フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」(ヨハネによる福音書14章8~14節)
小さい子どもと一緒に遊ぶときにはその子供の世界に入らなければ楽しく遊ぶことができない。さらに子供たちとのきずな、良い関係を作ることもできない。大人の考え方ややり方では子供たちの世界で一緒に遊ぶことはできない。そして遊び仲間、友達として受け入れられることもできない。頭では子供たちの世界を理解することは出来る。幼児教育や子供たちに関する一般的な知識も簡単に得ることができる。
しかし彼らの心を得ることはそう簡単ではない。それは一緒にその世界に入って彼らの言語や考え方や感じ方などを通してはじめて彼らを理解し、受け入れられるのである。ある意味、それは大人にとって苦痛である。
例えば宇宙という計り知れない広い空間で過ごした人が地球という小さなボールの中に入り込んで過ごすことになるのと同じである。または鷲のように自由に空を飛んでいた鳥が鶏のように狭い空間の中で歩き回ることしかできない鳥になったのと同じであるかも知れない。やはりそれは苦痛である。
しかしその苦痛を自ら選んでこの世界に入り込んだのが神の御子イエス・キリストである。その理由は私たちを罪から救い出すためであると聖書は教えている。永遠の命を与えるために神様は自らその苦痛の道を選んだのである。そのことを聖書は繰り返して語っているが、しかし人々はそれが理解できず、思いのまま生き、罪の中に留まりながら歩んでいる。教会は神が人となった理由を語り伝えるために存在している。
今日は大雨のために娘の学校の文化祭が中止になった。残念。
一生懸命に準備をしたのだが、仕方ない・・・・・しかし大事なのは過程である。準備過程の中で友たちとのやり取り、物事の進み方などを決めるにあたって話し合ったことなども大事な時であったに違いない。でも楽しい思い出が半分しか作れなかったことは残念かも・・・・・
雨の中、僕は歩いて仙台朝市へ。
野菜と果物を買ってきた。
生きる。
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