2007/04/01~05/27のドイツ編

 


200741日(日) キツツキ

今朝も、いつも通り7時に森へと散歩に出かけた。今日は三人一緒だ。 いつもの道を歩いていると、「タタタタ……」という音が聞こえてきた。キツツキだと思い、立ち止まって木の上を見上げると、一羽のキツツキが木をつついている。実際にその姿を見るのは、生まれて初めてだ。

 


しばらく、その行動を観察する。自分がつついている場所を回り込みながら、一心に木をつついている。穴が開くまで見ていたいが、そうもいかない。私は再び歩き始めた。明日、穴が開いているか、確かめてみようと思う。やがて、真っ赤な太陽が昇り始める。まぶしくはない、ただただ赤い太陽。深く深呼吸をしながら、その太陽からのエネルギーを吸い込む。今日一日を生きるための、十分な力を求めて。

 

その太陽を創られた方を讃美しながら、歩き続ける。この太陽が、ただの偶然によって生まれたとは、どうしても思えない。宇宙や世界、そして私たちの人生を、理論だけで解釈することは不可能だ。だからといって、すべてを信仰だけで説明するのも違うだろう。

ただ一つ言えるのは、偶然という言葉では片付けられないことが、私たちの人生にはあまりにも多いということだ。

 

私の散歩は30分ほど。もっと歩きたい気持ちもあるが、朝食の支度は私の役目なので(決まっているわけではないが、自分がやりたいのだ)、このくらいで我慢する。 今週は、主イエスが十字架にかかるための受難を受ける週。こちらの教会では、様々な礼拝や音楽会が行われる。

 

200743日(火) 沈黙

私たちの社会において、自己主張なしに自分の立場を保つことは難しい。特に西欧社会ではなおさらだ。自らを高く評価し、相手に伝えなければ、損をしてしまう。

もし、罪を犯していないのに裁判にかけられたら、人々はどうするだろうか。命がけで無罪を主張するに違いない。有能な弁護士を雇い、潔白を証明しようとするだろう。

ここに、無罪でありながら裁判所に立たされている一人の人がいる。不思議なことに、この人は自らの無罪について何一つ語らない。ただ、沈黙している。人々から不当な証言を受けているのに、一切弁明をしない。

 

「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。屠り場に引かれる小羊のように/毛を切る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザヤ53:7

その主の沈黙によって、私たちは永遠の命を得ることができたのだ。

 


200744日(水) りす

良い天気が続き、昼間に三人で森へ行った。しばらく歩くと、リスが現れた。好機とばかりに、写真を撮る。木の上に登っているのが、そのリスだ。鳴き声も初めて聞いた。

こちらの学校は今、春休み。木曜日には洗足木曜日の礼拝が、金曜日には聖金曜日の礼拝が行われた。そして日曜のイースター礼拝、さらに月曜日にも礼拝がもたれる。金曜日から月曜日までが連休なので、朝の礼拝ができるのだ。ずいぶんと日も長くなった。三人で迎えるドイツでの初めてのイースターに、感謝している。

 


200747日(土) 鹿

今日も気持ちの良い朝を迎えた。森へ散歩に出かけ、今日一日をどう過ごそうかと考えながら歩く。 突然、鹿の群れが現れた。人の気配を感じたのか、あっという間に森の奥深くへと走り去っていく。こちらで初めて見かけた鹿だった。まだ子鹿のようだ。

 


静かな森を一人で歩いていると、まるで自分の森のように感じられてくる。私の話し相手は、鳥や動物たち。太陽の光が差し込み、次第に森は明るくなっていく。 都会での忙しい日々の中で、いつの間にか忘れていた感情が、再び甦ってくるのを感じる。

 


昨日は聖金曜日。朝の礼拝に三人で出席し、聖餐式にもあずかることができた。感謝。聖餐台に置かれた茨の冠が、印象的だった。 教会の裏手は村の共同墓地になっているが、それぞれのお墓には綺麗な花が飾られ、とても明るい雰囲気だ。家族によって、日頃から手入れされているのだろう。

明日から店は二日間休みになるため、町のスーパーは買い物客でいっぱいだった。

 

2007412日(木) 分かち合うこと

西洋の文化は、物質的なものだと言われる。いかに努力して財産を蓄えたかが、成功の基準となる。それに対して、インディアンの成功の基準は、自分の同族にいかに奉仕できたか、だという。

 

ある日、一人の宣教師がインディアンの子どもたちに問題を出した。正解した子には、ご褒美をあげると約束して。しかし、誰一人答えようとしなかった。決して難しい問題ではなかったのに。 不思議に思った宣教師が尋ねると、一人の少年がこう答えた。「一人だけご褒美をもらうより、皆がもらわない方がいい」と。

共に生きる社会。それが、インディアンの社会だったのだろう。

 

主イエス・キリストがこの世に来られたのは、何かを得るためではなかった。ご自分を、皆に差し出すためだった。私たちのために、十字架の上ですべてを注ぎ出してくださったのだ。 成功の基準は、自分のためではなく、神のために、隣人のために、いかに仕えるか、でなければならない。

 

豊かだから助けるのではない。仕え、助けるから豊かになるのだ。ない状況の中でも分かち合い、奉仕することこそが、本当の「仕える」ということなのだろう。仕えるとは、自分の一部を人に渡すこと。そこには、自然と犠牲が伴う。今日一日が、キリストの愛をもって人々と分かち合う日となることを、祈り願う。

 


2007422日(日) 夏?

今週は、まるで夏のような天気だった。「これは8月の気温だ」と人々は言っていた。 ネッカー川沿いの芝生には、大勢の人々が日光浴に集まり、まるで海水浴場のような賑わいだ。観光バスの数も、日に日に増えている。

 


学校も始まり、毎日が忙しい。これまで日曜は閉館していた大学の図書館も、5月からは夜10時まで開くことになった。ドイツの大学も授業料を取るようになり、その影響で学生の要求に応える形になったようだ。

 

だんだんと日が長くなり、外の光を遮って寝なければならなくなった。特に娘の部屋は、小さな布団で窓を覆って寝かせている。何よりも、家族三人の健康が守られ、日々を過ごせていることに感謝する。

 

サッカー

数年ぶりにサッカーをした。こちらのアマチュアチームに誘われ、昨日、ミニゲームに参加したのだ。 試合では7ゴールを決め、チームに認めてもらえたようだったが、しばらくは参加できないと思った。土曜日と日曜日は、家族と過ごし、娘と遊ぶための唯一の時間だからだ。普段は朝6時に家を出て、夜9時ごろに帰るので、二人と話す時間はほとんどない。一つの楽しみができたが、家族のために諦めることにした。しばらくは我慢して、学びと家族との良い関係のために励みたい。

 


2007429日(日) 今日、思いついたこと

暑い日々が続く、4月最後の週末。町には大勢の人々が、露天カフェや川沿いの芝生で賑わっている。 本来なら4月は雨の多い月だが、今年は珍しく晴れの日が続き、多くの人が町へ出かけているようだ。

 

今朝、図書館へ行く途中、バスの車窓から牛たちが草を食むのが見えた。帰りの午後4時ごろ、まだ同じ場所で草を食べていた。「朝からずっと食べていたのかな」などと考えながら、帰ってきた。

 

都会に慣れた人には、こちらの生活は不便に思うに違いない。しかし、人はそれぞれの環境に慣れるものだ。時間が経てば、不便さも感じなくなる。私たちは今、ドイツの静かな田舎で暮らしている。感謝。最近、韓国から取り寄せた本を読みながら、これからの教会のことを考えている。特に日本の教会のあり方や未来を、現代社会の変化に照らしながら思うのだ。日本の教会は、どのように変わっていくのだろうか。今のままでは、明るい未来を想像するのは難しい、というのが正直な気持ちだ。

 


200751日(火) ドイツ生活1年を振り返って

430日で、ドイツに来てちょうど1年になる。 最初のボンでの生活は、ワールドカップもあって賑やかな町で過ごした。毎朝ライン川を走り、時には語学学校まで往復2時間歩いて通ったりもした。週末には一人で旅に出て、色々なことを体験した。

 


こちらハイデルベルクへ引っ越してからは、家族を迎える準備に追われたが、なんとか生活の基盤を整えることができた。10月に妻と娘を迎え、3人での生活が改めて始まった。何よりも、娘の成長を見守りながら、楽しい日々を過ごしている。

 

自然豊かな場所での生活のお陰か、体を壊すこともあまりなかった。感謝。 今日は休日で、私たちの村ではグリルパーティーが開かれる。今朝、散歩がてらその場所を見てきた。今日も良い天気だ。これからの歩みも守られるよう祈りながら、今日一日を共に過ごしたい。

 


200752日(水) Beichten(告解)

月曜の午後は、ゼミに出ている。今回のテーマは「告解」だ。 昨日、指導教授から「慰めとしての教会」というご自身の著書をいただいた。機会があれば、ぜひ日本語に訳したい本だ。きっと日本の教会にも役立つだろう。

 

さて、午前11時ごろ、例のグリルパーティーへ三人で行ってみた。まだ早いせいか人は少なかったが、「こういうものかな」と思い、私たちは散策を続けて帰ってきた。

最近、娘は讃美歌を一緒に歌うのが大好きで、毎日のように讃美歌集を私たちに手渡しては、「歌って」と合図をする。しかし、音程が合わないと首を振って止めさせるのだ。毎日CDで聴いているので、少しは分かっているのかもしれない。

 


200756日(日) 春まつり

昨日から、ここハイデルベルクでは春の祭りが開かれている。今日は久しぶりに三人で出かけてみた。 まず本屋で、娘の絵本を買った。彼女は本が好きで、毎日読んであげている。そして、大学の学食で初めて昼食をとった。ビュッフェ式で、重さで値段が決まる仕組みだ。

 


その後、大学広場で乗り物や出店を見て回った。娘はまだ一人では乗れないようで、見るだけだった。 約3時間の外出を終え、バス停へ向かう。途中で娘のおむつを替えたくなり、ある店に立ち寄ると、交換用のベッドと無料のおむつが用意されていた。なかなか良いサービスだと思う。

 

今日から天気が崩れ、先ほどから雨が降り出している。早く帰ってきてよかったと妻は言うが、こちらでは雨などあまり気にしないようだ。天気の良い日と変わらず、人々は散歩や買い物を楽しんでいる。

 


2007514日(月) Muttertag(母の日)

昨日は、ドイツの母の日だった。週末の花屋は、どこも混雑している。珍しく日曜の午前中も店を開き、花を売っていた。お花を持って歩く人々を、大勢見かけた。 しかし、これが年に一度の行事で終わるのではなく、日々の生活の中で母親への愛や尊敬が表れたら、もっと良いのにと思った。

 


現代における家庭の問題は、昨日今日に始まったことではない。こぼれた水を取り戻すのは、不可能に近いかもしれない。だからこそ、その前に注意することが大事なのだ。つまり、家庭教育である。その時期に適った教育が大切で、一番効果があるのは、言うまでもなく親自らの行動、手本だろう。100の言葉より、1つの行動が、子どもたちには影響を与えるのだから。

 

2007517日(木) M’Cheyne式聖書読みについて

19世紀、スコットランドの牧師であったロバート・マレー・マクシェインは、教会の信徒に聖書を読ませるにはどうすればいいかと考え、聖書通読表を作った。 この「マクシェイン式聖書読み」は、今も大勢の人々に用いられている。この方式に従うと、一年に旧約聖書を1回、詩編と新約聖書は2回読めるようになっている。

 

私自身も昨年からこの方式で聖書を読んでおり、毎朝起きるとすぐに4章ずつ声に出して読んでいる。旅行や帰省の時には、前もってその期間分を全部読んでおく。そうしないと、旅先ではなかなか聖書を読むことができないからだ。

 

この方式で聖書を読もうとする人は、まず固い決心と共に、聖書を読む時間を毎日規則的に確保することが大事だ。これを何年か続けると、聖書の全体像が頭の中で整理され、何よりも神様の御言葉が、自らの霊的な肉となり骨となるだろう。

 


2007520日(日) 再び暑い日々が

先週は雨で少し肌寒かったが、昨日からは再び暑い日が続いている。 ネッカー川では多くの人がカヌーやボートを楽しみ、川沿いの芝生にはテントを張って週末を過ごす人々もいる。私たちの村にも、森林浴を楽しもうと大勢の人が訪れている。

娘は毎日、妻と家で過ごしたり、森へ散歩に出かけたりしている。最近、私は勉強が忙しくなり、一緒に散歩に出かけることはないが、できるだけそういう時間を作ろうと考えている。

 


2007527日(日) 子供のように

何か新しいことも、変わったこともない、平凡な日々。家族が守られていることに感謝しながら、毎日を過ごしている。 言葉を多く話すようになった娘の姿や、豊かになっていく顔の表情を見ているだけで、日々が楽しい。



今朝、3人で買い物に行った。途中で出会った人々から、娘は何度も声をかけられた。「可愛いね」「おいくつ?」などと。子どもがいるからこそ、人々と親しくなれるのだ。



世界中の子どもは、みな可愛い。敵意を持たず、警戒もせず、相手の表情や振る舞いに、ありのままに反応する。大人と違って、心の中で色々と計算したりしない。子どものように、ありのままで人と接し、語り合いたい。そう受け入れてもらいたいと、ふと思った。

 

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