「2025年クリスマス礼拝」21-DEC-2025
説教:「永遠の約束:キリストのマニフェスト」
聖書:ルカによる福音書 1章26-33節
皆さん、おはようございます。 今年も街が華やぐ季節、クリスマスが近づいてきました。 12月に入ると、どこに行ってもクリスマスのBGMが流れ、美しいイルミネーションが輝き始めます。子供たちはサンタさんからのプレゼントを心待ちにし、恋人たちは「今年のプレゼントは何にしようか」「ディナーはどこに行こうか」と胸を躍らせます。世界中が、なんとなくウキウキとした幸せな空気に包まれる、特別な季節です。
でも、ふと考えてみると、これって不思議なことだと思いませんか? 私たち人間は、毎日誰かの誕生日を迎えています。偉大な政治家、歴史を変えた英雄、あるいは有名な芸能人が亡くなると、ニュースにはなりますが、その人の誕生日を何百年、何千年にもわたって世界中で祝うことはありません。
たとえば、あのアレクサンダー大王やナポレオン、あるいは徳川家康。彼らの名前を知らない人はいないでしょう。でも、「もうすぐ徳川家康の誕生日だから、ケーキを買ってお祝いしよう!」と盛り上がる人は、まずいませんよね。
けれど、イエス・キリストだけは違います。クリスチャンであってもなくても、国境も文化も超えて、世界中の人々がこの一人の赤ちゃんの誕生を毎年覚え、お祝いムードに包まれます。
なぜでしょうか? なぜ、この方の誕生だけが、これほどまでに特別なのでしょうか。それは、イエス・キリストというお方が、歴史の中に現れては消えていく「一時の英雄」ではなく、私たち一人ひとりの人生に今も関わり続けておられる「永遠の王」だからです。
今日は、このクリスマスの物語を通して、神様が私たちに提示された「約束」、現代の言葉で言うなら「神様のマニフェスト」について、ご一緒に考えてみたいと思います。
今日の聖書箇所は、最初のクリスマスがどのように始まったかを伝えています。 舞台は、ガリラヤ地方のナザレという小さな田舎町。そこに住むマリアという一人の少女のもとに、神様からの使い、天使ガブリエルが現れました。当時のマリアは、ダビデ王家の末裔であるヨセフという男性と婚約していました。まだ結婚前の、純朴な少女です。
そんな彼女に、天使は突然こう告げます。 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。
想像してみて下さい。突然、目の前に天使が現れて、「おめでとう!」と言われるのです。マリアは驚き、戸惑いました。「一体、何がおめでたいのだろう?
何が起きるのだろう?」と不安になったことでしょう。天使は続けて、彼女の人生を、そして人類の歴史をひっくり返すような衝撃的な言葉を告げます。「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。
現代の私達からすれば、「ああ、イエス様がお生まれになる予告だな」と感動的に聞こえるかもしれません。しかし、当時のマリアにとって、これは「命がけ」の宣告でした。当時のユダヤの法律では、婚約中の女性が、婚約者以外の子供を身ごもる事は重罪でした。もっとはっきり言えば、石打ちの刑に処されても文句は言えない、社会的に抹殺されかねない出来事だったのです。ですから、天使は最初に「恐れるな」と言ったのです。「マニフェスト」と言うと、普通は耳触りの良い公約を想像しますが、神様の約束は、時に私達の常識や平穏を揺さぶる形でやってきます。しかし、そこには人間の想像をはるかに超えた「恵み」が
隠されているのです。天使は、生まれてくる赤ちゃんに「イエス」と名付けるよう命じました。この「イエス」という名前には、明確な意味があります。それは「主は救い」、つまり「人々を罪から救う者」**という意味です。これが、この赤ちゃんの「使命」であり、神様が私たち人類に提示された第一の「マニフェスト」です。この世の王様や政治家たちは、
どんな約束をするでしょうか。「税金を下げます」「暮らしを豊かにします」「平和な国を作ります」。それらも大切なことです。しかし、どんなに優れた政治家も、解決できない問題があります。
それは、人間の心にある「罪」の問題、そして誰もが避けられない「死」の問題です。
どんなに裕福になっても、心の中にある虚しさ、誰かを憎んでしまう心、過去の過ちへの
後悔、そして死への恐怖……これらを政治や経済で解決することはできません。 しかし、クリスマスに生まれたイエス様は、まさにその根本的な問題、「私たちを罪と死の不安から救い出し、神様と共に生きる喜びを回復する」ために来て下さいました。これが、クリスマスが世界中で祝われる本当の理由です。イエス様は、私たちの財布を潤すために来たのではなく、私たちの「魂」を救うために来られたのです。
さらに天使は、この赤ちゃんについて驚くべきことを語ります。「その子は偉大な人になりいと高き方の子と言われる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」ここに出てくる「永遠に」という言葉に注目して下さい。歴史上、どんなに強大な帝国も、いつかは滅びました。ナポレオンも、チンギスハンも、その栄華は永遠ではありませんでした。また、私達の身近な政治を見てもどうでしょうか。「この政策をやります!」と高らかに宣言したマニフェストが、政権が変わった途端に反故にされたり、期待していたリーダーに裏切られて失望したり……そんな経験を、私たちは嫌というほど繰り返してきました。 「絶対に変わらないもの」「永遠に続くもの」など、この地上にはないように思えます。
しかし、聖書は告げます。イエス・キリストの支配、神様の愛の支配だけは、決して終わることがない、と。 これは、イエス様がこの世の政治的な王様になるという意味ではありません。イエス様は、武力や権力で世界を支配したのではなく、十字架の愛によって、人々の心を治める王となられました。
イエス様を信じ、心にお迎えする時、私たちはこの地上の国籍だけでなく、「神の国」の国民とされます。そして、この世の命が終わった後も続く、永遠の命の希望へと招き入れられるのです。
では、この永遠の王様は、具体的にどのような「マニフェスト」を実行されたのでしょうか。政治家のマニフェストは、しばしば「口約束」で終わります。しかし、イエス様は違いました。
旧約聖書のイザヤ書53章には、救い主の姿がこのように預言されています。
「彼が担ったのは私達の病/彼が負ったのは私達の痛みであった……彼が刺し貫かれたのは/私達の背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。」
イエス様のマニフェスト。それは、「あなたが背負うべき痛み、悲しみ、そして罪の罰を、私が代わりに背負う」という約束でした。そして主イエスは、その約束通り十字架にかかり、ご自分の命を投げ出してくださいました。
「国民のために命を捨てる王」が、かつてどこにいたでしょうか。 「痛みを代わりに引き受ける」と公約し、それを本当に実行した指導者がいたでしょうか。
イエス様は、口先だけで「愛している」と言ったのではありません。十字架という行動を
もって、その愛を証明されました。 「私のマニフェストに嘘はない。私はあなたを決して見捨てない」。クリスマスの飼い葉桶に寝かされた赤ちゃんの姿は、やがて十字架にかかり私たちを救うという、神様の命がけの決意表明だったのです。
愛する皆さん。私達は多くの「変わってしまうもの」に囲まれて生きています。 信頼していた人に裏切られることがあるかもしれません。社会のシステムや約束が守られず、憤りを感じることもあるでしょう。自分自身の健康や環境さえ、いつどう変わるか分かりません。
そんな不確かな世界の中で、私たちは心のどこかで、「絶対に変わらないもの」「決して私を見捨てない愛」を求めているのではないでしょうか。
クリスマスは、その答えが与えられた日です。 「インマヌエル(神は我々と共におられる)」という約束は、2000年前のあの日から今日に至るまで、一度も破られたことはありません。 この世のマニフェストには失望することがあっても、イエス・キリストの約束には失望することがありません。
主は言われます。「私はあなたを愛している。あなたの痛みを私が背負った。私は永遠にあなたと共にいる」と。
今年のクリスマス、プレゼントやケーキも楽しみですが、何よりも最高のプレゼントである「イエス様の愛」をご自分の心に受け取って下さい。「ああ、このお方は私を愛するために生まれてきてくださったのだ」と信じること。それが、私たちができる最高のお祝いです。不安の多い時代ですが、永遠の王であるイエス・キリストに信頼して、新しい年も希望を
持って歩んでまいりましょう。
【祈祷】 天の父なる神様。 御子イエス・キリストの誕生を心から感謝し、お祝いいたします。 移ろいやすく、約束が破られることの多いこの世にあって、あなたは決して変わることのない「永遠の愛」と「救い」を約束し、イエス様を通してそれを実現してくださいました。
どうか今日、ここに集われたお一人お一人の心に、イエス様の愛が温かく宿りますように。 私たちが、世の光、永遠の王であるイエス様を心にお迎えし、どんな時も揺るがない希望を持って生きていくことができますように。
感謝して、主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。 アーメン。
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