「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ書40章8節)
川は永遠に流れ続ける。それは自然の摂理であり、川のあるべき姿だ。時は刻一刻と過ぎゆく。それもまた、この宇宙の真理である。私たち人間も、生まれ、そして必ず死へと向かう存在だ。これらの真理は、まるで大地に刻まれた古の教えのように、揺るぎない事実として私たちの前に横たわっている。
しかし、その確かな真理を前にしながら、私たち人間は何と愚かな振る手をすることか。限りある命を持つ者同士が、憎しみ合い、傷つけ合い、虚しい争いに明け暮れる。この矛盾に満ちた行為は、まるで自分の存在の意味すら理解していないかのようだ。
では、正しく生きるとは何か?その答えを人間社会の作り出した規範や法則の中に求めることは、あまりに狭量ではないだろうか。むしろ、自然の中にこそ、その答えは隠されているのかもしれない。
風は、誰も差別することなく世界中を吹き抜ける。花は、誰に対しても平等に美しい姿を見せる。川は、上流も下流も分け隔てなく潤し、星は万人に対して同じように輝きを放つ。
自然界のこれらの存在は、無言のうちに私たちに語りかける。争うことなく、憎むことなく、ただ自分の在り方に忠実に生きることの尊さを。そして、それこそが「正しく生きる」ということの本質なのかもしれない。
私たちは、死すべき運命を持つ存在である。だからこそ、この限られた時間の中で、いかに意味のある生き方をするかが問われている。風のように自由に、花のように美しく、川のように力強く、そして星のように輝かしく生きることを、自然は私たちに教えているのではないだろうか。
今この瞬間も、時は流れ、川は流れ、そして私たちの命も流れている。この流れの中で、私たちにできることは、自然の叡智に耳を傾け、真摯に、そして謙虚に生きることなのだろう。それこそが、死すべき運命を持つ人間に与えられた、最も崇高な生き方なのかもしれない。だが、創造主は言う。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」と。私たちが生きるのは命の源である主なる神様のゆるしがあったからである。その命の言葉に耳を傾ける人は人生の真の意味を発見し、正しい生き方も見出すだろう。迷いの人生を避けることは不可能だが、迷いの人生を選ばないことは可能である。そのカギとなるのは常に人生のナビゲーションである聖書の言葉に耳を傾けて歩むことである。
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