2025年クリスマスメッセージ

 


説教:『星に導かれた博士たちの旅路』

聖書:マタイによる福音書 21節~12

クリスマスは、毎年世界中が光と喜びに包まれる季節です。しかし、この季節の中心に

おられるお方、救い主イエス・キリストの誕生の物語は、私たちが慣れ親しんだ穏やかで美しいだけの物語ではありません。それは、壮大な神様のご計画と、それに人生をかけて応答した人々の信仰と決断の物語です。本日お開きしましたマタイの福音書は、その劇的な一面を、東方から来た博士たちの姿を通して、私たちに鮮やかに描き出しています。

皆さん、博士たちの事を思い浮かべてみてください。彼らは、神様が特別に選ばれた民、ユダヤ人ではありませんでした。エルサレムの神殿に仕える祭司でもなければ、律法を

教える学者でもありません。彼らは「異邦人」、遠い東の国で、夜ごと空の星を研究していた学者たちでした。彼らの日常は、私たちと同じように、静かで、規則正しいものだったかもしれません。しかしある夜、彼らの人生を一変させる出来事が起こります。天空に、今まで見たこともない、不思議な輝きを放つ星が現れたのです。他の人々が気づかなかったかもしれないその小さな変化を、彼らは見逃しませんでした。なぜなら、彼らは真理を求める「探求者」だったからです。彼らの心には、この世界の背後にある、大いなる存在への畏れと、真の王を待ち望む渇きがあったのではないでしょうか。

その星は、単なる天体現象ではありませんでした。それは、天の父なる神様が、ご自身の御子の誕生を知らせるために灯された、個人的な「招きの光」でした。博士たちは、その星が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」のしるしであると信じました。そして、彼らは決断します。安定した日常を後にし、莫大な費用と時間をかけ、危険に満ちた長い旅に出ることを。皆さん、私たちの信仰の旅路もまた、この博士たちの旅に似ています。

神様は、私達一人ひとりの人生の空にも、特別な「星」を輝かせて下さいます。それは、ある時は心に響く聖書の御言葉かもしれません。ある時は、苦しみの中で与えられる、

不思議な慰めと平安かもしれません。また、信頼する友人の優しい励ましの言葉を通してあるいは、心を揺さぶる賛美歌のメロディーを通して、神様は私たちに語りかけ、「さあ、わたしのもとへ来なさい」と招いておられるのです。

 

問題は、私達がその星に気づき、博士たちのように信仰をもって一歩を踏み出すかどうかです。旅の目的地がどのような場所か、完全にわかっていたわけではないでしょう。しかし、彼らは星の導きを信じ、すべてを委ねて出発しました。それはまさに、私達の日々の信仰の歩みそのものではないでしょうか。博士たちの旅は一直線にベツレヘムに向かった訳ではありませんでした。彼らはまず、当時のユダヤの中心地エルサレムに到着します。国の首都に行けば新しい王様の誕生について誰もが知っているはずだと考えたからです。しかし、都の反応は、彼らの期待とは全く違うものでした。

「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。」

博士たちの純粋な問いかけは、エルサレムに大きな動揺を走らせます。「ヘロデ王はこれを聞いて不安になり、エルサレム中の人も同様であった。」と聖書は記します。ここに、私達は三種類の異なる魂の姿を見ることができます。

第一に、ヘロデ王の魂です。彼は権力者であり、自分の地位と安定を何よりも重んじていました。彼にとって「新しい王」の誕生は、祝福ではなく「脅威」でした。自分の王国が揺るがされることを恐れたのです。皆さん、私達の心の中にも、このヘロデが潜んではいないでしょうか。イエス様を人生の真の王としてお迎えすると、自分の計画やプライド、大切にしてきた価値観が脅かされるのではないか、と恐れる心です。主の御声を聞きながらも、自分の「王座」を明け渡すことをためらう、不安な魂です。

 

第二に、祭司長や律法学者たちの魂です。ヘロデに問われ、彼らは即座に答えました。

「それはユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いていますから。」彼らは聖書の知識においては完璧でした。救い主がどこにお生まれになるか、正確に知っていました。しかし彼らはどうしたでしょうか。驚くべき事に、彼らは何もしませんでした。エルサレムから僅か10キロほどの距離にあるベツレヘムへ、自ら確かめに行こうとはしなかったのです。彼らの信仰は、頭の中の知識で完結してしまい、心を動かし、足を動かす「生きた信仰」にはなっていませんでした。これは、私たちへの厳しい警告です。聖書をよく知っていること、長く教会に通っていることが、必ずしも救い主への礼拝につながるとは限らないのです。

そして第三に、博士たちの魂です。彼らは異邦人であり、聖書の知識は乏しかったかもしれません。しかし、彼らには真の王を求める、燃えるような渇きがありました。彼らは

ヘロデの偽りを見抜き、学者たちの無関心を乗り越え、再び星の導きだけを頼りに、暗い夜道を進んでいきました。そしてついに、星が幼子のいる家の上にとどまったのを見た時聖書は「学者たちは、その星を見て喜びにあふれた。」と記しています。

彼らが探し求めていたのは、地上の権力を示す壮麗な宮殿ではありませんでした。彼らが見出したのは、馬小屋という、この世で最も貧しく、最も小さな場所におられる、ひとりの幼子でした。しかし、彼らはそこに真の王の栄光を見ました。彼らはためらうことなく家に入り、ひれ伏して幼子を拝みました。

 そして、彼らの礼拝は、ひれ伏すだけで終わりませんでした。「宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」のです。この三つの贈り物は、彼らの礼拝の深さを象徴しています。

黄金は、王にささげる貢ぎ物です。彼らは、この小さな幼子こそが、万物を治めるまことの王であることを、信仰をもって告白しました。皆さん、私達がイエス様にささげるべき「黄金」とは何でしょうか。それは、私達の人生の主権です。私の時間、私の才能、私の財産、私の家族、その全ての所有権を主にお返しし、「主よ、あなたが私の人生の王です」と告白すること。それが、私たちのささげる黄金の礼拝です。

乳香は、神殿で焚かれる聖なる香りであり、神への祈りと賛美を象徴します。彼らは、

この幼子が礼拝を受けるにふさわしい、真の神である事を認めました。私達がささげるべき「乳香」とは、日々の祈りと感謝です。嬉しい時だけでなく、苦しい時、悲しみに沈む時にも、なお天を見上げ、主の御名を呼び、全てをご存知の神に信頼を寄せること。私達の唇からささげられる祈りと賛美こそ、主が喜ばれる聖なる香りなのです。

そして、没薬。これは、人の死に際して、遺体に塗るための高価な香油でした。なんと

不思議な贈り物でしょうか。誕生を祝いに来たはずの博士たちが、この幼子の「死」

予見する贈り物をささげたのです。彼らがどこまで理解していたかは分かりません。しかし、聖霊の導きにより、彼らはこの幼子が、やがて私達の罪のために、その尊い命をささげてくださる救い主であることを、指し示しました。

 私たちがささげるべき「没薬」とは、私たちの痛み、悲しみ、そして砕かれた心です。

自分の罪深さへの嘆き、どうにもならない弱さ、人には言えない心の傷。それら全てを、ありのまま幼子イエスの御前に差し出す時、主はそれを受け取り、十字架の愛によって、いやしと赦しを与えてくださるのです。

 博士たちの旅は、イエス様を礼拝し、贈り物を献げたことで完成しました。そして彼らは「別の道を通って、自分の国に帰って行った」とあります。一度でも、真の王に出会い、礼拝をささげた者は、もはや今までと同じ道を歩むことはできないのです。古い価値観、古い生き方に戻ることはできません。神様が示される新しい道を、喜びと確信をもって

歩み始めるのです。皆さん。このクリスマスを迎えようとする時、私達も博士たちと共に心の旅に出ましょう。あなたの人生を照らす主の星を見上げ、恐れや無関心の壁を乗り越え、幼子イエスの御前に進み出ようではありませんか。そして、あなたの「黄金」である人生のすべてを、「乳香」である祈りと賛美を、そして「没薬」である痛みと砕かれた心を、贈り物としてささげましょう。その時、私たちのうちにも博士たちと同じ、この上ない喜びが満ち溢れ、これからの人生を、主が備えてくださる「新しい道」を、力強く歩んでいくことができるでしょう。

 


お祈りいたします。

天の父なる神様。東方の博士たちの信仰の旅路を心に深く刻む恵みを感謝いたします。

彼らのように、私たちもあなたからの招きの星を見上げ、信仰をもって一歩を踏み出す

勇気をお与えください。私達の心にあるヘロデの恐れや、律法学者の無関心を取り除き、ただひたすらにあなたを求める渇きで満たしてください。

そして今、私達の心からの礼拝を、黄金、乳香、没薬の贈り物として、御前に献げます。どうぞこれを受け取り、私たちをあなたの愛で満たし、新しい道へと導いてください。

私たちの救い主、主イエス・キリストの尊い御名によって、お祈りいたします。アーメン。

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