2008年5月1日(木) 癒しの森
静かな森に入る。鳥たちのさえずりが響き渡る。 今日はリスやうさぎに会えるかと期待して、三人で森へ行った。朝の光が、森全体を優しく照らしている。高い木を見上げ、その向こうに広がる青空に目をやる。そして、ゆっくりと深呼吸。おいしい空気を胸いっぱいに吸い込み、中のものをすべて吐き出す。木のにおいが、心地よい。
娘は喜んで、森の中を走り回る。誰もいないこの静かな森を、三人だけで独り占めするのは、少し贅沢なことかもしれない。とても癒されるひと時だ。同じ時間、同じ場所で、同じことを体験している家族がいる。感謝。
この世の中は、様々なことで複雑になっている。本来なら一致を目指し、世界平和を基本精神とするはずのオリンピックも、開会の前から暴力と暴言に彩られている。争いは絶えず、私たちのすぐそばに存在している。
本当に平和な場所はあるのだろうか、とふと思うと、もしかしたら今ここがそうなのかもしれないと錯覚してしまう。
完全なものはなく、一瞬のオアシスのように、今日は平和でも、明日もそうとは限らない。そんな不完全で不安な世界を、私たちは生きている。しかし、その完全な平和を望みながら生きることが、大事なのだと思う。希望と夢を捨てず、常に求め続ける。たとえこの世界が偽りや不信に満ちていても、決してそれを認めてはならない。「否」は「否」と、はっきり言える勇気が必要な時代だ。
悪を恐れず、善をもって戦う。本当に、物語の中に出てくるような正義の勇士が必要な時代に、私たちは生きている。
約1時間半の散歩を終えた帰り道、娘は眠ってしまった。私が娘を抱っこして帰る途中、うさぎに出会った。しかし、娘は眠ったまま……。良い好機を逃してしまった。 新しい5月が始まるこの日、希望と勇気をもって歩んでいきたい。こちらは祝日で、村では例年通り、ささやかな祭りが行われる予定だ。
2008年5月4日(日) 新使徒教会
今日はこちらにある、別の教会へ行ってみた。「新使徒教会」といい、19世紀に始まったペンテコステ派に近い教会だと聞いた。
礼拝の形式は少し違ったが、とても恵まれた礼拝だった。聖餐式は、ぶどう酒はなくパンだけ。皆さんとても温かく迎えてくれ、久しぶりにそういう温もりを感じた。礼拝後には持ち寄りの食事会があり、人々と話す機会も多く、しばらくはこちらの教会に出席してみようかと思う。
教会から帰ると、娘が「ミルクが飲みたい」と言うので二人で牛乳をコップに注ぐと、娘が「お父さん、乾杯しよう」と言った。娘から初めて聞いた言葉に、私は思わず笑ってしまった。
今日からまた、新しい一週間が始まる。 「明日なんか来なければいいのに」と、今の世界が止まってくれたらと願う人々も多い中、それでも「生きなければならない」とあえて言うのはなぜか。自問してみる。
おそらく私自身も、辛い重荷を背負って苦しむ人々の痛みを、本当に感じることはできないだろう。人々は「今の人は簡単に命を絶つ」と言うが、決してそうではなかったはずだ。十分に苦しみ、耐えきれずにこの世を去ったのだろう。ただ一つ、その苦しみを聞いてくれる人、共に分かち合ってくれる人がいなかったことが、悲しい。
生きる。精一杯に生きる。それが、私たちに与えられた神様からの伝言だ。今の状況がどうであれ、生きること。もし明日死ぬことになったとしても、今日を精一杯に生きること。
もしも私たちの人生が偶然始まったものならば言うことはない。しかし、一人ひとりにとって無駄な人生などなく、すべての人生には意味があるのだ。もしかすると人生とは、その意味を探すための旅なのかもしれない。写真のように、夜明けが毎日訪れるのと同じように。
2008年5月8日(木) 子供の聖書勉強会
昨日は、午後6時半から始まる子ども向けの聖書勉強会に参加した。 行ってみると、小学生くらいの女の子二人が、長老のような教会員から教えを受けていた。私はゲストとして紹介され、その中の一人の女の子は日曜の礼拝で顔見知りの子だったので、自己紹介を交えながら色々と話をした。二人はよくしゃべる子たちで、先生が聖書の話をしている間もおしゃべりをしており、少しばらばらな雰囲気だったが、どこでも同じようなものかと思った。
今週はとても天気が良く、大勢の観光客が訪れている。露天カフェでコーヒーやビールを楽しむ人々の姿も、多くなってきた。
2008年5月24日(土) またひとりに
一昨日、妻と娘は韓国へ一時帰国した。予定より20分早く着いたそうだ。 その日、さっそく私の母と叔母と一緒にお風呂屋さんへ行って、あかすりをしてもらったとか。こちらでは食べられない美味しいものも、たくさん食べられるだろう。うらやましい。
しかし、それよりも心の平安と、落ち着いた環境が何より大事だ。悩みや不安の中では、たとえ豊かな環境にあっても、美味しいものを食べても、心から休むことはできない。人間は、環境や出来事によって大きく感情が左右される、弱い存在なのだ。
二人が帰って、寂しい気持ちを隠すことができない。いる時には気づかないが、いなくなると少し孤独を感じる。これが人間というものだ。
今朝、森へ散歩に行き、昇る朝日をじっと見つめた。真っ赤な太陽が暗闇を追い出し、まぶしい光を放つ。自分の心の中の孤独感を追い出し、希望の中で帰ってきた。神様が、共にいてくださるからだ。
この世の中には、寂しさに紛れて涙を流している人が大勢いる。群衆の中で、一人寂しく。それは寂しさを感じたことのある者にしか、分からない痛みだ。今必要なのは、慰めの言葉や上手な助言ではない。ただ心から相手を理解し、その傍らで共に座ってくれる友なのだ。
2008年7月11日(金) 元気な日々
韓国に戻って約一ヶ月。こちらの夏にも慣れ(というか、無理に受け入れたか)、暑い日々を過ごしている。 娘は時々機嫌が悪いと「ドイツへ行く!」と叫ぶ。今の悩みは、歯磨きが嫌いなことと、妻の唇をなめる癖だ。この癖も、こちらにいるうちになくなれば良いのだが。
私は教会の涼しい地下室で勉強に励んでいる。いや、励みたいのだ。食べることも寝ることも忘れ、ただひたすらドイツ語の勉強に集中したい。ドイツへ帰るまで、あと48日。この間に、すべての課題をやり遂げたい。
来月には娘が3歳になる。ドイツでは幼稚園に入る歳だ。どうか向こうで幼稚園に入り、新しい体験をしてほしい。
私に残された時間は、あと3年。それは、家族に残された時間でもあるのかもしれない。そのために頑張らなければ。愛する家族のために。忍耐強く、ひたすら前に進んでいく。悔いのない人生のために。今日という、許された時間を生きる。
今日の人生
失った財産は、努力と節約である程度は取り戻せる。失った健康も、正しい治療と管理で取り戻せるかもしれない。しかし、失った時間だけは、どうしても取り戻すことができない。
誰にも公平に与えられている時間。だが、その時間をどう使うかによって、人生は大きく変わっていく。
明日のことを思い悩むな。明日のことは明日に委ねる人生を生きることは、いかに幸いなことか。
2008年7月15日(火) 歯磨きは嫌!
蒸し暑い日々が続く中、昨日は三人で公園へ行った。暑いせいか、人影もまばらだ。 ただ木の陰を歩くだけだったが、それでもやはり暑い。ちなみに、娘は歩かない。せっかく散歩に来たというのに。本当に抱っこが大好きな子だ。
体重も増え、二人とも大変だが、「抱っこしたくてもできなくなる日が、いつか来るんだろうね」と、妻と話しながら歩いた。
何とかして一日三回、歯磨きをさせようとするが、なかなか思うようにはいかない。それに、アイスは毎日食べるのに、その後はお水を飲むだけ。本当に困っている。早く歯磨きが嫌いにならなければ良いのだが……。
2008年7月17日(木) 年なんて関係ない
1870年代、ドイツのビスマルク首相は、65歳以上の人々を社会から無理やり追い出す法律を通過させた。知恵と経験が最高潮に達している人々を、だ。本当に悲劇的な出来事だった。
イギリスの首相であったウィンストン・チャーチルは、65歳で首相になった。彼の働きは、言うまでもない。
情熱がある限り、人は年老いたりしない。問題は、今を生きる強い志だ。 いくら若くても、人生を諦めてしまう人々は少なくない。少し状況が悪くなると、すぐに自分を駄目だと決めつけ、すべてを世の中のせいにしてしまう。
すべての問題と、その答えは自分の中に存在している。しかし、あいにく多くの人はその原因と解決を外に探そうとする。 人間は、自分が思うままの人間になれる。どんなに高い壁でも、飛び越えることができる。それが、私たちに与えられた力なのだ。
訓練によってチャンピオンは生まれる
世界的に有名な芸術家やスポーツ選手たちは、生まれつきの才能よりも、絶え間ない努力と訓練を重ねてきた。偉大さとは、作られるものなのだ。
もし今、汗を流すことを辛いとためらえば、いつか涙を流して後悔する時が訪れる。今日という日をしっかり掴むことで、明日を明るく迎えることができるのだ。
もう少し我慢し、もう少し前進しよう。一度思い切って乗り出してしまえば、今までのためらいは消えてしまう。最初の一歩が大事なのだ。一度やってしまえば、案外たいしたことはない。笑いながら続けることができる。
2008年7月18日(金) 失敗は人生の最高の教師である
人は誰でも、失敗を恐れる。 できる人と、できない人の差は何だろうか。それは、失敗に対する受け止め方だ。失敗を恐れず前進する人か、失敗を恐れて挑戦すらできないでいる人か。
奇跡とは、切に願い、失敗を恐れず何度も挑戦していくうちに起こる出来事だと、私は思う。人は失敗を通して、最高の教訓を学ぶことができる。だから失敗とは、人を駄目にするのではなく、一段上へと引き上げてくれる不思議な力なのだ。
明日ではなく、今日なのだ!
人生で成功する人々の共通点は、今日という日を精一杯に生きる志を持っていることだ。反対に、失敗する人々の共通点は、「明日やろう」という生き方をしていることだ。
「明日から」という言い訳が、人生を駄目にする一番の毒なのだ。しかし、明日は存在しない。明日どうなるかなど、誰にも分からないのだから。
私たちに保障されている確かな時間は、今日、今の時間だけだ。何かをやるなら、明日ではなく、今から。今いる場所から、やっていくのだ。
言い訳ばかりを考えるのではなく、「あれもこれも、あるではないか」と考える。そして、今の場所で自分の力を発揮していくのだ。まず考えるより、やってしまうことだ。行動することだ。きっと、「やってよかった」と思うだろう。
2008年7月19日(土) 種を蒔くのはあなたです
「大切なのは、何が起こったかではなく、どうやって克服したかである。私たちの手の中には、成功の種と失敗の種の両方が入っている。どの種を蒔くのかは、あなた自身の選択にかかっている」と、誰かが言った。
すべては自分自身の手の中にあるのに、人は他の場所でそれを探し求めている。心を静かにして、ゆっくり考える。すべての原因は自分から生じ、その答えもまた自分の中にあることが見えてくるだろう。
あなたが倒れた場所が、飛躍の足場となる
恐れがないことが勇気ではない。恐れがあるにもかかわらず、それを乗り越えることが勇気なのだ。 ボクシングのチャンピオンであったマイク・タイソンを倒した、イベンダー・ホリフィールド。彼は対戦中、強いパンチを食らってダウンしたが、その時からものすごい勢いで攻撃を続け、ついに王座を奪った。彼は、自分が倒れた場所から、勝利の栄光を掴んだのだ。
多くの人は、倒れたその場所にとどまり続けている。立ち上がろうとしない。 倒れた場所から、人は再び立ち上がるべきなのだ。そこから、また始めるのだ。必ず勝利を手にすることができる。その場所を、飛躍の足場として。
2008年7月20日(日) 頂上にはいつも席がある
以前、知人に誘われて妻と夜の富士山に登ったことがある。 高い山は初めてだったので、少し緊張と不安があった。登れば登るほど、息が苦しくなる。本当に頂上まで辿り着けるのだろうか。妻のことも心配だった。
夜が明け始め、ついに朝日が昇る頃、私たちも無事に頂上に辿り着いた。成功だ。
でも、苦しかった。途中、何度も休もうかと思った。しかし、周りの人々と励まし合いながら登り続けた。 人生も同じだ。誰もが成功を願い、頂上を目指して登るが、皆がそこに辿り着けるわけではない。ほんの一握りの人だけだ。それは、途中にある苦しみや痛みに耐え、乗り越えた人々だけである。
しかし、その犠牲も、頂上に立った瞬間、どこかへ消えてしまう。そして、これまで味わったことのない幸せを感じることができるのだ。その快感は、言葉では説明できない。だから人は、次々と高い山を目指すのだろう。
KEEP GOING!
一人の若者が、祖父に尋ねた。「生きることは、なぜこんなに大変なのですか?」 祖父は答えた。 「生きていると、楽しいこともあれば悲しいこともある。勝つこともあれば、負けることもある。お前の中には、成功するという意志と共に、失敗を受け入れる心もある。人生を避けようとする恐れと共に、勇敢に立ち向かう勇気もあるんだよ。
『強い』というのはな、お前がどんなに疲れ果てていても、頂上に向かって一歩一歩、足を進めていくことなんだ。四方が真っ暗な絶望に囲まれても、解決策を探し続けることだろう。
あの頂上に向かって、真っ赤な希望の朝日が昇る場所へ向かって。希望へ向かう、そのか弱い一歩こそが、本当は激しい嵐よりもずっと強いものなんだ。だから諦めずに、休まずに歩き続けるんだ。お前の夢に向かって!」
2008年7月21日(月) 冷めない熱意
多くの人は、能力が足りないからではなく、熱意が足りないから失敗する。熱意は、根気と絶え間ない努力を生む。 もう一度、冷めて眠っている夢を、呼び覚ますのだ。今、私たちに必要なのは決断と熱意だ。
逃げないでください!
多くの場合、私たちは、自分がやったことよりも、やってみもせずに諦めたことを後悔する。 ゲーテは言った。「新しいことを始めようとする勇気の中には、あなたの天才性と能力、そして奇跡がすべて隠れている」と。
今置かれている現実から、逃げないでください。もし今逃げたら、もっと大きな苦痛や試練が待っている。挑戦しなさい。恐れずにぶつかっていきなさい。そうすれば、願う人生を手にすることができるのだ。自分を信じて。そして何よりも、変わることのない主を信頼して。
ごく小さなことから
すべての偉大なことは、小さな実践の積み重ねから生まれる。私たちの人生は、いつも素晴らしい計画よりも、小さな実践を通して変化が始まるのだ。
明日からではなく、今日、今、ここから変わっていくのだ。
2008年7月22日(火) 勇気の敵① 迷い
牛が一本の橋を渡る様を、「生」という字で表す。人生とは、その一本の橋を渡ることだ。一度踏み出したら、もう戻れない。 その中で必要なのは勇気だが、その勇気を邪魔するものがある。その一つが、「迷い」だ。
「大丈夫か」「この橋は安全か」と、足を踏み出せないでいる。 私たちの人生で最も破壊的な言葉は、「明日」という、人間が言い訳に使う単語だ。多くの計画は、「明日から」になっている。しかし、明日になると、またその次の日になってしまう。
計画を実行する唯一の方法は、今、やってしまうことだ。ミスや失敗を恐れない。それらは人生の伴侶のようなものだ。迷うことなく、今日から、今からやるのだ。
2008年7月23日(水) 勇気の敵② 疑い
自分を過小評価したり、他人と比較して落ち込んだりする人がいる。「疑い」とは、限りない否定的な妄想の連続だ。 ローマの哲学者エピクテトスはこう言った。「人の心を乱すのは、出来事そのものではなく、それについての様々な考えである」と。人は、いくらでも努力によって大きく変わることができる。もし、その勇気があれば。
2008年8月4日(月) 勇気の敵③ 臆病または弱気
生まれつき弱気な人はいない。本来弱いのではなく、自ら弱いと思い込んでいるだけなのだ。 人は、意外と強い。なぜなら、知恵と情熱を持っているからだ。しかし、多くの人はその知恵を、自分の弱点にばかり焦点を合わせるために使ってしまう。
私たちには本当は失敗などないのかもしれない。あるのはただ、失敗と呼んでいる一つの過程であり、それも成功へと続く道のりの一部なのだ。言い換えれば、人生の味を出すための、良い調味料のようなものだ。
あるのは勇気、そして決して諦めない強さだけ。人は誰でも、その強さを持っている。
2008年8月8日(金) あの頃を思い出す
3年間住んでいた静岡のマンションを思い出す。特に、最近のように蒸し暑い時は、汗をかきながら夏を過ごしたあの頃を。本当に暑かった。
一年目は冷房をあまり使わず、自然のままの夏を過ごした。しかし二年目からは我慢できず、冷房に頼る生活になった。
そういえば、妻が作ってくれた冷やし中華を思い出す。毎日のように食べた。美味しかったな。懐かしい。また、あの冷やし中華が食べたい。
今日から北京オリンピックが始まり、世界はまた熱くなる。この暑さで苦しんでいるお年寄りや多くの人々が、元気にこの夏を乗り越えられるよう祈るばかりだ。
2008年8月14日(木) 最後まで最善を尽くす、そして真実に
この夏、暑さに加えて、もう一つの熱さに世界は燃えている。 各競技では、人間のドラマが生まれている。感動と涙、悔しさ、喜び、笑顔……。4年間の努力が、一日で様々な形で報われる。 思わぬ怪我で、100%の力を出せずに涙ながらに退場する選手もいた。悔しいだろう。4年間、この日のために血と汗と涙を流し、毎日頑張ってきたのに。
このオリンピックを通して、私たちは人生のドラマを感じ、再び勇気と希望をもらう。 何よりも、スポーツで一番大事なのはフェアプレーだと思う。それは、私たちの社会でも強く求められることだ。真実に生きる。騙されることはあっても、人を騙すことはしない。偽りではなく、真心で人に接する。自分に嘘をつかない。真実な人間になることは、当たり前のことだが、とても大事なことだろう。
2008年8月15日(金) 勇気の敵④ 恐怖
まだ起きてもいないことを心配し、最悪の状況を想像して、恐怖に震えている人が大勢いる。しかし、それは現実ではない。ただ自分の頭の中だけの空想であり、自ら作り上げた偽りなのだ。
否定的な考えは、否定的な結果をもたらす。反対に、肯定的な考えは、良い結果をもたらす。
勇気とは、そうした空想を吹き飛ばし、問題と正面から向き合うことだ。あれこれ考えない。ただ実行していく。ぶつかってみる。そしてただ一つ、「できる、すべてはうまくいく」と、それだけを考えるのだ。
2008年8月17日(日) 3歳を迎える
8月16日、娘が3歳になった。日本、韓国、そしてドイツで過ごした日々に感謝する。元気に、いつも笑顔でいてくれる一人娘にも感謝だ。 最近は、オリンピックの応援に励んでいる。娘は日本と韓国の籍を持っているので、妻とは日本戦を、私とは韓国戦を応援している。もし日韓戦になったら、両方とも応援するそうだ。
歯磨き嫌いの娘がアイスばかり食べているので妻は心配しているが、きっと歯磨きも好きになり、良い方向へ導かれると私は信じている。
急に昨日から涼しくなった。本当に嘘のようだ。あんなに暑かったのに。
命ある限り、私たちは精一杯に生きねばならない。しかし、希望のない人に「生きろ」と言っても、それは辛いことだろう。 多くの人は、なぜ自分が生きているのかを知らずにいる。「教えてほしい」と叫んでいる。もしその意味が分からなければ、分かるまで答えを探し続けること。それがまず、生きねばならない一つの目的になるのだろう。
2008年8月22日(金) 唇を制すれば成功する
「唇を制すれば成功する」とは、箴言に出てくる言葉だ。 確かに多くの人が、自分の唇を制することができずに失敗する。言わずともよいことを心に留めておけばよいものを、わざわざ口にして自らの首を絞め、職を追われる。
もう一度よく考えてから発言すること。それが、私たちの家庭や社会を平和にする、最初の一歩なのかもしれない。それこそが、本当の成功者の姿なのだろう。自分の唇を制することを、常に心掛けていきたい。平和のために。
2008年8月31日(日) ひさしぶりの森へ
昨日の朝6時過ぎ、三人で森へ行った。朝日が昇り始めている。気持ちの良い朝の空気を吸い込みながら、森へ入る。
娘は歩くのが嫌で、いつも「抱っこして」と言う。3歳になり、体重も13キロになったので、私たち二人には大変だ。
私たちの一番の課題は、娘の歯磨きと歩くこと。世の中には、本当に困っている親がたくさんいるだろう。それに比べれば、これは贅沢な悩みかもしれない。いつも感謝はしているが、「もう少しまともになれば」と願うのが、親の気持ちというものだ。
昨日は三人で学食で昼食をとり、買い物をして帰ってきた。本当は公園で遊ぶはずだったが、「そのためには公園まで歩くんだよ」と言うと、なんと娘は「公園、行かない」と言い出した。まったく!
今日は礼拝の日。いくつかの教会へ行ってみたが、やはりルーテル教会の方が、私たちには何となく馴染んでいるように感じた。だから、これからはそこの礼拝に出席することにした。まだ牧師は不在で、近隣の町の牧師たちが代わる代わる来ている。それでも、聖餐式などの行事が欠かされたことは一度もない。感謝だ。
どこに向かっていますか?
朝、家を出る。「いってきます」「いってらっしゃい」。 道を歩く。しかし、どこへ行けばいいか分からない。とりあえず駅の方へ向かう。大勢の人が、それぞれの目的地へ急いでいく。
人生にナビゲーションがついていれば、と考える。人生の、ナビが。迷うことも悩むこともないだろう。
しかし、そういう人生が、本当に人生と言えるのだろうか。 苦しみも、悩みも、孤独も知らず、成功ばかりの人生。それは、本当の人生ではない。人生のドラマとは、人間が感じるすべてを経験し、味わうことだ。泣いて、笑って、苦しんで、楽しんで。
大事なのは、その中でも、自分が行くべき目的地を目指すことだ。多くの人が、その目的地を探して、今日もさまよっている。
熟した作品は、やはり中年以後に
時々、メディアで若者の成功物語を耳にする。 しかし、多くの優れた芸術家や科学者たちを見ると、やはり中年以降に本当の力を発揮し、歴史に名を残している。
ヘンデルが「メサイア」を書いたのは56歳の時。バッハの「マタイ受難曲」は44歳、ハイドンの最高傑作も50歳以降に生まれている。ダ・ヴィンチが「モナリザ」を描いたのは54歳の時、レンブラントの最も偉大な油絵6点も、50歳以降に生まれている。
40歳以降の人生は、より熟し、より賢く、より実り多い時なのだ。そのために何よりも大事なのは、はっきりとした人生の目標を定めること。無駄な時間や冒険をせず、意味ある人生に向かっていくのが、40代からなのだ。第二の人生を、楽しんでいますか?
一人ひとりの人格が問われる
昔、ルイ14世が側近に尋ねた。「フランスのように大きな国を治める私が、なぜ小さなオランダを征服できないのか。」
側近はこう答えたという。「陛下、国家の偉大さを決めるのは、領土の広さや軍事力ではなく、国民性でございます。オランダを征服できないのは、その国民の勤勉、倹約、そして愛国心のためです。」
国の価値を表すのは、GNPではない。一人ひとりの国民性なのだ。 なぜ多くのクリスチャンがいるのに、国は変わらないのか、と韓国ではよく聞かれる。それは、一人ひとりのクリスチャンが良い人格を持っていないからだ。
伝道ができないのではなく、自分の居場所で良い人格をもって普通に生きていれば、自然と周りの人は関心を持つはずなのだ。 クリスチャンとしての自覚と共に、良い人格を持つよう努力し続けることが、信仰を持つことと同じくらい強く求められる時代なのである。
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