新しい葡萄酒は新しい革袋に

 


"The Divine Now - Moving Beyond Sacred Places to Living Faith"

『今を生きる信仰 - 過去の聖地から真の神体験へ』

 

新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」(マタイ9:17

 

信仰生活における変化とは、過去との決別と新しい生き方の受容という、二つの側面を持つ重要な転換点です。多くの信仰者が陥る霊的なジレンマは、この二面性を正しく理解せず、古い自分を保持したまま新しい生き方を求めようとすることから生じます。主イエスが語られた「新しいぶどう酒は新しい革袋に」という譬えは、まさにこの真理を表しています。

 

アモス書に記された神の言葉は、この問題の本質を鮮明に示しています。ベテル、ギルガル、ベエル・シェバ―これらの場所は、イスラエルの民にとって深い霊的意味を持つ聖地でした。ベテルはヤコブが天の梯子の幻を見た場所であり、ギルガルは約束の地への入り口として、ベエル・シェバはアブラハムとイサクの信仰の記念碑として、それぞれが特別な意味を持っていました。

 

しかし神は、これらの歴史的な聖地に助けを求めることを禁じられました。なぜなら、私たちが礼拝し、祈り、信頼すべき神は、過去の記憶の中にではなく、今この瞬間を生きる現在の神だからです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」という神の自己啓示は、神が過去の遺物ではなく、今を生きる現実の神であることを示しています。

 

今日の私たちの生活においても、この真理は重要な意味を持ちます。新しい時代に向かって歩むためには、過去の罪深い生き方を清算し、神の赦しによって新しくされた存在として生きることが求められます。汚れた古い衣を着たまま新しい時代を語ることは、まさに「裸の王様」のような滑稽さを持ちます。

 

これは単なる政治的な問題ではなく、信仰の本質に関わる深刻な課題です。聖霊を受けることなくキリスト者となった者たちは、依然として過去の感情や生き方に縛られ続けています。赦しも愛も実践できない状態は、まさに聖霊の不在を示すものです。

 

真の解決は、悔い改めて主に立ち返ることにあります。過去の栄光や記憶ではなく、今を生きる神との出会いを通じて、私たちは真に新しい存在として生まれ変わることができるのです。そこにこそ、真の信仰の転換点があるのです。

 

 

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