背中を押してくださる御手 ― 空しさを越えて、今日を生きる力
夜明け前の静寂が街を包む、午前3時半。
いつものように一日の始まりの支度を終え、私は玄関のドアを開けました。ひんやりとした空気が肌を撫で、今日の旅の始まりを告げます。
今日は、久々に仰ぎ見る太白山のシルエットを背に、山田、そして名取川へ。太白大橋を渡り、再び名取川と広瀬川の岸辺をたどります。川のせせらぎが、私の呼吸と足音に寄り添うように聞こえました。広瀬橋を越え、教会までの道のりを含めると、今日の走破距離は27.42キロ。与えられた力を振り絞って走りきれたことに、深い感謝が湧き上がってきました。
慌ただしさの後で思うこと
走りながら、頭の中には最近の日々の光景が浮かんでいました。大切な方を送る葬儀、そして昨日の主日礼拝と婦人会の例会。慌ただしくも、一つ一つの務めが無事に守られたことに安堵しながら、心の整理をするようなランニングでした。
「ああ、こんな月曜日は、温泉にでも浸かってゆっくり体を癒し、美味しいものを食べて心からリラックスできたら最高だろうな…」
そんな思いがよぎります。しかし現実は、再び仕事の机に向かい、目の前の務めに取り組む日常。心が本当に解放されるのは、年に一度のサンティアゴ・デ・コンポステーラへの祈りの旅の時だけかもしれないな、とふと思いました。その旅まで、あと50日。
そんな日常の中にも、神様の恵みはあります。昨日は、ノアちゃんに美味しい食べ物がいっぱい詰まった贈り物が届きました。「クリスマスまで大事に食べるんですよ」と言い聞かせましたが、さて、どうなることでしょう。娘も、休みの日はアルバイトに汗を流しています。本人が楽しみながら頑張っているその姿を応援できることは、親としての大きな喜びです。
「何のために?」― 人生を走り抜く力
私たちはつい、特別なイベントや休日を心待ちにしてしまいます。しかし、人生で本当に大切なのは、変わりなく与えられた「今日」という一日を、精一杯に生きることです。
ただし、そこには重要な問いが伴います。**ただ生きるのではなく、その意味を深く知って生きること。**そこにこそ、人生の本当の価値が生まれ、困難な時にもう一度立ち上がって頑張る力が湧いてくるのです。
「私は、何のために、誰のために働いているのだろう?」
「私のしていることには、本当に価値があるのだろうか?」
この問いを常に自分に投げかけることが、羅針盤のように私たちの人生を支えてくれます。すると、ある日突然、津波のように襲ってくる虚しさや、「すべてが無意味だ」と感じるスランプに陥った時、それを乗り越える力が与えられていることに気づくのです。
絶対的なお方からの「承認」
自分の人生、仕事、そして日々のすべての行いには、大きな意味と価値がある。そう信じたいと誰もが願っています。しかし問題は、「誰にそれを認めてもらうか」です。自分自身すら満足に導けない、不完全な人間の承認では、心からの力は得られません。
本当の「承認」は、ただお一方、絶対的な存在からのみ与えられます。
私たちのことを誰よりも愛し、一人ひとりの想いを大切にし、どんな時も、どんな状況でも変わることなく味方でいてくださる方。私たちの主なる神様です。
その方の「あなたは価値がある。あなたの歩みには意味がある」という言葉を心に深く刻みながら生きること。それこそが、私たちの揺るぎない土台となります。
今日も、その温かい御手(みて)が、私たちの背中をそっと押してくださっているのを感じます。だから、私たちは顔を上げ、前へ進むことができるのです。
さあ、今日も頑張って生きましょう。あなたの今日という一日が、意味と喜びに満ちた、素晴らしい一日でありますように。
コメント
コメントを投稿