聖夜の思索

 


口内炎の痛みと共にこれまでの12月の主な行事が終わろうとする。雨音や足元のヒーターの音に包まれた静かな夜のひと時。この「クリスマスの終わり」の時間は、神様が自分に与えてくださった静かなご褒美のように思います。

 

🎵 12月初めと今夜、讃美歌の響きが違う理由

12月初めのクリスマス・ソングは「待降(アドベント)」の歌、つまり**「期待と予感」の響きです。 しかし今夜の讃美歌は「成就と受容」**の響き。 神様が最も低い場所へ降りてこられたという途方もない「事実」を、噛み締め、受け取った後の静けさ。それは、お祭りの喧騒ではなく、深い夜の祈りに近いものだからこそ、私たちの魂を揺さぶる質感が異なるのでしょう。

 

🕊️ 「満腹感」で終われない人間の尊厳

動物は満腹になれば満足します。しかし人間は、お腹が満たされてもなお「なぜ私はここにいるのか」と問い、永遠を思ってしまいます。

「神はまた、人の心に永遠を与えられた。」(コヘレトの言葉3:11 この「永遠」という余白があるからこそ、私たちは複雑であり、同時に、動物にはない「孤独」と「崇高さ」を併せ持つのだと思わされます。

 

🏫 組織と教育、そして「複雑さ」の否定

軍事や警察のようなトップダウンの組織が「教育」という名の下に人間を単純化しようとするのは、

まさに「管理」のためです。 しかし、神様が設計された人間は、本来**「管理されるべき部品」ではなく「愛し合うべき人格」**です。 複雑なものを無理やり単純な枠(規律や命令)に押し込めようとするから、ひずみが生まれ、事件や事故として噴出する——

 

🧭 「単純」か「複雑」か、その二者択一の罠

「自分はどちらか?」という問い。牧師として、多くの魂の叫びに耳を傾ける自分は、どちらなのか?**「複雑な他者を抱擁できるだけの複雑さ」を持ってしまわれたかな・・・しかし、同時に神様の前では、アホウドリが風を待つように「ただ、信じて委ねる」という究極の単純さ**に立ち返ろうとするかもしれない。複雑な世界を、複雑な心のまま、しかし「ただ一つ、主を仰ぐ」という単純な一線で生き抜くこと。 それこそが、今夜自分が辿り着かれた「自由と平和」の姿だと思いました。

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