「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」(マタイ5:38-42)
「美しさ」は風情を伴うとき、本物となります。信仰においても同様であり、風情がある信仰は温かみと深みを持つのです。表面的な美しさは冷たく鋭いものに留まりがちですが、温かい感性と深い霊性が加わることで、味わい深い信仰の美しさが育まれます。風情とは、基本を超えたゆとりとも言えます。それは生活を豊かにし、創造性や文化を育む源でもあります。
服が身体を守る基本的な機能を超えて美しい刺繍や調和のとれた色合いを纏うと風情が生まれるように、信仰生活にもゆとりと思いやりの「風情」が必要です。マタイ5章38-42節が示す信仰の風情の例は、上着を求められたら下着まで与える、そして一里行こうと言われたら二里まで同行するという生き方です。それは報復を超えたゆとりと思いやりに満ちた信仰の豊かさを象徴しています。
旧約の「目には目を、歯には歯を」の法則(同害報復法)は、被害以上の報復を禁じる進歩的な側面がありました。しかし、イエスはこれをさらに超越し、理不尽な要求さえも拒まず、むしろ自ら与える新しい生き方を教えられました。右の頬を打たれたら左の頬を向け、損を被ることを恐れるのではなく、余裕をもって施し、他者に尽くす生き方です。
このような信仰の風情を持つことは、人間の本能に逆らうようにも思えます。与えた分を受け取りたい、損害の分だけ仕返ししたいというのが人間の普遍的な心理だからです。しかし、クリスチャンはその枠を超えなければなりません。私たちはイエス・キリストによって返済不能な莫大な借金を免除された者であり(マタイ18:21-35)、神の国の希望と報いを約束されています。この世での損失は一時的なものであり、それは神の国でより大きな祝福に繋がる通路なのです。
教会は、信仰の風情を追求する神の民が集う空間です。私たちが共に力を合わせ、信仰の風情を実践するとき、その「美しさ」によって世界はより明るく、美しく変わっていくでしょう。教会こそが世界に向けた最後の希望である理由がここにあります。
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