「楽」と「ファッション」のはざまで 〜人生と信仰のバランスを求めて〜
私たちは日々の生活の中で、無意識のうちに様々な選択をしています。例えば、服を選ぶとき。若い頃は、多少動きにくくても、流行の最先端を行く「ファッション」を重視したものです。しかし、年齢を重ねるにつれて、いつの間にか「楽」な着心地や機能性を優先するようになっていないでしょうか。もちろん、両方を兼ね備えた素晴らしい服もありますが、選択肢は限られてくるのが現実です。
この「楽」と「ファッション」という二つの価値観は、私たちの人生そのものにも深く関わっているように思えます。
人生における「楽」と「社会性」のジレンマ
若い頃の私たちは、とかく他人の目を意識しがちです。「周りからどう見られるか」という「ファッション」にも似た視点から、自分の言動や生き方を調整します。時に窮屈さを感じても、社会の雰囲気や期待に合わせようと努力する傾向が強いでしょう。
一方で、年を重ねると、他人の評価よりも「自分が楽な生き方」を優先するようになる、という側面もあります。これは、自分自身の心の声に正直になる、という意味では健全な変化かもしれません。しかし、極端に「楽」ばかりを求めすぎると、時に周囲への配慮を欠き、「自分さえ良ければ」という自己中心的な生き方へと傾倒してしまう危険もはらんでいます。その結果、周囲との間で軋轢が生じ、トラブルの原因となることも少なくありません。もちろん、他人の目を気にしすぎるのは苦しいことです。しかし、私たち人間は社会的な存在であり、一人では生きていけません。人々の中で共に生きるためには、ある程度の我慢や譲り合いは不可欠です。それが無理だというのなら、文字通り無人島で一人暮らすしかないでしょう。私たちは皆、この「楽」と「社会性」の間で、常にバランスを模索しながら生きています。このバランスこそが、この世における人生の妙味であり、困難でもあります。
信仰生活における「一体感」と「現実」のギャップ
では、私たちの信仰生活においてはどうでしょうか。
共同体である教会に集う人々は、年齢も生きてきた背景も様々です。多様な人生を歩んできた一人ひとりが、毎週日曜日の礼拝では不思議と一つの方向を向き、共に讃美歌を歌い、神の御言葉に耳を傾けます。その時間は、まさにキリスト者としての生き方を共に確認し、心新たに誓う聖なる時です。その場にいる私たちは、皆が同じ目標に向かって進む「兄弟姉妹」としての一体感に包まれます。しかし、礼拝が終わり、教会の扉を開いて一歩外の世界へ踏み出した途端、私たちは現実の世界へと引き戻されます。そして、残念ながら、これまでと変わらない生き方や考え方、すなわち「自分が楽な生き方」や「世間の常識」を優先してしまうというジレンマに直面することが少なくありません。
礼拝での感動や決意はどこへやら、教会という「聖なる場」から一歩出ると、まるで服を着替えるように、世俗の価値観に流されてしまう…この葛藤は、多くのキリスト者が経験し、長く付き合っていくことになる課題ではないでしょうか。
信仰と希望と愛に生きる意味
しかし、私たちはこのジレンマに立ち尽くすために召されたのではありません。この世の「楽」や「ファッション」の価値観に流されず、クリスチャンとしての一貫した生き方を求められることこそ、私たちに与えられた尊い使命です。イエス・キリストの教えは、決して私たちに不可能なことを求めてはいません。むしろ、私たちが真に「生きる」ことのできる道を示してくださっています。
それは、信仰、希望、そして愛によって生きることです。
- 信仰は、目に見える現実や世間の評価だけでなく、神の真実を信頼し、神の御心に従う勇気を与えてくれます。時に世間とは逆行する選択であっても、神が共にいてくださると信じるからこそ、私たちは「楽」ではない道を選ぶことができるのです。
- 希望は、困難な状況にあっても未来を見据え、神の約束に根ざした確かな支えとなります。たとえ、今の世の中でキリスト者としての生き方が「不利」に見えても、永遠の命と神の国の完成という希望があるからこそ、私たちは諦めずに歩み続けることができるのです。
- そして愛は、私たちを自己中心的な生き方から解放し、隣人や社会全体への奉仕へと駆り立てます。教会で共に礼拝した兄弟姉妹だけでなく、教会から一歩出た社会においても、他者のために自分を差し出すこと。これこそが、キリストが私たちに示された生き方です。時に「楽」ではない選択かもしれませんが、この愛の道こそが、私たち自身の魂を豊かにし、この世に真の光をもたらします。
私たちは完璧ではありません。しかし、信仰者として生きる意味は、完璧であることではなく、神の恵みの中で、毎日少しずつでも「信仰と希望と愛」へと向かって歩み続けることにあります。礼拝の時だけでなく、私たちの日常生活のあらゆる瞬間に、神の御心が行われることを願い、行動していくこと。それが、この世と信仰生活のジレンマを乗り越え、私たち自身を、そして周囲の人々をも変えていく力となるでしょう。
どうか、私たちは諦めずに、このキリスト者としての生き方を選び取り続けましょう。神の御手は常に私たちと共にあり、私たちの歩みを導き、支えてくださるからです。

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