境界の羊飼い
西暦2125年、日本
そのニュース速報は、有沢研二が半世紀前に失われた味を再現しようと、合成タンパク質に舌鼓を打っている最中に流れた。「レベル5、ベア・インカージョン。第3新東京メガロポリス、青葉セクターの第7防護壁が突破されました。住民は直ちに屋内シェルターへ退避してください」。ホログラムに映し出されたアナウンサーの顔は、平静を装いながらも恐怖に引きつっていた。
100年前、日本は二つの静かな津波に襲われた。一つは人間の減少、もう一つは熊の増加という、反比例する波だった。人口は5600万人にまで縮小し、人々は巨大な防護壁に囲まれたメガロポリスへと集約された。一方、人間が放棄した広大な国土は「野生圏(ワイルド・スフィア)」と化し、その生態系の頂点には、かつて絶滅が危惧された熊が君臨していた。
彼らはもはや、21世紀初頭の臆病な森の住人ではなかった。人を恐れず、人の出すゴミの味を覚え、世代を重ねるごとに知恵をつけた「アーバンベア」の子孫たちだ
。彼らは防護壁の脆弱性を学習し、時に群れをなして人間の「都市圏(アーバン・スフィア)」を襲撃した。それは戦争だった。そして今夜、また一つの街が戦場になった。
研二は食事を中断し、古びた写真立てに目をやった。満開の桜の下で微笑む妻と娘。30年前の「札幌インカージョン」で、二人とも帰らぬ人となった。政府の対策はいつも同じだった。ドローン部隊による無差別駆除。恐怖を煽り、防衛予算を増大させるための政治的パフォーマンス。怒りと悲しみは、研二を突き動かす燃料となった。だが、彼の目指す先は復讐ではなかった。
彼の研究室のサーバーには、畢生の作が眠っていた。総合共存システムAI「シェパード」。それは、単なる防衛システムではない。熊の生態、習性、鳴き声、匂い、そのすべてをディープラーニングしたAIが、彼らを傷つけることなく、人間の領域から遠ざけるための「羊飼い」だった。音響、匂い、ホログラムを駆使して熊の心理に働きかけ、彼らをより豊かな餌場へと穏やかに誘導する。そして、その誘導先こそが、計画のもう一つの柱、「アルカディア」だった。
人口がほぼゼロになった東北地方の広大な山々を、一つの巨大な自然保護区へと作り変える。AIが気候変動を予測し、ドングリの豊凶サイクルを管理する。遺伝子改良で常に豊かな実りをもたらすブナやミズナラの森を育て、熊たちが人間の領域に足を踏み入れる必要のない、真の楽園を創り出す。
「夢想家の戯言だ」。それが、研二が政府の「野生動物危機管理委員会」で受けた評価だった。
「有沢博士、あなたの理想は美しい。だが、現実に孫を熊に殺された老婆に、熊の楽園の話ができますかな?」と、安全保障担当大臣の古賀は冷笑した。「国民が求めているのは安心だ。そして安心とは、脅威の完全な排除を意味する」。
古賀の背後には、巨大防衛企業「アペックス・ディフェンス」の影がちらついていた。彼らは都市圏の防護壁や、市民用の護身ドローンを製造販売し、「熊との戦争」で莫大な利益を上げていた。平和的な共存は、彼らのビジネスモデルを根底から覆す。
抵抗は執拗だった。アペックス社は世論を操作し、研二を「人の命より熊が大事な動物愛護カルト」だと罵るニュースを流した。古賀は政治力を使い、研二の研究助成金を凍結し、アルカディア計画に必要な国有林の使用許可申請を却下した。研二は孤立した。かつての同僚たちは彼を避け、学会は彼の論文の掲載を拒否した。残ったのは、彼の信念を信じる数人の若い研究者と、古い世代のジャーナリストだけだった。
「なぜ、わかってくれないんだ…」。研究室で一人、シミュレーションを繰り返す日々。シェパードAIは、仮想空間で完璧に熊の群れを誘導していた。しかし、現実の世界では、一頭の熊すら救えなかった。
その夜、すべてが変わった。
第3新東京のインカージョンは、これまでのどの襲撃ともレベルが違った。数十頭からなる巨大な群れが、アペックス社の最新型防護壁を、まるで紙細工のように破ったのだ。街は阿鼻叫喚の地獄と化した。政府は最終手段として、都市ごと焼き払う威力を持つ指向性エネルギー兵器の使用を検討し始めた。
「もう時間がない」。研二は決断した。彼は助手の力を借り、政府の緊急警報システムに侵入した。メガロポリス中のホログラム・スクリーンが、一斉に研二のやつれた顔を映し出す。
「皆さん、聞いてください!」。警報のけたたましい音を、彼の必死の声が切り裂いた。「政府のやり方では、憎しみの連鎖が続くだけです。恐怖は消えません。私に、たった24時間だけください。私の『羊飼い』なら、一滴の血も流さずに、彼らを森へ帰すことができます。これは夢ではありません。科学です。もし失敗すれば、私はすべての責任を負います」。
画面には、シェパードAIのシミュレーション映像と、彼の研究室で稼働するプロトタイプ・ドローンの姿が映し出された。それは狂気の賭けだった。だが、エネルギー兵器による街の消滅という、より大きな狂気を前にして、絶望した市民の中から声が上がり始めた。「やらせてみろ」「もう失うものはない」。世論という巨大な生き物が、ゆっくりと向きを変えた瞬間だった。
古賀は苦虫を噛み潰したような顔で、研二の要求を呑んだ。
作戦は夜明けと共に始まった。研二の研究室は、前線司令部と化した。数十機のシェパード・ドローンが、青葉セクターの上空へと舞い上がる。
「フェーズ1、開始。低周波ソナーで群れを特定。リーダー個体をマークしろ」。
モニターに、熱源を示す赤い影がいくつも映し出される。その中心に、一際大きな個体がいた。この群れの王だ。
「対象をロック。フェーズ2へ移行。誘導音響、パターンA-3を照射」。
ドローンから、人間には聞こえない重低音が放たれる。それは熊にとって、地響きのような不快な音だった。群れが動揺し始める。だが、リーダーは動かない。周囲を威嚇し、群れをその場に留めようとする。
「ダメか…!」。研二の額に汗が滲む。「AI、行動パターンを再分析。別の刺激を」。
シェパードAIは即座にリーダーの動きを解析し、結論を弾き出した。「提案:パターンD-7。天敵のホログラムと匂いを併用」。
「やれ!」
次の瞬間、リーダーの眼前に、巨大な虎の三次元映像が投影された。それはただの映像ではなかった。ドローンから散布された微粒子が、虎の体臭と威嚇のフェロモンを再現する。リーダーは、その生涯で一度も見たことのない天敵の出現に、本能的な恐怖を覚えた。唸り声を上げ、後ずさる。群れの統率が乱れた。
「今だ!フェーズ3!アルカディアへの誘導ルートを形成!」
ドローン群は完璧なフォーメーションを組み、熊たちを包み込むように移動を開始した。彼らの行く手には、遺伝子操作された木の実の甘い香りが漂い、行く手を阻む場所には、不快な音と天敵の幻影が現れる。それは、恐怖による支配ではなかった。不快を避け、快へと向かう、動物の本能に根差した、壮大な誘導だった。
街の人々は固唾を飲んで見守っていた。銃声も爆発音も聞こえない、静かな戦い。巨大な熊の群れが、まるで目に見えない羊飼いに導かれるように、ゆっくりと、しかし着実に街を抜け、北へ、北へと向かっていく。
20時間後、最後の熊が第3新東京の境界線を越えた。街は、一人の犠牲者を出すことなく、静寂を取り戻した。
数年後、研二はアルカディアを見下ろす丘の上の監視ステーションにいた。白髪が増え、顔には深い皺が刻まれていたが、その眼は穏やかだった。眼下に広がるのは、AIによって完璧に管理された、豊穣な森。モニターには、母熊が二頭の子熊に木の実の割り方を教える、微笑ましい姿が映っていた。
ふと、彼は南の空に目を向けた。遥か彼方には、人々が暮らすメガロポリスの白いシルエットが見える。シェパード・システムによって引かれた、目に見えない、しかし決して越えられることのない境界線。
研二は、妻と娘の写真が入ったロケットを、そっと握りしめた。彼は戦争に勝ったのではない。誰もが不可能だと笑った平和を、築き上げたのだ。
最高の技術とは、自然を征服する力ではない。それを深く理解し、敬意を払う知恵のことだ。二つの世界は、もう交わらない。しかし、どちらも確かに、この国の空の下で生きている。研二は、森から吹いてくる涼やかな風の中に、ようやく見つけた答えの匂いを感じていた。END.
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