日付が変わり、土曜日を迎える。ノアとの散歩、そしてゴミ出し。このささやかな日常の営みの中に、一週間の歩みが完結する瞬間を見出す。これは単なる時間の区切りではなく、人生という大きな物語における一つの句読点なのかもしれない。
一コマ一コマがつながり、やがて一本の線となる。その線の上に自分の歴史を刻みながら、私たちは前へと進む。そしていつか、最後のピリオドを打つ時が来る。
終わりのない試合は緊張感を失い、退屈なものとなるだろう。終わりのないコンサートは心身を消耗させるだけである。では、終わりのない人生はどうだろうか。それもまた苦痛となるに違いない。なぜなら、終わりがあるからこそ、そこに真の人生の意味が存在するからである。
伝道者の書3章1節は「すべてのことには定まった時があり、すべての営みには時がある」と告げています。私たちの人生には神様が定められた始まりと終わりがあります。それは制限ではなく、恵みの枠組みです。永遠という時間の中で、私たちに与えられたこの限られた地上の日々は、かえって一日一日を尊く、意味あるものとします。
だからこそ、終わりは決して敗北や喪失ではなく、祝福のピリオドなのです。それは神様が私たちの人生という物語に置いてくださった完成の印であり、「よくやった、忠実な僕よ」と主が迎えてくださる門なのです。終わりがあるからこそ、私たちは今日という日を大切に生き、主の御前で意味ある歩みを刻むことができるのです。
限りある命の中に、無限の価値を見出す。これこそが信仰者に与えられた知恵であり、永遠を見据えて今を生きる者の特権なのです。
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