なぜ人は信仰から離れていくのか
~「現象」の背後にある「根本的な原因」を探る~
洗礼を受けたにもかかわらず、しばらくして教会から足が遠のき、やがて信仰そのものを手放してしまう人々がいます。それには3つの理由(認識不足、自分の判断、理想とのギャップ)から説明できると思います。 しかし、これらを突き詰めていくと、聖書が語る一つの**「根本的な原因」**に行き着きます。
1. 根本的な原因:「主権の交代」が起きていない
最も根本的な原因は、**「人生の王座(主権)が、自分からキリストに移っていない」**という点にあります。
「アクセサリーとしての信仰」
多くの離脱者にとって、キリスト教は「人生を豊かにするための装飾品」や「精神安定剤」「良い道徳」として導入されます。
- **自分の人生(主語は「私」)**を良くするために、キリストを利用しようとする。
- 洗礼を「入会手続き」や「資格取得」のように捉えている。
この場合、主人はあくまで「自分」であり、イエス様は「助っ人」に過ぎません。したがって、以下のような事態が起きると、主人が助っ人を解雇するように、信仰を捨ててしまいます。
- 祈ったのに願いが叶わない(役に立たない)。
- 教会生活が忙しくて自分の時間が減る(コストが合わない)。
- 人間関係で傷ついた(メリットよりデメリットが大きい)。
「キリストのために私が死ぬ(ガラテヤ2:20)」という自我の死と再生が起きておらず、古い自分が生きたまま、宗教という服を上から着ているだけの状態。これが根本原因です。
2. 3つの理由の深層分析
① 洗礼の意味を正しく認識していなかった
- 深層: 洗礼を「ゴール(救いの完了)」と勘違いし、「スタート(弟子としての歩み)」であることを知らなかったためです。結婚式がゴールで、結婚生活の忍耐を知らない新婚夫婦がすぐに離婚するのと似ています。
② 聖霊ではなく、自分の判断で洗礼を受けた
- 深層: これは「肉による決断」です。人間の意志(感情や知性)は、状況によって容易に変わります。聖霊による「新生(新しく生まれること)」の体験がないため、根が張っておらず、枯れてしまいます。
「人は、水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。」(ヨハネ3:5)
③ 理想と異なっていた
- 深層: 彼らが求めていたのは「十字架なき栄光」です。「神を信じれば、悩みはなくなり、皆に優しくされ、人生が好転する」というご利益信仰に近い期待を持っていたため、試練(十字架)に直面したときにつまずきます。
「種が石だらけの地に落ちたとは、こういう人たちのことである。…根がないために、しばらく続くだけで、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。」(マルコ4:16-17)
3. 「つながり」の欠如
もう一つの側面として、ブドウの木のたとえ(ヨハネ15章)が示す「生命のつながり」の欠如があります。
- キリストとの個人的な交わりがない: 礼拝には出席していても、日々、個人的に祈り、御言葉に聞く生活がない場合、魂は栄養失調になります。
- 共同体(肢体)としての機能不全: 「お客様」として教会に来ている間は、簡単に去ることができます。自分が「体の一部(手や足)」として組み込まれ、痛みも喜びも分かち合う関係にならなければ、教会はただの「場所」に過ぎません。
4. 結論:私たちはどうすべきか
人が去っていくのは悲しいことですが、聖書には「彼らが私たちから去って行ったのは、もともと私たちの仲間ではなかったからです」(ヨハネの手紙一 2:19)という厳しい言葉もあります。
しかし、教会としてできる最善のことは、以下の点に立ち返ることでしょう。
- 「本当の福音」を語る: 「信じればハッピーになる」という入り口ではなく、「キリストに従うには、自分を捨て、十字架を負う必要がある」というコスト(代価)を、洗礼前に丁寧に伝えること。
- 「悔い改め」を求める: 単なる同意ではなく、方向転換(メタノイア)としての悔い改めと、聖霊による新生を祈り求めること。
- 「養育」の継続: 洗礼をゴールとせず、そこから始まる「霊的な乳児」としての歩みを、親のように忍耐強く支え続けること。
根本的な原因は**「自我が死にきれず、キリストが主となっていないこと」**にあります。この霊的な戦いは、牧師一人の力ではどうにもなりません。だからこそ、私たちは聖霊の助けを求めて祈り続けるしかないのです。
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