32キロの朝

 


今日も午前3時半前に家を出た。まだ街が眠る時間、ひんやりとした秋の空気がちょうどよく、足取りを軽くしてくれる。薄闇の中で息を整え、尚絅学院中高方面へ向かう。八幡宮の坂を上り、今日は境内には足を踏み入れず道なりに進んだ。国見小学校を過ぎ、貝ヶ森、中山、荒巻、葉山町と町並みが続く。誰もいない公園のベンチや、早朝にしか見られない川面の光を眺めながら走ると、32キロという距離も不思議と苦にならない。上杉を抜けて榴ヶ岡公園、楽天球場の横を通り、聖和学院前を過ぎて沖野へ。千代大橋、そして広瀬橋を渡って自宅へ戻るまで、街中のあらゆる表情を味わった。

 


走りながら思い出していたのは、サンティアゴ・デ・コンポステーラの祈りの旅だった。一歩一歩が祈りになり、景色と自分、出会いと会話がゆっくりと織りなされるあの感覚。今日の朝ランも小さな巡礼のようで、仙台市内の道や橋や公園が自分の道になっていく。どこへでも走って行けるのではないか、という自由さが胸に広がった。

 


秋風が頬をなで、木々の葉がささやく。足裏に伝わるアスファルトの感触、呼吸のリズム、体が刻む音。それらの小さな瞬間が積み重なって「生きている」という実感を深める。走ることは単なる運動ではなく、祈りに似た沈黙と対話の時間であり、日々を整える営みだ。

 


家に帰り着いてシャワーを浴びると、すっきりとした気分で体重計に乗った。表示された体内年齢は44歳。思わずにんまりする数値だった。長く続けてきた日課が、こうして目に見える形で返ってくるのは嬉しい。年齢は数字に過ぎないけれど、体が元気で動くこと、そのために自分が手をかけていることが確かめられると励みになる。

 


疲労と満足感が同居する朝。今日も走れて、今日も生きている。明日もまた一歩を踏み出せますように。

 


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