうか。主イエスが苦難を受ける、まさにその瞬間だった。その時、彼らは主を見捨てて逃げたのだ。
これは、主を信じる者が自分自身の力だけを頼る時、いかに弱いかを示す一例に過ぎない。
約束をすることと、守ることは全く違う。「主のためなら、どんな苦難でも受けます」と私たちは言う。しかしいざとなると、自分自身の利益を、自分の家族のことを、主イエスよりも先に考えてしまう。
本当は、主イエスの御許より安全な場所はないはずだ。しかし私たちは、安全と平和を、主イエス以外のところから探し求めている。真の平和と安全な人生を送りたいのなら、主イエスのところへおいでください。仮に嵐の中にあっても、きっと真の平和を得ることができるだろう。
朝の日
今朝、いつものように散歩に出かけた。雪はほとんど溶けていた。 静かな森へ入ると、そよ風の音や鳥たちのさえずりが聞こえてくる。しばらく歩くと、朝日が昇り始めた。真っ赤な太陽が、木々の間から顔をのぞかせる。一瞬立ち止まり、深く深呼吸をする。まるで太陽から、今日一日を生きるエネルギーをもらうかのように。
体の健康も大事だが、心の健康、さらに霊的な健康を求めたい。上からの力を求めて、今日という日を生きるのだ。
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