秋の夜の散歩道で思う、人生という旅の支度
すべてが静かに眠りにつく時間。
澄み渡る夜空には、くっきりとした月の輪郭と、夏よりも一層輝きを増した星々。ひんやりと肌を撫でる風も、アスファルトを照らす街灯の光も、そのすべてが「秋」の色に染められていると感じるひと時でした。愛犬のノアと歩く、いつもの散歩道。
汗ばむほどの陽気が嘘のように、今は心地よい空気が満ちています。道を行き交う人々も、軽快に走るランナーや、腕を振って歩く人など、夏場よりも心なしか増えたようです。誰もがこの美しい季節を待ちわびていたかのよう。そんな光景もまた、秋の訪れを告げていました。
クローゼットの奥から、少し厚手のカーディガンを引っ張り出す。街角のショーウィンドウは、温かみのある暖色系のディスプレイに姿を変える。木々は、来たる冬に備えて少しずつ葉を落とし始める。私たちの周りの世界は、こんなにも丁寧に、新しい季節を迎えるための準備をするというのに。ふと、思うのです。
私たちは、人生におけるもっと大きな「季節の変わり目」に対して、どれほどの準備をしているのだろうか、と。多くの人が、人生の重大な転換点を「成り行き」に任せてはいないでしょうか。たとえば、「リタイア後の人生をどう生きるか」。それは、何十年という時間をどう彩るかという、あまりにも重要な課題です。そして、何よりも、すべての人に必ず訪れる「死」を、私たちはどう迎えるのか。
生まれるときの準備を、自分ですることはできません。しかし、人生の最期をどう締めくくるかは、私たち自身に委ねられています。多くの人が、その大切さを知りながらも、目を背けてしまうか、あるいは「どう準備すれば良いのか分からない」まま、時を過ごしているのかもしれません。その意味で、私たちキリスト者は、大きな恵みの中にいるのだと、改めて感謝の念が湧き上がります。なぜなら、聖書はその問いに対して、実に多くの言葉を尽くして語り、私たちが進むべき道筋を明確に示してくれているからです。
聖書は教えてくれます。キリスト者にとって「死」は、終わりや断絶を意味する悲しみではなく、永遠の希望へと至る、幸福への扉なのだと。その確かな証しとなってくださったのが、他ならぬ、復活の主イエス・キリストです。
しかし、大切なのは「死」を思うことだけではありません。人に必ず訪れる最大の課題が、主にあって解決されているからこそ、今日、この日に「生きる」ことが、どれほど格別な意味を持つか。死への備えができている者にとって、今日という一日は、まるで神様からいただいた「特別ボーナス」のような、輝きに満ちた贈り物となります。この与えられた「今日」という時間を、自分のためだけに使うのではなく、愛する家族のために、大切な友人のために、そして周りの人々のために用いること。それこそが、命の源である主なる神様が、最も喜んでくださることだと信じるからです。
今日も、主の栄光のために、人々のために生きる、素晴らしい一日が始まりました。
家族のために温かい料理を作り、教会員一人ひとりの顔を思い浮かべながら手紙を書き、教会報を編む。間近に迫った召天者記念礼拝と墓前礼拝の準備に励む。
「生きることは、感謝と喜びに満ちている」そう心から宣言できる人生を歩めるかどうか。それを決めるのは、他の誰でもない、私たち自身なのです。秋の澄んだ空気の中で、今日も与えられた命の温かさを、深く、静かに噛み締めています。
コメント
コメントを投稿