秋が深まる季節に——心を温かく持つことの大切さ



秋が深まる季節に——心を温かく持つことの大切さ

今日も朝から、やることが次々と続いていく。

本来なら、ランニングは休もうと決めていた。

しかし、いざ走り出してみると、足が自然と前に進んでいく。気がつけば、20キロを完走していた。

走ることの中に、何か導かれている力を感じる。

「今を大事にする」ことの重さ

ランニングの時間が制限されるのは、娘の送りがあるからだ。

本来なら、もっと早くに走り始めることもできたろう。

もっと遠くまで行くこともできたかもしれない。

しかし、私は、この時間を何にも代え難いものとして、受け入れている。

あと1年半だ。

娘は、やがて一人立ちをしていく。

親元を離れ、自分の人生を歩んでいく。

それは、当然の流れであり、親として喜ぶべきことだ。

しかし同時に、この時間が、二度と戻ることのない、かけがえのない時間であることを、私は痛感している。

車の中で、娘とゆっくり話をする時間。

それは、親子二人だけの、唯一の時間。

世の中の喧騒から離れ、仕事の疲れも忘れ、ただ親子として対話する時間。

娘がバイトについて話すこと、学校での出来事を話すこと、友人との関係について悩むこと——こうした一つ一つの言葉が、私の心を、どれほど豊かにしてくれることか。



時の流れの早さと、「今」の尊さ

秋はどんどん深まっていく。

仙台朝市での買い物。ロピアでの食材選び。

妻をエマオまで送る。

日々の営みが、季節を映し出す。

気がつけば、秋は終わり、冬がやってくる。

「あっという間だ」——こう感じるのは、人生の長さを理解し始めた者の、共通した感覚だろう。

親子二人の時間も、やがて終わる。

娘の独立も、遠い未来ではなく、すぐそこにある。

だから、今を大事にしている。

不平を言わず、時間が足りないと嘆かず、与えられた瞬間一瞬を、大切に抱きしめるのだ。

これが、「今を生きる」ということなのだと思う。

秋から冬へ——心が縮まる季節に、心を温かく持つこと

秋が深まり、冬が近づくにつれ、気温とともに、心も縮まっていく傾向がある。

暗くなるのが早くなり、日中の日差しが弱くなり、気温が下がる。

こうした季節の変化は、人間の心理にも大きな影響を与える。

希望が失われやすくなる。

前向きな気持ちが、後ろに引き下げられやすくなる。

人によっては、季節性の抑うつ状態に陥る人さえいる。

しかし、ここで大切なことは、**「季節に支配されるのではなく、意識的に心を温かく持つこと」**なのだ。

気温が下がるのは、自然現象であり、避けられない。

しかし、心が冷えるかどうかは、自分自身の選択なのである。

寒い季節だからこそ、意識的に心を温かく保つ。

心に余裕を持つ。

温かいサラダチキンを作り、温かい食事を家族と共にする。

こうした小さな営みの中で、心は温かさを取り戻すのだ。



「心の余裕」が生み出す、すべてのもの

人間関係の悩みの多くは、**「心の余裕の欠如」**から生じるのではないだろうか。

心に余裕がなければ、他人の一言が、刃物のように心に刺さる。

普通なら何でもないような言葉が、その日の気分が悪いだけで、「悪口」に聞こえてしまう。

相手の中立的な態度が、「冷淡さ」に見えてしまう。

しかし、心に余裕があれば、すべてが違う色に見える。

同じ言葉も、相手の優しさの表現として受け取ることができる。

同じ態度も、相手の忙しさや疲れの表れとして、理解することができる。

そして、何よりも、自分自身が笑顔になることができる。

心の余裕——それは、人生における最大の資産なのだ。

お金でも、地位でも、才能でも得ることができないほどの、貴重な資産なのだ。

人生は短い——限られた時間の中での選択

人生は、本当に短い。

子どもの成長を見守ることも、あっという間に終わる。

愛する者とともに過ごすことも、限られた時間だ。

自分自身も、「他人の手を借りなければ、食べることも、トイレに行くことも、起き上がることもできない日」が、やがて訪れるだろう。

そんな限られた人生の中で、私たちは、何を選ぶのか?

悪口を言うこと?怒ること?憎むこと?妬むこと?

こんなことに、人生の貴重な時間を費やしている余裕があるだろうか。

「いつか時間ができたら、親切にしよう。いつか余裕ができたら、人を助けよう。いつか心が安定したら、笑顔で生きよう。」

こう考えて、その時を待っているうちに、人生の多くの時間が過ぎ去ってしまうのではないか。

いや、むしろ、「今」から、選択を変えるべきなのだ。

今から、心を温かく持つ。

今から、笑顔で生きる。

今から、親切にする。

今から、分かち合う。

固く握った手を開くこと——施しの人生へ

人間の本性には、「守りたい」「自分のものにしたい」という欲求がある。

握った手を開くことは、怖いことだ。

手放すことは、失うことではないか——そう思える。

しかし、実は、固く握った手では、何も受け取ることができない。

手を開いてこそ、新しいものを受け取ることができる。

風を感じることができる。

人の手を握ることができる。

愛を受け取ることができる。

そして、同時に、手を開いて施すことで、初めて、本当の豊かさを感じることができる。

お金を握り締めることは、貧しさだ。

時間を独占することは、孤独だ。

愛を隠すことは、無意味だ。

しかし、施しながら生きることで、人生は、本当に豊かになる。

不思議なことに、施せば施すほど、新しいものが、新しい喜びが、新しい関係が、次々と流れ込んでくるのだ。

すべての報いは神様から——信仰による人生

ここで、最も大切な真理に到達する。

**「すべての報いは、神様から頂く」**という信仰だ。

親切にしても、相手から感謝されないかもしれない。

分かち合っても、その返礼を期待できないかもしれない。

施しても、それが認められないかもしれない。

しかし、信仰を持つ者は、人間からの報いを求めない。

なぜなら、人間からの評価や報いではなく、神様からの評価と祝福を信じているからだ。

マタイ福音書634節では、イエスはこう教えておられます:

「あなたが施しをするときは、左の手がしていることを右の手に知らせるな。あなたの施しが隠れているようにするためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。」

つまり、人間の目を意識した施しではなく、神様だけを意識した施しこそが、真の祝福を生み出すのだ。

元気な人生を生きるための秘訣——信仰という鍵

人生を、本当に元気に、喜びに満ちて生きるための秘訣は何か?

それは、信仰だ。

信仰とは、単なる宗教的な実践ではなく、人生の根底に流れる確信だ。

「神様は私を愛してくださっている」という確信。

「どんなことが起きても、神様は私とともにいてくださる」という確信。

「この人生は、意味があり、目的がある」という確信。

この確信を持つ者は、季節が冬になっても、心は春を知っている。

失敗を経験しても、神様の計画を信じている。

人生の限りを知ってしても、永遠を信じている。

この信仰こそが、人生を元気にする唯一の源なのだ。

人生の課題——「鍵」を持つか持たないか

人生には、様々な課題がある。

社会的な成功。

人間関係の充実。

健康の維持。

しかし、最も根本的な課題は、**「信仰という鍵を持つか、持たないか」**という問いなのだ。

この鍵を持つ者は、人生のすべての扉を開くことができる。

希望の扉、愛の扉、許しの扉、平安の扉——すべてが開かれる。

しかし、この鍵を持たない者は、どれほど努力しても、人生の最も大切な扉に、たどり着くことができない。

人生における成功と失敗、幸福と不幸の分かれ目は、この「鍵」を持つか持たないかに、すべてがかかっているのだ。

今日も——主を愛し、隣人に仕える

今日も、新しい朝が来た。

今日も、与えられた時間の中で、私は選択をする。

主を愛する。

祈りの中で、神様と向き合う。神様の御言葉に耳を傾ける。神様の愛に感謝する。

隣人に仕える。

娘の送り迎えをする。妻とともに生活する。出会う人々に優しくする。社会に貢献する。

隣人を愛する。

相手の立場を考え、相手の心を受け止め、相手のために何ができるかを考える。

神に仕える。

すべての営みが、神様への礼拝となるように。

すべての選択が、神様の栄光のためになるように。

最後に

秋が深まり、冬が近づく季節。

気温は下がり、日は短くなる。

しかし、心は温かく。

心に余裕を持ち、笑顔で生きる。

親切にし、分かち合い、施しながら生きる。

限られた時間の中で、愛する者と共に過ごす時間を大切にする。

20キロのランニングも、娘との短い車の中の会話も、温かい食事も、仕事も、すべてが、「主を愛し、隣人に仕える」という一つの目的に、収束していく。

信仰という鍵を握り、人生の扉を一つ一つ開いていく。

それが、元気に、笑顔で、愛に満ちた人生なのだ。


秋の朝の冷たい空気の中でも、心は温かく。

限られた時間の中でも、愛は無限に。

信仰という鍵を握り、今日も、新しく、歩み続けよう。

  

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