遭遇の先へ:現代日本における人とクマの共存に向けた戦略的枠組み
はじめに:野生動物との関係の岐路に立つ日本
近年、日本は人とクマとの関係において、前例のない危機に直面している。致命的な人身事故の急増と、これまで安全と考えられてきた市街地への出没の頻発は、単なる偶発的な野生動物の行動として片付けられる問題ではない。むしろ、これらは数十年にわたり進行してきた深刻な生態学的・社会的変容が交差した結果として生じた、予測可能な帰結である。
多くの人々が直感的に指摘するように、山中の餌不足がこの問題の引き金となっていることは事実である。しかし、その餌不足自体が、土地利用の変化、人口動態の変動、そしてクマの個体群そのものの変化といった、より大きなシステムの一部として現れた症状に過ぎない。したがって、「根本的な解決策」を模索するには、このシステム全体に目を向け、個別の事象に対応するだけではない、統合的なアプローチが不可欠となる。このレポートの目的は、こうした場当たり的な対応を超え、問題の複雑な構造を解き明かし、そして最も重要なこととして、変化し続ける日本社会において人とクマが長期的に共存するための、一貫性があり、多層的かつ実行可能な戦略的枠組みを構築することにある。
第1節 人とクマの軋轢の新たな現実:統計と事例から見る現状
本節では、定量的なデータと近年の象徴的な事例を基に、この危機がどれほど深刻であるかを明らかにする。
1.1 深刻化する数値:データが示す国家的緊急事態
公式な統計は、この問題が感情論ではなく、客観的な事実であることを示している。
- 全国的な傾向:
環境省の速報値によれば、2025年の最初の5ヶ月間におけるクマの総出没件数は1,404件に達し、前年同期比で27%の増加となった。同期間の人身被害も11件(重傷3名、軽傷8名)と、前年同期比で22%増加している。過去のデータと比較すると、その深刻さはより鮮明になる。2025年3月までの1年間における被害者数は85人(死者3人)であったのに対し、その前年は219人が襲われ6人が死亡しており、年によって変動はあるものの、近年、極めて高い水準で被害が発生していることがわかる。
- 地域的なホットスポット:
問題は全国的である一方、その深刻さには地域差がある。2023年末時点で、出没件数の約6割(13,183件)が東北地方に集中しており、特に岩手県(5,818件)と秋田県(3,663件)の2県だけで全体の約4割を占めている。この地域的偏在は、後述する原因分析において重要な示唆を与える。
- 致命的な事故の頻発:
問題の緊急性を最も端的に示すのが、相次ぐ死亡事故である。2024年6月には青森県の八甲田山系で登山中の80代女性が死亡。同年7月には北海道で新聞配達中の男性がヒグマに襲われ命を落とした。さらに2025年10月には岩手県で、キノコ採りの男性が山林で遺体で発見されたほか、81歳の女性が自宅内で襲われ死亡するという、社会に衝撃を与える事件も発生した。
都道府県 |
年/期間 |
総出没件数 |
人身被害(人数) |
死亡者数(人数) |
特筆すべき事案 |
秋田県 |
2023年度 |
3,663件 |
多数 |
複数 |
警察官2名が負傷、スーパーマーケットに従業員を襲撃する事案が発生 12 |
岩手県 |
2023年度 |
5,818件 |
46人(10月) |
複数 |
2025年10月、住宅内で81歳女性が襲われ死亡 9 |
北海道 |
2024年7月 |
- |
1人 |
1人 |
新聞配達中の男性がヒグマに襲われ死亡 5 |
長野県 |
2025年 |
- |
3人(同日) |
1人 |
飯山市で同日午後に3人が相次いで襲われ負傷。78歳男性の遺体が発見 2 |
青森県 |
2024年6月 |
- |
1人 |
1人 |
八甲田山系で80代女性が登山中に襲われ死亡 4 |
富山県 |
2023年度 |
- |
2人(10-11月) |
0人 |
秋季に被害が発生 15 |
注:出没件数や被害者数は報告機関や集計期間により異なる場合がある。上表は報告された主要なデータをまとめたものである。
1.2 数値の裏側:遭遇の質の変化
統計上の数値増加に加え、遭遇の「質」が劇的に変化していることが、現在の危機の本質を物語っている。
- 都市部への侵入:
クマとの遭遇はもはや「山奥での出来事」ではない。2024年に秋田市のスーパーマーケットにクマが侵入し、開店準備中の従業員を襲撃した事件は、野生動物と都市空間の境界線が崩壊しつつあることを象徴している。これは、従来の常識では考えられなかった事態である。
- 日常生活における襲撃:
同様に、秋田県で県道をランニング中の男性が襲われた事例や、長野県飯山市で午後の数時間のうちに住民3名が相次いで襲われた事例は、リスクがもはや山菜採りなどの特定の活動に限定されず、ごく普通の日常生活の中にまで浸透していることを示している。特に、岩手県で発生した住宅内での死亡事故は、施錠されていなかった玄関からクマが侵入した可能性が指摘されており、人とクマの物理的な境界がかつてないほど脆弱になっている現実を突きつけている。
これらのデータと事例が示すのは、単にクマとの遭遇が増えているだけでなく、その遭遇がより危険で、予測不能な形で発生するようになっているという質的な変化である。これは、人とクマの間の伝統的な空間的・心理的な距離感が失われ、共存のルールが根本から覆されつつあることを意味している。
第2節 危機の構造分析:連鎖する軋轢増大の要因
統計が示す「何が起きているか」の次に、本節では「なぜ起きているのか」を、生態学、人口動態、動物行動学の観点から多層的に分析する。
2.1 空になった食糧庫:ドングリ凶作がクマを追い詰める
人々が考えている「餌の問題」は、この危機の最も直接的かつ強力な引き金である。
- 豊凶サイクルの科学:
クマの秋の主食は、ブナやミズナラといったブナ科樹木の堅果類(ドングリ)である。これらの樹木は、数年おきに大量の種子を実らせる「豊作」の年と、ほとんど実をつけない「凶作」の年を繰り返す「豊凶」と呼ばれる現象を示す。富山県、長野県、福島県など、多くの自治体は公式の豊凶調査に基づき、ブナやミズナラの「凶作」または「大凶作」が予測される年には、クマの人里への出没リスクが高まるとして警戒を呼び掛けている。
- 因果関係のメカニズム:
これらの高カロリーな食物が山で得られない年、クマは冬眠を前に十分な脂肪を蓄えるため、代替食を求めて行動圏を大きく広げ、標高の低い人里へと降りてこざるを得なくなる。これは選択ではなく、生存をかけた生物学的な必然である。秋田県が2025年についてブナの「大凶作」を予測し、2023年のような大量出没の可能性があると警告しているのは、この予測的関係を示す具体的な事例である。
2.2 消えゆく緩衝地帯:農村の衰退が遭遇を招く
山からの「押し出す力」に加え、人里からの「引き寄せる力」が問題をさらに深刻化させている。その背景には、日本の社会構造の変化がある。
- 「緑の壁」から「誘引の場」へ:
かつて、奥山と集落の間には、人の手が入った田畑や雑木林からなる「里山」が存在し、野生動物の侵入を防ぐ緩衝地帯(バッファーゾーン)として機能していた。しかし、地方の過疎化と高齢化、それに伴う耕作放棄地の増加は、この緩衝地帯の姿を一変させた。
- 魅力的な誘引物:
管理されなくなった里山は、クマにとって格好の餌場と化している。収穫されずに放置されたカキやクリといった果樹、身を隠すのに好都合な藪、そして不適切に処理された生ゴミや農作物の残渣は、クマを強力に引き寄せる「誘引物」となる。岩手県金ケ崎町などが住民に対し、クマを誘引しないために果樹の管理や廃棄物の適切な処理を呼びかけているのは、この問題の重要性を示している。
2.3 クマの個体群回復と「アーバンベア」の出現
環境の変化に加え、クマ自身の数と性質の変化も、軋轢を増大させる重要な要因である。
- 保護政策の成功という側面:
ヒグマとツキノワグマの個体数は、過去数十年にわたる保護政策の結果、多くの地域で増加傾向にあり、分布域も拡大している。例えば、北海道のヒグマの個体数は過去30年で2倍以上に増加し、分布域も1.3倍に拡大した。これは、ある意味で保護管理の成功物語でもあるが、同時に軋轢の潜在的なリスクを高める結果となった。
- 「アーバンベア」の誕生:
近年、専門家が警鐘を鳴らすのが、人を恐れない「アーバンベア」の出現である。この行動変容は、クマの学習能力に起因する。
- 負の強化の欠如:
狩猟者の高齢化と減少により、クマが人間に追われ、銃で撃たれるといった「怖い経験」をする機会が減った。これにより、人間を危険な存在として学習する機会が失われている。
- 正の強化の成立:
逆に、人里に降りてきてゴミや農作物といった容易で高カロリーな餌を得ることに成功したクマは、「人里は危険が少なく、実入りの良い場所だ」と学習する。この学習は母グマから子グマへと受け継がれ、人を恐れない世代を生み出している。
これらの要因は独立して存在するのではなく、相互に作用し、「パーフェクト・ストーム」とも言うべき状況を生み出している。山での餌不足がクマを「押し出し」、管理放棄された里山がクマを「引き寄せ」、そして人を恐れないクマの個体群がその「誘い」に乗りやすくなっている。この三つの要素が同時に作用することで、人とクマの遭遇リスクは指数関数的に増大しているのである。根本的な解決策は、この三つの要因すべてに同時に働きかけるものでなければならない。
第3節 共存への設計図:統合的管理戦略
問題の構造を分析した上で、本節では「根本的な解決策」として、多層的かつ実行可能な統合的管理戦略を提示する。
3.1 基礎的環境管理:人間の領域を確保する
あらゆる対策の土台となるのは、人間の生活圏からクマを誘引する要因を徹底的に排除し、物理的な境界を明確にすることである。
- 誘引物の除去:
最も重要かつ基本的な対策は、クマの餌となりうるものを人間の生活圏からなくすことである。具体的には、ゴミの戸別収集やクマ対策ゴミ箱の導入、放置されたカキやクリなどの果樹の伐採・管理、農作物の残渣の適切な処理などが挙げられる。これは個人の努力だけでなく、地域社会全体で取り組むべき課題である。
- 緩衝帯(バッファーゾーン)の整備:
集落と森林の境界部において、下草刈りや藪の伐採を行い、見通しの良い空間を作り出すことが重要である。これにより、クマが身を隠す場所がなくなり、人里への侵入をためらう効果が期待できる。
- 物理的な防除:
農地や養蜂箱、さらには集落全体を電気柵で囲うことは、被害を防ぐ上で極めて効果的な手段である。北海道で牛を襲い続けたヒグマ「OSO18」の対策として、牧場の周囲に大規模な電気柵が設置された事例は、物理的防除の重要性を示している。
3.2 戦略的空間計画:ゾーニング管理の導入
より高度で予防的なアプローチとして、「ゾーニング管理」の導入が不可欠である。これは、土地を目的別に区分し、それぞれの区域で人とクマの関係性を明確に定義する手法である。
- ゾーンの定義:
一般的に、以下の3つのゾーンを設定する。
- 核心的生息地(Core Zone): 奥山の森林地帯。クマの生息地として保護を優先し、人間の活動は限定される。
- 共存エリア/緩衝地帯(Coexistence/Buffer Zone): 里山など、人とクマの活動が重複するエリア。ここでは追い払いや学習放獣などを通じて、クマが人に依存したり、人馴れしたりすることを防ぐ管理が行われる。
- 人間エリア(Human Zone): 市街地や集落。人間の安全確保を最優先し、クマの侵入は原則として許容しない。このエリアに侵入した個体は、危険個体として迅速な捕獲(場合によっては致死的措置)の対象となる。
- 理論と実践:
ゾーニング管理の目的は、クマに対して「どこが安全で、どこが危険か」を明確に学習させ、行動を予測可能なものにすることである。この手法を先進的に導入しているのが、世界自然遺産・知床である。知床財団は、ヒグマの管理計画において詳細なゾーニングマップを作成し、各ゾーンにおける観光客や地域住民が守るべきルール、そして行政側が取るべき対応を具体的に定めている。これには、ゴミや食物の管理徹底、ヒグマとの適切な距離の維持、問題行動(餌付けなど)への厳格な対応などが含まれており、全国的なモデルケースとなりうる。
3.3 人的資源の再構築:地域の担い手から専門家へ
効果的な野生動物管理は、それを実行する「人」なしには成り立たない。
- 専門家の必要性:
従来のボランティア的な猟友会は、高齢化と担い手不足に直面しており、その体制には限界が見えている。これからのクマ対策には、クマの生態、捕獲技術、住民対応、安全管理に精通した専門職員、いわゆる「ガバメントハンター」を行政が直接雇用し、育成・配置することが不可欠である。
- 専門NPOの役割: 長野県軽井沢町のNPO法人ピッキオや、札幌市のNPO法人TSUNAGUのような専門機関の役割は極めて重要である。彼らは、科学的知見やベアドッグ(クマ対策犬)のような特殊な技術を用いて、行政だけでは対応が難しい高度な対策を実践している。特にピッキオは、専門家による介入と地域住民との協働により、軽井沢町のゴミ被害を劇的に減少させた成功事例として知られている。
- 連携体制の構築:
根本的な解決には、国(環境省)、都道府県、市町村、警察、消防、専門NPO、大学などの研究機関、そして地域住民や猟友会が、それぞれの役割を分担し、緊密に連携する統合的な対応体制が不可欠である。OSO18対策で組織された省庁横断的な専門家チームは、こうした連携の重要性を示している。
3.4 国の政策とガバナンス:実行を支える枠組み
地域の取り組みを実効性のあるものにするためには、国レベルでの政策的・財政的支援が欠かせない。
- 「指定管理鳥獣」への指定: 2024年、政府がクマを「指定管理鳥獣」に指定したことは、画期的な政策転換である。これにより、都道府県が実施する捕獲や調査、生息環境管理に対して国の交付金が活用できるようになり、これまで予算不足で困難だった対策を本格的に実施するための財政的基盤が整った。
- 法制度の整備:
市街地など、これまで銃器の使用が厳しく制限されていた場所での緊急対応を可能にするための鳥獣保護管理法の改正など、現場の実情に即した法整備も進められている。これは、住民の安全を確保する上で重要な措置である。
- 国民的合意形成と普及啓発:
長期的な共存は、国民全体の理解と協力なしには実現できない。クマの生態、リスクを避けるための行動(ゴミ管理、遭遇時の対処法など)、そしてゾーニング管理における捕獲の必要性などについて、科学的根拠に基づいた正確な情報を粘り強く発信し、社会的な合意を形成していくことが不可欠である。
この戦略において、個体数の調整、特に危険個体の致死的措置は、避けては通れない要素である。それは目的ではなく、あくまで人間の安全を確保し、ゾーニング管理という「ルール」をクマに学習させるための戦略的な手段である。人里への侵入が常態化した個体を放置することは、より多くの不幸な事故を招き、結果としてクマ全体への過剰な反発を招きかねない。科学的根拠に基づき、明確な基準の下で実施される個体数管理は、感情的な対立を乗り越え、長期的な共存を実現するために必要な要素なのである。
結論:持続可能な未来に向けた社会全体の責任
近年日本で深刻化する人とクマの軋轢は、単一の原因に起因するものではなく、山間部の食料事情、人口減少に伴う土地利用の変化、そして保護政策の成功によるクマの個体群回復という、複数の要因が複雑に絡み合った複合的な問題である。それは、日本の社会構造の変化と、それに伴う自然環境との関係性の変容を映し出す鏡と言える。
この繰り返される悲劇に対する根本的な解決策は、対症療法的な捕獲の強化や、非現実的な完全な保護といった両極端の議論の中には存在しない。このレポートで提示した解決策は、以下の4つの柱からなる統合的な戦略的枠組みである。
- 予防的な環境管理:
誘引物の除去や緩衝帯の整備といった、人間の生活圏の安全性を高める基礎的な対策の徹底。
- 科学的なゾーニング管理:
人とクマの空間を明確に区分し、それぞれのゾーンに応じた管理ルールを適用することで、軋轢を予防し、管理の予測可能性を高める。
- 専門的な人的資源の育成と配置:
従来のボランティア依存から脱却し、高度な専門知識と技術を持つ専門家チームを中核とした対応体制を構築する。
- 国レベルでの政策支援:
財政支援や法整備を通じて、地域の取り組みを国家戦略として後押しする。
この枠組みは、「クマとの戦争」を宣言するものでもなければ、単に受動的に「共存」を願うものでもない。それは、人間が自らの土地、インフラ、そして行動を積極的に管理することによって、野生動物との間に明確で維持可能な境界線を再構築する**「共同管理(Co-management)」**という新たな関係性への移行を意味する。
この挑戦は、21世紀の日本が野生動物とどのような社会契約を結び直すのかを問うている。それは投資、専門知識、そして社会のあらゆるレベルにおける協力と責任の共有を必要とする、長期的な取り組みである。しかし、それこそが、人とクマの双方がそれぞれの領域で豊かに生きていける未来へと続く、唯一の道なのである。
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