「尚絅学院大学礼拝説教」
聖書:コヘレトの言葉5章17-19節
説教:神様がくれた『自分の分』を最高に楽しむ生き方
人は誰でも幸せになる事を願っています。不幸を望む人はいません。しかし、問題は、
自分の思い描く「幸福」が、そう簡単には手に入らないことです。だからこそ、私たちは試行錯誤を繰り返しながら人生を歩んでいるのでしょう。多くの人が、人生のゴールを「幸福」に定めています。ではその「幸福」とは一体何でしょうか。もちろん「幸福」の定義は人それぞれです。そして多様な価値観や幸福観を尊重する事は、知を探求する大学生の皆さんにとって、とても大切な姿勢だと思います。本日は、そうした多様な考え方の一つとして、聖書が語る「幸福」とは何かを皆さんと一緒に探ってみたいと思います。
聖書は非常にシンプルで、かつ奥深い答えを示しています。それは、**「私達を造られた神様を喜ばせる事、それが私達の本当の幸せに繋がる道だ」**ということです。なんだか遠回りに聞こえるでしょうか?でも、考えてみて下さい。私達に「喜び」という感情を
与えてくださった神様ご自身が、私たちの幸せの源でもある、というのは、とても自然なことではないでしょうか。
神様は、この世界を創造された時、その一つひとつのプロセスを見て、「良しとされた」と伝えています。神様が「いいね」と感じるもの、神様の心を満たすものが、私たち人間の幸福の本質でもあるのです。イエス・キリストがこの地上に来て、私たちの為に十字架にかかって下さった目的もまさにそこにあります。ヨハネの福音書10章10節で、主イエスはこう言われました。「盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりする為にほかならない。私が来たのは、羊が命を受ける為、しかも豊かに受けるためである。」
ここで言う「豊かな命」とは、単に長生きするとか、物質的に恵まれるという事だけではありません。それは神様との交わりの中で味わう、深く、満たされた「幸福」の事です。今日の聖書箇所であるコヘレトの言葉5章17節の内容を、もう少し理解を深めるために
ヘブライ語の原文に一番近い新改訳聖書2017版を見ますと、このように記されています。
「見よ、私が見た良いことは、美しいことは、神がその人に与えて下さった命の日数の間食べ、飲み、日の下でのすべての労苦において幸いを見ることである。これがその人の
受ける分だからである。」
「幸福」を「楽しむ事」という言葉で表現していますが、それは「善い事であり、美しい事だ」と教えています。ここで使われているヘブライ語が非常に興味深いのです。
「善い(トーブ)」 内面的な、本質的な美しさを意味します。
「美しい(ヤフェ)」外見的な、目に見える美しさを意味します。つまり、コヘレトが語る幸福な人生とは、内面も外面も、心も現実の生活も、その両方が調和して美しい状態の事です。では、どうすればそんな「トーブ」で「ヤフェ」な人生を送れるのでしょうか。
コヘレトは、3つの視点からその秘訣を教えてくれます。
1.「神が与えた短い人生の間」— 自分の限界を知ることから始まる幸福
まず、幸福は**「自分の限界を知る」**ことから始まります。
私達人間は、神様によって造られた存在であり、そこには創造主である神様が定められた越えられない限界があります。例えば、家柄や出自の限界、そして寿命の限界です。
「限界」と聞くと、ネガティブに聞こえるかもしれません。「自分の可能性は無限大だ!」と教えられてきた方々もいる事でしょう。しかし、コヘレトの言葉は「人生は空しい」という衝撃的な言葉から始まります。でも、これは絶望を語っているのではありません。
「人生には限りがある」という事実、死という誰も逃れられない現実を直視する事こそ、本当の幸せに向かう第一歩なのだ、と教えているのです。
「賢者の心は弔いの家に/愚者の心は快楽の家に。」とコヘレト7章4節で伝えています。
いつもパーティで騒いでいるだけでは、人生の本当の深みには気づけません。友人の死や家族の病気、あるいは自分自身の挫折といった「喪中の家」のような経験を通して私達は自分の命が有限である事を痛感します。そしてその時、初めて「この限られた時間の中で自分はどう生きるべきか?」という真剣な問いを持つようになります。詩編90編12節の祈りは、まさにこのことを歌っています。「わたしたちの生涯の日を正しく数えることを
教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」
自分の限界を認め、受け入れること。それが知恵の基本です。そして面白いことに、自分の限界を知った人だけが、その限界を超える道も見出すことができるのです。その鍵は、コヘレト3章11節に隠されています。「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、
永遠を思う心を人に与えられる。」私たちには、この地上での限界と同時に、心の中には「永遠を求める思い」が神様によって与えられています。だからこそ、幸福な人生とは
この限られた地上での一日一日を大切にしながらも、その先にある「永遠」を見つめ、
神様の前に誠実に生きる準備をしていくことなのです。
2.「飲み食いし、労苦した結果に満足する」— 働くことの神聖さと喜び
次に、幸福は**「日々の労働とその実りの中にある」**と聖書は教えます。
「食べること、飲むこと」は、生きるための基本です。そして、その糧を得るために、
私たちは「働く」必要があります。アルバイト、学業、そして将来の仕事。これらは全て「労働」です。聖書において、労働は決して罰として与えられたものではありません。
アダムとエバが罪を犯す前から、神様は人間に「地を耕し、管理する」という働く役割を与えていました。働く事は、神様が私達に与えて下さった、創造の御業に参加するための神聖な営みです。罪によって、労働に苦しみやいばらが伴うようになったのは事実ですがその本質的な素晴らしさは変わりません。「ワークライフバランス」が叫ばれ、時には
「やりがい搾取」のような言葉も聞かれる現代において、「働くのが楽しい」と感じるのは難しいかもしれません。しかし、神様は私達が真面目に働くその「手」を祝福して下さると約束されています。申命記28章12節には「恵みの倉である天を開いて、季節ごとに
あなたの土地に雨を降らせ、あなたの手の業すべてを祝福される。」と伝えています
神様が降らせてくれる祝福の雨も、私達が自分の手で畑を耕し、種を蒔いていなければ、受け止める事ができません。つまり、幸福な生活とは、神様が恵みとして与えて下さった学業や仕事に誠実に取り組み、その中で神様からの祝福を具体的に体験し、味わっていくことなのです。
3.「それが人間の分なのだ」— 自分だけの「分け前」を喜ぶ
最後に幸福とは「神様が自分に割り当てて下さった『分』を喜び、享受すること」です。この「分」と訳されているヘブライ語「ヘレク」は「分けられた一部分」という意味です。神様は、私たち一人ひとりに、ユニークな「分け前」を与えてくださっています。
それには、才能や賜物、性格、興味、関心など、その人だけの特別なパッケージが含まれています。ですから他人と自分を比べて、「あの人にはあるのに、自分にはない」と落ち込む必要は全くありません。神様は、あなたという存在に最もふさわしい「分」を用意してくださっているからです。
皆さん一人ひとりにも、神様からのユニークな「分け前」があります。それは、他の誰かと同じである必要はありません。大切なのは、神様が自分に与えてくださったものは何かを探し求め、それを感謝して受け取り、その中で喜びを見出すことです。
本当の幸せとは、遠いどこかにある理想の自分になることではありません。人生には限りがあるという現実を受け入れ、今いる場所で、日々の学びや労働に誠実に取り組み、神様が自分だけにくれた「分け前」を、感謝して思いっきり楽しむこと。これが、コヘレトが教えてくれる、地に足をつけた、しかし永遠に繋がる「トーブ」で「ヤフェ」な生き方です。皆さんの大学生活、そしてこれからの人生が、神様が与えてくださった「自分の分」を最高に楽しむ、祝福に満ちたものとなるよう、心からお祈りいたします。
祈祷:主なる神様、ここにいる皆さんが主から与えられた自分だけの「分け前」に気づき、それをしっかり受け止め、様々な場面で100%生かしながら歩み、そこから真の生き甲斐と幸福が得られますように助け、導いてください。主の御名によって祈ります。
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