2008年9月1日(月) 愛は誤解を招く、しかし真実の愛は必ず証明される
結婚50周年を迎えた、ある夫婦がいました。子どもたちは両親のために金婚式のパーティーを開き、親戚や友人を招いて、皆で楽しいひと時を過ごしました。
パーティーが終わり皆が帰った後、夫婦は紅茶とバターを塗ったパンを食べることにしました。いつものように、夫は妻にパンの端の部分を切って渡します。その時、妻は「50年間、あまり好きでもないパンの端を、ずっと我慢して食べてきたのよ」と、ぽつりと愚痴をこぼしました。
夫はその言葉を聞いて衝撃を受け、心から謝りました。そして、こう言ったのです。「実は、そのパンの端の部分は、私が一番大好きなところだったんだよ」と。
時々、私たちの間にも起こりうることです。もちろん、嫌な時にはすぐに言えれば良いのですが、それも決して簡単なことではありません。人に気を遣うのは良いことですが、それによって自分が苦しむのは良くないでしょう。いくらでも賢く、お互いに理解し合うことはできるはずです。要は、そこに真心があるかどうか。愛なのか、偽りなのか。
私たちの社会では、愛が誤解されることはたくさんあると思います。しかし大事なのは、本当の愛は必ず分かってもらえる、きっと証明される、ということです。誤解されることを恐れて、愛ある行動や、大切に思う心を諦めてはいけない。この社会には、もっともっと愛が必要なのですから。愛に枯れているこの社会を、私たちは純粋な愛で潤していくべきです。
「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」 (コリントの信徒への手紙一 13:13)
2008年9月2日(火) 「自分の責任です。自分の間違いでした」と言える勇気
わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。(詩編 52:10)
罪人らのことに心を燃やすことはない。日ごと、主を畏れることに心を燃やすがよい。確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。(箴言 23:17-18)
人間社会で一番苦しいのは、言うまでもなく人間関係です。人が集まる所には、様々な問題やいざこざが生じます。問題は、それをどう捉え、どう解決していくかです。多くの人は、問題の原因が自分の中ではなく、他人にあると考えます。
ある時、砂漠を横断する競技がありました。数名の選手が逆境を乗り越え、ついにゴールします。記者の一人が、選手たちに尋ねました。「砂漠を横断しながら、一番苦しかったのは何でしたか?燃え盛るような太陽の熱気ですか?」「いいえ」「一人で歩く孤独感でしたか?」「いいえ」「では、上り坂でしたか?」「いいえ」
「実は一番苦しかったのは、歩くたびに靴の中へ入ってくる、一粒一粒の砂でした。それが歩みを妨げ、何より大変だったのです。見てください、足がぼろぼろです。」
この世に、問題も悩みもない人はいません。しかし、その問題をどう捉え、どう解決していくのかが違うのです。いつも他人に責任があると考える人か、それとも、まず自分に問題があるのではないかと考える人か。あなたは、どちらのタイプでしょうか。
2008年9月3日(水) 今、背負っているその十字架は、本当にキリストの十字架ですか?
30年間、演劇でイエス・キリスト役を演じ続けた、アントン・レインジという人がいました。ある日、彼が演じたイエス役を見て感動した夫婦が、芝居の終演後、楽屋にいるアントンを訪ねてきました。そして夫の方がこう言いました。「もしよろしければ、私がその十字架を背負っている姿を、写真に撮らせていただけませんか。」
アントンはそれを許しました。しかし、男がその十字架を背負おうとした瞬間、彼は驚きました。とても背負いきれないほど、重かったからです。「なぜこんなに重い物を使っているのですか。もっと軽くしても、問題はないと思いますが……。」 アントンは答えました。「私がその十字架の重さを感じなければ、イエス役を演じることはできなかったでしょう。」 アントンは、イエス様が実際に背負ったとされるのと同じ重さの十字架を、芝居で使っていたのです。
少しでもイエスに倣おうと、多くのクリスチャンはそれぞれの場所で頑張っています。しかし、十字架の真の意味を理解せず、ただ自分なりの勝手な十字架を作り、それを背負っていると主張する人もいます。
自分の頑固さや、人を赦せない心、自己中心的な考え方。そういった自分を変えようとしないまま、何か自分に不利なことが起こると、それが自分の十字架だと思い込んでいるクリスチャンが少なくないのです。まず、人を変えようとするより先に、自分が変わらなければ。
2008年9月13日(土) これでいいのか
だんだんと秋が深まり、木々の葉も色を変えていく。 時々、あまりにも平和で平凡な生活に、不安を感じることがある。これでいいのだろうか、と。世界では今も多くの人が闘い、命を失い、涙を流し、生きるために必死であるというのに。
平和と静けさの中、何も知らずに生きている鳥たち、森の生き物、この村の人々。まるで別世界だ。しかし、パソコンのスイッチを入れれば、一気に本当の世界が見えてくる。事件や事故、望んでもいない悲しい出来事が、画面の中から伝わってくる。もしかすると、こちらが本当の世界なのかもしれない。
今朝も、少しでもより良い世界を夢見ながら、夜明け前の森へ入っていく。
それでも、正直な人へ
あなたが潔白な正しい人であるなら/神は必ずあなたを顧み/あなたの権利を認めて/あなたの家を元どおりにしてくださる。(ヨブ記 8:6)
世界の貧しい人々に家を建てる「ハビタット」という民間団体があります。ある時、彼らはフロリダ州のある村に27軒の家を建てました。その家は、100%ボランティアの手によって、最低限の費用で建てられたものです。 1992年の夏、その地域を巨大なハリケーンが襲いました。多くの家が屋根を飛ばされ、窓ガラスが割れるなど、ひどい被害を受けました。しかし、その地域で唯一、全く被害を受けなかったのが、ハビタットが建てた家だけだったのです。
後日、その理由を尋ねに来た記者に、支部の代表はこう答えました。「私たちは、手抜き工事をしていませんから。設計通り、材料通りに、皆が自分の家を建てるような気持ちでやっていますので。」
世の中には、「正直になると損をする」という考えが蔓延しています。正直に生きてはいけないと、ある政治家や偉い人たちが、自らの行動で示してきました。
それでも人は、悪よりは善に手を伸ばし、偽る者よりは、たとえ馬鹿正直だとしても、その人を選びます。それが、人の本性だからです。何よりも、自分の良心に背かないこと。人を騙すことに命を懸けるのではなく、その良心を守ることに命を懸けてほしい。そういう社会になってほしいと願います。
2008年9月14日(日) 弱いけど強い、強いけど弱い人間
1999年4月、アメリカのコロンバイン高校で銃乱射事件が起きました。その時、犯人の一人が17歳の女子生徒に銃を向け、こう尋ねたといいます。「お前は神を信じるのか?」 彼女は答えました。「はい、信じます。」 すると犯人は彼女に銃を発砲し、その場で彼女は亡くなりました。
事件後、彼女の話はアメリカ全土に広がり、クリスチャンの学生たちの間で「Yes, I
believe in God」と書かれたTシャツを着る運動が始まりました。 自分の信念に、いつでも、どんな場合でも「はい」と答えられる人は、どれくらいいるでしょうか。
人は、信じる存在ではなく、愛し、愛される存在です。強いけれども弱く、弱いけれども強い存在として、人は造られました。できるか、できないか、勝つか、負けるかは、それほど大きな差ではありません。紙一重です。問題は、どんな場合でも揺らぐことのない、自分の考え方。自分は勝つと思えば勝ち、できると思えばできる。負け組と勝ち組は、自分の中ですでに決められているのです。
今、直面しているすべての問題は自分の中にあり、それと同時に、その解決の鍵もまた、同じ場所にあるのです。
安息日を守れ
あるユダヤ人が、安息日に山へ登って行きました。その時、大きな熊に出会ったのです。びっくりしたユダヤ人は、神に必死に祈りました。「神様、助けてください!」
しばらくして、ふと目を開けてみると、その熊も隣で天に向かって何かを話しています。不思議に思ったユダヤ人が尋ねました。「何をしているんだい?」「ああ、僕も祈っているんだよ。」「誰に?」「神様にさ。」「お前、神様を知っているのか?」「もちろん!」
ユダヤ人は安心して一息つきました。「助かった!ところで、何を祈っていたんだい?」 「ああ、それは食事の感謝の祈りだよ!」
とにかく、安息日は守るべきである。
2008年9月19日(金) 奉仕で新たな力を得る
人生の意味を見失ったり、心身が疲れ果てたりしている現代人にとって、ボランティア活動、つまり他人のための奉仕は、真の人生の価値を教えてくれます。人を助けることは、自分を助けることなのです。小さな奉仕で流す汗は、自分はもちろん、多くの人に幸せをもたらします。その汗の滴は、やがて喜びの川となって、自分の方へと流れてくるでしょう。
冬は近づいている
寒い朝の空気を吸いながら、森へと入る。もう、林業の人々が作業に来ている。朝日が昇り始めた。 森の道を祈りながら歩いていると、一人のおばさんと犬に出会う。「Guten Morgen!」と挨拶を交わす。また、三人の男女と二匹の犬にも出会った。
森から差し込む朝日の光を、カメラに収める。木を切る電気のこぎりの音が聞こえる。こうして、一日が始まる。 三階の家族は、旅行から戻ってきたようだ。先週、出かける前に鍵を預かり、新聞や郵便物を家の中へ入れておくよう頼まれていたのだ。その役目も、もう終わりだ。
本当に寒い朝。私はこういう朝が好きだが、妻と娘はどうも嫌いなようだ。二人とも、寒がりだから。冬は、確実に近づいている。
2008年9月20日(土) Never Give Up!
イギリスの元首相チャーチルが、名門オックスフォード大学の卒業式で祝辞を述べることになりました。 当日、彼はタバコをふかしながら壇上に上がり、熱狂的な歓迎を受けました。帽子とタバコを演壇の脇に置き、人々を見つめます。皆、どんな話が聞けるかと期待していました。
いよいよ彼が口を開き、言いました。「Never Give Up!」 そしてもう一度、人々を見つめ、こう続けました。「Never, Never, Never, Never, Never, Never Give Up!」 この言葉を大きな声で叫ぶと、彼は壇上から降りていきました。それが、祝辞のすべてでした。
人々は熱狂して拍手を送りました。それは、彼の演説に対してというよりは、諦めずに生きてきた彼の人生に送る賛辞でした。 小学校の通知表には「救済不可能」と書かれ、中学校では3年間留年。大学も二度浪人して、陸軍士官学校へ。政界へ出てからも、失敗の多い日々でした。彼は至る所で失敗を経験しながら生きてきたのです。けれども、決して諦めなかった。
人生は挑戦であり、その挑戦者のみが勝利者となる。彼の諦めを知らない強い意志が、後に彼をノーベル賞受賞者、第二次世界大戦の英雄、そして偉大な政治家へと押し上げたのです。
他の人にできることは、自分にもできる。ただ一つ、決して諦めないこと。希望と勇気があるならば、人は望むものを手にすることができるのです。
2008年9月23日(火) 我が家が一番
土曜の午前、バスに乗って町へ出た。まず本屋で娘の絵本を二冊買い、それから学食へ。娘はチョコケーキとミルクを、私たちはコーヒーを飲み、11時半になったので昼食を美味しくいただいた。町は、多くの観光客でいっぱいだ。 その後、いつもの店で買い物をして、予定通りのバスで家に帰ってきた。やはり、我が家が一番だ。
先日は、9時半から始まる教会の礼拝に出席した。最初に訪れた時が月一回の食事会だったようで、ケーキの上に小さなドイツの旗が刺さっていたのを、娘は数ヶ月経った今でも覚えていて、「今日は旗の教会に行くの?」と言っていた。
小さな教会だが、皆さんとても親切に接してくれる。帰り道、娘が大きな声で歌いながら歩いていると、時々、窓からおばあさんたちが笑いながら覗いていた。少し肌寒い秋の日曜日だったが、とても心が温まる一日だった。感謝。
2008年9月25日(木) 祈りは必ず聞き入れられる
主イエスの御名によって祈れば叶えられる、とクリスチャンは信じている。しかし、自分が祈ったこととは違う形で、答えが与えられることがある。
聖アウグスティヌスが若い頃、放蕩な生活を送っていた時のこと。敬虔な母モニカは、息子のために絶えず祈っていた。ある日、息子がイタリアへ行くと聞き、彼女は「もっと悪くなるのでは」と心配し、その道が閉ざされるよう、夜を徹して一生懸命に祈った。
しかし、アウグスティヌスは計画通りに船に乗り、イタリアへ渡った。そして彼はそこで、アンブロジウスの説教を聞いて回心し、聖アウグスティヌスへと変わっていったのである。
後に彼は、こう言葉を残した。「神様は、母が祈った通りには答えられなかったが、彼女の願いそのものは聞き入れてくださった」と。
いいえ、うちの豚ですよ
ある清教徒の農夫がいた。ある日、偶然彼の家に泊まることになった、無神論者の知識人と夕食を共にすることになった。 食事の前に、農夫がいつものように「お祈りをしましょう」と言うと、無神論者は「それは18世紀の古臭い習慣ですよ」と笑いながら言った。 それでも農夫は、家族と共に食前の感謝の祈りを捧げた。そして、客人にこう言った。「家の中には、あなたと同じ家族がいますよ。」
すると彼は、「それは良かった。私の仲間がいて。どなたですかな?大学に通うご子息ですか?」と尋ねた。 その時、農夫は答えた。「いいえ、うちの豚ですよ。」
皆で生きる道は?
この世には、加害者と被害者が存在する。 生まれてくる赤子は皆、同じように平和な顔をしているのに、一体なぜ、この世界には加害者が存在するのだろうか。最近の事件では、犯人がごく普通の人だった、ということも少なくない。
しかし、よく考えてみれば、それは決して不思議なことではないのかもしれない。誰もが、加害者の側に立つ可能性を秘めているのだ。多くの人は今も、心の中で誰かを傷つけ、殺している。幸い、人間には良心と自制心があるため、この世界は保たれている。事件とは、その良心と自制心が崩れ落ちた時に起こるのだ。
そしてもう一つ、この世には目に見えない「悪」という存在がいることを、否定することはできない。 先日、フィンランドの学校で銃乱射事件が起き、10人の犠牲者が出たという。欧米で相次ぐ銃器事件、アジアで相次ぐ幼児殺害事件と生徒たちの自殺。 この世での喜びと悲しみ、笑いと涙、痛みと安らぎは、時が経てば忘れられ、いつかは跡形もなく消えてしまう。愛する人のための涙も、やがては枯れる。それが人生だ。悲しみも喜びも、裏切りも信頼も、すべてを経験して生きていく。こういう世界を、私たちは生きているのだ。
2008年10月19日(日) 祈り
「祈りとは、自分の必要のために神を自分側に立たせるのではなく、神の御心に自分の望みを合わせることである」と、D.L.ムーディは言いました。 ある寓話の中で、ライオンは「今日の日用の糧をお与えください」と祈り、鹿は「今日もライオンからお守りください」と祈る時、神はどちらの祈りを聞き入れられるのか、という問いがあります。
トマス・ア・ケンピスは、正しい祈りについて次のように言っています。 「主よ、あなたは何が最善のことかを、よくご存じです。すべてが、あなたの御心になりますように。」
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