「冤罪、無罪、有罪」

 




「冤罪、無罪、有罪」

 

聖書:使徒言行録2:36-39 

 

1.冤罪

「冤罪」という言葉があります。無実なのに罪を着せられてしまうことです。

 

1990512日、栃木県足利市のパチンコ店駐車場から女の子が行方不明になり、翌日、近くの河川敷で遺体が発見されました。これが「足利事件」です。

 

翌年、事件とは無関係の菅家利和さんが逮捕・起訴され、無期懲役が確定しました。しかし、2009年の再鑑定でDNA型が一致しないことが判明し、彼が無実であると明らかになりました。服役中だった菅家さんは即日釈放され、再審で無罪が確定しました。

 

世の中には、こうして「やっていないのに有罪にされる人」がいます。

 

2.無罪

逆に、「誰が見ても罪を犯した明確な証拠があるのに、自分は無罪だ」と主張し続けた人もいます。

 

1960年、アルゼンチンで逃亡生活をしていた男がイスラエルの情報機関モサドによって捕まりました。翌年、エルサレムで裁かれたその人物は、アドルフ・アイヒマン。第二次世界大戦で約600万人のユダヤ人虐殺に関わったナチス親衛隊の将校でした。

 

アメリカの哲学者ハンナ・アーレントは、この裁判を傍聴し、『エルサレムのアイヒマン』を書き上げました。アイヒマンは一貫して「上官の命令に従っただけ」と主張。アーレントは彼を悪魔のような怪物だと思っていましたが、実際は“ごく普通”の小役人だったと知ります。

 

彼女はこう結論づけました。

 

考えることをやめれば、誰でも悪人になり得る。

 

アイヒマンは被害者の痛みや苦しみを想像することを拒み、「私は無罪だ」と言い続け、最後まで罪を認めずに処刑されました。

 

3.有罪

もう一つの例が、今日の聖書箇所に登場する人々です。彼らは、罪のないイエス・キリストを十字架にかけることに加担しました。「直接手を下したわけではない」と言えたかもしれません。ただ群衆の中で「十字架につけろ!」と叫んだだけ。しかし、ペトロの説教を聞き、自分たちの言葉がどんな結果を招いたかに気づきました。

 

彼らは「兄弟たち、私たちはどうすればよいのですか」と問います。それは、聖霊によって心を動かされ、罪を認めた瞬間でした。

 

ペトロは答えます。

 

「悔い改めなさい。イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、聖霊を受けます。」

 

そして彼らは悔い改め、赦しと自由を得たのです。イエスはヨハネ16:8でこう言われました。

 

「その方(聖霊)が来れば、罪と義と裁きについて世に誤りを明らかにする。」

 

適用

自分の間違いに気づけない人ほど、恐ろしい存在はありません。考えることをやめれば、正しい言葉も行動も失われます。聖霊の神様は、私たちが正しく考え、行動できるよう導く方です。

 

 

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