『あん』― ドリアン助川：見えない声に耳を澄ます物語

 

もし、あなたの人生が何かに縛られ、「意味がない」と感じられているとしたら。どら焼き屋「どら春」の雇われ店長、千太郎もまた、そんな一人でした。過去の過ちから逃れるように、ただ義務感だけで日々を過ごす彼の前に、一人の風変わりな老女が現れます。徳江と名乗るその女性は、桜の木の下で、働くことを懇願します。彼女の指は不自由に曲がっていましたが、その手が生み出す「あん」には、魂が宿っていました。

 

徳江が作るあんは、豆の一粒一粒と「対話」し、その声に耳を傾けながら、時間をかけて丁寧に炊き上げる、まさに芸術品。その絶品のあんによって、店のどら焼きは評判を呼び、千太郎の閉ざされた心も、少しずつ溶かされていきました。しかし、徳江には、誰にも話していない秘密がありました。彼女が長年、ハンセン病の療養所で、社会から隔離された人生を送ってきたという事実です。

 

その噂が広まると、人々は手のひらを返し、店から客足は遠のきます。社会という名の分厚い壁は、一度貼られた「汚れた者」というレッテルを、決して剥がしてはくれませんでした。千太郎は、徳江を守ることができませんでした。

 

しかし、物語はここで終わりません。徳江が千太郎に残した最後のメッセージは、この世界の本当の美しさを教えてくれます。私たちは何かを成し遂げるために生まれてきたのではない。ただ、この世界を見て、聴くために生まれてきたのだ、と。その言葉は、千太郎を過去の呪縛から解き放ち、彼自身の人生を歩み出すための、力強い光となるのでした。これは、社会の片隅で生きる人々の声なき声と、その魂の尊厳を描いた、涙なくしては読めない物語です。

 

キリスト教的視点から

この物語は、聖書における「重い皮膚病を患う人（ツァラアト）」の姿と重なります。人々から汚れた者とされ、社会から追放された徳江。しかしイエスは、そのような人々のただ中に入り、その体に触れ、癒されました。この作品は、見えるものや過去によって人を判断する私たちの罪を映し出し、すべての人は神の「作品」として尊い価値を持つことを教えてくれます。あなたの周りにいる「徳江」の声に、私たちは耳を傾けているでしょうか。