神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります。(コリント二9:8)
And God is able
to make all grace abound toward you; that ye, always having all sufficiency in
all things, may abound to every good work☹(2
CORINTHIANS 9:8)
今日は1時1分起床。いつものように祈り、掃除、聖書、仕事・・・・雨は降り続く。
3時過ぎに雨の中、ノアちゃんの散歩(?)
少し肌寒い。7度だ。
山形までの祈りの旅の疲れも少しは取れて今日からは改めて日課に励んでいく。
人間が生きるためのすべての点、生きるためのすべてのものに十分で、神様の御心に適ったあらゆる善い業であるだろう。そしてそれらが満たされるように恵みを与えることが出来るのは主なる神様である。それを信じて生きるのがキリスト者である。当然、その神様に祈り求めながら、頼りながら生きる群れが教会である。
しかし、主なる神様を知らない人々はすべての点、すべてのものを自分の力で用意し、得るために必死に頑張れなければならない。そしてあらゆる善い業ではなく、あくまでも自己満足のために生きるのである。仮に慈善事業のために手を貸したとしても結局は自己満足である。自分を犠牲にしてまでそれらを行う人々は少ない。余裕がある中で行うことが多い。
それでもよい。その恩を受ける人々がいるならば・・・
犠牲の少ない時代を生きている。反対に相手の犠牲を求めて自分は楽になることを考える。
罪深い世界である。戦争も自己欲のためである。政治も自己欲のためである。事業も自己欲のためである。自分の欲を満たすことが悪いとは思わない。しかしその自己欲のために誰かを犠牲にさせることが悪いことである。他人を犠牲にさせるよりは自己欲を諦めることが大事である。
問題はその自己コントロールが出来ない人が戦争を起こし、犯罪を起こし、社会と世界を脅かすのである。そのために法が存在する。にもかかわらず犯罪は止まない。なぜならこの世界には目に見えない悪しき者(👿)が存在するからである。そしていつもこの社会に対して不平不満を持つ者、不合理であると文句を言う者、自分の不幸を他者のせいにし、社会のせいにする人々の心を利用して犯罪を起こさせ、秩序を乱し、破壊しようとする👿がいるからである。だから自由で平和な世界にはなれない。そういう中で真の自由と平和を祈り求める人々がいる。イエス・キリストによる自由と平和を求める人々である。罪からの自由と悪しき者からの自由である。これが根本的な自由と平和である。こういう考えをしながらも今日の夕食は何を作ろうかなと考える自分である。今日も精一杯に生きる。
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