「神などいない」と叫ぶ心の奥底で、本当に探しているもの ― 詩編14篇が照らす現代の魂

 


神を知らぬ者は心に言う/「神などない」と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。主は天から人の子らを見渡し、探される/目覚めた人、神を求める人はいないか、と。・・・・・(詩編14編)

 

「神などいない」

 

まるで理性の勝利宣言のように、あるいは自立した人間の証のように、この言葉が空中に放たれることがあります。しかし、聖書の詩編14篇は、その短い言葉の奥に隠された、魂の深い渇きと、静かな悲劇を見抜いています。

 

この詩が描き出すのは、遠い古代の物語ではありません。それは、物質的な豊かさと科学技術の光が、かえって深い影を生み出している、まさに現代の私たちの物語です。

 

では、なぜ人は「神はいない」と心に思うのでしょうか。

それは多くの場合、知的な結論というよりも、心の叫びです。コントロールできない人生の理不尽さ、祈っても応えられないように感じる沈黙、あるいは自分自身の弱さや罪と向き合うことへの恐れ。それらの痛みを避けるために、人は自ら神の存在を「消去」してしまうのです。あたかも、裁判官の存在を認めなければ、自分の罪も消えるかのように。しかし、神を心の法廷から追放しても、魂の虚しさが消えることはありません。むしろ、絶対的な真理という名のコンパスを失った社会は、どこまでも漂流し、人間関係は利害でしか結ばれなくなっていくのです。

 

詩編14篇は、そんな暗闇の中に、一本の光を差し示します。

 

「神は、従う人々の群れにいます。」

 

この言葉は、私たちに衝撃的な事実を伝えます。神は、私たちが探し求めるのを、ただ天の上で待っているお方ではない。むしろ、神ご自身が、ご自分を求める人々の群れの中に、その人生のただ中に、既に来てくださっている、と。

 

神に頼る人生とは、盲目的に奇跡を待つことではありません。

 

それは、人生という嵐の航海において、自分という小さな船の脆さを認め、全能の航海士に舵を明け渡す決断をすることです。自分の力だけで必死に漕ぐのをやめ、神という帆に、人生の風を受けてもらう生き方です。

 

「神などいない」と叫ぶ心の奥底で、私たちが本当に探しているもの。それは、自分を裁く者ではなく、自分を無条件に愛し、受け入れ、そして人生の困難を共に乗り越えてくれる存在ではないでしょうか。詩編14篇は、その存在がすでに私たちの中に、私たちを求める群れの中にいることを示唆しています。

 

私たちは皆、人生のどこかで道に迷い、心細さを感じるものです。しかし、その時こそ、「神などいない」という言葉の裏に隠された真の渇きを認め、もう一度、私たちの存在の根源である神へと目を向ける時なのかもしれません。なぜなら、真の平安と方向性は、私たち自身の「理性」や「力」の中ではなく、私たちを創り、今もなお愛し続けてくださる「神」の中にこそ見出されるからです。

 

あなたは今、何を信じますか? その「神などいない」という心の叫びの奥底で、本当に求めているものに気づく準備はできていますか?

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