映画「ロストケア」:その手は「救い」か、それとも「殺人」か

 


もし、あなたの大切な人が終わりの見えない介護に苦しみ、心身ともにすり減っていく姿を目の当たりにしたら、何を思いますか?そして、その苦しみから解放してくれるという人物が現れたら、その手をどう思いますか?

 

前田哲監督、松山ケンイチ主演の映画「ロストケア」は、観る者の倫理観を根底から揺さぶる、衝撃的な社会派サスペンスです。

 

早朝、ある民家で老人と、その訪問介護士の遺体が発見されます。当初は、介護に絶望した介護士が老人を殺害し、自らも命を絶った無理心中かと思われました。しかし、捜査を担当する検事・大友(長澤まさみ)は、その死に不審な点を抱きます。

 

彼女の鋭い洞察は、やがて恐るべき真実を炙り出します。その介護士・斯波(松山ケンイチ)が、これまで担当してきた40人以上もの高齢者が、不自然な形で亡くなっているという事実を。

 

斯波は、連続殺人犯として逮捕されます。しかし、取り調べに対し、彼は顔色一つ変えずに言い放つのです。「僕は、殺人などしていません。彼らを『救った』のです」と。

 

彼は、心優しく献身的な介護士として、多くの利用者とその家族から絶大な信頼を得ていました。なぜ彼は、一線を越えてしまったのか。彼の言う「救い」とは一体何なのか。大友は事件を追ううちに、追い詰められた家族たちの悲痛な叫びや、現代日本の介護が抱える構造的な問題、そして制度の限界という、あまりにも重い現実に直面していきます。

 

この映画は、単なるサイコパスによる連続殺人事件を描いたものではありません。斯波という男を通して、私たちが普段は目を背けている「きれいごとでは済まされない介護の現実」を容赦なく突きつけます。彼の行為は断じて許されるものではありません。しかし、彼を生み出してしまったこの社会の歪みから、私たちは決して目を逸らすことができないのです。これは、他人事ではない。あなた自身の、そして社会全体の物語なのです。

 

キリスト教の視点から

人の手による「救い」という名の殺人が、命の尊厳を問う。キリスト教の視点では、すべての命は神が与えた聖なる賜物であり、その価値を人が裁くことはできない。真の愛とは、苦しむ魂の隣で共に荷を負うこと。終わりを選ぶのではなく、神の愛の中で最後まで寄り添い、仕えることこそ、私たちに与えられた使命ではないだろうか。

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