カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。(創世記4:8)
「人はなぜ人を殺すのか?」――この問いには、哲学、神学、倫理学、社会学などさまざまな視点から多層的に応答できます。ここではそれぞれの立場から、私見を含め本質に迫ってみます。
1. 神学的視点
聖書の物語で、最初の兄弟カインとアベルの事件は、人間の内に潜む「罪」の現実を象徴しています。カインは自分の献げ物が神に受け入れられないことに嫉妬し、怒りを抱き、それが最終的に弟殺しという極端な行為へと転化します。ここに人間が自由意思と欲望、神からの疎外、罪への傾きを持つことが示されています。
神学的にみると、人間の心には自己中心・高慢・妬み・恐れなどの「原罪」とも呼ばれる根深い問題があり、そこから破壊的な行為が生まれてしまうのです。そしてカインは「自分の顔を隠し、弟から、そして神からも遠ざかった」とあるように、暴力は他者と神との断絶として描かれます。
2. 倫理学的視点
倫理的に考えると、**殺人は最大級の「他律的悪」**です。他者の生命権の侵害であり、人間の尊厳の否定です。殺人に至る要因を分析すると、「憎しみ」「利害対立」「権力欲」「恐怖」「正義の誤用」などが挙げられます。カインの例では「嫉妬」から始まりましたが、正当化の構造は時代や状況によって複雑化します。人間の倫理意識は歴史とともに成熟してきましたが、その根底には常に暴力への誘惑が潜んでいます。倫理的にそれを抑制し、赦しと和解の道を探ることが文明社会の課題です。
3. 哲学的視点
哲学者たちは「人間とは暴力的な存在か?」を考え続けてきました。トマス・ホッブズは『リヴァイアサン』で「万人の万人に対する闘争」状態を人間の自然として描きました。一方、ジャン=ジャック・ルソーは「人間は本来無垢であったが、社会化・所有の発生によって争いが起きた」とします。
ハンナ・アーレントは「悪の陳腐さ」を述べ、ありふれた人間がシステムのもとで殺人に加担する恐ろしさを説きました。「他者を認識し、理解によって関わる」ことの困難さが暴力の根にあると考えます。
4. 社会学的視点
社会学では、殺人や暴力は社会構造や環境の影響も大きいことが明らかにされています。生まれ育ち、経済格差、教育、孤立、イデオロギー、所属集団の圧力など、さまざまな構造的要因が人間を暴力に駆り立てます。「家族間」「共同体内部」「国家間」——そのどれにも、制度や文化、歴史の歪みが絡みます。
また、「敵/味方」という構図を作り出すなかで、人間は時に相手を「人間」と見なす感覚すら希薄になります。
5. 総合的考察と希望
結局、「人が人を殺すのはなぜか?」という問いには、「人間とは何か」「なぜ憎しみ・恐れが生まれるのか」という根本問題と、「悪からどう自由になれるか」「平和・赦しへどう歩むのか」という倫理的・宗教的課題が重なっています。
重要なのは、私たちには暴力や分断ではなく、愛と和解に生きる選択肢が与えられているということです。神学的にも、他者を赦し、憎しみの連鎖を断つように呼びかけられています。哲学的にも、他者の「顔」と出会い直し、共感と思索によって相互理解を深める可能性があります。
人間は欠けた存在でありながら、愛と正義に生きる道を模索することができます。私の立場から言えるのは、「暴力に向かう心の根本を絶えず問い直し、赦しと対話の可能性を見失わないこと」それこそが、人間が歴史のなかで学びうる最大の知恵である、ということです。
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