2025年1月29日水曜日

命より大事なもの

 




"Faith Under Fire - The Living Witness of North Korean Christians"

『迫害下の信仰 - 北朝鮮のキリスト者たちが示す生きた証し』

 

義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(マタイ5:10-12

 

北朝鮮における現在のキリスト教迫害の実態は、初代教会時代を彷彿とさせる厳しいものです。崔さん親子の地下教会での逮捕、聖書所持により命を落とした善さん、そして讃美歌を歌って処刑されたと思われる信仰者の証言は、現代においても信仰のために命を賭けなければならない現実を私たちに突きつけます。

 

北朝鮮当局による「宗教は麻薬である」という考えの下での徹底的な弾圧にもかかわらず、約4万人のキリスト者が信仰を保持しているという事実は驚くべきものです。しかし、より注目すべきは、この数の問題ではありません。自由な環境で信仰生活を送る何百万、何千万というキリスト者たちと比較して、彼らの信仰の質の違いにこそ、私たちは目を向けるべきです。

 

彼らが過酷な迫害下でも信仰を守り続けられる理由は、「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」という使徒パウロの言葉に表される確信にあります。彼らの望みは、この世での長寿や繁栄ではなく、永遠の命という揺るぎない希望に向けられているのです。

 

黙示録に記された「神の幕屋が人の間にあって神が人と共に住み、人は神の民となる」という約束は、彼らにとって生きる力の源となっています。涙がぬぐい取られ、死も悲しみも嘆きも労苦もない世界への希望は、現在の苦難を耐える力となっているのです。

 

彼らが求めているのは、単純でありながら本質的なことです:主と共に生き、死に、復活し、永遠の命にあずかること。この純粋な信仰の姿は、私たち自身の信仰のあり方を問い直す鏡となります。

 

この証言は、現代の教会に対する重要な問いかけとなります。私たちは、快適な環境の中で信仰の本質を見失っていないでしょうか。北朝鮮のキリスト者たちの生きた証しは、真の信仰とは何かを私たちに教えているのです。

 

 

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