映画『ホーリー・モーターズ』

 


『ホーリー・モーターズ』作品解説

 

映画『ホーリー・モーターズ』は、謎に包まれた男、ムッシュ・オスカーの奇妙な一日を追う、シュールで幻想的な物語です。彼は運転手セリーヌが運転する白いストレッチ・リムジンに乗り込み、パリの街を巡ります。このリムジンは彼の移動式楽屋であり、その中で彼は次々と異なる人物へと変貌を遂げます。

 

彼の一日は「予約(アポイントメント)」で満たされており、その一つひとつが、まったく異なる人生の断片を演じる舞台です。ある時は物乞いの老婆になり、ある時はモーションキャプチャー用のスーツを着て架空の生物を演じる俳優に。またある時は、墓地を徘徊し花を喰らう怪人「ムッシュ・メルド」としてモデルを誘拐し、かと思えば、パーティー帰りの娘を心配する平凡な父親の顔も見せます。彼は殺し屋とその犠牲者の一人二役をこなし、死の床にある大富豪として姪との最期の時を過ごすなど、生と死、愛と狂気が入り混じる計11の役柄を、鬼気迫る情熱で演じきります。

彼を支えるのは、常に冷静沈着な運転手セリーヌ。彼女は単なる運転手ではなく、オスカーの秘書であり、共犯者であり、そして彼の唯一の理解者でもあるかのように見えます。彼女との束の間の会話だけが、オスカーが「素」の自分に戻る貴重な瞬間です。

 

【テーマと見どころ】

この映画が提示する中心的なテーマは、「アイデンティティ(自己)とは何か」そして「パフォーマンス(演じること)の本質」です。オスカーは、なぜこの仕事をしているのか、誰に雇われているのか、その目的も一切語られません。彼は、演じることの美しさ、その行為そのもののために自らを捧げているかのようです。観客は、彼の演じる人生の断片を通して、現代社会に生きる我々がいかに多くの「役割」を演じているかを突きつけられます。

 

見どころは、全編に散りばめられた予測不能で鮮烈なシーンの数々です。特に、カイリー・ミノーグ演じるかつての恋人と、廃墟となったデパートで再会しデュエットを歌う場面は、映画全体の狂気の中でひときわ切なく、美しい情感を放ちます。また、アコーディオンの楽隊を引き連れて教会を練り歩く間奏曲(アントラクト)のシーンは、物語の束の間の休息でありながら、映画そのものが持つ祝祭性と哀愁を象徴しています。そして、すべての仕事を終えたリムジンたちが車庫に戻り、互いの労をねぎらうかのように言葉を交わすラストシーンは、この世界のすべてが「役割を演じている」という深遠なテーマを観る者に示し、唖然とさせると同時に、不思議な感動を呼び起こすでしょう。

 

キリスト教の視点から

本作が描く、自らのアイデンティティを消してまで他者の人生を「演じる」オスカーの姿は、キリスト教的な「自己犠牲」や「受肉(Incarnation)」の概念を歪んだ鏡のように映し出します。彼は様々な人生の苦悩や死を追体験することで、他者への究極の共感を示しているかのようです。それは、私たちの痛みや弱さをすべて引き受けるために人となられた、イエス・キリストの姿を想起させます。

 

しかし、オスカーの献身には、決定的な「目的」が見えません。それは「行為のための行為」であり、最後には虚しさと疲労感が漂います。ここから私たちは、「何のために生き、何のために自分を捧げるのか」という問いに直面します。信仰とは、私たちの人生というパフォーマンスに、神という絶対的な観客と目的を与えてくれるものです。この映画は、神なき世界で意味を求め続ける人間の痛々しくも美しい姿を描き出すことで、かえって私たちの信仰の拠り所とは何かを、深く考えさせてくれる作品と言えるでしょう。

 

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