第1部:『さいごの旅 ―懺悔―』
プロローグ
岩崎勝也の人生は、数字で測れるものだった。年収、株価、契約件数、そして部長という肩書き。60歳、大手商社を勤め上げた男が信じたのは、それら目に見える成功が幸福と同義であるという、高度経済成長期が産んだ強固な神話だった。その祭壇に、彼は家族という名の生贄を捧げ続けてきた。
定年退職後、初めての家族旅行。その舞台に彼が選んだのは、成功の象徴であるラスベガスだった。スロットマシンのけたたましい電子音と、人々の欲望が渦巻く熱気の中、勝也は硝子の床に崩れ落ちた。
現地の救急病院で下された診断は、「旅の疲れと脱水症状」。若い医師がこともなげに告げたその言葉を、家族は安堵というよりは、旅行が中断されずに済んだことへの静かな満足をもって受け入れた。帰りの飛行機では、誰もその出来事に触れようとはしなかった。まるで、家族という名の舞台で起きた些細なアクシデントのように、すべてが日常の薄闇に葬り去られた。
しかし、日本に戻り、退職後の静かすぎる日々に身を置くと、あの硝子の床の冷たさが、不意に勝也の記憶に蘇るようになった。そして、右目の奥に、鈍い痛みが居座り始めた。気のせいだと打ち消すには、あまりに執拗なその疼きが、彼を旧友の元へと向かわせた。高校の同級生で、今は都内でクリニックを営む内科医の佐野。
「なんだ、勝也か。どうした、暇を持て余したか?」
昔話に花が咲き、緊張が和らいだ頃、勝也はラスベガスでの一件を、まるで他人事のように切り出した。その瞬間、佐野の顔から友人の笑みが消え、医師の鋭い眼差しが覗いた。
「念のためだ。一度、うちで精密検査を受けていけ。俺の頼みだ」
佐野の有無を言わせぬ口調に、勝也は頷くしかなかった。MRIの無機質な轟音に包まれた数時間。そして五日後、佐野からの電話は、朝の静寂を切り裂くように鳴った。「結果が出た。少し、時間を作ってくれないか」。妻には散歩に行くとだけ告げ、勝也は一人、クリニックの重い扉を開けた。院長室の空気は、消毒液の匂い以上に張り詰めていた。佐野は、手元のカルテから目を上げることなく、静かに口を開いた。
「脳腫瘍だ。悪性のね。もって、一年だろう」
佐野が告げた言葉は、しかし勝也に死の恐怖をもたらさなかった。彼の脳裏を稲妻のように駆け巡ったのは、病魔ではなく、自らの人生がいかに多くの骸の上に築かれていたかという、鮮烈な罪悪感だった。
出世のために蹴落とした同僚の、苦悶に歪んだ顔。踏み台にした友人の、諦めに満ちた目。そして何より、愛し方さえ忘れ、その心を枯れさせてしまった妻と、父の不在の中で育った子供たちの、静かな背中。
仕事という戦場で勝ち得たすべてが、色褪せたトロフィーのように見えた。
すれ違う家
勝也は、誰にも病の事実を告げなかった。家族に心配をかけたくないという殊勝な考えからではない。彼らにとって、自分の死はもはや日常の些事の一つに過ぎないだろうという、冷たい確信があったからだ。
「少し、長旅に出る。昔、世話になった人たちに挨拶をしておきたいんだ」
そう切り出した勝也に、妻の佳恵は無表情に頷いただけだった。長男の直樹は、父と同じエリートコースを歩む自分を重ねてか、少しだけ眉をひそめた。「お疲れ様です」と、当たり障りのない言葉を口にする。大学一年生の瑞希に至っては、スマートフォンから顔も上げず、「ふーん」と呟いただけだった。
その日から、勝也の奇妙な不在が始まった。
「また始まったわ。父さんの、ああいうところ」
リビングで瑞希が吐き捨てるように言った。直樹がコーヒーカップを置き、静かに応じる。
「定年後の手切れ旅行、といったところだろう。母さんも、そう思うだろ?」
キッチンに立つ佳恵は答えなかった。ただ、窓の外を見つめるその横顔には、58年という歳月が刻み込んだ深い諦念が浮かんでいた。同じ家の中にいながら、彼らの心は決して交わらない。勝也が魂の救済を求めて彷徨っていることなど、誰も知る由もなかった。
懺悔の巡礼
勝也の旅は、観光地のパンフレットには載っていない、彼自身の罪の地図を辿る巡礼だった。探偵を雇って作成させた「49人のリスト」。そこに記された名前と住所だけが、彼に残された道標だった。
最初の訪問先は、四国の小さな港町だった。30年前、自分が主導したプロジェクトの失敗の責任をすべて被せ、子会社に飛ばした元同僚の家。勝也は土下座する覚悟で呼び鈴を鳴らした。ドアを開けた男は、一瞬誰だか分からないという顔をしたが、やがて全てを思い出したように、静かに笑った。
「岩崎さんか。懐かしいな。まあ、上がっていけよ」
男は穏やかだった。会社を辞めた後、故郷で漁師になり、今は孫に囲まれて幸せに暮らしているという。勝也が震える声で謝罪の言葉を口にすると、男は困ったように眉を下げた。
「もういいんだよ、そんなこと。あんたのおかげで、俺は本当に大切なものに気づけたんだから。……でもな、岩崎さん。あんたのその謝罪は、誰のためだ?
俺のためか、それとも、死に行くあんた自身のためか?」
その言葉は、勝也の胸に鋭く突き刺さった。自己満足の懺悔が、相手の平穏をかき乱す「第二の加害」になり得る。その事実に、彼は初めて気づかされた。
ドイツの古都で、かつて彼の策略でプロジェクトから外された技術者の墓標に花を供えた。カナダの雪深い山荘では、彼が裏切った元友人に猟銃を突きつけられ、雪の中に跪かされた。韓国のソウルでは、彼が切り捨てた取引先の社長が、今やアジアを代表する企業のトップとなり、「あなたの冷徹さから多くを学びましたよ」と、皮肉とも感謝ともつかぬ言葉で彼を見送った。
旅は、勝也の予想を裏切り続けた。赦しを拒絶され、罵倒されることもあれば、全く覚えていないと笑われることもあった。彼の記憶の中の罪人は、それぞれの人生を生きていた。勝也の懺悔は、彼らの物語の中では、もはや些細なエピソードに過ぎなかったのかもしれない。
360日が過ぎた。リストの最後の一人に会うことなく、勝也は日本に戻った。彼の身体は、もう限界だった。
最後の写真
勝也は、家族に見守られながら、自宅のベッドで静かに息を引き取った。その最期は、驚くほど穏やかだった。家族は、彼が一体どこで何をしていたのか、最後まで知ることはなかった。ただ、痩せ細った父の姿に、漠然とした罪悪感を覚えていただけだった。
葬儀が終わり、日常が戻り始めたある日、佐野が岩崎家を訪れた。彼は佳恵に、一冊の分厚い日記を手渡した。
「勝也の、最後の旅の記録です。彼は、あなたたちにこれを読んでほしかったんだと思う」
日記には、病の告知から始まった、壮絶な懺悔の旅のすべてが記されていた。成功という鎧を脱ぎ捨て、罪の意識に苛まれる、一人の弱い男の姿がそこにはあった。佳恵、直樹、瑞希の三人は、言葉を失った。自分たちが「愛人との手切れ旅行」と冷ややかに見ていた夫の、父の不在の、あまりにも重い真実。
その夜、佳恵は一人、リビングの壁にかけられた勝也の遺影を見上げていた。仕事一筋で、家族を顧みなかった冷たい男。その写真の奥に、今なら見える気がした。愛し方が分からなかっただけの、不器用で孤独な魂の姿が。
佳恵の頬を、一筋の涙が伝った。それは夫への哀悼か、それとも自らへの悔恨か。彼女は、静かに、しかしはっきりと呟いた。
「……わたしの罪は常にわたしの前にあります。」
(第1部 完)
第2部:『サイゴの旅 ―赦し―』
プロローグ
父・勝也が遺したものは、都心の一等地に建つ邸宅と、証券会社の分厚いポートフォリオ、そして家族の心に残る空虚な静寂だった。岩崎直樹(28)は、父が占めていた空間が綺麗に空白となったリビングで、一冊の日記を読んでいた。それは、父の旧友である佐野医師から渡された、父の「さいごの旅」の記録だった。
ページをめくるたび、直樹が知る「岩崎勝也」の像は音を立てて崩れていった。そこにいたのは、冷徹で揺るぎない成功者などではない。犯した罪の記憶に苛まれ、不器用な自己満足と知りながらも、魂の平安を求めて彷徨った、ひとりの弱い男の姿だった。日記の最後には、几帳面な父の字で書かれた「49人のリスト」が挟まれていた。そのうちの数名には、赤いインクで「赦されず」と記されている。
尊敬は、当惑に変わった。当惑は、やがて言い知れぬ怒りへと。なぜ、父はこんな重荷を遺したのか。なぜ、家族という最も身近な存在にさえ、真実を語らなかったのか。父は、本当に赦されたかったのだろうか。それとも、死を前にして、ただ自分の心を軽くしたかっただけなのか。
そして、直樹の心に最も重くのしかかった問いは、これだった。
「俺は、この父を赦せるのだろうか?」
父と同じ商社に勤め、同じ道を寸分違わず歩んでいる自分。その足跡の先に待つのが、
父と同じ孤独な懺悔だとすれば、自分の人生とは一体何なのだ。
直樹は決意した。父が本当に赦されたのか、そして自分自身が父を赦せるのかを知るために、旅に出ることを。それは、父の罪の地図を逆から辿る、「赦し」の意味を探す旅だった。
影を追う旅
直樹の旅は、父のそれとは異なっていた。彼は謝罪をしない。ただ、父が訪ねた人々の「その後」を知るために、静かな傍観者として彼らの前に立った。最初の目的地は、父の日記に「最も激しく罵倒された」と記されていた、京都の西陣で小さな工房を営む元部下の家だった。
「……また岩崎家の人間か。今度は何をしに来た。親父の罪滅ぼしに飽き足らず、息子まで感傷に浸りに来たのか」
男――田所と名乗った――は、直樹を射殺すような目で睨みつけた。父・勝也の訪問が、ようやく平穏を取り戻しかけていた彼の心を、どれほどかき乱したか。田所は堰を切ったように語り始めた。勝也の自己満足な謝罪が、忘れかけていた屈辱を蘇らせ、妻との間に新たな亀裂を生んだこと。彼の訪問は赦しどころか、「第二の加害」でしかなかったこと。
「あんたの親父は、死ぬまで自分のことしか考えなかった。そして、あんたも同じだ。親父の魂が救われたかどうかなんて、俺の知ったことじゃない。俺の人生を返してくれ」
直樹は、返す言葉もなかった。父の懺悔が、新たな傷を生んでいた。その事実が、鉛のように重くのしかかる。
次に訪ねたのは、北海道の牧場だった。リストには「赦されず」とあったが、父が裏切ったという元友人は、直樹の姿を見ると、意外にも穏やかな顔で彼を招き入れた。
「親父さんの日記を読んだのか。そうか……。あいつは、俺が赦さなかったと書いとったか。まあ、そうかもしれんな」
男は、熱いミルクを差し出しながら、遠い目をした。
「俺はな、あいつを赦したわけじゃない。ただ、忘れたんだ。いや、忘れることにした。あいつへの憎しみを抱えて生きるのが、あまりにも馬鹿らしくてな。赦しっていうのは、相手のためにするものじゃない。自分のためにするもんだ。俺は、俺の人生を生きるために、あんたの親父を俺の物語から追い出した。それだけだよ」
赦しとは、罪を消す行為ではない。罪を抱えた相手を、自分の人生から手放す覚悟。直樹は、父のリストに記された「赦されず」という言葉の、一方的な解釈に気づかされた。
不在の証明
旅を続けるうち、直樹は奇妙な感覚に囚われ始めた。父が傷つけたと信じていた人々は、父が思うほど、父の存在を意に介していなかった。彼らはそれぞれの人生を力強く生き、苦しみ、そしてささやかな幸福を掴んでいた。父・勝也の存在は、彼らの人生において、もはや通過した嵐の一つに過ぎなかった。
父は、自分の罪の大きさに囚われるあまり、他者の人生における自己の小ささを見誤っていたのではないか。そして、その傲慢さこそが、父の最大の罪だったのかもしれない。
直樹は、父が最も恐れていたであろう人物に会うために、飛行機に乗った。父の同期で、最後まで出世を争い、最終的に勝也が失脚させた男。リストの48番目、赤インクで最も大きく「赦されず」と書かれたその男は、今や父がいた会社の副社長にまで上り詰めていた。
都心の高層ビル、広大な役員室で、男は直樹を待っていた。
「親父さんの日記、読ませてもらったよ。佐野君から、君が旅をしていると聞いてね」
男は、直樹が想像していたような、憎しみに満ちた顔はしていなかった。その表情は、むしろ哀れみに近かった。
「岩崎は、最後まで分かっていなかったな。私が彼を憎んでいたとでも思っていたのかね。とんでもない。私は、彼に感謝こそすれ、憎んだことなど一度もない」
男は続けた。
「彼は、私にとって最高の目標だった。彼の冷徹さ、非情さ、すべてが私の闘争心を掻き立てた。彼が私を陥れたあの日、私は初めて自分の甘さを知った。彼がいなければ、今の私はない。……だがな、直樹君。君の父親は、哀れな男だった。彼は、誰とも本当の意味で繋がることができなかった。家族とさえも。彼の懺悔の旅は、結局、誰のためでもなかった。死を前にして、初めて誰かと繋がりたかっただけなんだ。その方法が、謝罪しかなかった。それほど、不器用な男だった」
直樹は、全身の力が抜けていくのを感じた。父の人生を支えていたはずの「成功」も「罪」も、すべては彼一人の孤独な幻想だったのかもしれない。
赦しの行方
旅を終え、直樹は実家に戻った。リビングには、母の佳恵が静かに座っていた。彼の顔を見るなり、すべてを察したように、彼女は小さく微笑んだ。
「お帰りなさい。……分かりましたか。あの人の、本当の姿が」
直樹は、初めて母の前で、父について語った。懺悔の旅の空虚さを、赦しの多様な形を、そして父のどうしようもない孤独を。佳恵は、ただ静かに息子の言葉に耳を傾けていた。
すべてを話し終えた直樹は、壁にかけられた父の遺影を見上げた。そこには、成功者の仮面をつけた、見知らぬ男が写っている。しかし、今の直樹には、その仮面の奥にある、繋がりを求めて泣いていた子供のような魂が見える気がした。
赦すとか、赦さないとか、そういう問題ではないのかもしれない。ただ、知ること。理解しようと努めること。父が遺した罪の地図を辿る旅は、いつしか、父という一人の人間を理解するための旅になっていた。そしてその理解こそが、直樹にとっての「赦し」の始まりだった。
彼は、母に向き直り、静かに言った。それは、父にではなく、今を生きる家族に向けられた言葉だった。
「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。」
(第2部 完)
第3部:『最後の旅 ―救い―』
プロローグ
夫・勝也の懺悔の旅。息子・直樹の赦しの旅。二つの嵐が過ぎ去った岩崎家には、奇妙な静寂が訪れていた。岩崎佳恵(59)は、埃一つないリビングで、壁にかけられた夫の遺影を見上げていた。一年という歳月が、ようやくその死を「過去」という名の額縁に収めようとしていた。
夫は、自らの罪を洗い流そうと世界を彷徨った。息子は、父の罪の痕跡を辿り、父を、そして自分自身を赦そうとした。二人の男たちの壮絶な旅の記録は、日記としてこの家に遺されている。だが佳恵は、その二冊の日記を読めば読むほど、ある根源的な違和感に苛まれるようになっていた。
懺悔も、赦しも、その視線は常に「岩崎家」という内側を向いていたのではないか。夫の苦しみ、息子の葛藤。その物語の中心には、いつも「私たち」がいた。父のリストに記された49人の人々は、いわば岩崎家の魂のドラマを彩るための、名もなき登場人物ではなかったか。
本当の「救い」とは何だろう。罪を告白し、赦しを得ることだけで、魂は本当に救われるのだろうか。赦しを乞う者と、与える者。その二者関係だけで完結してしまった物語の、その先にあるものは何なのか。
佳恵は、一枚の古い地図を広げた。夫が遺した罪の地図だ。しかし、彼女がこれから始める旅は、過去への巡礼ではなかった。それは、未来へと向かう、岩崎家の誰もが成し得なかった、本当の意味での「最後の旅」だった。
見えない種を蒔く
佳恵の旅は、誰にも告げられず、ひっそりと始まった。彼女は夫や息子のように、リストの人物に会うことはしなかった。彼女が知りたかったのは、彼らの「その後」だった。
最初の目的地は、夫が最初に訪れた四国の港町。夫の訪問が、元同僚・田所氏の平穏をかき乱したと、直樹の日記には記されていた。佳恵は田所氏に会う代わりに、町の小さな図書館へ向かった。古い新聞の縮刷版をめくり、町の歴史を調べた。かつては活気があった漁業が、後継者不足と燃油の高騰で衰退の一途を辿っていることを知った。
東京に戻った佳恵は、匿名で小さな財団を設立した。その目的は、ただ一つ。「港町の漁業後継者のための、返済不要の奨学金制度」。申請書類には、岩崎家の名前も、勝也の罪も、一切記されていない。ただ、未来の漁師を育てるための、静かな希望があるだけだった。
それは、謝罪でも、償いでもない。ひとつの人生が奪ったかもしれない未来を、別の形で世界に返す、創造の行為だった。
佳恵の旅は、そのように続いた。夫が破産させた会社の社長の孫娘が、音楽の才能に恵まれながらも、進学を諦めかけていることを知った。数週間後、彼女の元に、地元の音楽協会から「匿名の篤志家からの寄付による、海外留学特待生制度」の知らせが届いた。
夫が墓前に花を供えたドイツの技術者。その遺族が、若い発明家を支援する小さなNPOを運営していることを突き止めた。ある日、そのNPOの口座に、日本の円で、決して少なくない額の寄付が振り込まれた。送金主の名は、ただ「Ein
Freund(一人の友人)」とだけ記されていた。
佳恵は、感謝も、赦しも求めなかった。彼女の行動は、誰の記憶にも残らないかもしれない。しかし、彼女が蒔いた種は、岩崎家の物語とは無関係の場所で、静かに芽吹き、新たな物語を紡ぎ始めていた。それこそが、彼女の見つけた「救い」の形だった。
家族の再生
佳恵の変化に、子供たちは気づいていた。特に直樹は、母が書斎で熱心に何かを調べている姿を、静かに見守っていた。父の罪と向き合った彼は、母の行動の奥にある、深い意図を理解していた。彼は何も問わず、ただ海外送金の手続きを手伝ったり、財団の設立に必要な書類を揃えたりして、母の静かな共犯者となった。
変化は、娘の瑞希にも訪れた。父を「家にいる他人」としか感じていなかった彼女は、母の中に、初めて一人の人間としての強い意志を見た。
「お母さん、今度はどこへ行くの?」
ある週末、旅の支度をする佳恵に、瑞希が尋ねた。それは、父にも兄にも向けたことのない、純粋な関心だった。
「少し、遠くまで。昔の、お父さんの地図を見ながらね」
「……私も、手伝う」
その言葉は、岩崎家という凍てついた大地に差し込んだ、春の陽光のようだった。父の死から始まった家族の旅は、懺悔と赦しを経て、ようやく未来へと向かう一つの道へと合流したのだ。彼らはもはや、過去の罪に縛られてはいなかった。
エピローグ
数年の歳月が流れた。佳恵の旅は、もはや旅ではなく、彼女の日常となっていた。彼女が蒔いた種が、世界中でささやかな花を咲かせていることを、彼女は遠くから見守るだけだった。
ある晴れた午後、佳恵は直樹と瑞希と共に、海が見える丘にいた。彼女の手には、一枚の絵葉書があった。ドイツのNPOから届いたもので、そこには奨学金で学んだ若者たちの笑顔が写っていた。
「お父さんは、自分の人生が失敗だったと思っていたかもしれないわね」
佳恵が、穏やかに言った。
「でも、失敗からしか始まらないこともあるのよ」
直樹は、母の横顔を見つめた。そこにはもう、長い年月を耐え忍んできた諦念の影はなかった。あるのは、自らの手で未来を創造する者の、静かで力強い光だけだった。
夫の懺悔は、彼自身の救いのためだった。息子の赦しは、過去を理解するためだった。そして、妻である彼女の最後の旅は、誰のためでもない、世界そのものに向けられた、無償の愛だった。岩崎家の物語は、ここで終わるのではない。ここから、始まるのだ。
佳恵は、潮風に吹かれながら、心の中で聖書の言葉を反芻していた。それは、彼女が見つけた、この三代にわたる長い旅の、唯一の答えだった。
「見よ、わたしは新しいことを行う。今や、それが芽生えている。」
(完)
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