2025年1月30日木曜日

生きるリズムに乗って

 


26キロ走り抜けた後の朝の風景は、どこか特別なものに感じられる。いつもと同じ景色のはずなのに、26キロという距離を自分の足で刻んだ達成感が、この世界を少しだけ違う角度から見せてくれるからだろう。朝日が地平線から顔を出し、ハクチョウたちが雪の降り積もる道に佇む姿。薄く積もった雪が、まるで世界全体をそっと包み込むように舞い降りている。それは尊い静けさと優しさに満ちている。

 


多くの人々は、この朝の風景の中で自分だけの物語を紡いでいる。ランナーたちは新しい一日を迎えるために汗を流し、犬と飼い主たちは共に歩む喜びを味わい、道路を走る車や自転車は通勤ラッシュという生活のリズムを刻む。それぞれが一人ひとり、無数の思いや目的を抱えてこの同じ時間を生きている。

 


しかし、ふと周囲を見渡せば、一人ぼっちの白鳥が目に留まる。その孤独がどこか、自分自身の内面と重なる瞬間がある。「みんな他者と繋がりながら生きているのに、自分だけが取り残されているのではないか?」そんな気持ちを、この孤独な白鳥に投影してしまう。しかし、この世界は同時に、自然の大きな仕組みの中で誰もが繋がっていると気づかせてもくれる。一人きりに見える白鳥も、流れゆく川や降り積もる雪、その周囲の命たちと共に生きているのだ。


 

地球は、今日も確かに一回転した。太陽は、確実にまた昇ってきた。そして明日もまた、同じように回転を続け、太陽は昇るだろう。この繰り返しに秩序を見いだすということは、一種の美しさだ。けれども、それを「退屈だ」と感じる人もいる。そして、その退屈さの中で、「生きるとは?」という問いを抱くことがある。

 


決まったパターンの中で、それでも私たちは何か意味を見出そうともがく。朝、目を覚まし、働き、そして眠る。そのリズムは単調に見えるけれど、それぞれの日々には、微細な違いが積み重なっている。26キロ走った後に見える朝日や風景が少し違って見えるように、一つひとつの出来事が私たちに新しい何かを見せてくれる。ルーティンの繰り返しの中に、ほんの小さな喜びや満足を見つけることが、生きるということなのかもしれない。

 


「生きるとは?」という問いは、単純な言葉で答えられるものではない。しかし「生きている」という事実そのものが、何よりも確かな証拠ではないだろうか。26キロを走るその足取り、薄く舞い降りた雪の冷たさ、冬の川の流れる音、それらすべてが「いま、ここで生きている」というリアルを教えてくれる。未来のことも過去のことも、たったこの一瞬の「生」の前には霞んでいく。

 


だからこそ、この繰り返しの中に、たった一つの新しい風景や感覚を見つけていこう。白鳥の静かな孤独の中にも、生きるリズムの一部が宿っているように、私たちもまた、この決まりきった世界の中で、少しずつ形を変えながら生きていく。それが、生きる意味の一端なのではないかと思う。

 

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