朝のランニングは私にとって、体を鍛えるだけでなく、心を整える大切な時間です。25キロという距離を走り切る間に見かける景色や人々はいつもどこか変わらないようで、どこか新しい発見があります。ほぼ毎回すれ違うその顔ぶれに、私は時折、小さな親近感を抱きます。
不自由な体でゆっくりと歩みを進めるおじいさん。彼は、必死というよりも、淡々と何か自身のリズムを見つけながら歩いているように見えます。その近くでは、色とりどりのボールを使ってゲートボールを楽しむもう一人の高齢者たちの笑い声が響きます。一方で、青空の下、プラモデルの飛行機を悠然と操るおじいさんが目に入ることもあります。その静かな姿を見ていると、子どもの頃から変わらない趣味に没頭する時間の流れを想像せずにはいられません。歩く人々、走る人々、犬とともにのんびり散歩を楽しむ人々──皆それぞれの人生を生きています。
どんな人生を歩んできたのだろう?これからどんな未来を築いていくだろう?そんな問いがふと思い浮かぶこともありますが、特に深く考えることはありません。それよりも、もっと大切だと感じるのは、「今」を同じ空間の中で共有しているという事実です。同じ道、同じ空気、同じ太陽の光の下で、今日という一日をそれぞれのやり方で精いっぱい生きている。それだけで十分だと思えるのです。
周りを見渡せば、世の中はいつもどこかで騒がしく、物事は常に変化しています。不安や恐れに襲われながら、それでも平穏や喜びを見つけて生きる人たちがいる一方で、慌ただしい毎日の中で追われるように生活する人もいます。それでも、自分のペースを崩さず、周囲に影響されずに静かに生きる人々もいます。
私がランニング中に思うのは、人生のスピードを競う必要はどこにもない、ということです。速さにとらわれず、今走っている道の「内容」と「意味」を感じること。それこそが本当に大切ではないでしょうか。朝陽の中を踏みしめる一歩一歩の充実感、すれ違う人々の表情や仕草をきっかけに訪れる心の平穏。そのすべてが「今」を生きている証であり、かけがえのないものに思えてきます。
私
たちはどんな人生を歩んでいようとも、同じ空の下で繋がっています。誰かの人生を深く知る必要はないかもしれないし、勝手に想像するのも違う気がします。それよりも、ただ「ここ」にいること、共に生きていることを大切にしたいのです。この先どんな未来が待っていたとしても、同じ空間を分かち合い、日々の小さな瞬間を共に共有する。それが私にとって、世界との繋がりを感じられる一番素直で平和な瞬間です。
朝ランの途中で見かける人々──彼らは私の人生の伴走者であり、同じ時間を生きる仲間です。スピードを競うことなく、それぞれの歩幅で生きる姿を見るたびに、私自身のペースもまた穏やかになります。そして、そんな当たり前の景色の中にこそ、「今を生きる」という深い喜びがあるのです。
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