映画『籠の中の乙女』(原題: Κυνόδοντας / Dogtooth)

 


映画『籠の中の乙女』(原題: Κυνόδοντας / Dogtoothは、外界から完全に隔離された奇妙な家庭を舞台にした、ギリシャ映画界の異才ヨルゴス・ランティモス監督による衝撃作です。一家は、両親と、成人した三人の子どもたち(息子、上の娘、下の娘)で構成されています。子どもたちは、自宅の敷地から一歩も外に出たことがなく、両親によって徹底的にコントロールされた独自の「現実」の中で生きています。外部の情報は一切遮断され、両親は日常の言葉に新たな意味を教え込み、例えば「海」とは固い椅子のこと、「飛行機」とは天井から吊るされた模型のこと、そして「ゾンビ」とは美しい花の名称だと教えます。外界から侵入するものはすべて危険とされ、空を飛ぶ飛行機は「おもちゃ」、猫は「恐ろしい肉食獣」と説明されます。子どもたちは、自分の「犬歯」(一番奥の歯)が抜け落ちるまで、外の世界へは出られないと厳しく教えられて育ちます。

 

彼らの日々は、両親が課す奇妙なルールと訓練によって支配されています。例えば、庭の敷地から一歩でも出ようとすると、父親から激しい罰を受けます。また、彼らは家族内で独自の「ゲーム」を行い、そのルールも両親によって定められています。それは時に暴力的で、お互いを傷つけ合うような内容すら含みます。子どもたちは、外の世界に関する知識を全く持たないため、親が与える情報が唯一の「真実」だと信じ込んでいます。彼らは、親の愛情表現も、常軌を逸した支配も、すべてが当たり前のこととして受け入れています。

 

一家の歪んだバランスは、父親が息子の性的欲求を満たすために週に一度連れてくる、外の世界から来た女性クリスティーナの登場によって崩れ始めます。クリスティーナは、子どもたち、特に上の娘に外部のメディア(禁断のビデオテープなど)を密かに持ち込み、その存在が彼らの「真実」に少しずつ亀裂を入れていきます。子どもたちは、親が作り上げた常識では説明できない事象に直面し、それぞれが異なる形で反応を見せます。上の娘は、外部の刺激に最も強く影響を受け、徐々に疑問を抱き始めます。クリスティーナは意図せずして、彼らの世界観を揺るがすトリガーとなるのです。

 

この物語が提示する主要なテーマは、極端な管理と抑圧、情報と知識の操作、そして人間の自由への根源的な欲求です。言葉の意味を歪めることで思考そのものを支配し、子どもたちの内面的な世界までを構築しようとする親たちの姿は、全体主義的な社会や情報統制の危険性を象徴的に示唆しています。また、「犬歯が抜ける」という偽りの通過儀礼は、彼らの自由を阻む物理的・精神的な障壁を表しており、その不条理さが観客に問いかけます。見どころとなるのは、子どもたちが外界とのわずかな接点を通じて、徐々に真実の断片に触れ、内なる変化を経験していく過程です。特に、上の娘が最後の抵抗として、自らの犬歯を抜き、自由を求めて父親の車のトランクに身を隠すシーンは、抑圧された人間の生命力と自由への渇望が痛切に描かれ、観る者に深い印象と強い衝撃を残します。この映画は、私たち自身の「檻」とは何か、そして真の自由とは何かを問いかける、忘れがたい作品です。

 

キリスト教的視点から

 

この映画は、真実がねじ曲げられ、人々が虚構の「真実」に閉じ込められる世界の恐ろしさを強烈に描き出します。これは、聖書が語る「真理」の重要性と深く対比的です。イエス・キリストは「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と語り、私たちを罪と欺瞞という「檻」から解放し、真の自由へと導く光です。親が子どもたちを「守る」ために行った過剰な支配は、愛の名の下に行われる歪んだ権力の行使であり、神が私たちに与える、愛と選択の自由に基づいた関係性とは全く異なります。私たちもまた、世の中の価値観や情報に無自覚に囚われ、自らの「犬歯」が抜け落ちるのを待っているのかもしれません。この作品は、私たちがどのような「真実」を信じて生きているのか、そして真の解放と希望はどこにあるのかを深く問い直し、神の光の中にこそ自由と命があることを示唆するのです。

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