なぜ、クリスチャンは聖書を読むべきなのか?

 


今年も残すところ、あと僅かとなりました。この一年、主が私たち一人ひとりと共に歩み、豊かな恵みをもって導いてくださったことを心から感謝いたします。新しい年を迎えるにあたり、私たちは様々な計画や目標を立てることでしょう。しかし今日、その全ての土台となる、最も重要で根本的な一つの決心について、皆様と共に考えたいと願っています。それは「来年こそ、毎日聖書を開こう」という、聖なる読書への決心です。

「なぜ、クリスチャンは聖書を読むべきなのか?」

 これはあまりにも当たり前の問いに聞こえるかもしれません。しかし、その答えを私たちは本当に心で理解し、日々の生活で実践できているでしょうか。忙しい毎日の中で、聖書を開く時間は後回しにされ、私たちの霊的な糧は乏しくなってはいないでしょうか。この根本的な問いへの答えは、聖書自身が明確に示しています。使徒パウロは、愛弟子テモテにこう書き送りました。

  「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。それは、神に仕える人が、どのような良い業をも行うことができるように、十分に整えられるためです。」(テモテへの手紙二 316-17節)この御言葉は、聖書が私たちの信仰生活にとって単なる「参考書」ではなく、「取扱説明書」であり、「訓練のための教科書」であることを教えています。

 第一に、聖書は私たちを「教え」ます。私たちが信じる神様がどのようなお方であるか、そのご性質、ご計画、そして私たち人間に対する深い愛を、聖書は余すところなく啓示します。私たちは聖書を通して、この世界の創造主を知り、救い主イエス・キリストを知り、そして私たちを導く聖霊なる神様を知るのです。神様を知ることなくして、神様を愛し、従うことはできません。

 第二に、聖書は私たちを「戒め、誤りを正し」ます。詩篇の記者は「あなたの御言葉は、わたしの道の光、わたしの歩みを

照らす灯」(詩篇119105節)と告白しました。私たちの心は、罪の性質によって絶えず暗闇へと傾いていきます。しかし、神様の言葉は光となり、私たちが道から逸れそうになる時に「そちらではない」と警告し、誤った道に入ってしまった時には正しい道へと立ち返らせてくれるのです。毎朝、神様の言葉という鏡の前に立つことで、私たちは自分の心の歪みを正され、聖い歩みへと軌道修正することができます。

 第三に、聖書は私たちを「義に導く訓練」をします。私たちの信仰は、一度信じたら終わりではありません。それは日々の訓練によって成長し、強められていくものです。イエス様は荒野で悪魔の誘惑に遭われた時、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイによる福音書44節)と言って退けられました。私たちの魂は、毎日の食事と同じように、神様の言葉という霊的な糧を必要としています。日々の聖書通読は、私たちの信仰の筋肉を鍛え、どんな試練や誘惑にも打ち勝つ力を養うための、不可欠な霊的トレーニングなのです。

そして何よりも、聖書が指し示す中心、その結論は、イエス・キリストご自身です。聖書は、私たち罪人がただイエス・キリストの十字架の恵みによってのみ救われるという、この一点を指し示しています。聖書を読むことは、救い主イエス様に出会い、その愛に触れ、日々そのお方との個人的で親密な関係を深めていくことに他なりません。新しい年、何か一つだけ霊的な決心をするならば、どうか「毎日、聖書を読む」という決意をなさってください。たとえ一日一章でも、10分でも構いません。大切なのは、毎日欠かさず神様の御前に出て、その御声に耳を傾けることです。それは、新しい年の三百六十五日、毎日神様からのラブレターを受け取ることと同じです。

 この一年、主が与えてくださったすべての恵みに感謝し、来るべき新しい年も、神様の言葉を羅針盤とし、私たちの主イエス・キリストと共に力強く歩んでまいりましょう。皆様の上に、主の豊かな祝福が満ち溢れますようお祈りいたします。

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