2025年1月2日木曜日

美しい信仰?

 


Aiming for Beautiful Faith: Part 1

美しい信仰を目指して①

イエスの愛と死の意味

「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ13:1)この言葉は、イエスが最期の時を迎えるにあたり、弟子たちへの深い愛を示しています。真に幸せな人は、その最期の姿が美しいものです。

 

私たち人間は、誕生から死に至るまで、時空間に制約された存在です。この限界は、拒否することのできない現実です。死は、経験することも、他者と分かち合うこともできない絶対的な孤独の通路であり、私たちの心には常に拒否と恐れが潜んでいます。

 

キリスト者にとっての死

では、キリスト者が持つ信仰における死とは何でしょうか。それは神が定めたことであり、堂々と受け入れ、克服すべき課題です。生物学的には死はこの世での最後であり、人生の終結を意味しますが、私たちはそれを単なる否定的な出来事として捉えるべきではありません。

 

死は、有限性に閉じ込められた命が神の無限の命へと入る厳粛な転換点です。キリスト者にとって、死は最後の終着駅ではなく、永遠の暮らしのための乗り換えの時です。避けられない死であるならば、イエス・キリストによって与えられた新しい命をもって堂々と死に立ち向かい、受け入れることが求められます。

 

イエスは、栄光に包まれて現れ、エルサレムで遂げようとしている最期について話していました(ルカ9:31)。ここで「最期」と訳されているギリシャ語の「エクソドス」は「離れる」や「出発」を意味し、死を新たな出発として捉える表現です。主イエスは、自らの最期を知り、弟子たちを最後まで愛し、彼らの足を洗うことでその愛を示しました。

 

死に対するキリスト者の態度

死は必ず私たちに訪れます。それを避けることも無視することもできません。しかし、私たちにとって死は最期ではなく、永遠の世界へと繋がる乗換駅であり、先に召された主にある兄弟姉妹たちとの再会の時でもあります。このことを覚えることが、死を受け入れるキリスト者のあるべき態度です。この死に対する態度は、私たちの生き方にも影響を与えます。無意味で無価値なことに心を留めず、欲張らず、ただこの世での長生きを求めるのではなく、最期まで正しく生きることを求めるのです。聖書は「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」と教えています。この御言葉に従って生きることが、キリスト者の生き方です。

 

私たちはすでに永遠の命に与っている幸せな者です。この信仰を持って、日々を美しく生きていきたいと思います。


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