わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。(コリント二3:18)
But we all,
with open face beholding as in a glass the glory of the Lord, are changed into
the same image from glory to glory, even as by the Spirit of the Lord.(2
CORINTHIANS 3:18)
知人の牧師の死。72歳。
約3年間、毎日のように顔を合わせていた先生だった。
死の予告はあったかもしれない。けれどもこの前のイースター礼拝にもちゃんと説教を行ったという。しかし、死は矢のように突然訪れる招待していない客である。死を恐れるのは一度も経験していない出来事であるからだ。そして愛する人々との生き別れ、準備の出来ていない状況の中で、一人で去るからだ。自分の死を喜ぶ人はいない。
しかし死を恐れない人々がいる。
死を打ち破って新しい命を備えて下さった方であるイエス・キリストを主と呼び、信じて生きているキリスト者である。ここでのキリスト者とは本当(?)のキリスト者を言う。名前だけのクリスチャンではなく、本当に復活信仰を持ち、イエス・キリストのために生きる人々である。そういう人々にとって死はもはや恐れる存在ではない。ただ乗り換え停留場のようなものである。死んだらイエス・キリストが車長を務める永遠の命の列車に乗って天の御国へと旅立つ群がキリスト者である。ここに真の希望がある。だから死を恐れない。
そして天の御国でイエス・キリストと顔と顔を合わせて話し合い、永遠の祝宴に与る。
真の栄光に包まれて永遠の世界で生きる群れとなる。だからこの世で未練なしの人生を生きるべし。目に見えるものに執着せず、目に見えない永遠のものを求めて生きるべし。主と同じ姿に造りかえられる日を待ち望んで生きるべし。今日も主の栄光のために精一杯に生きるべし。ハレルヤ!
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