主よ、神々の中に/あなたのような方が誰かあるでしょうか。誰か、あなたのように聖において輝き/ほむべき御業によって畏れられ/くすしき御業を行う方があるでしょうか。(出15:11)
ヘブライ語で「栄光」とは重い、重要であるとの言葉から派生した単語である。神様の栄光は重く、重要である。神様はモーセに「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と言われた。(レビ記10:3)
空はなぜ存在するのか?神様の栄光を宣布するためである。天は神の栄光を物語り/大空は御手の業を示す。(詩編19:1)
神様はなぜイスラエルの民を選んだのか?彼らは皆、わたしの名によって呼ばれる者。わたしの栄光のために創造し/形づくり、完成した者。(イザヤ書43:7)
なぜ神の民が試練に遭うのか?見よ、わたしは火をもってお前を練るが/銀としてではない。わたしは苦しみの炉でお前を試みる。わたし自身のために、わたし自身のために/わたしは事を起こす。わたしの栄光が汚されてよいであろうか。わたしはそれをほかの者には与えない。(イザヤ書48:10-11)
そして主なる神様は終われる。それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって/お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」(詩編50:15)
人は神様の栄光のために創造された存在である。これを快く、光栄に受け入れることが出来るのは真のキリスト者と言えるのである。そしてその栄光のために生きることが人生の目的であり、一番価値ある事として受け止める人のみ神様の栄光を現すことが出来る。
例えば自分がアメリカ大統領の補佐官だと考えて見よう、どれだけの権限が与えられ、また誇りと思えるのか?神様の栄光のために生きる者とはそれ以上の、何百倍の権限を持つ事になり、誇りをもって生きるべきである。キリスト者は神様の補佐官である。これ以上の光栄なポストはないはずである。主の栄光のために生きることである。
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