中年のリストラは過ちである
「我々の産業は45歳になっている人々を解任するという、深刻な過ちを犯している。このままでは、人生において効率性が最高潮に達する10年という時間が、無駄に捨てられることになるだろう。 45歳から55歳までは、筋肉の力や肉体的な活力を除いたすべての面、つまり判断力、安定感、誠実性などが最も高まる時期なのだ。私たちには、彼らの熟練した頭脳による働きが必要なのである。」
これは、J.A.ブリトン博士が1930年にアメリカ医師協会で発表した言葉だ。当時、アメリカで起こった大恐慌による中年の大量解雇を見て、科学的にも大きな過ちであると彼は指摘したという。
「中年」——。この言葉は、確かに自分が聞いても良い響きをもたらすものではなかった。今までは。しかし最近、「中年」という言葉が、美しい、無限の可能性を秘めた言葉として、自分の中に響き始めている。
ただ、今も多くの中年の人々が、その言葉を自ら「人生の下り坂」のように受け止めている。その無限の可能性を、みすみす捨ててしまうのは、とても残念なことだと思う。
今朝、森へ散歩に行った。夜が明ける頃だ。暗い闇が過ぎ去ろうとしている。彼方から、明るい太陽が昇ろうとしている。中年とは、まさにこういう光景の時期ではないかと考え始めた。これまでの暗い時は過ぎ去り、明るい未来が始まる時なのだと。
2008年2月8日(金) 青空
珍しくこの一週間、青空が続いている。雲一つない。まぶしい光が周りを照らしている。思わず太陽の光を浴びたくなりドアを開けると、やはり冬は冬。寒いのだ。
今朝の夜明けもいつものように綺麗だったが、いつも太陽の顔は見ずに帰ってくる。
久しぶりに日本へ電話をした。二人は元気でいる。あと17日。 それまでに、細かいところまで準備をしておこうと思う。洗濯は終わり、大体の整理整頓はできたが、何か二人のための歓迎の催しを考えているものの、まだ良い考えが浮かばない。
とにかく、今日は素晴らしい天気だ。お昼にでも散歩に出かけたいが、まだやることがあるので、またの機会にしよう。それでも、やはり出かけたいな……。
2008年2月9日(土) 6年
今日は、二人だけの記念日。結婚6周年だ。 婚約式は日本で、結婚式は韓国で挙げた。当時、日本からも家族以外に5人の親しい友人たちが駆けつけてくれた。寒い韓国でのひと時を共に過ごし、日本へ帰っていった彼らのことを、今も感謝の気持ちで覚えている。
妻と出会って1年、私が声をかけて付き合い始めたのは、その半年後くらいだったか。同じ年だが共通点はあまりなかった。けれど、彼女の物静かなところに惹かれたのかもしれない。色々あって、二人は一つになった。
結婚して1年目は週末夫婦だった。私が学校の寮にいたので、土日にだけ会う生活。当時は論文の仕上げと試験で、少し忙しい時期だった。そう考えると、本当の新婚生活は静岡で始まったのかもしれない。そこは、偶然にも妻が生まれた場所だった。
静岡での3年間は、楽しい日々だった。さらに新しい命が与えられ、3人家族になった。そしてドイツへ。半年間離れ離れになった時もあったが、共にその時を乗り越えて今に至る。今も約2ヶ月間離れているが、今後、何があっても離れることはないようにと心から祈る。
本当に、私は良い女性に巡り会えたと思う。この未熟で、気の強い男を理解し、時には我慢してくれることに感謝している。もっと彼女にやさしく、もっと心を豊かに表現すべきだ。これからは、そうしよう。互いに第二の成長期を迎えている今、3人の成長を祈りながら歩んでいきたい。
その成長のための6つの原則
中年の第二次成長は、青春期の一次成長とは違うという。逆説的な概念を理解し、それを統合することが、中年期における成長の基本なのだそうだ。ある本によれば、その原則とは……。
- 中年のアイデンティティの確立
- 仕事と余暇活動の調和
- 自分に対する配慮と他人に対する配慮
- 勇敢な現実主義と楽観主義の調和
- 真剣な省察と果敢な実行
- 個人の自由と他人との親密な関係の調和
何よりも、第二次成長を成し遂げるには、これらの二つの逆説の間に、創造的な均衡を保つことが大切だという。その釣り合いを見つけるのは、もちろん容易ではない。しかし、その均衡こそが、私たちが人生の軌道から外れるのを防いでくれるのだ。
考えてみれば、私たちはこれまで、これらのことを一つにして生きてきた。それを分けて考える時間もなかったかもしれない。しかし、これからはっきりと区別する必要があるという。
2008年2月13日(水) 少しばかり、このブログは休みになる
時間の流れをいつも意識しながら、日々を過ごす。受難節を迎えた今も、特に生活に変化はなく、毎日決められた計画に沿って生きている。
聖書を読んでいると、ヨセフの物語の中で、子を失った父親ヤコブの気持ちが、少し分かるようになった気がした。息子が生きていると知らされた時の、あのヤコブの気持ち。これはおそらく、子を持つ親にしか理解できないだろう。
韓国の知人が癌だと、家族から知らせを受けた。再検査をしても、診断は変わらなかったという。本人や家族は、どんなに心配していることだろうか。
あさって、日本にいる妻と娘は韓国へ向かい、25日にこちらへ来る。
時間の関係で、受難節に関する文章は、すべてを載せることはできないだろう。おそらくイースターが終わる4月ごろ、また新たに更新できるようになるかもしれない。関心を持ってくださる方々には、申し訳なく思う。
それはそうと、良い天気が続いている。そのお陰で、少し気持ちも明るくなっている。今日も一日が守られたことに感謝し、明日のことは明日に委ねる。与えられた今日の人生を、精一杯に生きること。それが、私のなすべき使命だ。
大人の中には子供が存在している
心理学者のエミリー・ハンコックは、ある調査の中で、人生の後半期に成長を遂げた男性たちは、思春期前の少年期を再発見した結果であることが分かった、と述べている。結局、前に進むためには、必ず後ろを振り返ることが大切だということだ。
中年期を迎えている今の自分を、素直に受け入れることは大事である。 カリフォルニアのある調査では、60代になったばかりの人々と70代の人々の間に、敵対関係が生まれる現象が見られたという。60代の人々は、自分たちより年上の70代と同じ扱いにされることを嫌がるのだそうだ。そういえば、私の周りでも、年寄りの集まりに参加したがらない人々がいた。結局、一人ぼっちで寂しい日々を送るだけなのに。
「若返り」とは、誤解を招きやすい表現だ。若くなっていくことと、成熟しないこととの間には、大きな差がある。
2008年2月15日(金) ……とも思ったのですが
やはり、書くことにした。毎日は無理があるが。 昨日、妻と娘は羽田からソウルへ着いた。私の家族は大喜びだろう。再び娘によって、笑いの絶えない明るい雰囲気が続くに違いない。10日間だけだが。 何よりも、これまで寒い家にいたので、暖かい家で体が休まることだろう。体が寒いと、心まで寒く感じることがある。今日からは顔を見ながら電話ができるので、少しは寂しさも紛れるかもしれない。
娘のために買っておいたおもちゃの車が、一人寂しくこちらにいる。早く運転手さんが来て、この部屋を走り回り、家をにぎやかにしてくれるのを想像している。
共にいることは、大事だ。しかし、その相手が心も言葉も通じない人だったら、どうだろう。 憎しみを少し捨てて、相手を受け入れる。先に手を差し伸べる。少し損をしても、笑って仲良くする。失敗しても慰めてくれる人がいる家。落ち込んでいる時に、優しく声をかけてくれる家族。少し足りないご飯でも、譲り合って微笑みながら囲む食卓。この寒い冬、本当に温かい家庭がほしい。そういう時代だ。
2008年2月18日(月) 今日の人生を生きる
晴れ渡った天気。空気は冷たい。今朝の散歩も、冷たい空気の中、夜明けを待つ森へと入っていく。確かに夜明けは早くなった。 今日も教会では、以前来たことのある女性の牧師が司式と説教をしていた。少ない人数の中、アジア人が一人いつも来ていることにも、もう誰も何も思わなくなったようだ。目が合えば、挨拶を交わす。娘と妻のことを覚えている何人かのおばさんたちが、二人の安否を尋ねてくれる。「来週には戻ってきます」と答えた。
一年ぶりに、部屋のカーテンを洗った。教会から帰ってきて、気持ちよく洗ったカーテンを再び掛ける。すぐに乾いて、良い香りがする。
今週の金曜日、知人が癌の手術を受ける。私の母がお見舞いに行くと、奥さんが泣き出したという。二人でしばらく泣いていたそうだ。まだ50代。どうか完治できるよう、祈る。最近は、彼のために毎日何度も祈るようになった。
娘は少し大きくなったようだ。考え方も、人との接し方も。今年の夏には、幼稚園に入る。入れるだろうか。
最近、目がすぐに疲れる。視力が落ちたようだ。今度からは、眼鏡が必要かもしれない。 昨年、韓国で消防訓練中に起きた事故で妻を亡くした夫が、ブログに今の心情を綴っているという。二人の息子を残して天国へ旅立った妻への想い。そばにいるはずの愛する人がいないという、一番大きな悲しみ。とても辛いだろう。私も悲しくなる。
人間の存在。命、生きること、そして死。いつか自分も、愛する人たちを天に送る日がやって来る。それがどうか今ではないようにと毎日祈るが、すべては神様がお決めになった時なのだろう。それが、私たちには理解しがたい。
弱い者
レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、……その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。……そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。……王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、……開けてみると赤ちゃんがおり、しかも男の子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です」と言った。……(出エジプト記 2:1-)
イエスに触れていただくために、人々が子供たちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。しかし、イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。……」そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。(マルコによる福音書
10:13-)
幼児の痛ましい死が、後を絶たない。この世で一番弱い存在である彼らが、犠牲になっている。それも、自分を生んでくれた親によって。
モーセの親は、厳しい時代の中で、何とかして我が子を生かそうと頑張り続けた。そして、かすかな望みを託して、救いの籠を作ったのだ。
主イエスは、子どもたちを、当時の人々のように考えず、大切な命の存在として、その素直な心に目を留めてくださった。 自分の子どもを殺めて、どんな気持ちでこれからの人生を生きていくのだろうか。神様によって与えられた命は、皆、尊い存在なのだと多くの人に知ってほしい。そして、その成長を見守ってあげてほしい。
2008年2月25日(月) 六羽が三羽に
今日は春のような一日だった。青空、暖かい日差し。日中の気温は17度まで上がった。だから今日は、軽い服装で教会へ行ってきた。
礼拝が始まる前、一番後ろの席に座っていると、ある老婦人が私の所まで来て、娘へのプレゼントをくれた。絵本だった。「読み聞かせてあげて」と言われた。この方は、私たちのことをいつも気にかけてくださる。
おそらく、今日絵本を持ってきてくれたのは、以前「二人はいつ帰ってくるのか」と聞かれ、「16日に帰る予定です」と答えたからだろう。きっと今日、二人も一緒だと思ったに違いない。「明日、来ます」と伝えた。
すると、「もっと前に来なさい」と言われ、その方の隣に座ることになった。彼女は讃美歌もほとんど暗記しているようで、きっと長い信仰生活を送ってこられたのだろう。
帰り道、いつもの道を通ると、以前は六羽いた鶏が三羽しかいなかった。おそらくクリスマスの頃に、食卓に上ったのだろう。どんな料理になったのか、聞いてみたいものだ。
今朝の散歩では、気持ちよく鹿にも会えた。明日、二人が来る。迎えに行くのが楽しみだ。明日から、また新たに3人での生活が始まる。感謝。
2008年3月3日(月) 家族、台風
金曜日から日曜日まで天気が悪く、さらに強い台風が来て、多くの死傷者が出たようだ。 土曜日に図書館へ行こうとバス停で待っていると、強い風と雨に見舞われ、途中からは雪に変わった。しかし、バスは来ない。1時間ほど待ったが、結局バスは来なかったので、ケーキを買って家に帰り、3人で食べた。
二人がこちらへ来て、一週間が経とうとしている。再び3人での生活が始まり、楽しいのだが、娘は時差ぼけで大変だ。そのため、私たちも少し身体的に辛い日々を送っている。おとといは旅の疲れか熱も出したが、今はもう大丈夫だ。感謝。
こちらの教会の牧師はどこかへ行ってしまい、現在は不在だそうだ。今日も新しい牧師が来ていた。牧師によって司式のやり方が少し違うので、教会員も戸惑うことがあるだろう。早く新しい牧師が着任し、落ち着いた教会生活が送れるよう祈っている。
2008年3月22日(土) まだ冬は続く
今週は、雪、雨、そしてまた雪の一週間だった。森は雪で真っ白だ。 降っては止み、日が差したかと思えば、また雪が降る。おかしな天気が続く。明日からは、朝晩は再び氷点下3度になるという。 二人は雪や寒さで家の中で遊んでいるので、早く春が訪れることを願うばかりだ。
2008年3月23日(日) 生きる意味
イースターおめでとうございます。
「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、……三日目に復活したこと……」
主イエス・キリストのご復活の証人として、私たちもこの21世紀を生きている。
主は生きておられる。いつも私たち一人ひとりに、生きる希望と勇気、そして真の意味を教えてくださる。どんな理由があれ、私たちは神の独り子が身代わりとなって死んでくださったほどの、最も価値ある存在なのだ。だから、生きる意味がある。
しかし、これからは自分のために生きるのではない。主のために生きるのだ。第二の人生を、この世界で。最も輝く人生を。 私たちには希望がある。それは、主が再び来られるという約束だ。すべての差別、苦しみ、孤独から解放され、真の自由と平和へと導き入れるために、主は来られる。だから私たちは、精一杯に今日の日を生きるのだ。主イエスの復活の証人として。
Frohe Ostern!
イースターおめでとうございます。 寒い朝、真っ白い雪の世界の中で復活日を迎えられた。先ほど、一人で雪の世界に触れたくて、まだ誰も足を踏み入れていない森の中へ行ってきた。
これまでは春と共にイースターを迎えることが多かったが、今年は真冬の中だ。
イースターと共に、世界は全く新しくなるはずだった。しかし今の世界は、複雑で、罪に汚れ、争いや絶望に満ちているように多くの人が感じている。
それでも、神様は決してこの世界を見捨てることはないだろう。独り子イエス・キリストを死に渡し、その代わりに私たち一人ひとりを選び、愛してくださったのだから。
まだまだ、この世界は捨てたものではない。私たちが生きるのに、十分な意味と価値がある。そして、誰も奪うことのできない希望があるのだ。
2008年3月24日(月) 43回目
愛する妻へ。 43歳の誕生日おめでとう。 四十代になってからは、誕生日を迎えるのがあまり嬉しくないかもしれない。しかし、四十代からの第二の素晴らしい人生が始まったのだから、新たな気持ちでこの時を迎え、三人で共に喜びたいと思う。
色々ありがとう。娘のことで毎日奮闘している君に感謝している。そして、私の至らなさを受け入れ、時には我慢し、励ましてくれる君に、心から感謝している。
もっと自分がしっかりしなければと思いながら、なかなか前に進めない自分に失望することもある。しかし、私は夢を捨てない。希望を捨てない。家族のために、私は新たに戦い、必ず夢を叶える。君のために、そして娘のために。
明日笑えるように、今日の苦痛を我慢し、この暗いトンネルを戦い抜く。君がいる限り、娘がいる限り、私は頑張れる。共にこの時を乗り越え、明日の光を浴びよう。共に笑い、泣き、喜ぼう。命ある限り、この世界で一緒にいよう。
寒いイースターの日々
土曜の夕方、シャワーを浴びるとお湯がぬるい。地下室の暖房の制御装置を見ると、温水の温度が16度になっていた。おかしい。 部屋の床も冷たくなってきた。この冬一番の寒い日々だというのに、少し困った。休日で業者も休みだ。
家の中で靴下を履き、服を二枚重ねて着るのは初めてだった。いつもは真冬でも半袖で過ごせるほど、ぽかぽかした家だったのに。 今朝、大家さんから返信があった。おそらく暖房用の油がなくなったのだろう、と。原因が分かって、少しほっとした。感謝。
本当に、冬一番の寒い時に、イースターの休日の間に、初めてこういう騒動が起きた。決して忘れられないだろう。 電気と水は使える。それだけでも感謝だ。もしそれも使えなかったら、今日誕生日を迎えた妻は、本当に悲しんだことだろう。
いつものように3時に起き、妻の誕生日のためにわかめスープを作る準備をする。寒い誕生日になってしまったが、心は熱くして、温かいお祝いをしたい。
家に一つだけあったストーブが、この3日間、よく役目を果たしてくれている。感謝。すべては備えられていたのだ。 本当に電気もお湯も出ない場所で冬を過ごしている人々は、どんなに辛いだろう。暖かい世界になってほしい。皆が、そのために力を合わせてほしい。
2008年3月26日(水) 未明の散歩
朝4時45分に家を出て、どこへともなく歩き始めた。雪はまだ降り続いている。
町まで、車が通る山道を越えていく。周りは真っ暗だ。念のため、背中に自転車用の赤いライトをぶら下げて歩いた。 下り坂が終わる頃、後ろから来た始発のバスの運転手さんが、窓を開けて「乗っていくかい?」と声をかけてくれた。「大丈夫です、ありがとう」と答え、バスを見送った。
だんだんと周りが明るくなり始める。今度はネッカー川沿いを歩きながら、写真を撮る。雪はまだ降り続いていた。大学広場に着いたのは、6時50分ごろ。家を出てから、約2時間が経っていた。
一つのことをやり遂げたと、自分に言い聞かせると、少し良い気分になった。
大学の食堂で少し勉強し、バスの定期券と食料品を買って家に戻る。村には、雪がけっこう積もっていた。 家に着くと、妻は行方不明になった夫(私)のことを、誰に連絡すべきか考えていたようだ。5時に目が覚め、私がいないことに気づいたが、いつもの散歩だろうと、今日は少し長い散歩だな、くらいに思っていたらしい。しかし、1時間、2時間と過ぎても帰ってこない。携帯電話もカバンも置いてある。それで、色々と想像を巡らせていたようだ。
私は、無事に帰ってきた。今から、いつも家の中にいる二人を連れ出して、森へ行ってこよう。
2008年3月30日(日) いよいよ春がやってくる
雪は溶け、いよいよこちらにも春がやって来るようだ。 明日の天気予報では、昼間は17度になるという。少しは軽い服装で教会へ行きたい。その後は、指導教授のお宅でお昼に招かれているので、三人で行ってくる。
家の中のカビが気になっていたが、カビ取り剤を使ったら綺麗に落ちた。感謝。 明日からサマータイムが始まるので、我が家は一足早く、すべての時計を合わせておいた。
買い物、掃除、冬物の整理。そして今日はわかめスープを作り、皆で食べた。こうして3月最後の土曜日を、平和の中で過ごしている。感謝。
2008年4月13日(日) もう慣れるときでは
再び寒い日々が続く。先週は雨が多く、一度は雪も降った。訳の分からないドイツの天候に、文句を言う外国人も少なくない。しかし、ここで生活するには、この環境に慣れるしかない。
今日の礼拝では、初めて見る牧師が説教をした。娘は私が抱っこして聖餐にあずかり、牧師が娘の頭に手を置いて祝福の祈りをしてくれた。
歌うのが大好きな娘は、大きな声で讃美歌を歌う。もちろん歌詞は違うが、自分なりに曲に合わせて一生懸命だ。礼拝後、何人かの教会員から「綺麗な声でよく歌うんですね」と声をかけられた。
娘は、自分で乳母車を押していきたがる。「一人で、一人で」と言う。何でも自分でやりたい時期なのだろう。今は疲れたのか、私の傍らで気持ちよさそうに昼寝をしている。
最近、時間がなく森の散歩に行けていない。もう少しゆっくり生きてもいいのではないか、と考える時がある。しかし、もう一方では、もっと厳しく今を生きなければ、という声もする。どちらが正しいのかは分からない。
それでもやはり、ゆっくりと今の時を生きたい。周りの世界を楽しみ、味わい、体全体で感じながら。焦らず、ゆっくりと進んでいきたい。
出来る、すべてはうまくいく
卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。(詩編 119:71)
ある精神科医の研究によれば、危機に直面した人々の85%は、その経験の後、悪い習慣を改め、夫婦の不和を解消し、時間や物を大切にしながら生きるようになったという。
人生で成功を収めた人々の多くは、何の苦難もなく生きてきた人ではなく、ものすごい苦しみや痛みを経験した人たちだ。彼らが成功した秘訣は、失敗や苦難の中でも決して諦めず、絶えず前に向かって歩き続けたことにある。
ナポレオン・ヒルは言う。「もしもあなたが失敗すると考えたら、あなたは負ける。出来ないと考えたら、出来なくなる。しかし、もしもあなたが勝つと考えれば、あなたは勝利を得る。出来ると考えれば、出来るようになる。」
どんな時も自分を信じ、目標に向かって黙々と歩き続ける者だけが、勝利を得るのだろう。そしてキリスト者にとっては、主イエス・キリストを信じる信仰によって生きることが、何よりも大事なのだ。
2008年4月20日(日) 堅信礼問答
今日は少し暖かい一日だったが、まだ肌寒い。これがドイツの4月の天気だと聞いた。
今日は大勢の人が礼拝に来ていた。来週行われる堅信礼式に先立ち、20名以上の生徒たちの問答があったのだ。牧師の質問に、生徒たちが手を挙げて答える。普段の礼拝には来ない人々も、こういう時には来るのだ。
今日は一人の生徒が洗礼を受けた。あまりにも簡素に終わってしまい、少し寂しい感じがしたが、彼の上に主の豊かな導きと祝福があるよう祈る。
先ほど韓国の両親と話したが、韓国は26度だとか。早くこちらにも、暖かい日が訪れてほしい。
2008年4月25日(金) 二人だけのお出かけ
昨日、娘と二人だけで町へ出かけた。こちらへ来てから、二人きりで出かけるのは初めてだ。 玄関の前で、母親に「バイバイ!いってきます!」と、ちゃんと言えるようになった。感謝。
最近は質問が多く、「なんで?」の繰り返しだ。根気はいるが、できるだけその立場に立って答えようと努めている。
町では、娘のためにディズニーの物語がたくさん載っている絵本を買った。 帰りのバスで、娘が眠そうにしていたので「ここで寝たら駄目だよ」と言うと、「分かった」と言ってにやっと笑った。荷物も多かったので、本当に寝てしまったら困るところだったが、ちゃんと分かってくれて感謝だった。
バスを降りると、妻が迎えに来ていた。電話もしていないのに、ちゃんと分かっていたのだ。感謝。 三人で歌いながら、ゆっくりと家まで歩いて帰る。
この平凡な日々の中に、いつも神様が共におられることに気づかされる。劇的な奇跡の中ではなく、何も起こらない普通の生活の中にこそ、神様はおられるのだ。
数よりは質
ロンドンにあるメトロポリタン教会は、かつてチャールズ・スポルジョン牧師が牧会し、当時世界で一番大きな教会だった。ある日、スポルジョン牧師は教会員にこう言ったという。
「愛する兄弟姉妹の皆さん。主イエスに対する熱い愛と情熱がある12人がいれば、このロンドンの荒涼とした環境を、喜び溢れる場所へと変えることができます。しかし、4400人の人がいても、皆が生ぬるい信仰しか持っていなければ、何一つ変えることはできないでしょう。」
なぜ主イエスは、12人だけを特別に選ばれたのだろうか。それは、数よりも質を重んじられたからではないだろうか。
今は、主のために変わらない信仰をもって生きる者が、必要な時代だ。有り余る中からではなく、足りない所から捧げる奉仕こそが、本当の奉仕なのだと思う。
2008年4月27日(日) 三人でお出かけ
今日は予定もなかったが、天気が良かったので、久しぶりに三人で近くの町へ行ってきた。バスと列車で約1時間半のシュパイアーという所だ。 大きな大聖堂と、子ども向けの科学技術博物館を見に行った。
カトリックの大聖堂の横には、ゲッセマネで祈るイエス様の像があったが、そこではイエス様が天使に向かって祈っていた。カトリック教会らしさが、分かりやすく表現されている。
帰りに、大聖堂の近くでウェディングドレス姿の女性と新郎が、野外で撮影をしていた。美しい。お二人の新しい出発に、祝福を。
電車の中で眠そうにしていた娘は、なんとか我慢し、その後のバスの中ですぐに寝てしまった。疲れたのだろう。私たちも久しぶりに長い時間歩いたので、さすがに疲れた。しかし、こうして楽しいひと時を過ごせたことに感謝する。
明日は、教会で堅信礼が行われる。おそらく大勢の人が来るだろう。賑やかになりそうだ。毎週そうなれば良いのだが。
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