小説『残火(のこりび)』Noah作

 


第一章:継承

 

岩崎家の血は、箱根の山々に深く根を張る老舗旅館『松風楼』の歴史そのものだった。当主である岩崎雄大にとって、その血を絶やさぬことは、呼吸をするのと同じくらい自明の義務であった。彼の人生は、伝統という名の重厚な鎧に守られ、同時に縛られていた。

 

長男の浩一は、その鎧を受け継ぐはずの男だった。だが、彼はあまりに脆かった。大学卒業後、家業を継ぐ重圧から逃れるように夜な夜な首都高を疾走し、雨に濡れたアスファルトの上で、その短い生涯を赤い染みとして終わらせた。

 

跡継ぎを失った雄大の絶望は、怒りへと姿を変えた。彼は次男の蓮に、浩一の許嫁であった朝倉珠理を娶るよう命じた。珠理は、老舗茶屋の一人娘で、その聡明さと凛とした佇まいは、次代の女将として申し分なかった。これは悲しみに暮れる二つの旧家を結びつけ、血統という名の責務を果たすための、冷徹な契約だった。

 

「お前の兄が果たせなかった役目を、お前が果たすんだ。岩崎の血を、この娘の中に残せ」

 

蓮は、父の氷のような眼差しに逆らえなかった。珠理もまた、運命を受け入れた。彼女は岩崎家の嫁として、女将見習いとして、献身的に務めを果たした。その所作のすべてに、自らの未来をこの家に賭けるという、静かで強い意志が宿っていた。

 

しかし、蓮の心は珠理にはなかった。彼は学生時代から付き合っていた女性を忘れられず、父の命令と自らの愛情との間で引き裂かれていた。珠理との間に子をもうけることは、兄の影を、そして父の支配を、永遠に受け入れることを意味した。彼はその義務を、魂の底から拒絶した。

 

蓮が自室で心不全で発見されたのは、珠理と祝言を挙げてから、わずか一年後の冬のことだった。医者は過労とストレスを原因としたが、雄大の目には、珠理の姿が不吉な影のように映った。この女は、岩崎家の息子を二人も喰らった。不浄なもの、忌むべきもの。

 

雄大は、末子の翔太がまだ高校生であることを理由に、珠理を実家へ帰した。

「翔太が一人前になったら、改めて迎えよう。それまで、岩崎の嫁として、貞淑に暮らすように」

 

その言葉が、決して果たされることのない空虚な約束であることを、珠理だけが知っていた。雄大の目には、彼女への憐憫ではなく、災厄を遠ざけるための冷たい計算の色が浮かんでいた。

 

第二章:企て

 

歳月は、静かに、そして残酷に流れた。珠理は実家の茶屋を手伝いながら、岩崎家からの報せを待った。だが、季節が三度巡っても、何の連絡もなかった。翔太が大学を卒業し、松風楼で若旦那として働き始めたという噂を、人づてに聞いた。その時、珠理は自らが完全に捨てられたことを悟った。

 

彼女の二十代は、岩崎家の血を継ぐという、ただ一つの目的のために捧げられた。その約束が反故にされた今、彼女の人生は宙吊りのまま、未来への道を閉ざされていた。社会は、旧家のスキャンダルを暴くことよりも、沈黙することを選ぶ。彼女の声は、誰にも届かない。

 

絶望の淵で、珠理の心に、一つの烈しい炎が灯った。もし、この世の誰もが私の権利を守ってくれないのなら、私が、私自身の手で取り戻すしかない。それは、単なる復讐心ではなかった。自らの人生の尊厳を賭けた、最後の戦いだった。

 

彼女は、雄大の行動を調べ始めた。古くからの取引先や、松風楼の元従業員に、それとなく話を訊いて回った。そして、一つの事実を突き止める。雄大は年に一度、決まって初夏の頃、誰にも行き先を告げずに三日ほど姿を消す。それは、彼が唯一、岩崎家の当主という鎧を脱ぎ捨て、ただの男に戻るための、秘密の儀式だった。行き先は、伊豆の奥座敷にある、馴染みの芸妓がいる小さな置屋だという。

 

珠理は鏡の前に立った。いつもの結い上げた髪をほどき、地味な着物を脱ぎ捨てた。化粧を施し、夜の闇に映える、艶やかな訪問着に身を包む。そこにいたのは、貞淑な未亡人・朝倉珠理ではなかった。男の孤独な欲望を静かに受け止める、名もなき女の姿だった。

 

第三章:契約

 

伊豆の夜は、むせ返るような梔子の香りに満ちていた。珠理は、紹介状を手に、その置屋の暖簾をくぐった。雄大は、すでに酒席の座敷で、心を許したように酔っていた。彼は、新入りの芸妓として紹介された珠理の顔を、酔眼でぼんやりと見つめたが、それが誰であるか気づく様子はなかった。

 

珠理は、ただ黙って酒を注ぎ、彼のとりとめのない話に相槌を打った。家業の重圧、息子たちへの失望、そして誰にも言えぬ孤独。雄大が吐き出す言葉のすべてが、彼の魂の渇きを物語っていた。

 

夜が更け、雄大が珠理を部屋に求めた時、彼女は静かに言った。

「今宵の伽の代金は、現金ではいただきとうございません」

雄大は、訝しげに眉をひそめた。

「ならば、何が望みだ」

「旦那様の、証を。それが、私と、私の腹に宿るやもしれぬ子の、未来への約束となりますゆえ」

 

珠理は、雄大の指にはめられた、岩崎家の家紋が彫られた印台リングと、彼が懐から取り出した、黒檀の万年筆を指さした。それは、彼の権威と、彼自身を証明する、何よりも確かな証だった。雄大は、一瞬ためらったが、酒と欲望に曇った頭で、それをただの気まぐれな戯れと判断した。彼は指輪と万年筆を外し、珠理の細い手のひらに乗せた。

 

それが、二人の間に交わされた、沈黙の契約だった。

 

第四章:審判

 

季節は巡り、冬が訪れた頃、岩崎家の一族が、松風楼の大広間に集められた。珠理が身ごもっているという噂が、雄大の耳に届いたからだ。

 

広間の中央に座らされた珠理に、雄大は冷厳な声で言い放った。

「その腹の子は、誰の子だ。岩崎の家名を汚した不貞の罪、万死に値するぞ」

一族の者たちの、蔑むような視線が珠理に突き刺さる。彼女は、その視線を一身に受けながら、静かに立ち上がった。そして、懐から取り出した小さな絹の袋を、畳の上に置いた。

 

中から転がり出たのは、見覚えのある印台リングと、黒檀の万年筆だった。

 

「この証の持ち主こそが、私の子の父親にございます」

 

広間は、水を打ったように静まり返った。雄大の顔から、血の気が引いていく。あの伊豆の夜の、名もなき芸妓の顔が、目の前の珠理の顔と重なった。彼は、自らの手で、自らの血の罠にかかったのだ。

 

一族の者たちの視線が、今度は雄大へと集まる。蔑みは、驚愕と困惑に変わっていた。雄大は、全身から力が抜けていくのを感じた。彼は、自らの義務から逃げ、家の存続という大義を忘れ、一人の女を犠牲にしようとした。その罪を、珠理は自らの身体を賭して暴き、そして、彼が放棄した義務を、彼女自身が果たそうとしていた。

 

雄大は、ゆっくりと珠理の前に進み出ると、深く頭を垂れた。その声は、絞り出すように震えていた。

 

「……お前の方が、私よりも正しかった」

 

それは、赦しの言葉ではなかった。愛の告白でもない。家の存続という絶対的な掟の前で、自らの罪を認め、彼女の義を宣言する、敗北の言葉だった。

 

エピローグ

 

春、珠理は双子の男の子を産んだ。兄は、その掌に、まるで血のような赤い痣を握りしめて生まれてきた。

 

雄大は、産着に包まれた二つの小さな命を見つめていた。この子らは、彼の罪の証しであり、同時に、岩崎家の未来を繋ぐ希望の光でもあった。珠理の、常軌を逸した、しかしあまりに純粋な意志が、断ち切られようとしていた血の糸を、再び紡いだのだ。

 

窓の外では、箱根の山々が、新しい緑に萌え始めていた。岩崎家の長い冬は、ようやく終わりを告げようとしていた。しかし、その春が、真の赦しと愛の上に築かれるのか、それとも、義務という名の冷たい大地の上に咲くのか、まだ誰も知らなかった。

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